25. 元婚約者は報告書を読みません(本編)
長い長い夜が明けた。
元婚約者が倒れて爆睡し、国家間の歌乞いの抗争理由でもある成果物を自室の引き出しで発見した後、契約している魔物の寵姫であった美少女に殺されかけ、更には契約した魔物の友人にも殺されかけ、合わせて契約した魔物の一計であった。
総括すると、ものすごく嫌な日だったのだと思う。
そして、睡眠時間は二時間が限界だった。
もそもそと起き出したネアのことを、ディノが毛布の塊の中からじっと窺っている。
とても震えているし、怒られた犬が飼い主の様子を伺う目に似ていて、気付いているけれどそちらを見たくない。
「あのバターを食べ逃すくらいなら、私は二度寝とおさらばする………」
這うような声で今朝のキャッチコピーを呟くのは、自分自身と会話しているからだ。
細胞にこうやって命令を出せば、どうにか寝台から下りられるだろう。
それなのになぜか、毛布のかたまりが小さく揺れた。
「………ディノ、私は睡眠不足で気が立っているので、今日は、私の言動で傷付いてはいけません」
「…………わかった」
か細い声が寂しげなので、ネアは小さく息を吐いて男前に手招きをしてやった。
「さ、髪の毛三つ編みにしますよ」
「ご主人様………!」
犬度が増しているのは、一体どんな天の采配だろう。
何とか身なりを整えて会食堂にまで辿り着くと、エーダリア達からの強い視線を感じた。
昨晩の襲撃事件は、どのような形で報告されたのか、ネアは把握していないことに気付いた。
ディノだけであれば不安だが、ゼノーシュも噛んでいるので大丈夫だと信じたい。
「………ホイップバター」
流れるような所作でネアの前に皿を置いた給仕妖精が、一つ頷いて華麗に去ってゆく。
ホイップバターが二倍に盛られており、ネアは涙が出そうになった。
だがしかし、今朝の気分は香辛料入りの赤いバターだったのが悲しい。
「もう大丈夫なのか?今日は休んでいたらどうだ?」
「有難うございます。昨日はお騒がせしまして申し訳ありません。でも、あの鎖の件もありますし、ご報告やら何やら、共有するべきことが落ち着いてから、少し休ませていただきますね」
「酷い顔色だが、あの後、眠れなかったりしたのか?」
ネアは、毎朝の恒例行事で見事なパンの消失事件を達成しつつ、海老と香草のマリネ的なものに着目する。
酸味と塩味が程よいので、寝不足な朝にもかなり美味しい。
ケッパーともう一つの謎の小粒は、何者な食材なのだろうか。
「実はあの後にも、追加で私を殺そうとされた方がいたので、ディノを含めて話し合いになりまして、結果夜明け頃には何とか寝台に戻れた有様でした」
「…………え」
エーダリアはぽかんと口を開いたまま、救いを求めるように視線を彷徨わせた。
残念ながら本日はヒルドの姿がないので、味方はグラスト一人となる。
「なんと!見たところお怪我等はないようですが、ご無事だったのですか?」
「ええ。怪我をするような目に遭う前に、事態を収拾出来ました」
微笑んで穏やかにカトラリーを扱うネアに、グラストはほっとしたように頷いてくれたが、なぜかエーダリアは青ざめる。
そっと目を伏せたディノと交互に見ているが、一体どんな想像をしたのだ。
「しかし、昨晩の説明ではこのようなことは続かないので安心していいということだったが、重なるようであれば事態を重く見た方がいいな。警備を厳重に出来るよう、私の代理妖精を呼ぶべきか」
「エーダリア様の代理妖精さんは強いのですか?」
「強いというより、脱出や隠蔽に長けている。恐ろしく頭の回転が速く、悪知恵が働き、勝つ為にはどんな手段も厭わない妖精だ。空間に迷路の要素を添付する特殊技能もあるしな」
「……ものすごくどんな方なのか気になりますが、今後は問題なさそうですので、是非に本業に邁進していただいて大丈夫です。お気遣いいただきまして、有難うございました」
「そう言うのであれば踏込みはしないが、何かあれば相談するといい」
歌乞いと魔物の関わり方は、基本他者の介入を許さない。
それは魔物の気質によるものが一番ではあるが、魔術というものの契約自体が当人同士にしか触れられない秘儀となるからだ。
だから、エーダリアの申し出は、一介の上司としては破格のものであった。
「ところで、エーダリア様。グリムドールの鎖が手に入ったのであれば、私の業務内容は変わってくるのでしょうか?このウィームに滞在する理由も、その為の措置ですよね?」
ネアが挙げた疑問に、エーダリアは長い睫の影を落とす。
銀色の髪は少し伸びたのか、出会った頃の陰険王子的な雰囲気より、幾許か味わい深い容貌になった。
「そう言ってやりたいのは山々なんだが、………どうやら、あのグリムドールの鎖には研究の跡があってだな。鎖の所在追跡効果を、解析されている可能性が高い」
つまり、もう既にグリムドールの鎖の効果への、対策がなされているということだ。
「……………だから、アルテアさんは私にあれをくれたんですね。あれがあれば安全だからではなく、あれがあっても意味がないと教える為に」
「では、あの魔物が、何か事情を知っている可能性があるということか」
「…………ん?」
「だから、あの魔物が、仮面の魔物についての情報を持っている可能性があると言いたいんだ」
「アルテアさんが、仮面の魔物ですよ?」
嫌な予感はしたが、ネアはあえて探りを入れず、直球で返事をした。
ぱたりとエーダリアが機能停止してしまったので、その隙にスープを堪能する。
本日は古典的なグヤーシュだ。サワークリームがかかっていて、染み入る美味しさに舌鼓を打つ。
「ネア、聞いてないぞ………」
む、と眉を顰めてネアはスープボウルから顔を上げた。
「私からの報告書は、ご覧いただきましたか?」
「報告書?」
「あの頃のエーダリア様は、私を見ると逃げ回っておいででしたので、封書でご報告差し上げています。グラストさんに託しまして、きちんと配達完了報告もいただきました」
エーダリアは確実に記憶を辿る表情になった。
「あの、………白い封筒に薄青の便箋の入った、」
「そう。それですよ」
「お伝えしなければいけないことがありますという書き出しの」
「読んでいらっしゃるじゃないですか」
「…………そこまでだ」
「はい?」
微笑みに淡く恫喝の要素を乗せて向かい合えば、エーダリアは見る間に顔色が悪くなる。
「…………それ以上は読んでいない」
「それ以上は読んでいらっしゃらない。さて、どういうことでしょう?」
「私信だと思ったんだ………」
「あそこまで無駄を削ぎ落とした封書でお伝えしたのに、私信だと思われたんですか?そもそも、どうして私が、エーダリア様に私信のお手紙を渡すのでしょう?」
「い、いや、……だがな!あの頃のお前の様子を見ていて、お前からのあの切り出しの手紙など、恐ろしくて読める筈がないだろう?!」
ネアは応えなかった。
元婚約者の背後に、王都より戻った鬼教官妖精の出現を確認したからである。
ネアと目が合うと、ヒルドは満面の微笑みのまま、一度頷いてくれた。
後は任せろということだろう。
ネアの視線を辿ったエーダリアが蒼白になり、グラストは突然、ゼノーシュにクリームチーズを御裾分けする作業に夢中になった。