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211. 歌劇場でイブメリアを迎えます(本編)



はらはらと粉雪が降る。

青白く白く輝くウィームの雪景色の向こうから、昨年に見て感動した馬車がからからと音を立ててやって来た。


夏場の馬車はからからと鳴る車輪の音の他に、かぽかぽと馬の蹄の音が聞こえるのだが、冬場のこの時期の特別な馬達は普通の馬のような蹄の音を立てない。

コツコツという硬質な蹄の音に、ネアは心を弾ませた。



この馬車を牽くのは、妖精の雪馬なのだ。




「…………馬車です」


ネアは感極まってそれしか言えなくなり、感激するご主人様にディノは嬉しそうだ。

ディノは今年もエーダリアからこの馬車を借りてくれたのだが、ヒルドは秋口にはもう、馬車の手配を済ませてくれていたらしい。



「この馬車を気に入っているんだね」

「………はい。馬アレルギーでもないのにこんな素敵な馬車を気に入らない人がいたら、お説教してやるのです!」

「あれるぎ……?」

「竜さんがボラボラにかぶれるようなやつですね」

「痒くなるんだね」



御者台に座るのは、去年と同じように、漆黒の燕尾服に肩のラインが優美で美しい黒いコートを着た妖精だ。

ネアは密かに、この妖精の服はかなり腕のいい仕立て屋を使っていると考えている。

御者は、黒い靄のような姿のまま、帽子を取ってネア達に会釈してくれた。



「さぁ、行こうか」

「はい!」



こちらを見て手を差し出してくれたディノは、艶麗な微笑みを幸せそうに寛がせている。

輝くような真珠色の髪をゆるやかな三つ編みにし、ネアが最初に買ったラベンダー色のリボンをしている。

ディノは、記念日にこの最初のリボンをつけるのが大好きなのだ。


ハラコのような起毛素材のフロックコートは、まるでディノの髪色を淡く映し込んだように、白の色味の奥に潜むラベンダーやミントグリーンや水色が何とも美しい。

その上から前を開いて羽織ったコートは、氷色に近い淡い淡い色で、そんな淡い白水色のカシミヤのようなコート地がなんとも上等な肌触りだ。


下のフロックコートに合わせてウエストがくっと括れたデザインで、言葉のままだが、まさに魔物の王様という麗しさである。



「今日のディノのコートは、すりすりしたい肌触りですね」

「ネアが可愛い…………」

「こんなに素敵な魔物と馬車に乗れるなんて、私は贅沢者です」

「同じ生地で君のコートもあるから、今度着てごらん」

「…………またしても増えましたね」


あまり数を増やしてしまうと大切に出来なくなるのでと、昨年あれ程戒めたのに、この魔物はまたしてもコートを増やしたようだ。

そして残念なことにこの人間は、大好きないつものコートという着方をしてしまう一点溺愛主義者なのである。



今日は甲浅の白い手袋をしているその手を取り、こちらを満足げに見たディノに微笑みかけた。



「ディノ、こんな素敵な馬車に乗せてくれる素敵な魔物ですので、後でご褒美を差し上げますね」

「ご主人様!」



二人は馬車に乗り込むと、馬車の後ろ側のタラップに掴まり乗りしている妖精に、ぱたりと扉を閉めて貰った。

がたんと揺れることもなく、馬車はさくさくしゃりしゃり雪道につけられた轍をなぞって走り出す。




馬車の窓から眺めるウィームの街は、ただ、ただ、素晴らしかった。



まずはかつての王宮前のエントランス、そして並木道をゆっくりと走って行くのだが、リーエンベルク前の並木道の街路樹は、その雪明りだけで立派な飾り木になっている。

ホワイトオパールのように煌めくのは、枝のあちこちに祝祭の前夜を楽しむ妖精達がぽわぽわ止まっているからだ。



「ふむぁ…………」


思わず至福の溜め息を吐いてしまい、ネアは隣の席のディノが微笑む気配を感じる。

馬車は二人乗りなので、着替えたウィリアムとは歌劇場で合流する予定だ。



「見て下さい!あのお店の飾り木は、この窓から見るととっても綺麗ですね」

「おや、このくらい離れて見ると雰囲気が変わるね」

「………あちらのお店の玄関口も、お店の窓の灯りに合わせて何て可愛らしいんでしょう」

「また弾んでる…………」


ネアは思わず馬車の椅子の上で弾んでしまい、ディノは目元を染めてしまった。

多くの場合は子供っぽいと止められてしまう行為だが、二人きりのときはディノも嫌がる様子はない。



街は煌めき、祝祭への期待を高めながら、ゆっくりと色付いていっていた。

幸福そうな人々が行き交い、飾り木を見上げ、大切な人や見知らぬ人々が幸福であれと願う、ふくよかな祝祭の気配。

その安らかさに酔い、無垢なものとしての美しさに胸を熱くする。



博物館通りに入り、正面に歌劇場が見えてくると、ネアは御者台側の窓に視線が釘付けになる。

小さな小窓は額縁のように装飾されていて、そこにはイブメリアの飾りに煌めく通りの木々と壮麗な公共建築、一番奥に見える宝石のような歌劇場が祝祭の絵葉書のようだ。



溜め息を吐きたいのか息を呑みたいのか分からなくなって、ネアは息を詰めてその美しさに見入った。



きらきら、きらきらと、見るもの全てが煌めいている。



「今年は白薔薇なんだね」

「白薔薇さん…………?」

「いや、歌劇場の照明の主題のことだよ。ほら、屋根から吊り下げている青い布に雪花灯の光を透かして、白薔薇のように見せているだろう?」


その説明にネアは目を輝かせる。

確かに、ふわりと下ろした布には雪白の光が透かされ、まるで夜明け前の白薔薇の花びらのようだ。

実際には今宵の演目が金字で刺繍された段幕なのだが、花弁のような形になっているのが心憎い。



「ふふ、ディノやウィリアムさんが来るからでしょうか?」

「そうなのかい?」


ディノがこちらを見て目を瞠ったので、ネアは何だか愛おしくなってその三つ編みをそっと撫でてやった。


「ディノはこんなに綺麗な王様ですし、ウィリアムさんも格好いい魔物さんです。ご贔屓にしてくれるということは、きっと誇らしいことなのでしょう」

「格好いい…………」

「あら、ディノも妖精の国に助けに来てくれた時は、とても格好良かったですよ?」

「ご主人様!」



そんなことを話している内に、馬車は歌劇場の正面に着いたようだった。

正面広場の噴水には相変わらず妖精や精霊達がはしゃいでいるし、歌劇場の屋根には、勿論漏れ聞こえる音楽目当てで竜が乗っかっている。

お客達を案内する美しい妖精達も、去年とは違う制服ではあるが同じような姿を見せてくれていた。



(おとぎ話のような世界だけれど、ここはもう、すっかり私の暮らす世界になった)




一人でいた自分が何かを慈しむことを不思議に思うのではなく、或いはどうしてこの魔物の手を離さないのかを不思議に思うのでもなく、大事なのだと迷わずに言えるようになった。



そう考えて、また心がむずむずとする。

こうして手を繋ぐ誰かを見付けることがどれだけ難しかったのかを、そしてやっと手を繋ぐことが出来た大切な魔物を、見ず知らずの人にまで自慢したい気持ちになってしまう。



「ようこそいらっしゃいました。今宵の演目もまた、昨年の舞台を見ても飽きがこないよう、工夫させていただいておりますので。素晴らしい夜をお約束いたします」



そう出迎えてくれたのは支配人だ。

単純に上客として大事にされるということよりも、出迎えられて嬉しいのは、この支配人の声がとても魅力的で物腰が優雅だからでもある。



(可愛い。襟元のピンは、飾り木の形だわ………)



そんな心遣いに、くすりと微笑みたくなるような。



「まぁ…………!」




歌劇場の内部も、勿論素晴らしいの一言に尽きた。



昨年と同じように、壁を埋め尽くす蔓薔薇は花弁のぎっしり詰まった花を咲かせている。

花の重たさに少し頭を下げており、そのしっとりとした風情はひどく甘やかだ。


舞台から前方の客席までは、物語に合わせて森の中に入り込んだように作られており、今年は青白い木々の演出のようだ。

昨年は白緑が基調とされていたが、色合いが変わるとまた随分と違う雰囲気に見えた。



「演目の後半で、この森は面白い変化を見せますので、そこにも注目して下さい」

「何か起こるのですね?とても楽しみです」


しゃりんと、その木々が風に揺れた。

水晶のベルを鳴らすような透明な音に耳を澄ませば、作り物の木々なのに森の歌を歌うかのよう。

この風もまた、演出の一つなのだろう。



専用の通路から真紅の絨毯の敷かれた階段を登り、ネア達は薔薇のロージェに入る。



「ディ、ディノ!」


そうして、ロージェに入るなりあまりの美しさに感動したネアはディノの腕をぐいぐいと引っ張ってしまった。

そこはまるで、薔薇達が冬を過ごす寝台のようだったのだ。



壁も天井もみっしりと重たい蕾をつけた蔓薔薇なのだが、上から雪をかぶったようになっている。

白薔薇の蕾ではあるが、ほんのりとピンク色に染まった花弁が、えもいわれぬ柔らかさを表現していた。

雪と氷の毛布をかけて、薔薇達は春を待っているのだろうか。





「この雪は、………雪結晶を砕いて振りかけたのかな?」

「ニエーク様から、今晩、こちらのロージェを飾ることには労力を惜しまないというご連絡をいただきまして」

「……………なぬ」

「ニエークは、ここに私達が来ることを知っていたのかい?」

「ええ、ご存知だったようですよ」

「…………まさか、み、見守る会が………」

「お食事は昨年と同じ、ザハの手配となります。昨年のお料理の評判がとても良かったもので、今年もザハにお願いしました」


ウィームの歌劇場でこの夜を過ごそうとする者は、ウィームの住民ばかりではない。

そうなると、素晴らしく美味しいだけではなく、ウィームと言えばのレストランであるザハのメニューを一緒に楽しめるということは、食事の機会が限られた観光客にはとてもとても有り難いことなのだ。



「おや、良かったねネア。君の一番好きな味だ」

「ザハのお料理は大好きです!」


いつまでも食べていたい大好きな味となると、リーエンベルクの料理とアルテアの料理の二つであるが、お食事に出かけて行く中で一番好きなのは、ザハの味である。

塩味や、バターの濃さにブイヨンの味わいなど、どれだけ素晴らしい料理人の料理にも、好みというものはある。


とは言え、また今年で幾つかの新しいお店が出来たので、ネアは新年のお祝いで出される振る舞い料理が楽しみだった。



「では、ごゆっくりとお楽しみ下さい。何かございましたら、そちらのオーロラの結晶のベルを鳴らしていただければ、すぐにお伺いいたします」



飲み物のオーダーを取り、支配人は下がっていった。

今年のロージェの給仕は、なぜか志願してこの部屋の担当になってくれたザハの給仕の一人なのだとか。

いつも気を利かせてくれる素敵なおじさまがいるので、ネアはその人だといいなと思ったが、彼はフロアの責任者のようだったので別の誰かだろう。

きっと、素晴らしい音楽が漏れ聞こえてくる歌劇場の給仕は楽しくて、候補者が多いに違いない。



「足元は湖面結晶でしょうか?」

「そのようだね。月のある夜か、流星雨の夜のものだと思うよ」


ふかふかの紫紺の絨毯の床には、お食事用のテーブルがある。その下だけは素晴らしい深い青色の結晶石板が敷かれており、テーブルの裏側の素晴らしい螺鈿細工を映すという合わせ技でネアを感動させてくれた。



魔術ではらはらと降る雪が、肌や髪に触れる前にぽわりと光って消える。

そんな輝きが観客席全体に広がり、夜光虫の群れる夜の海のさざ波のように揺らめいた。



「ほお、今年は青の森にしたか」

「…………む。森に帰る詐欺の使い魔さんがいます」

「何だそれは………。それと、その髪は上々だな」

「褒めてくれました!ウィリアムさんが結い上げてくれたんですよ!」

「…………は?」


アルテアはとても嫌そうな顔で固まってしまった。



今夜の装いは、ディノと合わせてきたのか、イブメリアに合わせたのか、銀灰色の艶のある真っ白な燕尾服だ。

言葉だけで表現すると花婿のようだが、アルテアが着るといかにも高位の魔物らしい。

燕尾服の服地の銀灰色の艶が何とも言えない翳りになり、とろりとした艶のあるシルクのシャツは淡い淡いシャンパン色だ。

クラヴァットとポケットチーフは黒だが、よく見れば黒に見えるくらいの葡萄酒色で素晴らしい織り模様がある。


帽子は服地と同じ生地で、ステッキもイブメリアの装飾をされた街灯のようなデザインの、内側から鈍く赤紫の光を透かす乳白色。



「クラヴィスからイブメリアな夜の仕様のアルテアさんも、とても素敵ですね」


今夜はシュプリも飲んでないのに既にご機嫌に仕上がったネアがそう褒めれば、アルテアはもう一度固まった。



「アルテアなんて………」

「あら、私にとってはこの会場で一番素敵なディノなのに、拗ねてしまうのですか?」

「ご主人様…………」


もじもじした魔物が爪先を差し出してきたので、このような場では踏まないのだとネアは言い含める。

悲しそうに首を傾げた魔物に、その代わりこちらにしましょうねと三つ編みを持ち上げてよしよしと撫でてやった。



「ネアが大胆過ぎる…………」

「なぬ。なぜなのだ」

「人前でそんなに懐いてくるなんて……。可愛すぎてずるい」

「解せぬ」



そこにちょうどやって来たのは、ウィリアムだった。



「あれ、アルテアはもう来ていたんですか?張り切ってるな」

「そんなわけないだろ。劇場には、早めに入っている主義なだけだ」

「ああ、ネア、やっぱりそのドレスは似合うな」

「ふふ、有り難うございます、ウィリアムさん。髪の毛をやってくれている時は、汚れないようにケープをかけていましたものね」



ネアは本日、菫色かかった優しい灰色のドレスだが、透けるような生地をたっぷりと重ね、きらきらと繊細に煌めくダイヤモンドダストから紡いだ布を奥に仕込んでいるので、何とも上品に光る。

ぴったりとした袖のデザインで袖口には見事な刺繍があり、胸元ははしたなくない程度だが正装の場でのお洒落に相応しいくらいには開いている。

これは、明日の雪白の香炉の舞踏会用に頼んだドレスの試作落ちのものを、こちらも気に入ったとディノが引き取ったものなのだそうだ。

夜の森の霧のように、ふわりとけぶる色合いにはどこか物悲しいような堪らぬ透明感があり、顔色をくすませずに何とも美しいドレスに仕上がっている。



「ウィリアムさんの真っ黒な盛装姿は初めて見ました。何というか、………物凄く艶っぽくて素敵です!」

「はは、そう言って貰えると嬉しいな」



ウィリアムは珍しく漆黒の盛装姿であった。


体のラインをぴったりと出すような燕尾服は、黒光りするようなふくよかな漆黒の天鵞絨のような生地で、シャツとクラヴァットは純白である。

前髪をオールバックにしてそんな装いをすると、アルテアの専売特許だったぞくりとするような色香を珍しくウィリアムが纏っていて、慣れない表情にどきりとする。



「お前こそ、気合を入れ過ぎだな」

「困ったな。そんなに心配しなくても、歌劇鑑賞の邪魔にならないような装いにしただけですよ?」

「その笑顔を信用する奴はいるのか?」

「その通りなので、信用して貰うしかないですね。それと、先程は俺の髪結いを褒めてくれて嬉しかったですよ」

「…………部屋の外で聞いてたのか。陰険なやつだな」



そちらの仲良し二人がわいわいしている間に、ネア達はささっと好きな椅子に陣取った。

この席を購入してくれたディノを真ん中に入れようとしたが、ディノはさらりとネアを一番いい席に座らせてくれたのだ。


そうなると、ディノの隣に一席、ネアの隣に二席となる。

歌劇を見ることが目的のロージェなので、座席の配置は少し前後しているものの、みんなで向かい合ってという場ではない。

会場の左右にあるロージェだと互い違いの席配置だが、この薔薇のロージェは舞台の真正面なのだ。



「ネア、アルテアに何かされたら言うんだぞ?」

「むむ。悪さをしたらウィリアムさんに言いつけます!」



ウィリアムが先にディノの隣の席を選び、アルテアはネアの隣の席になった。

アルテアの隣にもう一席あるが、仲良しなのにそちら側に並んで座りはしなかったようだ。




やがて、観客席は暗くなり舞台と客席の前方に広がる森だけが青白く光る。

さわさわと揺れる木々に白い魔術の雪が落ち、なんとも暗く美しい冬の夜の森になった。



(すごい、こちらも少しだけ光るのだわ)



ちらりと視線を持ち上げれば、薔薇のロージェの蔓薔薇も淡く光っていた。

雪に包まれて光るその柔らかさは、雪の中で息付く命のようだ。




少女が、楽しいはずのイブメリアに暗い夜の森に追いやられる。

悲惨で悲しい光景なのに心が荒まないのは、この主人公が必ず幸せになると誰もが知っているからだ。



深い森には様々な獣や魔物、妖精に精霊達がいる。

善良なものや悪しき者達が木々の陰から主人公を覗いていて、舌舐めずりしている謎の白いぽわぽわ鳥はかなりの恐ろしさだった。



(…………何だろう、ほこりにどことなく似てる)



ふと、そう思ったが気のせいだろう。

ちらりとアルテアの方を見ると、心なしか表情が引き攣っていた。

視線を感じたのかこちらを見たアルテアに視線が合えば、薄暗いロージェの中でその赤紫色の瞳が光る。



「…………そして悪食でした。……ほこり?」

「ほこりかもしれないね。この手の演出には、時々そのような要素を交えるものだ」



このロージェの声は外に漏れない。

舞台の転換の間に思わずそう呟けば、グラスを手に取りながらディノも頷いてくれた。

時事や風刺、ちょっとくすりと笑えるような要素など、観客がお喋りをして楽しめる要素を盛り込むのだとか。


アルテアは、何故か片手で目元を覆っているようだ。



「………確かに、目を離した隙に森に来た散策者を食ったことがあったな」

「なぬ」

「薬草を摘みにきた、その国の地方伯の娘だった………」

「ほ、ほこり…………」

「鳥姿だったからな、変な鳥だと籠で叩かれたらしいが……その時の話か………」

「虐められたのなら、やり返しても良しとしましょう。可愛いほこりを籠で叩くだなんて、ゆるすまじです!」

「そうか、お前はそうなると気にしない人間だったな…………」

「うーん、ネアらしいな」

「む?」



やがて次の幕が開き、森で人ならざる者達に出会う少女の瞳が輝き出す。

湖の畔りの舞踏会で出会う、不可思議で美しく力に溢れた者達。



そうして、舞踏会を盛り上げる為の、妖精や精霊達の華やいだ出し物が始まるのだ。




「ほわ…………。昨年も観たはずなのに、またしても見入ってしまいました」

「…………どうして春の王を少年にしたのだろう」

「確か、本来のお話も少年と未亡人でしたよね?」

「それになぞらえたんだろうが、今年はしたたかな雰囲気の少年と、不器用そうな冬の王にしたんだな」

「…………冬の王さんが不憫になってきました。と言うか、下の観客席のご婦人方を見ていると、腹黒い系春の王と、不器用不幸体質の冬の王で、人気を二分している気配です」


なかなかに難しい主題にしてきたので、ネアは去年に一度、正統派の舞台を観ておいてよかったなと思う。


(でも、この演出であっても、あの女の子が春の王を選ぶのは分かる気がするわ)



少女にとって、春の王は力と知略で欲しいものを手にすることが出来る、成功の象徴に見えることだろう。

虐待され愛されずに疲弊した心で頑なな人の心を溶かす余力などある筈がなく、そのどちらもが彼女を大切に思う点においては同じ条件であれば、彼女はきっと、好意が分かりやすく、安心してその手を取れる相手を選ぶに違いないのだ。



(そう言う意味では、ディノはまったく気質が違うけれど、喜びを分かりやすく表現するという意味では春の王系なのかしら)



好きだと言ってくれ、嬉しいと、幸せだと微笑んでくれれば、その温もりは安堵を齎す。

そもそも嫌いな相手であれば大減点の行為だとしても、ある程度の好感さえあれば、やはりその喜びに触れるということは暖かい。




「そして、お料理です!」

「おい、弾むな!」

「むぐぅ。子供っぽいかも知れないですが、このロージェは他の方には見えませんし、アルテアさんあたりはそろそろ慣れて下さい」

「子供っぽい…………?」


なぜか渋面のアルテアは捨て置き、ネアはこんこんとノックをしてから、お料理を持ってきてくれた給仕に微笑んで会釈をする。

馴染み深い、あのザハのおじさま給仕だったのだ。


かつて、悩んでいたネアが一人でお茶をしに行った時に優しくしてくれた彼のことはご贔屓にしているので、ぽわりと笑顔になると、こちらを見て孫を愛でるように微笑んでくれた。



「…………前菜が」


そうして、運ばれてきたお料理は、やはり素晴らしいものだった。

まずは四種盛りの前菜で、芳醇な香りのスモークサーモンには、キャビア的な魚卵が乗せられており、二層仕立てでちびケーキのような作りにしたクリームチーズとフェンネルクリームをちょびちょび合わせていただく。


(これも美味しい!)


青リンゴと青いセロリの冷たいクリームスープには、パイ生地で包んで揚げたあつあつさくさくの海老が乗っている。

二口ぐらいの食べきりサイズのココット鍋には、セルポレととろとろチーズがくつくつしていて、ほっとするようなジャガイモグラタンになっていた。


もう一種はアスパラに巻いた美しい薔薇色のハムで、見たままの印象でぱくりといただくと、アスパラの中にマスタードソースが入っていて嬉しい驚きに目を丸くする。



「…………幸せです」

「可愛い………。見たことがないことしてる………」


お口の中が幸せになったネアが頬っぺたを両手で押さえてほにゃりとすれば、ディノはそんなご主人様を見て謎に恥じらってしまった。


「…………おい、腕を寄せるな」

「なぬ。謎のお叱りです。私の腕の自由を奪わせるものですか!」

「ったく。これでも食って大人しくしてろ」

「もぎゅふ!お口の中にグラタンがまた来てくれました!」


スプーンをお口に入れられた際に糸を引いたチーズがとろりとしたが、ネアが慌てて唇をごしごしする前に、手袋を外したアルテアが指先で拭ってくれた。

まるで育児中のお母さんのような姿に、ネアは少しだけ己の淑女度の欠如を悲しく思う。


祝祭に向けての素晴らしい料理が続き、ネアは皮目に蜂蜜を塗ってツヤツヤにして焼いた鴨のご登場に倒れそうになる。

繊細な草花の縁取りがある絵皿にラベンダーの花が添えてあり、お皿の色合いもとても美しい。



「鴨か。良かったな」

「むぐふ!」

「…………おい、何でもう半分も残ってないんだ」


もぎゅもぎゅと鴨をいただきながら顔を上げると、呆れたような赤紫色の目が向けられる。


「至福の時なのです………」

「君のとても好きなものがあって良かったね。もう少し食べるかい?」

「ふふ。とっても大好物なので、ディノにも感動して貰いたいのです。是非にお揃いの量を食べて下さいね」



添えられたキノコのバターソテーのようなものも、小さな赤い実が彩りになり、胡椒が効いていて味に変化をつけてくれる。

鴨には黒すぐりの濃厚なソースが添えられ、香草の香りが口の中にふわっと広がる塩味のシンプルな味わいに飽きたら、そのソースで味を変えることも出来るのだ。



「香りのつけ方が上手いな…………」



アルテアもそう呟いているので、かなり美味しいのは間違いない。

ウィリアムは、黒すぐりのソースは使わずそのままで完食してしまったようだ。


(…………あれ、鴨が一切れ増えてるような気がする)



そちらを見ている隙に鴨が増えたような気がしたが、隣はくれる時は声をかけてくれるディノと、黙らせる時にお口に直接放り込まれる以外では特にそういうことは前例がないアルテアなので、最後の一切れの下にもう一枚隠れていたのだろう。



「下で振舞われている軽食は、今年も何だか素敵ですね」

「今年も、ゼノーシュに教えるのかい?」

「はい。美味しそうだと、リーエンベルクの料理人さんにお願いして再現して貰うのだそうですよ」

「ゼノーシュらしいな。だが、確かに美味しそうだ」


そう微笑んだウィリアムは、余程お腹が空いていたのか、優雅にではあるもののあっという間に食事を終えてしまっていた。


「ウィリアムさん、きちんとお食事されてます………?」

「うーん、昨日は時間がなくてな。だが、今日は来られて良かった。忙しい時期だからこそ、こうして上質な舞台を見ながら美味しいものを食べれるのが幸せだよ」

「むむぅ。下の階の軽食も持ち帰らせて差し上げたい気持ちでいっぱいです」



ネアの観察では、林檎とマスタード、或いは梨とマスタードのソースのローストビーフサンドイッチに、栗と香草のサラダ。子羊の香草焼きは手で骨の部分を持ってぱくりと食べられるようになっており、冬野菜のゼリー寄せがあるようだ。


(いつか、あちらの軽食の方も食べてみたいな……)



少しだけお喋りをし、ゆっくりと暗くなる会場に期待を深める。



物語は後半に向けてどんどん華やいでゆき、青白い冬の美しさを湛えていた森の木々は、内側から透かす光の色を変えたように一気に穏やかなシャンパン色に変わった。



「木の色が………!」

「擬態魔術の応用だね。良い仕掛けだ」



手を取り、踊る恋人達がくるりくるりと回る。



冬の王が少女を見初め招き入れられた舞踏会だが、少女は春の王と出会いすぐにその手を取る。

脆弱な人間らしい身勝手さで、彼女が選ぶのは最初に舞踏会に引き入れてくれた冬の王ではない。

不遇の時代に幕を降ろすのに相応しい、分かりやすく華やかで暖かな微笑みの相手を選ぶ。



(ああ、冬の森が、春に飲み込まれてゆく)



昨年はなんとも思わなかった物語だが、一人で背中を向けて冬の中に戻ってゆく冬の王が不憫に思えた。

あの美しくて広いお城に一人ぼっちのディノのことを思い、隣の席の魔物の手を握る。

ディノは少し驚いたようだったが、嬉しそうに目元を染めるのが分かった。



降っていた雪はもう、その全てが花の雨に変わっていた。

新鮮な花の香りに、視界を埋めてゆく花の色に包まれると、深呼吸をするだけで心が満たされるような気がした。



そして今年も、前夜祭の歌劇が終わる。



最後の場面でゴーンゴーンと鳴り響いた祝福の鐘で、時刻は午前零時となり日付が変わるのだ。




「神聖なるイブメリアの夜に!」

「イブメリアの聖なる夜に、乾杯を!」

「祝祭の訪れに!!」



わぁっと歓声が上がり、グラスを合わせる音が響く。

歌劇場は、心踊るようなイブメリアの香りに包まれ、花と葡萄の香りに胸が熱くなる。



「今年も一緒に過ごせましたね!そして、今年はウィリアムさんとアルテアさんも一緒で嬉しかったです」


ディノ以外の二人も祝福を貰っているので、安心してグラスを触れ合わせることが出来る。

微笑み合いグラスを鳴らしたところで、ネアはロージェに侵入者を見付けた。




「まぁ、狐さん………?」




そこには、涙目でけばけばになった銀狐の姿があった。

よれよれになっているのと、震えているのでどうやら今晩のデートはかなりの修羅場になったらしい。



「……そして、狐さんも一緒にお祝い出来ますね」

「何があったんだろうね………」

「って言うか、ここに狐が入れるのか?」

「うーん、今夜は来ないかと思ってたんだがな」

「狐さんが震えているので抱っこします」




そう声をかけて手を伸ばすと、けばけば狐は歓喜に尻尾を振り回した。









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