憧れの騎士
「あの、ネア様でしょうか。私は、氷竜の騎士をしております、リーシュと申します」
その日、ネアは新年の振る舞い料理を無事に堪能し、リーエンベルクの中に帰るところであった。
禁足地の森の方を通ったのは、何だかお祭り気分が抜けずに少しだけ遠回りしたかったのと、かなりの量を食べたのでお散歩がてらであった。
そしてその森の中で、見知らぬ男性に話しかけられたのだった。
男性は水色の髪に青い瞳をした実直そうな容姿をしており、よく見れば美しい面立ちでもあるのだが、やはり見てると実直という言葉が先に浮かんでしまう、そんな雰囲気をしていた。
時々いる、とても素敵な人なのに、あちこちで平均点を叩き出しながらもなぜか決め手が貰えずいい人止まりをする特殊枠の気配だ。
白銀の甲冑姿をしているので、人間の感覚であると雪景色の中では寒くないのかなと思ってしまう。
しかし、氷の竜なのだから、とげとげごつごつしていなくても、きっと寒くはないに違いない。
ネアは氷の竜が見たかったなというがっかり感を押し殺し、その誠実そうな青い瞳を見上げた。
「む…………」
そこで、ネアの視界を遮るようにして前に出たのは、珍しく警戒心たっぷりのディノだ。
前に周り込まれてしまったので三つ編みを離し、暴走して悪さをしないようにとその手を掴んでみる。
「この子に何の用だろうか?」
「契約の魔物の御方よ、どうぞご容赦下さいませ。………その、身内の恥を晒すようで情けない限りではあるのですが、…………実は我らの隊長が、少々、………何と言いますか、心を損ないまして。…………近くの施設の中で落ち込んでいるのですが、ここはリーエンベルクの敷地。我々の声は耳に入らないご様子ですので、もしお力添えいただけるようであれば、その建物を出て帰るようにと叱っていただけないでしょうか?」
人生稀に見る奇妙な依頼だが、よく考えてみれば身内の声は耳に入らなくても、全くの他人に注意されて我に返るという可能性は確かにある。
眉を寄せつつネアは、心を損なっていそうな氷竜とはと考えてみた。
「あの、………初めてお会いする方なのですが、私をご存知なのですか?」
「失礼いたしました。我々は、先程まで新年の祝いの儀の貴賓席におりましたので、ネア様のお名前を存じあげておりまして」
「…………もしかして、その困ったことになられているのは、先程倒れられていた方ですか?」
「…………ええ、お恥ずかしながら…………。その、いつもは我々を導いて下さる立派な方なのですが、本日の会で少々心に傷を負いまして。………私も、あの方があんな風に落ち込まれているを初めて見るのです」
「なぜこの子が手を貸さなければいけないのだろう?」
「ごもっともな疑問ですね……。お願いを差し上げたのは、ネア様が、リーエンベルクにお住まいの方であることと、我ら氷竜はリーエンベルクへの守護を放棄してしまっておりますものの、統一戦争より前から騎士をされている隊長にとっては、リーエンベルクにお住まいの人間の方は心のどこかで未だに庇護の対象でもあります。庇護するべき子供の声であれば、お耳に届くのではと思いまして」
その騎士が、穏やかにではあるが自身の主張は全て出し切ってしまうように説明を終えると、今度はそんな厚かましいお願いをした自分に恥じ入るように項垂れてしまい、ネアは可哀想になった。
(困り果てていて、必死なのだろう………)
よりにもよって隊長がおかしくなれば、部下は困ってしまうだろう。
どことなくグラストに似た雰囲気の実直そうな男性は、それだけで好感が持てる。
くいくいっとディノの袖を引っ張って、帰って下さいと言うだけならいいのではないかと相談してみた。
「ディノ…………」
「とりあえず、………見てみようか」
本日、他の者達は新年のお祝いの後片付けで忙しくしている。
それを知っていたからか、ディノは困ったようにしながらもそう言ってくれた。
竜はあまりお気に召さないが、居座られても困るというところなのだろう。
同行する旨を伝えると、腰が折れてしまいそうなくらいに深々と頭を下げてくれた騎士に、ネアは慌てて頭を上げて下さいと言う羽目になった。
そうして、三人がやって来たのは前回バルバ会場ともなった、通常時は魔術試験会場としても使用されている石化した楓の木の造りが特徴的で美しい温室だ。
透明度の高い森水晶と湖の結晶石が硝子代わりになっているので、森の景色を好んで美しい雪の森の情景を鏡のように映している。
「リーシュ!隊長はどうしてしまったのだ………」
「………誰かを連れてきたのか?………それは………」
その前の木立の横で所在なく立ち尽くしていた三人の騎士がこちらを振り返り、ネア達の姿を認めて何とも言えないような複雑な表情を浮かべた。
決して、身内の恥を見られたからの強張りではない、何か事情のありそうな堅い眼差しに、ネアはおやっと内心首を傾げる。
しかしながらそのことにこの場で触れてしまうと、なぜかリーシュが困ってしまいそうでひとまずは気付かないふりをした。
「リーエンベルクの方にご尽力いただこうと思っている。どんな理由であれ、他者の土地に無断で滞在するのは迷惑だ。何とか正気に戻っていただき、ひとまずは我らの領土に帰らねばなるまい」
「…………無駄に騒ぎを大きくしたのではないか?」
「かもしれないが、その責は私が負おう。ウィームの守護をしていた頃の騎士団におられた方だ。守護していた者達の声であれば、或いはお耳に届くやもしれぬ」
(何か複雑な事情がありそうな………)
ネアはディノと顔を見合わせ、ディノは少し警戒を強めたのかネアの手をしっかりと握ってくれた。
それに気付いたリーシュが申し訳なさそうに伏し目がちになり、他の竜達は怯えたように視線を彷徨わせると、ディノには丁重に失礼を詫びて少しだけ離れていった。
けれど、ここまで騎士達がいても誰の手にも負えない状態は良くないものではないだろうかと警戒して魔物らしい酷薄な眼差しでいたディノは、温室の中の光景にはすっかり困惑してしまったようだ。
その中に居たのは、うろうろと彷徨い歩いては頭を抱えたり、壁にぺたりと張りついてみたり、蹲って小さくなってみたりしている明らかに落ち込んでいる風の男性だった。
「…………あれは、確かにみなさんの声が耳に入らないのも頷ける雰囲気ですね」
「どうも、誰かに失望されたとか、そのようなことを仰っておりまして。本日は様々な者達が集まりますから、心無い噂でも耳にしてしまったのかもしれません」
それで、立派な竜があんな風に落ち込んでしまうのかと、ネアはいささか驚いた。
ディノは思わぬところで氷竜の奇行を目の当たりにしてしまい、また少し落ち込んでしまったようだ。
最近、この世界のことはもうほとんど見てしまったと言わなくなったのは、このような新しい遭遇が相次いでいるからかもしれない。
退屈にひび割れてしまうよりはいいのだろうが、こうしておかしなものに出会って途方に暮れてしまうのも何だか可哀想だ。
「氷竜は冷静沈着な生き物だと思っていたのだけれど、色々な者がいるのだね………」
「でも、騎士さんというのは、多くの人達の憧れの騎士であろうとする高潔な方が多いようです。この方もそういう生真面目な方なのでしょう」
「そういうものなのかい?」
「グラストさんもよく、何かで失敗したりすると、これでは人々のお手本にならないなと仰っているでしょう?公の場に出られることが多く、治安を維持することが多いお立場ですので、模範であれという気負いが強いのかもしれません」
ネアは、硝子張りの小さな部屋で項垂れている騎士を思った。
先程見かけた時の凛々しさとは違う雰囲気だが、凛とした男性らしい美貌に物憂げな表情がよく似合い、もしディノと出会う前にこんな生き物に出会ってしまったら、少し憧れたかもしれない。
おまけに正体は竜なので、下手をしたらお庭で飼えたかもしれないのだ。
(む。………お庭で飼える、素敵な騎士王風の竜さん………)
ネアはそんなことを考え、ぶるりと武者震いした。
今のところどうにもならずに禁止されているが、世の中には奇跡というものがある。
いつか竜の飼育が解禁された時の為に、ある程度感じよくして繋ぎを付けておくべきかも知れない。
お庭に竜がいてくれれば、きっと頼もしくて素敵だろう。
この竜なら、お庭で走り回る白けものを食べてしまったりすることもなさそうだ。
「ディノ、このままではあの方は温室に住み着いてしまいますので、適度に励ましてお外に出しましょう!」
「………誰かが、ここから引き摺り出せばいいんじゃないかな?」
「騎士団長さんですから、お仕事が出来なくても困ります。ウィームのご近所さんには皆さん元気で頼もしくいて欲しいので、ご自身の足で帰れるようになるといいですね」
「…………グラストでも連れてくるかい?」
「うむ。それが一番なのですが、今日はお忙しいと思います。ひとまず、私が声をかけてみますね」
「あんな竜なんて…………」
「ディノ、顔見知りになってくれれば、いざという時にディノを守ってくれるかもしれないではないですか!」
「竜には守られなくてもいいかな」
そんなやり取りをしていると、少し離れたところにいる騎士達が、こちらを見て冷ややかな眼差しを向けてきた。
気付いて顔をそちらに向けても、冷たい眼差しを気まず気に逸らすこともない。
さっとその視線との間に割って入り、もう一度頭を下げたのはリーシュだ。
「申し訳ありません。彼等は、統一戦争で家長を失った一族の竜達でして。高位の人間が恒久的に我等と関わることを示唆するのを、快くは思わないのです」
「まぁ、私が助けて貰えるかもしれないと口にしたのがご不快だったのですね。気安いお喋りのつもりでしたが、図々しく思えたらごめんなさい」
「いえ、とんでもない!こちらこそ、仲間達が無作法で申し訳ありません。言い訳になりますが、条件反射のようなもので、………彼等は過去の戦乱で親を亡くした竜達です。多分、……警戒せざるを得ないのでしょう」
その言葉にふと、あの焦げ臭い匂いが記憶の淵に蘇った。
あの日のネアは、無残に地に伏した竜の姿を窓の向こうに見たのだ。
「私はあくまでお仕事でここに受け入れていただいた一般人なので、高位の人間という訳でもないのですが、…………もしかしたら、高位の方をよく思わないのは、戦争に伴われてしまうという認識だからですか?」
「ええ。………きっとリーエンベルクの方々にとっては、不愉快な言い方になるでしょうが、この土地のかつての王族達や貴族達には、負け戦に家族を巻き込んだという不信感があるようですね。………それでも、愛するからこそ戦わねばならないことはあるでしょうに。……しかし、目の前で愛するもの達が失われたとなれば、そこを恨まねばやっていけない時期があったのも確かですから、どうにかそれを乗り越えてくれるのを待っているのですが。……ただ、私は幸いにも、統一戦争を知らない世代なので、知らない者がそう思うこともまた、残酷なのかもしれません」
「…………リーシュさんは、お若いのですね?」
「ええ。私はまだ幼竜ですよ。……その、曽祖父の翼を継いだことと、成長は早かったので誤解されることが多いのですが。老けて見えますよね?」
そう苦笑したリーシュは、あえて場を和ませようとしてくれているのが分かったので、ネアは一緒に少しだけ笑ってみせた。
「ふふ、少しだけ、立派な大人の男性に見えます。そして、翼を………継ぐ?」
謎めいた言葉の登場に首を傾げたネアに、ディノが竜達の不思議な風習を教えてくれた。
すっかりこの竜のことは警戒しなくなったので、ネアは、他の竜達が余所余所しい分、少しだけほっとしていた。
「であれば彼は、賢者の血族なのだろう。竜はね、賢者と呼ばれる者が生まれると、その竜が死んだ後にも翼の一部を残しておくんだ。そしてまた同じ特徴がある子供が生まれると、その翼を煎じた薬を飲ませて、賢者の知識を受け継がせるんだよ」
「…………お子さんには、拒否権はないのでしょうか?その、……場合によってはご負担になりそうな風習なのです」
ネアはすっかり心配になってしまったが、リーシュは微笑んで首を振ってくれた。
「私はそれを喜ばしく思っているので、幸いであったのでしょう。幼い頃から知識や手段を持っていることで、選択肢が広がり、世界が広がりましたから。………しかしながら、賢者を継いだ竜の中には、それを苦痛とした者達もいるのは確かです。ですから、周囲の大人達が、いかにその子供を健やかに育てるかは大きな課題になってはおりますね」
「リーシュさんが喜ばしく思っているなら、それで良かったです。竜さんの問題を私ごときがどうこう言うことはありませんが、こうして目の前でお話しされている方が苦しまれていたら、何だか悲しいなということでしたから」
「…………その竜が気に入ったのかい?」
そう尋ねた魔物の声に何かを感じたのか、リーシュはびくりと身を竦ませると半歩後退しかけ、気力を振り絞って足を押し留めた。
顔色は真っ青で、瞳はどこか虚ろだ。
そこに、先程までの和やかさは微塵もない。
「そもそもお会いしたばかりなので、個人的な執着はありません。ただ、理知的で穏やかな、一般的に良い方だとは思います。ガヴィさんやウォルターさん、イーザさんのように、良い方だなと思える頼もしい方がいらっしゃる場所はとても安定するのを知っているので、そういう竜さんが氷竜さんの中にいれば、この方達は安定するだろうなと思いました」
「…………君は、この竜は飼おうとしていないね?」
「あらあら、心配性ですねぇ」
飼いたいのはこの竜ではないので、ネアは微笑んで頷いた。
魔物はほっとしたようだが、ご主人様が目をつけているのは温室の中でひしゃげている、何だか格好良かった記憶の騎士団長の方なのだ。
しかしながら、この反応を見ているとやはり竜はとても嫌そうなので、餌付けでもしておいて、時折お庭に遊びに来てもらうくらいの半野生の仲良し具合で留めるべきかもしれない。
ご飯をあげる楽しみと、定期的に訪れてくれるという部分が満たされれば、異世界ものらしく竜を飼ってみたいという欲求は満たされるだろうか。
(もしくは、一度くらい背中に乗せてお空を飛んでくれたら、ディノも気に入ってしまうかも?)
そんなことを考えながら温室の扉を開けると、若干斜めになって壁に頭をつけて項垂れている竜にそうっと近付いた。
リーシュには外で待っていて貰い、まずはこの土地の住人として、不法侵入者にどうしたのかと声をかける作戦である。
勿論ディノが一緒なのだが、困ったことに騎士団長ともあろう者がこちらの気配に反応するでもなく、何やらぶつぶつと呟いている。
「……………俺は、とげとげしていないと駄目なのだろうか」
(……………え)
ネアは、ぞっとして青ざめると、魔物の方を振り返った。
ディノにもその呟きが聞こえてしまったのか、目を瞠って困ったようにネアを見下ろしている。
血の気が引いて申し訳なさに崩れ落ちそうになり、ネアは己の心無い言葉を心から反省した。
どうやらこの竜を傷付けたのは、ネアの言葉であったらしい。
(異世界らしい想像通りの氷竜がいなかったことに、失望し過ぎてしまった………)
途端にこれはネアに責任のある重大な事件に早変わりし、自らの失言に落ち込んだ人間は、慌てて項垂れたままでいる氷竜の背中をそっとノックしてみた。
「…………リーシュ、そっとしておいてくれ、俺は………もう……………」
悲しげにちらりとこちらを見た瞳が、無言で大きく見開かれる。
立派に大人の男性なのだが、どこか青年のようにも見える甘やかで涼やかな美貌が、驚愕に固まってふるふるし始めてしまったことに、ネアは戦慄した。
(お、怯えてる!これはもう、確実に心に大きな傷を残してしまっている………!!)
「……………ネア様」
ややあって充分に震えきってから、その氷竜は情けなさそうなか細い声でそう呟いた。
あまりの声の悲しさに、ネアはそっと撫でてやりたくなるが、見ず知らずの相手の頭を撫でるには若干背が高過ぎる。
「………その、もしかして私の言葉で落ち込んでしまわれたのでしょうか?であれば、とげとげしてなくても、隊長さんは充分に素敵な竜さんですので、どうか私めの失礼な言葉なんて気にしないで下さいね。……………なぬ。逃げた」
精一杯の感じのいい微笑みでそう言ったのだが、氷竜の隊長はびゃっと飛び退ると温室の端っこに逃げてしまった。
単に逃げてしまっただけではなく、こちらに首を垂れて跪いているような体勢になっていて、寧ろよく甲冑姿で音もなくそんな体勢が取れたものだと驚いてしまうくらいだ。
「申し訳ありません!」
硬質で甘い容姿に見合った素敵な声でそう謝られてしまい、加害者のネアはもうどうすればいいのか分らなかった。
こんな生真面目そうな竜を傷付けてしまったのかと思うと、切なさでいっぱいになる。
やはり、すっかり怯えてしまっているではないか。
硝子の向こうで他の竜達がざわざわしているので、まるで苛めているように見えたに違いない。
「ええと、………そんなにかしこまらないで下さいね。こちらこそ、心のない言葉で悩ませてしまってごめんなさい。その、お詫びの品を差し上げますので、美味しいお菓子を食べて元気を出してくれますか?」
「…………ネア?」
「私からお渡しすると問題になるかもしれないので、ディノを経由します!唐突なお祝い事や、何か事故った場合用に持っていた、贈答品の詰め合わせなのです。これを、竜さんに渡してくれますか?」
「君の手からでないのであれば構わないけれど、…………これは必要だろうか」
「見ず知らずの方を自分本位な言葉で傷付けてしまったのですから、心を込めて謝罪するのは当然のことなのです。寧ろ、いかに竜さんが食いしん坊とは言え、お菓子ごときで許してくれるかどうかが問題なので、心を尽くして謝らなければいけません……」
「君を困らせてしまうものなら、排除してあげようか?」
「それは絶対に駄目ですよ!苛めてしまった上に抹殺するなど、そんな理不尽なことはありません。寧ろ、ご主人様の援護をしてくれるのなら、一緒に大事にしてあげて下さい」
「大事に…………」
困惑した魔物にじっと見つめられ、氷竜の隊長は真っ青になって首を振った。
何かを言おうとしているのだが、上手く言葉にならないのか、ただ首を振るばかりだ。
「お家に帰れそうですか?落ち込み過ぎて動けなくなってしまっていると、心配している方々がいるのです」
「…………それで、ネア様にご迷惑を……………。重ねてお詫びを申し上げます!…………そしてここは、…………まさか、リーエンベルクの敷地内でしょうか」
「……………まぁ、ここがどこだかも分らないくらい落ち込んでいたのですね?」
「………申し訳ありません。どこか、狭い所に閉じ籠ることしか考えられず、鍵も開いていたので………、………俺は一体何をしているのだ…………」
がくりと項垂れてしまった竜に、寧ろネアの方が悲しくなってしまう。
「…………ほわ、お菓子などではもう許して貰えない気がしてきました。………であれば、待ってくださいね。氷竜さんのいいところを、あの暴言の三倍くらい見付けて羅列しますので、それで心を鎮めて下さい!!」
「ネアが浮気する………」
「ディノ、これは謝罪の…」
「今回の件は、…………俺自身の心の弱さでご迷惑をおかけしました。あまつさえ、御身の領土内でこのような不始末を……。ここはもう、この身を以って…」
「なぬ、重い……」
いつもの癖でまたそんなことをぽろりと言ってしまったネアは、悲しげに目を瞠って捨てられた子犬みたいになってしまっている竜の無防備さに動揺した。
(………しまった。本音とは言え、重ねて傷付けてしまった…………!!)
跪いているので頭の位置が低くなった竜に歩み寄ると、手を伸ばして柔らかい髪をそっと撫でてやる。
後ろの魔物が荒ぶるのが分ったが、ネアは目の前の人型の男性の向こうに、尻尾を巻いてしゅんとしている想像上の氷竜的な生き物が見えた気がしたのだ。
「ごめんなさい。ご自身を否定するような言葉は、とても悲しかったですよね?この品物は、あくまでも私がせめて何かを形でもなしたいという、謝る側のくせに考えた精一杯の我が儘なのです。そして、私が想像していた氷竜さんがとげとげだっただけですので、寧ろこんなに素敵な竜さんで驚いてしまいました。私の浅はかな言葉で傷付けてしまいましたが、どうかお心を鎮めていただけますか?」
目線を合わせて静かな声でそう言うと、氷竜の隊長は撫でられた頭を片手で押さえてもぞもぞした後、すとんと落ち着いたのか、隊長らしい凛々しい男性の表情に戻り、落ち着けば急に恥ずかしくなったのか目元をさあっと淡く染めて素早く居住まいを正した。
騎士らしい優美なお辞儀をしてくれると、妙に嬉しそうにも見える、まだどこか気恥ずかしそうに強張った微笑みを浮かべる。
「あなたのような方に、言葉を尽くしてお詫びいただくなど、この身には勿体ない限りです。私の弱い心のせいでご迷惑をおかけしてしまい、ネア様のお心を乱してしまいましたね。すぐにここを発ちますので、どうかご容赦下さい。勿論、お詫びは後日あらためてリーエンベルクの皆様にさせていただきます。………契約の魔物殿におかれましても、ご迷惑をおかけしましたこと、また、あなたの婚約者様を煩わせましたことを、どうかお許し下さい」
「…………もう帰れそうだね。この子が他の生き物に触れるのは不愉快なのだけど、今回は君に謝りたいと思ってのことだ。一度だけ我慢しよう」
「私の不徳のいたすところで、ご不快な思いをさせましたこと、心より謝罪いたします、万象の君。今回ご迷惑をおかけしましたことのお詫びにもなりませんが、私の系譜の問題でお力になれることがあれば、どうかいつでもベージの名をお呼び下さい」
(………この人は、誠実なだけでなく、とても場を収めるのが上手な人だわ………)
ネアは、そこで少しだけ驚いてしまった。
魔物の気質をよく分っているらしく、ベージと名乗った竜はきちんとディノの方だけを見て、謝罪の言葉を口にした。
ネアの言葉であんな風になるくらいに傷付けられてしまったのは彼なのに、気を取り直した後はこんなにも大人になってくれて、まるで自分が全面的に悪いかのように謝ってくれたのだ。
それだけではなく、謝罪の後半はネアではなくディノに対して誠実に頭を下げることで、竜を飼ってはいけない派の魔物も何とか宥めてしまった。
もし、彼が自分を呼んでいいと伝えたのがネアであれば、ディノはすっかり荒ぶってしまっただろう。
それを理解出来るくらいにしっかりした人が、ネアのあの言葉で様子がおかしくなるくらいに落ち込んでしまったことが、いっそうに申し訳なくなった。
「あの、こちらのお菓子も、謝罪の印なので受け取ってくれますか?他の竜さんもお待たせしてしまいましたので、みなさんで食べていただけると嬉しいです」
最後まで謝罪のお菓子を持たせることに拘ったネアに、ベージは恐縮しながらもザハのお菓子の箱を受け取ってくれた。
丁寧に頭を下げてから竜の姿に戻って飛び立っていった氷竜達であったが、先程までどこか突き放すような様子だったリーシュ以外の竜達は、隊長が飛び退るくらいに怯えさせた人間は一体どんな残虐な生き物なのだろうかと、最後は青い顔になってしまい、決してネアの方を見ようとはしなかった。
とは言え、無事に解決はしたようだ。
開けっ放しだったので入れてしまったらしい温室は、不用心なのでひとまずディノの魔術で施錠し、使う為に開けておいたのであればネア達に連絡をくれるようにとメモを残しておく。
「それにしても、にゃんこのようですね。悲しくなると、どこか狭くて暗い所に入りたくなる習性が、竜さんにもあるとは思いませんでした。今回の件は、私のせいでディノにも迷惑をかけてしまいました………」
「どうして君のすることを、迷惑だなんて思うのだろう?…………それと、……君は、また竜を気に入ってしまったのかい?」
「あら、心配になってしまいましたか?」
「彼は謝らなくてもいいと言っていたのに、どうしてもと、あの食べ物を渡そうとしていただろう?」
魔物がひどく憂鬱そうにそう言うので、ネアは苦笑してその真珠色の三つ編みを手に取った。
確かにあのベージという竜はかなり好きな感じではあるが、ネアが謝罪のお菓子に拘ったのはそういうことではないのだ。
「あれだけ動揺させてしまったくらい、傷付けたのです。もし、あの竜さんが氷竜さんの住まいに戻ってから心の体調を崩してしまったりしたら、氷竜の王様からこちらに慰謝料の請求がくるやもしれません。大事になったらエーダリア様達にもご迷惑をおかけしてしまいますので、何とか示談にしたかったのです」
ご主人様の口から思いがけず殺伐とした返答が出てきたので、ディノは驚いたようだ。
水紺の瞳を瞠って不思議そうにぱちぱちすると、その直前まで浮かべていた憂鬱そうで冷やかな色を一変させる。
「…………示談、の為だったのだね」
「ええ。私は狡賢い人間なので、先程の竜さんが良い方そうなのをいいことに、何とか示談で収めてしまおうと画策したのでした。こちらは魔術の理で、ああして品物を受け取ってしまうことも受諾の証として認識されるのですよね?」
「そうだね。であれば、私と彼との会話でも充分に事足りたのだけど、君は不安になってしまったのだね」
「………確かに綺麗な竜さんでしたので、あのように無垢で綺麗な生き物を悲しませてしまったことが申し訳なくて、自分自身を納得させる為でもあったのだと思います。こんな狡い人間が婚約者で、ディノは悲しくなってしまいませんか?」
「困ったご主人様だね、私が君にそんなことを思うだろうか」
ディノはどこかほっとしたように、ネアを持ち上げると片手で頭を撫でてくれた。
「でも、だからといって見ず知らずの竜なんて、君が撫でなくてもいいのだよ?」
「自分の残酷さに悲しくなってしまって、何とか元気になって欲しかったのです。実はまだ氷竜さんがとげとげでないことが釈然としないという残虐な私がいることも、あの方には内緒なのです」
「とげとげが良かったのだね………」
「………ふぁい。氷で出来ている竜さんのような、氷素材のとげとげごつごつの想像をしていたので、普通の鱗の竜さんであるどころか毛皮まで生えているとなると、裏切られた気持ちでいっぱいではありますね………」
「ご主人様…………」
ネアが理不尽だと言わんばかりにそう呟けば、その後魔物は、ご主人様が自分に失望していないかどうかを確認するのに必死になってしまった。
(ほんの少しだけ、餌付けしたいという欲もあったのだ)
ネアは心の中でその狡さを認める。
それは多分、元の世界で培われた憧れのようなもの。
あの竜が、子供の頃に読んだ絵本の騎士王みたいで少しだけ贔屓したのはネアだけの秘密だ。
とは言えもう、震えて蹲る程に傷付けてしまったのだから仲良くはなれないだろう。
そう考えると少ししょんぼりしたので、ネアはその日雪豹アルテアのぬいぐるみを魔物の巣から取り戻して、抱っこして寝たのだった。