騎士の定義と運試しの酒瓶
その夜のリーエンベルクでは、ちょっとした打ち上げが行われていた。
ボラボラの祭りを無事に乗り切った者達による、本日見たものを出来る限り忘れようの会だ。
勿論そうなると、ネアの持つ夜の盃が大活躍するのである。
今夜は何人かの者達が、いつもより少しばかり強めのお酒でうぃっくとなりたいのであった。
「エーダリア様、………エーダリア様があまり事故らないのは何故なのでしょう?」
「………と、突然どうしたのだ」
ほろ酔いのネアに詰め寄られ、エーダリアは困惑したようにグラスを置く。
明日は珍しくお休みになるので、今夜は少しばかり飲みを深めるモードであった。
そんなエーダリアにずずいっと詰め寄るネアを、なぜか後ろからアルテアが引っ張って下がらせる。
「なぬ!大事なことをお聞きしているのに邪魔をするのは何故なのだ!」
「あのなぁ…………近過ぎるだろ」
「ネア、………元婚約者がまだ気になるのかい?」
「まぁ、ディノ。エーダリア様には異性としての興味はこれっぽっちもありませんよ?」
「ご主人様!」
「…………別に構わないが、なぜか釈然としないな」
そう呟いたエーダリアに、ノアと薄緑色の明らかに強そうなお酒を飲んでいたヒルドが振り返る。
じっと見つめられて、エーダリアは慌てて首を振っていた。
ネアはアルテアが作ってくれたオリーブの肉詰め揚げをもう一つ確保しながら、そんなエーダリアに小さく微笑む。
「あら、エーダリア様とて、私のことを女性として意識されたことはないでしょう?今更なのです」
「それは勿論だが、……ネア?」
「むぅ、確かにさっぱりそう言われてしまうと、女性としての誇りが少しだけ傷付くのです」
そこでやっとネアも、エーダリアが感じたであろうもやもやを共有した。
しかしそう答えたネアに、隣に座った魔物がぱっと悲しげな顔になる。
「ネアは、私の婚約者だろう?エーダリアを気にする必要はないのではないかい?」
「人間はとても強欲な生き物なので、恋心を抱かれるのは困るのですが、とは言え魅力的な異性だと思われるのも吝かではないのです。しかしながら、恋心を抱かれた場合は丁重にお断りします」
「………この話題をやめるべきではないか?先程から、無駄に綱渡りをしている気がしてきた」
「むむ、確かに、無意味にお互いに殺し合っている感じがしてきました。やめましょう」
これ以上はいけないとネアも神妙に頷き、二人は夢から醒めたように首を振った。
「二人とも馬鹿だなぁ。僕はそういう話題は、僕への思いに気付いてない子に意識して欲しい時にしかしないよ。………ねぇ、ネアは僕にどう見て貰いたい?」
「お姉様と呼んでくれてもいいですよ?」
「え………、兄妹になるなら、僕が君の兄になると思うなぁ…………」
「おい、なんでお前達が兄妹になるんだよ」
「ふふ、悪夢の中でノアと約束したのです。でもね、ノアはディノのとても良いお友達なので、私の家族になるのはまずディノにして、その後で弟になってくれるのですよ」
「君の格好いいお兄さんになるんだよね!」
「ノアが頑固なのです。大人しく諦めるのだ」
「ありゃ…………」
そこでネアは、隣の魔物からすいっと髪の毛を一筋指先ですくわれた。
眉を顰めてそちらを見ると、アルテアがどこか淫靡に見える赤紫色の瞳を細める。
「また無造作に余分を増やすつもりなら、契約を済ませている俺のことも忘れるなよ?取り分の手加減はしておいてやる」
「…………し、しかし、お母さんの枠は現在審議中なので…」
「………………待て、何で俺をそこに加えようとしたんだ」
「弟が二人いてもいいのですが、アルテアさんは美味しいご飯を作ってくれるので……」
「やめろ、お前の発想は貧困過ぎるぞ」
「なぬ。それは屈辱的な称号です。それなら、…………癒しのもふもふでしょうか」
「…………何のことだ?」
「む?ちびふわですよ?あのもふもふであれば、家族に迎え入れてお部屋で飼えるのです!」
ネアはそこで、呆れ顔のアルテアに額を指で弾かれただけではなく、真剣な様子のディノから、ムグリスで頑張るのでアルテアなちびふわをお部屋で飼わないようにと言い含められた。
飼うとしても、最大に譲歩して隣の部屋にして欲しいと言われてこくりと頷く。
「という事で、お隣の部屋です」
「やめろ。お前に飼われる趣味はない」
「…………むぅ。何だかその言葉だけだと、いかがわしい感じに聞こえますね」
「ほお?飼い慣らせるか、試してみるか?」
「なんということでしょう。アルテアさんも、とうとう首輪や腰紐に憧れるように…………」
「わーお、アルテアはそっちもいけるのかぁ」
「黙れ、ノアベルト」
何やら高度な言い合いが始まったそちらは捨て置き、ネアは素敵なハムをぺろりとお皿から強奪すると、大事にちびちび食べる。
お酒の席では、ハムに関してのみこうして少しずつ大事に食べるのがネアの庶民的で善良なところなのだが、そうこうしている内に他の誰かに殆ど食べられてしまうので、注意が必要だ。
「ネア、アルテアには腰紐をつけてはいけないよ?私以外の魔物に、ご褒美を与えないように」
「私も、ディノ以外の魔物に腰紐をつける人間にはなりたくないのです…………」
「うん。君がそう思っていてくれて良かった」
二人の認識には決定的な違いが一つあるのだが、ネアはその部分をあえて指摘したりはしなかった。
普通の魔物はあまり腰紐に憧れたりしないし、ネアだって、ディノ以外の魔物に腰紐運用をするのは絶対に嫌だ。
恐らく、アルテアに強請られても走って逃げるだろう。
「そう言えば、この前の保冷庫の調査結果が出ましたよ」
「まぁ!あの、扉が閉まっていた筈なのにちびふわが落ちた事件ですね」
「アルテアも落ちるなんてねぇ………」
「その言い方だと、お前も落ちたんだな………」
「僕とシルも落ちてアルテアも落ちたとなると、次に落ちるのはウィリアムかなぁ……」
「なぬ。ウィリアムさんが落ちたら可哀想なのです」
「ネアって、前から思ってたけど、ウィリアムに甘いよね?」
そう尋ねたノアに対し、ネアは人間らしい率直さでその理由を説明する。
「ウィリアムさんは、あまり柔軟な対応が得意ではない部分があるので、こちらも困ってしまうのが想像出来るというか………。出来ればそういう場面を見ずに済むように、保冷庫には落ちないで欲しいですね」
「………わーお。それ、出来ればウィリアムには言わないようにね」
「む?」
「僕、それで甘やかされるんだったら、雑に扱われても今の方がいいかな………」
ノアはどこか怯えたようにそう呟き、ディノやアルテアもどこか慄いたような目をしている。
それは単純に気質とそれに対するこちらの心構えの問題であるので、ネアは何かいけなかっただろうかと首を傾げた。
話題を戻す為に、ヒルドが先を続けてくれる。
「…………保冷庫についてですが、あの、………ちびふわという生き物の属性上、保冷庫の中を確認する雪結晶の覗き窓を透過してしまうようですね」
「…………まぁ。それで、閉まってる筈なのに落ちてしまったのですね?」
「幸い、大きさの問題で下まで落ちずに済んだようで、せめてもの幸いでした。………あの生き物のサイズですと、保冷庫の荷物に紛れてしまうと、落ちた後の捜索で時間を取りそうですからね」
「………扉は閉まっているので開けて貰いにゆき、尚且つ、保冷庫の中の食材の山の中からちびふわを探し出すのは大変そうです。場合によっては、ちびふわが保冷庫に落ちたことに気付かないまま、時間が経ってしまった可能性も………」
ネアはその可能性に気付いて戦慄した。
こちらを見たアルテアも、心なしか顔色が悪い。
ただでさえボラボラで弱っているのに、保冷庫で氷漬けになったまま春まで発見されなかった可能性を知って怖くなってしまったのだろう。
「アルテアさん、ちびふわにもリードをつけましょう!」
「やめろ」
「しかし、また保冷庫に落ちたら危ないので………」
「あちら側の中庭に出なければいいだけだろうが」
「……………そう言えば、そうなのです。なぜ私達は、毎回あちら側の中庭で保冷庫に落ちていたのでしょう………。エーダリア様、今度からは保冷庫のない方のお庭に行きますね」
「前にも言ったが、私がリーエンベルクで領主の任を負ってから、保冷庫に落ちたという事件は一度もなかったのだぞ」
「むむぅ」
最初の被害者であるネアも悲しい気持ちになったが、相次いで落ちた魔物達もさっと目を逸らして遠いところを見ていた。
もしこれでウィリアムも落ちるようなことがあれば、あの保冷庫は呪われているとしか思えない。
「そう言えば、今回のボラボラ事件で私は学んだのですが、願い事に関する魔術は、あらゆる魔術の中でも少し特殊なのですよね?」
ネアのその言葉に一番に反応したのは、ノアだった。
眉を顰めて少し嫌そうに溜め息を吐くと、何か過去の暗い時間を振り返っているような目でグラスを傾ける。
「願い事は、その境界や規則を飛び越えることが資質だからね。特にさ、環境が整っていれば願いが強い方が叶いやすい面もあるものだから、精霊の女の子とか怖いんだよねぇ………」
「ノアは、その願い事で痛い目にあったことがあるのですね………」
「僕自身、そういう魔術の余白を動かすのは得意だよ。そこが、僕とアルテアの違いだね」
それは何だか興味深いところだったので、ネアは身を乗り出した。
エーダリアも気になってしまったのか、座り直して聞く体勢を整えている。
「アルテアは規則のあるものの中から、そんな計算も出来たんだねっていう調整が得意な気がするよ。僕は願い事や呪いみたいな、魔術の特異性を操作して調整をすることが多いかな」
「…………余白を日常的に動かすのは、そもそもお前ぐらいだろ」
「シルも動かすんじゃない?そもそも、元々の権限ではシルが動かせるものの方が多いでしょ」
「私がそういうものを動かすと、動かす面が広くなってしまうんだ。周囲に影響を出し易いから、細やかな調整には向いていないよ」
「だからディノは、いつも細かい調整は苦手だと言うのですね?」
「そうだね。手が大きければより多くのものを動かせるが、細やかな部分を操作するのには小さな手の方がいい。私は、そうやって指先を細くするのが苦手なんだ。ウィリアムもそうではないかな」
「それは、余白………?の部分も同じようなことなのですか?」
「うん、そうだね。…………もしかしたら、私の方がノアよりも遠くにある余白や、隠されたものにも手が伸ばせるかもしれない。けれど、それを取って来ようとすると、広範囲を壊してしまうからあまり望ましくないんだよ」
願い事は余白の魔術なのだそうだ。
本来の規則や順番、効果などを超えた特別なもの。
そんな願い事の魔術の派生や効果などにはまだまだ謎が多く、例えば今回のボラボラが投げてきた願いの糸などは、本来は百年に一度程度しか成就しない特別なものなのだとか。
「となりますと、…………何か条件的に、このリーエンベルクが適しているということなのでしょうか?であれば、警備体制等も見直す必要が出てきそうですね」
「そういうことではないだろう。ボラボラは、元々選択の系譜の中の、願い事に近しい心を動かした魔術の顛末である祟りものだ。幾層にも願いの糸を紡ぐのに適した条件を持っている特殊な生き物だと思うよ」
「僕さ、昨年のボラボラ達が、アルテアを招くことが出来たって自慢したんじゃないかなって思ってる。ボラボラってね、あの趣味からしてもある程度想像つくだろうけど、噂話や自慢話が大好きな生き物らしいからね」
「…………ある程度どころか、全く想像がつきません。謎の毛皮きのこなのです」
「お前の話ぶりだと、………その、今後も願いの糸が紡がれる可能性が高いのではないか?」
「今年も成功した集落があるって噂になれば、来年はもっと狙われるだろうね」
「…………やめろ」
アルテアはそこで、未来への不安にいっぱいになって強いお酒を飲んでしまったようだ。
ネアもとても不安でいっぱいになったので、今年はボラボラの糸避けの魔術開発も、ダリルに相談して提案していこうと思う。
アルテアだけならともかく、今年からネアも貢物を貰うようになってしまったので、うっかり呼び出し対象になっていたら大変ではないか。
「この前の氷竜達は、大丈夫だったのか?」
夜も更けたところで、エーダリアにそんなことを尋ねられた。
エーダリアはネアが悪夢から母親の為に編まれたショールを持ち帰って以降、雪結晶と森の結晶石を使った見事な宝石箱を購入し、その中に保管空間を併設してそこに大事にしまってあるのだとか。
ウィーム王家の指輪も宝物にしてくれているが、そのショールについては何かそういう美しく繊細なものに入れておきたかったのだと言う。
「氷竜さんを、私が暴言で落ち込ませた事件ですね………」
「いや、それはその………個人の問題だからな。本人同士で話し合いが済んでいるのであれば、問題はないだろう。ただ、お前が出会った氷竜の中に、あまりリーエンベルクに住む人間に好意的ではない者達がいたのが気になってな」
そう言われて思い出したのは、統一戦争で家族を失ったという氷竜の騎士達だ。
ネアがうっかり氷竜の力を借りるような言葉を口にしてしまった場面があり、その時の反応はとても冷やかなものだった。
彼等が恐れ、或いは嫌悪しているのは、望まれて力を貸した先で無残に殺されてしまうという理不尽さなのだろう。
「………あの方達は、リーエンベルクやウィームに悪さをしたりはしないのですよね?」
「ああ。そういことはないし、彼等は氷竜の騎士団の中でも特務隊の精鋭達で、自分の領域をよく治めてもいる。ただし、人間や、政治の場に関わる者達などに手を貸すことについては、否定的な一族だな」
「ふむ。そういう状況であれば、あの方達はあれで良いのではないでしょうか。大事な方を奪われて寂しい思いをすれば、多くのものを怖いと思うようになるでしょう。いずれ、リーシュさんのように戦争を知らない時代の方が増えれば、或いはあの方達の戦争の怖い記憶が少しでも和らぎ、もしくはそんな心の傷を乗り越えてでも守りたいものが出来れば、また何かが変わると思うのです。隊長さんは穏やかそうな方でしたし」
ネアがそう言えば、ヒルドが淡く苦笑した。
今夜は少し寛いだ服装をしており、ヒルドも明日は休暇なのだった。
ボラボラは特殊な祟りものなので、ボラボラの祭りの日のピークを超えるとさっと数を減らしてくれるし、元々その被害の幅が限られている。
悪夢の時や、クッキー祭りの時ほどに翌日まで被害を持ち越さないので、今年の対処はダリル達のチームが受け持った。
グラストとゼノーシュも、騎士達と共にリーエンベルクの警戒にはあたるが、今夜からは通常任務とさしたる違いはない。
とは言え明日も仕事なので、残念ながら今夜の打ち上げは、その二人は欠席していた。
こちらだけ峠を越えた緩み方で申し訳なく思ったネアがしゅんとしてると、その代わりにクッキー祭りの時にはネア達のチームが活躍するので助かったと、グラストは微笑んで言ってくれている。
「ベージは、排他的な竜ですよ。あの通り物腰は柔らかいのですが、氷竜らしく冷徹な部分もあります。ネア様のことは気に入っておられるので問題ないでしょうが、対外的に言えば難しい竜ではありますね」
「…………まぁ、………そんな方を挙動不審にするくらいに傷付けてしまったのであれば、荒ぶることがなくて運が良かったです…………。なお、先程のエーダリア様の説明で、判明したのですが、特務隊の隊長さんなのですね?」
「今回は、騎士団の団長としてではなく特務隊の代表としての訪問でしたからね。騎士団としての訪問となれば、それは氷竜にとって公式訪問の性質が強くなり過ぎるということなのでしょう」
「それにしても、そんな凄い方があんな風に…………」
ネアはここで、野生動物の力関係について考えた。
とうてい許されることではないが、最初に暴言という形でベージを傷付けてしまったのがネアであったことから、あのように彼の方が怯える側になってしまったのだろうか。
(とは言え、怯えさせてしまったから、仲良くなる見込みは失われた訳なのだけれど………)
「………そう言えば、なぜにこちらの世界では騎乗しない方々も、騎士さんと呼ばれるのですか?」
ふと、そんなことが気になってネアは尋ねてみた。
リーエンベルクの騎士達は馬に騎乗することもあるので、騎士という呼び名が定着しているのは良く分る。
だが、氷竜の騎士達はそもそも何かに騎乗するようには思えなかった。
自身が竜なのだから、そちらの姿に戻って飛んでゆけばいいのだ。
そんな疑問で投げかけた質問に、エーダリアは、微かに上気した頬以外には酔いの気配のない表情で生真面目に頷いた。
「そう思うのも不思議はない。私にもよく分らないが、古い魔術の言葉なのだ。妖精は妖精馬がいるので騎士という肩書があるが、竜族のそれぞれの系譜の魔術を強く持つ者達は、魔術の流れに乗ることを、騎乗として捉えるそうだ」
「まぁ。では、お馬さんに乗らないけれど、騎士で良いのですね」
「実際に、系譜の竜馬に乗る一族もいるにはいるようだ。だが、ほとんどの者達は竜としての姿で移動する際に羽ばたくことを、魔術に騎乗するという認識でいるようだな。隊列を組んで軍務にあたる者達を、騎士として認識するようなのだが………」
「光竜には騎士がいたからね。その名残りなのかもしれないよ」
そう教えてくれたのはディノで、エーダリアはまたしても興味をそそる話が出てきたからか、ぱっと目を輝かせてそちらを向いている。
このような何でもない飲み会の席のお喋りではあるが、魔術師でもあるエーダリアからすれば、高位の人外者達のみぞ知るような面白い話ばかりで幸せなのだろう。
「光竜は、人型で生活する時間の方が多かった種族で、人間の王政などの基盤を作ったとも言われている。もっとも、精霊や魔物にも国を持つ者もいるから、どこからその仕組みを人間や妖精達が学んだのかは、実際のところは分らないけれどね。ただ、人型で生活する時間が多かった為に、移動の際には、現在の人型を持たない竜達の始祖であった竜馬を使っていたそうだよ」
「移動の際にも、光竜さん達は竜の姿にならなかったのですね?」
「光竜は信仰の対象にもなっていたからね。当時は竜種もまだ幼い種族であったから、粗暴な者達や浅慮な者達も多かった。光竜としての姿を晒して混乱を招くことを警戒していたようだ」
(きっと、光竜さんは、種族の平均的な性質としては、良い竜だったのだろう)
そんな気もしたが、彼等を滅ぼしたヒルド達の一族も決して考えなしに残虐な行為を好んだようではない。
人間達の繰り広げる戦争と同じように、そして変遷してゆく世界の仕組みも、複雑で厄介なものに違いない。
失われてしまったものがあり、長らく生き続けるしかないものもあり。
この世界は複雑で不可思議で、彩り深い。
ネアのような短命のちっぽけな生き物がそんな長い時間の織りについて考えることが出来るのは、この世界のそんな不思議に触れることが出来たからこその恩寵だ。
「ネア、そう言えば今日は爪先を踏まないね」
「………………ほわ、なぜなのだ」
「今日は怖い思いをしたのだから、いくらでも踏んで構わないよ」
「解せぬ」
しかし、こちらを見ている魔物の眼差しがほんとうに心配そうなので、ネアは内心小さく暖かな微笑みを噛み殺した。
多分、ネアが考え事をしていた間の表情か何かが気になり、ご主人様を慰めようとしてくれたのだろう。
「では、今日は腕が疲れるのも厭わず、私をずっと持ち上げてくれていたディノにご褒美を差し上げますね」
そう言えば、ディノは嬉しそうに目元を染めてもじもじしながら爪先を差し出してくれた。
ネアがぎゅっと踏んでやると、幸せそうな微笑みを深くして膝の上に三つ編みも投げ込んでくる。
どうして自分の婚約者はこんなに謎めいているのだろうと思わないでもなかったが、幸いにも今のネアには、世界の不思議について思いを馳せられるゆとりがあった。
パンの魔物やボラボラが伴侶でなかっただけ、とても一般的なお相手だと思うことにしよう。
その時、ぼすんという音がしてネアはそちらを振り返った。
アルテアと話をしていたノアが、何かおかしなものをテーブルの上に出現させたのだ。
艶々とした薄緑の上等な陶器の壺のようなもので、胴回りにぐるりと一周、ティーポットのような注ぎ口が十二個あり、どこか異国風のものだ。
一度割れて金継ぎで直したのか、ひび割れ模様の葉っぱを模した金の装飾があった。
「………ノアベルト、それは何なのだ?」
「エーダリアもやるかい?運試しの酒瓶だよ。ネアの持っている夜の盃に少しだけ似ていて、色々なものを取り寄せるんだ。ただし、運試しの要素も含んでいるから、自分で飲みたいものを選べないんだよね。この上なくまずい酒にあたるかもしれない」
「…………そんな道具があるのか!」
運試しの要素の危険性は頭からすっぽ抜けてしまったのか、エーダリアは初めて見る不思議な道具に目を輝かせている。
ヒルドがどこか遠い目をして溜め息を吐いていたが、止めようとはしていないようだ。
「ヒルドさん、事故の匂いがします………」
「まぁ、明日は休日ですしね。この状況下での事故であれば、大事には至らないでしょう。お一人で羽目を外される方が問題ですから」
「………古本市とは違いますか?」
「ええ。ネイが危険視してくれて助かりました。同行者がいればまだ何とか。………本当は行かずにいただくのが一番なのですが、エーダリア様は元々他に趣味を持たないのが難しいところでして………」
「確かに、本の蒐集を封じられたら、エーダリア様は無趣味な大人になってしまいます。心が窮屈にならないよう、息抜きも必要なのかもしれません…………」
ネアの言葉に、ヒルドはどこか子煩悩な父親のような複雑であたたかな微笑みを浮かべる。
そのふくよかさにネアも微笑み、一杯目でとびきり苦いお酒に当ったノアの方を振り返った。
この世にコルヘムがある以上、やっているのはかなり危うい運試しだが、わいわいしていて楽しそうでもある。
「うむ。エーダリア様が飲むお酒の注ぎ口を、私が選んで差し上げましょう!」
この運試しは、選んだ注ぎ口にグラスをあてると、そのグラスを持つ人物の様々な魂の要素によって、酒瓶が選んでくれたお酒が出てくるという仕組みのようだ。
魂の要素は刻々とその状態を変えてゆくこともあり、一分前に良いお酒が出てきたからといって、次も美味しいお酒が飲めるとは限らない。
「ネア、お前の場合は、アルテアのものを選んでやったらどうなのだ?」
「むむ。確かにそう思えば、使い魔さんのものを私が選ぶのも真理。では、選んで差し上げましょう!」
「おいやめろ、勝手にグラスを動かすな!」
「わーお、ネアは情熱的だねぇ」
ネアも既にお酒が入っていたことで悪乗りしてしまい、強引にアルテアがグラスを持つ手をとある注ぎ口にあてがってやった。
するとその注ぎ口からは、得体の知れないどす黒い液体がこぽこぽと出てくるではないか。
「……………これは何でしょう?ヘドロ?」
「おい、………責任を取ってお前が飲めよ?」
「アルテアさんのものではないですか。責任転嫁してはいけませんよ!」
「………これは、飲み物なのかな?」
「僕も、これは初めて見るなぁ。でもさ、アルテアは食通だからこういうのも試してみるといいよ」
「そうだな、ノアベルトの注ぎ口も選んでやれ」
「むむ。ご依頼とあれば頑張ります!」
「……………え、僕君のことは好きだけど、今回は辞退しようかな。………ありゃ」
そこでネアに注ぎ口を選ばれてしまったノアは、グラスの中にこぽこぽと注がれたお酒を見て固まった。
澄んだ水のように透明な液体なのだが、明らかにおかしい何かの足的なものが入っている。
「シル、…………これは何だろう?」
すっかり怯えてしまったノアにそう尋ねられ、ディノは悲しげに首を振った。
「私も見たことがない生き物の足だね。…………それも飲むのかな」
「それは、出汁を取る為だけのものなので、別にいいのではないでしょうか?」
「…………うん。これは残そうかな」
ネアが顔を上げると、すっかり警戒してしまったエーダリアが、自分の分はヒルドに選んで貰うと言い張り、新しいお酒を注いでいるところだった。
そちらには綺麗な薄青色の液体が注がれていて、ふわりと桃のようないい香りがする。
「僕も飲むから、アルテアも飲むんだよ。逃げたら男らしくないからね。そもそも倒れた方が負けだからさ」
「…………お前は普通の液体だろうが。こっちは、ほとんど泥だぞ?!」
アルテアは最後まで抵抗していたが、ノアも頑張って足入りのお酒を飲み干してしまったので、渋々そのヘドロを飲み干すことになった。
どこか色めいた苦痛の顔でそのグラスの中身を飲み干し、アルテアはそのままばたんと椅子から落ちて床に転がる。
「ほわ、死んでしまいました……………」
「ってことは、賭けは僕の勝ちだね。アルテアが、ネア達の隣の部屋に住むのはなし!」
「やれやれ、何を熱くなっているのかと思えば、それを賭けていたのですね………」
「僕の部屋が廊下の端なのに、アルテアだけ隣なんて理不尽だからね。………エーダリア?」
「いや、アルテアのこの酒がどんなものなのか、グラスに残った成分を分析してみたいと思ってな………」
「だとしても、……………っ、」
その直後、足が入っていたにせよお酒自体は案外美味しかったと話していたノアも、きゅっとなって床に崩れ落ちてしまった。
「ご主人様…………」
「むむ。私がお二人を殺してしまった訳ではありませんよ?」
すっかり怯えたディノがあわあわと自分のグラスを隠すのを見ながら、ネアはぎりぎりと眉を寄せる。
ヒルドは、なぜただの飲み会で毎回意識不明者が出てしまうのでしょうねと、清廉な微笑で冷やかに床に伸びた魔物達を見下ろしていた。
「私のせいではありません!」
ディノにまで怯えられたネアは慌てて自らの潔白を証明するべく、自分のグラスを注ぎ口にあてがった。
しかし、焦った人間がその壺から出したものが一体何を引き起こしたのか、その夜のことが語られることはなかったという。