ちびふわとお風呂のあひる
その日、ネアは、アルテアに一つの提案をされていた。
「白けものの時間を減らす………」
ネアが悪夢の残響に落ちた事件を受けて、ウィリアムが仕事終わりにまたリーエンベルクに来てしまうかもしれないので、白けものは半刻だけの来訪となり、残りの時間はちびふわで我慢しろというのだ。
勿論異存はないどころか大歓迎の提案であったので、ネアは勿体つけておいてからこくりと頷いてみる。
「よし、それで決まりだ」
「白もふ!!」
アルテアは、白けものの正体をウィリアムに悟られないよう、細心の注意を払っているようだ。
そのくせ、ネアが溺愛するのがちびふわだけになるのも釈然としないという、謎めいた複雑な心境でもあるらしい。
現在は素晴らしい白もふになってネアの腕の中におり、白っぽい毛皮が見えたのですっ飛んできた銀狐が、ウィリアムな竜ではないと知ってとぼとぼ帰って行くのを見ながら、白けものの尻尾をけばけばにしている。
「白けものさん、狐さんは、ああして毎回白っぽい毛皮が見えると走ってきて、ウィリアムさんな竜さんではないと知ってとぼとぼと帰ってゆくのです。よほど素晴らしい毛皮だったのでしょうね」
ネアがそう教えてやれば、白けものの耳はぺたんと寝てしまった。
「白けものさん、このまま毎日なでなでされて、うちの子になりませんか?むぐ!」
ネアはボラボラで心細くなっている今の内に言質が取れないかなとそう尋ねてみたが、白けものはぺしりともふもふ尻尾でネアの顔面を攻撃してくるではないか。
ネアは、そのもふもふ尻尾を捕まえようと両手でぱちんぱちんとやっていたが、暫くやっている内に弄ばれていると気付いて渋面になった。
長椅子からその様子を見守っていたディノは、弄ばれるご主人様が可愛すぎるとすっかり恥じらってしまっている。
「おのれ!尻尾がつかまりません!ぱちりとやって、私の顔に尻尾を当てた罰として、ぎゅっとなる白もふを見るつもりだったのに!!」
「…………可愛い。一度も捕まえられないんだね」
「む!ディノはご主人様が弄ばれているのに、喜んでしまってはいけません!」
「君が傷付かないところで少し困っていると可愛いし、右往左往する君も可愛いね」
「むぐぅ。白もふに弄ばれたせいで、うちの魔物が苛めっ子になりました!ゆるすまじ!」
ネアはふふんと澄ました顔をしていた白けものにばふんと覆いかぶさると、てやっと跨ってしまって押さえ込み、耳の後ろをわしわしと掻いてやった。
しかしなぜか、白けものはいつもならふにゃんとなる耳の後ろを掻いて貰っているのに、目を丸くして尻尾をぴしりと立てたまま固まってしまっている。
「ディノ、白けものが置物になりました。…………もしかして、私が重過ぎたのでしょうか?」
「跨られるのは嫌いなのだろう。ほら、ア………その獣に跨るのはやめようか」
「一度、白けものさんに乗って走って貰いたかったのですが、やはりもう少し大きな生き物がいいのでしょうか?ウィリアムさんな竜さんとか…………ほわ?!」
白けものは、自分がひ弱だと言われたのかと思ったのか、むくりと立ち上がるとネアを背中に乗せたままててっと室内を走ってくれた。
「ディノ!びゅんとなりましたよ!」
「ずるい、ご主人様が他の生き物に乗るなんて……」
「ぐらぐらしません!背中がくたっとなって潰れたりもしないで、がっしりしています」
ネアは安定した乗り心地で室内で出来る限りの速さで走ってくれた白けものに、ご機嫌で元の場所に戻って来た。
戻って来たネアは白けものから降車し、良い乗り心地であったぞよと立派な乗り物の頭を撫でてやる。
しかし、同席するディノはすっかり拗ねてしまっていた。
よろよろとこちらに歩いてくると、何とかネアに三つ編みを持たせようとする。
「………ずるい。私はまだ、君を乗せて走ったことはないのに」
「あら?ディノはこの前、私の乗り物になったまま、ボラボラから逃げてくれたでしょう?とっても頼もしかったですよ?」
「…………うん」
「ディノは私の婚約者なので、人型のまま乗り物になってくれると嬉しいです」
「君は、……そちらの方が好きなのかい?」
「そうですね。ディノの良さを引き出して、婚約者感が伝わるのはそちらでしょうか。何しろ、私の婚約者なのはディノだけなのですから」
「それなら、人型のまま乗り物になるよ!」
婚約者という言葉は、前回の悪夢の後からディノのお気に入りの言葉度合いを上げている。
臨時伴侶もとても嬉しかったようだが、その時に婚約者という肩書きはひと時だけの儚いものだとあらためて認識したようだ。
よって、現在婚約者と言われたいブームが巻き起こっており、その言葉一つでご機嫌になってくれる。
その経緯をリーエンベルクに滞在しているアルテアも見ていたので、白けものは呆れ顔だ。
「ふふ、ディノがいつもの乗り物で落ち着いてくれたので、残りの時間は、白もふを撫で回します!」
「…………また死んでしまうのではないかい?」
「しかし今日は、白けものが私を慰めに来てくれたのです。ウィリアムさんな椅子から降りる為の交換条件でもありましたしね」
「取引をしたんだね?」
「ええ。以前にディノに教えて貰った通り、きちんと交換条件を出しましたよ?」
「うん。魔術の理に繋がるから、そうするといい。ただし、君が実行するのが困難なこととは引き換えにしてはいけないよ?」
「はい!」
白けものは、なぜその交渉技術を伝授したのだという呆然とした眼差しで固まっていたが、振り返ったネアが手をわきわきさせると、澄ました顔のまま尻尾をへなへなにさせた。
「ふふ。こうして正面から見る白けものさんは、とても綺麗で可愛いのです。そのもさもさもふもふの尻尾と、分厚い前足が堪りません。ささ!撫でますよ」
ネアはぐっと身構えた白けものに抱き着くと、首回りのふかふかの毛に頬擦りした。
いつものようにお腹撫ででしどけない白けものを堪能するのも良いのだが、なぜか今日はただ暖かな毛皮に触れてそのぬくもりに癒されたかった。
白けものは少し意外だったのか、そーっと後ろ脚の閉じ方を甘くしてみて、ひっくり返されても吝かではないという気配を滲ませてくる。
そんないじましさに、ネアは頬が緩んでしまう。
「あらあら、お腹を撫でて欲しいのですか?」
しかし、そう言えばつんと澄ましてみせるので、ネアはにんまりと微笑むと、油断した白けものを手早くひっくり返してしまう。
ぺろりとひっくり返されてしまい、鮮やかな赤紫の瞳に驚愕を浮かべている白けものを見下ろし、残虐な人間は容赦なく襲いかかっていった。
「ふむ。短時間で白けものさんを濃厚に堪能するというのも悪くありませんね」
「…………どうしてあんな風になってしまうだろう」
「尻尾の付け根は最大の弱点であり、最高のご機嫌箇所でもありますからね!」
「…………アルテア」
白けものは、あの後でネアにお腹を撫で回されてしまい、ぴくぴくしながら絶命した。
なお、アルテアは白けものが退場した後でよろよろとやって来ると、所用があるのでちびふわになるのは一時間後だと言い残して部屋に帰っていった。
すっかりよれよれになっていたが、濃紺のストライプのある白いシャツに濃紺のジレ姿で少し弱った雰囲気は、妙に色めいていて美しくもあった。
「アルテアさんが煙草休憩に入ったので、その間に今日のお仕事を済ませてしまいましょうね」
「アルテアは最近、随分とリーエンベルクに滞在しているね…………」
「…………もしかして、ディノにとっては、あまり望ましくありませんか?」
「…………どうだろう。私達の部屋に住まないなら、このくらいは構わないけれど、エーダリア達は構わないのだろうか」
「昨晩、ヒルドさんともお話ししていたのですが、やはりアルテアさんは少しエーダリア様がお気に入りのようなのです。そうであれば、ヒルドさん的にはそう悪いことではないと仰っていました」
ネアがそう言うと、ディノがアルテアの秘密を一つ教えてくれた。
「アルテアはかつて、ウィーム王の一人を随分と気に入っていたようだ。エーダリアは、彼の孫でもあるけれど、それ以上にその人間によく似ているような気がするから、元々嗜好に合うのかもしれないね」
「まぁ!エーダリア様のお爺様なのですね。………ということは、統一戦争の時の………。でもアルテアさんは、ウィームの防衛には手を貸さなかったのですよね?」
「魔物の好意や執着が、常にそういうものだとは限らないからね。………だが、その時は恐らく、人間側の主張とアルテアの意見が合わなかったのだろう。アルテアは、ウィームが独立国家のままではなく、大国の一部として統一されることを支持していた一人だった筈だよ」
「…………きっと、諦める事が出来ても、割り切る事も出来ても、……それでも寂しかったでしょうね」
「……………そうかもしれないね」
こういう時、ディノは出会った頃のように、誰かの心を思う言葉をわからないの一言で済ませないようになってきた。
元々繊細で優しい魔物でもあったのだと思うが、そんなディノが心を動かす術や、その時に使う言葉を覚え始めたのだろう。
しんみりしたネアに三つ編みを持たせてくれ、ネアはそんな魔物を見上げて微笑む。
妙にその豊かさが嬉しくなり、そんな魔物に小さく体当たりしてやった。
「ご褒美…………」
「ふふ。ディノが優しくて嬉しくなってしまいました」
「やはり君は、三つ編みを持つのが大好きなのだね」
「なぜそちらなのだ」
ネアはディノと色々お喋りしながら魔物の薬を作り、ついでにお庭の見回りもして、敷地内で派生したちび毛玉の小さな祟りものと、靴虫を二匹成敗した。
エーダリア達は明日の準備で忙しいので、毛皮をリーエンベルクに残っていたグラストに渡しておくと、これは放置したらかなり厄介だったと喜んで貰えた。
そして煙草休憩で指定された時間が無事に終わり、ちびふわの時間がやって来た。
アルテアは少し顔色も良くなったようで、いつものどこか艶めいた美貌の魔物に戻っている。
面倒臭そうに立っているが、その瞳には突き放すような本物の鋭さはない。
「ちびふわ!ちびふわ!」
「…………ったく」
「では、術符を使うよ」
「アルテアさんが自発的にちびふわに擬態してくれても良いのですが、なぜかそれは嫌なようです」
「…………おい、何で俺があの姿に擬態する為の術式を編まなきゃいけないんだ」
「むむ。そこが矜持を傷付けるので駄目なのですね…………」
ディノにぺたりと術式を貼られ、アルテアはぽふんとちびふわになって雪の上に落ちた。
ちびふわ術符は元々ネアが貰っていたものだが、乱用の危険があるという事で今はディノの管理下にある。
確かに中毒性が高そうなので、ネアはその措置を大人しく受け入れることにした。
なぜ雪の上かと言うと、ちびふわに雪の系譜の気配があるとゼノーシュが言っていたのが発端であった。
元々は呪いで調整された合成獣なのだが、基盤となっている生き物に雪の系譜のものがいたのかもしれない。
すると、もふもふ尻尾が絨毯に引っかかって何度も転んでいたアルテアは、雪の上では転ばないかも知れないと試してみたくなったようだ。
泳ぐこともできないので、ちびふわとしての矜持を取り戻す為に、得意分野を見付けたいらしい。
とは言えそうなると、ちびふわになるのも満更ではないのだろうかという、また新しい疑問が出てくる。
「フキュフ!」
そして、ゼノーシュの慧眼が思わぬ成果を上げた。
「凄いです!ちびふわは、雪の上だと物凄い俊敏ですし、毛皮が細やかにきらきら光って何て愛くるしいのでしょう!」
「系譜の要素が充溢して光るのだろう」
「ではやはり?」
「うん。雪の祝福のある生き物のようだね。ウィームで作られた術式だったから、この土地のものにしたのかもしれない」
それは或いは、犯人がウィームから出るのが億劫になるような措置でもあったのだろうか。
ネアは術式を編んだ魔物のことを思い、ディノもそうなのかなとそちらを見た。
そしてその時、悲劇は起きたのだ。
「フキュフ?!」
悲鳴のような声が聞こえて慌てて視線を戻すと、ちびふわが見事な尻尾だけを残して雪の中に埋もれてしまっていた。
逆さまに埋まっているような体勢なので、ネアは慌てて駆け寄ってから尻尾を掴んで救出する。
そしてそこで、恐ろしいことに気付いたのだ。
「ち、ちびふわ!!」
ネアの悲痛な叫びに、慌てたディノがすぐに駆けつけてくれた。
まずはご主人様ごと持ち上げて守る体勢に入った魔物に、ネアは大慌てで指示を出す。
「ディノ!今すぐお部屋に転移して下さい」
「わかった」
必死な様子のネアに、魔物は理由は聞かずにすぐさま転移してくれる。
その察しの良さに感謝しつつ、ネアは浴室に駆け込むと浴槽にお湯をじゃばじゃば出して、尻尾だけはふかふかのままカチコチに凍ったちびふわの解凍にとりかかる。
「……………もしかして、保冷庫かい?」
「そうだと思います。ただ、ちびふわを持ち上げた時に下が見えたのですが、保冷庫の扉は閉まっていたような気がするのが謎なので、後で調べた方がいいのかもしれません……」
「アルテアは大丈夫かい?」
「ふみゅ。………溶けてきましたね、せめて白けものさんではなく、ちびふわになっていてくれて良かったです。体が小さいので、すぐに全身がお湯に浸かりますから…………」
「……………フキュフ」
「目が覚めましたね?…………ちびふわ、……まぁ!」
とろんとした目を開いたちびふわは、ぶるぶると震えている。
ネアは慌ててかけられた術符の魔術を解くように言うが、震えてしまっていておぼつかないようだ。
見かねたディノが手を貸してくれ、浴槽の中にはずぶ濡れの選択の魔物が出現する。
「………………なん、………だこれは」
「ご自身で、保冷庫に落ちたんですよ。ささ、風邪をひくといけないので、すぐに着ているものを脱ぎましょうね」
「……………は?」
まだ状況が理解出来ずに呆然としているアルテアに、ネアは容赦なく着ているものを剥ぎ取り始める。
ご主人様が他の魔物を脱がせていると慌てたディノも参戦したが、壁沿いにある浴槽の中にいる人物を脱がせる場合、主戦力は一番近い者に固定されがちだ。
「おい、……や、……やめろ」
一拍置いてまた震えが酷くなったアルテアが抵抗しようとしてくるが、流石にこの事故には慣れてきたネアは遠慮などしなかった。
ジレを脱がせてからシャツのボタンを外し、どんどん身につけたものを脱がせてゆく。
手を伸ばしてネアを押し留めようとしたアルテアは、つるりと滑って一度浴槽の中に沈みかけた。
「衣服にも保冷庫の氷室の魔術が定着してしまうのだそうです。全部を脱いでから、お湯で少しだけ温まり、その後で着替えてお部屋に行きましょうね?」
「ひ、………ひみゅ…………」
「あら…………」
氷室と言えなくて心が折れた系の魔物は、自分がそんな単純な単語ひとつ言えない状態であることに衝撃を受けてしまったようだ。
ネアは、浴槽の中に座ったまま前髪から雫を垂らして悄然としている姿に胸が痛んだが、アルテアが黙り込んでしまった内にこれ幸いと残りは下だけになった残りの着衣の剥ぎ取りをディノに頼んでしまうと、バスタオルを用意しにその場を離れる。
浴室の方からは、ディノが困ったようにアルテアに自分で脱げるかいと尋ねる声が聞こえてきた。
こういう救命手当の現場に慣れていない魔物には、知り合いの魔物を全裸にしてしまうのには少しの躊躇いがあるようだ。
(早めに戻ってあげた方がいいかな?)
心配になったネアは、家事妖精への通信を終えると慌てて浴室に戻ることにする。
自分で体験したからこそなのだが、脱ぐのを躊躇っていては回復が遅くなるのだ。
「脱げましたか?」
「……………おい」
だが、バスタオルを持ったネアが普通に浴室に戻って来たからか、アルテアは少しだけ嫌そうな顔をした。
焦ったディノがネアの目を塞ごうとするので、患者さんが全裸なくらいではもはや動じなくなったのだと、事件慣れしてしまった人間は素っ気なく呟く。
「でも、尻尾がお外に出ていたお陰で、アルテアさんはノアやディノの時よりは症状が軽いようです。濡れてしまった衣類はこちらで預かって洗濯妖精さんにお任せしますので、しっかり肩までお湯に浸かってから、お風呂を出て下さいね。…………ディノ、アルテアさんが浴槽を出る時に転ばないよう、見ていてあげてくれますか?」
「そうしよう。浴槽から出たら、そのまま寝台に入れてしまうよ」
「…………はい!」
ネアはその時、アルテアの高価そうなシャツを皺にならないように伸ばしてから回収していたので、返事がおざなりになってしまっていた。
そのままであれば、すぐにでもその運用のまずさに気付いたものなのだが、直後に起きた事件のせいでその時の会話を忘れてしまっていたのだ。
「…………も、……もういい。お前は、で…………出ていけ」
「まぁ、先程までカチコチになっていたちびふわなのに、我が儘を言ってはいけませんよ?ほら、肩まで浸からないと冷えてしまいます」
まだ解凍されたばかりなので力のない瞳に精一杯の苛立ちを湛えて威嚇してくる魔物には、ネアは腰に手を当てて呆れ顔になる。
格好悪いのは今更なので、ここは手間をかけさせずに、大人しく介護されて欲しい。
幸いにもディノの手助けもあるので、アルテアが協力的ならばすぐに終わると思ったのだ。
「フキュフ?!」
しかし、その途端なぜか、アルテアはすぽんとちびふわに戻ってしまうと、ぽちゃんと湯船の中に沈んだ。
真っ白なふわふわが、ぶくぶくと沈んでゆく。
「ほわ!アルテアさんが!!」
ネアは慌てて手のひらで掬い上げてやり、目をまん丸にして水没から復帰したちびふわは震えている。
「……………フキュフ」
「そんな目をしなくても、アルテアさんがちびふわに戻ってしまったのは、私の責任ではありませんよ?」
「私の解術が甘かったのだろう。ほら、…………アルテア?」
しかしなぜか、そう言って手を伸ばしたディノにふーっと威嚇すると、ちびふわはネアの手のひらの臨時浅瀬風呂に浸かって満足げにフキュンと息を吐いている。
手のひらの上なら沈まないし、どうやらちびふわ姿になっている方が寒くないらしい。
(介護されるにしても、こちらの姿の方がいいのかしら?)
ネアはそう考えて、ご機嫌でペロペロと自分の前足を舐めながら、手のひらの中でお湯を堪能するちびふわを見下ろしたが、ディノはもう少し専門的な見方をしたようだ。
「………その生き物の基盤に、雪の系譜が混ざっているだろう?そちらの姿でいる方が、寒さには強いのかもしれないね」
「まぁ!そういうことなのですね。であれば、しっかり体が温まるまでは、ちびふわのまま…………ふむ」
「ネア…………?」
「アヒルさんがいた筈なのです!前回、ちびふわがプールで溺れて可哀想でしたので、アヒルさんを狐さん用の肉球クリームを買いに行ったお店で買ったのでした」
「…………君が最後に買っていた、黄色いものかな?」
「フキュフ?」
そこでネアは、ちびふわが溺れないように一度だけディノに交代して貰うと、戸棚からアヒル浮き輪を持って来た。
空気を入れてぷかりと浮かばせるアヒルの形をした浮き輪で、背中の部分の小さな穴に体を嵌め込める。
すると、安定感のあるアヒル浮き輪に体を支えられて、小さな泳げない使い魔でもプールを楽しめるのだ。
「さぁ!これでゆったりお湯に浸かれますからね」
魔術効果が添付されているので、浮き輪は袋から出すだけで綺麗に膨らむ。
それを両手に掲げて登場したネアに、ちびふわは露骨に呆れた目をした。
「……………フキュフ」
「なぜに反抗的なお顔なのでしょう。泳げないちびふわが、たっぷりのお湯に浸かるにはアヒルさんの手助けが必須ではないですか!」
「フキュフ!」
「私が手のひらに乗せていると、不自然な体勢で固まっていなければなりません。お部屋の方を暖めたりもするので、これで我慢して下さい。……てりゃ!」
「フキュフ?!」
ネアは我が儘を言うちびふわを掴むとすぽんと浮き輪にはめ込んでしまい、そのまま浴槽にぷかりと浮かべてやった。
目を丸くしてけばけばのちびふわが、アヒルさん浮き輪でぷかぷかと湯気の立つ浴槽を漂っている。
「うむ。良い感じです」
「……………アルテアが」
「ディノ、時々ちびふわが沈まない程度に、浮き輪から出たところにもお湯をかけてあげてくれますか?それと、ディノがもう使っていない寝室を借りますね」
「え…………長椅子でいいんじゃないかな」
「アルテアさんは、保冷庫に落ちたばかりなんですよ?」
「アルテアなんて…………」
ディノはめそめそしたが、ではネアの寝台でもいいかと言えば、悲しげな目をして一生懸命首を振る。
今回はアルテアが滞在している外客棟までの距離があるので、そこまで遠い部屋に一人には出来ないからと説得され、緊急事態だからと特別に許可をしてくれた。
ネアは自分の寝台から火織りの毛布を剥ぎ取ると、残りはそちらの寝台に畳んで置いてあった寝具を使い、アルテアが休めるような場所を整えた。
バスタオルを取りに行った際にお願いしていた湯たんぽが家事妖精から思わぬ速さで届き、それも設置する事が出来る。
湯たんぽを持って来てくれた家事妖精に伝達して、保冷庫にちびふわが落ちたので、扉は閉まっているように見えたが近付く際には気を付けて欲しいという伝言も頼み、もう一度浴室に戻った。
(………………か、可愛い)
浴室では、心の憂いも澱も全てが吹き飛んでしまうような愛くるしい光景が繰り広げられていた。
浴槽のヘリに腰掛け、困惑の眼差しで浴槽に浮かぶアヒル浮き輪のちびふわにお湯をかけてやる美しい真珠色の髪をした魔物と、必死につんつんしているのに、お湯をかけられるととろんとしてしまう真っ白なちびふわがいる。
お湯をかけることでアヒル浮き輪がぷかぷか動き、ちびふわがお風呂遊びをしているような光景だ。
「この癒しの光景を、私の記憶に焼き付けます…………」
「フキュフ?!」
「ご主人様…………」
「さて、そろそろ上がっても良さそうですか?ほこほこの寝台を用意しましたので、そちらで少し休みましょう。湯冷めしてもいけませんから、しっかり体を乾かして下さいね」
ネアはそう言うと、そのまま三時間は見ていられるアヒル浮き輪のちびふわを泣く泣く分離し、すぽんと浮き輪から外したちびふわをバスタオルで包む。
もふもふと拭いてやっていると、さっそくちびふわはふかふかほこほこで居眠りを始めてしまった。
保冷庫の効果で体力を消耗してもいるのだろう。
「…………愛くるしすぎて、胸が苦しいですね」
「浮気…………」
「見て下さい、ディノ。真っ白なちびふわと、バスタオルとの境目が分からないくらいの至福の光景なのです。まぁ、……ムグムグ言いながら寝ていますよ?」
「…………アルテア」
ディノはすっかり落ち込んでしまったが、自分も保冷庫に落ちたばかりなので、その効果の恐ろしさは身を以て知っている。
そのせいか、必要以上に荒ぶることもなく、ネアが用意した湯たんぽ天国にちびふわを設置するのを手伝ってくれた。
「…………少し不安なのですが、アルテアさんは元に戻れますよね?」
「大丈夫だよ。元々、この術符の効果もあと半刻くらいで切れるものだからね。先程私が解いた時には、上から氷室の魔術が添付されていたので、剥がし切れていない擬態魔術が残ってしまったのだろう」
「それなら一安心です。……ふふ、こんなに小さなちびふわが、すやすや眠っているのもいいものですね。ちびふわと雪遊びは出来ませんでしたが、先程のアヒル浮き輪のちびふわと、こんな風に無防備に眠っているちびふわを見られたので、今日は楽しい一日でした」
ネアがそう言いながら寝台の端に腰掛けてちびふわを撫でていると、隣に座ったディノはそっとネアの頬を撫でてくれる。
「君は疲れていないかい?まだこちらに帰ってきたばかりなのだから、無理をしてはいけないよ」
「昨日はディノと一緒にのんびりしましたからね。それと、私の大事な魔物がとても優しくしてくれますから」
「…………うん」
「あらあら、恥じらってしまいました?」
「ネアがぶつかってくる。可愛い……」
「…………念の為に釈明しておきますが、今のは肩にこてんとやっただけで、打撃ではありませんよ?」
「違うのかい?」
「なぜ悲しい目をするのだ」
その後、ネアはディノとお喋りをしながら眠るちびふわについていたつもりだったが、ほこほこのお部屋に途中からネアも居眠りをしてしまったようだ。
「…………むぐ」
「…………やっと目を覚ましたか」
もそりと目を覚ますと、誰かのどこか嗜虐的な声が頭の上から降ってくる。
「……アルテアさんは、もう元気になりました?……………それと、なぜに私はアルテアさんの上に乗り上げているのでしょう?」
「さあな。お前が勝手に転がってきてんだぞ」
「ふむ。…………特に寝心地が悪くもないので、良しとしましょう。……ぐぅ」
「……………おい、お前は自分の状況を確認したんだろうな?」
「……………むぐ。アルテアさんのお腹の上に乗っかっています。そして、アルテアさんは肩が寒そうなので、早めに着替えることを推奨します」
ちらりと横を見るとネアの隣に横になる形で、ディノもすやすやと眠っていた。
ネアなどより余程疲れていたのはこの魔物の方で、ネアが悪夢から戻ってきてからほっとしたのか、ネアにくっついているとぐっすりと眠るようになった。
(もう少し、寝かせておいてあげよう)
なのでネアは、そんな魔物を微笑んで見つめ、生きているという部分が若干特殊な敷布団のままもう一度眠りに就こうとする。
「言っておくが、お前が上に乗ったままで、どう着替えるんだ」
「…………むぐ。では一緒に毛布に包まっておきましょう。…………む?」
そこでネアは、漸くアルテアの言いたいことに気付いた。
どうやらちびふわから人型に戻ったアルテアは、浴室で服を脱がされてしまったので何も着ていなかったようだ。
何枚も毛布を寄せてあったので、その中の一番暖かい火織りの毛布をかけてはいるが、それは胸の下までで、その上からネアが乗り上げてしまっており、違う毛布をネアの上から引っ張り上げて丸ごと覆う形で何とかもう少しだけ暖を取っていたようだった。
部屋をほかほかにしてあるので寒くはないだろうが、就寝時にはパジャマを着る魔物なので、何も着ないで寝台にいるのは落ち着かないのだろう。
「……………むむ。お邪魔しました。……なぬ」
そそくさと掛け布団を辞退しようとしたところで、なぜかがしりと腕を掴まれる。
「…………お前は何で妙に薄着なんだ」
「それは、ちびふわをお風呂で解凍したから、濡れてもいいように脱いだのです。それに薄着とは言え、お袖を捲っているだけで薄いセーターは着ていますよ?元々雪遊び用にもそもそしないようにと、コートの下は保温性の高い薄手のセーターだけだったのです」
「…………成る程な」
なぜか一度、そのままふわりと抱き締められた。
ネアは保冷庫が怖かったのかなと思ったが、どうやらそうではなかったらしい。
「…………生きてるな」
「……………ええ。春告げの舞踏会に、アルテアさんが連れて行ってくれたからです」
「これから毎年連れていくとしても、もう二度と使うな。それを溜め込めるくらいにしておけよ」
静かな声に頷いて、こちらを見ている赤紫色の瞳を見上げる。
「使い魔の契約を結んでいる限り、ある程度は俺からも戻してやれるものがあるが、………悪夢の中だとまた要素が不安だからな」
「まぁ、アルテアさんにも………ご負担がかかってしまうのですね?」
「何で落ち込むんだよ」
「ごめんなさい。………そこまで考えが至っていませんでした………」
「直接に繋ぐ程の契約じゃないからな。それに、どれだけ深めようとお前ごときで削りきれるものじゃない。予備の守護くらいに思っておけ」
「……ふぎゅ。…………使い魔さんが優しいです」
「使い魔にとっては、主人を死なせるのは最大の屈辱らしい。…………二度と御免だからな」
守護を厚くしておこうとしたのか、家族な祝福の口づけを目の下にされ、ずり落ちそうになった体をもう一度きちんと引っ張り上げてくれる。
ぬくぬくでまた眠くなってくると、伸ばした指で唇をなぞられた。
(さっきまでは甘えるちびふわだったのに、何だか立場が逆転したみたい………)
まるで、小さな子供になって母親の腕の中にいるようで擽ったくてむふふっと微笑んでしまうと、なぜかアルテアはぎくりとしたように固まる。
「……………降りろ」
「むむ、寒いですよね。すぐにどきますね!………アルテアさんは、何か着て……むぎゃ!」
ネアがどくのと同時に、アルテアが特に恥じらう様子もなく普通に寝台から起き上がろうとしたので、ネアは横にごろんと転がって逃げ出し、ディノの体に顔を押し付けて緊急回避した。
「…………ネア?」
そこで目を覚ました魔物は、目覚めるなり胸の中に飛び込んできたご主人様にすっかり戸惑ってしまい、寝台から出て行ったアルテアのことはあまりよく見ていなかったようだ。
その後、ディノは擬態が解ければアルテアが何も着ていないことを理解はしていたが、元々浴槽からそのまま寝台に押し込むという提案もしていたように、そこはあまり気を使っていなかったことが判明した。
毛布で包むので、そのままでもいいと思っていたようだ。
「ディノ、アルテアさんはパジャマ派なので、何も着ていないのは嫌だったようです」
「そうなのだね」
「………いや、お前達は、それ以前の問題に気付けよ?」
「む?」
こてんと首を傾げたネアはなぜかアルテアにべしりとおでこを叩かれたので、あの可愛いアヒル浮き輪のちびふわのままでいて欲しかったと呟いたところ、アルテアはその頃の自分を思い出したのか固まってしまった。
決して他言してはいけないと固く言い含められたので、ネアはディノと一緒に素敵な晩餐でもてなして貰う約束を取り付け、ディノに再び魔術交渉による取り引きの腕を見せることが出来たのであった。