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赤い封筒と茶色の封筒




雪混じりの風に、はらはらと封筒が舞い散る。



その郵便妖精が荷物を落としたのは、銀狐のボールが原因であった。

ボール投げで転がっていったものが足元に転がり、それを避けようとして転んでしまったのだ。



「まぁ!郵便妖精さんが!」



慌てたネアが駆け寄って行き、雪混じりの風に飛ばされた封筒を拾い集めてやる。

この郵便妖精は小柄な二足歩行の穴熊の姿をしていて、古くからリーエンベルクの担当をしている妖精なのだそうだ。

人型の郵便妖精もいるが、リーエンベルクの担当をしている郵便妖精は、古くから獣の姿をしている者達が多い。


ネアはよく、カードなどを出すので顔見知りであるらしい。

一緒に駆け寄り、ネアの真似をして封筒を拾うのを手伝ってやる。



「ふふ。ディノもお手伝いしてくれるのですね」


そう微笑んだネアがぴたりと動きを止めたのは、その直後のことだった。



「……………ネア?」



不思議に思ってそちらを見ると、なぜだかネアは目を閉じている。

そして、その体がゆっくりと傾いだ。



「ネア!!」



慌てて抱きとめて頬に手を触れれば、幸いにもただ眠っているだけのようだ。

しかし、ぞっとするほどに冷たいその頬に、もう二度と見たくはなかった呪いの欠片を見る。



「シル!」



慌てて元の姿に戻ったらしいノアベルトも駆けつけ、すぐにネアが最後に拾い上げていた封筒を回収した。

ネアはその封筒と、ノアベルトのボールを拾い上げていて倒れたのだ。



「…………残響の魔術と、………混ざってるのは悪夢の呪いだ」

「…………この子を部屋に運ぼう。その封筒は、どちらもエーダリア宛かい?」

「赤い方は、エーダリアからエーダリア宛のものだね。茶色いものは、ガレンからエーダリアに宛てたものだ……こちらにも魔術がかけられているけれど、これは業務魔術かな」



力なくくたりとした体を部屋に運び入れながら、呪いの狭間で揺らぐその魂の温度を慎重に測る。

揺らぐ度に手を伸ばして連れ戻そうとするのだが、指先をすり抜けて何度も悪夢の中に落ちて行ってしまう。




「…………シル。ネアの中身が……」

「…………中だけ、悪夢に攫われたようだ。体ごと沈む前に私が抱きとめたから、肉体までの落下は防げたのだろうが………」

「…………ドーミッシュを捕まえてこようか?」

「いや、それはアルテアに任せよう。あの赤い封筒に触れた時、彼の気配があった」



それは、ノアベルトから差し出された封筒に触れて初めて分かった。

それまで感じられない程に希薄であったその気配の脆弱さは、現在もなお彼が関わったものであるというものではなく、かつて彼が触れて処理をしたものなのだろう。



「え、アルテアが?」

「接触程度の気配だから、彼がかつて所持していたものなのかもしれないね」

「……ほんとうだ」



それをなぜ、エーダリアが所持していたのか。




「ディノ様!」



連絡を受けて部屋に駆けつけてきたのは、そのエーダリアとヒルドだ。

ヒルドが声を上げたのとは対照的に、エーダリアは真っ青になってしまっており、寝台に横たわったネアの姿にがくりと床に膝を突く。




「…………あの封筒は何だったのかい?」



そう尋ねた声はいつもと変わらなかったが、エーダリアはびくりと肩を揺らしていっそうに青ざめる。



「…………アルテアから、譲り受けたものなのだ。かつて彼が受けた呪いが織り込まれていた紙片で、その呪いはもう、彼が受けた時に解放されたと。………だが、紙片にはかつて呪いを構築していた術式が残っていて、式を見たいと話したところ、その翌日の安息日の一晩の滞在と引き換えに譲り受けた」



エーダリアが見ているのは、赤い封筒だ。

確かにディノも、その封筒からアルテアの気配を感じ取ったのであった。



「立ち上った呪いは、それだろう」

「うーん、まだそれが生きていたということかい?呪いは大抵一度きりだよね……」

「そうだね。大きなものであればある程に、それが規則なのだけれど………」


首を傾げたノアベルトに、ディノは目を細めて茶色い方の封筒を見る。


「………いや、呪いをもう一度蘇らせたのは、あちらの封筒だろう」

「…………エーダリア様、あちらの封筒には見覚えがありますか?」

「いや、…………私のものではないが、私宛であるようだな」

「ガレンからエーダリア宛のものらしいよ」

「ガレンから………?」



ノアベルトが慎重に覆いの魔術をかけ、エーダリアは手渡された封筒を何度かひっくり返してから開封した。




「……………勿忘草の魔術だ」



ややあってそう呟いたエーダリアは、ひどく深い息を吐くと、その封筒を隣のヒルドに見せる。



「…………私を忘れないで。勿忘草の魔術ですか。……来週のガレンの予算会議を忘れないで下さいねとありますね」

「一緒に入っているのが、その会議の時間をメモしたものだ。その紙に勿忘草の魔術をかけることで、その紙に時間を記した瞬間の記憶をまるでその場で眺めているかのように再現することが出来る」

「………その魔術が偶然重なって、アルテアの方の呪いを再現したってことだね……」



片手で目元を覆ったノアベルトがそう呻き、ヒルドが呆然と目を閉じて眠ったままのネアを見ている。



聞けばエーダリアは、少し前にノアベルトとヒルドによって行われた自室の清掃の際に、取り上げられたくないものを幾つか、自分宛に郵送することで逃していたのだそうだ。

あの赤い封筒はそういうもので、一度に戻ってこないようにと時差式で自分宛に送ったものの中で、今日届く筈だった内の一つ。


ヒルドに見付からないようにと、彼の持つ禁術で興味を惹かないように調整されていたらしく、それで誰もそれが危ういものだとは気付かなかった。




「こっちのアルテアのやつは、残響の魔物の呪いだね」

「…………残響の魔物?」


聞き覚えのない名前なのか、そう復唱したヒルドに頷き、ノアベルトが残響の魔物の説明をしている。

エーダリアはまだ、俯いたままだ。



(ネア……………)


そっと手を伸ばして触れた頬は冷たい。

幾多もの魔術の手を伸ばして滑り落ちたものを探してはいるが、ネアはどこにも見当たらなかった。


(でも、まだ繋がっている…………)



指輪や守護や、契約や約束の糸のその先に、必ずネアがいる。

だとすればそれが途切れないようにして何とか繋ぎ続け、慎重に辿って行けばネアが見付かるのだろう。


(でも、それにはどれだけの時間がかかる?その前にネアは、どんな思いをしてしまうのだろう)



呪いにより定着された魔術の悪夢は、気象性の悪夢と同じように、その中で起こったことは現実にも跳ね返る。

肉体がこちら側に残っているとは言え、悪夢の中で魂が死ねば、その魂はこちら側でも死んだままだ。


ネアに預けた自分の欠片でそれを防げるとしても、それもせいぜい一度きり。

春告げの祝福と合わせても、たった二回きりだ。



「残響の魔物はね、言葉の通り残響を司るもので、黒髪の女の子の姿をしていたんだ。姿形だけなら、清楚で大人しい感じの子だったな。彼女がアルテアに恋をしているのは有名な話で、その執着は少しばかり厄介だったそうだ。その時の残響はアルテアに殺されてしまったけれど、この魔術は殺された先代の残響のものだね」

「と言うことは、今は新しい残響の魔物がいるのだな?」

「うん。今代の子は大人しくて勤勉な子のようだね。派生してすぐにこの世界のあちこちに散らばった残響を拾う為の巡礼の旅に出ているから、僕もよくは知らないけれどね」

「その魔物に力を貸して貰うことは出来ないだろうか?」

「うーん。基本前の者の呪いを新代が解ける訳じゃないんだよ。扱いは上手いだろうけれど、前の残響とアルテアの関係を思うに、寧ろこのことは伏せておいた方が良さそうだね」

「…………そうか。そうだな、余計な危険を増やしても良くない」



ノアベルト達の会話を聞きながら、ディノは眠ったままのネアの頬を撫でた。



『嫌な予感がしたんです。………大晦日の時に樹氷のものは排除しましたが、終焉の予兆は果たしてそれのことだったのか。今回のことも、……まぁ、あのひよこだらけになる魔術も厄介でしたけれどね』



そう言っていたウィリアムの言葉を思い出した。

もしかしてその予兆は、少し前からここにあったのだろうか。



「エーダリア、それをアルテアから譲られたのはいつだい?」

「…………大晦日の時だ」


こちらを見たウィームの領主は、酷く青ざめていたがそれでも真っ直ぐに瞳を見返し目を逸らさなかった。

少し前までであれば、彼はきっと目を逸らしただろう。

或いは、それでも彼はそんな頃からであれ、目を逸らさない人間だったのかもしれない。




「…………ディノ」

「ネア?!」



その時、ネアに名前を呼ばれた。


はっとして顔を寄せると、瞼が震えて薄っすらと瞳が開く。

しかし、その鳩羽色の瞳は虚ろで、こちらのことは見えていないようだ。



「ディノ…………」

「ここにいるよ。君を迎えに行く為の、居場所を教えておくれ」

「…………ディノ、ごめんなさい。………………どうやら………一度……………死んでしまったようです」



息が止まりそうになった。



けれどもか弱い声を聞き逃す訳にはいかず、彼女の為に微笑みを途切れさせる訳にもいかない。



「統一戦争………………最後の夜のウィームで、もうすぐ夜が…………ます。ノアが一緒に………………いてくれますからね」



すとんと、声が沈んだ。

また力をなくして寝台に沈んだネアに、その頬に手を当てたまま項垂れた。



「………ごめんね、ネア。また君にひどい思いをさせてしまった」



呟いてももう、彼女には聞こえないだろう。

だからこそ、囁く声が震える。



「……………ネア、ここにいるよ。その夢がどんなに恐ろしいものを君に見せようと、どんなことを君に強いろうと、必ず君を迎えに行くからね」



その時、肩に触れた手の温度に少しだけ意識を引き戻された。



「大丈夫だよ、シル。そこに僕がいるなら、ネアのことは死んでも守るから。僕は狡いからね。あんまり得意じゃないウィリアムの力を借りてでも、どんな汚い手を使ってでもあの子を守るから」



その言葉に小さく息を吐いた。

不思議なことに、その通りだと思えたら素直に頷けた。



「………そうか。君がいればそうなのだね」

「あの時の僕は必死だったからね。あの子を守れるならなんだってするさ」



ネアは誤解したままでいることだし、ノアベルトもその事実を伝えなくても良いということだが、統一戦争のその時にノアベルトが必死に救い出そうとしていたのは、当時のウィームの歌乞いではなく、ネアのことだった。



であれば彼は、確かにネアのことを必ずや守るだろう。

きっと。



「星屑に願ったんだ。………ネアは必ず帰ってくる」

「そっか、シルもそう願ったんだね」

「私もその願いをかけましたよ」

「ヒルドもかけたなら安心だ。エーダリアも何度かかけてたよね?」

「……………ああ」

「ありゃ。かなり落ち込んでるけど、今回のことは事故だと思うよ。僕だって、ボールを咥えて投げてあの郵便の妖精を転ばせたしね。それより、エーダリアの知ってる魔術で、呪いや悪夢に関係することを全部教えてくれるかい?あと、ダリルにも協力して欲しいな」

「………わかった」



言おうとして上手く言えないままだったことをノアベルトが伝えてくれ、エーダリアはもう一度こちらに向き直ると、本当にすまなかったと深々と頭を下げ、部屋から駆け出していった。


彼の意図しないことでもと責めるには彼はネアに近しいものになり過ぎており、あの封筒が彼の持ち物であれ、そんな彼を責めるという気にはならないのだが、いざ言葉で伝えようとすると難しいのだ。

そういう言葉を今迄選んできたことがないので、どう言えばいいのか分らない。



(きっと、ネアならわかるのだろう)



でもここに、それをどう伝えるべきかを知っているに違いないネアはいないのだ。



「………私はひとまず、エーダリア様のお側におります。ディノ様、今回のことは私の監督責任でもありますから…」

「いや、無効化されていた筈のものであったし、私もネアの隣にいたんだ。今回のことで君やエーダリアを責めようとは思わないよ。ただ、それをどう説明したらいいのか分らないんだ」


そう言えばヒルドは微かに目を瞠り、また深々と頭を下げる。

一礼して、心残りがあるのか何度もネアの方を振り返りながら、ヒルドも出ていった。


ネアの先程の言葉を聞いた時に、彼は何を思ったのだろう。

決して伴侶を殺さない妖精からすれば、魔物の守り手など危ういものだと感じるのだろうか。



「ウィリアムとアルテアも呼ぼう。ウィリアムは兎も角、アルテアには絶対に来て貰わないとだ」

「…………そうだね。………ノアベルト、私は少しだけこちらに沈むよ。だから、その間にここのことを頼んでもいいかい?」

「勿論だよ。ネアを探しに行くのかい?」

「少しだけでも近付けば、守護を浸透させ易いからね。それと、この呪いの道避けを出来るかい?少しでも緩和しておきたい」

「任せて。さっきの内にやってあるから、随分と向こう側は楽になっている筈だよ。僕の今の心臓の持ち主は呪い避けに最適だからさ。その代わり僕の守護が少しだけ深まったけど、許してくれるかい?」



頷いてからふと、ノアベルトの指先が震えていることに気付いた。



「ノアベルト……………」

「僕にとって、あの時のウィームにネアがいること程に最悪なことはない。………でも、だからこそ僕はネアを守るだろう。……あの子に、あの凄惨な夜と夜明けを、見せたくなかったな」

「…………私もだ」

「シルは、終戦後のウィームを見たかい?」

「直後ではないけれどね」



今のウィームとリーエンベルクを愛しているネアにとって、それはどれだけの苦痛となるだろう。


彼女には少しばかり魔物的な気質があり、自分の領域のものを他者に損なわれるのを酷く嫌がるのだ。

それをネアは、心がかさかさに乾いていたところで美味しい水を飲んでしまったが故の、水源を独り占めしたいような強欲さだと言う。

だとすれば、彼女が安心して暮らせるだけのその我が儘を、いくらだって叶えてやりたかった。



無残に焼け、蹂躙されて我が物顔で接収されるリーエンベルクを見ることは、そのやっと緩んだ心にどれだけの負担を齎すものか。



(こちらの世界に来たばかりのとき、ネアはよく夜明け前に目を覚まして不安そうにしていた)



健やかに伸び伸びと生活をしているように見えた時にも、ネアは眠る前に酷く神経質になることがあった。

どこかに逃げ出そうとしているのかと思ってこちらも警戒してしまったが、今であれば、それは元の世界に引き戻されることを恐れていたのだとよく分る。


それは多分、ディノが夜に眠り目を覚ました時、またあのがらんどうの一人の城にいたらどうしようと考えるのと同じこと。

それに気付いた時、彼女が元の世界で抱えていた寄る辺なさは、どれだけその心を窮屈にしたのだろうとあらためて理解したような気がする。



『私は多分、森のものなのに海辺におかれていたようなものなのでしょう。今の生活は勿論ひどく恵まれていますが、私はきっともっと弱い立場でこちらに置かれたとしても、この世界を大好きになったと思うのです。吸い込む空気が美味しくて、ちょっとした茂みにも妖精さんがいます。竜さんが空を飛び、不思議で綺麗な品物がお店には並んでいます。………もしかしたら、私が生まれ育った世界そのものが、私にとってはちくちくするセーターだったのかもしれません。大事な家族がいた頃は、そんな家族がいて温かかったので、世界のちくちくを肌に感じずに済んだのでしょうね…………』


いつだったか、この世界の運命を持たないことをネアに詫びた時、彼女は微笑んで寂しそうにそう教えてくれた。

生まれたところの水が合わないということは、とても悲しくて惨めなことであるらしい。

今はとても幸せであれ、その事実はやはり寂しいのだと淡く淡く微笑んで。



『転職を考えた時、こちらの世界に不慣れな素人にも出来る、最下層のお仕事も幾つか思案しました。魔術のお薬の材料となるものを森で拾うお仕事も、冬は寒そうですがやはり素敵なのです。インク屋さんでインクの瓶詰のお仕事も、妖精さんと二人一組で行うのですよ。妖精さんがインクに祝福をかけるところを毎日見られるのも、考えるだけでわくわくしたので、私はきっとこの世界に向いているのでしょう。………勿論、戦争や疫病など、そんな私も怖気づいてしまう場所だってたくさんあるのでしょうが、それは元の世界も同じことですからね』


勿論それは、転職など二度と考えないようにとしっかり言い含め、他の契約の相手を探すことも、インク妖精を捕まえることも禁止だと言ってある。

けれどもどこかで、彼女がこの世界を好きだと言ってくれることに安堵した。


そういう意味では、彼女がとりわけ気に入っているリーエンベルクには感謝していた。

家族のように思えるくらいに気に入っているこの住人達がいることで、彼女はますますどこにも行かなくなる。



(それなのに、君の隣に居ながら、また私は君をどこかに攫われてしまった………)



そう考えながらに痛む胸を押さえて暗い闇をゆっくりと掻き分けてゆくと、その底の方に見慣れた影を見付けた。



「ネア!」



思わず声が弾んでしまい、そう呼びかけると暗闇の中で蹲っていたネアが顔を上げて涙目になる。



「ふにゅ。………こちらでこてんと眠ると、このぼんやりした変な闇の中で目を覚ますのです。あまりにも寂しくて、ディノの夢を見てしまいました」


そう悲しそうに言うので、慌てて手を伸ばして抱き締めた。

いつものようにしっかりとした質量はないものの、確かに腕の中にいるのだという淡い温度がある。



ネアだ。

ああ、ここにいるのだと思うだけで、胸が潰れそうになる。

可哀想にきっと怖かったのだろう。

腕の中のネアは少しだけ震えていた。



「これは夢ではないよ。君の意識がそちら側でも曖昧になる時だけ、境界より少しだけ上がって来られるのだろう」

「………では、このディノは、本物のディノなのですか?」

「そうだよ。可哀想に、怖い思いをさせたね」

「…………むぐ!腕の中に収まることは出来るのに、いつものように触れることが出来ません………」

「今の君は、体を置き去りにしてきた魂だけのような状態の君だからね。本当ならこのまま剥ぎ取って連れて帰りたいけれど、きちんと呪いの根源を壊さないと、君の中にこの呪いがずっと残ってしまう。またこちらに落とされないように、残響の核となるものを見付けるまで待っておくれ」

「このまま、ひょいっと元の場所に戻れないのですね?」

「今の君は、足かせに鎖が繋がっていて、その鎖から下にある残響の世界に錨を落した状態なんだ。無理矢理剥がすと、その鎖が外れなくなる。………悪夢の残響であれば、きっとその錨が下されている場所、悪夢の根源がある筈だから、それを探さなければいけないんだ」

「…………でも、またこんな風にディノには会えます?」


そう不安そうに問いかけられ、腕の中にネアがいることの安堵に微笑む。

額を合せてみれば微かな体温は感じるものの、肉体があるという確実さではない。

乱暴に抱き上げたら壊れてしまいそうなその儚さに、少しだけ恐ろしくもあった。



「勿論だよ。君が眠る夜はいつも、ここで会おう。それに、そう長くは待たせないよ」

「ディノは、そのことで無理をしてしまったりしませんか?」

「それは大丈夫だから、心配しなくていい。本来なら、私の手が直接君に届くことはなかった筈なんだ。………呪いの重さで沈んだ君の体を浮かせる、君に授けられた祝福や守護に感謝しなければだね」

「まぁ!それであれば、最初に目を覚ましたところにいた灯台の妖精さんにも同じことを言って貰いました。本当であれば、あの統一戦争の最後の夜にいきなり落ちてしまっていたのを、私にある守護や祝福が、その少し前の時間軸の、灯台の妖精さんと、ディートリンデさんの所に運んでくれたそうです」

「それに気付けるものがいたのだね。………そうか、灯台の妖精であれば、そのような目を持つかもしれないね」

「そんな初代エドモンさんに、転移の間にいくようにと言って貰えたのです。………怖いこともたくさんあったのですが、その結果、その時代のノアに会えたんですよ!ノア曰く、こちらの世界の運命がない筈の私ですが、何か助けになるような他のものがあるみたいなのです」

「…………もしかしたら、エーダリアから貰ったあの小枝だろうか」

「小枝…………!ディノが言ってくれて思い出しました。………私は、悪夢の中で大切なことをあれこれと忘れてしまっているのですね………」



その言葉を口に出すのは酷く躊躇われた。



「…………ネア、君は」



そう言えば、ネアは目を瞠り、悲しげに微笑む。



「あれはきっと、死のようなものだったのだと思います。ノアが駆けつけてくれる前に、火竜の王様にやられてしまいました。火竜の王様は、特別に厄介な槍を持っているのだとか。………でもね、その方はそうせざるを得ないことにどこか悲し気でしたし、ノアが滅ぼしてしまったのだそうです。………その結果、こちらでは正しい歴史とは違うことになっているようです……」

「…………良かった。君を傷付けたものは、ノアが処理したのだね」

「でも、王様を殺された竜さん達が暴れてしまい、史実通りであれば終戦のひと月後に処刑となった筈の、ウィームの王子様もその場で殺されてしまったのだとか………」

「君は、その影響を受けそうなところにいるのかい?」

「いいえ。ノアがすぐに連れ出してくれたので、今は、シュタルトのノアのお城に居るのですよ。戻るのに支障があるといけないのでウィームの中にはいますが、そちらの騒動に巻き込まれる心配はなさそうです」


そんな言葉にほっとしつつ、変化の中で失われてしまったものは恐らく残響の核ではないのだろうと話す。

何か変わらずにそこに在るものの中で、悪夢たりえるものの中心にあるものがどこかにあるのだろう。

呪いの主軸が残響である限り、それは必ず過去に実在したものの残響だからだ。



「ディノが寝ていないといけないので、ディノは少し寝るべきなのでは……」

「やっと君に会えたのに、どうして寝ていられるのだろう」

「しかし、少しくらいは気持ちを休ませてあげないと、ディノがくしゃくしゃになってしまいます」

「今、こうして君の側にいられるだけで充分だよ」

「ふふ。それなら、私とお揃いですね」



ネアが目を覚ますその時まで、色々なことを話した。

そして黎明の光に暗闇が白んでくると、不安を押し殺してとあるものを差し出す。



「ネア、これを飲んでいてくれるかい?君が無事に戻ってきたら、きちんと回収するから、今だけは」


そう渡した小さな赤い結晶石のようなものに、ネアは目を瞠ってから無言でこちらを見上げる。


「…………嫌だとは思うけれど……」

「いえ。こういう状況ですから、ディノとしっかり繋がれるのは安心なのです。ただ、せっかくディノも丁寧に進めてくれていたのに、こんな形で不本意ではありませんか?」

「君が無事ならば、私は何でもいいのだろう。ごめんね、ネア」

「あら、私はこれで迷子にならない筈なので、頼もしい限りです!一時的に婚約をすっ飛ばしてしまうので、また後で丁寧に仕切り直しましょうね」

「うん。………ネア」


こんな時でさえ、ネアはそう言って微笑むとあまりきちんと触れられないなりに、頭を撫でてくれようとした。

胸の奥が熱くなり、その微かな温度に喜びを感じる。



「そう言えば今日は、記録の魔物さんに会うのです」


しかし、ネアがそう言った途端、その喜びや安堵は霧散した。


「…………その魔物はやめようか」

「ノアもものすごく嫌そうでしたよ。でも、私の帰り道を探すのに必要なのだそうです。我慢して下さいね」

「ご主人様…………」

「ほらほら、私はディノの血で出来た結晶石を飲んでいるので、大丈夫ですよ。以前、ウィリアムさんに核も貰っていますし、アルテアさんとは使い魔さんな契約をしています。今回はノアも一緒ですから」

「ウィリアムなんて………」


以前、悪夢の時にウィリアムがネアに核を飲ませたことがある。

心配したゼノーシュからもその話をされたが、確認したところ、魔物の血を飲むと婚姻相当になるという条件を満たさないくらいに、薄めた血を他の魔術核と合わせたものだった。

しかし、量さえ増やせば婚姻相当になってしまうものをネアが持っているのはやはり不安で、その後は守護を何度も深く繋ぎ直したものだ。


そんなことを思い出して項垂れると、ネアが苦笑する気配があった。


「ふふ。いつものディノを見て、何だか嬉しくなってしまいました。あのウィリアムさんの核はそこまで強いものではなかったと、ディノも知っているでしょう?」


それでも悲しげにすれば、ネアはまた頭を撫でてくれた。

その儚い温度に酔いしれ、彼女の体の中に取り込まれた自分の気配に安堵する。

こんな風に見失ってしまうなら、今迄の守護は何だったのだろうと自問したくなったが、今迄に重ねてきたものがあったからこそ、こうして合間の暗闇でネアに会えたのだ。



「む。………何となくですが、目が覚めそうな感じです………」

「また君に会いに来るよ。安心しておいで。……それと、記録の魔物には気を付けるように」

「ディノの指輪をした私に、記録の魔物さんが何かをしたりはしないと思いますよ」

「……………彼は、厄介な魔物だからね」

「ディノ、また今日の夜も会いに来て下さいね」


最後にもう一度頭を撫でて貰い、ふと気付けばもうネアはいなかった。



小さく溜め息を吐いて上に戻ることにしたが、最後のネアの言葉にほろりと不安が和らいだ。

一時的にであれ血を摂り込ませたのだから、ネアが損なわれてしまうことはない。

後はもう、残響の核を探して取り戻しに行くだけなのだと思えば、心は格段に軽くなっていた。

















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