ファルトティーと夜伽の酒
ふと、最初の会話が蘇る。
「ネア、…………それは何だろう」
「……………綺麗な水?でしょうか」
その時のことを思い出し、可愛らしく首を傾げてこちらを見たネアの瞳の色が蘇って、喉の奥がおかしな音を立てた。
それは、ノアベルトが運試しの酒壺を出し、ネアがそこから注がれた酒を飲んだ日のことだ。
「…………おや、酒だとしても、普通のものに思えますね。香りも悪くありませんが、……さて」
「の、飲むのだろうか………」
ヒルドは安心したようで、エーダリアは怯えていたが、こちらから見てみてもそれは特に問題があるものに思えなかった。
「巨人のお酒でもなさそうです。…………菫のような香りですね」
グラスをシャンデリアの明かりにかざし、ネアは満足げな微笑みを深める。
しかしそれは、決して見た目通りのものではなかったのだ。
「一口先にいいかい?君にもしものことがあると困るから」
「………ディノに何かがあっても困るのです」
「…………可愛い」
心配そうに見上げられたことに胸が苦しくなったが、その動揺を押し隠して彼女の手のグラスを受け取った。
唇をつけたが特に厄介な要素は感じず、嚥下しても特に問題はなさそうだった。
きりりと冷えており、ほろ苦い中にも旨みがある。
味としても、ネアが飲んでも問題なさそうだ。
「…………夜の系譜を感じるね。……林檎と薔薇、………それから、月の雫かな」
「……むむ!素敵なものばかりです。やはり、私は悪くなかったのですよ?」
「ネア、その二人にはもう聞こえていないのではないだろうか」
「なぬ。寝ていては私の成果を見せ付けられません。起きるのだ」
「………ずるい、ご主人様が無理やり何か飲ませてる……」
「酔い覚ましのお薬ですよ。お口から少し溢れていますが、お鼻を摘んでしまえば飲むと思うのです」
そう言いながらノアベルトとアルテアに薬を飲ませしまい、ネアは容赦なくその頭を揺さぶっている。
すぐに、ノアベルトの方が目を開いた。
しかしながら、意識があるのかどうかは少し怪しい。
「…………困りましたね。目を開いていますが、無を感じます………」
「……………ネイ、無事ですか?」
「……………ヒルドがいる。僕…………ありゃ、パンの魔物の集団は…………」
「どんな夢を見ていたのだ、……ほら、立てるか?」
「エーダリア…………パンの魔物の巣なのに、助けに来てくれたのかい?」
「…………どんな悪夢を見たのだろうな」
「さて、あまり愉快ではなかったようですね」
ノアベルトは、どうやらパンの魔物がたくさん出てくる怖い夢を見たようだ。
エーダリアとヒルドに助け起こされている姿はどこか悄然としており、周囲にパンの魔物が潜んでいないか確認する眼差しは鋭い。
それは確かに恐ろしいだろうと思い、ネアのグラスの中身をもう一度見つめる。
自分の唇に指先で触れてみたが、幸いにも特に問題はなさそうだ。
どこかで飲んだような味だと考え、随分昔に思えるいつかに、舞踏会などで振舞われていた祝福入りの酒に似ているのだと思い至る。
であればやはり、これは存外に良いものなのだろう。
(…………月の雫が入るものは高価だ。薔薇と夜、そのどれもが喜ばれるものばかり。……ネアの……この世界では微かでしかない運命の影響を受けて出て来たものが、祝福を受けている種類の酒のようなものだとしたら………)
そう考えて胸が浮き立ち、ネアが得られたものを喜ぶ姿が妙に嬉しかった。
ネアは、悪夢に落ちてもその眼差しが曇ることはなかったが、リーエンベルクの廊下のとある箇所を通る時、何度か息を詰める姿を見ている。
けれども心配になってそちらを見ると、彼女は手を伸ばして頭を撫でてくれる。
まるで、心配なのはあなたなのだと言わんばかりに微笑みを深め、その後はいつも大事にしてくれるのだ。
そんなネアが運試しの酒壺に良いものを与えられたのだと思えば、やはり嬉しいことであった。
「…………っく」
「うむ。使い魔さんも起きましたね。…………あら、涙目ですか?そんなに美味しくないお酒だったのですね………」
「ネアか……………っ、俺は……………何で床にいるんだ」
「運試しの酒壺から出たお酒を飲んで死んでいたのです。優しいご主人様が、酔い覚ましのお薬を飲ませてあげたのですよ」
「……………思い出したぞ。お前が出した酒だったな」
「ふふ、そんなアルテアさんにも、ちょっとまだパンの魔物さんの巣から戻って来れていないノアにも、私からお知らせがあります!ほら、私が単独で出したのはこのお酒なのですよ?ディノが確認してくれましたが、林檎や夜や薔薇に月の雫まで入っているのだとか。この通りとても素敵なものなのです!!」
嬉しそうに自分のグラスを掲げたネアの姿に、アルテアは澄んだ透明な液体を見て悔しそうな顔をし、エーダリアとヒルドの手助けで水を飲んでいたノアベルトは微かに苦笑する。
「…………わーお。ってことは、僕とネアの相性だと、あの足入り?」
「確かにまともに見えるが、見た目だけかもしれないがな」
「あら、ディノも一口飲んでくれたのです。なお、エーダリア様の調査によるとアルテアさんが飲んだのは、強力な魔物封じのお酒の原液でした。本来はあれを布に包んで絞るのだそうですよ」
「………ああ、ファルトティーだ。だが、あれではすり潰した薬剤をそのままだからな………」
「…………そもそも、ファルトティーは儀式で撒くもので、飲むものじゃないだろうが」
「………確かにそうだな」
ファルトティーは、魔物などの祟りものが滅びた土地を清める為の特別な酒で、それを魔術師が小瓶で撒いて儀式を行う。
決して、飲料にする酒ではないのだ。
散布用の薬剤に近いものだったと知り、ネアは、運試しの酒瓶がなかなかに油断のならない道具であることを思い知ったのか目を瞬いていた。
「さて、飲んでみますね」
そう言ってからネアは、グラスの中身を少しだけ口に含んだ。
目を煌めかせて嬉しそうな顔をすると、また一口飲んでいる。
「ほわ、なんて美味しいのでしょう。瑞々しくて甘くてほろ苦くて、お気に入りのシュプリの紅茶に上等なお砂糖を入れたようなお味です!」
その後は暫く何も起こらなかった。
ネアは良いものが出て来たとご機嫌でグラスの中身を全部飲んでしまい、お気に入りの厚切りハムを一枚取るといつもの食べ方で少しずつ切り分けている。
これは彼女が前の世界にいた頃の癖で、上質な量り売りのハムをご褒美で買った時に、このように少しずつ食べていたのだそうだ。
そうなったのは、お気に入りのハムを二枚と一杯の葡萄酒で過ごした祝祭の夜があったからであるらしい。
『あのクリスマスは貧乏でした。…………まさか、水道管が老朽化で壊れるなんて。新年も食べるものが殆どありませんでしたが、お庭の花を一輪花瓶に生けて、節約料理で乗り切ったのです。それでも欲深い人間は、クリスマスの前夜祭と当日には、五枚の量り売りハムを買ってしまったのでした……』
その五枚のハムで、食卓用のパンが一斤買えた値段だったのだそうだ。
けれども彼女は仕事場で貰った一杯用の葡萄酒の瓶を抱えていた帰り道で、満腹になることより心を豊かにすることを選んでしまった。
『クリスマスは、こちらで言うところのイブメリアです。お腹がいっぱいでもお祝いが出来ない惨めさで悲しくなるより、腹ペコだけど私は上等なハムを食べたのだ!という満足感を得ることにしたのです』
その日以来ネアは、朝昼晩の食卓の席以外で美味しいハムを食べる時には、少しずつ味わって大切に食べるようになってしまったらしい。
特に酒席では、彼女の食べ方でいても不自然ではない為、よくそうしている姿を見かけた。
しかしそうすると、その一枚でいいのかと思われてしまうのか大皿のハムが次々となくなってしまうことがある。
そんな時にネアはとても悲しそうにしているので、ハムが出ると何枚か取り皿に避難させておいてやるようになった。
強欲だと口にはしているものの、ネアは目の前の料理を予め全部取り皿に乗せてしまうことはない。
また、誰かと分け合うべきものを、自分だけが独り占めすることもない。
エーダリアと鶏肉の皮の部分の奪い合いをしても、その良いとされた部位が一つきりではないからこそ、ネアは安心して奪い合っているようだ。
彼女の取り皿の上は、山盛りにされていてもとても綺麗におさまっていた。
それはいつも食べられるだけの少しずつのもの、或いは食べると決めた多くのものだ。
決して食べ物を残さないのは、そんな日々の名残りなのだろうか。
(そんな不安の足跡を、もうこの子の中には残したくない)
そう考えていたけれど、悪夢はやはり何かをネアの中に残した。
だからこそネアが得るものを与えたエーダリアには感謝しているし、同じようにノアベルトにも感謝している。
彼等がいたからこそ、ネアはあの悪夢の中の記憶をただの苦痛とは捉えない。
『けれど、あの日があったお陰で私は、美味しいハムを食べれることを喜びだと思えるようになったのです』
きっと、それと同じように。
「この、ふわふわ蜂蜜クリームチーズと一緒に食べるハムが最高なんですよ。ゼノが教えてくれた食べ方で、この一口で至高の味わいなのです。………ふぎゅう」
喜びの声を上げ、ネアが幸せそうに頬を染める。
そんな喜び方が可愛くて、こちらの皿に取っておいたハムをネアの皿に乗せてみた。
「なぬ!ハムが増えました。交換こですか?」
「うん、交換しようか」
「では、蜂蜜クリームチーズを贈与しますので、ディノもこれで食べてみて下さい。一口くらいの量でいただくのが美味しいですよ」
「そうなんだね。一緒に食べてみるよ」
「ふふ、お揃いですね」
「…………うん」
喜んではしゃぐネアの反対側で、まだどこか不調が残るのかこめかみを揉みながら頬杖を突いているアルテアが、ネアの為に果実水を出してやっている。
酔いはしないが、味が好きなものを飲むのが一番だと公言するネアは、酒席でも食べ物に興味が向いた時には果実水も好んで飲むのだ。
「ふぐ。………ディノを椅子にします」
「…………ネア?」
「お膝を空けて下さい。………うむ!」
ネアがそんなことを言い出したのは、アルテアが用意した果実水も飲んでしまった頃のことだ。
突然、珍しくネアから膝の上によじ登って来た。
ヒルドがちらりとこちらを見たが、エーダリアと話しているノアベルトは気付いていないようだ。
アルテアはどこか訝しむようにこちらを見ていて、目が合うと小さく首を振った。
「少し、酔ったのかな。いいよ、おいで」
「むぐふ!…………そして、ふかふか毛皮を撫で回します」
「…………毛皮?ムグリスになって欲しいのかな?…………ネア?」
反応が遅れたのは多分、それが思いがけない行為だったからだろう。
気付けばネアは、こちらの襟元に手をかけて手際良くクラヴァットを抜き取っている。
シャツのボタンを外されて、目を瞠った。
「…………ネア、どうしたんだい?」
「お腹のもふもふを探しまふ。………む、なぜに手を握られたのでしょう?私に脱がされるのは嫌なのですか?」
じわっと涙目になって膝の上から見上げられ、ぎくりとした。
思わず緩んでしまった手の中から指先を引き抜かれ、ネアはすぐさま作業を再開する。
「………………嫌ではないけれど、部屋に戻ってからにしようか」
「…………本当は嫌ですか?」
「ネア、…………っ?!」
恐らく酔っているのだろうと思って、どう説明しようかなと思って戸惑っていた時だった。
ふいに伸び上がったネアに口づけされて、頭が真っ白になった。
「…………わーお、ネアいい酔っ払いだね。僕にもして欲しいなぁ!」
「ネイ?」
「ごめんなさい……」
遠くに、ノアベルトたちの声が聞こえる。
なぜかエーダリアが有事用の結界を立ち上げており、ヒルドに訝しまれていた。
「ディノが困っていたので、家族相当の大事な人用の祝福を差し上げました。……元気が出ましたか?」
「……………ネア」
「もう一回します?」
「………………うん」
「おい、明らかに様子がおかしいぞ。まずは、酔い覚ましを飲ませ……」
アルテアが口を挟んだところで、なぜかネアはアルテアのベルトをがしりと掴んだ。
固まったアルテアには見向きもせずに、ネアはなぜか素早くそのベルトを外している。
先程の口づけで、思考が曖昧になりかけていたが、慌ててそれをやめさせようとした。
「…………ネア、アルテアを脱がすのはやめようか」
「首輪がこちらに移動しています。きちんと付け直してあげなければいけませんね」
「首輪…………ではないんじゃないかな」
「それと、尻尾の付け根をこしこしします!」
「…………は?…………ちょ、おい!手を差し込むな!!………シルハーン、さっさとこいつを押さえろ!!」
人型なのに、尻尾の付け根を撫でられかけたアルテアが椅子を揺らして後退り、ネアは不満の声を上げる。
酔いの気配は見えないものの、どこかとろんとした瞳で振り返った。
「大好きなことの筈なのに嫌がるのが謎めいています。では、アルテアさんは後でお腹を撫でて差し上げますね。お洋服が邪魔なので脱いでおいて下さい。…………む、ノア?」
「…………うーん、酔っ払いじゃないかな。魔術効果…………もしかして、」
「さっき飲んだものだろうか」
「シル、何が入ってたんだっけ?」
「夜の系譜で、林檎と薔薇、月の雫だね。後のものは微量過ぎて何とも言えないかな」
「……………ありゃ、もしかしてそれ、夜伽の酒じゃない?シルには効かないけどさ…………ネアには効くよね」
ノアベルトのその言葉に、なぜかエーダリアとヒルドが同時に砂糖壺のようなものを取り出した。
そちらを振り返り、ノアベルトが首を振っている。
「これは、解毒剤的なやつがないんだ。………うーん何て言えばいいのかな。欲望に働きかけるんじゃなくて、相手の悦ぶことを望むようになって、自分が望まないことはしないからね。…………だからこそ、よく夜会なんかでは自己責任で夜を楽しむようにと振舞われていたけど…………ネア?!」
そこでネアが首飾りの金庫からさっとボールを取り出したので、ノアベルトは慌ててその手を隠させていた。
この部屋には今、アルテアもいるのだ。
慌ててボールを取り上げると、ノアベルトはヒルド達の方に逃げて行く。
ノアベルトが離れるとまたこちらを見上げ、ネアは、膝の上にもぞもぞと座り直してきた。
「………膝の上に座るのは好きなのだね?」
「うむ!甘えたい時にお膝に座ると、ディノに大事にされている気がします。そして、お腹を撫でますね」
「…………っ、ネア、…………他のことにしようか」
「…………お腹撫で以外?」
気を抜いたその一瞬で強引にシャツを引っ張り上げて、手を差し込まれて慌ててしまった。
腹部に感じるネアの手のひらの体温にぱっと頬が熱くなり、慌ててその手を押さえたものの、そうして触れてくれたことへの微かな喜びにうっとりする。
それは欲望のそれというよりは、単純にネアの体温が体に染みることへの喜びが大きかった。
もっと触れていて欲しいと考えかけてしまい、とは言えここでは止めるべきだった。
「ネア、撫でるのは構わないけれど、部屋に帰ろうか」
「………む。しかしまだ、お皿の上にハムが残っていますますのです」
可愛らしく言葉が乱れ、そんな自分に不思議そうにネアは首を傾げた。
「私はハムが大好きですし、ハムは美味しく食べられて幸せだと思うのですが、間違っていますか?」
「うん。それで合っていると思うよ」
「では、美味しくいただきますね!」
そう言うと、ネアの興味は暫くハムに移ったようだ。
その隙に衣服を直し、ノアベルト達の方を見る。
アルテアはまだ少し離れたところにいた。
尻尾の付け根を撫でるために、ウエストから手を差し込まれかけてよほど驚いたのだろう。
「凄く羨ましいけど、まずは部屋に連れて帰った方が良さそうだね。…………普通は肉体的な情欲に結び付き易いんだけど、ネアの場合は何だか違う方向に向くんだなぁ。…………ありゃ、ヒルド……………」
そんな会話をしている間に、ネアは素早く移動したらしい。
ノアベルトの隣で倒れてはいけないグラスなどをネアの側から片付けてくれていたヒルドの羽にネアが噛み付いていた。
「…………っ、」
ヒルドは驚いたように体を離そうとしたが、ネアはすかさずその腰に抱き付いてしまう。
「こなこなしてません!」
「…………っ、ネア様、今夜はやめておきましょうか」
「美味しいこなこな………」
ヒルドが苦痛を見せることはなかったので、幸いにも歯は立てていなかったらしく、ヒルドに窘められたネアは大人しく口を開けて羽を解放していた。
「申し訳ありません。どうか二人きりの時に」
「むぎゅる」
しかし、妖精の粉を落とさない羽にがっかりしたのか、ネアは何とかそう微笑んで離れようとしたヒルドの羽を捲ると、内羽を指先でなぞった。
「………っ?!」
「うわ、ヒルド!」
シーである六枚羽の妖精の、内羽は特別なものだ。
庇護を与えた相手にそんなことをされてしまい、ヒルドは床に膝をついてしまう。
慌てたノアベルトがそちらに向かい、こちらもすぐに駆け寄ってネアの手をヒルドの羽から外させた。
「駄目だよ、いけないご主人様だね。ほら、私に掴まっておいで」
「むぎゅふ。ヒルドさんの羽がこなこなしていませんでした。ディノ、頭を撫でて下さい」
「いいよ、いくらでも撫でてあげよう」
「私もディノを撫でます!」
「うん。では、そろそろ部屋に…」
「は!ノアを忘れていました!!」
そう声を上げたネアは、突然腕の中から飛び降りてしまうと、足を捻りでもしていないかとぎょっとして伸ばした手をすり抜けて、ノアベルトに飛びかかった。
「ノアを抱き締めます!」
「わーお、情熱的だね。大歓迎だよ」
「そして弟にするのです!」
「え、ネアが妹がいいかな」
「ふふ、素直ではないですねぇ。少し大きくて困った弟ですが、大事にしますね」
「ありゃ、……この状態でそう言うってことは、君は本気で僕が弟になりたがってるって思ってたのかぁ…………」
「む?弟よ、どうしたのですか?」
「ネア、僕が家族になるのはもう少し先だよ?」
「…………そうでした。ノアが弟になるのはまだ先のことでしたね。では、ボー…」
「ネア!ほら、アルテアが寂しそうだよ!!」
「ほわ!アルテアさんを撫でます!!」
「おい、やめろ!………ノアベルト!!」
ノアベルトはボールと言わせない為だけにアルテアを犠牲にし、アルテアは力尽くで床に引き倒されている。
仰向けにしたアルテアに跨って尻尾がないと真剣にあちこちを探しているネアをすぐに取り戻しにゆき、腕の中に抱え上げた。
「ふかふか尻尾がないので、パイにします…………。困ったアルテアさんは、尻尾をどこにやったのでしょう」
「今は見当たらないようだね。さぁ、もう部屋に帰るよ」
「まだ一人忘れていました。エーダリア様にはこれです!」
そう言ってネアが腕輪の金庫から取り出したのは、いつの間に持っていたものか、竜の鱗のようだ。
「ダナエさんが、バーレンさんの割れた鱗を送ってくれました。いつかエーダリア様に差し上げて驚かせるつもりだったのです」
「光竜、……バーレンの鱗なのか?!」
「はい。ダナエさんが、寝ぼけて蹴飛ばしてしまったそうで、いきなり蹴られたバーレンさんは、突然嫌われたのかと半泣きだったとか。可愛い仲良し二人なのです」
エーダリアはぱっと笑顔になり、ネアが差し出した鱗を受け取っていた。
やっと立ち上がったヒルドが、どこか恨めしげにそんなエーダリアを見ている。
「エーダリア様…………」
「………あ、………いや、その、……そうだな、この鱗は折角なので貰っておくとして、いきなり手を離してすまなかった」
「出来れば、私の手を振り払ってその鱗を受け取りに行く前に、こちらにお気遣いいただいていた途中だったことを、思い出していただきたかったですね」
「…………その通りだな、すまない」
床に膝を突いてしまっていたヒルドが立ち上がるのに手を貸していた途中だったことを忘れてしまったらしいエーダリアは、青くなって謝罪していた。
「むぐ。ディノ?」
「……………っ、ネア」
そこでまたネアは、今度は頬に口づけを落としてくれる。
また頬が熱くなって口元がくしゃりとなったが、こちらを見て喜んでくれただろうかと目を輝かせているネアに微笑みかける。
「有難う、ネア」
「うむ!喜んでくれましたね。では次はお腹を…」
「……………ご主人様」
やはりここでは困ってしまうので、部屋に残った者達に退出を告げると、転移を踏んでネアを部屋に連れて帰った。
自室に帰ってくると、やっと気兼ねなく夜伽の酒を飲んでしまったネアと向き合うことが出来る。
酔っているのではなく、祝福効果のようなものなので、その瞳は澄んだままだ。
「…………お腹撫で」
「うん、好きなだけ撫でてもいいよ。でも、また先程みたいに口づけしてくれると嬉しいな」
「ふふ、勿論です」
甘やかな口づけが落ち、その温度に唇を寄せる。
甘く甘く、どこか切実で胸を掻き毟るような喜びに溺れた。
望んだことと、望んでいることしか成さないものによる効果であれば、これもネアが望んでくれていることなのだろうか。
(多分君は、私に祝福を与えているだけのつもりなのだろうけれど、それでも………)
もっと深く、欲として望んでくれてもいいのにと考えてから、この行為も幸せでいて欲しいと望んでくれているからなのだと気付き、また心が痺れた。
「…………ふふ。ディノと一緒にいるのが一番幸せです!」
「……………うん。君が側にいるだけで、私は何より幸せだよ」
その言葉で胸が潰れそうになった。
何の気遣いでも対価でもなく、それはネアが願って言ってくれた言葉なのだ。
それは、ほんのひと時の甘美な喜び。
彼女がそんな剥き出しの言葉をくれた、一夜の甘やかな夜だった。
夜伽の酒はそれ本来の用途ではなくとも、最高の夜を与えてくれたのは確かだ。
大切だと言われる度に、心が崩れて緩んでゆくように。
「ネア、またあの夜のようにしてくれるかい?」
「………………む。私がとんでもないお酒に溺れ、アルテアさんの追い剥ぎをして、エーダリア様にバーレンさんの鱗を差し上げた日のことですね?何度もの聞き取り調査でも、皆さんはそこまでしか口を割ってくれませんでした」
「君は自分から私に口づけしてくれて、私と一緒にいるのが幸せだと、何度も言ってくれたんだよ」
「………………むぅ」
だからその時、ネアがそのままのことをもう一度してくれたのは驚きだった。
それはやはり、夜伽の酒があってこその特別な恩恵だとどこかで諦め、どこかで安堵していたのだ。
恥ずかしげに頬を染めて一緒にいて幸せだと言ってくれたネアに、そして触れた唇の温度に頭が真っ白になり、毛布に包まって丸くなった。
暫くは何も考えられそうにない。