231. ボラボラは避けられません(本編)
とうとう、ボラボラの祭りの日になった。
いや、なってしまったというのが正しいだろう。
ネアの目は朝から虚ろで、隣に座ったアルテアも顔色が冴えない。
(自分の椅子を持ち出しているくらいに、警戒している………)
アルテアが座っているのは、久しく見かけなくなっていた自前の椅子だ。
これに座って独自領域を魔術で構築しているのだから、どれだけボラボラを警戒しているのか分るというものだろう。
既に窓の向こうの通りには毛皮エリンギが溢れ出しており、そこには毛皮人形に入ってボラボラをやり過ごしている領民達も含まれる。
そんな毛皮の波が時折申し合わせたように舞い踊るのは、ボラボラが獲物を見付けたときの歓喜の舞の儀式なのだそうだ。
それをやると、周辺には獲物がいないのだとボラボラが思うので、あえて人間がそれを主導すれば、集まってきたボラボラを退けることが出来るらしい。
ボラボラに扮した領民達は時折その動きを模倣して、密度を高めてきたボラボラ達を退けているのだそうだ。
「ネアは、今年はもう外に出ないんだよね?」
「はい。ゼノとグラストさんは外でお仕事なので、どうか気を付けて下さいね」
「うん。僕は大丈夫。グラストも大人だから心配ないよ」
「むぐぅ」
「ネアは、また釣られちゃわないように、糸が落ちてても触ったら駄目だからね」
「ふぁい……………」
昨年の事故の教訓を生かし、ネアは本日を代休としている。
屋内で魔物の薬を作る作業はしているので、エーダリアはそれで充分だと言ってくれていたのだが、万が一のことがあっても出動が難しいので、けじめをつけるべく溜まっている代休を使わせて貰うことにしたのだ。
そうさせて貰ったのにはもう一つ理由があって、ネア達が屋内待機で事故らずにいれば、ノアは安心してエーダリアの護衛が出来る。
ボラボラの集落にまで侵入出来る頼もしいノアだが、体は一つしかないので是非にエーダリアについていて貰おう。
(外に出なければいいのだ!)
そんな自分の安全策に満足げに紅茶を飲んでいると、窓の向こうから何やら暴れているボラボラの声が聞こえてきた。
ぞっとして窓の方に歩いてゆけば、リーエンベルクの前に続く並木道のところで、小さな毛皮人形が呆然と立ち尽くしている。
その横では地面に転がったボラボラが暴れていて、子供の毛皮人形と手を繋いだ親御さんらしき毛皮人形は怒りを滲ませてそんなボラボラを蹴りどかしている。
「……………可哀想に。あのボラボラめなど、精霊さんに差し上げてしまえばいいのだ」
「ご主人様…………」
昨年の恨みを思い出し、ネアの声は低く冷たくなる。
その声にすっかり怯えてしまったのか、魔物が安心させるようにへばりついてくれた。
後ろから抱き締めてくれたディノの腕にしっかり掴まり、ネアは安全な腕の中でほっと息を吐いた。
査定の為に並ばれた時のやるせない気持ちを思えば、ああして転がられてしまった子供の苦痛はどれ程だろう。
どうか、あの子供に既に婚約者がいることを祈るばかりだ。
「アルテアさんの権限で、あの儀式をやめさせることは出来ないのでしょうか?」
「やめろ。二度と関わらないぞ」
「むむぅ。系譜の偉い方なのに、管理を怠っています」
「俺の知ったことじゃないな」
今日のアルテアは、チョコレート色のスリーピース姿で、自前の椅子に座って何やら小難しそうな資料を並べ、手帳も出してお仕事中のようだ。
そこまで排他的なお仕事モードのくせに、こうして共有の部屋に一緒にいるあたり、どれだけ大きな不安を抱えているのかが分ってしまう切ない光景だ。
ネアは、ちびふわ姿なら抱っこしていてあげるのにと思ったが、あの小さな姿でいるのも不安なのだろうか。
「ディノ、そろそろ私達はお部屋でお薬を作らなければなのですが………」
「…………アルテアはこのままでいいのかな」
「…………アルテアさん的には、我々もここでお仕事をしていた方がいいですか?」
「ここにいろ。どうせお前は、目を離すと事故るからな」
「………………目を逸らしながら言われてもなのです。……ディノ、今日はここでのお仕事でもいいですか?」
「君が構わないなら、私は問題ないよ」
ネアは素直ではない使い魔の姿に苦笑し、ディノに、今日は特別にこの共有のお部屋で薬作りをお願いした。
まずはテーブルの角にディノと向き合って座れるようなスペースを作ろうとしたのだが、ディノはせっかくこういう部屋で作るのだからと、なぜかおもむろに椅子になってしまう。
「なぬ。なぜにディノを椅子にしながらのお仕事なのでしょう。ディノだって、前がよく見えないのでは………」
「今日は危ないから、こうしておいた方がいいだろう?前は見えるから安心していいよ」
「しかし、…………むぐ…………特別にこのままの体勢を許可します」
ネアは仕事中なので良くないと叱ろうとしたのだが、ちょうど窓の向こうの毛皮の奔流が舞い踊っているのが見えてしまい、背筋がぞわっとしたのでこのままの特別体勢で挑むことにした。
不本意ではあるが、安全の為なのでやむを得ない。
これは正当な職環境への主張である。
「ではまずは、一般的な傷薬からです。先日シュタルトの近くに祟りものが出てしまい、その討伐で使ってしまった分を補充したいのだそうです」
「あちらで出た祟りものは、少し困ったものだったようだね」
「ええ、川に流されていった紙容器の精が祟ったそうで、水源地を汚しかねない困ったやつめに、騎士さん達は非常に苦戦したのだとか」
「………あの形状で祟ると、確かに厄介そうだ」
「臭くてへどろ状の巨大生物を相手に、みなさんは涙と吐き気を堪えて頑張って戦ったそうです………。最前線で戦っておられた方は心をやられてしまい、翌日はお休みを取られたそうですよ」
その悲しい事件は、紙容器の精が溢れる星祭り後の運用を見直すきっかけになりそうだ。
川に流されたことで貴重な観光の時間を損なわれたとし、紙容器の精は酷く荒ぶったのである。
なので、紙容器の精が派生するのは致し方ないとしても、決してその後の彼等を荒ぶらせないようにする運用が求められている。
リーエンベルクなどから掃き出してしまっても荒れ狂うことはないので、どこかに彼等なりの許せないことの線引きがあるのだろう。
「傷薬は、五本くらいでいいかい?」
「なぬ。もう五本も出来上がっています。ディノはやはり、とても凄い魔物なのですね!」
「ご主人様………」
椅子になった魔物をよしよしと撫でてやれば、はしゃいだ魔物は更に傷薬をぽこぽこと三本足してくれた。
そこから、特殊な洗浄液になる、呪いうがい用の薬を二本、そして切り傷から毒を抽出する為の採取用の薬を一本作成し、本日分のお仕事は完了となる。
その間に何度もご主人様に褒めて貰えたり撫でて貰えたりするので、ディノはこの薬作りの仕事が結構好きなようだった。
もう少し仕事の対価として撫でて欲しい時などは、何か理由をつけて自発的に珍しい薬を提供してくれることもあり、普段の生活の中で撫でて貰うことの喜びとは切り離して考えているらしい。
「ディノは、薬を作って褒めて貰うのが好きなのですね?」
「そうだね。これは、君が私の能力を評価してくれてのことなのだろう?いつものものとは少し違うような気がするからね」
「むむぅ。そうなると、能力への評価で行う
愛情や仲良しのなでなでは確かに違うような…………ディノ?」
「……………愛情」
また少し刺激が強い単語だったものか、ディノはへなへなとなってしまい目元を染めて震えていた。
眉を顰めてアルテアが怪訝そうにこちらを見ているが、この魔物はいつもこのくらいのことで弱ってしまうのだ。
「……………お前らは、毎日こんなことをやってるのか」
「あら、外の見回りをしたり、悪いやつを滅ぼす系のお仕事もありますよ?薬作りの時はこんな感じですが、時々お時間が空くと、興味深々のエーダリア様が観覧に来たりします」
「あいつもろくでもない物を見付けてくるからな。あまり事故らせないようにしろ」
「昨日、アクス商会の外商さんがいらっしゃって下さって、アルテアさんお勧めの、特殊な本棚のカタログを見せて下さったそうです。エーダリア様は大喜びで、執務室用の小さなものと、ご自身のお部屋の隣にある書斎用の大きなものを注文したのだとか」
「ああ、分けろと言っておいた。専門書庫を使おうが、そこから持ち出して事故るようでは意味がないからな」
「そんな素敵な書棚が明後日には届くので、今度特別な古本市に遊びに行くそうです。とても危険なところらしく、今迄はお一人でお忍びで出掛けていたことを知ったノアが、すっかり落ち込んでしまっていました」
「……………危険な古本市?………まさか、リドフェルか?」
「むむ!そんなお名前でした。怖いところなのですか?」
ネアがそう尋ねると、視線の先のアルテアは若干青ざめているようだ。
その会話が出た時にはご主人様の膝の上でムグリスな感じですやすや眠っていたディノも、あらためてその事実を知り、驚いたように体を揺らしている。
「あわいの中にある彷徨う書籍市だ。…………滅多に人間が迷い込むことはないが、意図的に訪れるとしたらかなりの精密な術式が必要になるな。死者や影絵の中の者達が本を持ち込むこともあるから、ウィリアムの領域としての要素も強い………」
考え込むようにしながら教えてくれたアルテアに、ネアは上司の肩書きを久し振りにきちんと思い出した。
「…………良く考えたら、エーダリア様はガレンの一番偉い人なのです。趣味過ぎるので勿論努力に相当するものも望んでなさっていますが、所謂天才なのだとダリルさんが仰っていました」
「行けるだけならともかく、無事に帰って来ているのが凄い事だね。そのような場所は座標が常に動いているものだから、帰り道は、その場で道を構築しなければいけない筈だよ」
「エーダリア様が凄いのです!何だか近頃は親しみ易さばかりを実感していましたが、すっかり見直してしまいました」
「おい、二度と一人で行かせるなよ。今まで無事だったのが奇跡みたいなものだぞ…………」
「ノアがすっかり怯えてしまって、自分が同伴しない時には二度と行かないで欲しいと説得していたので、もう大丈夫なのではないでしょうか?因みにヒルドさんは、その事実を知って、昨晩はかなり強いお酒を飲まれたようです………」
「無理もないな……………」
うんざりした顔でそう頷いたアルテアは、最近、エーダリアとノアの関係を興味深く思っているようだ。
ノアがリーエンベルクに頻繁に出没するのは、エーダリアを気に入って契約したからだと認識しているらしく、あの塩の魔物がそんな風に一介の人間を気に入るものなのかと驚いている。
実際には、ノアがリーエンベルクに部屋を貰ったという事が先にあり、一緒に暮らしていたからこそ芽生えた友情なのだが、残念ながらアルテアはまだその事実を知らない。
というか、銀狐がノアであるという事実に、未だに気付いていないのだ。
いつか、良心の呵責に耐えきれなくなった時に自分で告白するからとノアは言っているが、果たしてそれがいつになり、その時にアルテアはどうなってしまうのか、ネアは今から少し心配している。
あまりにも落ち込むようだったら、ディノと一緒に慰安旅行にでも連れて行ってやろう。
「さて、お仕事はこれでおしまいですので、後は、ボラボラのことなど忘れて、今度のお休みの日の予定を立てましょうか?」
「湖水のメゾンで昼食にした後の事だね?」
「あちらには、特殊な氷と雪の美術館があるそうですよ!ゼノが教えてくれました」
「…………フェックイムの回廊だね。あの場所であれば、元々はノアベルトの領域だ。危険もないし、安心して君を連れていけるね」
「なぬ、それなら是非に見てみたいです!あの、しゅばっと滑る滑り台で地下に入るのですよね?」
「統一戦争時に、ウィームの資産を一時的に避難させた場所だったそうだ。多くのものはすぐに没収されてしまったけれど、そこに隠されたものに気付いたノアベルトが回廊を閉じたことで、奥にあったものは守られた。リーエンベルクの物はないそうだけれど、どれも古いウィームのものだから、君が見ても面白いかもしれない」
「絵の中で、ずっとくぴくぴ寝言を言いながら眠っている狸がいるそうなのです!」
「…………狸。…………絵なのかな」
「絵のようなのですが、寝言が可愛いらしいですよ。その絵がとても見たくて、是非に行ってみたいのです」
「絵なんだね…………」
またしても少し困惑してしまった魔物に、ネアはぴょいっとその膝の上から飛び降りた。
お部屋にある、週末旅行用にゼノーシュから借りてきたシュタルトのお店のカタログなどを取りに行こうとしたのだ。
そしてそこで、妙なものを発見しておやっと目を凝らした。
「ディノ、抜け毛がひっかかっていますよ。…は!………これは!!!」
白っぽい糸のようなものが見えたので、ネアは最初、ディノの抜け毛だと思った。
意図しないところで抜け落ちると危険なので取ってやろうとしたが、すぐに違うものだと気付いたのだ。
ネアが慌ててディノに飛びつくのと、振り返ろうとしたディノが何か大きな力にぎゅんと引っ張られたのは、ほぼ同時のことだった。
大事な魔物を守ろうとしたネアは、自身の行いでうっかり墓穴を掘ってしまう。
そう言えば、前回も屋内から攫われたのではと思い出した時にはもう遅い。
「ネア?!」
「むぎゃ?!私だけすっぽ抜けて……!!」
ディノは、さらりとその場でかけられた糸を千切って払えたのだが、大事な魔物が連れ去られると思って慌てて取り縋ったネアが、その輪っかの残骸に足をひっかけられてしまった。
慌てたディノが捕まえようとしてくれたのだが、足首に糸が絡まったネアがずべんと床に一度倒れたので、結果その腕をすり抜けてしまう。
しかし、従来ならここでネアだけどこかに攫われてしまうところなのだが、今回はディノがすぐに魔術の縄のようなもので繋いでくれたし、ネアが一瞬だけ魔物の足を掴んだ瞬間を逃さず、すぐさまそのネアの手を掴んでくれた。
足にも強い圧迫を感じたので、うつぶせのままどこかへ引き摺られて連れ去られそうになったネアを、他の誰かも足を掴んで捕まえてくれようとしたようだ。
「…………ほわ、危ないところでした。…………なぬ」
今回は切り抜けられたようだぞと、よれよれになりながら立ち上がり、額の汗を男前に拭ったネアは愕然とする。
恐ろしいことにそこはもう、リーエンベルクの先程までいた部屋ではない。
いつの間にか、見知らぬ謎空間に連れ込まれているではないか。
同じような手触りの絨毯に倒れ伏していたのにと思ってはっとして視線を下げると、足下の絨毯はリーエンベルクの深い青色のそれから、可愛らしい花柄のピンク色に変わっている。
断じてリーエンベルクの中には見かけない絨毯なのだが、果たしてここはどこなのだろう。
だが、一瞬で変わってしまった周囲の風景にぞっとしたとは言え、幸いにも今回の拉致は一人きりではなかった。
「どこも痛めていないね?」
「……………ふぁい」
ネアの手を掴んで立たせてくれた魔物を見上げると、なぜこの引き落としを止められなかったのだろうと若干呆然としているものの、微笑んでネアの頭を撫でてくれる。
その姿を見てほっとしたネアが息を吐くと、ディノは心配そうにネアを腕の中に収めた。
「怖い思いをしてしまったね。………大丈夫かい?」
「ディノが一緒にいることに、心から感謝していました。なお、べたんと転倒した際に鼻がへしゃげそうなところでしたが、咄嗟に手を突けたのでお顔は無事です!」
「……………くそ、シルハーンがいるなら、俺まで巻き込まれる必要はなかっただろうが」
「む。足を押さえてくれた使い魔さんです。アルテアさん、ボラボラが苦手なのに、すぐに助けようとしてくれて有難うございました」
「お前が連れ去られたら、結局俺も巻き添えだからな…………」
残念なことに、あれだけボラボラを避けていた筈のアルテアも、咄嗟にネアの足を押さえて拉致を阻止しようとしてくれたことで、ここに一緒に連れ込まれてしまったようだ。
赤い三角屋根のお家とその周囲のお花畑を表現した絨毯を見下ろし、何とも言えない顔で深い溜息を吐いている。
「…………前回とは違い、誰もいませんね」
三人が呼び落とされたのは、がらんとした石造りの部屋だった。
天井が高い八角形のような不思議な形をした空間になっていて、遥か上の方の柱組みの上から微かな陽光が射しこんでいる。
シャンデリアのような照明は滴型の擦り硝子の鉢の中に魔術の火を燃やしているのか、ぼんやりとした淡く優しい光で部屋を照らしていた。
部屋の中には大きな木彫りのテーブルがあり、どっしりとしたテーブルの脚にはお花や兎などが可愛らしく細工された素晴らしいものだ。
その上には果物の乗せた素焼きの大きなお皿と、水差しのようなものと水晶のコップ、そして、チューリップやマーガレットなどの可憐な花をたっぷりと生けた大きな花瓶がある。
歩いてみると絨毯の下は石床であるらしく、鈍く硬い靴音がして、そのくぐもった音が高い天井に響く。
砂色のすべすべした石造りの部屋には窓はないが、扉の向こうから光が漏れているくらいなので監禁された訳ではなさそうだ。
びゅおっと風の音がするので、風の強い土地なので窓がないのだろうかと思い、ネアはボラボラには色々な国や集落があることを思い出した。
ここはどうやら、砂の匂いのする風の強い乾いた土地のようだ。
「今回も、かけられたのは願いの輪のようだね。………私の権限でも、幾つか排除出来ない魔術がある。今回の引き落としを防げなかったのは、召喚の願いを紡いだものだからだろうか」
「ディノは、そういうものには介入出来ないのですか?」
「魔術の理やそれに紐付く呪いや祝福もそうだけれど、世界に敷かれた魔術の理の中に、誰にも介入出来ないものの一つとして、願いの成就魔術があるんだ。もしかしたらこれは、そういうものなのかもしれないね」
「…………恐るべし、ボラボラ」
「………だが、この建物は何なのだろう。誰かが暮らしていた気配はないけれど、住処として用意されたもののようだ」
「あちら側にあるのは、見慣れない形ですが寝台でしょうか?」
「そのようだね…………」
壁際の木の棚には、可愛い木のお人形が収められている。
くるみ割り人形にも似ているが、特に何かの為に使うものではなく、これは民族衣装を着た男女の観賞用の人形であるようだ。
よく旅先などに売っていそうなもので、その隣に置いてあるのは誰かの手作りらしいボラボラ陶器人形である。
これについては、ずらりと二十個くらい並んでいるので、たいへん恐ろしい。
「…………呼び出した者を、ここに住まわせようとしているのかもしれないね」
「おい、気付かれないように扉の外を見て来い」
「なぬ。なぜに私に言うのだ。ここは立派な男性として、アルテアさんが覗いて来て下さい」
「アルテアが見てくるそうだから、君は動かないようにね」
「はい!」
「何でだよ」
アルテアはかなり不服そうだったが、かといって外を確認しないのも不安だったのだろう。
心底嫌そうに扉の方まで歩いてゆくと、換気の為かお掃除の為か、下の方に細く隙間がある木の扉をがちゃりと開き、そのまま無言でぱたりと閉じた。
(……………今、何かざわめきのようなものが聞こえたような)
「…………外は何もない」
「嘘です…………。確実に今、アルテアさんが外を見た瞬間に、ムフゥというボラボラ達の声が聞こえました」
「気になるなら自分で見てくればいいだろう」
「現実を受け入れたくない系の魔物さんになってしまいましたね。……ディノ、どうしましょうか?」
「ここからは転移で帰れないようだ。恐らく、魔術的に出口としての条件設定がされているのだろう。転移でここを脱出するにしても、一度扉の外に出る必要がありそうだね」
「あいつ等の魔術の道だった場合は、特定の出口からしか出られないぞ。この前の時もそうだったからな」
「……………そうなのだね。やれやれ、私もボラボラの巣に落とされたのは初めてだ」
ネアは、羽織ものになってくれている頼もしい魔物が、困惑したように綺麗な瞳を揺らしたことに気付いた。
これは紙容器の精やパンの魔物を見た時の反応と同じなので、ディノの中で、ボラボラも良く分らない何だかもやもやする生き物に分類されてしまったようだ。
視線が部屋の壁の上の方を見ているのでそちらを見上げると、校長室の歴代校長のように額入りのボラボラの絵がずらりと並んでいる。
思った以上に個体差があるのか、全て違うボラボラだと分るのが凄い。
「……………心が不安定になるので、早くお家に帰りたいです」
「そうだね。ここは早く出よう。アルテアが交渉するまでは、君は私から離れてはいけないよ?」
「ふぁい。…………アルテアさんが系譜の上位の方で一安心ですね」
「やめろ」
「まぁ、駄々を捏ねてもどうにもなりませんよ?私とて、本来はアルテアさんをボラボラから遠ざけてあげたいところですが、こういう状況になった以上はアルテアさんの交渉が不可欠………怖っ!!」
ネアがぎゃっとなったのは、中々出てこないアルテア様に焦れたものか、扉を薄く開き、たくさんのボラボラ達がその隙間からこちらをじーっと覗いていたからだ。
震え上がったネアはディノの腕の中にめり込み、必死に三つ編みを掴む。
ディノも怯えてしまったのか、震える手でぎゅっとネアを抱き締めてくれた。
「ムホムホムホッ!」
「ムフゥ!!」
「ムフォウ………」
アルテアがそちらを見た途端、ボラボラ達は大騒ぎを始めた。
大勢で扉に押し寄せていたからか、ばたんと扉が開いて雪崩落ちてきてしまい、そのまま部屋の入口に大量のボラボラが積み重なる。
ネア達が一言も発せずにいる内に、体を起こしたボラボラ達は、仲間を踏み潰しているのも気にせずに、一斉にアルテアを崇め始める。
ネアはディノと固く抱き合ったまま呆然とし、微動だにしないでその光景を見ているアルテアの孤独な背中を見ていた。
「…………話が分かる奴はいないのか?攫ってきた子供か何かいるだろう」
今回は頑張って交渉するしかないと諦めたのか、ややあってアルテアがそう言葉を発すると、喋ってくれたということでまたしてもボラボラ達は大騒ぎする。
だが、大騒ぎするだけではなく、さっと外に駆けだしていったボラボラが一匹いるので、奇跡的にアルテアの要求が通じ、通訳を呼びに行ってくれたのだろうか。
「ムフゥ!!」
ややあって、大勢のボラボラの崇め奉る的な儀式が終わらない内に、一匹のボラボラがこちらに駆け込んで来た。
その腕には一人の少女が抱えられており、その子供はこちらを見て驚いたように目を丸くする。
「…………あなたは、精霊?」
その少女は、黒髪に砂色の瞳をした、たいそう美しい少女だった。
ネアの前の世界の感覚で言えば、十歳程度に見えるもののこちらの世界での実年齢は分らない。
ましてやボラボラは魔術可動域の高い子供を選ぶので、この子供は成長して見えているだけでもっと幼いのかもしれないなと思いながら見ていると、少女は正面に立ったアルテアを見上げ、大きな瞳に子供らしい好奇心と感嘆の色を浮かべる。
「おい、そいつらの言葉が分るなら、さっさとここから出せと伝えろ」
「…………あなたは、精霊じゃないの?」
慎重な問いかけに、ネアは大切な質問なのだろうと思った。
万が一ネア達が精霊だった場合、ここにいるボラボラ達はもれなくお鍋にされてしまう。
その場合、望むとも望まざるとも、ボラボラに庇護されている子供達も怖い思いをするのだろう。
「…………俺が、精霊に見えるか?」
「精霊じゃないなら、あなたもここに住めばいいと思う。………あなたはとても綺麗で素敵だし、大人がいるとみんな喜ぶもの」
そう呟いた少女の喋り方は、どこか大人びていた。
疲れたような悲しげな目をしており、その眼差しがこの少女の美しさをいっそうに際立てている。
肌はすべすべで陶器のようなので、ネアは何て綺麗な子なのだろうとついついじっと見てしまった。
けれどもその美少女ぶりは気にならないのか、返すアルテアの声は限りなく冷ややかだ。
「ここに?冗談じゃない」
「せっかく綺麗なひとが来たのに、帰っちゃうなんて勿体ない。ねぇ、私のお母さんを知ってる?外はどうなったのかしら。あなたがこのお家が気に入らないのなら、私達の家に一緒に住みましょうよ!」
「…………話にならないな」
(ああ、この子は攫われてきた子供なんだわ)
ネアは子供の言葉からそのことに得心がゆき、目の前の少女に、こっそり帰るお家があるのかを尋ねてやりたくなる。
世知辛い事情だが、生態系にも関わるので安易にここにいる全ての子供達を助けるのは無理だろうが、いざとなれば、目の前の一人の少女くらいさっと奪い取って逃がしてやることは出来るような気がする。
しかしその時、少女は思わぬ行動に出た。
自分を抱えたボラボラに何かを話しかけ、アルテアの方を見て満足げに微笑む。
幼い表情のどこかに大人の女性めいた危うい鋭さがあり、ネアはひやりとする。
(もしかしてこの子は、…………あまり良くないことを言ったのではないだろうか)
その少女から何かを聞いた途端、なぜかボラボラ達がまたアルテアをいっせいに崇め始めてしまったので、暫く部屋の中はムフゥと鳴くボラボラの声が反響して大変なことになった。
「奥の二人はいらないわ。べったりしてて、気持ち悪い。…………でもあなたは、綺麗だし、……………気に入っちゃった。ずっとここで暮らしたいって言ってるってこいつらに言っておいたから」
そして、微笑んだ少女は、そんなことをアルテアに言ったのだ。
「なぬ………」
どうやら今回は、通訳さんの人選が事故ったようだと、ネアは魔物の腕の中でぎりぎりと眉を寄せた。
アルテアは、目の前の少女にすっかり気に入られてしまったらしい。
(………これは、帰るのにもめそうな感じに)
そう考えてぐったりしたネアだが、事態は更に複雑だったようで、ネアの耳元でそっと囁かれたディノの言葉は、想像もしないものだった。
「……………あの人間の子供は、死霊のようだ。ここは、………もしかしたら、既に生きていない街なのかもしれないよ」
ぞっとしたネアは、乾いた砂混じりの風が吹きすさぶ扉の外を、声もなく見つめるばかりだった。
ただでさえ苦手なボラボラが亡霊のようなものだった場合、どう対処すればいいのかさっぱりわからなかったのだ。
困り果てたネアは、前に立っているアルテアの背中を見つめるしかなかった。