222. 死に至る夢を見ました(本編)
遠い夢の淵で、その場所に居た。
うつらうつらと鮮やかな色彩の中で眠りの表層を彷徨い、悲しい叫びや絶望の怒号に目を覚ます。
するとそこは、出来損ないの悪夢のような奇妙な場所だった。
「…………そなたは何者だ?」
「むぐ…………、夢が喋りました」
ネアを揺り起こしていたのは、ミルクブルーの髪が美しい妖精だった。
鮮やかな南洋の青で始まり、毛先にいくにつれて白が混ざるその特徴的な長い髪に、ネアは目を瞬いた。
「ディートリンデさん?」
しかし、ネアがそう名前を呼べば、彼は驚いたように目を瞠るのだ。
淡い銀色の六枚羽がかすかに揺れ、ネアは眉を顰めた。
しかし、ふわふわした地に足の着かないようなこの感覚は、まず間違いなく夢である。
(夢なのであれば、私の知らないディートリンデさんの出てくる夢なのだろう)
くぁっと欠伸をしてからまだ眠たい目で美しい雪の妖精を見上げると、なぜか少しだけ途方に暮れたように唖然とされる。
どうして夢の中だと思っているにも関わらず普通に対応したのかと尋ねられれば、その時のディートリンデの表情に、奇妙なくらいの温度があったからだ。
「俺を、…………知っているのか?」
「…………私を、覚えていらっしゃらないのですか?」
柔らかな淡い水色に金色の虹彩模様のある瞳がこちらをじっと見つめ、困惑したように彷徨えば、背後に立った一人の男性が小さく呻いている。
「ディー、この魔術の質は迷い子だ。…………潤沢な守護にウィームの加護。ウィームの愛し子が、よりにもよってこんな時期に来るとは、運命は残酷なものではないか」
漆黒の長いコートを着たその男性は、ディートリンデのシーらしい華やかな装いとは違い、簡素で動きやすいような服装をしていた。
使い込まれた長靴に、どっしりとした腰のベルトには、様々な道具や武器などが吊り下げられている。
上品な旅人のような服装だなと思い、ネアは彼の背中の羽が綺麗な灰色であることに気付いた。
柔らかな春の雨のような、薄桃色がかった素敵な灰色だ。
ネアが迷い子だと言われてしまったディートリンデは、驚いたように小さく息を飲み、まじまじとネアを見下ろす。
因みにネアは、リーエンベルクの一室の床に座り込んでいる設定で、薄暗い部屋の隅っこで眠りこけていた不審人物という役回りの夢であるらしい。
(変な夢だ…………)
瞼の向こうにゆらりと現実の光が映り、ネアはそのままえいっと目を開けば目が覚めるような気がしたのだが、どうしてだか上手くいかなかった。
誰かが手首を掴んでいるような感覚が微かにあるのは、また魔物が寝台に入り込んで眠っているからだろうか。
目が覚めそうで覚めない。
そのぼんやりした不自由さにむぐぐっと体を動かしても、やはりまだ夢の中のままだ。
男達は突然奇行を繰り広げた人間にびくっとなってから、また深刻そうに顔を見合わせる。
「迷い子………だと?しかし俺は、この子供を知らないのだが」
「…………本当に知らないのか?お前は、自分に好意を寄せるものに無頓着だからな。………ん?妖精の庇護の気配があるな。君は、誰か妖精に庇護を貰っているのか?」
「………はい。ヒルドさんに」
「ヒルド?」
そう首を傾げたディートリンデに、ネアはいっそうに眉を顰める。
夢なら夢でこのような辻褄を合せておいてくれないと、この身の保証が取れないではないか。
さてどうしたものかなと考えかけ、夢であればそのままこちらはこちらの主張をすればいいのだと思い直す。
「夢の中のディートリンデさんは、お友達のヒルドさんの名前も、忘れてしまったのでしょうか?」
「夢の中……………?」
「はい。これはどうやら、私が見ている夢なのだと思います。………む?夢だと宣言したのに、まだ目が覚めません。なぜなのだ」
奇妙なことを言い出したネアに、ディートリンデはもう一人の妖精と視線を交わす。
その時の目線が、おかしなことを言いだしたぞという万国共通のものであったので、ネアは少しだけ本気で傷付いてしまった。
悲しい思いで夢の成り行きを見守っていると、見ず知らずの男性が会話の主導権を引き継いだようだ。
ディートリンデと立ち位置を代わり、ネアの正面にしゃがみこんでくれる。
「むぐぅ…………。知らない方が夢に出てくるのは、珍しいのです」
「…………君、この不作法者と知り合ったのはどんな場面であったか、説明してくれるか?……残念ながらあまり時間がなくてな。君がどこから迷い込んだのかを知る為にも、端的に説明してくれると嬉しい」
そう言ってくれた男性もまた、美しい妖精であった。
四枚羽だがその羽は優しい灰色で、淡い墨色に深紅を落したような瞳の色には見覚えがある。
ああ、そういう経緯で夢の中に顕現した人物なのだなと理解し、その話も勿論出来たのだが、ネアはひとまずディートリンデとの出会いの説明を先に済ませることにした。
墨色の瞳の妖精が時間がないといった通り、リーエンベルクはなぜか騒然としている。
周囲に誰かがいる様子はなかったが、何か重篤な事態が起こっているという恐ろしい空気を感じてしまうのだ。
「統一戦争から、ウィームの森の一部を守ってくれた、飛び地の森の中でお会いしました」
ネアは端的に説明した。
誰がとか何がとかではなく、今はどこでということに特化した方がよさそうだ。
そしてこの言葉には、その土地の背景も色濃く反映されている。
すぐに言葉裏を汲み取ってくれたディートリンデが、ひどく静かな声でそっと尋ねた。
「…………もしや、そなたにとって、統一戦争は過去のものなのか?」
「ヴェルリアや他の領土と、ウィームがかつて国であった頃に起こった統一戦争であれば、はい。過去のものとして認識しています」
「…………そうか」
ディートリンデは、打ちひしがれたようにそう呟く。
その背中に手を乗せて、墨色の瞳の妖精が深く頷いた。
「であればやはりそうだ。君は生き残り、ウィームの森を守るのだろう。まさかこんなところから確信を得るとは………」
「やはりそうするしかないようだ。雪の妖精達も、………もはやほとんどが死に絶えた」
「俺にはここでするべきことがある。大事な伴侶の側にいなくてはいけないからな」
「……………短かったな。君が俺の友人になって、たった十年程か」
「そんな言い方をしてくれるな。充分過ぎる程にいい時間だったさ。後は、残る君が俺達のことを覚えておいてくれ」
そう微笑んだ墨色の瞳の男性は、ディートリンデの背中をばしりと叩く。
その親しげな様子を見るに、かなり仲良しなのだろう。
初めましての妖精は、くしゃくしゃの優しい墨色の髪を鎖骨ぐらいまで伸ばしており、若干小柄だがしなやかで力強い雰囲気がある。
「………ここは、過去なのでしょうか?」
怖々とそう尋ねたネアに、その妖精はネアの瞳を覗き込んだ。
そうして、微かに動揺したように短く息を飲む。
彼は自分が動揺したのだと理解したネアに気付くと、なぜか視線でネアがその疑問に触れることを先んじて封じた。
(…………今の驚きはなんだろう?)
今は言ってくれるなという気配を感じ、空気をきちんと読める大人は夢の中でも口を噤む。
こちらの世界の夢には意味があるというのであれば、夢の中でも聡くあり、その意味を取りこぼさないようにしたい。
「多分違うだろう。君は、………どこか魂が淡い」
「魂が………」
そこで小さく微笑むと、墨色の瞳の妖精はおもむろに立ち上がり、ディートリンデの方を振り返った。
ひらりと揺れた黒いコートに、その裾が随分とぼろぼろになっていることに気付いた。
がらんどうになった部屋に、彼等の話しぶり。
これはもう、一つしか思い当たらない。
(恐らくここは、統一戦争時のリーエンベルクという夢なのだ)
随分と危うい時期の夢を見たのだなと、ネアは少し落ち込んだ。
出来れば幸せな夢を見たいし、やはり夢の中でも統一戦争時の話題は苦しく悲しい。
部屋の外のざわついた空気も、この夢の舞台が戦争の中にあるからなのだろう。
ネアが夢なりにとそんなことで納得している間に、妖精達は何だか切ない話し合いをしていた。
「俺が、この子を魔術の導きの道があるところまで送っていこう」
「そうか。この子供は道を持っているのだな…………。せめてもの幸いだ。そなたが一緒に居てくれて助かった」
「俺が同席するのもまた、運命の内なのかもしれない。さあ、君は、君が行くべきところへの道を整えているといい。まだ時間はあるようだから、最後にもう一度、挨拶に来るよ」
「そなたが来られないようであれば、俺がそちらに向かおう。友と別れるのに、このままではさすがに味気ない。奥方殿にも会っておきたいしな」
「はは、そうだな。…………さて、君は俺と来てくれるか?どうやら君には、俺の魔術で示される帰り道があるらしい」
「………はい」
そんなことを言われれば勿論、ネアは妙に力の入らない膝に手をあてて、立ち上がって着いてゆくしかない。
けれどもその前にと、ネアはどこか悲しげに窓の外を見ている雪のシーの方を振り返った。
目張りされた窓から差し込む僅かな陽の光の筋に、淡い銀色の羽が悲しく煌めいている。
静謐なその立ち姿は孤独で、寄る辺のない妖精王はどこか疲れた目をしていた。
「ディートリンデさん。………私の知っているあなたにはお友達がいて、私の知っているリーエンベルクには、こちらの方にそっくりの騎士さんがいますよ?」
その言葉に振り返ったディートリンデは、淡い水色の瞳を微かに震わせる。
じっとこちらを見る人ならざるものの目を見返し、ネアはあえて微笑むようにした。
例えここが夢であっても、やはり彼はネアにとって大事なものに紐付く人なのだ。
「………その騎士は、エドモンに似ているのか?」
「まぁ!まさに、そのお名前の騎士さんです。灯台の妖精さんと、将来有望な男性の方で、リーエンベルクの騎士さんのお孫さんだと聞いています」
その言葉がもたらした変化は大きかった。
はっとしたように目を瞠り、ディートリンデの瞳には澄明な輝きが戻る。
振り返ってつつかれたエドモンは、苦笑して頷いた。
「聞いたか?そなたの孫は、リーエンベルクの騎士になるそうだ」
「……………ということは、俺達の娘は生き延びるようだ。あの子は、俺の名前を息子につけてくれるのか」
妖精達は不思議な微笑みを交わし合い、ディートリンデはネアに小さく頭を下げた。
はらりとこぼれた長い髪に、恐縮してしまってネアは慌てて首を振る。
「そなたがどこからの迷い子であれ、今の言葉は俺の救いであった。礼を言う」
「いえ。私は、私の知っているディートリンデさんに、冬告げの舞踏会で助けて貰いましたから!」
ざざっと、風景が揺れる。
揺れる風景の向こうにいつものリーエンベルクが重なり、ネアはすぐ近くにある窓の中に、青い顔で廊下を歩くヒルドとエーダリアの姿を見たような気がした。
よく分らないけれど、まるで世界が薄く透明になり、重なり合っているような感じがする。
また風景が揺らぎ、今度は真っ赤な炎に包まれる壁が見えた気がした。
しかしそこから引っ張り戻されるように、先程の場所に戻ってくる。
「…………っ、」
足場が沈み込みそうになり、ネアはおぼつかない足取りで廊下の床石を踏んだ。
絨毯はなく床石が剥き出しになっており、壁沿いに蹲っている負傷兵を手当てする妖精の姿がある。
(変な感じがする………)
幾つもの夢の中を行ったり来たりしているような感覚に、ネアは胸を押さえた。
こうして自分に触れている間には、きちんと自分がここにいるのだと自覚することが出来る。
「時折揺らぐな。影絵か悪夢かとも思ったが、やはり、……それに加えて、残響の魔術か」
くらりと眩暈に襲われてから視線を持ち上げれば、ネアの手を引いて歩く人にそう言われた。
何度も瞬きしてからその墨色の瞳を見返し、ネアはすっかり混乱して小さく首を傾げる。
これが悪い夢なら一緒にいる人が見知らぬ誰かに入れ替わっていてもおかしくないが、幸いにもエドモンのままのようだ。
いつの間にか廊下に出ており、ネアは彼に手を引かれて真っ直ぐな廊下を歩いていた。
廊下の角には深刻そうに話し合う騎士達がいて、さめざめと泣いている貴婦人が床に崩れ落ちる。
「……………残響の魔術?」
「ああ。魂の淡さが気になっていた。つまりここは、君にとってはただの過去ではなく、悪夢に紐付いた記憶の亡霊のようなものなのだろう。………しかし、その表現は、ここで足掻く我々にはいささかむごいことだからな。ディートリンデのいる場所では口に出せなかった」
(専門的な、知らない単語が出てきた気がする)
ひたりと、何か不安にも似たものが落ちる。
胸の中に落ちたその滴の冷たさにぞっとして、ネアは慌てて違う問題に視線を向けた。
「…………ごめんなさい」
「なぜ君が謝るんだ?」
「私に接触したことで、あなたは、ここが悪夢や記憶の亡霊の一部になる未来を知ってしまったのです。それはきっと、悲しいことでしょう?」
「人間の子は、そんなことまで気に病んでしまうのか。………君はただの迷子だ。だから、過去の一かけらのことなどに心を痛める必要はない。ただ、………そうだな、君の側にいるという俺の孫に良くしてやってくれ」
愉快そうにそう笑う妖精は、みんなから慕われているようだった。
彼が廊下を歩けば、様々な人たちが声をかけてくる。
戦況を尋ねる声や、誰かを案じる問いかけにさばさばと答えてゆきながら、特定の目的地があるのか、エドモンはネアの手を引いてどんどん進んでゆく。
(記憶の亡霊と呼ばれる、あわいや影絵に残るものは、その土地の最盛期の記憶か、最悪の悲劇のその瞬間。悪夢という言葉を出したこのひとは、ここが、………これから凄惨なことになるのだと知ってしまった)
この光景を見ればもう確信してもいい筈だ。
ここは、統一戦争時下のウィーム、そしてリーエンベルクの中だ。
それも最後のその時がかなり差し迫っているのが分るくらい、王宮の中には重症者達の姿が目立っていた。
そう認識した途端にまた、不安の滴がひたりと落ちる。
今度はその冷たさを無視しきれずに、ネアは自分自身に問いかけた。
(これは、…………ほんとうにただの夢かしら?)
確かに意識は時折曇るし、視界も揺らぐ。
床を踏んでいる感触は曖昧で、思考の隅に靄がかかったような感じもある。
けれどもなぜか、不安にも似た予感のようなものが無視しきれない鮮やかさで揺れ、ネアの心を脅かすのだ。
「君は、ここがただの夢ではないと、薄々気付いているのではないか?」
「…………っ」
そんな折に、エドモンはネアの考えていることを見透かしたようにそう話しかけてきた。
歩みは止めず、ネアの手を引いて歩き続けながら、どこか痛ましそうに。
「夢では、………ないのでしょうか?目が覚めそうな感じも、何回かあったのです」
「残念ながら、普通の夢ではないだろう。夢にも似た現の悪夢。夢の形によく似た、もっと良くないものだ」
がくんと、視界が暗くなった。
今度は目が覚めかけているような感じではなく、ショックのあまりに血の気が引いたのだろう。
薄暗くなった視界で、苦しくなった胸で、よろよろとエドモンに着いてゆく。
しばらくそのまま歩いてから、ネアははっとして目を輝かせた。
「エドモンさん、少し立ち止まって、特別な魔術で私の知り合いと繋がった通信のカードを見てみてもいいですか?」
「すまないが時間がないようだ。…………君が落ちるべきだったのは、この時間帯ではないらしい。駆け下りている階段の先にある時間軸が何かの干渉で揺らぎ、違う時間帯に繋がっているのだろう。私がこの手を離せば、君はまた違う場所に迷い込んでしまう」
「………その、…………この手を離して貰えれば、私は私のいるべきところに帰れたりします?」
今やもう、エドモンは走り始めていた。
いつの間に走り出したのか見当もつかないので、ネアはまた意識が曖昧になっていたのかもしれない。
手を引いて走る妖精からはぐれないよう、必死に足を動かしてその後をついてゆく。
忙しなく弾む鼓動に、まさに悪夢の中の一幕という感じで怖さが募った。
廊下はどこまでも続くような気がした。
装飾やカーテンの色、戦時中らしく取り払われてしまった絵画などのせいで、リーエンベルクだとわかるのに見知らぬ場所にも見えて、ネアは懐かしく安全な自分の部屋に帰りたくて堪らなくなる。
「君は、俺が灯台の妖精であることを知っている筈だ。そんな俺の目には、君がこの場所に下りてきた階段に、魔術の悪意が見える。迷い込んだこの夢はただの夢にすぎなくとも、君にとっては死に至る夢でもあるのだろう」
「…………そんな」
そう返してからネアはうまく言葉を繋げなくなった。
尋ねたいことは幾つもある筈なのに、なぜか思考がまとまらない。
そのもどかしさに、何一つ上手くいかない悪夢のようだと不安になる。
「………どうしてなのか、思考が上手くまとまりません。頭の中に綿を詰め込まれたような感じなのです………」
「恐らく、色々なことを悪夢に阻害され、在るべきものがありのままではなく、悪夢らしい形で奪われ、侵食されている可能性もある。それは物だけではなく、思考や認識にも及ぶ可能性があることを覚えておくといい。ここは悪い夢でもあるのだから」
ネアは絶句した。
そんな状態で、どうやって自分を救ってやれと言うのだろう。
在るべきものが失われるということにより、考えることすらままならないとしたら、それより怖いことはない。
「……後でゆっくりと考えるといい。どこでこちら側に入り込み、どうしてそうなったのか。………君が先程の場所に出て来られたのは、身に宿る守護や祝福が成す幸運が幸いしたに違いない。そういうもの達が君を救ったのだ」
「先程の場所に放り出されたのは、意味があるのですね………?」
ネアのその問いかけに、エドモンは少しだけ振り返ると優しく笑ってくれた。
この妖精は、普遍的な父親や兄のようなあたたかさを持ち、どこかドリーやグラストのような雰囲気がある。
そんな微笑み一つで、ネアの弱気な涙を引っ込めてくれたのだ。
「君を救う手だてのある場所、或いは君に縁のある者がいる場所だったろう?」
「…………ええ。ええ、そうでした」
「だから俺も、君を出来る限り安全なところまでは送り届けたい。………が、少しずつ、本来飲み込まれるべきだった場所に奪われていってしまっている。それはきっと、この王宮やウィーム王国の、最後の瞬間なのかもしれない。…………最後の最後に、灯台の妖精としての本分を全うすることが出来ないのは、口惜しいな」
その言葉にはっとして、ネアは自分の手を見た。
すっかり透き通ってしまっていて、そんな手をどう扱っているものか、それでも変わらずに握り絞めて走ってくれているエドモンに感謝するしかない。
「灯台の妖精は、導き手としての魔術と祝福を持つ。俺に今見えている糸は、転移の間に繋がっているようだ」
走りながら、エドモンはネアがこの後どうすればいいのかを説明してくれた。
ネアの手はどんどん透き通ってゆき、彼ももう、自分が手を貸せる時間が残り僅かだと知っているのだ。
「君の守護が君を引き戻そうとしているが、やはり落下の力の方が強い。…………囚われてしまったのは、呪いに近しい入口だったのかもしれない」
「……………呪い」
「もし、元の場所に重なる一瞬があれば、その隙を逃さず、本来の居場所に自分がどんな状況にあるのかの手がかりを残してゆくように。………そして、君を引き摺り込もうとしている魔術は、このリーエンベルクの何かと結びついている。君を導くべく道として転移の間が示されているのは、リーエンベルクを抜け出すことが、この呪いを解く鍵になっている可能性を示しているのかもしれない」
「リーエンベルクを出ればいいのですね!」
「……………そう簡単なことではないんだ。今のリーエンベルクはすっかりヴェルリアの連中に包囲されていてな。今はまだ、妖精や精霊くらいであれば抜け道がなくもないが、導きの魔術はそちらを示さない。であればやはり、転移の間から外に出ろということなのだろう」
「分りました。何とかして、転移の間からお外に……」
不思議な感覚だった。
走っても走っても、不思議と息は苦しくならない。
その代りに体が妙に重くて、足を動かしている感覚の希薄さに、確かに悪夢の中の一場面のような感覚がある。
「ヴェルリアは、リーエンベルクからの転移の全てに、炎の壁を張り巡らせている。熱を感じる間すらない、因果の破滅の顛末を織り込んだ死の炎だ。人間の君が転移をしようとすれば、恐らく生きては出られない」
エドモンが言ってくれた言葉の幾つかは、まるで水の中にいるように曖昧になってしまって聞き逃してしまったものの、その言葉だけははっきりと聞き取ることが出来た。
「……………それは、頑丈な守護があっても駄目でしょうか?」
「因果の織りが有効とするのは、生まれ持っての属性だけだ。君が炎の中でも生きていける種族ではない限り、あの壁を超えるのは難しいだろう。……だが、俺の魔術が指し示すのがそこならば、きっと転移の間のどこかに生き延びる術も隠されている」
「と言うことは、…………っ!」
霧を掴むように、繋いでいた手が離れた。
ぎょっとして息を飲んだネアに、慌てて手を伸ばすエドモンが見える。
ネアもすぐにそちらに手を伸ばしたが、瞬き程の間にそこにはもう、灯台の妖精の姿はなかった。
ただ、真っ暗な廊下が目の前に広がっている。
(…………床に立っているという感覚が、はっきりしている…………)
ひたりと、また冷たい汗が背中を伝う。
いつの間にかリーエンベルクは夜になっており、窓の外は真っ赤に燃えていた。
そっと手を伸ばして触れた壁の温度が指先に伝わり、先程までのふわふわとした、どこか夢の中にいるような感覚は霧散していて、今いるこの場所こそが現実でしかないという感じがする。
(……………そうだ。私は、郵便妖精さんが落とした、エーダリア様の手紙を拾ったんだ)
自分がここに立っているという感覚が鮮明になると、その瞬間の記憶も蘇ってきた。
ネアはたまたまその場面に遭遇し、雪の上に散らばった封筒の中のうち、赤い封筒とその下にあった茶色の封筒を拾ってやったのだ。
そしてその直後になぜか、先程のディートリンデとエドモンに揺り起こされた部屋にいた。
(………呪いだと、話していた。……であれば、統一戦争最後の日のリーエンベルクに手紙に触れた人を落して、一緒に殺してしまおうという呪いなのだろうか)
死に至る夢だと、灯台の妖精が呟いた言葉が今更ながらに鮮やかに蘇る。
気象性の悪夢や、影絵の向こうのラエタと同じように、ここもまた、今は存在しないどこかであっても、迷い込んだ者を殺してしまうだけの場所であるのだろう。
「………………転移の間に」
窓の外の暗さに、ふと思い出したことがある。
(リーエンベルクは、夜明けにはもう陥落していたと記録にはあった。もしここが最後の夜であれば、きっと残された時間はほとんどない………)
この夜の色は、恐らく真夜中は過ぎている。
ぞっとしたネアは走り出した。
今出来ることは、ひとまずエドモンの授けてくれた導きに従い、転移の間までなんとか辿り着くことだ。
そこに辿り着いてもどうすればいいのか分らないので、まずは転移の間に行ってから、あのカードを開いてみよう。
どぉんと、遠くのようで近くにも感じるどこかで、爆発音のような轟音が聞こえた。
振り返ったネアが見たのは、赤々と燃え上がる隣の建物だった。
「ディノ…………」
思わず呼んでしまったその名前の響きが消えない間に、まるで意志を持つ生き物のように火の手がこちらの棟にも迫ってくる。
脱兎のごとくその場から逃げ出したネアの耳に、遠くで誰かが泣き叫ぶような悲しい声が聞こえた。
その声が呼んでいたのはあの優しい灯台の妖精の名前のような気がしたが、炎に追われたネアは振り返ることは出来なかった。