225. 記録の魔物に会いました(本編)
ネアはその日、初めて記録の魔物に会うこととなった。
場所はザルツの国営図書館の中で、統一戦争後の混乱の中でその区画だけには現在記録の魔物が作業をしているということから、ヴェルリアの騎士達も押し入っていない。
途中、その場所に行くまでの間にネアは目隠しをされたので、恐らく周囲ではヴェルリアによる接収や焚書のようなものが行われているのだろう。
その前に歩いた街も閑散としていて、街の中心の広場には火刑台らしきものが建設されていた。
断頭台でもいいのに、やはりヴェルリアだから火刑なのだろうかと考えかけ、ネアは無意識にノアの手をぎゅっと握ってしまっていたらしい。
気付いたノアがさっと持ち上げてくれ、そこからはあまり街中を見ないようにしている。
魔物だけが通れる魔術の道を歩き、ネア達はザルツにある国営図書館の一室に正門を使わずに入った。
図書館や博物館などにはこういう魔術やあわいの道が通じていることが多く、よく見知らぬ誰かに突然出会うという謎めいた来訪者の話が出るのは、そんな風にして訪れた人ならざる者達のせいなのだそうだ。
その部屋は薄暗く、壁一面が書架になっている。
大きな樫の木のテーブルにだけではなく、温かみのある秋の事象石の床にも多くの本が積み上げられているが、決して粗雑に扱われている気配はなかった。
あくまでも、調べ物の為の心地よい雑多さという雰囲気だ。
そうして、こちらに背を向けて立っていた一人の男性が振り返った。
ノアを見るなり、分りやすく顔を顰める。
「その人間はどうしたのだ?」
「ウィームの子だからね。自分の国がこうして食われてゆくのを見ているのは辛い筈だ」
「そうか………それなのに、君はその子供を連れ出してきたのか」
「そりゃそうだ。この子は昨晩殺されかけたばっかりなんだよ。一人に出来る訳がないだろう」
ネアはそろりと顔を上げ、ノアと話している魔物の方を見てみる。
まず最初に目に入ったのは、艶やかで美しい黒髪であった。
藍色の瞳から視線を下げてゆき、下の方を見たところでネアはぴしりと固まる。
「大丈夫かな?一度床に降りるかい?」
「……………はい。自分で立ちますね。……………ほわ」
まだ目に映るものが信じられないまま、ネアはもう一度視線を持ち上げてから不機嫌そうな魔物と目が合ってしまい、慌ててぺこりとお辞儀をした。
初めましてが悪夢の中というのも不思議なことだが、突然見ず知らずの人間を紹介された魔物もたいそう不可解であろう。
「………と言うわけだ。悪夢か残響の根源を探してよ」
数分後、そうノアに言われてしまった男性は、こちらを射殺すかのような鋭い瞳で見る。
切れ長だが澄んだ藍色の瞳で、微かに水色の虹彩模様がある。
事情はこの部屋に入るなりノアが一通り、………と言っても驚くべき端的な纏め方で説明したのだが、あまりにも説明と依頼までの時間が短すぎて、記録の魔物は苛立っているらしい。
しかしネアはその冷たい苛立ちよりも、もっと気になることがあった。
「…………ほわ。ふわふわ尻尾」
ネアの目線を釘付けにしたのは、藍色の最高級毛皮のようなふわふわ尻尾だった。
狐の尻尾に似ており、先程からふりふり揺れている。
濃紺に淡い金色の刺繍のある神官服のようなどこか高貴な装いをしているのだが、その禁欲的な服装に尻尾があること自体非常に破壊力が高い。
ネアは思わずふらふらっと近寄ってしまい、ノアに無言で腕を掴まれた。
「ネイ?約束はどうしたんだい?」
「…………ふぎゅう」
「こいつの尻尾は、撒き餌みたいなもんだからね」
「…………相変わらず失礼な男だな」
「ニーノ、僕のことはどうでもいいからさ。取り敢えず悪夢の起点を探しに行こうか」
「なぜ僕が、君の為に無償で働かなければいけないんだ?」
「そりゃ、ここが悪夢だからだよね」
その言葉に、ニーノと呼ばれた記録の魔物は複雑そうな顔をする。
一概に否定しないのだから、彼にもノアが理解をしたようにここが悪夢だと分かるのだろうか。
ネアは暫く二人の魔物が冷やかな応酬をするのを眺めていたが、ふと、唐突に記録の魔物が書いた本を読んだことがあるのを思い出した。
(……………あれは確か………ディノについて書かれた本だった)
万象というものは、ひどく厄介で込み入ったものだ。
なにものでもあり、なににもなれず、全てに在り、全てに無い。
完成しており、不完全なままで、更に言えば万象であるが故に拘りも節操もない。
恐ろしい程に残忍で、愚かしい程に優しく、とにかく厄介な生き物である。
そう書かれた本を読み、ネアは眉を顰めたものだ。
間違った解釈ではないのだが、何だか釈然としなかった。
「そう言えば、記録の魔物さんが書いた本を読んだことがあります」
ネアがそう言えば、ニーノはこちらをちらりと見て尻尾をふりふりした。
眼差しは鋭いが尻尾がふりふりしてしまっているので、諸々の内心がばれてしまう悲しい人物のようだ。
そう考えたネアは、この魔物が人気なのはそういう部分ではないだろうかと考える。
つんつんしながらも、頼られると嬉しいのかご機嫌に尻尾を振っている男性など、そうそうお目にかかれないだろう。
「人間が俺の本を読むとはな。あまり内容は理解出来なかっただろう」
「私の魔物についての表現がふわっとしていて、心がもやもやした思い出ですね。………む」
ネアがそう言えば、今度は尻尾がへなりとなってしまった。
たいへん愛くるしいので、ジャーキーなどを与えてみたら食べるだろうか。
或いは、あのやはり神官的な謎帽子を取り上げたら、獣耳が隠れてはいないだろうか。
「ふん。所詮人間の理解度か。因みに、何の本を読んだのだ」
「世界と、上位の魔物について書かれたものでした」
「………ということは、君の契約の魔物は、上位十人の中の誰かなのだな」
「はい。…………ほわ、尻尾が」
今度は尻尾が不安のあまりふるふるしており、ネアは何だか今押せば行けそうな気がした。
要するに、あの尻尾を基準にすればいいのだ。
「ニーノさん、悪夢だか残響だかの、起点だか核だかになる部分が知りたいのです。お手伝いしていただけない場合は、私は私の魔物にニーノさんが協力してくれないと言いつけ、尚且つ魔物さん達がみんな死んでしまう最終兵器を試さねばなりません」
残虐な人間にそんな我儘なことを言われてしまい、ニーノの尻尾はぺそりと垂れてしまった。
しかしながら、その表情はこちらが凍り付きそうなくらいに怜悧なもので、愚かな脅しを口にした人間を見下すかのように、鋭くネアを見据えている。
「ありゃ。君は相変わらず過激だね。……言うことを聞いた方がいいよ。僕も気絶させられたことがあるしね」
「君はいつもそんな調子だろう。女と見ればうつつを抜かす、軽薄な白持ちの面汚しめ」
「………そうか。ニーノは強要されて仕事をするのが好きみたいだね」
ノアはすっと目を細め、ネアが初めて見るような冷たい微笑みを浮かべた。
ネアからすれば、ニーノはあの尻尾がある以上はかなりのゆるふわ担当にしか見えないのだが、どうやらノアとは相性が悪いようだ。
この二人に直接交渉させない方がいいのではと考え、ネアはおもむろに首飾りの金庫から、ずるっと特製きりんのぬいぐるみを取り出した。
ネアは現在ノアの少し後ろに立っているので、この位置からであればノアの視界に入ってしまうことはない。
「…………っ!!!」
その瞬間、ニーノは尻尾をけばけばにして息を飲んだ。
途端に真っ青になったので訝しんだノアが振り返る前までには、ぬいぐるみは金庫に戻されている。
ゆったりと微笑んだネアが一歩近付くと、ニーノはずさっと壁のところまで後ずさりしてしまった。
「ニーノさん、悪夢だか残響だかの核を探して欲しいのですが」
「…………わかった。そこまでの手段に出られたのであれば、不本意だが致し方ない」
「ちなみに、今の立体きりんさんは、試作品も含めて十五個あります」
「喜んで協力しよう」
「…………ネイ、何を持ってるのさ…………」
ノアもかなり慄いていたが、ネアは微笑んで首を振った。
とてもおぞましい生き物のぬいぐるみで、大抵のものは殺してしまうので知らない方がいいのだと言っておく。
「…………え、何で君は無事なの?」
「私のいたところには、可愛いとさえ言われている動物さんでしたからね。きりんさんの絵の入った品物が沢山売られていましたし、幼児にも人気の可愛いやつでした」
「そっか。ネイは色々特等の人間だと思ってたけど、生育環境が特殊だったのか!」
「それは、こちらの生き物さん達が、繊細過ぎるだけなのです。とは言え、きりんさん一辺倒でも芸がないので、今度は新しい生き物を企画中なんですよ。獏さんとぞうさんと…」
「…………何となくだけど、今のものだけで充分なんじゃないかなぁ。ほら、一つのものを極めた方がきっと楽しいよ」
「そう言えば、ここの方達は、人面魚さんを見たことがないのでした。それも効果があるのですが、手持ちがないのが残念です」
「………え、何だろうそれ」
「人型の頭を持つお魚さんです。ちょっと不気味ですが………む。ニーノさんが………」
人面魚がどんなものなのかを想像してしまったのか、記録の魔物は尻尾をいっそうにけばけばにして部屋の隅っこに逃げてしまっていた。
このままだと戦力にならなくなると困るので、ネアはもうあまり苛めないようにする。
(どうしよう。あのぴるぴる震えている尻尾が、お腹を撫でて欲しい時のムグリスディノと、抱っこして欲しい時の狐さんと、泳げなかったアルテアさんなちびふわや、お腹撫でで死んでしまう白けものさん、甘えて擦り寄ってくるウィリアムさんなちびふわくらい可愛い!!)
なお、ウィリアムが竜になった時の感想は、格好いいや綺麗も含まれてしまうので今回の競合にはならない。
ネアは胸がいっぱいになったまま、こそっとノアの背中に隠れた。
残念な人間が目先のものに惑わされてしまうだけのことで、どちらが大事かを尋ねられればノアの方が大事な筈なのだ。
なので、その意図を汲んで貰おうとノアの背中にへばりついたのである。
「ネイ、………あの尻尾を切り落としたら、ニーノになんて興味がなくなるかい?」
「ニーノさんには、自然の姿のまま生きて欲しいと思っております。ふかふかふりふりで、心も慰められますからね。後はもう、核になっている部分をさくっと見付けてくれさえすれば……」
「ん?案外実力評価主義だったね…………」
「うむ。愛くるしい尻尾は大歓迎ですが、こちらの魔物さんには用があって会いに来たのです。役に立たないのであれば、既に優秀なもふふわを所持している私には用済みですので、あの尻尾を一度握ってみてからぽいしますね」
「…………え、握るの?」
「なでなでしてもいいですが、何となく逃げてしまいそうな方なので、ぎゅむっとやる所存です」
勝手にそんなことを話されていたニーノはすっかり暗い目になってしまい、神官服のままもそもそと外出準備を始める。
彼はここで記録の編纂をしていたようで、この部屋に移動させた書物は、ヴェルリアの兵士達にも手を出させないらしい。
それを聞いたネアは、外の大きな書棚にある他の貴重な本達も、是非にこちらに避難させて欲しいものだと考えてしまう。
「出かけるぞ。………まずは、リーエンベルクの付近だろうな。話を聞くに、最初に落ちた場所の近くに、その………悪夢や残響の核となったものがある筈だ。ただし厄介なのは、それがものや場所ではなくて、生き物だった場合だな」
「……………リーエンベルク」
「ネイ、僕が抱いていってあげるから、怖がらなくていいよ」
「いえ。………勿論、悲しい光景はあまり見たくないのですが、それよりもノアに何かがあったら大変なのです。そしてニーノさんも含め、制圧されたばかりの王宮に近付くのは大変ではありませんか?」
「…………俺だけなら問題はないだろう。記録の魔物の調査を妨げると、遠からず記録から零れ落ちるという曰くがあってな」
「なぬ」
ニーノが教えてくれたことによると、記録の魔物が記録を取る為の調査や移動を妨げると、記録の魔物の持つ記録の書からその人物の名前が抜け落ちてしまうと言われていた。
そうなるとどうなるかと言えば、世界の記録から抜け落ちた者は、記録史から淘汰されるべく因果逆転の流れにより命を落としてしまうのだ。
これはニーノの意志という訳でもないので、彼より階位が高いか、或いは彼に優位な属性でもある言の葉の魔物など、属性的に彼の魔術の理を退けられるものでなければ避けようがない。
だから彼は、あえて特徴的な服装で記録の魔物として出歩き、仕事をしていない日には全く違う私服で外に出る。
神官服を着ているのは、かつての人間の社会において、記録や書物などの権限を持っているのは神官位が多かったからなのだそうだ。
なお、ニーノは二代目の記録の魔物であり、初代は美しい緑青の髪を持つ女性だったらしい。
記録の魔物という存在であるが故に、記録の作業中に戦乱で命を落とすこともあり、先代の記録は鹿角の聖女の崩壊の際に、巻き込まれて命を落としたのだそうだ。
「だが俺とは言え御し難いものがある。高位の精霊王はその一人だ。特に蹂躙の精霊王は相性が悪い。あの女に不用意に遭遇しないよう、その人間はどこかに預けておいた方がいいのではないか?」
「うん。だからさ、僕達が近くで待ってるから、君が一人で働けば…」
「見付けることは出来るにしても、俺はその核や起点、特異点をどうすることも出来ないぞ?」
「ありゃ。そうだった。役立たずだなぁ」
「ノアベルト…………」
そこでネアは、リーエンベルクの捜査をするノア達に同行してリーエンベルクの近くまでは行くものの、ウィーム王都………今はもう制圧され国ではなくなったそのかつての都の一画にある、アクス商会の貸し部屋に預けられることになった。
アクス商会はウィームに本店を置くものの、ウィームのものではなく、また不可侵の欲望の魔物の領域でもある為、ウィームの王族などを匿わないことを条件にヴェルリア側もその領域には手を出さないという取り決めが結ばれていたらしい。
今回の事の経緯を説明され、ノアからネアを待機させる部屋をと言われたアイザックは、今と変わらない怜悧な容貌を愉快そうに綻ばせて頷いてくれた。
相変わらず、長い黒髪からスーツに靴先まで漆黒だ。
細身の煙草を吸いながら頷き、小さな手帳に何かを書き込んでいる。
「構いませんよ。それにしても、自分が悪夢になったという自覚をしたのは初めてですね。実に興味深い。悪夢、或いはその残響であるということを認識している間に、色々と試しておきましょう」
「そういや、君はそういう魔物だったね」
「そう理解しているからこそ、あなたは私に真実を伝えたのでは?」
「まぁね。君ならこの状況を楽しむと思った。…………ネイ、怖がらなくていいよ。守護を繋いでおくから、いつでも会えるようにするからね」
ネアが通されたのは小綺麗な部屋だった。
ウィームにあるアクス本店の一画に併設された貸し部屋で、いざとなればアクスの店舗の方に駆け込めばいいので心細くはないという造りだ。
離れたところにも、幾つか避難用の施設や部屋などはあるのだが、そちらは万が一ヴェルリアの手が誤って入れられてしまった場合に対処が遅れる。
現場の意志統一にむらがあるといけないので、そのような場所は避けるようにとの配慮であった。
(静かだ…………)
天井は少し高めだろうか。
内壁は清潔感のある深い青で、窓枠や壁のモールドなどは青みがかったクリーム色になっている。
カーテンは瑠璃紺だが渋めの葡萄酒色の織り模様があるので決して暗くなり過ぎない。
使い込まれた木の質感が美しい飴色の家具に、趣味のいい深緑色のクッションが張られた長椅子。
床には、ふかふかの上品な灰色の絨毯が敷き詰められている。
「窓の外を見ることは可能ですし、選択の魔術により、こちら側の様子は窓の向こうからは見えないようになっています。とは言え、この窓に嵌め込んだ選択の魔術を浸透させた氷結晶を開発した魔物よりも高位の相手であれば、或いは見聞や追跡などに特化している者であればその効果をどこまで無効化出来ることか。安全策は講じてありますが、どうぞご利用の際にはご注意下さい」
「はい。窓の外を窺う際には、充分に注意しますね」
「飲み物はこちらに。何か、お食事を摂られますか?」
「いえ…」
「軽食を頼むよ、アイザック。ネイ、少しは何かを食べておいた方がいい」
「ノア、もうお城で朝食をいただいていますよ?」
ネアがそう言うと、ノアはどこか困ったような温かい微笑みを浮かべた。
この微笑みは今のノアでも見かける温度だなと思えば、ネアは少しだけ嬉しくなる。
「あまり食べられなかったじゃないか。待ち時間はきっと退屈でそわそわするからね。手持無沙汰で食事に手が伸びれば、それに越したことはないよ」
「………はい。では、そうしてみますね」
「うん。素直ないい子だ」
「むぐぅ」
よしよしと頭を撫でられ、どっちがお兄さんでどっちがお姉さんか問題が解決していないネアは小さく唸る。
するとノアは、またほろりと嬉しそうな温度を滲ませた微笑みを深めた。
この様子はネアがわしゃわしゃ反抗的になる時に見られるので、元気そうに見えるとほっとするのかもしれない。
なのでネアは、出来るだけノアにはこんな微笑みを浮かべて欲しいなと思っていた。
「じゃあ、僕達は少し出かけてくる。何かあったら、その転移門を使うようにね」
「はい。何かあったら、これでしゅばっとノアの側に行きますね」
「うん、遠慮はしないこと。それと、少しでも何か変わったことがあったら、僕の側においでね」
「はい!」
ノアは、当初ネアから離れるのをかなり嫌がっていたが、探索の場所が場所だけに、やはりどう考えてもネアを連れて行く方が危険だと判断したらしい。
その代り、いざとなったらノアの元に転移出来るよう、ネアは携帯の転移門を五個も持たされている。
ネアも、首飾りの金庫の中から手の届く範囲にあったもので出来るだけの武装をしていた。
いつもの最強ブーツには手が届かなかったが、ウィリアムに貰った靴紐のお蔭で、ネアが履いているお庭用の雪靴の靴紐にも敵を滅ぼす力はある。
きりんのぬいぐるみは全て手が届いたが、激辛香辛料油の水鉄砲は届かなかった。
ただ、加算の銀器には手が届いたので、先程アクス商会でノアに水筒と激辛香辛料を買って貰った。
待っている間に、これを百万倍くらいにして水筒に詰め込んでおけばせめてもの臨時武器になるだろうか。
ぱたんと扉が閉まると、不意に寂しさや怖さが押し寄せてきた。
窓の外を見る余裕は勿論なく、カーテンは下りたままである。
幸いにも外の喧騒はこちらには届かないが、国が侵略されるということの凄惨さは、ここに来るまでにもたくさん見てきた。
(ウィームの街灯には、あんなに綺麗に光る陽光の結晶石が入っていたんだ……)
その美しい結晶石はどれも、ヴェルリアの兵士達によって回収されてしまっている。
代わりに投げ込まれた魔術の火に、清廉な大気の結晶石の街灯はあっという間にくすんでしまった。
王宮から運び出されてきた絵画が燃やされ、書店や書庫から持ち出されてきた魔術書が燃やされる。
国家であったウィームを示す旗が積み上げられて燃やされたその火の中に、死んでしまった小さな妖精達も投げ込まれていた。
曇天の空には赤い火竜が飛び交い、通りの向こうを死者の行列が歩いてゆく。
すすり泣く人々に、博物館の壁から国王の紋章が削り取られる。
踏み荒らされた花壇には、無残に花びらを散らした花々がぺしゃんこになっており、その花の横で咽び泣いている小さな生き物達がいた。
王宮前の広場には、リーエンベルクで亡くなった人達の遺体が何百も並べられているそうだ。
人間のものは死者の日に死者となって甦れないように呪いがかけられ、その遺体は身元を確認した後に全て石炭に変えられて粉々に打ち砕かれ、ヴェルリアの海に撒かれる。
人外者達はその遺体を残さないので、呪いや祟りものへの変化がないかどうか、そちらも念入りに調査されてゆくのだそうだ。
傷だらけで焼け焦げたウィームには、朝からはらはらと雪が降っていた。
雪竜の王が泣いているのだろうと囁かれていたが、ネアはもっと激しい雪の降り方を知っている。
であればこれは、雪深い季節ではないからなのか、或いは涙を流すことも苦痛なくらいに深く悲しんでいるからなのだろう。
何となくだが後者な気がして、降っている雪片を見るだけで胸が痛くなった。
(ジゼルさんの妹さん達は、隻眼の美少女だったらしい。でも明るくて可憐で、ウィームの人気者だったのだとか。二人で一人分くらいの力しかないけれど、それでもその二人は最後まで愛する者の為に戦った)
彼女達を斃したのは、リーエンベルクの灯台の妖精と騎士団長が斃した火竜の王子なのだそうだ。
であればせめて、ジゼルはそのことを知れば少しは心の痛みが和らぐのだろうか。
復讐するべき相手がすでに亡くなっていたからこそ、彼は一族を守る為に雪竜の城に留まれたのかもしれない。
(火竜には祝いの子がいる。ドリーさんの存在があったから、雪竜は今回の戦争に一族として関わらないという判断を下したらしい。それでも前王の代の雪竜さん達は、ほとんどが戦いに出て亡くなってしまったのだとか………)
ネアはじっと自分の爪先を見下ろした。
今すぐ駆け出していって、まだ残っている何かを、安全な場所に隠してしまいたい。
まだ生きている誰かには魔物の薬を振りかけ、安全な場所に避難させてやりたい。
でもここは悪夢で、残響で、過去に一度終わってしまったものの中だ。
ネアは、何としても絶対に帰らなければいけないのだから、今ここで無謀な自己満足の為に部屋を出て行く訳にはいかない。
(………あんな風に逃げ回っているのでなければ、リーエンベルクから何かを持ち出せたのかな?)
帰れた頃には消えてしまうかもしれないが、ラエタから持ち帰ってきた本のように、どうにか固定出来るかもしれない。
そんな余裕や機転があれば、エーダリアが喜んだかもしれないのに。
「あ…………」
どこか遠くで教会の鐘の音が聞こえた。
この遮蔽された空間にまで届くのは鎮魂の鐘だろうかと思い、その澄んだ響きに胸を打たれた。
そしてそんな鐘の音に胸を痛めて部屋の隅っこに丸まっている間に、ネアはどうやら居眠りをしてしまったようだ。
(ここは、どこだろう………)
もやもやとした、暗くがらんとしている闇の中を歩く。
思えばノアのお城で目を覚ます前にもこんな夢を見ていたような気がして、こちらでは夢ですらこんな調子なのかと悲しくなり、膝を抱えて蹲っていた時のことだった。
「ネア!」
懐かしい魔物の声が聞こえて、ネアは顔を上げた。
そうしてその薄闇の中の不思議な場所で、ネアは大事な魔物に会うことが出来たのだ。
「………っ、」
かたりと音がして目を覚ます。
覚醒の兆候はあったものの、こうして目を覚ましてしまうとぐっと悲しくなった。
ここにはディノはもういないのだ。
先程まで抱き締めてくれていたあの腕は届かない。
「……でも、ディノに会えたんだわ」
心細くなりかけたものの、そう呟くと格段に気分が良くなったので、ネアはノアが頼んでくれた軽食を食べることにした。
軽食には保温の魔術がかかった銀色の蓋付きスープボウルと、美味しそうなパンとバターがある。
そう思って銀入りのボウルの蓋をかぱりと開けたところ、中にはふわふわ卵とソーセージが入っていた。
(となると、もしや………)
もしやと思い珈琲と紅茶を両方用意してくれたのかなと思っていたポットの片方を覗くと、そちらにスープがなみなみと注がれているようだ。
たっぷり入ったシンプルなコンソメスープに感動して、ネアは真っ先にそれを白い陶器のカップに注いで美味しくいただいた。
(良かった。ちゃんと味もするし、すごく美味しい)
澄んだ金色のスープは深みのある味わいでとても美味しかった。
その温かさと美味しさにほっこりして、ネアはパンにもバターをつけて齧る。
現金なことだが、ディノに会えたことですっかり安心して食欲が戻ったようだ。
そうしてもくもくと食事をしていると、部屋の扉が開いて誰かが帰ってきた。
ノアかなと思って振り返ったネアは、今日出会ったばかりの記録の魔物が部屋に入って来たのを見て、何とも言えない複雑な顔になる。
するとニーノの尻尾はへなりと垂れてしまった。
「ノアベルトであれば、下の店舗のところでアイザックと話をしている。この…………悪夢の核は、どうやら生き物であるらしくてな。その人物を探し出す必要があるようなのだ」
「………まぁ。人だったのですね?」
「それと…………」
そこでなぜか、ニーノは言い難そうに言葉を切った。
パンや卵はすっかり食べてしまい、最後の一口に一番好きなものをと残しておいたソーセージをもぐもぐしながら、ネアは首を傾げる。
数時間程居眠りをしてその中でディノに出会い、尚且つ食事もしたので冷たかった指先も温まってきた。
今であればどんなことでも力強く乗り越えられそうな気がする。
「………先程、俺の本を読んだと話していただろう?なので考えた。あの本で表現が曖昧だと言われかねない表記はとある魔物についてだけだ。………万象の魔物しかない」
ややあって、こちらに向き直ったニーノが言ったことに、ネアは目を丸くする。
そんなところから推理されてしまうとは思わなかったが、否定するのもどうかなと思うので頷くしかない。
そうすれば、ニーノは深く溜め息を吐いた。
「そうか。…………君は、王と契約をした歌乞いなのだな」
「はい。隠していた訳でもないのですが、こちらにいるディノは見知らぬ魔物ですし、どう言うべきなのかが難しかったのです」
「君は、その魔物からの助けがくるような可能性も合わせて考えていただろう?場合によっては上からの働きかけがあるかもしれないというノアベルトの言葉に頷いていたからな」
「ええ。そのことなのですが…」
ネアはここで、夢の中のような境界の上などこかでディノに会ったことを、ニーノに言うべきかどうか迷った。
だが、話すならノアからでありたいし、下の階にいるのならすぐに戻ってくるだろう。
そう考えて躊躇った僅かなところで、ネアは思いがけない言葉を聞かされることになってしまった。
「であれば、その希望は捨てた方がいい」
「ニーノさん?」
「あの方の執着は、必ずしも君の望むような人間の領域のものではないだろう。我々は様々なものに目を止めて時間を割くが、執着の度合いは必ず定量である。即ち、王はそこまでの労力を君には割かないだろう」
「そんなことは……」
「俺は知っているのだ。何しろ、記録を司る者だからな」
きっぱりと断言され、ネアは呆然と立ち尽くす。
こちらを真っ直ぐに見ている記録の魔物が、ふいにとても優しくないものに思えてきた。