219. 大晦日の夜に呪われました(本編)
「ふむ。そなたは私のこの姿を恐れないか。類稀なる勇者とみた。褒美を与えてやろう。……また、お前達は軽率で愚かな者だ。呪いを授けよう」
大晦日のお祝い料理を楽しむ場に突然現れたちびぽわは、ウィリアムとアルテアに詰め寄られ、突然そんな恐ろしい言葉を吐いた。
まさか喋るとは思っていなかったので、その厳しいおじいちゃん声に驚いた。
じっとこちらを見ている謎生物に、ネアはむぐぐっと眉を寄せる。
何ともつぶらな瞳だが、猫尻尾なのはとても可愛い。
ゆらゆらと左右に振る尻尾の影が、近くの壁に映っている。
「む。勇者の称号を得ました………。しかし、見ず知らずの方にご褒美を貰うのは申し訳ないので、ご辞退させていただき…」
「其方の思考を見た。金鉱脈だな」
「ちびぽわ様!」
「ネア、祟りものに近付いてはいけないよ。そして、歪な者からの祝福も受け取ってはいけない。いいね」
「そ、そうでした。つい欲望のままに……」
「ノアベルト、私が一時的に理を受け止めて固定したものを流せるかい?」
「はいはい。僕が頑張って魔術の理を受け流したから、もう大丈夫だよ」
「………ご迷惑をおかけしてごめんなさい」
ネアはうっかり欲望のままに頷きそうになってしまったが、ディノとノアがすかさず防いでくれたようだ。
ほっとしてディノの腕の中に収まっていると、ちびぽわに近付いていたウィリアムとアルテアが、妙に嫌そうな気配を漂わせている。
「…………理の呪い系か」
「………門の気配があるな。………その姿といい、樹氷の精霊だとすれば、殺すのも厄介だが、まぁ、どうにかなるだろう」
ウィリアムが思っていたよりも雑に決断をしてしまい、ちびぽわはディノがネアの視界を遮ってくれたその隙に部屋から消え失せた。
ウィリアムがやれやれと剣を仕舞うのが見えたので、抹殺してしまったのだろう。
「どうやってこの部屋に入ってきたものか。ヒルド、結界は…」
「いえ、問題はなさそうですが…」
「あれはね、祟りものだからだね。歪んで壊れて怪物の領域に落ちた合成獣だったでしょ?それで、怪物として大晦日の境界の揺らぎに乗じてこちらに顕現したんだ。元々は門を司る樹氷の精霊だから、侵食や侵入に長けてたのかもしれないね」
「………ネイ、これでもう心配はなさそうですか?」
「うーん、あるとしても、ウィリアムとアルテアに降りかかったくらいかな」
ノアは完全に他人事になってしまい、ネアは少しだけ心配になった。
あまりよく知らないとは言え、ウィリアムは善意でちびぽわを排除してくれた人なので、困ったことにならなければいいのだが。
「ったく。やっぱりお前が事故るんだろうが」
そう言いながらこちらにやって来たアルテアにおでこをつつかれそうになって、ネアは慌ててディノの背中に隠れた。
油断なくその動向を目で追えば、なぜかアルテアは眉を顰める。
「ネア、………どうしたんだい?」
「ありゃ。呪いは感染らないから、安心していいよ」
「…………いえ、この方は困った魔物さんなので、当面の間は、不用意な接触は避けようと思いまして」
「……………ネア?」
相手は気安く振る舞うことがあっても、享楽的で残忍な魔物でもある。
しっかりと自衛していた筈のネアは、なぜか困惑したようにディノに持ち上げられた。
背中に添えられた手のひらが強張っているような気がしたのは、気のせいだろうか。
「ディノ?………どうかしました?」
「私の知らないところで、アルテアに何かされたのかい?」
「…………む。……いえ、ウィリアムさんが来てくれたので大丈夫でしたよ?」
「ん?俺が………か?」
あんなことがあったばかりとは言えネアは言葉を選んだが、今度はなぜかウィリアムが困惑の目をする。
よく分からなくなったネアは、こてんと首を傾げた。
「…………氷河のお酒を飲んだ日のことです。魔物さんはそういうものなので特に根に持ってはいませんが、そのような気分の時期なのであれば、注意を怠らないようにしないとですから!」
「……………おい、あれはおおよそ一年も前のことだろうが」
顔を顰めてそう言ったアルテアに、ネアは目を丸くした。
一瞬流されているのかと思ったが、こちらを見ている赤紫色の瞳の色のうんざりとした感じを見るに、どうやらそうでもなさそうだ。
「……………昨日の夜のことでしたよね?」
「は?」
「……………まさか」
その直後、ネアはがしりとディノに抱き竦められ、顔を寄せられた。
頬に添えられた指の冷たさに、ネアは訳もわからずにはっとする。
「ネア、…………私と今日をどう過ごしたのか、覚えているかい?」
「ディノ?………エシュカルを飲みに行き、昨年のご夫婦のご主人の、新しい奥様を目撃しましたよね。そして、エシュカルは二箱買ってしまいました」
ネアがそう言うと、ディノは痛々しいくらいの安堵の息を吐く。
可哀想になってそっと真珠色の髪の毛を撫でてやると、今度はなぜかノアに詰め寄られた。
「ネア!僕とシルと、燃えるケーキを食べたのは覚えてる?僕の誕生日会は?!」
「勿論覚えていますよ?そして、お誕生日会ではなく、残念会です」
「…………え、どういうこと?…………あ、もしかしてそっちの二人限定の呪い?」
拍子抜けしたのかへなへなとなりながら、ノアは気付いたように、愕然と立ち尽くしているウィリアムとアルテアを振り返る。
つられてネアもそちらを見てしまったが、長命高位のはずの魔物達が、やけに衝撃を受けている。
「…………そのようだね。それが、あの祟りものになった樹氷の精霊のかけた呪いなのだろう」
「なぬ………。と言うことは、私の認識におけるそのお二人が、何かおかしいのですね?」
この質問責めの流れで気付かない筈もなく、ネアがそう言えば、ディノがこくりと頷いた。
三つ編みの束からはらりと落ちた一筋の髪の毛に、きらきらとシャンデリアの光が揺れる。
「ネア、君は、アルテアと使い魔の契約をしたことを覚えているかい?」
「……………なぜそんなことに。そこまでしなければならないくらい、アルテアさんは悪さをしたのでしょうか?それとも、私の偉大さのあまりに、そこまで懐いてしまったのですか?」
「やめろ」
ネアを叩こうとしたのか、アルテアは手を伸ばしてから何とも言えない顔をし、そしてその手を下ろした。
申し訳ないと言うよりは、叩かれなくてほっとする。
ネアは決して、叩かれたい系の嗜好ではないのだ。
そこで、今度はウィリアムが心配そうにネアを覗き込む。
「ネア、俺と砂漠のテントで過ごしたのを覚えているか?」
「ふにゅ。………ごめんなさい、ウィリアムさん。覚えていないようです」
「そうか………。困ったな」
「おい、俺との扱いが随分と違うだろうが」
「………この感じだと、アルテアさんは懐いてしまったみたいですね」
「そんな訳あるか」
とは言えこれは、どうすればいいのだろう。
不安になったネアが周囲を見回せば、当事者以外で本気で困っているのは、残念ながらエーダリアくらいのようだった。
「すまないな。私にはどうすればいいのか、さっぱりだ。精霊の呪いであれば、通常の呪いとして見ればいいのか、大晦日の怪物に持ち去られたものとして、年明けには奪われたものが戻ってくるものか………。ノアベルト、何か良い案はないだろうか」
そう言ってくれた生真面目な上司に、ノアは割と軽い感じで首を捻る。
「ひとまず、ネアの記憶が影響を受けたのは、そっちの二人の呪いの間接的な理由だから、然程負担はないよ。誰だか分からないって程でもないから緊急性もないし、後はもう、ゆっくりと考えていくしかないかもね」
「…………確かにそう考えれば、ネア様にもそこまでのご負担はないでしょう。ここ一年程のお二人との記憶がないのはご不便でしょうが、焦る程ではないのは確かです」
「ヒルド………」
「ふむ。それなら、ひとまずはお料理に戻っても良さそうです」
ネアもそうなればと微笑んで頷けば、ウィリアムとアルテアは何とも言えない愕然とした面持ちになる。
「ご主人様…………」
「あら、なぜにディノがしょんぼりしてしまうのでしょう?私は、それ以上にはどこも悪くしていないようなので、安心して下さいね?」
「…………うん」
「お二人が知り合いだという、大事なことは覚えています。それがあれば、ある程度は間違わない筈ですから」
一度だけウィリアムとアルテアにきちんと向き合うと、ネアはぺこりと頭を下げた。
「お二人との一年間を忘れてしまったようですが、お二人がこうして一緒に過ごせる魔物さんだと知りましたので、今回の事に懲りずにこれからもディノと仲良くしてくれると嬉しいです」
「…………ネア、そこは、自分と仲良くして欲しいと言ってくれると嬉しいな」
「ウィリアムさん………?」
「君がシルハーンの指輪持ちの人間だからではなく、俺は君自身と一緒に過ごしていたつもりだからな」
「…………まぁ。そんな風に一緒に居てくれたのですね。それなら、これからも是非にそんな風に仲良くしていたいです。……私がそう思ってしまっても、煩わしくはないですか?」
「…………ああ。勿論」
微笑んだウィリアムは、どこかほっとした様子だった。
ディノのことについての頼りになる相談相手だった人が、いつの間にそんな嬉しい言葉をくれるだけの仲良しになったのだろう。
それは何とも不思議なことであった。
(アルテアさんは……………)
そちらも気になって見てみたが、アルテアには特にそういう確認作業の気配もなく、いつもと変わらない気紛れで色めいた魔物の顔しかしていないようだ。
(………こんな雰囲気のアルテアさんが、本当に私の使い魔だったのだろうか?)
そんな微かなもやもやは残ったものの、ネアは再び大晦日のお祝い料理に戻った。
バターでソテーしてから香草パン粉焼きにした貝と、コンソメのジュレを宝石のように乗せた生牡蠣。
雪菓子を砕いてふりかけたフレッシュチーズと、セロリを鶏肉と白葡萄酒で煮込んだ家庭的でほっこりくるお料理。
それらをいそいそとお皿に乗せていると、先程まで食べることに専念していたゼノーシュが、ぽそりと教えてくれる。
「アルテアは、自分の家の隣の土地をネアの誕生日にくれたんだよ。ウィリアムもね、毛皮の会の会員なんだって。ネアは、ウィリアムと出掛けるのを楽しみにしてた」
「そんな風に関わり合っていたのですね?………となると、よく見知ったお隣さんから、あまりよく知らないお隣さんになるのでしょうか?」
「………アルテアが、泣いちゃうかなぁ」
「アルテアさんが泣くのは、何だかちょっと想像がつきませんね………」
ちらりとそちらを見てみると、こちらを見ていたアルテアと目が合った。
鋭く排他的な鮮やかさの赤紫色の瞳を見て、ネアはふと、確かに自分の記憶の中にあるものとは何かが違うのではないかと思う。
しかし、エーダリアと話しているウィリアムはどこか憂鬱そうで、彼があまり見せないその仄暗い瞳には魔物らしさが顕著で、いつもの温和に微笑んでいる頼りになる年長者という雰囲気は皆無だ。
ひどく近寄り難い雰囲気であった。
(それは、呪いをかけられたという自分に向けるただの不愉快さなのかしら。………それとも、惜しんでくれていたり、悲しんでいてくれるのだろうか………)
ネアは少しだけ迷い、胸も痛んだが、かといって自分に向けられたものではないので、どうすることも出来ない。
本当に不愉快なことであれば、彼等が自分でどうにかするのであろうし、そうでなければ放っておくだろう。
つまり、放っておく程度のことであれば、その程度の関係だったという事が分かる。
(覚えていないものを惜しんで、私はそれが悲しいと思うのかしら)
ネアにはまだ、その先が分からない。
失われたものを惜しまずとも、また育めばいいという価値観もあるのだから。
そして、案外大雑把にお食事をそこそこ堪能していたネアよりも、繊細な魔物が考え込んでしまったようだ。
「君はね、あの二人をとても気に入っていたよ。よくアルテアにはパイやケーキを作らせていたし、ウィリアムの砂漠のテントに泊まった日は、楽しそうに帰ってきた。………そんな君の喜びが奪われてしまったのだとしたら、………その喪失はいつか君を苦しませるだろうか」
ネアが牡蠣を食べている時に、ディノがそんなことを言った。
その言葉には微かな羨望が滲まないこともなかったが、ネアは、あの二人はディノにとってもこのように緩めて託せる相手だったのだろうかと、また違う角度からその損失について考える。
「ディノがそう言ってくれるのであれば、ディノの目にも必要性が映るような関係だったのでしょう。………ごめんなさい、ディノ。きっと、ディノの助けになるものが減ってしまいますよね?」
「………そうか、君はどうであれ、今はもう知らないものなのだね」
「はい。ですので、略奪という事実にはもやもやが残りますが、今のお二人でも充分な感じがするので特に悲しくはないのです。ただ、ディノが見込んでいたものや頼っていたものが減ってしまうのであれば、もう一度それをお願いしなければなりませんね」
「…………悲しかったり、苦しかったりはしないね?」
「ふふ、私の大事な魔物は、優しい魔物ですね」
ネアは心配そうなディノをまた撫でてやり、近くにいたノアがうんうんと頷いた。
「ネアはそれでいいのかもね。………それにしても、あの二人も迂闊に呪われたなぁ」
「ノア、私はどうやってアルテアさんを使い魔さんにしたのですか?もう一度踏み滅ぼせばいいのでしょうか?」
「わーお、取り敢えず捕まえる気満々だけど、使い魔の契約はそのままだから、あらためて捕まえなくても大丈夫だよ」
「ふむ。……………む?アルテアさん?」
そこでネアは、ふらりと隣にやってきたアルテアに顔を上げた。
随分不機嫌そうなので、無言で見上げてからささっとノアの後ろに隠れる。
残念ながらディノとの間に入り込まれたので、ディノは見捨てて避難するしかない。
「………おい。逃げ過ぎだぞ」
「むぐぅ。私的には、雪喰い鳥さんの巣に投げ込まれたばかりなのです!」
「少なくとも、ノアベルトよりはましだな」
「わーお、何で僕より上だと思えるのかな!」
「ほら、こっちに来い」
「………なぬ。罠なのか、懐いてしまっているのかが分かりません。何という厄介な呪いなのだ!」
狡猾にも、アルテアの手には美味しそうなお料理を乗せたお皿がある。
どうやらそのお料理を餌に呼び寄せられているようだが、ネアはぐるると唸りながらそのお皿をちらちらと見た。
「むぐる。………なぜに、お肉とトマトソースのパイの一番美味しそうなところを見せつけるのだ!」
「さてな。どうせお前がパイで懐くからだろうな」
「……………ぐぬぬ。パイに負けてまた悪さをされたら敵わないのです!……し、しかし、使い魔さんということなので、安全な魔物さんになった可能性も………」
ネアは手を伸ばしてそんな使い魔であるらしい魔物をちょんとつついてみたが、片方の眉を持ち上げて冷ややかに一瞥されたので対話を放棄することにした。
「やっぱり回避します!食べ物で釣ろうとするのが何だか怪しいのです」
ネアがそう宣言すると、アルテア的にはかなり意外だったのか、まじまじとこちらを見るではないか。
どれだけ食べ物で釣れると思っていたのだと、気分を害した淑女はぷいっと顔を背けた。
「やれやれ、アルテアは食べ物で懐柔しようとしてるのか……」
「ウィリアムさん………」
ネアはこちらに歩いてきたウィリアムに振り返り、へにょりと眉を下げた。
やはりウィリアムはどこか不機嫌そうな翳りが消えず、こちらに対しては申し訳ない気持ちになったのだ。
「………ウィリアムさん、美味しいミートパイがあるようですよ?一緒に食べませんか?」
「…………すまないな。気を遣わせているだろう?」
「ウィリアムさんがご不快そうなのが、とても心配なのです。ただでさえお仕事が忙しいのですから、どうかあまり溜め込まないで下さいね」
そう言えば、ウィリアムは微笑んでネアの頭を撫でてくれた。
本心の深くまでは読み取れないものの、いつもの優しいウィリアム表情になりネアはほっとする。
「ひとまず周囲を見てきましたが、他の侵入はなさそうですね」
そこに戻ってきたのは、この広間の周囲だけでもと様子を見てきたヒルドだ。
微かに開いていた羽を閉じ、ほっとしたように息を吐く。
「大丈夫だよって言ったのに、ヒルドは心配性だなぁ」
「万が一があってはならない場所ですからね」
「僕がいるんだから、大丈夫だよ」
腰に手を当ててそう言ったノアに、ヒルドは微かに目を瞠ってから、淡く苦笑する。
「…………そうですね。あなたがいれば、安心して厄介な仕事を任せられます」
「あ、そっち担当になるんだ」
「ヒルド、すまなかったな」
「いえ。やはり、己の目で見るのが一番ですからね。………ネア様。その後、支障はありませんか?」
「はい。忘れてしまったのは私なのですが、だからこそ私には特に支障がないようです」
「それならば…、ネア様?」
ヒルドと話していたネアは、ぴたりと動きを止めた。
こちらに戻ってこようとしているディノとヒルドの間に、奇妙な生き物が出現するのを見てしまったのだ。
「……………ほわ」
それは、けばけばの毛皮を持つ、長い黒髪のヤマアラシのような生き物で、その黒髪感がかなり怖い。
うぞうぞっと床から湧き出してくると、ネアの視線に気付いたのかこちらを見た。
「むぎゃ!」
その顔がこちらを見た途端、ネアは一番近くにいたウィリアムにへばりつく。
「ネア?!……ちょ、………」
取り乱した人間によじ登られかけて驚いたウィリアムが、ヤマアラシ怪物に気付いて慌てて抱え上げてくれたが、ネアはそれすら認識出来ないくらいにぜいぜいしている。
「お顔が!………むぎゅう。見てしまいました…………」
ヤマアラシ的な怪物は、顔がある部分がくしゃりとなっていて、うっかりその正面を見てしまったネアは真っ青になる。
「ネア、もういなくなったから安心していいよ」
「ディノ…………。顔くしゃさんはもういませんか?」
「可哀想に、怖かったね」
ウィリアムの手からディノに手渡される時、ネアはふと、ウィリアムの顔色が良くなっていることに気付いた。
おやっと思って見ていると、ウィリアムは少しだけ照れたように微笑みを深める。
「いつもと同じように頼ってくれたからな。少しだけほっとした」
「まぁ。そんなことでウィリアムさんが安心してくれるなら、これからも頼ってしまいますね。…………む」
ばぁんと、何者かが窓に当たる音がする。
ネアは嫌な予感がして時計の方を見た。
すると、驚くべきことに祟りものな樹氷の精霊事件に関わっている内に、時計の針はいつの間にか怪物出現時刻になろうとしているではないか。
そして今、窓の方からぞわりと足を持ち上げた生き物は、明らかにネアにとって最も凶悪な敵の形状を示している。
「…………みゅ」
「ご主人様?!」
「ネア?!」
「ありゃ。逃げたね…………」
そしてネアは、ディノの手を取らずにその怪物から最も遠い方へしゅばっと走って逃げた。
すぐ側のディノに手を伸ばすだけだったのに、その天敵の形状がネアから正常な判断を奪ったのだ。
ディノに手を伸ばすということは、方向的に、怪物に向かって手を伸ばすようなものだと判断をしたのである。
「つ、使い魔さんだと噂な魔物さん!あやつを倒すのだ!!」
「は?……………おい?!」
ネアは怪物から一番遠いところにいたアルテアに駆け寄ると、さっとその背中に隠れた。
かなり嫌そうな顔をされたが、こちらは心の生死がかかっているのである。
ぐいぐい押して盾にすると、掴んだ肩の動きで溜め息を吐くのがわかった。
「………俺は信用ならなかったんじゃなかったのか?」
「あやつが出現した以上、もはやそのような些事は関係ないのです!一番離れた距離にいて、既に侵食されていない人であることが重要なので、アルテアさんが一番安全だと判断しました。………むぐ」
ばいんと、怪物が足を振るったので、ネアは頭をアルテアの背中に押し付けて視界を封鎖する。
「…………ったく」
目を瞑って敵殲滅の一報を待っていると、ひょいと誰かに持ち上げられた。
「むぐ?」
「排除してやったぞ」
「…………ふぐ。………嘘を吐いていませんか?」
「俺に何の得があるんだ」
「アルテアさんは、時々苛めっ子になりますからね。…………むぅ、いません!」
「そもそも、見えてもさして影響はないだろうが」
「大ありです!私の心が………ディノ?」
ネアが呆然としたのは、どうして蜘蛛もどきを滅ぼしてくれないのだろうと思っていたディノ達が、何かをげしげしと滅ぼしていたところだったからだ。
ネアの方を見て心配そうに顔を曇らせると、ディノは淡く気遣わしげに微笑む。
「ネア、君は見ていなかったね?」
「………………ふぁい」
「良かった。今のをネアが見たら絶叫ものだったからね」
「僕、そろそろグラストのところに戻るね。今年はあんなのがいるんだ…………」
「…………なぜによりによって、私の足元から出たのだ」
「おや、エーダリア様、きちんと回避出来ておりましたよ」
「見てしまったではないか…………」
ネアは幸いにもアルテアの背中に隠れていたその時だったらしいが、かなり激しい怪物が出現したらしい。
慌ててグラストのところへ向かうゼノーシュを見送り、ネアは不穏さにふるふるした。
そんなネアの頬を、片手で抱き上げたアルテアが過保護にするりと撫でるが、今のネアはやはりそれどころではなかった。
「………何が出たのだ」
「触手が得意でなければ訊くのはやめておけ」
「…………やめます」
そちらの討伐が完了したからか、ディノは慌ててこちらに戻ってきた。
いつの間にかご主人様を持ち上げていたアルテアにやっと気付いたようだ。
「ネア、どうしてアルテアに持ち上げられているんだい?」
「蜘蛛めの退治をお願いしたのですが、こちらの持ち上げは依頼外のものでした」
「では降りようか。ほら、こちらにおいで」
アルテアは悪さをせずに解放してくれたので、ネアはすぐさまディノに持ち上げられる。
「そろそろ、怪物達が増えてくる頃合いだろう。カーテンの中に入るかい?」
「ふぁい。…………ディノは、怖くありませんか?一緒に入ります?」
「ご主人様………」
「なぜに恥じらうのだ…………」
ご主人様と一緒にカーテンの中に入ることを考えてもじもじする魔物に困り果てていると、今度はなぜか、ウィリアムが熱心に床の一部を調べている光景に出くわした。
「…………ディノ、ウィリアムさんは何か細かいものでも落としたのでしょうか?探すのを手伝ってあげます?」
「先程の呪いの起点を探しているのかな。砂つぶより小さなものだし、記憶と魔術の場の揺らぎに常に動かされてしまうから、探すのはかなり困難だと思うよ」
「…………それを見付けると、かけられた呪いが解けたりするのですか?」
「恐らくね」
「そうであれば、ああして探してくれるのは、何だか嬉しいことですね。………む、アルテアさんも加わりました」
艶麗な魔物達が、床に膝を突いて何かを必死に探しているのは奇妙な光景だった。
カーテンの小部屋に避難するところだったのだが、ネアは思わずその作業を見守ってしまう。
ネアがじっと見ているのに気付いたからか、ディノも立ち止まっていてくれた。
エーダリア達も、食事やお酒を楽しみながらではあるが、その作業を見守っているようだ。
ややあって、アルテアが短く声を上げた。
「ここだな」
「よし」
何がとは言わず、ウィリアムはその一点に容赦なく剣を突き立てた。
ネアは絨毯と床石がと思わずにはいられなかったが、そう言えばウィリアムはその手の修復は得意なのだ。
硬い石床を貫いたとは思えないざしゅりという柔らかな音がして、ウィリアムとアルテアが深い溜め息を吐く。
「…………ほわ」
「ネア、アルテアが使い魔であることを覚えているかい?」
「…………むむ。アルテアさんは、確かに使い魔さんですね」
「ねぇ、僕思ったんだけどさ」
そこにやって来たのはノアだ。
ひょいひょいと小走りにこちらに来ると、内緒話をするように声を潜める。
「今のウィリアム、かなりの終焉を切り出して起点を破壊したよね。話してた終焉の予兆って、あれなんじゃないかな」
「……………なぬ」
「そのようだね…………」
「それじゃ、エーダリアとヒルドもきっとあれだなって言ってたし、間違いなさそうだ。………お騒がせだなぁ」
(つまりそれは、自分が呪いにかけられ、自分で滅ぼした的な…………)
ネアが同胞達の方を見れば、エーダリアとヒルドがどこか遠い目をしてこくりと頷いてくれる。
思わず戦友な気持ちになったネアもきりりと頷き返したところで、清々しい微笑みを浮かべたウィリアムがやって来た。
「ネア、俺と砂漠に行ったのを覚えているか?」
「はい!是非にもう一度泊まりたい、素敵なテントです!!」
「……………やっと思い出したか」
「む。私をミートパイで懐かせようとした、悪い使い魔さんです!そして今回事故ったのは、アルテアさんの方でしたね」
ネアが残酷な人間らしい微笑みでそう言えば、アルテアは、ぎくりとしたような表情をほんの一瞬だけ見せた。
そんな表情の変化に気付けることに、ネアはこの一年で変化した関係性に思いを馳せる。
しかしそのしっとりとした優しい気持ちも、次の瞬間、あっさり霧散してしまった。
「ディノ…………」
「ネア?」
「わーお、………いつの間にかそんな時間だね」
ネアが震える指で指したそこは、またしてもなのか、エーダリア達のすぐ側であった。
「な、なぜにまた、私の足元なんだ………!!」
「おや、最後の怪物が出る時間になってしまいましたか」
ネアはここで恐怖のあまり、意識がぱたりと死んでしまい、慌てたディノにカーテンの個室に避難させられた。
最後の怪物は、呪いが解けてご機嫌のウィリアムがさっくり滅ぼしてしまったそうだが、うっかり見てしまったネアの嘆きは深いものだった。
自らの記憶を消すべくその後は夜の盃で深酒してしまったが、今回ばかりは羽目を外してしまったことをどうか許して欲しいと思う。
ただし、選択の魔術でネアの視界から怪物を消し去れたのに、樹氷の精霊の呪いに夢中でその事実を忘れていた使い魔については、ちびふわの刑に処す際に全力で撫で回し、白けものの刑にもしなければならないようだ。
人間は、とても執念深い生き物なのである。
こうして大晦日の夜は更けていった。