223. たいへん遺憾な結末です(本編)
この世界には迷子防止薬というものがある。
雪葡萄から作られる魔術薬で、そのお味はまさしく沼の味というたいへんに恐ろしいものだ。
(なぜ、こんな緊急時にあの沼の味な薬のことを思い出したのかしら……)
ネアはかつてその薬で酷い胃炎になったことがあり、それは服用を進めたその後三ヶ月に渡って続いた苦行であった。
その薬の服用が止められたのは、結局ネアの事故を防げないことが分かったのと、どうやらディノのネアにはこの世界の運命がないと言う言葉通り、その薬が働きかける根本的な部分がネアには欠損しているということが判明したからだ。
ネアにはそもそも、修正し迷子にならないように働きかける為のこの世界用の運命というものが存在していないのだ。
それは、ひどく悲しいことなのだとディノは言う。
その事実が判明してしまった時、すっかり落ち込んでしまった魔物を慰めるのはとても大変であった。
けれども事故には遭うものの決して不幸ではない、それどころか随分と幸せになったネアは、落ち込まないで欲しいとディノに微笑みかけるのも容易い。
きっと、この世界に迷い込んだからこその幸運なのだと。
けれどもそうして理解していても、心が崩れてしまいそうな思いをしてしまうこともある。
それは多分、死者の国に落とされて一人ぼっちになったことや、…………今回のことのように、あまりにも悲惨な場所に落とされた時には致し方ないことなのだろう。
人間は図太いくせに、とても弱いものなのだ。
そんなことをつらつら考えるのは、ネアが今、とても困難な状況に見舞われているからである。
それはとても困難な、と言うよりは残酷なとでも言うべき苛烈さで、ネアの周囲の世界をめらめらと燃やし続けていた。
(ウィームが、燃えている…………)
それはネアの大事なウィームとは違うと分かっていても、それでもネアは今見ているものを理解するだけで泣きたくなる。
胸が潰れそうになって、蹲って顔を覆いたくなる。
けれどもそれでは駄目なのだ。
それではきっと、大変なことになる。
だからネアは歯を食いしばって、リーエンベルクの廊下を必死に駆け抜けていた。
(携帯の転移門も使えないらしい。空間が封鎖されているとか、………きっと何かの措置が成されているのだ)
戦時中で、ここは籠城戦の最中の王宮である。
ましてやこの戦況は絶望的で、ネアは何としても王宮への侵攻を防ごうとする魔術師や人外者達の叡智のその中にいるのだった。
その手のことは、ネアが特別に調べずとも、重傷者を逃がしたい誰かや、最前線に出ている王子達を案じる騎士の会話から漏れ聞こえてくる。
それなのに、どうして転移の間に向かえと言われてしまったのか、ネアは不思議で仕方ない。
もしかしたらそこには、ネアの知らない秘密の遮蔽地や隠し扉のようなものがあるのだろうか。
はぁはぁと、自分の荒い息が耳の奥でこだまする。
血の気が引き視界が暗く、胸が押し潰されそうに苦しい。
孤独で、おぞましく恐ろしく、ただただ怖くて堪らなかった。
(どうしてこんなことになったのかしら)
どうしてこんなことになったのだろう?
考えても考えても、その答えは見付からない。
その日のネアは、たまたま郵便妖精が落とした手紙の束の中から、風に散らばった幾つかの手紙を拾ってあげただけだったのだ。
封筒にエーダリアの名前が見えたので、エーダリア宛のものなのだろう。
(恐らく、あの手紙に何らかの魔術が仕込まれていたのだとは思う……)
しかし現状を見ると、これはもしかしたらリーエンベルクの記憶のような、この土地独自のものに飲み込まれたのかもしれない。
両手で胸元の服地をぎゅっと掴み、止まりそうになる心臓を叱咤した。
どこかに隠れてディノへカードから助けを求めたいのだが、今はそのような余裕はない。
(ノアのことを調べようとして読んだ統一戦争の記録から、夜明けまでには決着が着いたということを私は知っている………)
このリーエンベルクの王子を守っていた雪竜達は、夜になってすぐに死んだ。
王宮の守りを固めていた騎士団長も、先程息を引き取ったらしい。
伴侶の妖精を殺した火竜に挑み、猛火の魔術に引き裂かれた体は酷い有様で、息をしているのもやっとだという有様のまま、我が子を女官長の娘と宰相の三男と一緒にパーシュの小径に放り込んだのだそうだ。
そうすればせめて、その子供達だけでも生き延びられるかもしれない。
パーシュの小径の入り口は狭く、体の小さな子供達しか通れなかったのだそうだ。
ネアはそんな一報を、リーエンベルクの中を走り抜けながら知らされた。
悲しげに囁き合う妖精達に、泣きじゃくりながら報告する侍女達。
みんなの胸が張り裂けていて、みんなの目には絶望がある。
どぉんと、またどこかで爆発のような音が聞こえた。
美しいリーエンベルクの彫刻にひびが入り、ぱらぱらと壁画の表面が崩れるその様に、そんなことにまた胸が潰れそうになる。
無残に踏み荒らされた花壇や、引き裂かれて血止めに使われているカーテン。
この美しい王宮を守る為に囮となるべく決戦の地を外に設けた一部の王族達の気遣いも虚しく、ここも既に戦火が迫っている。
(ああ、………………)
誰かの慟哭に、絶叫。
また誰かが死んでしまい、誰かが誰かを殺したのだろう。
苦しみと絶望の重苦しい澱を掻き分け、ネアはひたすらに走った。
(飾り棚…………、まずは一度、飾り棚のところへ)
ネアのいた場所から転移の間への最短ルートは、既に酷い火事によって道を断たれてしまっていた。
あの飾り棚はここからだと反対方向にはなるが、逆から転移の間に向かう場合はそのすぐ近くになる。
とはいえその道も、この王宮に居たという歌乞いと契約の魔物が命を絶ったその崩壊に合わせ、空間がすっかり穢れてしまっており、鎮魂の儀をしないと通れないそうだ。
ネアはそう話し合う騎士達の言葉に、蹲って吐きそうになった。
それはきっと、ノアの大事な人が死んでしまったその瞬間のことだ。
突入のその前に、リーエンベルクには防御の要になりかねない者達を重点的に削るべく、刺客のような者達が送り込まれたらしい。
その者達は撃滅されたものの、彼等と戦ったウィームの勇士達もまた失われた。
騎士団長が伴侶の灯台の妖精と共に倒したのは、火竜の王子の一人であるらしい。
ウィームの歌乞いが倒したのは、海の精霊達の一人で、その死と共に自分を倒した者の体を腐り落とす呪いを持っていたそうだ。
そんな精霊の四姉妹に対し、歌乞いの伴侶である騎士が真っ先に犠牲になり、次いでその歌乞いが、そして自分の歌乞いが腐る体に絶叫してもがき苦しむ姿に耐えかねた魔物が、自らと歌乞いを殺すと共に、その部屋に押し寄せた海の精霊達を道連れにした。
(………まずは、飾り棚のところへ。この火の手の中で転移の間に移動するより、首飾りの金庫の中のもので凌いで、暫くどこかに篭った方が安全だもの)
胸が痛くなる幾つもの悲劇を頭から振り払い、ネアは今の自分がするべきことを考え直した。
他にも幾つかの避難場所は知っていた。
けれどもそこにはもう重病人達が押し込まれていたり、その区画が壊されてしまっていたりした。
ネアの住んでいる棟では虐殺などはなかったものの、制圧が早くヴェルリア側の拠点になったと資料で知っていたので、最初からそちらには逃げなかった。
真っ先にここから逃げ出したくなってしまうけれど、大事な魔物と大事な自分の為にしなければならないのは、必ず無事に戻ることだった。
(ディノ、………ディノ、ディノ!!)
心の中でその名前を叫び、いざという時には春告げの舞踏会で貰った祝福があるからと震える指先を握りしめる。
「……………ここには入れないわ」
しかし、やっとの思いで辿り着いた飾り棚の前には、その中に避難させられる子供達や、その子供達が抱えた竜の子供や貴重なのであろう草花、そして彼等の面倒を見る役目を任されたらしい、数人の大人達が並んでいた。
ネアはその様子に立ち止まり、ぎりっと唇を噛みしめる。
ここにいる者達だけでも、どれだけの無念の中で絞り込まれたのだろう。
見送る大人達の中には、ネアの目から見てもまだ幼い少女もいる。
それでも彼女は、避難する子供達よりは年長者だからと、この火に包まれた王宮に残されるのだ。
勿論、これは過去だ。
すでに失われて久しい、そしてもう顛末の変えられないもの。
そんなものの為に、あるべきところに帰らなければいけないネアが躊躇う必要はないという者もいるかもしれない。
ネアが知っている避難場所は、ここが最後だ。
けれども、ネアには目の前の子供達に割り込むことはやはり出来ない。
少しだけ呆然と立ち尽くしてから、ネアは並んでいる者達が見知らぬ人間の存在を不審に思わない間にと、踵を返してその場から立ち去った。
これでもう、最悪の瞬間を何とかやり過ごしてから、戦争が終結した後に転移の間に忍び込むタイミングを狙うという作戦は使えない。
この混乱の中、何とかして転移の間に辿り着くしかないのだ。
(……………あ、)
そこでネアがやっと思い出したのは、短距離用のリーエンベルクの専用転移門だ。
それは重たい荷物を運ぶ際などに使う為のもので、主に家事妖精達が使っている。
きょろきょろと周囲を見回し、その内の一つを見付けると、ネアは慌てて駆け寄る。
するとネアが知っているものと同じようにその転移門には行き先表示があり、目的地を簡単に選んで荷物を運べるようになっていた。
ただこれは人間用ではないので、人間が乗ると放り投げられたようなことになるらしい。
決して乗らないようにと教えてくれたゼノーシュの言葉を思い出し、ネアは少しだけ微笑む。
「ゼノが私を案じてそう教えてくれたお陰で、私はこの絵の裏に隠された転移門のことを知っているのだわ」
声に出してそう呟いたのは、周囲にはもう誰もいないから。
この廊下の先は本来なら転移の間になるというのに、生き物の命だけを奪うという呪いをかけられた魔術の炎が大きく燃えていて、今は行き止まりになるからだ。
「……………堪えてみせるわ」
ネアはそう呟いてから、ディノの指輪に口づけを落とした。
でもその前にと、素早くカードを出してみる。
(もし、ここで打ち所が悪くて倒れたりしても困るし、今の内にせめて連絡だけでも………)
しかしなぜか、カードに書き込んだ文字は揺らぐばかりで吸い込まれて送られてはくれなかった。
「…………ふぐ」
涙を堪えカードをしまうと、ネアは、荷物用の転移門をがちゃんと開く。
景観上の問題から壁の奥に隠されていて、更にはこの転移門の魔術はリーエンベルクの基盤そのものに直結していると聞いている。
だからと期待をかけたものの、これも封じられていたら手詰まりだ。
このようなリーエンベルクの備え付けの転移門は、潤沢な土地の魔術に乗るだけなのでネアにも扱える。
元々品物の運搬なども想定されているので、流れる川に飛び込むだけで自らオールで漕ぐ必要のない、可動域の低い者には有難いものだ。
(……………ここが、転移の間に一番近い)
真っ先に触れかけたのは、とある階段下の扉の位置。
けれどもネアは、そこは窓に近過ぎると判断し、次に近いところを目的地に選んだ。
出た先に敵がいたり、燃えている区画ではないと当たりをつけても尚、ひどく損壊していたりしたら大惨事になるだろう。
何度か窓に駆け寄り、走ってきた時に人々の声から得た情報などを整理し直し、ネアは慎重に行き先表示の魔術盤に触れる。
なお、この際には魔術可動域の低いネアは、魔物の指輪で触れなければならない。
ネアの指先では行き先板が反応しないからだ。
ぴりっとした魔術の発動を感じ、転移門としてカチリと開いた小さな隠し扉を体を屈めてくぐった。
「……っ?!」
ぐおんと、体が虚空で振り回されるような感覚に身を屈める。
丸まって頭を守り、なぜあの白いケープを羽織らなかったのだろうと今更ながらに気付いた。
けれどももう手遅れだ。
ネアは聞いていた通りに、乱暴な転移にぶんと振り回され、放り出された。
「っ?!…………ぅう」
床に投げ捨てられたのだろうかという衝撃に体を丸めたが、守護が働いてくれたのか思っていたよりも痛くはなかった。
(せいぜい、寝台から落ちたくらいの衝撃だわ…………)
けれども、ほっとしてよろよろと起き上がったネアは、手をついて顔を上げたところで、すぐ近くに誰かがいることに気付いた。
「……………!」
そこに立っていたのは、酷く暗い目をした一人の女性だ。
風もないのに黒髪がゆらりと動き、人ならざるものだと一目でわかる。
艶やかな真紅のドレスが炎のように暗がりで煌めき、しゃりしゃりとその色合いを変えて揺らめき光る。
顔を上げた女性は、ネアを見てとても嬉しそうに微笑んだ。
「あら、リーエンベルクの人間はしぶといこと。でも、殺し甲斐があるのも確かだわ」
そう微笑んだ女性は、ぞっとするほどに美しい。
ネアはとっさにポケットに突っ込んでおいたものを取り出して翳した。
すぐに、ばたんと、何かが倒れるような音がする。
「……………む。死んだ」
恐怖のあまり顔を背けてきりんの絵を翳してしまったが、そろりと顔を戻してみれば、黒髪の女性は床にぱたりと倒れている。
震えるようにして安堵の息を吐くと、ネアは幸いにも反対方向であった目的地に向けて死に物狂いで走り出した。
ここにヴェルリア側の人外者がいるのなら、他にも入り込んでいる者達がいる可能性が高い。
例え侵入した数少ない刺客の一人なのだとしても、今はもう一人だけだとは限らないからだ。
リーエンベルクの結界が強固過ぎて侵入者はまだ多くないと話されていたが、それでも中に入った者が他の誰かを招き入れることも考えられる。
(…………リーエンベルクの、壊されてしまったところは記録通り。それ以外の燃えている所は、建物自体は損傷させずに中にいる生き物を燃やすだけの魔術の炎…………)
ウィームは全ての国民の魔術可動域が高い。
占領するにあたり、ヴェルリア側は国民の誇りを踏みにじり戦局が泥沼化しないよう、リーエンベルクや街の徹底破壊だけは避けたのだそうだ。
しかし、火竜の持つ特別な魔術の火によって、リーエンベルクに残っていた者達のほとんどは焼かれてしまった。
王都に侵攻された段階で、国王がその炎による攻撃を案じ、一般国民達には自宅退避を命じたのは有名な話だ。
滅びに向かうための戦いとなったその日、ウィーム国王は戦に勝つことを諦め、ウィームの民を少しでも多く生き残らせる為の方策に切り替えたのだ。
今更降伏しても、あまりにも危険な魔術を持つリーエンベルクの者達が生きて解放されることはないと、王は理解していた。
(だから、こんな風に炎に包まれても、リーエンベルクから逃げ出す人達はいない)
リーエンベルクに残されたのは、市井に紛れれば捜索によって民達に災厄を引き寄せかねない戦犯扱いとされる有力貴族の家族や高名な魔術師、そして、祝福の強い王家の血を引く者達ばかりだったそうだ。
ただし、ウィーム王家の為に死をもって殉じることを譲らなかった王宮仕えの者達もかなり多く残り、実際には国王が望まなかった程に多くの者達が命を落としてしまっている。
逃げ延びる余地があった者達は皆、歯を食い縛って生き残り記憶や血を繋ぐか、やがては落ちる王宮に残って共に黄泉路を行くのか、そのどちらかを選択せねばならなかった。
彼等はその選択で生き延び、あるいはここで命を散らしたのだ。
(小さな子供達もたくさんいた。飾り棚の遮蔽地に逃げ込んだあの子供達は、きっと残らざるを得なかった子供達なのだろう………)
彼等が生き延びたかどうかの記述は、ネアの読んだ本には書かれていなかった。
生き延びたとしてもそれは決して明かせないことであろうし、もし捕らえられたとしても、その粛清は惨過ぎてヴェルリア側も記録を残さないだろう。
走って、走って、ネアはようやく転移の間に辿り着いた。
幸運にもその辺りはまだ火の手が及んでおらず、開け放たれた扉に手をかけて中に誰もいないことを確かめる。
とあることを思い出して、リーエンベルクの魔術基盤に繋がる隣の部屋を見てみたが、そこにあるのは無機質な石壁だけだった。
あの地下への扉は誰かが隠したのだろうかと、がっかりしながらもネアは少しだけ安堵する。
ここにあるものも、きっと失われてはならないものだ。
(……………誰もいない)
本来であれば出口である筈のこの部屋ががらんどうで放置されているのは、あの灯台の妖精が話していたように、ここから転移で外に出ることが出来ないことを、誰もが知らされていたからなのだろう。
(だから多分、ヴェルリア側もここを押さえようとはしていない?それとも、先程の女性がここを任されていたのかしら?)
扉を閉め、その扉を開いてすぐに目に入るところに引き摺ってきた椅子を積み上げてきりんの絵を貼っておく。
気休めに過ぎないが、突入して来たのが人外者ならば、扉を開けた瞬間に目に入るようにしておいた。
(でも、…………どうすればいいの?)
転移の間で、ネアは途方に暮れた。
あの灯台の妖精の言葉を信じてここまで来たが、どれだけ壁や床を調べてみても、やはりここはネアの知っている転移の間でしかない。
特別な秘密通路や隠し扉もなく、転移の為の術陣が美しく描かれているだけ。
僅かにすり鉢状になったがらんとした石造りの部屋で、天井は高くドーム状になっている。
「……………もしかして」
ネアはその中で呆然と立ち尽くし、ふと、恐ろしいことに気付いてしまった。
(ここから出る者は皆、熱さを感じることも出来ないくらいの炎の壁に阻まれて死んでしまう。転移の魔術が目的地まで運んでくれても、その条件付けの呪いが生きて出る事を許さない………)
だがそれはつまり、リーエンベルクから出る事は出来るという事でもあるのだ。
(一度は死んでしまう。…………でも私には、春告げの舞踏会の祝福がある)
「…………あ、」
そしてそこで、ネアはやっと思い出した。
死なないという祝福よりも遥かに良いものを、ネアは持っていたではないか。
(チケットがある…………)
今年も頑張ってみたとしても、同じものがまた春告げの舞踏会で貰えるとは限らない。
ディノにも不思議だというそのチケットの魔術は、再現が難しいような本物の奇跡の欠片そのものである可能性もある。
(でも、使うのは今しかない。あの手紙に触れる前の、………部屋で起きたところくらいに戻れれば!)
そう考えたネアは、慌てて首飾りの金庫を探った。
安堵に泣きそうになり、唇の端には気の抜けた微笑みが浮かぶ。
けれども、やっと逃げ出せると思って気持ちが緩んだのは、ほんの僅かな時間だけであった。
「…………ない」
血の気が引いて、またしても視界が暗くなる。
膝が萎えて崩れ落ちてしまいそうだったが、そこは何とか堪えて踏みとどまった。
座り込んでしまったらもう、立てないような気がしたのだ。
(ない…………)
正確には、届かないのだ。
チケットや、今迄どうして思い出さなかったものか厨房への鍵など、それらの頼もしい持ち物達を収納したところに、なぜかどうしても指先が届かない。
思わず涙が堪えきれずに流れ、ネアはその涙を慌てて拭った。
(………………そう言えば、エドモンさんが、これは死に至る悪夢だと話していた。残響の魔術、それを悪夢で塗り固めたものだと)
彼は確か、在るべきものがありのままではないかもしれないと話してくれた。
この呪いに悪夢の要素がある限り、思いがけないところで落とし穴があるのかもしれないと。
(つまりは、こういう事なのか…………)
であればやはり、ネアは一度きりの祝福を頼り、転移の間の転移門を使うしかないのかもしれない。
それすら、悪夢のせいで働かない可能性があるかもしれないのに、それに賭けるしかないのだろうか。
「…………ふぎゅ。ディノ」
ネアは思わずその名前を呼んでしまい、自分の唇に煙の匂いの染み付いた指先で触れた。
どうしてもっと早く、最初の視界が揺らいでいる時にその名前を呼ばなかったのかと考え、また情けなくなる。
ここに悪夢の要素があるからか、最初は違う場所に迷い込んだからか、ネアは自分の心や頭さえも、いつも通りの働きをしないのだと悲しくなって項垂れた。
夢だと思って呑気にしていたあの時に動いていれば、とっくに助かっていたのだろうか。
(でも、時間がない。…………ここに誰かが来る前に、………そして、この部屋にも火の手が及ぶ前に…………)
よろよろと転移門に近付き、怖々と伸ばした手を引っ込めた。
(この考えそのものも、私が気付かないだけで、思考を損なわれているのかもしれない。………もしくは、最初のエドモンさん達のことすらも、悪夢の一環であるとしたら)
疑い出せばきりはないのだ。
ネアは悲しくなって指先をきつく握り込むと、いっそもう外に出て行って、迫り来る敵を片っ端から殲滅していった方がいいのではないかとさえ考える。
(ううん。決して自分の守護や力を過信してはいけない。これは戦争なのだ。殺す為の準備と叡智が、ウィーム程の国を落としたその場所なのだから…………)
「…………エーダリア様、ヒルドさん、ノア、……ゼノ…………グ」
本来ならば、このリーエンベルクで一緒にいた筈の人達の名前を呼んでしまったのは、またどうにかして、元の世界と重ならないかと考えたからだ。
それでも、うっかり呼び落としてしまったり巻き添えにしてはいけないと、何とかグラストの名前を呼ぶ前で口を噤んだ。
「ウィリアムさん、アルテアさん…………」
今度は呼び落としても助けてくれそうな頼もしい二人の名前も呼び、胸が潰れそうなくらいの沈黙に自分の体を抱き締める。
この悪夢だか残響だか分からないところにも、その時代の彼等がいるのかもしれない。
けれども、この領域に含まれておらず、そもそもいないという可能性もある。
(この時代のリーエンベルクに、ウィームに居る誰か…………)
はっとして、その思考の糸を手繰り寄せた。
真っ先に浮かんだのはノアだが、彼の名前は先程にもう呼んでいる。
だとすれば誰だろうと考え、アイザックならば交渉次第では味方に出来るだろうかと考えた。
(ドリーさんを呼んで、話をしてみるという手もある)
ヴェンツェルと出会っていない時代のドリーではあるが、彼が優しい竜であることは変わらないだろう。
そう考えていたらまたふと、心が取りこぼしていたことを思い出してくれた。
「…………ノアベルト!」
先程のネアが呼んだのは、塩の魔物の正式な名前ではない。
シルハーンという響きが万象そのものを示すディノ以外では、魔物はやはりその名前をきちんと呼ぶことで名を呼ぶ響きに魔術の理を帯びるのだと聞いた。
だからと、その名前を呼んだ瞬間のことだった。
ばぁんと、物凄い轟音を立てて転移の間の扉が吹き飛ぶ。
せっかくネアが設置しておいたきりんの絵は、その爆風のようなものに吹き飛ばされてしまった。
「…………ここにも逃げ込んだ者がいたか。転移門は使えないだろうに」
そう呟いて真紅の瞳でネアを見たのは、明らかに火竜だとわかる風貌の男性だ。
腰までの長い真紅の髪をゆるい三つ編みにし、暗い銅色の甲冑を着た騎士のような格好をしている。
美しい男性だが、火竜にしては珍しく線が細い。
そんな男性は、声を上げる事すら出来ずに固まってしまったネアを、どこか痛ましい目で一瞥した。
「悪く思うなよ。王族以外は全員殺せという約定なのだ」
そう呟いた声は暗く乾いていた。
ネアがその男性が手にした真紅の槍を見たその刹那、ずしんという鋭い衝撃が襲いかかる。
紙切れのように吹き飛ばされ、ネアはべしゃりと転移の陣の真ん中に落ちた。
(………………赤い色)
ほんの一瞬、暗く冷たい暗闇を彷徨い、ネアはゆっくりと瞼を開いた。
天井は赤く燃えていて、地獄で見る夢はこんな感じだろうかと愚かなことを考える。
投げ出された手足は酷く冷たく、床の温度が暖かくて切ないくらいだ。
痛みはない。
(…………怪我をしたのかしら。指輪があるのに)
この呪いが大事な指輪さえも奪うのだとすれば、それは耐え難いことだ。
そう思えば目の奥がつんと熱くなり、声を上げて泣きたいような重苦しい衝動に駆られる。
しかし、そんなネアの意識を引き戻したのは、どこか聞き覚えのある懐かしい声だった。
「ネイ………」
ふうっと冷たい息を吐き、ネアはその声の方に視線を動かす。
すると驚いたことに、視界の端にはノアがいるではないか。
「………ノア。助けに来てくれたのですか?」
思わずそう言えば、声は不思議なくらいにするりと出せた。
視界の中のノアが、泣きそうな目をしてくしゃりと微笑む。
「…………君は、やっと僕を呼んだね。君が呼んでくれさえすれば、僕はいつだって君の側に駆け付けられたんだ。………ここから出よう。君を火竜達などに渡したりはしないよ」
「…………とても、寒いです」
「うん。…………そうだね。でも、もう僕がいるから大丈夫だよ」
「………はい。ノア?」
「うん?」
「後で、話したいことがあるんです。私は、このざん、……残響の呪いから、元いた場所に戻らなくては……。ノアも………」
すうっと暗闇に引き摺り込まれるように、ネアの意識はそこで途切れた。
意識を失うその前にふと、こちらを見ていたノアが酷くずたぼろになっていたことや、その頬をべったりと血に染めていたような気がしてはっとしたが、もう意識は暗闇に飲み込まれてしまう。
「ディノ」
その暗闇の中で大切な名前を呼ぶと、誰かが眠っているネアの頭を優しく撫でた。
これは夢だから、薄っすらと瞼を開くことが出来て、ネアは嬉しくなる。
額に落とされた口づけに、苦痛に満ちた吐息が揺れた。
「ディノ、ごめんなさい。どうやら………一度死んでしまったようです」
そう告白したネアに、びくりと体を揺らした魔物が泣いているような気がした。
「ここは、統一戦争の最後の夜のウィームで、もうすぐ夜が明けます。多分ですが、ノアが一緒にいてくれますからね」
夢だからとするすると報告が出来るのに、なぜだか腕は持ち上がらず、ディノの顔もよく見えない。
瞼はとても重く暗闇はひどく甘くて、ネアはすぐに目を閉じてしまった。
「ネア、ここにいるよ。その夢がどんなに恐ろしいものを君に見せようと、どんなことを君に強いろうと、必ず君を迎えに行くからね」
優しい声に涙が溢れた。
でも多分、これこそが夢なのだ。
そう考えたらとても悲しくて、ネアは夢の中でも体を丸めて声を殺して咽び泣いた。