207. 不思議な夢を見ました(本編)
不思議な夢を見た。
ネアはその夢で誰かと手を繋いでおり、きらきらと光るツリーのようなものを見てはしゃいでいるのだ。
目を覚ますとその夢の欠片が心のどこかに残っていて、ネアは涙が溢れそうになった。
幸せなものを夢に出すのは狡い。
それを思って幸せな夢だったと喜べるのは、目が覚めても幸福な人達だけなのだ。
「…………許すまじ」
「ネア、目が覚めたのか」
振り返った誰かが、青い瞳をこちらに向ける。
その色に何故か落胆し、夢で一緒にいた人の目の色を思い出そうとした。
しかし、その色は霞んでしまうように記憶の指の隙間から溢れてしまい、ネアはもやもやむかむかする。
「世界など滅びれば良いのです」
「…………ネア?」
「いえ、気にしないで下さいね、オルガ」
「悪い夢でも見たか?」
「かもしれませんね。しかし、夢は夢ですから」
もそりと寝台から立ち上がったのは、ウィームにあるホテルの一室だ。
その部屋を見回してここはどこだろうと思いかけて、旅の途中に立ち寄った都市だったかなと記憶を正す。
忘れかけていたのは願望が覆いをかけたからだ。
こんな胸の詰まるような現実から抜け出して、どこか遠くに行きたい。
きっとそこでは、全てをゼロからやり直して今よりはきっと良い人生を送れるだろう。
愛想よく微笑み、大切なものを得て。
きっと素晴らしい何かを首尾よく手に入れて胸を張るのだ。
小さく溜め息を吐いて、ネアは近くのテーブルにあった水差しのところまで歩いてゆく。
からりと氷の鳴るクリスタルの水差しからグラスに水を注ぎ、頬を叩くように夢の名残を払う冷たい水を飲んだ。
「オルガが、起こしに来てくれたのですか?」
ネアがそう尋ねれば、続き間の主寝室に居た筈の同僚が小さく頷く。
聞けば、そろそろ出かけようと思っているのだそうだ。
「今日は、知り合いを訪ねようと思っている」
「ええ。今回の旅はあなたの人探しが目的なのですから、好きにして下さい。ただし、くれぐれも季節を動かすお仕事には支障がないようにして下さいね」
「ああ。君はここで待っているか?」
「………どちらでも」
ネアは、少しだけ迷ってそう答えた。
契約の魔物との関係は決して順風満帆ではない。
短く頷いて支度を始めた後ろ姿を見ながら、そのすらりとした背中に何かを言いたいような、別にどうでもいいような不思議な気分だ。
(……何でもない会話程に難しいものもないし、そっとしておこう……)
この魔物は気難しく、酷くその真意が読み取り難い。
優しいようで残虐で、歩み寄ったかと思えば気紛れに離れてゆく。
他の歌乞いのように、契約の魔物はその忠実な相棒であり、心に寄り添うという関係ではなかった。
(要するに、わからないのだ)
ネアは、オルガが契約の魔物になった理由を知らないし、ネアのことを本当はどう思っているのかを知らない。
どうしてこの街を訪れ、どんな理由で古い友人を探しているのかを知らない。
ただ、仕事の相棒が休暇中に人を訪ねると言うので、管理責任上のマニュアルに則り、手を離れたところで問題など起こさぬよう仕方なく付き添ってきたのだ。
あくまでも、保身の為に。
(でも、相手をよく知らないのだからそんなものだわ。繋がった運命の全てに安易に期待出来る程、生きてゆくことは楽ではないもの)
だからネアは自分の契約の魔物を心から信頼はしていないし、そんな世知辛い現実を受け入れてもいる。
最良ではなく悲しいことだが、そういう外れ籤な運命の役回りも世界にはあるだろう。
「…………外は吹雪だから、君は、待ってくれるか」
「はい。ではこのお部屋でごろごろしています」
窓の外はまだ吹雪だ。
今日はもう一日こんな天気かもしれないが、魔物であればこのような天候でも外出を躊躇わないのかもしれない。
こくりと頷き、先程まで寝ていた寝台を整えていると、背後から声がかかった。
「でも、その前に何か歌ってくれ。契約の魔物らしいことを試してみたい」
振り返ったネアに、こちらを見たオルガは静かな目をしている。
そこには期待や愛着などはやはりなく、魔物らしい興味と高慢さが伺える。
「今更ですが、………歌は歌乞いの持つ報酬の一つでもあります。その代わりあなたは私に何をしてくれるのでしょう?」
「……そうだったな。では、何か一つ君の問いかけに答えよう」
「質問………?」
「誰に会いにゆくのか、とかだ。君はずっと考えているだろう?」
「それは個人的なことなので、実は然程興味がないのです。であれば、オルガが、私をどう思っているのかを知りたいかもしれません」
ネアの言葉に、オルガは微かに首を傾げた。
女性的な仕草の気配は一切なく、どこか生真面目な教師を思わせるような温度だ。
「僕は君の契約の魔物であるのに、今更なのか?」
「そうですね、今更です。ですが、どなたに会いに行くのかよりは気になるので」
「…………君は、僕が好きなのか?」
「………度合いが難しい質問ですね。オルガは綺麗ですし、礼儀正しいところは好きです。でもそれが、見知らぬ人でも知り合ってみたいと思う程の好きかどうかと問われれば、そうではありませんね」
ネアがそう答えると、オルガは目を瞠った。
初めて見えた心の温度のようで、ネアはその青い瞳に映る自分の影と向き合う。
(あなたは多分、上等だけれどもちくちくするセーターなのだろう。そんなものはいらないと捨ててしまいたいけれど、生きて行く術として、私にはこの魔物が必要でもあるのだ)
「歌乞いは契約で命を削る。その程度の好意であれば、僕との契約は不本意だろう?」
「いいえ。人間はとても現実的で身も蓋もない生き物なので、生活の糧として、または、さしたる魅力もない人生を割愛する為の便利な運命として、あなたは不本意な同僚ではありませんよ」
「………同僚か。同僚と割り切りその理由が不本意でないのなら、ますます僕にそんな質問をする意図が分からない」
「同僚だからこそ、でしょうか。オルガと私は通常の歌乞いと契約の魔物とは違うので、正直なところ各所での距離感が掴み難いのです。少しずつ観察していこうと思っていましたが、………楽を出来る機会があるのなら、容赦なく乗っかる所存です」
「………君は変わっているな」
「まぁ、あなたも大概よく分からない魔物さんですよ」
そう言われたオルガはほんの少しだけ、唇の端に困ったような微笑みを浮かべた。
銀白の髪は一見短髪に見えるが、長い部分の髪の毛を三つ編みに編み込んで巻きつけている。
前髪は長めのものをふわりと横に流し、後頭部に落ちる表層の短くなった部分の髪の毛は襟足に少しかかるくらい。
(オルガは美しい…………)
硬質で透明度の高い宝石のように。
でもそれは、魔物としての美しさだ。
見惚れて何て綺麗な生き物だろうと感嘆はするものの、その美しさに心で下す判断が動かされることはなかった。
(ただ、…………)
誰かの記憶が遠い遠いところで翻る。
枕元に置かれた白い薔薇のアレンジメントと、病院のリノリウムの床に煌めく窓からの陽光の反射。
真っ青な空の下の進水式で、一瞬だけ絡み合った視線の先であの美しい瞳を瞠っていたひと。
雨の降る夜に、煙草の香りとピアノの音のするあの暗い店で、ほんの僅かな言葉を交わしたひと。
そんな誰かに、オルガの容姿の配色や硬さはどこか似ている。
そう思えば、ほんの微かな胸の痛みが動かないという事もない。
しかしそれも、結局は彼本人に紐付くものではないのだった。
(でも、不思議だけれど、私が誰かにどこかの要素が似ていることを気にするのであれば、それはもっと別の要素だったような気がする)
ジークに似ているかどうかよりも、或いは大切な家族や古い友人のその要素よりも、今のネアにはもっと心を動かされる要素があるように思うのだ。
しかしその理由がまったくわからず、ネアは心の中で首を傾げた。
なぜか、オルガを見ていると心が痛むのは、ジークに似ている要素があるからではないような気もしてきた。
例えばそう、………彼の三つ編みがひどく気になってしまうのはどうしてなのだろう。
「かもしれない。人間には、魔物の心の在り方など不可解なものだろう。非難する訳でも見下す訳でもないが、そのくらいには違う」
「………オルガのそういう考え方は結構好きです」
「そうか。それなら良かった。………僕は、よく知らない君のことを、同僚としては結構好きだと思う。君なら、僕のするべき仕事を助けてくれるだろうと思って選んだのだから。これで対価になるだろうか」
「ええ、勿論」
ネアはふと、無性に誰かに体当たりしたくなった。
安心してその温もりに寄り添い、手を取って瞳を見上げたい。
(そしてそれは私のものだと、そんな安堵に身を浸すのだ)
窓の外には、美しい雪景色の街並みが続いている。
そこにふくふくとした祝祭の安らかさを見て取り、そんなものすら享受出来る者と出来ない者が区別されるのだろうかと小さく息を吐いた。
(……………あれ?)
ふと思う。
自分はそんなことを思う人間だったろうか。
代わり映えはしないが静謐な世界は諦観に満ちた安らかさで、そんな考え方をする程に、孤独や不公平さは今更ではない。
ネアはもう、寄る辺なく一人ぼっちでも、そのようなものを楽しめるくらいに孤独と馴染むようになった筈だった。
(…………なのに何故、私は苛立っているのだろう?)
どうして不安で焦っていて、酷く落ち着かないのだろう?
考えて胸の奥がぎゅっと引き攣れるように痛んだその時、心臓の上のあたりで何かあたたかなものが動いたような気がした。
しかし、そのあたりに触れてみても、特に何かがある訳でもない。
或いはそれは、胸の痛みの副産物だったのだろうか。
「さてと、では歌いましょうか」
「ああ。そうしよう。終わったら、僕はとある魔物に会いに行き、それからニエークを探しに行ってくる」
「ニエーク……さん」
「雪の魔物だ。普段は僕よりは高位の魔物だが、この季節は僕も同じ階位を得る」
「オルガは凄いのですね。雪の魔物さんと、同じくらいの階位だなんて」
「僕は冬を牽引する魔物だからな。……でもこれも、ほんのひと時のものだ。………ニエークは、最近はよくウィームの近くに居ると聞いたから、今も近くにいるのかもしれない」
「だからここは、こんなに深い雪なのでしょうか?」
「………ニエークも、僕がこんな風に動いたことで、少しは己の本分に立ち返ったのだろうか」
それは静かな呟きだったが、ネアの心にはなぜだか残った。
その短い一言の裏側には、多くの秘密があるように感じたのだ。
けれど、それはどんなものだろうかと問いかけるより、ネアは沈黙を守り視線を逸らす。
立場や戒律を損なわない秘密くらい、好きに持たせておこうではないか。
(…………私は、残念ながら私一人を生かす程に頑強ではない。どうにでもなると言える程にこの世界は甘くないから。だからもし、何か機会があれば、……本当はもっと庶民的で付き合い易い魔物がいいのだけど……)
秘密を美しいと思うには、残念ながらオルガはまだ他人過ぎた。
自分のことで手一杯のネアには荷が重そうなのであれば、どこかで転職させていただきたい。
きっと、朗らかで優しい魔物がいるのではないだろうか。
人型ではなくとも、もふもふしていて可愛らしいものでもいいような気がする。
そんなことを考えると、少しだけ気持ちが持ち上がった。
(…………転職、か。悪くないかも)
またふつりと、心が動く。
どこかで、とくとくと脈打つぬくもりに、ほっと息を吐く。
「……………オルガは、その三つ編みは自分で編んでいるのですか?」
「そうだ。急にどうしたんだ?」
「ふと考えただけです。…………さ、歌いますね」
緩やかな吐息のリズムと、くらりと陰った眼差し。
足元の自分の爪先を見下ろし、ネアはほんの少しだけ目を細めた。
先程まで何の手応えもなかった胸元には、今はもう、確かなぬくもりと質感がある。
「……………ふむ」
そして一つ頷くと、ネアは歌を歌い始めた。
そして数分後、ネアは床に倒れた魔物を踏みつけ、ふうっと息を吐く。
よく分からないが魔術的な介入のようなものは解けたようだ。
胸元を覗くと、ひどく荒んだ目でもそもそと這い出してきたムグリスディノが、ひらりと人型に戻る。
「…………ほわ、ディノ」
そしてネアを無言で抱き締めると、どこか切実さの滲む口付けを落とした。
その温もりに目を閉じて顔を寄せ、ネアもそんな抱擁をしっかりと堪能する。
「…………ディノ、私は割とすぐにディノのことを思い出しましたよ?」
「……………君の契約の魔物は、私だけだ」
「ふふ、勿論です。この通り、不埒ものは踏み潰していますので安心して下さいね」
「君がご褒美を与えてもいいのも、私だけだよ」
「なぬ……………」
ぞわりとしたのでそこは曖昧に流し、踏みつけていた魔物をディノに引き渡す。
ディノはその魔物を無造作に掴むと、ぽいっとどこかの空間に放り込んでしまい、ネアを持ち上げてまた抱き締めた。
「まぁ、すっかり不安になってしまいましたか?しかし、私が自力で思い出さなくても、一時間後には自動的にかけられた魔術が崩れる仕組みだったのでしょう?」
「それでも、君にあのように触れられるのは嫌なものだ。君が、まるで私がいないかのように振る舞うのも」
「………ディノがいない世界は、とても不愉快で苦しかったです。それでもどこかで、幸せの余韻のようなものを覚えていて、誰かに会いたくて落ち着きませんでした。今回のことで、もしお仕事以外の面で何か得るものがあるとすれば、私はこんな風に魔術で記憶を封じられても、ディノのことは絶対に思い出すと確信したことでしょうか」
ネアのその言葉に、ディノは水紺の瞳を瞠って小さく頷いた。
まだ微笑んだりはしゃいだりするには心が落ち着かないのだろうが、それでもこうして腕の中に収まっていると、少しずつ安心してきたらしい。
「それにしても、この魔物さんはなぜに一角獣さんのふりなどしていたのでしょう?」
「さあ。君との会話で分かったことも、断片ばかりだが、ニエークが何かを知っていそうだね」
リーエンベルクには今朝ほど、搬送中の一角獣についての情報が入った。
王都が発表している以上のことをガレンで調査しており、また、ダリルの弟子であるウォルターも独自のルートでその被害者たちと接触してくれたのだ。
そしてそこから判明したのは以下のことだった。
まず、一角獣は明確な意図を持って王都に出現し、人々に接触し捕らえられたようであるということ。
一角獣が接触するのは、全てが歌乞いか魔術師であること。
その一角獣に遭遇すると記憶の一部が塗り替えられ、一角獣を自身の契約の魔物、或いは使い魔だと思うようになること。
そして一角獣が何らかの目的を果たしその獲物から離れると、一角獣と過ごした時間の記憶が全て抜け落ちてしまうこと。
「………しかし、歌乞いか魔術師以外の方が接触しようとすると、なぜかどうしても巡り会えないというのが不思議です」
「私達が出会っただけでは、その魔術の選別を確認することは出来なかった。選別ではなく、惑わせの魔術や、呪いを利用したのかもしれないね」
そしてそれこそが、王都が匙を投げ、この一角獣をウィームに預けようとした理由でもあった。
なぜか、歌乞いと魔術師以外の者でこの一角獣を見る事が出来たのは、ウィームの出身者やウィーム貴族の血を引く者ばかりであったのだ。
その結果、王都ではこの一角獣はウィームの固有種、或いはウィームに特定の呪いや魔術の縁を持つ生き物だと想定し、ウィームにその処分を任せようとしたのだ。
特定の者でなければ接触が叶わない生き物だということを伏せたのは、この一角獣が悪意をもって利用されることを恐れた為である。
かくして、拘束されウィームに向けて搬送された一角獣だったが、ネアが口にしたことなど言われるまでもなく考えていたダリルが、息のかかった者達を使って早々に逃してしまった。
これは、うっかりお忍びで近くにいた第四王子が一角獣を見たいと無茶を言い騒いでいる間に、警備兵や魔術師達の目を盗んで一角獣が逃げ出したという設定であり、実際にジュリアン王子はとてもよく動いたという。
しかし、その後に想定外の事態が起こった。
脱走した一角獣は、檻の扉を壊す役目をした騎士を拐かしてゆき、その騎士を伴う形でウィームを自ら訪れたのだ。
勿論、作戦開始から監視がついているので、一角獣がウィームに入ったことは速やかに報告され、どうやらこの生き物の目的はウィームにあるらしいと関係者達は頭を抱えてしまった。
『………目的はウィームに入ることだったようだ。捕縛され、搬送されることまで想定済みとなれば、一角獣の目的はその結果運び入れられる場所、或いはその先で遭遇する可能性のある相手だね』
ダリルはそう考えたようだ。
よって、各自護衛をつけ、記憶操作の対応策を魔術で施した上で、一角獣の足取りと交差する土地をふらりと歩かせたのだ。
そうして、その結果囮役の籤を引いてしまったのが、ネアだったのである。
裏通りの一つを抜けようとしたところで、淡い灰色のコートを着た男性に声をかけられた。
振り返ってその瞳を見たところで、相手の魔術に落ちたらしい。
「その姿で魅了するというより、記憶や心を塗り替えられたような感覚でした」
「瞳に魔術を持つ者は多い。君と一緒に居た私には効果がなかったのだから、君だけが見たものはそのくらいかな。書き換えや置き換えを得意とする生き物だったようだね」
「かも知れません。そして、ディノのかけてくれた魔術のお陰で、無事にオルガさんに記憶を封じられていた間のこともきちんと覚えています。私の知り得たことで事件解決の糸口になればいいのですが……」
「………その魔物の名前を呼ぶのはやめようか」
「あら、困りましたね。実はこの方は一角獣さんではないので、ではこの先なんとお呼びすればいいのでしょう?」
「…………呼ばなくていいかな」
すっかり狭量になってしまった魔物の頭を撫でてやり、ネアは袖口を織り込んで隠しておいた腕輪から、エーダリアに貰った魔術通信のピンブローチを取り出す。
「エーダリア様、ネアです」
そっと呼びかけると、すぐさま反応があった。
「ネア、良かっ…」
「ネア!無事かい?!」
「ノア、私は大丈夫ですよ。遮られてしまったエーダリア様、私は今、リノアールのある通りにある、フローレというホテルの最上階の部屋にいます。これから、そちらに戻るので、みなさんにもう困ったさんは捕獲してしまったとお伝え下さいね」
「…………すまない、詳しい事はこちらで話そう。何はともあれ、想定外のところで襲われる前に捕まえてくれて助かった」
ほっとしたようなエーダリアの声に、ネアは得体の知れないものへの対処が、彼のような立場の人間にとってどれだけの心労かを思い知らされる。
囮役になるのはあまり好ましいことではなかったが、こうしてきちんと成果を出せたことで貢献出来て良かった。
そう考えていると、不意に暗い声が聞こえてきた。
「…………ホテル。………よし、そいつは殺そう」
「ノア!」
「今、ヒルドも頷いてるから、殺して解決でいいと思うよ」
「ディノもずっと一緒でしたし、別に悪さはされていませんよ?」
「………ネアを持ち上げて寝台に運んだ」
「ディノ?」
「………今の言葉で、そいつはもう殺すことが決まったから、ネアは早く帰っておいで」
「ノア…………」
「言っておくけど、今の決定を出したのはヒルドだからね」
「むむぅ………」
ノアとヒルドの過保護な家族達がすっかり荒ぶってしまい、ネアはぐったりと疲れた様子のエーダリアから、合流場所の指示を受けた。
リーエンベルクが目的地であったことを警戒して、あえて外で集まることとなった。
一角獣捕獲の一報を受け、ウィーム中央のあちこちに散らばっていた者達は、それぞれに帰還したようだ。
エーダリアは視察という名目で護衛のノアと一緒に大聖堂に、そしてヒルドはゼベルと共に、リーエンベルクの外周結界を調べている体で禁足地の森に、ネアとディノは街を散歩していたし、グラストとゼノーシュはお菓子を買いに出ていた。
珍しくダリルもエメルを伴って外に出ており、そのどこに食いつくのかを見ていたのである。
「ディノ、封印庫の近くに、多目的の封印庫と同じだけの遮蔽を誇る建物があるそうです。そちらに行って、みなさんと合流しましょう」
「………そうだね。ただしこれは、壊してしまえば終わるし、書き換えてしまうことも出来る。どのような形でエーダリア達に引き渡すにせよ、これを許すことは出来ないよ。今回のことはとても不愉快だったんだ」
そう頑なに言い張るディノに、ネアはまた不思議な魔物の線引きを見た。
荒ぶるちびまろことユリウスの事件などもあったのだが、その時よりディノは不機嫌になっている気がする。
「もしかして、契約の魔物として記憶を塗り替えられてしまったので、怖かったのですか?」
ネアがそう尋ねると、ディノはあまりにも透明だからこそぞくりとするような瞳を眇めた。
「私の領域を侵したことも不愉快だが、この生き物は、君が育み整えた心を、一時的にとは言え作り変えようとした。こちらが備えた上であれ、既に一度君そのものを歪めた者だ。だから私は、これを許さないよ」
そう答えたディノは、高位の魔物らしい酷薄さと、仄暗さがあった。
恐ろしいけれど魅入られ、その鋭さに手を伸ばしたくなるような美しい白。
「私のことを考えてくれて、怒ってくれているのですね」
「………君は既に一度、私の手で大きく作り変えられてしまっている。そのせいでこの世界の運命を持たない君は、今でさえどれだけの不都合を抱えているだろう」
ネアはその頬に手を添え、ふわりと微笑む。
「ディノは、とても心配性でとても優しいのですね。私は、私の契約の魔物がディノで、本当に良かったです」
「…………ネア、今回は駄目だよ?」
「ええ。勿論、こやつをくしゃりとするかどうかはディノにお任せします。ただし、これはあくまでお仕事の範疇での出会いなので、きちんと行動の理由を詳らかにして、事件を解決してからにしましょうね。そして、万が一、エーダリア様達の方でこやつを損なってはいけないという判断をするのであれば、バレないように仕返しをする方法を考えて下さい」
こちらを見た魔物の瞳が、困惑に揺れる。
その無防備さにまた微笑みを深め、ネアはこつりと額を合わせてやった。
「頭突き…………」
「ムグリスディノが胸元にいてくれて頼もしかったので、そのご褒美です」
「………君は、私がエーダリア達の判断に背いても構わないのかい?」
「私にとって家族のような、あの方達を困らせない範疇であれば。しかし、煤顔さんのように死後の制裁型の呪いもありますし、ディノなら上手くやってくれるでしょうから」
「……………ネアがずるい」
「まぁ、ディノのしたいようにと言ったのに、そんな風に言われてしまうのでしょうか?」
「君はいつも、そうして私を宥めてしまうのだね」
その呟きには、諦観と安堵と苦笑があった。
ディノの報復を承諾したとは言え、仕事で囮になっただけなのでこの自称一角獣の容疑者には、滅ぼすほどの恨みもないネアは、惨事が免れられそうで少しだけほっとする。
「しかし、こやつは私にディノがいない世界という嫌なものを見せました。その点ではむしゃくしゃしているので、角の片一方は戦闘靴で蹴り折ってくれる」
「ご主人様………」
思いの外心が狭かった人間にふるふるしていた魔物は、ふっと目を瞠った。
「角の片一方?」
「ええ、この方はトナカイの魔物さんのようです。そしてなぜか、誰かと一緒に雪の魔物さんに会いに行こうとしているみたいですよ」
窓の外ではまだ、こうこうと吹雪が吹き荒れていた。
ジゼル達雪竜の手によるものでも、天候上の荒天でもないようなので、これは雪の魔物による荒ぶりなのだそうだ。
レイラの脱走といい、ウィームには今、幾つかの問題が起きているようだ。
それが何なのか、ネアは早く知りたいと思った。