オルガ
オルガはトナカイの魔物だ。
一年の多くをトナカイの姿で過ごし、冬の祝祭のその周囲でだけ人型を取る魔物である。
「…………オルガはずっとその姿なの?」
「いや、敵を排除したりする場合や、トナカイの姿に不都合がある場合は人型を取ることは出来る。だが魔術を消費するのであまりやらないな。トナカイの姿でも事足りるので面倒だ」
「ほぇ。…………お風呂とかどうするんだろう?」
「風呂は好きだ。蒸し風呂も好きだし、温泉にも行く。夏は水浴びもいいな」
目の前に座り込んで、興味津々に尋ねてくるのは雲の魔物だ。
別に今は人型なので足元にしゃがみ込まなくてもいいのだが、ヨシュアはそうしたいらしい。
周囲をくるくると回られたのだが、今は人型だと言うのに観察されて複雑な気持ちになった。
「髪の毛下すとどうなるの?」
「ヨシュア、やめなさい」
「イーザは見たくない?そうそう、ネアは三つ編み好きだよね。僕も三つ編みがあるから、いつか見せるんだ」
「ヨシュア?」
「ふぇ………」
雲の魔物は、相談役の霧のシーに頭が上がらないようだ。
よせばいいのにじゃれついていって邪険にされる子犬のようである。
「だからだろうか。その三つ編みは自分で編んでいるのかと聞かれたことがある」
「オルガ、その三つ編みを僕にくれないか?」
「ニエーク。…………そうしても多分ネアは喜ばないし、僕も嫌な気分だ。自分の髪を三つ編みにすればいいだろう」
「…………そうか、そうすればいいのか」
「ニエークは、すっかり変わってしまったな…………」
「ほぇ。ニエークって、昔は冷静で頭がいいけど、何だか感じが悪い奴って感じだったよね」
「感じが悪く思われがちなのは、柔軟性がないからだ。自分が最適だと思った案や、自分が美しいと思ったものを譲らない部分がある。でも今は、………複雑になった」
「複雑かなぁ。おかしくなったでいいと思うよ。イーザがそうだからね」
小さく溜め息を吐き、ヨシュアが立ち上がる。
雪の魔物城には不似合いな比較的気温の高い国の装いだが、なぜだか不思議に違和感がなかった。
ヨシュアの持つ色彩は、冬に好まれるような銀色と灰色のものだからだ。
「でも、イーザは楽しそうなんだ。だから僕は、イーザが楽しそうなのはいいと思う」
そう微笑んで言うと、ヨシュアはニエークと何かを語り込んでいるイーザを見る。
オルガはこの雲の魔物とは初対面ではなかったが、トナカイ姿の時ばかりだったので、こうしてしっかりと話をするのは初めてだ。
なかなかに話し易く、そして温かい心を持っている魔物のようだ。
しかし、夏に出会った時は気紛れに一つの集落の上に雷雲を作り上げ、川に崩して流し入れて遊んでいたので、皆が言うように残虐な部分も勿論あるのだろう。
(大事な者には優しいというのは、みんながそうなのだろうか)
先日、オルガは初めて万象と会う機会を得た。
働かないニエークをどうにかしようと統括のアルテアを探していた時に、万象の指輪持ちの人間に接触してしまったからで、まさか万象が契約の魔物をやっているとは思わず、酷く驚いたものだ。
自分がしたことを思えば粛清されても不思議ではなかったが、万象は己の不快感よりも、歌乞いの少女がいかに健やかに過ごすかを優先したようだ。
ほんとうに、幸運だった。
彼に課せられた役目はあれど、あんなもので済んだのが不思議なくらいなのだから。
そう思えば、その万象らしからぬ、或いは高位の魔物らしからぬ言動の全ては、きっとあのネアと言う少女の為なのだろう。
人間が嫌いなはずの塩の魔物も、人間にはよく関わるが遊び半分に消費してきたアルテアも。
(しかし、僕にはあまり良さが分らなかった……)
決して嫌いではないが、あの獰猛さは恐ろしい。
ご主人様をご主人様と呼べずに信奉するニエークや、きちんと見守る態勢に定評のあるらしいイーザなど、多くの高位の者達を惹きつけるのだから、自分も同じように気に入れば楽しかったろうに。
(あのように心を動かすのは、きっと楽しいに違いない)
オルガにも大切なものはあるが、そういうものがとても多くあったり、或いは絶対的な一つを得るというのはどういう感覚なのだろう。
かつて、伴侶にと望んだ魔物が一人だけいたが、彼女は人間の歌乞いを最後まで愛し続けた。
それは、その歌乞いを殺してしまい、自身を崩壊させることになっても。
(君がそう愛したように、僕も愛してみたかったのだが。……まぁ、ネアには元々、万象の君の指輪があるし、歌乞いは危ない生き物だと分かったから、他の形で探してみよう)
オルガは知らなかったことだが、どうやら歌乞い達は恐ろしい歌声で魔物達を調伏してしまい、ご主人様となる形で契約の魔物にするようだ。
ご主人様に仕えることは楽しそうなので酷い行いではないし、ネアはきっと万象を手に入れられるくらいの実力者なのだろう。
しかし、オルガにはどうも合わない仕組みのようなので、少しだけがっかりした。
ひらり、ひらりと真っ白なドレスの裾を翻して笑う。
『オルガの橇は、特別な乗り心地ね。まるで雪の王になったような気分!』
そう笑ってはしゃいだ彼女はもういない。
今はその崩壊の逸話を世界中に残し、教会に祭り上げられて信仰の対象になっている彼女。
あの純白の鹿角に冬の陽光を煌めかせ、振り返って微笑んだ大事な友人。
(彼女に愛されることはなかったが、せめて彼女がそうしたように、僕も愛するものを見付けたいものだ)
目の前では、何か不用意なことを言ってしまったのか、ヨシュアがイーザに叱られている。
こんな家族のような関係性も悪くないなと思ったが、ご主人様と呼んではいけないあの方がここに立っていたのだと床石を撫でるニエークは、どうも家族のようには思い難い。
どうせなら同じ冬の系譜の者が楽であったが、冬走りの系譜にも、雪竜の系譜にも、特別に親しくなりたいと思う者は思い至らなかった。
(少し前までのニエークは、良い相棒になりそうで気に入っていたんだが………)
そう思えば残念ではあったが、変わってしまったのだから仕方ない。
オルガに出来ることは、このニエークがしっかり働くように手助けし、尚且つネアに迷惑をかけないように見張って諌めることだ。
「オルガ、イーザは横暴だと思わない?」
「………すまない。まったく聞いていなかった」
「君は、少しは僕に敬意を払った方がいいよ」
「そうだな。床石を撫でているニエークを見て困っていたんだ」
「…………ニエーク様、そのような行いは自身の満足に繋がっても、あの方をご不快にさせますよ?」
「イーザ殿は頼もしいな」
「イーザは頼もしいけどすぐに苛めるんだ………」
「頼もしい者に厳しい言葉を言われるのであれば、それはきっと君を思ってのことだろう。助言だと思って大事にした方がいい」
「…………僕をきちんと敬ってくれるひとはいないのかな」
「ヨシュア、あなたはまたそんなつまらないことで、人間達に八つ当たりしないように」
「イーザなんかより、僕の方がネアと仲がいいよ?」
「それは私の求めているものではないので、ちっとも羨ましくありませんよ」
「ほぇ…………」
「そうだ。僕も、オルガは羨ましくないな」
「ニエーク、僕を巻き込まないでくれ」
(……………ん?)
その時、部屋の扉が少しだけ開き、見慣れた女性が顔を出した。
ティルダは雪の精霊の一人で、共にニエークをきちんと働かせるように監視する役目を与えられている。
少々気が荒いところがあるが、それは精霊らしい部分なので気にはならない。
「ティルダ?」
「…………その、雲の魔物はずっとここにいるの?」
「………怖いのか?」
「勿論よ!怖くないのはあなたくらい。雪の魔物は同列の階位に近しいし、あなたも一時とは言え白持ちになるでしょう?でも、それ以外の他の雲に関わる者達は皆、あの気紛れな魔物が怖くて仕方ないのよ」
「霧雨の一族は仲良くやっているらしい」
「霧雨は特別。精霊の方も妖精の方も、捉えどころがないっていうか、したたかというか、そういうことに向いているのでしょうね」
「高位の者に関わることに?」
「高位の者と、さも同列かのように振る舞うことに」
「…………同列、か」
それはどうだろうと思ったが、オルガはそれ以上は何も言わなかった。
どうやらティルダは霧雨の一族があまり好きではないようだが、オルガは今日の訪問で、すっかりイーザを気に入っていた。
ニエークと同じようにご主人様を見守る会に属していても、決して本人を怖がらせたり不快にさせるような言動をしないところが好ましい。
聞けば実際に対面したこともあり、霧雨の妖精の城にネア達を滞在させたこともあるのだが、彼女にはご主人様と呼びたい系の妖精であることは隠しているそうだ。
自身の嗜好はあくまでも自身のもの。
それでご主人様を煩わせてはならないと言うイーザは、最初に一度だけ、薔薇の祝祭に、ネア宛に手紙を送ったことがあるらしい。
しかしそれはどうやら本人の目には触れていないようで、であれば彼女の周囲の者にとっては、その申し出は不利益な、或いは許し難いものであるのだろうと納得済なのだとか。
だからこそ彼は、決して彼女自身にその欲求や要求をぶつけることはない。
オルガには分らない感覚だったが、そちらの業界ではそのような偲ぶ思い方もそれなりに喜びなのだとか。
先日も、森と湖の系譜だというリーエンベルクの代理妖精に恋する妖精が、仲良くしているネアを邪魔だと思い悪さをしようとしているところを影ながら見守る会の会員達と排除したそうだ。
それを誇るでもなく、でしゃばるでもなく、ひっそりとその穏やかな日常に貢献することがイーザの楽しみである。
(そうか。………寧ろ僕は、この妖精となら、仲良くなりたいかも知れないな)
そう思うと、何だか気持ちが湧き立った。
この霧雨のシーの、友情の色をした愛情の大部分はおそらくヨシュアのものだが、彼には沢山家族がいるようだし、彼を育んだその一族であれば、オルガにとっても素敵に思える者達がまだまだいる可能性もある。
霧雨は見ていると心が落ち着いて好きだなと思えば、ますます嬉しくなる。
窓の外には、清らかな雪が降り続けている。
そんな雪の景色に目を細め、霧雨の一族は雪は好きだろうかと考えた。
(僕は、雪景色が一番好きだ。それも、イブメリアの前の祝祭の雰囲気が一番好きだ)
そんな感覚を分ってくれる誰かはいるだろうか。
いいや、決して同じものを好まずとも、共に語れるような相手がいればそれで構わない。
しかし、そんなオルガの好きなものは、どうやらネアの好みと似ていたらしい。
自分のことをそれとなく伝えておき、去り際に友人になってくれるかどうか尋ねてみようと思っていたオルガは、その会話でイーザの好感を得ることが出来たようだ。
「オルガ様は、ネア様と嗜好が似ておられますね」
「そうだろうか。それと、敬称抜きで呼んでくれて構わない。………その、君と友人になりたいんだ」
そう言えば、イーザは目を瞠って驚いたような顔をしていたが、多種族と交わることに長けた社交性の高い霧雨の一族らしく、すぐに微笑んで頷いてくれた。
「…………イーザは僕の相談役だからね?」
「安心していい。君の相談役だし、君の大事な友人なのだろう。その領域を侵すつもりはない」
「そ、それならいいけど。………僕に内緒で、二人で遊びに行ったりしないかい?」
「…………ヨシュア、あなたは子供ですか」
「だけど、イーザは僕の相談役だからね!」
「………はいはい」
そんな二人のやり取りを、ニエークがじっと見ている。
少し考えるように視線を固定し、その後で納得したのか頷いた。
「ニエークも友達になって貰うか?」
「イーザは、同じ見守る会の会員だ。まぁ、彼は副会長だからな、色々と学ぶところはあるがそれだけだな。友人であれば、アルミエがいる」
「ああ、彼とは仲良しだったな。…………その、見守る会のことをあまり話さない方がいいぞ?」
「…………冬告げの舞踏会で素晴らしいなと話をしたのだが、アルミエには良さが分らないようだった」
「………そうだな。その趣味は、好むものと分らないものが別れそうだ」
アルミエは氷の魔物だ。
ニエークとはまるで違う気質だが、同じく理論的なものを好み、時間などをきっちり守るという意味ではよく似ている部分もある。
氷の魔物という肩書きの通りに排他的な気質もあるが、身内には情深く優しい魔物だ。
人間だったという伴侶は数百年前に亡くなったが、二人で子供として育んだ氷の花の魔物達を娘として大事に育てている。
本来は白持ちの第六席とも七席とも言われた魔物だったが、彼は伴侶の死で階位を落とし公爵位を失くした魔物の一人だ。
娘達がその崩壊を止めたとも、腹心の部下達が王の崩壊を止めたとも言われていて、氷の一族の結束はとても強い。
(ニエークは、そのような腹心の部下のようなものを持たないのだろうか)
少し気になったので、ヨシュアとイーザが帰ってからそんなことを尋ねてみた。
今回の事件で色々と考えさせられたのは、近しい者達との関係を深めたり、或いはそのように信頼関係を深める誰かを得たいという問題であった。
「僕に準じる者という程に、近しい部下は置かないようにしている。以前、新雪の魔物が、僕の一番のお気に入りは自分だと言って、系譜の妖精達を殺してしまったことがある。雪の系譜は、僕自身もそうであるが、思考が閉鎖的になりがちだ。広く浅く仕えさせるのが、系譜の者同士で諍いを起こさせない工夫だな」
「………それでは、君は寂しくはないのか?」
「ふむ。確かにお前以外にもそう尋ねる者がいたが、そうは思わない気質のようだ。友人であればいるし、僕にはやるべきことや、興味のあることが他にもたくさんある。ネア様を見守る会の活動が主軸とは言え、今迄通りに美術品の蒐集や、気に入った音楽家の育成なども行いたいしな」
「主軸にするべきは、冬の統括の仕事にしてくれ。頑張るよう、言われたのだろう?」
そう言えば、ニエークは口元を綻ばせて瞳を輝かせる。
「そうであった!…………あの、冷やかな瞳。そっけないお言葉。何と素晴らしいことか。あのご命令を果たす為に、僕は馬車馬のように働かねばならない!」
「…………ああ。……うん、頑張ろうな」
「言っておくが、冬の統括は僕一人でも充分にこなしてみせるぞ。くれぐれも、管理した自分の手柄であるようにあの方に言わないようにな。そして、もし僕があの方のご期待に添えないような有様であれば、君が叱ってくれ」
「そういう、生真面目な部分は変わらないな」
「あの方のご期待に応える為だからな!」
雪の魔物の城には、美しく才気に富んだ者達が多い。
それは、美しい者を好み、美しくある為の努力を怠らない雪の魔物に惹かれて仕える者達が多いからだ。
そんな彼等は、今後ニエークの変化をどう受け止めるのだろうかと、オルガは夜も更けてゆく雪の城に借りた自室で悩んだ。
どうやら霙の魔物もニエークと同類のようだぞと知ったのは、後日、ニエークの目を盗んで忍び込み、ネアが立っていたバルコニーにしゃがみ込んで床石を撫でている姿を見てからだった。