ひよこまみれとはだかの魔物
「ネア、どうしてこうなったのか説明してくれ」
登場するなりそう詰め寄ってきたのは、仕事終わりのウィリアムだ。
何だか今日はとても嫌な予感がしたのだと言い、その予感を無視しきれずに立ち寄ってくれただけなので、まめな優しさに感謝するしかない。
「むぐる。ひよっこひよこが、エーダリア様の魔術書からぽこん!と生まれたのです」
「…………ざっと見て、数百羽はいるな………。それと、シルハーンがカーテンにくるまっているのはどうしてだと思う?」
「私が、ひよこさんにきりんさんの絵が効くかどうか、見せていたからでしょうか?」
「よし。それだな。…………で、ノアベルトはなんで全裸なんだ?」
「お誕生日でご機嫌なのです。ヒルドさんが叱ってくれますので、あのままでいいでしょう。ひよこさんに埋もれているので、目の毒でもありませんでしたしね」
「そうか。そういう意味では、このひよこが役に立ったのか…………というかこれは、生き物じゃないな?」
「なぬ。ぴよぴよしているのに、生き物ではないのですか?」
ネアはこてんと首を傾げ、ぴよぴよ押し寄せてくるひよこを眺めて眉を下げた。
大人になると何だか獰猛な雰囲気も持つ鶏だが、ひよこの時にはたいそう愛くるしい。
しかし、言われてみれば一般的なひよこというよりも、黄緑色のなにやつかであるという気もする。
「それね、茶葉なんだよ」
「ゼノーシュ、…………ん?茶葉?」
「うん。擬似生命みたいなものを一時的に立ち上げる魔術が、使いかけで本に挟まってたんだ。だから、エーダリアが見せたい頁を開くために茶葉の缶を乗せた途端、茶葉がひよこになったの」
「さすがエーダリア様だな。茶葉もひよこになるのか……」
この状況でも動じず、感心したように呟くのはグラストだ。
そんなグラストの隣で、ゼノーシュは少しだけほっとしたような顔をする。
「僕ね、グラストが興味を持っても、茶葉だから気にしないよ。偉い?」
「はは。それなら良かった」
「茶葉だから、魔術が剥がれたらお茶にして飲んじゃうんだ」
ゼノーシュの説明で、ネアはようやくひよこが生まれた事情を察した。
魔術に長けていないネアの目には、エーダリアが魔術書を開いた途端にひよこが溢れ出したように見えたのだ。
すっかりひよこ祭りでひよこが可愛いとしか思っていなかったネアは、そっと床に手を差し伸べてぴょいぴょいと上がって来たひよこを手のひらで持ち上げる。
つぶらな瞳のひよこが二羽、ぴよぴよと愛らしく鳴いている。
このあたたかな温もりが茶葉だと、誰が思うだろう。
「…………ネア、気付いてないかもしれないが、服のあちこちにひよこが入り込んでるぞ?」
「むむ。しかし、愛くるしいぴよぴよなので、ひよこまみれでも可愛いのです」
「頭の上に乗っているのはいいが、服の中はどうなんだ………?」
「は!確かに、茶葉とはいえ潰してしまったら可哀想なので、スカートの中から引っ張り出しますね」
「俺が手伝うから、出してしまおう」
「はい!」
ネアはさっそくスカートをぱたぱたさせ、転がり落ちてきたひよこ達はぴよぴよ文句を言う。
黄緑色のふわふわに悲しげに鳴かれてしまうと、胸が苦しくなったネアはまたスカートの中に入れてやりたくなった。
擬似生命というものがどんなものかは分らないが、暗くて暖かくて隠れやすかったのだろう。
「……………こんなところにも入ってるな」
「むぐ。よじ登ってくるのが可愛くて放置していました。因みに、襟元に入ってしまっているのは、肩に乗り損ねた子達なんですよ」
「生き物じゃなかったからいいが、生き物だったらどうするんだ。このくらい小さな姿をしていても、長生きをしている生き物はたくさんいる。気を付けないといけないぞ?」
「……………ひよこ」
ひよこまみれを楽しんでいたネアは、そう叱られてしゅんとした。
大きくて暖かなものに寄り添いたいちびっこの気持ちは分るので、そんな風に頼られたことが嬉しかったのだ。
「………良く考えたら、ウィリアムさんは、私よりも大きくて頑丈です」
「…………ネア?どういう経緯でその言葉になったんだ?」
「勿論、よじ登る為にです!」
「ネア?」
ぎょっとしたウィリアムを捕まえると、ネアはさっそくよじ登ろうとしてへばりついた。
ネアの行動を見ていたひよこ達が、最高到達点はこちらだったのかと言わんばかりに一斉にウィリアムに集まってくる。
「ネアが浮気する………」
「カーテンの中から言われても、私は自分より大きなものに登るのです!」
「ずるい。ウィリアムには登るなんて…………」
「ネア、さては酔ってるな?」
「むぐ!お酒には酔っていませんよ。しかし、飲んだお酒の魔術が濃すぎたので、魔術酔いをしているのだそうです。ほわほわしていますが、しっかり正気なので、落ちずに登れますからね」
「登ることはやめないんだな……………」
ウィリアムは優しさからか、ネアがよじ登るのを許可してくれた。
わしっと掴んでよじよじ登るネアは、少しだけ登ったところで危ないからと言われて抱きかかえられてしまう。
頭の上にまで登る筈だったネアはがっかりしたが、その隙に一羽のひよこがウィリアムの頭の上に到達してしまったので、手遅れだった。
「ちびぴよに先を越されました!頭の上が一番のところなのに!」
「ネアには、ウィリアムの頭の上には登れないんじゃないかなぁ………」
「ゼノ、何事も挑戦なのですよ!む?」
ここでネアは、駆けつけてきた魔物に両脇の下に手を差し込まれて子供抱っこでウィリアムから降ろされる。
「困ったご主人様だね。あまり他の魔物に登ってはいけないよ?」
「自分より大きなものに登りたくなるのは、世界の真理なのです」
「では、私に登っておいで」
「うむ。吝かではありません。…………む」
そうなると、ウィリアムに登っていたひよこ達は、次はこちらなのだろうかという目で一斉にディノの方を見る。
元茶葉なひよこ達にじっと見つめられ、魔物は怯えたように水紺色の瞳を翳らせた。
「ご主人様…………」
「ひよこ達よ、この乗り物は私だけのものなので、乗車は許しません!」
高慢にそう言い放った人間に、ひよこ達はざわついている。
そうは言われてもと言いたげに視線を交わし合い、どこか反抗的な空気を漂わせる。
危険を察したネアは慌てて威嚇した。
「むぐるるる」
「ネア、茶葉と戦わなくていいからな」
「むぐる!ディノは私の乗り物なので、渡しません!本人もすっかり怯えてしまっているではないですか!」
「エーダリアが魔術を解除すればいいんじゃないかな」
そう呟いたゼノーシュは、一人で渋く飲み続けている。
グラストは茶葉ひよこが廊下に溢れ出さないよう、扉や窓の確認に立ったようだ。
ゼノーシュの目の前にはお料理の残りが綺麗に盛られたお皿があり、周囲を気にせず楽しく飲み続けられる気質なのだろう。
「ネア、その………エーダリアはどうしたんだ?」
「あちらのテーブルの下で、湧き出したひよこの群れに押し潰されて伸びているのです。ヒルドさん曰く、自業自得なのでそのまま床に寝かせておいて反省を促すのだとか」
「…………そうか。彼は甘やかさない主義なんだな」
ここからでも、注意して見ればテーブルの下に横たわったエーダリアの足が見える。
ひよこ達の一部はそんなエーダリアの体の上ですっかり寛いでおり、ぴよぴよと鳴いていた。
特に、淡い銀髪の頭には、髪の毛が巣材のように思えるのかたくさんのひよこが乗っている。
「ネア、ウィリアムがいるけど何で?」
そこによろよろとやって来た本日の主賓は、裸禁止の厳しい方針により、腰に脱いだシャツを巻き付けられている。
随分と珍妙な恰好だが、お誕生日が楽し過ぎたので致し方ないという見地もあり、ネアも今日ばかりは寛大でいようという心持ちであった。
「何か不穏な予感を察知して、お仕事終わりに立ち寄ってくれたのです」
「別に何もまずいことは起こってないよ。解散!」
「いや、どう見てもひよこだらけだと思うんだがな………」
「ああ、これは本来茶葉だから大丈夫。…………ネア、さっきウィリアムに登ってた?」
「むぐる。ひよこ達を見ていたら、自分より大きなものに登るのは真理であると悟ったのです」
「わーお。僕にも登っちゃう?」
「むむ。ノアも大きいですね………」
「ネア、良く見たのか?ノアベルトは、現状ほぼ裸だからな?」
「むむぅ。たしかにつるつるして登り難い感じですね。捕まるところがありません」
「そう?逆に滑らないと思うけど」
「………………なぬ」
ネアがそうなのかなと首を傾げると、乗り物になった魔物が悲しげに窘めてきた。
「ネア、君は私のものなのだから、いけないよ」
「しかし、ノアは家族のようなものです。そして、服を着てないと登り易いようですよ?」
「おや、私でも試してみるかい?」
「やめておきます」
「え……………」
「ディノが風邪をひいたら困るので、薄着はいけませんよ」
「ありゃ。じゃあ、僕はこのままでいいのかい?」
「お酒が入って上機嫌で羽目を外している様子ですので、今日は特別に許可します。その場合、明日ひどい風邪をひいてしまっても自己責任ですが、それもまたいい思い出ではないでしょうか」
「病気になっても、君が看病してくれるならいいかもなぁ。………って、痛い痛い痛い!」
目を眇めてひどく扇情的な眼差しを見せたノアは、背後から歩み寄ったヒルドに髪の毛を引っ張られて連れ戻されてゆく。
とても怖いお母さんなので、ネアもその時ばかりはしおらしい表情を心がけた。
「ネイ、まだ私の話が途中だったのですが、ウィリアム様に挨拶をされるだけだった筈では?」
「そういうことなら、俺の方は気にしないでくれ」
「ネア!ウィリアムはこういう魔物だよ」
「む。挨拶という意味では確かに済んだのでは…………」
「シル、ネアが冷たいんだけど」
「ノアベルト、そろそろ何かを着たらどうなんだろう?」
「ありゃ」
ディノに冷静に指摘され、ノアは少しだけしゅんとする。
ネアの方を見て悲しげな顔をするので、ぴよぴよに囲まれて心が豊かになっている人間は、微笑みかけてやった。
「私の視界に入らないところでなら、好きに羽目を外して下さい。しかしながら、お説教されてしまうのも自己責任なのです」
「もしかして、ネアが一番冷たい………?」
「まぁ!そんなことはありませんよ。…………そして、ウィリアムさん、ひよこが…………」
「ん?……………っ?!」
ここで、まず最初の犠牲者が出た。
ひよこ達は、やはり高みを目指すのが世界の真理だと思ったのか、手近なところでまずはウィリアムの登頂を目指し始めたらしい。
案外、先程頭の上に登った一羽が焚きつけたのかもしれないが、何百羽ものひよこ達に押し寄せられ、ウィリアムもさすがに顔を痙攣らせる。
そして、ネアの目を考慮してくれたのか物理排除を躊躇った隙に、服の隙間からひよこ達に侵入されてしまったのだ。
「っ、…………何で中に入ってくるんだ……」
すっかり悩ましい感じになってしまったウィリアムに、ネアは乗り物の三つ編みを引っ張って指示を出すと、すぐ近くまで行ってから腕輪の金庫をごそごそする。
「これでどうだ!」
そしてしゅばっと取り出したきりんの絵を翳した途端、ウィリアムに群がっていたひよこ達はぽとぽとと床に落ちた。
「……………ネア、……っ、」
しかしながら、残念なことにウィリアムも直撃を受けてしまい、がくりと床に膝を突いてしまう。
慌てたネアは、魔物から降りて床に伸びているひよこ達をかき分けてウィリアムに近付くと、不憫な感じになってしまった魔物からひよこを払ってやった。
「うっかりウィリアムさんまで無力化してしまいました。……お袖の中やズボンの中にもひよこさんがまだ入っていますね。…………むむぅ、このままだと潰してしまいそうなので、まずは脱いで下さい!」
「……………ネア?!」
すっかり弱ってしまったところで、いきなり服を脱がされかけたウィリアムは呆然とした面持ちで固まってしまう。
「ずるい、ネアがウィリアムばっかり脱がせようとする」
「ディノ、ひよこ分離作戦なのです。手伝って下さい!」
「ありゃ。僕も脱がされてみたかったなぁ」
「ネイ?」
「えー、ヒルドだってネアが脱がせてくれるなら脱ぐと思うなぁ」
「このような場所では脱ぎませんよ」
「…………わーお。その返答が一番まずいって」
そんなこんなでわしゃわしゃしていた時に、今度は二人目の被害者が現れる。
ウィリアムのことを不憫そうに見ていたノアが、部屋の奥の方に隠れていたひよこ達の標的になったのだ。
「…………っ?!え、ちょっと僕にも登るの?!」
なお、ここでノアがひよこ達によじ上られている間に、その光景を厳しい目で見ていたゼノーシュがグラストを素早く部屋から離脱させている。
「ネア、僕達はちょっとだけ庭を散歩してから戻ってくるね」
「ふふ。ゼノはしっかりものですねぇ」
「グラストが登られたら大変だから!」
「ゼノーシュ………?」
困惑するグラストをぐいぐい扉の外に出すと、ゼノーシュは自分もその隙間から廊下に出て、まるで最後の生還者のように素早く扉を閉ざす。
ぱたんと閉まった扉を眺めて、ネアは少しだけ不安を覚えた。
「………ディノ、……私の経験上、ゼノ達がいないと事故は悪化する傾向にあります」
「そうなんだね」
「少し酔いも覚めてきましたので、ひよこさん達を回収しましょう。やはりお茶は、お砂糖や牛乳で美味しく…」
ぞわりと部屋の空気が揺れた。
ネアはぎくりとして顔を上げ、可愛らしかったひよこ達がけだもののような顔をしてこちらを見ていることに気付く。
「…………私は、何かまずいことを言ったでしょうか?」
「怒っているようだけれど、…………擬似生命だった筈ではなかったのかな………」
「何に反応してしまったのでしょう?お茶扱いですか?…………それとも、お砂糖や牛乳…」
そこでまた、ざわっと猛々しい空気になり、ようやくネアも察した。
ここにいる茶葉達は、まだ緑色のお砂糖や牛乳を入れずに楽しむ摘みたて茶葉だ。
香りや新鮮な瑞々しさを楽しんでいただきたい茶葉達からすれば、お砂糖や牛乳など邪道もいいところなのだろう。
「……………ほわ、ディノ」
「術式をほどいてしまおうか。ノアベルト、エーダリアを回収してくれるかい?」
そう言ってそちらを見たディノは、困惑したように目を瞠る。
ノアはすっかりひよこまみれで惨敗しており、助けようとしたヒルドもひよこに埋まってしまい、服の中に入り込まれて悪戦苦闘していた。
「…………やっと気付きました。もしかして、ひよこさん達は増えていませんか?」
「いつの間にか、ものすごく増えているね…………」
これはとんでとないことになったぞと、ネア達は顔を見合わせたが、既に遅かった。
この二人もまた、背後から狙われていたのだ。
「エーダリア様の魔術書です!あれをどうにか、………むぎゃ?!」
「ネア?!…………っ?!」
(何だか最近、流されてばっかり!!)
ひよこ奔流が押し寄せ、ネアはあっという間に飲み込まれた。
柔らかでぴよぴよ鳴く奔流に、潰しそうで怖くて抗えない。
ぴよぴよに蹂躙されながらひたすら耐えていると、誰かがひよこの中からネアを引っ張り出してくれた。
「ノア!」
「良かった。くしゃくしゃだけど、無事だね。…………今ね、ヒルドが魔術書を命がけで取りに行ってるからね」
「命がけで…………」
見れば、ひよこの波を果敢にかき分けて、ヒルドがすっかりひよこに埋まってしまったエーダリアがいた辺りを掘っている。
「ディノは、…………」
「……………ご主人様」
ネアは大事な魔物が見当たらなくてぞっとしたが、すぐにひよこの中からずぼっと顔を出してくれた。
頭の上にひよこが乗っていて、何だか可愛らしい。
「良かった、無事ですね。ウィリアムさんは…」
「あ、そっちは強引な手段に出てるから振り返らないようにね」
「なぬ…………」
「それと、ヒルドがやられた」
「ヒルドさんが?!」
慌てて視線を戻すと、ヒルドはひよこに飲まれたようだ。
ノアは慌ててネアをディノに預け、そちらに救出に向かう。
「ディノ、どうしましょう!ヒルドさんが…………」
じゅわっと、不思議で不吉な音がしたのはその直後だ。
「…………ほわ」
部屋はがらんとしており、ひよこはもう一羽もいない。
そろりと振り返ったネアは、一冊の本を剣で串刺しにしたウィリアムと目が合った。
「おかしいと思ったら、やはりこの魔術書は祟りものになりかけてるな。エーダリアはどこでこんな本を手に入れてきたんだ………」
「…………まさか、まだ危ない本を隠し持っていたのでしょうか。…………むむ。死んでいます」
ヒルド達はどうなったのだろうとそちらを見たネアは、死屍累々の床を少しだけ視認した後、ディノにさっと目を手で覆われた。
一糸纏わぬ姿でノアが討ち死にしているので、それを見せないようにしてくれたらしい。
「……………ノアのお誕生日でしたが、まさかのひよこ事件で締め括られるとは」
感慨深い思いでそう呟いたネアは、人生はなんて驚きに満ちているのだろうと、小さな溜め息を吐く。
なお、この日から一週間くらい、ノアとヒルドはひよこ過敏症になった。
ネアは、すっかり弱ってしまった二人を手厚く看病し、後から具合が悪くなってきたというウィリアムの面倒もきちんと見ることにする。
誰よりも先にひよこに潰されたエーダリアだけが、その悲劇を知らずにけろりとしていたのが印象的な事件であった。