214. 橇遊びは命がけになりました(本編)
夜のミサが始まる。
その荘厳な大聖堂の夜の煌めきに目を細め、今年は夜のミサの参加となった、第一王子達の姿を視界に収める。
こちらに微かに会釈してくれたのは、ヴェンツェルの代理妖精のエルゼだ。
エドラは王都に残っているらしく、今宵は彼が一人で来ているらしい。
その代り、ヴェンツェルの反対側に座っているのは、どう見ても擬態しているアルテアなので、ネアは安心して第一王子のことはぽいっと他人事にすることが出来た。
ヴェンツェルとアルテアは、なかなかに仲良しであるらしい。
大聖堂の中に響き渡るのは、今年のイブメリアのミサの晴れ舞台に立つ為の選考で、ウィーム各地の予選会を勝ち抜いてきた少年達による聖歌。
高く低く伸びやかな歌声の美しさに、イブメリアを惜しむ気持ちでいっぱいになる。
天井から下がった香炉からは細い煙が立ち昇り、壁際に並んだ幾つもの祭壇の横には聖域の中に相応しい装いの飾り木が並ぶ。
ステンドグラスの聖人達は、その表情を蝋燭の炎の揺らめきに刻々と変えてゆく。
実際によく見れば動いている肖像画などもあるので、なかなかに気が抜けない。
やはり夜の大聖堂の方が美しく、この薄闇で美貌を禍々しく凄艶に際立たせる魔物達の方が美しいと思うネアは、何だか自分は、魔物を慈しむことに向いているのではないかなと唇の端を持ち上げる。
何か決まりがあるのか、魔物の盛装姿的な服装の固定と同じなのか、ジゼルは昨年と同じ金糸の刺繍がある水色のローブを着ている。
昨年はどこか近寄りがたく思えたのだが、今年は襟巻になっている小狐が可愛いという思いの方が強くなった。
隣に立つエーダリアの襟巻も、昨日のことですっかり懲りてしまい本日の精霊の女性とのデートをお断りしてきたノアなので、横並びになった狐襟巻同士で顔を見合わせてふるふるしているではないか。
その周囲には、ダリルやヒルドという目の醒めるような美しさの代理妖精達、信仰の魔物を中央に、送り火の魔物もこのイブメリアだけかぶっている王冠が蝋燭の火にきらりと光る。
またしても人外者に囲まれた獲物感が出てしまっている司祭だったが、この世界を見る目に馴染んだ今年のネアには、そんな錚々たる人外者達を控えさせているとんでもない黒幕に見えてくるから不思議だ。
低く深く、馥郁たる音階の響きの詠唱が重なり、織り込まれた術式が豊かに香る。
レイラが浮かべるのは、信仰を司る者らしい慈愛の微笑みだ。
中央で大きく手を広げて、高らかにイブメリアの終幕を宣言する。
(ああ、もう終わってしまうんだわ)
イブメリアは、日付が変わるまでの祝祭ではない。
こうして夜のミサが終わると同時に、祝祭も幕を下ろすのだ。
グレイシアが外した金色の王冠を円環状の祭壇に置けば、大聖堂の尖塔に灯されていた送り火がしゅるりと彼の手の中に戻って来る。
この火を大聖堂前の飾り木に灯せば、イブメリアはその祝祭の時間に幕を下ろす。
この後の儀式を思い、ムギっとなった銀狐が、慌ててヒルドの肩に逃げていった。
ネアも昨年愕然としたのだが、ここから突然に荒々しい幕引きになるイブメリアは、最後に大聖堂前の大きな飾り木を燃やす。
三階建の家くらいの高さのある大きな飾り木を燃やすので、勿論かなりの大騒ぎになり、毎年この最後の送り火の儀式では、一部の男性陣がお酒を飲んではしゃぎ、子供達も大騒ぎなのだった。
中央の通路を、ゆっくりと歩き送り火の魔物が、最後の火を運んでゆく。
こちらをちらりと見て誇らしげな顔をしたグレイシアに頷いても、今年のディノはもう荒ぶらないようだ。
「…………浮気」
「むぐぅ。今年もでしたか………。そして、狐さん、ささ、この袋ですよ」
ヒルドの腕から飛び降りて通路を駆け抜けてきた銀狐が、この送り火の火は堪らないとネアの差し出したふかふか毛皮の鞄にすぽんと収まる。
この袋は特別仕様の素晴らしい鞄で、中に銀狐特設避難空間が設置されているのだ。
一度どこかに避難していても良かったのだが、なぜかノアが昨晩から、送り火の間はネアの側にいてその安全を確認する必要があると言い出したのだった。
コートと同色のふかふか鞄は、何も入っていなくても膝の上に置いておくだけでしっとりもふもふと温かい。
臨時ひざ掛けにもなるので、ネアは喜んでこの避難所を持っていた。
「………ほわ。窓の向こうがもの凄いことになっています」
「何で毎年こんな風に燃やすんだろう………」
ステンドグラスの向こう側では、飾り木が激しく燃え盛っている。
まるで襲撃にでも遭ったような禍々しさなので、ネアは決して近寄らせて貰えない外はどうなっているのだろうと慄くばかりだ。
イブメリアの締めくくりなのだが、見てみたいというよりは、あまり近付きたくないという荒ぶる儀式である。
「ネア、今年も外が凄いんだよ!ノアベルトは大丈夫?」
「ゼノ、今年も避難してくるぐらいだったのですね。狐さんは無事に避難所に入ったので大丈夫ですよ。グラストさんは大丈夫でしたか?」
「ええ、ご安心下さい。あまり近付くと、私の髪が焦げるとゼノーシュが怖がるものですから」
「ふふ。それでゼノの為に屋内に避難してくれるグラストさんは優しいですね」
「私としても、ゼノーシュの髪が焦げたら一大事ですからね」
そう言って頭を撫でて貰えたゼノーシュは、ぽわりと微笑むと嬉しそうに少し弾んだ。
すっかり仲良しなこの二人だが、ディノがネアの関わる人々を慈しむように、近頃のゼノーシュはグラストの屋敷の人間達や、騎士団の騎士達にも少しずつ心を割き始めているのだそうだ。
これは、元々許容値が高かったらしいディノとは違い、そうして手をかけてゆくことで大事な歌乞いをより健やかに保つ為にと、周囲ごと保護するノアベルトのやり方を踏襲して、ゼノーシュなりに努力しているのだ。
「僕、送り火の火はもう貰ってきた。ネアは、今年は自分でランタンを取りに行きたいんだよね。ネア達が行く間、ノアベルトを預かるよ?」
「では、そうしましょうか。狐さん、火を貰いに行く間は、ゼノに………むむ。大丈夫ですか?」
ネアの提案にずぼっと鞄から顔を出した銀狐が、涙目で頑固に首を横に振る。
すっかりけばけばになっているので、かなり怖いだろうにとネアは心配になる。
「ノアベルト、ネアには私がついているよ?」
「むむぅ。それでも自分で側にいてくれたいようです。では狐さん、しゃっと素早く貰ってくるので、少しだけ目を瞑っていて下さいね」
そこでネア達は大聖堂の入り口まではそろりと歩いてゆくと、ネアが斜めがけした鞄の中の銀狐がぎゅっと固く丸くなる。
戸口までついてきてくれたゼノーシュが、きりりとして厳めしく頷く。
いつの間にか貴賓席も空になっているので、ヴェンツェル達はもう帰ってしまったのだろう。
アルテアも姿を消していたが、念の為にノアの名前を出す際にはゼノーシュが音の壁を作ってくれていたそうだ。
「ゆきます!」
「うん」
しかし、意を決して大聖堂から飛び出したネア達は、送り火の火を貰う順番待ちで並んでいた誰かから、ひらひらと手を振られる。
はっとして目を瞠ると、ヒルドが先に並んでいてくれたようだ。
通常、このような順番待ちで一人かと思って大人数分の注文をすると大顰蹙なのだが、イブメリアは家族の祝祭でもあるので、送り火を貰う際には家族の代表が並んで家族分をお願いしても構わないのだ。
「ヒルドさん、有難うございます」
「火を怖がるものがおりますので、手短にしたいですからね。どのランタンにしますか?」
ヒルドがそう尋ねてくれ、そしてネアが今年は自分で火を貰いに来た理由なのだが、この送り火の火を貰うランタンには幾つか選択肢があることが後々に判明したのだ。
送り火を欲しい人には、無償で与えられる水晶製のランタンだが、年号を刻まれており、毎年違う花の彫刻を入れることで付加価値も出している、大人気の品だ。
このランタンを毎年収集しているコレクター達は、大聖堂での最後のミサよりもこちらの行列に並ぶことを優先させたりするくらいであるらしい。
配布の中に一つだけ、金の彩色がされるものがありこれを狙っているのだとか。
エングレーヴィングという彫刻のこちらの世界版の技術は精緻で、何とも麗しい花の彫刻が彫られたランタンは美しい。
今年は既にどこかの家族連れが引き当てたらしく、大喜びしている一団がいた。
(そして、お花が手彫りだからこそ、種類を選べるのだった!)
水晶製のランタンは、一つずつが手作りである。
なのでちょっとした花の向きや、数字の字体などに種類がある。
ネアはヒルドを困らせないように素早く視線を巡らせると、今年の花であるクリスマスローズによく似た花が少し斜めに彫られており、年号が飾り文字のものを指差した。
ネアとディノは二人で一つにしているので、ディノを振り返るとこくりと頷いてくれた。
「私が持ってゆきますので、中に入っていて下さい」
「ヒルドさん、お仕事中なのにすみません」
「いえ、エーダリア様はダリルに任せておりますから。では、また後程」
そのあたりは事前に連携出来ていたようなので、ネアは愛されているノアに何だかほっこりとした。
恐らく今回の采配は、火を苦手とするノアの為に事前に取り決めがあったに違いない。
ゼノーシュの場合はグラストが焦げないかどうかが一番の心配なので、ネアのランタン選びに付き合ってくれるほどの余裕はない。
そうして、ご主人様が焦げないように魔物に慌てて大聖堂の中に連れ戻されたネアは、ゼノーシュがわふわふしているちび黒犬と遊んでやっているのを見付けた。
「ゼノ、そのちび犬はどちら様ですか?」
「グレイシアだよ。今年はイブメリアの魔術の残滓が濃いから、まだこの姿なんだ」
「なぬ!イブメリア直後は、ふわふわの小さな火の粉になると聞いていたのに、ちび狼になっています!」
その言葉が聞こえたのか、ネアの鞄からぼすっと銀狐が顔を出した。
耳がぴしりと立ち、けばけばだった毛並みは落ち着いている。
「あ、狐さん!」
しゅたっと鞄から飛び出した銀狐は、尻尾を振り回してちびグレイシアの下に駆け寄った。
ちびグレイシアも嬉しかったのか、ワフ!と鳴いてちび尻尾を振り回している。
暫くムギムギワフワフと戯れたお蔭か、銀狐はもう火の怖さは気にならなくなったようだ。
「おや、元気そうでしたね」
貰ってきてくれた送り火を手に大聖堂の中に入ってきたヒルドも、尻尾を振り回してお出迎えの銀狐にふっと微笑みを深める。
「ヒルドさん、私達のものまで有難うございます。狐さんは、ちびグレイシアがこの姿で一緒にいてくれたお蔭で、怖さが和らいだようですよ」
「ジゼルのところの氷の精霊とは、あまり相性が良くなかったようですので、やはり魔物同士であるのが良いのかもしれませんね」
「まぁ、あの子狐さんとは相性が悪かったのですね………」
敬称抜きで呼ぶ通り、時々ひどく過保護になるヒルドはかつてエーダリアをウィームに送るにあたり、先んじてウィームの守りを司る人外者の一人であるジゼルを、何かの魔術比べで打ち負かしてしまっている。
その結果、ヒルドの一族が元々光竜を狩っていた一族ということもあり、力関係が決定したようだ。
なので、ジゼルの所の子狐とノアな銀狐であれば、ヒルドは身内贔屓で銀狐推しであるらしい。
そんな本心が口調から伝わってくるので、銀狐の尻尾がふりふりされるのは勿論、ネア達も何だか微笑みを深めてしまう。
「さて、参りましょうか」
「はい。狐さん、ご挨拶は済みましたか?」
「大きいグレイシアには反応しないのにね……」
「ふむ。ちびグレイシアのみを、お友達として認識しているようです」
銀狐とちびグレイシアの別れの挨拶を見届け、ネア達は昨年も橇遊びに興じたアルバンの山に転移でやって来た。
「よいしょっと。橇に乗るならこっちの姿だよね」
「ノア、ノアも橇競技に参加するのですね?」
「勿論だよ。ネアとシルもやるなら、僕も全部やらなきゃだからね!」
祝祭が明けたばかりのアルバンの山は、まだ雪に淡く豊かな光を宿していた。
昨年に引き続き、街近くの山は競合が多くて大混雑なので、ネア達はこちらで橇を楽しむのだ。
「ネア、ランタンには壊れたり火が消えたりしないような魔術をかけたよ」
「ディノ、有難うございます。私とて本年は、参加二回目。筋肉痛になどなるものですか」
「いくらでも治癒をかけてあげるのに………」
「なぬ。勿論、一瞬で治してくれるのですよね?」
「ご主人様…………」
ネアは今回、夜のミサへの参加は素敵なコートの下に既に橇遊びな服装を整えてあった。
乗馬用の毛皮で裏打ちされたあったかパンツに、保温機能のある火織りの毛布と同じ地域で生産される素敵なセーターを着ている。
贈り物で貰ったセーターも丈夫だと言われたが、流石に橇遊びでほつれてしまったりしたら泣いてしまうので、今回は使い倒せるセーターにした。
「エーダリア様達は、後からいらっしゃるのですよね」
「ええ。ダリルと別れ、こちらに……」
その時、ふわりと魔術の風を巻き上げて転移してきた一団がいた。
ばさりと風が落ち着き翻ったコートの裾がはためけば、ネアは思いがけない参加者達に目を瞠る。
「…………あなたは、ここで何をしているんですか」
ヒルドが苦い顔になるのも致し方ない。
エーダリアは、どこか達観してしまったような遠い目をして、兄である第一王子とドリー、そして忙しいので不在しがちになる筈の統括の魔物に挟まれている。
「何か問題でもあるのか?イブメリアの夜の、恒例行事だろう」
「ヒルド、すまない。どうしてもエーダリアと橇遊びをすると言ってきかなくてな。事故などおこさないよう、俺がしっかり見張っているから大丈夫だ」
「中央では、夜会が幾つも開かれているでしょうに」
「……いや、………夜会は俺も苦手だからな。ヴェンツェルには、そろそろ恋人でも見付けるようにと言っているんだが……」
「今夜である必要などあるまい。さっさと、橇の準備をするぞ」
「…………ということだ。すまないな。兄上が参加になった」
そうエーダリアが頭を下げるので、ネアはディノと顔を見合わせた。
別にディノが白持ちの魔物であることも知っているので、特に問題はない。
第一王子が参加したからと言って、まさか橇の事故で死んだりはしないだろう。
「橇と送り火をお持ちであれば、気にしませんよ?」
「ああ、さすがにそれは準備させたから問題ない」
「………そっちの王子は、その竜と橇に乗るのかい?」
そう尋ねたノアに、おやっとヴェンツェルがこちらを見た。
今夜のノアは擬態していないので、夜闇に鮮やかに浮かび上がる白い髪が際立つ。
「ああ。俺が面倒を見るから問題ない。身内の楽しみの時間に、我儘を言ってすまないな」
「ドリー、私とてエーダリアと血が繋がっているぞ?」
「この通り、エーダリアのことが好きなんだ」
「…………ドリー」
ヴェンツェルは目を細めたが、そういうことならとノアは頷いた。
守るべきものとして契約をしているだけでなく、ノアにとっては大事な家族のような存在でもあるのだ。
そんなエーダリアが好きでやって来てしまったならと、魔物らしい納得の仕方をしたようだった。
「じゃあ、えーっと、僕はエーダリアを見てようか?ヒルドは一緒に橇に乗る感じじゃないよね?」
「私は麓で審判ですよ。妖精はこの通り羽がありますから、橇で茂みを突っ切るのには向いておりません。エーダリア様は、お一人で操作したがるので、別の橇から見ていていただくことは出来ますか?」
「ありゃ。審判だった」
そこでノアは、エーダリアが本当に橇を一人で操作出来るかどうかをヒルドに確かめ、かなりの手練れであると聞くと、であれば自分は別の橇で追いかけながら危険などないように見ていると約束してくれる。
「………アルテアも一人で参加するのかな?」
「そうなのです。アルテアさんがどのように参加するのか、ずっと気になっていました」
ディノの不思議そうな言葉にネアがそう首を傾げれば、アルテアはどこかうんざりしたような遠い目をした。
代わりに教えてくれたのは、ヴェンツェルだ。
「ああ、彼は私との賭けで負けてな。橇で参加することになった」
「まぁ。………罰ゲーム的な…………」
「おい、その指を指すな」
「僕とグラストは同じ橇だから、アルテアは乗せないよ………?」
「言われなくても、そこには乗らん」
どんどんアルテアが渋い顔になってゆくので、ネアはそっと肩を叩いてあげたくなった。
それに、良く考えなくても、白持ちの魔物が二人も個人参加するのだから、かなり激しい戦いになりそうだ。
「…………アルテアさん、橇で事故らないで下さいね」
「やめろ。お前に言われたくないぞ」
「なぬ。こちらは、ディノがいるので事故りませんよ?」
「だったら、ノアベルトだな」
「わーお。言ったね。言っておくけど、僕はアルテアより器用な自信があるけど?」
「ほお?」
何だか嵐の予感だぞとネアが眉を顰めていると、ヴェンツェルが愉快そうに微笑んでいるのが見えた。
その微笑みにはどこかほっとしたような安堵が滲み、ネアと目が合ったドリーが小さく苦笑した。
(ヴェンツェル様もまた、王都では気が抜けないのかもしれないわ………)
そう考えれば、弟と橇遊びがしたいだなんて、何だか微笑ましいのかもしれない。
ネアは魔物の袖をくいくい引っ張って、こちらは争いには参加しなくていいので、みんなが事故などないように最後尾から滑ろうと耳打ちしておく。
「……………ネアが虐待する」
「む!内緒話で弱ってしまいましたね…………」
しかし、背伸びをしたネアに、耳元で囁かれたディノは、目元を染めてくしゃりとなってしまった。
よろよろする魔物を引っ張って、魔術で出してくれた橇に引っ張り上げる羽目になる。
「…………おい、そっちは本当に大丈夫なんだろうな?」
「むぅ。少し弱ってしまいましたが、立派に守ってくれると信じています」
「大丈夫、大丈夫。シルは、ネアのことならちゃんと守るからね」
「そして、アルテアさんの橇は真っ黒で恰好いいですし、ノアの橇は氷を切り出したような素敵な青紫色ですね!」
「言っておくけど、アルテアには負けないからね」
「…………ネイ。エーダリア様を頼みましたよ?」
「ありゃ。そうだった………」
「ヒルド、私は一人でも充分に滑れるぞ。現に、昨年も無事に滑りきったではないか」
「念の為にですよ」
何か、師として不安があるのか、ヒルドはエーダリアが無茶をしないようしっかりと言い含めると、審判になる為に一足先に転移で麓に下りた。
びゅおんと雪混じりの風が吹く。
あまりにも白っぽい魔物が多いせいか、アルバンの雪山に住む者達は息を潜めているようだ。
それぞれが橇に乗り、開始の合図を固唾を飲んで待つことになる。
(アルテアさんが負けた賭けは、エーダリア様がヴェンツェル様の参加を認めるかどうかだったそうなので、そこは心配なさそう………)
その賭けに負け、エーダリアが渋々兄の要求を受け入れてしまったので、アルテアは橇遊びに参加となったらしい。
黒いトップハットに白いステッキを持ち、しっとりとした黒い毛皮のロングコート姿のその下の服装がイブメリア仕様の燕尾服のままなので、何だか悪いサンタクロースのように見えなくもない。
対するノアは、同じような黒いロングコートを着てはいるが、もさもさと巻きつけた水色の毛糸のマフラーでいい感じにカジュアルダウンしており、美貌の魔物が橇でのおでかけという感じになっていた。
「誰が合図をしますか?」
「じゃあ、僕が魔術の仕掛けで音を鳴らすよ。三十秒後でいいかい?」
「うん。グラスト、しっかり掴まっててね」
「はは、ゼノーシュは心配性だな」
「…………おい、どうしてお前が一緒に乗るんだ」
「ヴェンツェルはヴェルリア育ちなんだから、一人では危ないだろう」
「……………ドリー」
そちらはそちらの問題なので、ネアは、二人乗りが納得いかない第一王子と二人乗りしか許さない契約の竜の会話が耳に入って来ても、気にしないようにした。
口出しをしてヴェンツェル王子の我が儘が通る原因になってしまうと困るからなのだが、エーダリアも同じ方針なのかそちらを見ないようにして自分の橇に集中している。
(……………というか、エーダリア様は橇に夢中なだけの可能性も……)
なお、エーダリアは魔術で作り上げた雪鉱石の藍色の橇、ヴェンツェル王子は、ドリーの手助けを断って自分の魔術で作った艶消しの金色の橇だ。
ゼノーシュとグラストの橇はしっかり磨き込まれた艶々の木の橇で、ずっしりとした重厚感があり一番大きい。
それぞれの橇の先には、送り火を入れたランタンが揺れており、何だか可愛らしい光景にも思えた。
「じゃあ、今から始めるよ」
「はい!」
ネアも凛々しく頷き、後ろからしっかりとディノに抱き締められる。
ネア達の橇は淡い菫色の綺麗な橇で、橇の刃の部分は雪のように白い。
そうして、全員が真剣にスタートの合図を待っていた時のことだった。
「………………私との約束を反故にして、そこで何をしているのかしら?」
ぞっとするような低い声が、くわんと響くように辺りにこだました。
「……………わーお」
ノアがとたんに青ざめたので、ネア達は不穏な気配に視線を交わし合う。
「私と会うのをやめて、男友達と橇遊び?随分楽しそうだこと。………それなら、私が後ろから押してあげましょうか?」
「ありゃ。そう言えばセコーは、雪崩の精霊だったかな………」
「……………なぬ」
「おい、巻き込むなよ?」
「雪崩か。実際のものを観たことはなかったな。面白そうではないか」
「ヴェンツェル、悠長なことを言っている場合じゃないと思うぞ……」
ごうんごうんという、何だか不吉な音がどこからか聞こえてきた。
ネアの耳元で困ったように息を吐くディノの吐息が揺れ、ネアは不安になってディノを見上げる。
橇の二人乗りらしく足の間にご主人様を座らせた魔物は、小さく溜め息を吐いたようだ。
「ディノ?」
「抑えられるかなと思ったけれど、無理そうだ。精霊の呪いの一種だね」
「…………ノアが一人残って雪崩に埋まれば収まるのでしょうか?」
「ネア、それはやめて!」
「それでいいだろ。それより………」
そこで、二つのことが同時に起こった。
カウントダウンを止めてなかったのか、ばぁんという合図の音が鳴り、各自の橇が本能的に一斉スタートを切ったことと、背後に膨大な質量のようなものが迫るのを感じ、振り返ったネアは迫りくる雪崩を発見して動揺する。
「むぎゃ!!」
運転はディノに任せてあるので、安心して悲鳴を上げたネアに、ディノが体を覆うようにしてさらにしっかりと抱き締めてくれる。
「雪崩の領域であれば、山裾の方へゆけばその力が及ぶ範囲を抜けるだろう。怖いかもしれないけれど、少し急ぐよ」
「い、急ぐとは………。むぎゃふ?!」
橇は、恐ろしい早さで山肌を滑走し始めた。
木々の間を抜け、少し高くなった岩肌の部分から、ポーンと飛び降りる。
そのままばすんと下の斜面に着地した時には、ネアは自分の心臓が止まらないことを祈るばかりであった。
ぎゅんぎゅんと茂みや木々が背後に遠ざかってゆく。
ネアはエーダリアが心配だったが、振り返ったり周囲を見回す余裕もない。
「ふぎゅ……………ふみゅふ!ディノ、………エーダリア様は?!」
「大丈夫だよ。開始前に君に言われたように、私達が最後尾になるようにしているからね。エーダリアは、随分と橇の扱いが上手いようだ。アルテアより早いかもしれないよ」
「……………みゃっ?!………そ、それなら、良かったでふ!」
ばっすんばっすんと小さな崖のようなところを乗り越えていたところだったので、ネアは息も絶え絶えにディノに返事をした。
しっかり魔術で守ってくれているので心配はないのだが、精神的に怖いのだ。
「やはり、山の精霊らしい。雪崩が起きているのは、我々の周囲の狭い範囲だけのようだ。関係のない者を巻き込むことはなさそうだね」
「みぎゃ!!…………関係ない筈の我々が巻き込まれているのだ!………みぎゃふ!!」
その後も、橇は風のような速さで山肌を滑り降りていった。
最後の方はネアも、これは安全性が確実に保証されているアトラクションなのだと思うことにしたのだが、それでも眼前に大きな木が迫ったりすると、一瞬息を止めて体を強張らせてしまう。
最後にかなり高いところから橇ごと飛び降りた時には、ネアは遠くに見える山々の美しさや、凍った湖、そして美しい星空を見る余裕がちょっぴりだけあったような気がした。
「ネア、…………ネア、もう着いたよ?」
そうディノに声をかけられて我に返ると、そこはもうゴール地点であるようだ。
ゆるやかに動きを止める橇が完全に止まるのを待ち、先に到着している仲間達が全員揃っているのを確認すると、安堵に崩れ落ちそうになる。
「ネイ、上の方で大きな雪崩があったようですが、どういうことでしょう?」
「…………ごめんなさい」
「そいつが怒らせた女が、雪崩の精霊だったらしいぞ。一種の精霊の呪いだな」
「ああ、精霊の呪いからこんな形で自分で逃れたのは初めてだった。貴重な体験をしたぞ」
「エーダリア様?」
「…………あ、………いや。私は橇の腕には自信があるし、……そのだな………」
すっかり今回の事件を楽しんでしまったのか、輝くばかりの無邪気な笑顔で楽しかった宣言をしてしまったエーダリアは、すかさずヒルドの冷やかな微笑みを向けられて撃沈する。
結局ノアと並べられて、お説教されることになったようだ。
「おい、生きてるか?」
「むぐぅ。………落ちる系の遊びは得意ではありません………」
脇の下に両手を入れられ、子供抱っこで橇から下して貰ったネアは、ディノが橇からランタンを外してくれている間に、よろよろして激突したアルテアに腕を掴んで引っ張り上げられる。
ヴェンツェルとドリーのチームも二人とも案外楽しかったのか、笑顔でグラストとゼノーシュのチームとお互いの健闘を讃えあっているようだ。
「…………ったく。お前は事故ばかりだな」
「なぬ。アルテアさんも同じ条件で巻き込まれたくせに、私だけみたいに言わないで欲しいのです」
「ネアがくしゃくしゃしてる。可愛い…………」
「むぎゅる。ディノ、私を雪崩から守ってくれて、有難うございました。ディノは、無理はしていませんか?」
「あれでも、随分と速度を抑えていたからね。私は大丈夫だよ」
「……………あれでも」
そんな真実にネアはきゅっとなってしまい、アルテアの小脇に抱えられる羽目になった。
すっかりぐんにゃりした人間が不憫になったのか、使い魔はこの後の打ち上げでは美味しいシュプリを奢ってくれるそうだ。
若干、この状態でお酒はやめて欲しいと思ったネアだったが、好意をむげにすると使い魔が拗ねてしまうかもしれないので、惨憺たる思いでこくりと頷く。
なお、今回の橇遊びの勝者は、なんとエーダリアだったそうだ。
アルテアとノアは颯爽と負かされて大変悔しい思いをしたので、来年にもリベンジをするらしい。
恐らく来年は婚約期間の終了間際であるネアは、うっかり橇の事故でその前に死んでしまわないよう、暴走者達とは別に楽しみたいものだなと思う次第だった。
傷一つなく、美しくゆらりと揺れるランタンの火を両手で抱え込む。
これだけ激しい橇遊びを乗り切ったのだから、これからの一年も、リーエンベルクはみんなで元気に過ごせそうだ。