228. 悪夢が明けようとしています(本編)
ネアは咄嗟に大事な魔物に駆け寄りたくなってしまったが、それよりも今はと腕の中のノアをしっかりと抱き締めた。
(まだ怪我が完治していないかもだし、私が守らなければ!)
けれどもディノはすぐさま駆けつけてくれて、ネアのことをノアごと抱き締めてくれたし、蹂躙の精霊王との間にはもう一人の見慣れた魔物が立ちはだかってくれた。
抱き締める腕の強さを感じながら、気遣わし気に潤んだ水紺の瞳を見上げる。
声には吐息の温度があり、大好きな魔物のいい匂いがした。
ぽろっと溢れた最後の涙をディノが指先で拭ってくれ、ネアはその指の温度に心がくしゃりとなる。
「ネア、怪我はないかい?」
「………ふぎゅ。私がしでかしてしまって、ノアが守ってくれました。ノアにはディノの薬をかけたのですが、全快かどうかが分かりません……。ノア、大丈夫ですか?」
ネアがそう悲しげに言えば、ノアが小さく微笑むのがわかった。
髪の毛は少し乱れているが、もうそれ以外に先程までの負傷の余韻はない。
白いシャツもどこも赤く染まっていなかった。
首をこちらに巡らせ、君の名前はネアなんだねと言うので、ネアは微笑んで頷いた。
「はい。こうして私の魔物が一緒にいる今、やっとノアに本当の名前が言えます!」
「ネイ、………ネアって呼んだ方がいいのかな?…………ええと、僕の傷はもう大丈夫だけど、ごめん、………ちょっとシルハーンに抱き潰されかけてる」
「ほわ、……ディノ、ノアは大怪我明けなので優しくしてあげて下さい。それと、アルテアさんは大丈夫ですか?いますぐにでも、きりんさんを出動させられますが………」
ネアが心配したのは、先程の精霊の相手をしてくれているアルテアだ。
しかしそちらを見ようとしたネアは、ディノにくるりと首を戻されてしまった。
その隙にディノの手から逃れられたノアは、なぜか落ち着かない様子で少しだけ避難してしまう。
ディノに、ネア諸共とは言え抱き締められたので、いささか動揺しているようだ。
「………むむ。なぜに首をぐきりとされたのですか?」
「あの精霊であれば、アルテアの方が階位も力も上だ。私が魔術の表層を剥いでおいたから安心していいよ。ただ、………表層を削ぐ時に少しだけ手荒になってしまったし、アルテアも手加減はしていないから、君はそちらを見ない方がいい。ノアベルトも、不意を突かれなければここまでの傷は負わなかっただろう」
「ふにゅう………私が……」
「君のせいではないよ。精霊達はね、同階位の魔物よりは力が劣る分、その資質に見合った特性を伸ばすものだ。………あの森を見てしまったのかい?」
「…………ふぁい」
「うん。あんなものを森に吊るされれば、誰だって声を上げるさ」
ネアが見てしまった森の様子を知っているのか、ディノはどこか冷ややかに瞳を細めた。
水紺の瞳に青白い炎のような煌めきが揺れた気がしたが、こちらを見たディノは優しい顔をしている。
ノアはもう問題なく一人で立てると言う事で、ネアはすぐにそのままディノに持ち上げられた。
しっかりと手を回して抱きついた首元に顔を埋めると、夢の中で出会った時とは違ってその肌の質感や体温を感じることが出来る。
(ディノだ……………)
ここに大事な魔物がいる。
向こう側にはアルテアもいて、もう絶対的に大丈夫だと思える。
だからネアは、そんな魔物にくたりと寄り添った。
「今日の夜の夢の中で会える予定でしたが、それよりも早く迎えに来てくれたのですね」
「君にこれ以上怖い思いをさせられないからね。…………ノアベルト、この子を守ってくれて有難う」
「……………シルハーン」
ディノも一度だけネアの首元に顔を埋め、そうして顔を上げてからノアにお礼を言ってくれた。
お礼を言われてしまったノアは目を丸くすると、ちょっと挙動不審気味に視線を彷徨わせる。
少しだけ赤く染まった耳が何だか可愛い。
「……この子は、僕にとっても大事な子だからね。それに、………そっちでは一緒に暮らしているんだろう?」
「君は、私達と同じ棟に住んでいるよ。同じ廊下沿いの部屋を、ネアが選んだんだ」
「…………うん。じゃあ、尚更どんなことをしても守らなきゃだ。シルハーン、僕は………」
そこで、くぐもったような悲鳴が聞こえてきて、ネアは慌てて振り向こうとしたが、すかさずディノに目を塞がれてしまった。
「ディノ?」
「そちらは見ない方がいい。あまり気持ちの良いものではないだろう」
「……………アルテアさんは、怪我をしたりしていませんか?」
「彼には傷一つないよ」
「であれば、ノアに怪我をさせたあんな意地悪精霊めはどうなってもいいのです!きりんさんの絵とぬいぐるみで囲んで激辛香辛料油をお顔に注ぐつもりでしたので、それが出来ないのがただ心残りなばかりでした」
「ご主人様……………」
「わーお。それって、あのニーノが倒れそうになった生き物だよね?…………僕、その死に方だけは嫌だな」
少しだけ目隠しのままでネアが我慢していると、一仕事を終えたアルテアがこちらに戻って来たようだ。
「もう良さそうだね」
「良かった。無事に終わったのですね………」
ディノの指の間からそちらを見れば、漆黒のスリーピース姿には乱れ一つなく、赤紫色の瞳はどこか鋭利な刃物のようだ。
帽子をかぶってステッキを持ったその姿には、魔物らしく立ち昇る不穏さがある。
けれどネアは見慣れた魔物の姿に、そんな禍々しさをものともせずにほっとしてしまう。
「…………もう大丈夫なのか?」
「アルテアさん!」
ディノに目隠しの手のひらを外して貰ったネアは、アルテアと目が合うとぱっと笑顔になった。
勿論ディノが一番頼もしいのだが、事故率はさておき、こうして誰かを排除しようとした際の安心感は計り知れないアルテアは、とても頼もしい。
ふぐふぐと涙目になったネアになぜか少しだけ無言になってから小さく息を吐くと、アルテアは、一度手袋を外してから伸ばした手でネアの頭を撫でてくれた。
いつもは悪さを警戒する手でもあるが、ネアはほっとして大人しく撫でて貰うことにした。
「…………ネアが使い魔に浮気する」
「むむ。優しいアルテアさんがいる、貴重な時間なのです。たくさん撫でて貰って元気になりました」
「困ったご主人様だね。幾らでも撫でてあげるのに」
「なぬ。では撫でて下さい。大事なノアに私のせいで怪我をさせてしまって、弱っていたのです」
「可愛い。甘えてくる…………」
そこに、アルテアが放置してきてしまったからか、結界のようなものに閉じ込められていたニーノが、ノアに救出されてやって来た。
尻尾をけばけばにして、どちらがご主人様を撫でるか闘争を見守っている。
「良かったです。ニーノさんもご無事ですね?」
「……………ああ。……シルハーン、………その」
もそもそと話しかけられて、ディノはちらりとそちらを見た。
そしてなぜか、不安そうにネアを窺う。
ぐりぐりと頭を擦り付けられて、ネアは目を丸くした。
「ディノ…………?」
「毛皮を撫でたいのなら、後で幾らでもムグリスになってあげるよ。君は尻尾よりも、腹部を撫でるのが好きなのだろう?」
「あらあら、毛皮競争ですね?ふふ、ニーノさんの尻尾も素敵ですが、私の一番のもふもふはムグリスディノですよ」
「ご主人様!」
「そして、愛くるしいちびふわ達に、しどけない白けものさん、また一緒に寝たいウィリアムさんな竜さんもいますしね」
「ご主人様……………」
「まぁ、なぜにしゅんとしてしまったのでしょう?」
「おい、気安くウィリアムと一緒に寝るな。あいつは腹の底まで真っ黒だぞ」
「ある程度仲良しで毛皮が素敵ならば、そのくらいのことは気になりません」
ネアがそう言うと、なぜかアルテアにふみゅっと鼻をつままれた。
その様子を見ているニーノの尻尾がけばけばでぴこんと立ってしまっているので、きっと記録の魔物も、鼻摘まみは酷い仕打ちだと思ってくれているに違いない。
「むが!再会して早々に苛めっ子です!慰謝料として、美味しいお肉系のパイを所望します」
「いくらでも作ってやる。さっさと帰るぞ」
「…………タルト」
「ったく。………食い気が減ってないようなら、大丈夫だな」
「むふ。優しいアルテアさんのままでした。ちびふわにも会えますか?」
「やめろ」
残念ながら、ちびふわ召喚のお願いには顔を顰められてしまった。
そんなアルテアを見ながら、ニーノは尻尾をブラシ状にしたまま、隣のノアにこっそりとあれは偽物のアルテアかもしれないと呟いている。
しかし、本物なのだろうかと見つめていたアルテア本人に鬱陶しそうに睨まれると、尻尾をへなりとさせ未来では何が起こるのだろうとしょぼくれてしまった。
「記録は今迄、その資質を変えることはなかった。しかしこれでは全く想像がつかない。困ったことだ…………」
「あら、新しく記録する事が沢山あって面白いのでは?」
「……………そうか!確かにそうだな」
ネアに言われた言葉が気に入ったのか、記録の魔物は尻尾をふりふりさせて元気になってくれたようだ。
ディノ曰く、記録の魔物は記録をつけている時が一番幸せなのだそうだ。
「プリュ!」
そこにぴょいっと弾みながら駆けてきたのは、懐かしの短足子鹿だ。
ネアはおやっと眉を持ち上げてから、こちらを見た夢の魔物にディノの上から小さく会釈する。
「まぁ、ドーミッシュさんです。一緒に来てくれたのですか?」
「一応、こいつの管轄内だからな」
「キヒッ」
「やめろ。寧ろ事故ったのはお前の方だろうが」
「プリッキュ!」
「そうだね。君がいてくれて助かったよ」
「プッキュウ!!」
「ふざけるな。おい、爪先を踏むな!」
「キヒッ」
アルテアと夢の魔物は相変わらずのやり取りだったが、ネアはそんな空気の柔らかさがすっかり嬉しくなってしまって口角を持ち上げる。
ノアにも、こういう愉快なものがあるのだぞと見せてあげたくて、そちらを向こうとした。
しかしそこで、アルテアが思わぬことを口にしたのだ。
「お前が悪夢の起点だったか。さっさとこいつとの鎖を切って、戻るぞ」
「…………え」
ネアが思わず声を上げてしまったのは、そう言ったアルテアが真っ直ぐに見据えていたのが、ノアだったからだ。
しかし、驚いてしまったネアに対し、ノアはとても落ち着いており、今そのことを知ったという風ではない。
ディノもその可能性を考えていたのか、あらためて驚いたような気配はなかった。
「ノア…………?」
「うん。確証を得た後は何度か言おうとしたんだけどね。ほら、さっきの精霊の襲撃もあったから言いそびれたまま、先に言われちゃったな」
「先程から何度か、何かを言ってくれようとしていたのは、そのことだったのですね………」
「ここが悪夢の残響だと気付いた後、君をあのリーエンベルクから連れ帰って来れたことを考えたら、悪夢は僕のものじゃないのかなと思ったんだ。それにここの裏門はね、僕がまだウィームに滞在していた頃に、リーエンベルクの歌乞いに会えるかなと思って、擬態をしてよく歩いていた場所だったんだよ」
ノアは微笑んでいる。
でもネアは、こんな風に大事に守ってくれたノアとの鎖を切るという言葉に、何だか胸が苦しくなった。
アルテアは普通に鋏のようなものを取り出しているし、ディノも特段構える様子はない。
けれども不安になったネアは、さっと手を伸ばして魔物の乗り物の上からノアの袖を掴んでしまった。
その途端、アルテアが渋面になる。
「おい………」
「むぐ。…………ノアに酷いことをしませんか?」
叱られそうな気配だったが、アルテアはまだ優しい魔物のままだったのか、涙ぐんだネアを見て表情を和らげてくれた。
「言っておくが、ここは悪夢の中だぞ」
「ありゃ。悪夢を解くのが怖くなったのかな?僕は大丈夫だよ。ほら、ここは記憶の残響のようなものだし、本来の僕はそっちで楽しくやっているんだからね」
「し、しかし、こちらのノアが悪さをした訳ではないのでしょう?それなのに、ちょきんと切り離すなんて………」
良く分らないまま、でも目の前のノアを守りたくて悲しくなってしまったネアに、ディノがふわりと頭を撫でてくれた。
せっかく来てくれたのに我が儘だとは重々承知していたので、へにょりと眉を下げたネアに、静かな声で今回の悪夢の残響の成り立ちを教えてくれる。
「ネア、悪夢には起点があるんだよ」
「起点……………」
「物事には様々な視点がある。だから、悪夢が悪夢である為には、その物事を悪夢として見ていた誰かが必須となるんだ」
「その出来事を、…………悪夢として認識していた方の存在が…………」
思わずそちらを見てしまったネアに、ノアは微笑んで頷いた。
青紫色の瞳には淡い光が揺れる。
曇天の隙間から淡く差し込んだ光の筋が、その氷色の散らばる白い髪をぼうっと光らせた。
「そこでもう一つ。悪夢はね、悪夢だからこその特徴がある。悪夢であることの最大の武器が何だか分かるかい?」
「…………嫌なことを見せます」
「うん。それで大筋はあっている。それが悪夢の最大の特徴で、武器だ。だから本来の悪夢は、その最大の武器を何度も使う」
「何度も…………?」
「そう。この悪夢の最大の武器は、あの統一戦争でリーエンベルクが落ちた夜なのだろう。あれだけのことがあったのだから、それは間違いない。それなのにここではもう、あの夜を繰り返していないだろう?」
「…………それはつまり、普通の悪夢ならそれを繰り返して見せてきた可能性があるのですね?」
「うん。それが普通だよ。その悪夢が武器を使うまでの助走に時間をかけることはあっても、攻撃を止めることはない。だからつまり、ここはもう悪夢としての形を成していないんだ。それはなぜかというと、悪夢を悪夢たらしめる要素が壊れてしまったからなのだと思うよ」
「……………もしかして」
ネアの言葉に、ノアがもう一度微笑みを深める。
肩を竦めて穏やかに苦笑すると、安心させるように頷いてくれた。
「うん。そういうこと。どんな魔術にも理の上での出口が必ずある。そして今回の悪夢は、僕が君を助けることが、唯一の出口だった。……でもね、ここには残響の要素も大きかったから、悪夢が終わってしまったことでも晴れられない悪夢が歪み始めていたんだ。…………迎えが早く来てくれて良かったよ」
「ノア……………」
「プリュ!!!」
ここで褒められたい系の子鹿が、アルテアの靴の上に立ってきりっとポーズを取った。
小さく息を吐いたアルテアが、ステッキの先でドーミッシュを小突き回しながらボールのように器用に転がしてゆく。
「プリュ?!プリュッキュ!!プリュー!!」
ころころと転がされてゆく子鹿と、そんな子鹿をステッキで転がしてゆく魔物が少し遠くまで行ってしまうまで見送り、ネア達は静かに会話に戻る。
「………えっと、君はきっと、ここに落ちる直前の呪いが起動した時に、僕に触れていたか、僕のものに触れていたんじゃないかな?」
「そう言えば、狐さんのボールに触れていました…………」
「うん。それだね。…………そうか、そうだよね。ボールかぁ…………」
「む。落ち込んでしまいました………」
ノアがボール遊びをしているんだねと落ち込んでしまった隙に、ネアはディノに一度地面に下して貰うと、先程の騒動で再び地面に取り落していた第三王女のレース編みのショールを拾い上げた。
しかしそうすると、なぜかドーミッシュ転がしから戻って来たアルテアが駆けつけて来る。
「これなのですが………む、何をするのだ」
「お前を野放しにしておくと、すぐに事故るからな」
「むぐぅ」
「プッキュウ………」
しかしその少しの自由行動も許されないのか、すかさずアルテアに捕まえられてしまった。
小脇に抱えて雑に持ち上げようとするので、ネアはじたばたしてからディノの腕の中に返還して貰う。
あまりの過保護さに、へろへろで戻ってきた短足子鹿も呆れているではないか。
「そのショールがどうかしたのかい?」
「どうにかして、持って帰ることは出来ませんか?エーダリア様のお母さまのものなのです」
「そのくらいなら、ここから切り離して持ち帰ることは出来るだろう。ただし、織り込まれた魔術は抜け落ちてしまうけれどいいのかい?」
「はい。きっと守る為のものでしょうから残念ではありますが、これをエーダリア様に見せてあげられればいいので、それでお願いします」
「君が、ここで怖い思いをするばかりではなく、何かを持ち帰りたいと願ってくれて良かったよ」
「ふふ。ディノは優しいですね。こうしてちゃんと迎えにきてくれる優しい魔物です」
「ご主人様…………」
そのショールをふわりと鈍く光る魔術の靄のようなもので包んでくれたディノに、ネアはほわりと微笑みを深めた。
有難うの意味も込めて頭を撫でてやれば、嬉しそうに目元を染めてネアの手に三つ編みをそっと乗せた魔物に、こちらを見ていたニーノの目が困惑に揺れている。
仕方なくネアは、これは親愛の情の表現の形なのだと、厳めしい顔で説明しておいた。
ざあっと、強めの風がリーエンベルクの裏門近くにある木々を揺らした。
外周にある森の中でも、この部分は街にも面しており、禁足地の森程には深くない。
けれどもネアは、いつもなら目を細めて愉しむ風に首を竦める。
「………あの精霊さんは大嫌いです」
「森にあったもののことだね?君が怖がるといけないから、片付けてあるよ」
「ディノ………」
「安心しろ。この悪夢の中でだけだが、あの精霊は、もう二度と目を覚まさない」
「アルテアさん………」
先程まであの蹂躙の精霊がいた場所にはもう、黒く焦げたような跡が地面に残っているばかりだ。
それは今のリーエンベルクの状況と合わせて不穏な感じもしたが、ネアにとっては心から安堵する光景だった。
(これで、私達が上に戻ってここが消えてしまうまでの間でも、ノア達が傷付けられることはない……)
そう思って安堵するけれど、残してゆくということがやはり苦しいのだ。
ノアの方を見るとどうしても眉が下がってしまうので、ディノが素敵な提案をしてくれた。
「では、この悪夢との繋がりを切った後に、ここにいるノアベルトも悪夢の一かけらとして持って上がろうか。悪夢である以上形は成さなくなるけれど、上で待っているノアベルトにここでの記憶も引き継げるよ」
「なぬ。…………それは、ここにいるノアに負担を強いませんか?」
「そうだね。この世界が霧散するより一足早く形はなさなくなるけれど、それで君が良ければ」
「プッキュ!」
「ドーミッシュもいることだしね」
そうして、ネアとディノ、ドーミッシュに見つめられたノアは目をきらきらさせて固まっていた。
「…………一緒に連れて行ってくれるのかい?」
「ノアは、嫌ではありませんか?」
「勿論、嫌ではないよ。…………上の僕も嫌ではないといいのだけど」
「むむ」
「それは君自身が選ぶことだ。取り込まなくても、正しい時間軸の中に溶け込むから、問題もない」
「うん。…………うん、そうだね」
ディノは、口元をもにょりとさせて頷いたノアに淡く微笑みかけ、その微笑みの澄明さにネアは胸の奥が暖かくなる。
(魔物らしく酷薄な時もあるけれど、ディノは大切にするものには優しい魔物なのだ)
そのことが誇らしく、何だかとても暖かい。
「ここで、ネアと出会ってからのことは、君にとって不愉快な出来事だったかい?」
「とんでもない。僕がどれだけ嬉しかったか。…………そうか。それならそちらの僕も、この記憶を受け取るんだろうな」
「きっとね」
ネアはそこで、ぽつんと立っているニーノにも手を伸ばしてみたが、ニーノは苦笑して首を振った。
「俺はここに残ろう。君達や今回の事件を知らない自分にこの記憶が戻されても、困惑するだけだろう。それに、せっかく書き換えた記録がこちらからのものと混ざると良くないからな。記録に歪みが出たら許し難い……!!」
「………むむ。それは、ニーノさんにとっては大問題なのですね」
「ああ。何よりも大切なことだ」
「それと、アイザックさんはどうしましょう?お部屋を貸してくれたり、鋏探しをしてくれたり…」
「あいつは放っておけ」
「あの方も連れ帰られたいとは思わないだろう。……何というか、その種の感傷は持たなさそうだ」
「うーん、アイザックはいいんじゃないかなぁ」
「プリュ」
「ネア、それはこちらの世界のアイザックだ。彼は魔物らしい魔物だし、君に対しての好意や評価は君の知っている彼とは違うだろう。場合によっては帰路の不安要因になりかねないから、このままにしておこうか」
ネアはアイザックのことも気になったのだが、全会一致でそちらはそのままにしておくことになった。
少し可哀想ではないかとも考えたが、ディノの最後の言葉でネアも気持ちを切り替える。
別れの時が近付き、ネアはくいっとディノの三つ編みを引っ張って、ニーノにも一緒にお礼をして貰った。
王様にお礼を言われたニーノは、尻尾をぴるぴるさせて感激している。
「妙な言い回しにはなりますが、悪夢としてここに存在したことで得られた喜びに、ここに在る私にとっては、得難い幸福でございます。我が君」
「うん。それなら良かった」
「おい、そいつは閉じ込められていただけだろ…………」
「しかし、相談に乗ってくれ、昨日も調べ物を手伝ってくれ、今日も一緒にここまで来てくれたのですよ?尻尾もふかふかです!」
「最後が余計だな」
「…………ニーノさん。お別れの前に、……なぬ?!」
しんみりしたネアは最後に握手でもしようかなと手を伸ばしてみたところ、なぜかアルテアにその手を掴まれた。
困惑して見上げると、アルテアはもう片方の手でニーノをしっしっと追い払っている。
「余分なものを増やすな。些細なことでも、因果や縁に繋がりかねないかならな」
「むぐぅ。尻尾…………」
「しかもそっちか。余計にやめろ」
「ありゃ。まだ尻尾は掴むつもりだったんだね」
「な、伴侶でもない相手に、この尻尾は掴ませないぞ!」
ニーノにも警戒されてしまい、ネアは行き場を失った手をわきわきさせて、悲しげにアルテアを見つめる。
「尻尾…………。この際、白けものさんに会わせてくれたりは………」
「しないな。諦めろ」
「…………ぎゅう」
「ネア、帰ったらムグリスになってあげるよ」
「ふぁい。ふかふか尻尾な気分でしたが、ムグリスディノのお腹で心は満たされる筈なのです」
「可哀想に。他の生き物の毛皮になんて、もう惹かれてはいけないよ?」
ネアがあんまりにもしゅんとしたからか、アルテアはその後少しだけ白けものを登場させてくれるのだが、その時はまだつれない素振りを崩さずにいた。
「切るぞ」
アルテアが手にした鋏は優美で細身なもので、この華奢な鋏に、果たして呪いが断ち切れるのだろうかと不思議になる。
けれども、白い手袋の手に握られた鋏には不思議な異世界的な美しさもあり、アルテアが鋏を持つことで何だかネアには分からない特別な力を振るうような気もするのだ。
その白手袋の手が虚空を撫でるようにすると、しゃらりと、どこかで硝子細工の鎖が揺れる音が聞こえた。
その姿の見えない鎖を、アルテアがじゃきんと素早く断ち切る。
「ほわ…………」
その瞬間、じゅわっと立ち上った黒い蒸気のようなものを、ドーミッシュが飛び上がってぱくりと食べてしまった。
「プリッキュ!」
「うん。助かったよ、ドーミッシュ」
「プッキュ!!」
けれどもネアは、活躍したドーミッシュよりも目の前の塩の魔物をじっと見ていた。
しゃらしゃらと淡くダイヤモンドダストのように煌めいて、細やかな光の粒子になってゆく魔物は、なぜかひどく満足げだ。
「やあ、こんな体験は初めてだな」
「ノア、ここですよ。連れて帰りますからね」
ネアがそう手を差し出すと、抱き締めてくれている魔物が淡く微笑んだ。
「君が受け取ったら、私が固定しよう」
「はい!大事に持って帰るのです!!」
「うん。……………僕はほんとうに、幸せ者になったんだなぁ」
光はその煌めきを細やかに淡くしてゆき、最後に残ったのは一枚の花びらのようなものだった。
ひらひらと風に舞ってネアの手のひらに落ちると、しゅわりと溶けて見えなくなる。
「むぎゃ!溶かしてしまいました!!」
「大丈夫、固定させただけだよ。あとでその手を、ノアベルトに差し出してごらん。その先はきっと彼が選ぶだろう。彼が選んだら固定を外すから、普通に使っていて構わないからね」
「…………はい」
一瞬またしでかしたのかと焦ったネアだったが、ディノの言葉で深く安堵の息を吐いた。
顔を上げるともうそこにはノアがいなくて、代わりに少しだけ見慣れてしまった短い間の協力者がいる。
「ではニーノ、我々は戻ろう」
「帰路のご無事をお祈りしております。そして、悪夢の中の身とは言えども、御身に変わらぬ忠誠を。我が君」
「ニーノさん、有難うございました。たくさん言葉を尽くして下さったこと、探し物に協力してくれたこと、心から感謝しています」
「ああ。王を宜しく頼むぞ」
こつりと踵の鳴る音がした。
「プリッキュ!」
ドーミッシュの声が聞こえるのと同時に、ネア達の周囲は暗く明るい闇に転じる。
焦げ臭い風と涙の香りのするリーエンベルクが遠ざかり、ぽわぽわとした不思議な暗闇をいつの間にかみんなで歩いていた。
「すぐに戻れるからね」
「……はい。みなさんに心配をかけてしまいました」
「君が無事に帰ってくる以上のことがあるだろうか」
「ノアだけでなく、私も幸せ者です!………アルテアさん、助けに来てくれて有難うございました。怖い精霊さんをやっつけてくれて嬉しかったです」
「………悪夢の切断は、ある程度繊細な作業だからな」
「また今度アルテアさんが困ったことになったら、必ず私が助けに行きますね!」
ネアのその言葉にアルテアはなんとも言えない顔で固まってしまったので、事故ると考えられているのが複雑だったのだろうか。
けれどもネアは、あの時に蹂躙の精霊王との間に立ちはだかってくれ、その後で丁寧にネアの心が落ち着くまで頭を撫でてくれて嬉しかったのだ。
「アルテアなんて………」
「むむ。ディノはそもそも、私のいないところで事故らせないよう、側から離しません!」
「ご主人様!」
あわいの闇の帰り道で、ネアはディノから、心配してくれたウィリアムも来てくれているが、戦争の悪夢なので影響を恐れて迎えには来れなかったこと、ノアが怖がっていたことと、エーダリアが落ち込んでいて、ヒルドもきっととても心配していることを教えて貰った。
「君の家に帰ろう」
その言葉の響きに、胸の奥がおかしな音を立てる。
リーエンベルクは、ネアがやっと見付けた大切な家なのだ。
それは他に邸宅や別荘を持っても揺るぎない、謂わば実家のようなものである。
「ええ。私達の家に帰りましょう」
そんな言葉を持つことが出来る贅沢さに、ネアはいつかの自分の悪夢にも、こんな未来が待っているのだと囁いてやりたかった。
きっとさっきのノアのように、幸せ者になるのだなと嬉しそうに微笑んでくれるだろう。