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227. 胸が潰れそうになりました(本編)



ネア達はその日、リーエンベルクの裏門を目指していた。


ウィームは重苦しい曇天の下、ひっそりと静まり返っていた。

見知ったリーエンベルクであればその周囲を取り囲む美しい門と、門沿いに咲き乱れる花々や奥に広がる森の緑を楽しみながら歩く事の出来るこの裏手の道であるが、今は門の一部は崩れ落ちており無残に焼け崩れた王宮の一部が外からも見えた。


リーエンベルクの内部にはヴェルリアの兵達がいて、屋根の上には火竜の姿もある。

どこか不穏な臭気にネアは背筋がぞくりとした。


森側には燃えずに残っている木々もあるが、どこかくすんで見え、ぽわぽわと光る妖精の光などはどこにも見当たらない。

ただの森の光景というだけなのに酷く暗く寂しく思えてネアは悲しくなった。



なぜか息が苦しくて胸が痛くて、ネアは片手を胸元に押し当てる。

絶望や怖さやではなく、静かにじんわりと悲しみが染み込んできた。



もう、あの美しく愛おしかったものがなくなってしまったのだと。




「ネイ、怖いかな。ほら、僕の手を掴んでおいで」

「………ここはとても美しいところだったのですよ。そして、優しい方達がここにいたのです」



ネアのその言葉に、ノアは淡く微笑むとおもむろに手を伸ばしてネアを抱き上げてくれた。

その肩に顔を埋め、ネアは自分が安全な状態になってからやっと感じる事が出来たまっとうな喪失の痛みに小さくすすり泣く。



「ふぎゅ。………こんな筈ではなく、しゃきんとして目的の場所までいけると思っていたのですが………」

「頼って貰えた僕は役得だからさ、そのままでいてくれると嬉しいな」

「…………ノア」


顔を上げたネアにノアが微笑みかけてくれ、ネアもその青紫色の瞳のあたたかさに微笑んだ。



「むぐ。ノアが優しくて狡いのです。…………む。ニーノさんの尻尾がまたしても……」

「ノアベルトが、ノアベルトらしくないな………」

「君の悪い癖だなぁ。僕にだって、君の記録のどこにもいない僕がいるよ。特にネイと一緒にいる時はね」

「…………成る程。他の魔物達も、…………万象もそのように変わるのだろうか」

「うーん。どうだろうなぁ。………でも多分、僕達が思っていたよりもずっとシルハーンは繊細で孤独だったんじゃないかな。…………って、今なら分かるんだけどね」



(ノアはノアだわ)


ニーノの考えようとは別に、ネアはそうほろ苦く微笑んだノアを見ていた。

ニーノは驚いてしまうかもしれないけれど、ここにいるのはネアの知っているノアだ。

あのラベンダー畑で出会った塩の魔物よりずっと近く、確かに今一緒に暮らしているノアなのだ。



からりと、崩れた壁から小さな石が転がり落ちる。

どこか遠くで鎮魂の鐘の音が聞こえた。


焦げ臭い香りに意識を持っていかれないようにして、ネアは大人しくノアの腕に収まっている。

戦乱の爪痕が残っていないところでも、踏み荒らされた草花や枝の折れた木など、その痕跡はそこかしこにあった。



「見えてきたな。あの辺り……おっと」

「ノアベルト?」


依然として、リーエンベルクの周辺では、ヴェルリアの者達以外は転移が出来なくなっている。

特定の術符を持った者達にしかそれを許さないことで、不満を持ったウィーム国民達にリーエンベルクを奪還されないように警戒しているのだそうだ。


なので、ネア達も歩いて裏門の方に向かっていたのだが、ノアは突然声を上げると、ニーノの袖を掴んでどこかにひょいと下がった。




「ノア…………?」

「大丈夫。魔術の道の更に奥に入ったからね。精霊は変なところで動物的な勘が鋭いというか、そんな気がしたからとかいうすごい理由で隠されたものを見付けたりするから、用心には用心を重ねないとね」

「黒髪の方か?…………いや金髪の方だな」

「………だね。よりによってそっちかぁ………。念の為に擬態しておこう。白持ちだと分からない方が、いざという時に手を抜くからね」


そう呟きながら、ノアは氷色混じりの髪を柔らかな灰色に変える。

ここまで警戒する相手なのだろうかと、ネアは背筋がひやりとした。


「………なぜまだリーエンベルクにいるんだ。あの女の契約の子供は、ヴェルリアの王都にいる人間の子供だと言うではないか」

「色々なことが少しずつ変わってきてしまったんだろうね。……困ったなぁ。下手に動いて見付かるより、ここで凌ぐしかないね」

「その精霊さんは、ノアでも危ない方なのですか?」

「まぁ、僕でも少し苦戦するくらいには。この精霊は、例えばあの晩の火竜の王よりは弱くても、痛めつけて嬲り殺す為の叡智や魔術に長けてる。そういう特性が厄介なものなんだ」

「…………いなくなるまで隠れていましょう」

「だね」




魔術の道はとても不思議なもので、そのまま剥き出しで立っているだけのように思えるのに、魔術の道の外側にいる者からはこちらが見えないということが起こるらしい。


だからこのまま隠れていようと言う事なのだが、魔術の叡智がよく分からない残念な人間の視覚的にはいささか心臓に悪い。


ネアは黙っていた方がいいのかなと唇に指を当ててみたが、ノアはくすりと笑って喋っても大丈夫だよと教えてくれる。

ほっとしたネアは、この魔術の道の不安をぽそりと口にした。


「丸見えな気持ちになりますが、これでも見えていないのですよね………」

「ありゃ。そうか、君は魔術可動域が低かったから見えなかったんだね」

「なぬ………」

「でも心配しなくていいからね。魔術の隔絶があるから、僕達はその隔絶の向こう側からすれば、ここにはいないという認識になるんだよ」

「そういうものなのですね…………」



やはり目に見えないという範囲での魔術の認識は、素人には複雑怪奇なものだ。

例えばここに目に見える壁のようなものがあればネアにもすとんと納得出来るのだが、よく考えれば結界もそのようなものなので、こういうものだと諦めるしかない。


「その、………ここに残っているという精霊さんは厄介な方のようなのですが、こちらに出てきてしまいそうな感じなのでしょうか?」


リーエンベルクの裏門はしんとしていた。

勿論ある程度の警備は敷かれているのだろうが、今のところネアの目には平穏に見える。

人の気配なども感じられないので、ノアが早々に知覚したことに驚きを禁じ得ない。


「ああ、それなりに高位の精霊は独特の固有魔術があるんだよ。空気の温度や見える魔術の色が変わるから目につきやすいんだ」

「むぐぅ。それもやはり、私には分からないようです………」


ネアはへにょりと眉を下げたが、ノアはなぜだか嬉しそうに頭を撫でてくれた。

こちらをじーっと見ているニーノは、またしても尻尾がけばけばだ。


「………出てきたね」

「火竜も一緒か……」



そうして、そこで息を殺している短い時間の後に、一人の深紅の髪の女性が壊れてしまいそうに小さな赤ん坊を入れた籠を抱いて出てきた。



(…………もしかして、あの赤ん坊は、………)



その隣にはもう一人女性がいる。

赤髪の女性が長身ですらりとした優美な肢体のせいか、その隣にいる水色のドレスを着た女性は、淡い金髪に水色の瞳の儚さが際立つ。

けれどもその儚げな容貌の女性が、薔薇色の唇から恐ろしい言葉を吐いた。



「そんな子供、殺してしまえばいいのに。小さくて醜悪で無力だわ。私にくれれば、どんな美しく楽しい蹂躙の曲が奏でられることでしょう」


そう言われた赤髪の女性は、動きやすそうな漆黒のドレス姿だ。

人外者特有の飛び抜けた美貌程ではないが、ウェーブのかかった耳下までの短い髪と小麦色の肌には温もりが滲み、微笑んで話しかけてみたいと思えるような魅力的な美しさを引き立てていた。


そしてどこか突き放すように水色のドレスの女性を一瞥すると、きっぱりと首を振る。



「…………いいや。お前には渡さぬ。…………私の伴侶は、最後までこの一族の一番無垢な命を案じていたのだ。まだ親も認識出来ず言語も思想も染み付いていない無垢な赤子ではないか。幸いにも、子としては不幸でしかないその条件こそがこの子供を救った」

「ふぅん。でもその子供には、あなたの伴侶を殺した者達の血が流れているのよ?それでも焼き殺さずにいられて?あなたの一族の竜達だって、あんなに悲しんでいるというのに、あなたがそんな彼等の憎むべき相手を救うというの?」

「ああ。だからこそ私は、あの方の願いこそを叶えるのだ。あの方がそう望まなければお前の問いかけたような欲求に負けたやもしれぬが、これでも私は若い竜達の混乱に流されることもないくらいには、自分の伴侶のことを知っておるのでな」

「…………あの災いの子の竜もそう言うかしら?」

「ドリーは祝福の子だ。私の伴侶の弟を貶めるな。不愉快だ」



その最後の一言で、赤髪の女性はぐわっと顔を歪めた。

その瞬間にちらりと犬歯が覗き、ネアは彼女が竜であることを再認識した。

元々肌に鱗があったりダナエのように角がある者もいるが、赤髪の女性のように人間にしか見えないような人型の竜もいる。

しかしそんな竜でも、人型から竜の姿に戻る直前にはあのように犬歯が伸びるのだ。



(と言うことは、…………私を殺した竜さんは、火竜の王様でドリーさんのお兄さん…………)



その事実に呆然としている間にばさりと音が聞こえてはっとすると、先程までの赤髪の女性の姿はなく、艶やかな深紅の竜が飛び立つところだった。

その片手には、壊れ物のように抱かれた小さな籠がある。

あの中にいる赤ん坊が、後々にエーダリアの母親となる女性なのだ。



「堅物ねぇ。せっかく女に生まれたのに頑固で優雅さの欠片もないわ。つまらない竜だこと。………でもまぁ、これを剥ぎ取っておいたから、あの赤子は長生きしないわね。狡猾な妖精がいたものだわ。あの赤子にシーのヴェールを羽織らせるなんて」



言いながら女性がぽいっと地面に投げ捨てたのは、赤ん坊用のレース編みのショールのようなものだ。

それを爪先で踏みつけてネアの心臓をきゅっとさせると、女性は踊るような足取りでリーエンベルクの中に戻っていった。




「…………行ったね。あれが蹂躙の精霊王だ。ヴェルリア王の長子の婚約者である、公爵家の小さな女の子の契約の精霊だよ」

「……………今のが、王妃様の」

「ありゃ。やっぱり、その子は王妃になるのか。そこだけは、未来に物申したいな」

「………だがまぁ、強い守り手を得れば、国は安定するからな」


そんなことを話しているノアとニーノに、ネアは地面に落ちたレース編みのようなものが気になった。

あれはエーダリアの母親のものだ。

ヴェールだというからには女性の妖精が編んだのだろう。

であればやがて契約の妖精になる筈だったディートリンデのものではないのだろうが、どれだけの愛情を込めて編まれたものだったのだろう。



(あの方が蹂躙の精霊王………。もっと禍々しい容貌の精霊さんかと思っていたけれど、清楚で儚げな美女という感じなんだ………)


物静かで控えめな雰囲気が似合う容姿と声が、その気質にどこかちぐはぐな気がする。

だが、その反面もの凄くしっくりくるような気もして、きっと擬態ではないのだろうなと考えた。


あの不安定さや歪さも、その精霊の資質なのではなかろうか。



「さて、素早く済ませてしまおう」

「そうだな。長居しないに越したことはない」



ひどく疲れたような目になってしまった魔物達はもそもそと魔術の道から出てくると、リーエンベルクの裏門の正面より少し左の辺りにネアをそっと下ろした。


抱き上げてくれていたノアにそっとその位置に立たせて貰い、ネアはされるがままにその地点にぴしゃりと立つ。

くるりと回されたり、一歩移動させられたりしつつ暫くの間観察された後、ニーノがここだなと呟いた。



「ここだ。ここが起点。最初に核となるべき者が立っていた場所だ。………どうだ?ノアベルト。魔術の繋がりの糸は見えたか?」

「…………んー、まぁね。ふむふむ、やっぱり、そういう事か。これならまぁ、どうにかなりそうだね」

「まぁ!核となる方が分かったのですね?」

「うん。後は、君とその誰かさんとを繋ぐ悪夢の糸を切る為の道具があればってことかな」

「前に話していた鋏ですか?」

「それではなくても、そのような道具は作る事が出来るんだ。縁切りの魔物を捕まえて鋏にするんだよ」

「………なぬ。以前狩ったことがあるのです。上司にあげずに持っていれば良かったとしょんぼりしました」

「そうだった。君って、凄い狩りをするよね…………」

「そう言えばノアとは一緒に狩りをしましたね」

「あの時僕は、君には逆らっちゃいけないのかなって少し思った」

「うむ。狩りの女王には逆らわない方がいいのです」

「か、狩りの女王…………?」


またしても尻尾をけばけばにして、ニーノは恐ろしいものでも見るかのようにネアを見ている。


「私は強いですよ。竜さんも………。そう言えば、竜の媚薬の効果がある筈なのに、転移の間の竜さんには効きませんでしたね」

「竜の媚薬………」


唖然としたニーノは黙ってしまったが、ノアはうーんと首を捻った。


「それも合わせて、あの槍が無効化したのかもだね。地上に戻ったら、念の為にあの槍は折っておいた方が良さそうだ。まぁ、一度使われたという扱いになるから、ここから出てももう効かないだろうけど、念の為にね」

「………そうします。何となくですが、ぽきっとやってくれそうなウィリアムさんに頼んでみますね」

「終焉とも親しいのか…………」

「仲良しです!」


ますますけばけばになったニーノの尻尾は、もはや床磨き用のブラシのようだった。

そこまでけばけばになった尻尾はどんな手触りなのかが気になったので、ネアはぎゅむっとやるのは今だという気がして、てこてことニーノに近寄る。


その途中で、ネアは無残に投げ捨てられて地面に落ちていた淡い水色のレース編みを拾い上げた。

持って帰るのは無理かもしれないが、編み柄や色合いなどをきちんと覚えて帰ろうと思ったのだ。

エーダリアはきっと喜んでくれるだろう。

あの優しい上司が、王家の指輪でどれだけ喜んでいたのかを思い出した。

彼に必要なのは、失われてしまった一族から引き継がれた品物なのだ。



その瞬間のことだった。



「ふうん。思ったより早く、餌に食いついた獲物がいましたね」




鈴を鳴らすような声が聞こえ、ネアはぎょっとしてリーエンベルクの門の上を仰ぎ見る。

するとそこには、可愛らしく腰掛けた先程の精霊がいるではないか。



「お前は記録の魔物ね。壊せない獲物は邪魔だわ」

「…………っ?!」



がきんと音がして、ニーノが虚空を拳で叩く。

氷で出来た隔離結界のようなものに閉じ込められたのだと分かったが、それは、ニーノもある程度高位の魔物であるにも関わらず、恐るべきことに一瞬であった。



「森に!」



ノアの鋭い声に、ネアは森に向かって駆け出す。


先程のノアは、この精霊には敵わないとは言わなかった。

であればここでネアが躊躇って、そんなノアの足手纏いになる訳にはいかない。

反撃するにしても、一旦引いてから機を伺ってするべきだ。



「まぁ、他にも誰かいるのね。上手く隠したこと」



そんな精霊の声が聞こえてきて、ネアはえっと声を上げたくなった。



多分、あの精霊が餌と言ったのは赤ん坊のショールのことだ。

であれば、ネアがあのショールに触れてしまったことが引き金になったに違いない。



(魔術の道を出た後のことだった………)



それはつまり、あの状況下でノアは、精霊が現れるよりも早くそのことに気付き、咄嗟にネアを隠してくれたということなのだろうか。


そう考えると、しみじみ自らの迂闊さが悲しかった。

あれだけノアが警戒していてくれたのに、愚かな人間はもう終わったのだと気を緩めてしまったのだ。



(どこかの木の陰で、きりんのぬいぐるみと絵を出して、それから激辛香辛料油も…)



そう考えて顔を上げる。

となればまずは、出来れば背後のやり取りが聞こえるくらいのところに、身を隠せるような木を見付けることからだ。



「…………!!」



しかしネアは、森に入った途端、異様な光景に愕然とした。

ざりっと爪先が地面に沈み、目の奥がつんと熱くなる。




(……………これは、………何?)




森中の至る所に、おかしなものが縄で吊るされている。

それはまるで飾り木のオーナメントのように、曇天の淡い陽光を映して煌めいたり、じっとりと濡れていたりした。



(……………妖精の羽に、竜の前足…………誰かの、……頭……………)



ぐっと鳴りそうになる喉に力を入れて、ネアは慌てて視線を逸らす。

これも罠だと分かったのだが、そうして下を向いたネアの目に飛び込んできたのは、足元の茂みの中に落ちていた作り物のような片手だった。


(……………あ、)


それは多分、欠片だった。

ここで失われた誰かの最後の欠片。

人間のものではないのだろう。

焼け焦げてその縁の部分だけが淡く金色に光りながらさらさらと崩れている。


逃げようとしてここで斃れたのか、それともここに遺棄されたのか。

どこか作り物めいたその片手は、無残さとはまた違う理由でネアの足を止めた。

どんな無残な遺体よりも、その手が焼け焦げていたということがいけなかったのだ。




カタンと、扉の閉まる音がやけに寒々しく響く。



真っ白なリノリウムの床と、呼吸補助器のこぽこぽという音が廊下に漏れ聞こえてくる。

遠くで響く電子機器のアラームに、こつこつと廊下を踏む音。


そしてその全てが、扉が閉まるのと同時に締め出される。



「ご確認をお願いします」



無機質なその声に頷き、愛する者達のその無残な姿を目に映す。

両親の車は崖から落ちて炎上したらしく、遺体で綺麗なところはとても少ないのだという。

だからネアは、焼け残った母親の左手の指輪や、その他の部分を見なければならなかった。




「……………っ!!」



思わずネアは、その場から飛び退っていた。

がさっと茂みを鳴らし、両手で口を押さえて。



(安心して生きてゆけるように、ここからいなくなりたい)



それは、いつの自分の慟哭だろう。


死にたい訳ではないのだ。

ぐるぐると駆けずり回って出口がそこしか見当たらず、ぱかりと開いた穏やかな光のその先を憧れをもって眺めていた。


あの場所に辿り着けば、きっと安心して眠れる筈だ。

きっとネアの家族も、ネアが殺したジークも、みんながもうそちら側にいる。

でもそれは生者には禁じられた出口で、決してそこを望んではいけない。




「……………っう、」


ざあっと脳裏を流れていったのは、その頃の胸を締め付けるような羨望だった。

くらりと視界が暗くなり、奥歯を噛み締める。

自分に紐付き自分を愛してくれた人が世界のどこからもいなくなってしまった日の苦痛に、こんなところで囚われてはいけない。



けれど、どれだけ必死に口元を押さえてももう遅かった。

恐らく最初にがさりと茂みを揺らしてしまったその時に、ネアは見付かってしまっていたのだろう。



「ネイ!」



切迫したノアの声に、ネアは両手で口を押さえたまま、涙目で振り返る。



ぱっと、視界に散ったのは鮮やかな深紅だ。




「え、…………」



目を瞠ったネアは、くしゃりとなってこちらに倒れこんできた体を夢中で手を伸ばして受け止める。



「ノア!!!」



きちんと声は出なくて、掠れてひび割れた情けない悲鳴の直後に、ずしりとした体がぶつかってくる。

それはまだ暖かくて、そしてべったりと濡れていた。



「ノアっっ!!」

「………………、っ、大丈夫だよ。ごめん、無理やり転移で駆け付けたのはいいけど、こりゃ格好悪いな」

「血が………。いけません、喋らないで!」


ネアを安心させるように微笑んでそう言ったところで、ノアは大きく咳き込むこともなく、体の内側から溢れるようにごぼりと血を吐いた。

白いシャツに鮮やかな深紅の花が咲き、ネアは胸が潰れそうになる。


それなのにノアは、切り裂かれた喉元から胸にかけての大きな傷を片手で押さえると、喋ることを諦めてすぐに立ち上がろうとするのだ。



「………いや、嫌です。絶対に守りますから、もう動かないで下さい」


ネアは慌てて止めようとしたが、引っ張ってしまってその傷に響くことが恐ろしくて止めきれなかった。

だが、ノアはすぐにがくりと片膝を突いてしまう。


その体を後ろから抱き締めてノアの体の影でネアが慌てて首飾りの金庫の中にある魔物の薬を探していると、弾けるような可憐な女性の笑い声が響いた。



「ふぁ、っはは!馬鹿みたい!!魔物のくせに、人間のお守りだなんて。まったく無様なものですね。この森には、万が一この王宮から逃げ出した者が居ても、満足に先に進めないように王宮で死んだ者達の亡骸を撒いてあるの。その子供もあっさり引っかかること」


「…………っ?!」


先程の森の有り様は幻惑のようなものだと考えていたネアは、その言葉にぞっとする。

そんな罠を仕掛ける為に、この精霊は死者たちの遺体を切り刻んだのだろうか。


ただでさえ、苦しんで悲しみ死んでいった者達を。



「この王宮に縁もない魔物がどうしてここにいるかと思ったけれど、やはりウィーム王宮の関係者を連れていたのですね。上手く炙り出されてくれたお陰で、人間と魔物を同時に蹂躙出来そうです」



その精霊は美しかった。

美しく、おぞましく、儚げな美貌を上気させて楽しそうに声を上げて笑う。

清純な泉の乙女のような清廉な美貌を歪めて、無垢な少女のように。



(…………この精霊は、ただ本当に、この行いが愉快なのだわ)



美しさは残忍さと隣り合わせでどこか無垢にも見えて、ネアはその姿はまるで夢中で遊ぶ獣のようだと思う。

人の姿をしていてもこれは違う生き物で、やはりその中には人間とは随分とかけ離れたところに存在してしまう生き物もいるのだろう。



こぽりと、その精霊には見えないように隠れて口で封を開けた薬の瓶をノアの襟元から差し込んで滴り流す。

その冷たさにノアの体がびくりと揺れたが、ぐっと抱き押さえて正面の精霊に悟られないようにした。

この薬はディノの特別製なのだ。

世間に出回っている傷薬とは違い、致死傷になりかねないものであれ、それが単純な傷のそれだけであれば、傷の一部に染み込むことでたちどころに効果を上げる。



「…………有難う。ネイ」


血も凍るような僅かな時間の後に、ふうっと小さく息を吐いてノアが小さく囁いた。

首の傷を押さえた手を少しだけ浮かせて、後ろから抱きしめているネアにだけは、もう大丈夫だと分かるようにしてくれた。



「…………っぐ。許しません、ノアに怪我をさせるなんて」



酷い傷が修復されたことの安堵から、やっとネアは涙が流せた。

堪えていたものが決壊して、ぼろぼろと涙が溢れる。

けれどもそれを絶望の涙と勘違いしたのか、正面に立った精霊は目を爛々と光らせて嬲るように微笑んだ。



「ある程度は高位のようだけど、所詮は中階位の魔物。その傷を修復出来るかしら?属性の助けがあって出来るとしても二日はかかるわね。さて、その間にその人間の子供を引き裂いてしまいましょう。魔物の心が壊れるくらい、無残に酷く蹂躙してあげるわ」



澄んだ鈴を鳴らすような声が、楽しそうに震える。

ネアはまだ血だらけのノアを抱き締めたまま、治癒の安堵の余韻で涙を流していた。

先程ノアが擬態したことも、もしかしたら運命を分けたのかもしれない。



そしてその時に、やっと運命はネアの心臓に優しいものを寄越してくれたのだ。




「ネア!」



その声に目を瞠り、ネアは思わずふつりと綻んでしまった唇の端をくしゃくしゃにした。

緩んだ涙腺からまた涙が溢れる。



「ディノ!!」




頼もしいネアの魔物が、こんなところまで助けに来てくれたのだ。






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