229. 大事なものを渡しました(本編)
薄闇を踏んで地上に上がると、ぱっと視界が明るく青くなる。
踵の離れた悪夢に続く闇が、薄氷のように足元でぱりぱりと崩れてふぁさっと大気に溶けて消えてゆく。
(…………空が青い……)
ウィームは澄んだ青空の朝で、優しい白金色の木漏れ日が降り注ぎ、ふかふかと降り積もった雪の表面が砕いた宝石のようにきらきらと光っていた。
雪で白くなった木々に縁取られ、咲き乱れる花々が雪の白さにまた映える。
瑠璃色の鳥が翼を広げて飛んでゆけば、その羽ばたきに驚いたのか森を駆けてゆく鹿の姿が見えた。
(私の知っているリーエンベルクだ)
清廉な雪のその中で、大切な人達が待っていてくれた。
「ネア!」
安堵とそれ以外の感情で泣き笑いのような複雑な微笑みを浮かべたノアに、ネアは微笑んで手を振る。
ディノ曰く、おおよその戻り時間を伝えてあったそうで、その時間にみんなで出てきてくれたのだろう。
持ち上げてくれていたディノから下ろして貰い、ネアは安心して胸いっぱいに綺麗な空気が吸い込める場所で、ぴょいぴょいと飛び上がってみんなに手を振った。
「良かった良かった。無事に戻ってきたね」
「ダリルさんまで!ご迷惑と、ご心配をおかけしました」
「今回はうちの馬鹿王子のせい。叱っておいたから、勘弁してやってね」
「まぁ。エーダリア様は叱られてしまったのですか?事故だと聞いていますし、経緯を聞く限りは事故でしかないと思うので…」
「ネアちゃんも、こいつには甘いねぇ……」
ダリルは呆れた様子だったが、ネアは微笑んで首を振った。
そうしてエーダリアに向き直ろうとしたその時、どこかそわそわとこちらを窺っているノアと目が合ってしまう。
不安そうに見つめられ、ネアは先程まで一緒に居てくれたノアを思った。
「ノア、向こうでは、ノアが守ってくれたんですよ!」
そう言ったネアに、青紫色の瞳を瞠ってから、やっとノアはただ安らかな安堵の微笑みを浮かべてくれた。
氷色を帯びた白い髪は悪夢の中のノアより長くなり、ネアも持っている濃紺の幅広の天鵞絨のリボンで結んでいる。
「…………うん。僕は君を守ると思った」
「私が蹂躙の精霊王めの罠にかかってしまった時は、ひどい怪我をしてまで庇ってくれたのです!………ディノの傷薬があったから良かったのですが、ノアがいなかったら私は真っ二つになっていました…………」
「……………そいつはどうなったのかな?」
「む。ディノが表層を雑に剥いで、アルテアさんがくしゃっとやってくれました!」
「…………良かった。………でもごめんよ、やっぱり、僕の悪夢だったんだね」
そう悲しげに言ったノアに、ネアは振り返って背後の魔物達を見つめた。
どうやらドーミッシュとアルテアの表情で察したようなので、ネアは慌ててそんなノアに説明する。
「でも、ノアの悪夢だったからこそ、現場にノアがいてくれて助かったのでは?」
「ネア…………怒ってないのかい?」
「怒ったりしませんよ。困ったノアですねぇ」
「ほら、この子はそう言うと言っただろう?」
「……………うん」
(そっか。ノアが元々その可能性を考えていたから、ディノにも分かったんだ)
ディノにもそう言われ、くたりと安堵に項垂れたノアの手を握って捕獲しつつ、ネアはこちらに来てくれたウィリアムを見上げる。
白い軍服が朝の雪景色に映え、穏やかな風に揺れたケープの裏地が鮮やかな深紅に翻る。
しかしその瞳は、気遣わしげに曇っていた。
途端にドーミッシュが平伏したのも少し気になる。
「大丈夫か?どこも体に影響が出てないといいんだが……」
指の背でするりと頬を撫でられ、ネアは目を細めた。
その仕草に滲んだ優しさに心がほかほかして、ネアはますます嬉しくなる。
こうして大事に迎え入れられたということよりも、こうして案じてくれる人達がここでは健やかにいてくれるということが無性に嬉しくなったのだ。
「ウィリアムさんがドーミッシュさんを見付けてくれたのですよね。有り難うございました。それと、ご心配をおかけしてごめんなさい………」
「ネアが無事に帰って来れば帳消しだ。あの時期のウィームを見るのは辛かっただろう?」
「………ほぎゅ」
優しい声にふにゅりと涙目になったネアに、ウィリアムは微笑んで頭を撫でてくれた。
ノアはしゃがみ込んだまま、離さずにネアの手を握っている。
ディノとアルテアは、一緒に出迎えてくれたグラストとゼノーシュと何かを話しているようだ。
そちらはそちらで少し込み入った話をしているようだが、何かあったのだろうか。
(…………夜が逃げた………?)
漏れ聞こえてきた言葉に首を傾げていたところで、ふとネアは、エーダリアがどこか所在無く立ち尽くしていることに気付いた。
その隣のヒルドは目が合うと、ふっと眼差しを安堵に和らげて微笑んでくれる。
そちらに行こうとしたネアにずずいっとエーダリアを押し出したので、まずはエーダリアの対処をということだろう。
ネアは、任せ給えとヒルドに凛々しく頷いた。
ノアの手を離し、ウィリアムの横を抜けてさくさくと真新しい雪を踏んで歩み寄ると、エーダリアは何かを言おうとして言葉を飲み込んだ。
不安そうに動きを観察されているので、一度死んでしまったということが、かなり堪えているのだろう。
それくらいは分かるので、ネアは、敢えてそんなエーダリアの顔を覗き込むようにする。
「エーダリア様、無事に戻りました。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「…………よく無事に帰って来てくれた。……その、体の方はもういいのか?」
青ざめた頬に心配そうな瞳を見て、ネアはもう一度、エーダリアが疑わずに安心出来るように微笑む。
「はい。今迄にいただいた沢山のものが、あちこちで私を守ってくれたのです。エーダリア様がくれた小枝があったお陰で、ディノにも会えたのですよ!」
「あの小枝を贈ったことは、我ながら自身の選択に感謝している。…………ただ、その、……今回お前を悪夢の残響に落としたのは、私の手紙の中に入っていたものなのだ。……すまないな。お前に謝罪せねばと思うのだが、あれだけの目に遭ったお前に何と言えばいいものか………」
どうやらこの生真面目な上司は、ネアの苦労に見合った謝罪の言葉を探して思考の迷路に入っていたらしい。
「ディノから聞きました。……むむ、もしかして落ち込んでいますか?」
「と、当然ではないか!私の浅はかな行為で、お前を悪夢の残響に落としてしまったのだぞ……」
そう声を荒げてしまってから、エーダリアはまたしゅんとする。
「事故だと分かっているのに、執拗に謝るのが怪しいのです。実は、事故に見せかけて意地悪をしようとしていたのでしょうか?」
「ネア?」
「そうでなければ、どうか気に病まないで下さいね、エーダリア様。でなければ、私はエーダリア様の陰謀説を疑ってしまうので困るのです」
「…………陰謀ではない。限りなく私の失態なのは間違いないが、そこは疑わないでくれ」
「ふふ。それなら、ただお帰りと言ってくれればそれで喜んでしまうので、もう一度そう言っていただけますか?」
ネアのその言葉に、エーダリアは小さく息を飲んだ。
口を少しだけもごもごさせてから、気を取り直したようにいつもの凛とした眼差しに戻って、こちらを見る。
「………よく戻ってくれたな」
「はい!」
「ネア様、お体の方はもう宜しいのですか?」
「ヒルドさん!良く分らない魔術の何かが、えいやっと私を復活させてくれたようです。向こうのノアをとても怖がらせてしまいましたが、もう元気なのでご安心下さいね」
「とは言え、恐ろしい思いをされたでしょう。暫くはあまり無理をされませんよう」
「確かに恐ろしく悲しいものをたくさん見ましたが、今回の事件の一番の薬は、この今のリーエンベルクに帰ってくることだったのだと思います。ここに戻って来れて、皆さんがここにいることだけで元気になれてしまいます」
そう告白したネアに、ヒルドは瑠璃色の瞳に慈しみ深い微笑みを浮かべて頷いてくれた。
朝陽を透かした繊細な妖精の羽が森のステンドグラスのように煌めき、複雑でふくよかな色を雪の上に落とす。
無残に壊されたあの世界を見てきたネアにとって、こうした儚くも美しいものが健やかであるという光景は、ごくごくと飲む美味しい水のように心を潤わせてくれた。
ただ綺麗な妖精の羽を見たということだけなのに、幸せのあまりほうっと息を吐きたくなってしまう。
「ネア、お帰り。また落ちちゃったんだね」
「ゼノ、わざわざ迎えにきてくれて有難うございます!」
「ネア殿、………戦争というものは、むごいものです。よくご無事で」
次に迎えてくれたのは、グラストとゼノーシュだ。
グラストの言葉がずしりと重いのは、彼の一族も、統一戦争の時にリーエンベルクで家族を亡くしているからなのだろう。
現在一族の当主をしているグラストの父親は、本来は一族の末っ子で当主の後妻の子供だった。
伯爵家に最初に輿入れしたのはウィーム王家の血を引く女性で、その女性との間にグラストの父親にとっての兄達が三人もいたのだ。
けれども彼等は、王家の血を僅かにであれ引いていたことと、王宮付きの騎士であったことから、最後の夜をリーエンベルクで過ごした。
グラストにとっては祖父にあたる伯爵も、屋敷に戻るようにという王の気遣いを固辞し、最後までリーエンベルクに残ったのだと言う。
「父は、一族のことを任された叔父上と一緒に、伯爵家を立て直しました。父親や兄達の遺体を引き取りに行きたかったそうですが、全て海に流されてしまったと知ったのは終戦後ひと月してからのことだったそうです」
「私は逃げ惑うばかりで多くを見た訳ではないのですが、騎士さん達はみなさん勇敢でした。火に囲まれるということは生き物にとってはとても恐ろしいことです。それなのに、騎士さん達は最後まで王宮の外で戦っているという話を耳にしました。皆さん、立派な方達で、何よりもリーエンベルクを愛しておられたのでしょうね………」
「…………父にその話を伝えれば喜ぶでしょう。終戦直後にヴェルリアは、王宮を魔術閉鎖して制圧したと発表しましたので、逃げ出せずに苦しんではいなかっただろうかと、随分と苦悩していましたから」
(逃げ場も勿論なかった………)
でも、逃げ場を探して右往左往している騎士は一人もいなかった。
であれば彼等は、どれだけの恐怖や無念があれど、最後まで自分の意志でそこに立ったのだろう。
当時のウィーム王が最後の瞬間に解散を命じても、持ち場を離れる騎士は誰一人としていなかったのだと、帰り道にアルテアがぼそりと教えてくれた。
むごく、悲惨なことだが、そこには彼等の選択もあったのだ。
「そして、灯台の妖精さんに会いました。その方が、私を少しでも安全なところへと導いてくれたのです。エドモンさんというお名前で、今のエドモンさんと同じ瞳をしていました。お孫さんがリーエンベルクで騎士をされていると聞くと、嬉しそうでしたよ」
「おお、あの方に会われたのですね。エドモンは、自慢の祖父母が戦ったリーエンベルクに勤めたいと、騎士見習いから驚くような早さで腕を上げてきた男なので、そんな自慢の祖父がネア殿を救ったと聞けば、悪夢の中のこととは言え喜ぶでしょう」
「そうだったのですね。灯台の妖精さんと仲良しのディートリンデさんも、そのことに喜んでおられましたよ」
ネアがそう言えば、驚いたようにするのはエーダリアとヒルドだ。
「ディートリンデが?」
不思議そうなヒルドの声に、おやっと首を傾げて事情を説明すれば、ディートリンデは灯台の妖精について語ったことはないらしい。
あえて封じている記憶というものもあるかもしれないので、今度エーダリアが上手にその話をしてみようということになった。
「ただ、今年は夜が戻らないからと、新年の振る舞いがまだ出来ていないからな……その後に料理などを持って会いに行く予定なのだ」
「……………む?」
またしてもこてんと首を傾げたネアに、その話をしていたらしいディノ達もこちらに合流した。
聞けば、とある事件が起きており、ダリルも困ってしまっているようで、高位の魔物達にその相談をしていたところなのだとか。
なぜか暗い顔で進み出たゼノーシュが、事の発端をネアに教えてくれる。
「夜の系譜の精霊が、ザハの料理人に叱られて逃げてるんだよ」
「………ちょっと良く分りませんでした」
「ザハの料理が大好きな精霊だったんだけど、自分の知らないところでその料理人が新しい料理を作ったって聞いて、その料理人に意地悪をしたんだよ。そうしたら、もう来ないでいいって言われて逃げたの」
「………ゼノの説明だと、とんだ迷惑者のようです……………」
「うん。僕は少し怒ってる………。ネアも、帰ってきてすぐに美味しいものが食べられた筈だったんだよ」
「なぬ。………そう言えば、私がいなかった日数的に、明日が振る舞い料理の日だった筈です!………いえ、今が朝ということは、今日がそうだったのですね……」
ネアは一瞬、流れてしまったとはいえ、当初の予定日当日の朝であれば、エーダリア達は多忙だったに違いないと考えた。
慌ててぺこりと頭を下げる。
「ごめんなさい、皆さん。中止になった今日の新年のお祝いのことで、本当は忙しいところですよね」
「ネア様、このような状況ですが、今はこれでも夕方でして」
ヒルドの言葉に、ネアはぴたりと動きを止めた。
きょろきょろしてみたが、清廉な朝の空気に白い靄が立っている。
「…………ほわ。朝の早いお時間にしか見えません」
「夜の精霊が、夜の時間石を持ったまま逃げちゃったんだ」
ゼノーシュはかなりご立腹なのか、頬を膨らませてそう重ねて教えてくれる。
戻るなり可愛いものが見られて、ネアは心の傷が癒されるのを感じた。
「それは、こんな風に夕方が朝のようになってしまう大事なものなのですね………」
「元々、夜の系譜の生き物達が、新年の祝い膳のときには夜明けを調整するのだ。腕を振るう料理人達が早朝から仕事が出来るよう、その日だけ夜明けを告げる夜の時間石を使って、夜明けを早くしてくれる。今回の精霊は、よりによってその為に夜の宮殿から持ち出された時間石を持ったまま姿を消してしまってな………」
「元々が夜に潜んで日中は眠る精霊だ。捜索は難航しそうだな」
そう言ったアルテアに、ネアはぎぎっとそちらに顔を向ける。
勿論、ここに無事に戻ってくることが一番の目的であったが、間に合うように戻って来られたのであれば、新年のお祝いのご馳走を心ゆくまで楽しみたい。
「美味しいお祝い料理が………」
「ひとまず延期にはしたが、ボラボラの出現期間が長くなるので、長引くだけ厄介なことになるのは間違いない」
「…………ボラボラが」
「おい、こっちを見るな」
「プリッキュ」
「やめろ。お前はさっさと帰れ」
「プッキュウ」
ボラボラと聞いた途端に顔色を悪くしたアルテアは、ドーミッシュに冷やかされてしまい、ますます渋面になる。
「新年の祝いは、やはり魔術的な節目の儀式でもあるんだ。祝祭や儀式は順番が前後することはないから、年明けと同時に現れ始めるボラボラが、新年の儀を終えるまではずっと外に出ていることになるね」
「………ディノ、その精霊さんをすぐにでも捕獲しましょう!」
「アルテアも協力してくれるそうだから、君の体調に問題がなければ、明日にでも探しに行けそうかい?私だけで出てもいいのだけれど、出来れば今は君から離れたくないからね」
「任せて下さい!美味しいお料理の為に、是非ともその迷惑精霊めを捕まえたい所存です!!寧ろ、今夜はいいのですか?少しでも早い方がいいのでは?」
「今夜は僕達が探しに行くんだよ。だからね、ウィリアムはリーエンベルクに泊まってくれるんだ」
「まぁ、そうだったのですね、ゼノ。………ウィリアムさんがこちらに居てくれれば頼もしいです」
どうやら、ゼノ達が出払ってしまうこともあり、ダリルが急遽頼んでくれたらしい。
ウィリアムは、元々ネアのことも心配なので泊まるつもりだったと微笑んで快諾してくれたのだそうだ。
お世話になりっ放しでもあるので、ネアはせめてゆっくり休んで貰えればいいなと思う。
(ゼノ達がいないからとそんな依頼をしてくれたのは、帰ってきたばかりの私のことを考慮してくれたのだと思う………)
ネアはもしかしたらどっと疲れが出るかも知れないし、その場合はディノはネアに付きっきりだろう。
ちょっと落ち込み気味だったエーダリアと、また違う理由で、過去に触れたことで心が揺らいでいたノアがいる。
以前に祝祭や季節の儀式がずれ込むと境界が揺らぐと教えられていたネアは、ダリルがこちらの状況に配慮してお願いしてくれたのだと考えた。
「………というか、アルテアさんの顔色が………」
「キヒッ」
「そうだな。帰り道が必要か」
「プリッキュ?!」
ボラボラの気配に憂鬱になったアルテアを冷やかし続けた結果、ドーミッシュはぽいっとどこかの空間に放り込まれてしまった。
「ほわ、……まだお礼も言っていないのです」
「安心しろ。以前、お前が初めてあいつに会った島に放り出しただけだ。今のあそこは、アイザックが目をかけている土地だからな。あいつの逆鱗に触れなければいいが」
「………確実に叱られそうなやつですね」
叱られるどころか、夢の魔物はネアにとっては懐かしのルドヴィークに出会ってすっかり仲良しになってしまい、この先ずっとアイザックに邪険にされることになってしまうのだが、その時のネアは、知っている土地であればちゃんと帰れるかなと安心しただけだった。
「それと、俺も今日はこっちに泊まるぞ」
「………ああ。ネアを迎えに行ってくれて、助かった。それは勿論構わないが、いいのだろうか」
「むむ。私を案じてくれているというより、アルテアさんはすっかりボラボラに怯えてしまっているのでは……」
「やめろ。おい、つつくな」
「しかし、助けに来てくれた使い魔さんのことは守ると約束したので、ボラボラが怖かったら頼って下さいね。私も怖いので、一緒に避難しましょう」
「………僕さ、思ったんだけど、ネアとアルテアが一緒に避難したら、一緒に何かに巻き込まれる気がするんだよなぁ………」
「ノアが不吉なことを言います。やめるのだ………」
「…………さっさと、その夜の系譜の精霊を見付けるぞ」
そう言ったアルテアが、解散と言わんばかりの様子だったので、ネアは慌ててディノの方を振り返った。
まだ、悪夢から持ち帰ってきたノアの欠片を、ここにいるノアに渡していないのだ。
その視線に気付いてくれたディノが、ボラボラは平気だと澄ました顔をしているノアを呼んでくれる。
「ノアベルト、少しいいかい?ネアがね、あの悪夢の中から君の欠片を持ち帰ってきたんだ」
「……………僕の欠片を?」
「そこにいた君を置いてゆくのが悲しかったようだ。一緒に連れ帰ってきたけれど、受け取るかい?」
そう尋ねられたノアは、目を丸くしてから声を失った。
途方に暮れたようにじっと見つめられ、ネアは、自分を助けてくれた悪夢の中のノアを、そのまま消えてゆく悪夢の中に置いてくるのは嫌だったのだと説明する。
「勿論それは、私の我が儘でしかありません。受け取らなくても問題はないようなのですが、ここに、ディノに定着して貰ってあります。ノアはどうしたいですか?」
すいっと手を差し伸べてたネアに、ノアは目を瞬く。
「…………それってつまり、向こう側で君を守れた僕だよね?」
「ええ。私を助け出してくれて、怖い精霊さんからも守ってくれたノアです」
握り込んでいた方の手をそっと広げると、ノアの瞳が水面を揺らしたように色を変える。
青紫の美しい色を深め、そろりとネアの手に向かって指先を伸ばした。
受け取ってくれるのかなと心配そうに見上げているネアに気付くと、ノアはふにゃりと微笑みどこか子供のように拙く頷いた。
「それなら勿論受け取るさ。………時間というのはとても厄介なものなんだ。真実ではなくても、積み重ねてしまった時間のせいで鮮やか過ぎるものがある。………だからきっと、僕がないものねだりで欲しかったのはこういうものなんだろう」
伸ばされた手が重なると、ネアの手のひらがぽわりと光った。
重なった手のひらからあの花びらが浮き上がり、ノアの手に吸い込まれていった。
こういうものは初めて見ると身を乗り出してダリルも目を輝かせ、エーダリアはヒルドと一緒に息を飲んで見守る。
ウィリアムと何かを話していたゼノーシュとグラストも、こちらを振り返った。
(…………あ)
視線の先で、ノアの目が泣きそうに歪む。
歪んでから唇の端を持ち上げて微笑み、またくしゃりと泣き笑いの表情になる。
欠片を持ち帰ったネアの手のひらをそっと撫で、今度は両手で覆うと宝物のようにきゅっとしてくれた。
「………………ネア、これを持って来てくれて有難う。真実を知っても、君がここで元気でいてくれていても、あの日の僕はずっとあの日のままどこかでうろうろと彷徨っているような気もしたけれど、…………君はとうとう、過去の僕まで救ってくれたんだ」
「ノア…………」
「だって、これで僕は、存在しなかった統一戦争最後の日の君を、こんな形で助けることが出来たんだからね」
「あちら側のノアは、命懸けで私を守ってくれました。私の知らない頃のノアなのに、私の知っている家族なノアだったのですよ!」
「……………シル、ネアが泣かせる」
そう呟いたノアはほんとうに涙目だったのだが、それが急に気恥ずかしくなったのか、さっとヒルドの後ろに隠れるとヒルドの肩に顔を埋めてしまった。
突然甘えられたヒルドも驚いたのか、普段はそうそう崩れない涼やかな美貌に驚愕の眼差しを一度浮かべてから、すぐさま心を落ち着けたのかいつもの表情に戻った。
「やれやれ、彼は暫くは動けそうにありませんね」
「ヒルドは、暫くこのままでいてくれないと困る」
「まったく。今日ばかりは、仕方ないでしょう」
そんな微笑ましいやり取りを見守り、ネアはさっと標的を変えた。
「ノアは戦線離脱してしまったので、次はエーダリア様へのお土産です」
「ネア………?その、今回のことは私の不注意で………」
「なぬ。まだそんなことを言っているのですか?でも今回のことは事故だったのでしょう?それとも、実は私を亡き者にしようとして…」
「し、してない!」
「ではやはり、ただの事故なのです。………どうか、事故で咎竜めに呪われ、事故で死者の国に落ちて闇の妖精さんにも攫われた私にはもう、言わないで下さい…………」
そこでじっとりと世を儚む暗い目になったネアに慌てたのか、エーダリアは力強く頷いてくれた。
掘り返してはいけない問題だと、やっと分ってくれたようだ。
「そ、そうだな。すまなかった。………だが、私は仮にもお前にとっての管理責任者でもあるのだ。そういう意味では、心から自身の迂闊さを恥じている。これからは専門書架をアルテアに紹介して貰い整えるので、どうか安心してくれ」
「専門書架………」
「エーダリア様…………。少しの間、そのご趣味を控えたりはなさらないのでしょうか?」
「……………控え……。そ、そうだな!これからはいっそう厳重に管理しよう。……いや、本気でそう考えているのだぞ?管理用の術式も新規に開発したのだからな!」
ヒルドは片手で目元を覆って項垂れてしまったが、ネアはエーダリアに大事な趣味を手放して欲しくなかったのでそんな風に頑固でいてくれて嬉しかった。
そこで取り出したのは、ディノが特殊な魔術で悪夢の要素だけを剥がして書き換えてくれたあのレース編みのショールだ。
「……………これは?」
「悪夢の中で出会ったものですが、エーダリア様のお母様の為に、誰かが編んだ妖精さんのヴェールなのです。それを、あの蹂躙の精霊王めがぽいっとやったので、私がくすねてきました!………その、持ち帰る為に少し変質してしまっていますが……」
エーダリアは目を瞠り、鳶色の瞳を揺らした。
声もなくそっと手を伸ばすと、ネアが差し出したレース編みに慎重に触れる。
「悲しい思い出も刺激してしまうかもしれませんが、これはこのショールを編んでくれた誰かの存在の証だと思うのです。そこにたくさんの家族がいて、こうしてエーダリア様がいるという、そんな糸に見えたのです。……だからこれは、私にとっても宝物のように見えました」
「エーダリア様…………」
ヒルドがはっとしたようにその名前を呼んだ。
ぽとりと、エーダリアの手の甲に涙が落ちる。
慌ててその雫を回収しつつ、エーダリアは消えてしまいそうな声で呟く。
「…………正直なところ、母上を愛してはいたが、滅多に会わせていただけなかったあの方をどれだけ母として慕っていたのかは、情けないかな、……自信がない。…………だが、私の手元の母上の遺品はあの王宮から支給されたものしかなく、かつての血族達のものも殆ど残されていない。………失われた家族や血族のもので、直接私に繋がるものというのは、…………これが初めてなのだ」
最後の声が震え、エーダリアは一度だけぎゅっと目を閉じた。
そんな彼の隣に寄り添ったヒルドに、反対側から泣き虫だねぇと頭を軽く叩いていったダリルがいる。
ノアも慌てたのか、割り込んでいってエーダリアの背中をぽんぽんと叩いていた。
「…………礼を言う、ネア。お前が来てからの私は、すっかり贅沢になってしまったな」
その言葉に微笑んで、ネアは隣にいる魔物の三つ編みをぎゅっと握った。
「それは、私がこの世界に来て、止まっていた息を吹き返すことが出来たから、動いた波紋なのでしょう。ディノが、私をここに呼んでくれたのですよ。……そして皆さんがとても大事なものになってくれて、リーエンベルクが私のお家になったからなのです」
ネアの言葉に一度目を瞠ってから、エーダリアは深く頷いてくれた。
ノアも、ヒルドも、グラストもゼノーシュも、みんなが微笑んで頷いてくれる。
「そして、ウィリアムさんが力を貸してくれて、アルテアさんが怖いものをやっつけてくれました!」
「ネア、忘れられたかと思ったぞ」
「まぁ、大事なお友達を忘れたりはしません。ウィリアムさんも、私の世界のとても大切な要素なので、今夜は側にいてくれて頼もしいのです!」
「うーん、友達か。家族に加えてくれていいんだぞ?」
「…………むむ。その場合はどこに。ノアが弟だとして…」
「え?!それまだ弟のままなの?!」
「む。さらりとそこに嵌め込もうとしたのに、統合された記憶に邪魔されました。観念して弟になるのだ!」
その後は暫く、弟が欲しいネアと、弟では嫌なノアがわしゃわしゃしてしまい、一番忘れてはいけない問題が明らかになったのはネアが部屋に帰ってからだった。
「さぁ、君の体に戻ろうか」
「………………ほわ」
なまじ、エーダリアもグラストも魔術可動域が高いので普通に接してくれてしまい、ネアは自分が魂だけの状態であることを思い出せずにいたのだ。
寝台に横たわった自分と対面するのは非常に複雑な感覚であったので、ネアはもう二度と幽体離脱風の目には遭いたくないと、晩餐の席で魔物達に切々と語ったのだった。