名前のない王女
「いいかいよくお聞き、私のお姫様」
血に濡れた手でそう頬を撫でてくれたのは、誰よりも大好きだった父だった。
「これから、君の名前を封じるよ。封じられた名前はもう誰にも思い出せない。私とリーダリアの間に王女がいたことは覚えていても、その王女の名前をみんなが忘れてしまうんだ。………君自身もね」
ぽたりと床に落ちた血がまた広がり、そこから美しい花が咲き乱れる。
張り巡らされた魔術の織りの深さに、少しだけ息が詰まりそうだ。
「………私も、私の名前を忘れてしまうのですね?」
「そうだ。元々それが、ロスヴァルの敷いた魔術の呪いであったのだ。叔父さんはね、君が存在したという記憶を世界から奪うことで、人知れず君の遺体を奪ってヴェルリアの王弟に届けようとした。私の大事な娘の亡骸を使い、それを使った禁術で私を操ろうとしたんだ」
その響きにぞっとして、胸がじんわりと冷えてゆく。
(ロスヴァル叔父様……………)
ウィームの民としては珍しく赤い髪を持って生まれ、火の加護を受けた特等の魔術師。
そんなロスヴァル叔父は、ウィームの魔術を幅広く兵器魔術に応用し大陸統一を目論んだ、古い一族の血を引いた王族だ。
母親の違う兄である父とはよく対立していたが、それは決して不仲であるからこその口論ではなかった。
ただ、二人はあまりにも気質が違ったのだ。
『……………難しいことだ。弟とは、かつて、王家の中の好戦的な派閥の者達と決別し、私の父の弟であった前王をこのウィームから立ち去らせる為に共に戦った。まったく性格は違うが私達は仲が良かったし、お互いの足りない部分を補い合うこれ以上ない相棒だと思ってきたのだ。………だが、まさかお互いにこの歳になって、こんなにも違う未来を見据えるようになってしまったとは…………』
いつかの夜に、父がそう呟いているのを聞いてしまったことがある。
その言葉を聞いて悲しげな溜め息を吐いたのは誰だったのだろう。
契約の竜の誰かか、いつものように父の執務室に入り浸る魔物達か。
『ロスヴァルは、ヴェルリアの王弟と交流を持つようになってから変わってしまった。………あれは嵐のような男だ。強く聡明であるし、覇王と呼ぶに相応しい魂の質に惹かれる者も多いが、彼の理想とするものが正しくとも、それは性急に進めれば古きものを殺すしかない道行きなのだ。……あの炎のような苛烈さに目が眩み、弟が四国統合の夢に酩酊しなければ良いのだが………』
そんな言葉を聞いていたくせに、 は、父の慧眼に惚れ惚れとしただけだった。
そんなことを考えられる父が凄いと思っただけで、こんな酷いことが訪れるだなんて思いもしていなかったのだ。
ぐっと、拳を握る。
これからは一人ぼっちだ。
大好きな兄達や、体の弱かった優しい母はもういない。
最初から叔父は、 を狙っていた。
自分を守る為に、みんな殺されてしまったのだ。
潤沢な魔術の術式を保持するウィームの王族。
ましてや、前の時代の戦乱を経験してもいる歴戦のロスヴァル叔父を倒すことが出来たのは、父だけしかいなかった。
それは、ほんの一瞬のことで。
父や、兄の契約の竜が駆けつけるまでにかかったのは、ほんの数分にも満たない時間だったが、その数分で母や兄達は殺されてしまった。
何故か一人だけ、 は、その場で殺されるのではなく、死の呪いをかけられたのだ。
「泣かないでおくれ、私のお姫様。君に、必ずこの呪いを解けるよとは私には言えない。だが、これだけは約束しよう。君の呪いを引き受けても、私ならば死ぬことはない。だから、君は決して一人ぼっちにはならないんだ。…………わかるかい?」
「……………お父様が、眠っているだけで生きてはいるから?」
「その通りだ。触れれば暖かいし、むしゃくしゃしたら起きないのを幸いにこっそり殴っても構わない。寂しい夜は、私の隣でお眠り」
「…………大好きなお父様を殴ったりなんかしないわ」
涙を堪えてそう言えば、父はふわりと微笑んだ。
誰よりも光竜の血を濃く受け継ぎ、輝くように美しい父はいつだって自慢だった。
魔術師として、高位の魔物を負かしてしまう程の技量を持ち、誰も近寄ってはいけないとされてきた王の執務室には、奇妙で恐ろしい人ならざる者達が夜な夜な遊びに来ていた。
「…………私がこのままいなくなれば、お父様は元気でいられるのに」
ふぇっくと喉を鳴らしてそう言ってしまったのは、きっと最後の甘えだったのだろう。
「おや、それは困った。私の大事な奥さんに死者の国で叱られてしまう。それはとても恐ろしいから、どうか私を守ってくれるかい?」
「…………お父様はずるいわ。大好きなお父様の言うことを、みんな何でも聞いてしまうのだもの」
頭を撫でてくれようとして、父は自分の手が血に濡れていることを思い出したのか、どこか悲しげな顔をした。
しっかりと手首に結ばれているのは、亡くなった母や兄達の髪を使って編み込まれた魔術紐だ。
それは、いずれ死者の日にこちらに戻って来れるかもしれない母達に、父の居場所を知らせる為のものでもあった。
「…………そうだね、私はとても狡い父親だ。でもね、君はまだ私の十分の一も生きていないんだ。大事な娘が恋や結婚も知らずに逝ってしまうなんて、私には耐えられない。…………いつか君にも分るだろう。こういう幸福もあったのであれば、ここで終わるのは無念だがまぁ悪くないという一線がいつか来るものだ。……………だからどうか、君にもそこまでは辿り着いて欲しいと思ってしまう私は、困った父親なのだろう」
最後の最後にそんなことを言うのだから、思わず真顔になってしまった。
「………でも私は、お兄様のふりをするのでしょう?もう、結婚だなんて…」
すると父は、どこか悪戯っぽく微笑んでみせたのだ。
その微笑みにはっとして、後ろに立っていた宰相を振り返る。
彼は従兄弟だという贔屓目に見て言葉を丸くしても、かなり腹黒い。
「おや、私の持つ擬態魔術でしたら、あなた様のお気に入りの誰かを、誰の目も欺けるような極上の美女に仕立てて差し上げましょう。と言うことですから、エーヴァルト王よ、どうぞご安心下さい。どんな狡猾な手を使ってでも、 様には、幸せな家庭を築いていただきますから」
「はは、君がそう言うなら安心だな。…………さて、ちょうど三日も徹夜だったところだし丁度いい。ここから少し、私は余暇に入ることにしよう。………………皆の者達、どうか、暫しの間、私の分まで私の宝を守ってやっておくれ。この子は、子供達の中でも私に一番よく似た愉快な子なのだ。きっと、良い王になるだろう」
まるで少し出かけてくるよというような気軽さで手を振って、父は、自身が横たわる棺の中に入って行った。
花びらが舞い散り、父の得意とした雪と花の魔術が複雑で精密な術式を幾重にも描いてゆく。
(ああ、…………)
はらはらと、雪のような花びらが散った。
生まれた時から家族に呼ばれて愛されてきた名前がなくなり、記録に残るものもその全てがただの文字列としてしか認識出来ないようになってゆく。
魂から引き剥がされて奪われ、書き変えられてゆく名前を惜しみ、また涙が溢れた。
さりさりと音がするのは、魔術に腰までの長い髪を食まれているからだ。
父と、この髪と名前を対価にして、死と忘却の呪いが作り変えられてゆく。
この、満開の花の中で。
「……………お父様」
ぐっと奥歯を噛んで涙を堪えた。
それでも最後の一雫が、ぽたりと足元の魔術陣に落ちてゆく。
実を言えば、死ぬのは怖くなかった。
愛する人たちが殺されてゆく恐怖の後に、じんわりとした死のその手のひらの中にいた時、助けに来てくれた大好きな父の腕の中で死ねるのであれば、それはとても安らかなことだった。
それなのになぜ、いつの間に残されるのは自分だけになってしまったのだろう。
「お父様…………」
ああ、魔術が閉じてゆく。
この身を苛んでいた死の呪いが引き剥がされて、父の体に巻き付いてゆくではないか。
大事な、大事な、たった一人の残された家族なのに。
竜達が咽び泣き、魔物達が俯いていた。
妖精達は顔を覆い、精霊がなぜこんなことにと拳で床を打つ。
そんな中、一人だけ泣いていなかったのは、契約の妖精であるディアレータだけだ。
ディアレータは目が合うと一つ頷いてくれて、涙をいっぱいに溜めた美しい瞳で微笑む。
「愛しい子。………そんな風に泣かないでちょうだい。あの方が不在の日々は、私があの方の分もあなたを愛しましょう。………どうか、あなたを失わずに済んだ私が安堵することを、許してちょうだいね」
そう抱き締められて、母や兄達の契約の者達が、既に何人も死んでしまったことを今更ながらに実感した。
ディアレータの妹は、母と契約していた。
そんな彼女は、母が亡くなるのと同時に自らの命を絶ってしまったのだ。
兄達と契約していた竜達も、喘鳴のような息を吐いて力なく床に横たわっている。
竜の宝とする程に深く結びつく契約の子供を得る竜はそもそも少ないが、そんな愛し子を亡くした竜達は、余程のことがない限りはもう飛ぶことも出来なくなる。
ゆっくりと衰弱して、やがては死に至るしかなかった。
「ラザル。…………あなたに、とても辛いことを頼んでしまってごめんなさい」
だから、そう詫びたのは兄の契約の竜であったラザルだ。
雪竜の王子の一人で、兄のことをまるで自分の弟のように、そして息子のように溺愛していた。
竜の傾ける愛情は、とても深いのだ。
しかし、今にも倒れてしまいそうな真っ青な顔をしているのに、ラザルは淡く儚く微笑んでくれる。
「君は、私の愛し子の妹だ。ディヴァートは、最後に私に妹を守ってくれと言い残した。………………どうか、妹だけは何としてでも助けてやってくれと」
愛するものの願いを叶える為に、最後の愛情を傾けることが出来るのは幸福なのだろうと、雪竜の王子は微笑んでくれた。
しかしそんなラザルが、真夜中にウィームの森の中でさめざめと泣いているのを、その先、何度見ることになっただろう。
そしてそれは、長く過酷な日々の始まりだったのだ。
「ディヴァート、今日は何があったんだい?」
執務室のバルコニーに翼を広げて降り立ち、ラザルがそう尋ねてくれる。
美しい水色だった彼の翼は、いつからか灰色になってしまった。
優しい菫色の瞳は曇り、時折苦痛に喘いでいる。
人外者は人間とは違うのだ。
彼らは、愛するものはいつだって一つしか選ばない。
だから、愛するものを喪った彼は、生きてはいても少しずつ心の端から死んでゆくようにして息をしていた。
「大好きだよ、ラザル」
だから、彼が苦痛に身をよじって悪夢に魘される夜には、しっかりと抱き締めてそう囁く。
愛情を糧にする生き物の魂を繋ぐように、かつて、兄が闊達に笑って悪戯っぽくそう言ってやっていたように。
(愛しているよ、ラザル)
誰よりもいつも穏やかに微笑んで少しずつ死んでゆくその竜に向けた、本当のその言葉は胸の底に沈めて。
「ラザルの命はもう保たないだろう」
ある日、そう言いに来たのはジゼルだった。
ラザルとは腹違いの従兄弟で、次の雪竜の王だと噂されている。
雪竜の王は随分と高齢になり、今年の冬には次の王を決める為の竜の決闘があるのだそうだ。
王になるとすれば、ラザルかジゼルのどちらかだろうと言われてはいたが、もはやラザルは、辛うじて生きているだけの瀕死の竜であった。
それなのに、式典などで若きウィーム王の隣に立つ彼は、それはそれは美しく艶やかに微笑むのだ。
長く真っ青なケープを翻して、大切なものはここにあるとでも言うように。
あまりにも幸せそうに微笑む彼を見ていると、わぁっと声を上げて泣き出したくなって、また強く強く拳を握らなければならなかった。
指先が手に触れるその一瞬、息が止まりそうになる。
愛する者を全て失って、たった一つだけ残された希望があなただったのだと言えば、彼はどんな風に思うのだろう。
幼い頃からずっと、ただ一人の相手としてあなたを愛してきたのだと言えば。
その日も、ラザルは彼のお気に入りの湖畔にいた。
政務のない日はそこにいることが多くなり、兄と初めて契約を交わした日のことを偲んでは、随分と長い間眠るようになってきていた。
だからその日も血の気の引く思いで執務室にいると、部屋に入ってきたディアレータが何も言わずに抱き締めてくれる。
「可哀想に、リリィ。あなたは、ラザルを愛しているのね?」
その言葉を否定してみせる力は残っていなかった。
今日も、こうしている間にも彼が死んでしまうかもしれないと思うと、胸が苦しくなる。
「…………うん。でも彼は、……………もうすぐ死んでしまう。お兄様やお母様達と同じように、私を置いていってしまうんだ。私が偽物ではなくて、お兄様が生きていてくれれば……。…………ごめん、ディアレータ、そんな顔をしないでくれ」
「困った子ね。あなたが生きていてくれたからこそ、こうして生きていられる者もいることを、どうか覚えていてね。……でも、友情と恋は別の愛に紐付くものだもの。あなたが、そんな風に苦しんでいるのも、分かるのだわ」
「私だって、ディアレータがいなかったら、とっくに参ってしまっていただろう。でも、すまない。………ラザルのことを考えると、どうしたらいいのか分らないんだ。どうして死者の日にも、みんなは帰ってきてくれないのだろう?」
そう言えば、ディアレータはしっかりと抱き締めてくれた。
あの日からなぜか泣けなくなってしまったリリィの代わりに、ディアレータがそれはそれは美しい涙を流してくれる。
リリィ。
それは、ディアレータがくれた新しい名前だった。
兄の名前とは違う、小さな王子様という意味もある愛称で、いつの間にかみんながそう呼ぶようになっている。
そうしてくれたことで、詰まりそうだった息を吐かせてくれた、ほんの僅かな自分と兄との境界になった。
(ごめんなさい、お父様。せっかく私を生かしてくれたのに、私は死にゆくものを愛してしまって、どうしようもなく悲しくて苦しい………)
父に寄り添って眠りたかった。
リーエンベルクにある王家の墓のその地下にある、父の棺の横で父の温もりを感じて眠りたかった。
けれども、リリィがそこにいる間にラザルが死んでしまっていたらと思うと、恐ろしくて動けなくなる。
ラザルが側にいない夜は、怖くて怖くて眠れなかった。
「………………ラザル」
だからその日、リリィは夕暮れから探していた大事な竜を探す為に、一人でリーエンベルクを抜け出していた。
夜になってやっと見付けたいつもの湖の畔で、横たわった美しい竜の額にそっと手を乗せ、胸が潰れそうになる。
ラザルが、死のうとしていた。
正確には、彼が何とか意志の力で繋ぎ止めていた命の火が、とうとう消えてしまおうとしていたのだ。
少しずつ浅く長くなってゆく呼吸が繰り返される度に、リリィの魂も削り取られてゆくようだった。
死んでゆく竜を抱き締めて、リリィはただ震えていた。
それは、暗く長い夜のこと。
恐怖に震えながらラザルを抱き締めていたリリィは、もしかしたら彼に何かを言ったのかもしれない。
相変わらず涙を流すことは出来なかったが、それでもリリィなりに泣いたのかもしれない。
夜が明けるその頃にはきっと、ラザルはもういないだろう。
「目が覚めたかい、お姫様」
そうしてふと気付くと、そこはリリィの部屋の寝台の上だった。
窓からは淡い黎明の光がこぼれていて、イブメリアが近付いてきたリーエンベルクは、飾り木に灯された魔術の火で煌めいている。
窓辺に飾られているのは、家族で音の魔術や金細工の魔術を組み上げて作った小さなオルゴールで、そのオルゴールの装飾に朝陽がきらきらと揺れて目に沁みた。
「…………ラザル」
そこに居たのはラザルだった。
いつものように淡く微笑んで、そっとリリィの短い髪を撫でてくれる。
その指先の温度に目を細め、自分は何とも都合のいい夢を見ているのだと悲しくなった。
(朝が来る頃には、ラザルはもういない)
彼が、朝まで生き長らえるとは思えなかった。
だからこれは、リリィが現実を受け止めたくなくて見てしまう、何とも身勝手で残酷な夢なのだろう。
「ラザル、…………」
「うん?」
「これはきっと夢だから、最後に一つだけあなたに言わせて。………私はね、小さな子供の頃からずっと、…………ずっと、あなたを愛していたわ」
自分で呟いたその最後の愛の告白に、胸が引き絞られるようだ。
あまりの苦痛にぎゅっと目を瞑ってしまって、なんてことをしたのだろうと恐ろしくなる。
こうして目を閉じてしまったら、この夢はきっと終わってしまうだろう。
もう二度と、夢の中のラザルにも会えなくなる。
「………そうか。じゃあ私は、君の側にいなければならないな」
(え、……………)
その声は耳元で聞こえた。
優しく儚げなその響きに、リリィはそうっと目を開けてみる。
するとそこには、先程と変わらずにラザルがいるではないか。
その指先がまた髪に触れる。
「ラザルがいる………」
「ああ、ここにいるよ」
「………夢…」
「夢ではない。これが夢ではないと信じて貰う為には、君の従兄弟から、君の日記を読ませて貰ったと言えばいいのかな?」
「に、日記を?!」
その一言が齎した衝撃は大きかった。
寝台から飛び上がったリリィは、そのまま転げ落ちてラザルを動転させてしまう。
扉を開けてすっ飛んできたディアレータが、どうしてしっかり面倒を見ていなかったのだと、ラザルを殴りつけている。
「ディアレータ?!ラザルが死んでしまうから!!……あんなに弱って……、……………ラザル?」
リリィはふと、違和感に気付いた。
ラザルの瞳が、かつてのような澄んだ菫色に戻っていたのだ。
リリィがじっと見つめていることが分かったのか、ラザルは、自分の頬に手をあてて微笑んだ。
「不思議なものだ。瞳は元に戻った。ジゼル曰く、翼はもう駄目らしい。君の為に最後に一度だけ飛べれば良かったのだし………もはやこの身に未練もない」
それは、とても不思議な言葉だった。
目を瞠ってディアレータに抱き締められたままでいたリリィに歩み寄ると、ラザルはその額に口づけを一つ落とした。
「これが、私という雪竜からの最後の祝福だよ」
そう微笑んで。
そうしてそこにやってきたのは、従兄弟だった。
「ラザル殿、お時間ですよ」
「…………仲間達も?」
「ええ。皆さんお揃いで。非公式ではありますが、あなたのお父上もいらっしゃっております」
「父上には、最後まで心配をかけるな」
「おや、私が失敗をするとでも?」
「いや、………だが、飛べない竜を身内から出すということは、あまり良いことではないのだ。ジゼルの娘達も最初の頃は、あまりよく言われなかった」
「娘ではなく妹だと、ジゼル様に怒られますよ。今やあの方は、雪竜の王なのですから」
「…………どう見ても娘にしか見えないが」
小さくそう笑って、ラザルは部屋を出て行った。
何かを言おうとして、手を伸ばすことも出来ずに口をぱくぱくさせたリリィに一度だけ微笑みかけて。
その日、雪竜の王子の訃報がウィーム内にだけ、ひっそりと伝えられた。
ウィーム王の契約の竜が失われたことを隠す為に、リリィは、契約の竜や妖精を増やされることになった。
そこには、ジゼルの溺愛していた雪竜の双子もおり、リリィはひたすらに困惑する。
ジゼルのような気難しい竜が、よく妹達をその他大勢にするとわかっていて手放したものだと思い、首を傾げた。
(…………ラザル。あんな風に逝ってしまうなんて)
不思議なことだが、あの朝があったことで、リリィの心の痛みは思っていたよりも酷くはならなかった。
ただ、いつも胸を痛めて見上げた空や、誰かが降り立った音がしないかとちらちらと見ていたバルコニーは、あまり見られなくなった。
寂しい夜は父の隣で眠り、その暖かな手に縋った。
そんな日々はとても長く感じたが、冬が明けて春になると、まだ家族がいなくなってからたったの二年しか経っていないのだと思い知らされる。
相変わらず死者の日に家族は戻って来ないままで、父の棺の周りには花が溢れ、眠ったままの父に会いに来る人外者達が引きも切らない。
春が訪れ、夏の気配がしてきた。
ラザルの訃報は、その頃になると諸外国にも伝わっていた。
愛する契約の子供が生きているのにと疑問を持たれないよう、ラザルは父の庇護の一環としてその息子の契約の竜でいたのだということになった。
そんな根回しが済んだので、ようやく亡くなったことを公表出来たのだ。
前王が竜達に愛されていたのは有名だったので、その話は特に訝しまれることもなく受け入れられ、生き残った王子に他の契約の者達が増えたことで、ラザルは安心して前王を追って旅立ったのだと、人々は涙ながらに語り合う。
(ラザルが可哀想だわ。彼は、お兄様をあんなに愛していたのに)
それなのに、リリィがそんな兄の名前と存在を、彼から奪ってしまった。
ラザルは自身の竜としての愛情の証跡も失い、兄はそのラザルの愛情がなかったこととして語られるのか。
ラザルにとってリリィの兄は、大事な弟であり、息子のような存在だったのだ。
大事な人達の墓標には、嘘しか残らない。
「あら、そんな普段着で」
「かまわぬさ。こんな私であることを知った上で、私の伴侶となる者なのだ。ありのままの私を見せるのがいいだろう」
その日のリリィは、夏至祭の後で伴侶となる相手と初めて顔合わせをする予定であった。
ウィームの血族ではあるらしいが、従兄弟の親族の辺境伯の知り合いの息子だという、いまいちよく分からないお相手だ。
(王らしい話し方も、身に馴染むようになった。お父様の真似をすればいいのだもの)
「それにしても、あなたは自分の夫になるひとのことを、あまり聞こうとしないのね」
「そうだろうか?でも、一緒に生きてくれる人なのだから、とても大事にするよ」
「そうね。大事にするといいでしょう。彼もきっと、あなたをとても大事にするわ」
リリィの夫となる相手には、あんまりな制約が課される。
公の場では王妃として振舞わなければならず、それは立派な男性にとって如何程の苦痛だろうか。
だからリリィは、それがどんな相手であれ、この秘密を一緒に背負ってくれる人なら誰でも受け入れようと思っていたのだ。
当初は、どこかの貴族の娘を形だけ受け入れてもいいと考えていたのだが、やはり王家の血筋を残すということも必要になる。
なので仕方なく、公の場では擬態魔術で女性に擬態してくれる男性が探されたのだ。
どこかで訪問を告げるベルが鳴った。
リリィは執務室の椅子から立ち上がり、かつて、ラザルがよく舞い降りてきたバルコニーに面した窓の所に立つ。
ジゼルのところの双子竜は飛べないので、今はもうこのバルコニーを発着に使うものはいない。
そんなことをぼんやりと考えていると、従兄弟が部屋の扉を開けた。
ラザルを探してよくリーエンベルクを抜け出していたリリィを追いかけていた頃の癖で、彼はこの部屋の扉を開く前にノックしないという悪癖がある。
「連れて来ましたよ、リリィ。あなたは酷く頑固なところがありますからね。こうして手を尽くした私を褒めて欲しいものだ」
部屋に入るなりにそんなことを言うのだから、呆れるしかなかった。
そんなことを言って、リリィの夫になるべき人が怖気づいてしまったらどうするというのか。
「私の花婿殿が萎縮するようなことを言わないでくれ。……すまない、従兄弟殿は少しだけ捻くれているんだ」
顔を顰めて宰相を下がらせる。
なぜか従兄弟は、素直に部屋の壁際にまで下がると、伴侶である契約の魔物と不思議な微笑みを交わしていた。
「良かった。元気そうだね。顔も青くないし、あの時のように倒れてしまってもいない」
ふわりと、淡く優しい微笑みが揺れる。
今は男性の姿なのでと、それを隠す為に花嫁のようなヴェールを被っていた男性が、唖然としてそちらを見たリリィに、ヴェールの下で微笑むのが分かった。
その微笑みに見覚えがあるような気がして、リリィは訳も分からずに息を飲む。
「すまない。呪いの定着が思っていたより悪くて、すっかり遅くなってしまった」
息が止まりそうになり、その優しい声を呆然としたまま聞いた。
「…………ラザル?」
綺麗な指先がヴェールを外す。
こちらを見ていたのは、優しく澄んだ菫色の瞳だった。
突然幻のように現れた懐かしい姿に途方に暮れて見入ったが、どこか、微かな違和感がある。
「…………目元の鱗がない」
思わずそう呟いたリリィに、ラザルそっくりの誰かは微笑んだ。
「ああ、人間に置き換えられる呪いを受けて、この身はもう人間のものなんだ。………古い友人の夏闇の竜が、そのようにして呪いを避けたのを知ってはいたが、まさか自分も試すことになるとは思わなかった。…………リリィ?」
へなへなと床に崩れ落ちたリリィに、ラザルは慌てて駆け寄ると、まるで羽のように抱き上げてくれた。
しかし、以前のようにはいかずに、抱き上げた後に少しだけ足元がふらつく。
「ラザル、私の愛し子を落としたら許さないわよ!」
「すまない、ディアレータ、竜の頃とは腕力が違うんだ。まだ慣れなくて」
「ラザル…………、どうして?」
そう尋ねたリリィに、喪った筈の大切な人が笑う。
触れてその瞳を覗き込めば間違える筈もない。
ここにいるのは、死んだはずのラザルだった。
「…………あの夜、君はその想いで私を繋ぎとめたのだよ。竜の宝を無くした竜は生きてはいられないが、宝がある限りは死にはしない。…………あの夜の君は、無意識に私を生かそうとして、自分の命を削り落としていた。……知らなかっただろう?」
そんなことを聞いたのは初めてだった。
慌てて周囲を見回すと、ディアレータや従兄弟達だけでなく、その場にいた誰もが頷くではないか。
リリィの失われた恋など知りもしないと思っていた騎士団長にまで頷かれ、リリィは愕然とした。
いつの間にか、部屋は、開け放たれた扉からぞろぞろと入って来た城の者達でいっぱいになっており、壁際にはいつからリーエンベルクにいたものか、ジゼルの姿まである。
「けれども、その削り注ぎ込まれたものこそが私を生かした。だが、その結果君は倒れてしまって、………私は、激怒したディアレータに殺されそうになった。君の従兄弟殿は、君がどれだけ私を想ってくれていたのかを理解させる為に、君の日記を読ませてくれたんだ。……………一日後に君が目を覚ますまで読み終わらないくらいに、君の書いた日記は随分とたくさんあった」
「………………あの恥ずかしい日記については、も、もう触れないで」
驚くべき告白に喜びに浸るよりもそれが溜まらなくて、赤面したリリィが顔を覆ってしまうと、耳元で微笑みを深める気配がした。
「ああ、やっと。……私の新しい宝物を、この腕に抱く事が出来た」
そう微笑んだラザルは美しかった。
元々、儚げで美しい雪竜だったが、リリィにはよく分からない何某かの方法で人間になった今も、彼は美しかった。
「ラザルはもう、…………人間なのね?」
彼のそばにいると、王として馴染ませた口調が剥がれ落ちてしまう。
けれども叱らずに、ラザルは微笑んで頷いてくれる。
「一度は死にかけていたから、体の一部は壊れてしまっていたんだ。竜として生きてゆくことは難しかったし、君には人間の夫が必要なのだろう?それなら、私が一番都合がいい。……………何よりも、もう君の側を離れずに済むからな」
ぼすりと、暖かなその胸の中に顔を埋める。
まだ泣けないし、泣くわけにはいかない。
泣いてしまったら多分、リリィは王ではいられなくなってしまう。
でも今はもう、泣かずにいて微笑むことくらい、ひどく容易いような気がした。
「ラザルが、あたたかい」
安堵のあまりに掠れたその声に、夫となるべき人は微笑んで頷いてくれた。
かつて、あの湖畔で兄の為に死にかけていたこの竜は、自分をなんとか生かそうとして死にかけてしまったリリィに、その心を動かされたのだという。
大きな体に寄り添って冷たくなりかけた人間を慌てて抱き上げて、瀕死だったラザルは最後の飛行をした。
死を前にすっかり崩れかけていた翼はそれでもう壊れてしまい、それでもラザルは何とかリリィを落さずに、リーエンベルクに連れ帰ったのだとか。
そうして何とかリリィが一命を取り留めれば、彼はもう自分が死にかけていないことを知ったのだそうだ。
「けれど、これはどうかと思う。私の伴侶は、リリィだけなのに」
そう項垂れる夫を何とか励まして公式行事に参加させたのは、それから二十年近く経ってからのことだった。
息子も父親が不憫だったのか、その小さな手を伸ばして頑張ってと励ましている。
一番目の息子が生まれた時、ラザルは息子に翼も尻尾もないと少しだけ落ち込んでいたが、人間と人間の間の子供なのだから当然だろうとディアレータに叱られていた。
ラザルが話していた元夏闇の竜だという男性も、その時はどこからかやって来てくれて、子供の誕生をお祝いしてくれたものだ。
擬態魔術を使わずとも美しい元雪竜の王子は、この国の宰相が施した擬態魔術のお蔭で、今日も絶世の美女にしか見えない。
「さぁ、行こうか私の王妃」
「…………エーヴァルト、やめてくれ」
「どうした?私の伴侶は、具合が悪いのだろうか」
「ふふ、やめてお父様、ラザルが弱ってしまうわ」
とある魔物の気紛れで目を覚ますことが出来た父は、リリィが人間になったラザルを夫にしたと聞いて、やっぱりそうなったかと微笑んで頷いた。
その時になってようやくリリィは、父は、娘に愛する相手がいるのを知っていたからこそ生かそうとしてくれたことを知り、今更ながらに感謝した。
そうして目を覚ました父は、リリィに良く頑張ったねもう交代しようと言って、リリィの頭の上から王冠を外してくれたのだ。
ところが、そうなるとそれはつまり、公の場でラザルが王妃として寄り添うのは、父ということになってしまう。
リリィの愛する夫は落ち込むあまり二日ほど寝室に立て籠ったが、父が、一緒にリリィやその子供達を守る為に協力しようと口説き落としてしまい、今では渋々ながらにこうして出かけてゆく。
けれども、出かけてゆく前にはいつも、こうしてリリィに悲しそうに文句を言うのであった。
兄や母達が死者の国から出て来れないのには、理由があった。
彼等は、その年の冬に病で亡くなった騎士と再会して、その言葉からリリィがどんな立場に置かれているのかを知り、敢えて姿を現さずにいてくれたのだそうだ。
特に兄は、姿を見せてしまえばリリィの纏った嘘が剥がれてしまう。
また、もう一人の兄や母も、地上に出てきたところで誰かの手に落ち、魔術や呪いなどで秘密を話してしまうかもしれないからと、そちらでも必死に踏み止まり、リリィを守ろうとしてくれていた。
幸いにも三年目にはリーエンベルクの魔術師長が亡くなり、彼があちら側で試行錯誤して道を整えてくれたお蔭で、母達もこちらにこっそり上がって来れるようになった。
やっと再会出来た大事な兄にも結婚を祝われ、ラザルがどれだけ嬉しそうだったことか。
既に契約の竜や妖精達が亡くなってしまっていた母と二番目の兄は、そんな様子を見て少しだけ寂しそうだったのが印象的だった。
母達が父と再会することはなかったが、眠っている父の周りでみんなでお喋りをした夜は楽しかった。
今でも、リリィは時々王になることもある。
それは仕事の都合であったり、夫であるラザルの精神安定の為であったりもした。
本当の名前は失われたままであるし、魔術に食われた髪の毛が長く伸びることもない。
けれども思うのだ。
あの長い長い夜に、この愛する菫色の瞳の伴侶を引き止めることが出来た、その為だけにでも生き延びることが出来て良かったのだと。
父の言うような一線は、確かにあったのだ。
「いってらっしゃい、ラザル」
「ああ、行ってくるよリリィ。今日も、君との約束は必ず守ろう」
「ええ。私もあなたとの約束を必ず」
リリィとラザルには、一つの約束があった。
それはいつか、もしまた想像もしないような悲劇に見舞われることがあったとしたら、その時は、ラザルは決してリリィを置いて逝ってしまってはいけないということだ。
そしてそれは、かつて愛し子を失って死にかけたラザルの願いでもあった。
もしいつか、最後の時が訪れるのであれば、その時は必ず一緒に。
そうしてリリィの大事な伴侶は、確かにその願いを叶えてくれたのだった。