最後の一日
『ディノ、…………どうして、そんな…』
驚いたようなその呟きに、胸が潰れそうになる。
赤い滴りに汚れた手を隠そうとして、見開かれた鳩羽色の瞳が悲しげにこちらを見ていることに気付いて、息を詰めた。
ぱっと駆け出してゆく背中に青みがかった灰色の髪が揺れ、濡れたままの手を差し伸べる余裕はなかった。
足元に視線を落とし、赤く濡れた尻尾を視界に収める。
真っ白な毛並みはすっかり赤くなり、そのことが壊れてしまったものをまざまざと見せつけた。
(ああ、……………)
一人で街を歩いていると、どこか遠くで鐘の音が聞こえた。
降り始めた雪に手を差し伸べて笑う子供と、その子供を抱き上げる人間の親がいる。
手を繋いで歩いてゆく者達を見れば、なくしてしまったもののことをまた考えた。
街は、甘くふくよかな祝祭の匂いがした。
スパイスや林檎、咲き誇る薔薇の香りに栓を抜いたばかりのシュプリの香り。
くつくつと煮えるのは、彼女が大好きだったホットワインの甘い匂いだ。
持ち上げた手のその指先が、なぜかじんと痺れたように冷たい。
細やかな結晶石の飾りが煌めく飾り木を見ると、息が止まりそうになる。
(暗くて、狭い…………)
色鮮やかで細やかなものまで目に止まった以前とは違い、視界は暗くて、その不快さと不自由さに息が詰まりそうになった。
美しいと感じていたものを美しいと感じようとしても、心の表面を滑り落ちるように何も揺らさない。
(どうしてだろう…………)
どうしてだろう。
どうして、あんなに大切なものをこの手から離してしまったのか。
あの瞬間の選択を誤り、その結果全てを壊してしまった。
幸せになる筈だったのに。
これからもっと幸せになり、明日もこれからもずっと、彼女と一緒にいるつもりだったのに。
『ディノ………』
驚いたような彼女の声をまた思い出し、体を少し屈めた。
息が苦しくなり、街行く生き物達が全て幸福そうに思えて目の奥が熱くなる。
背中を向けて走って行く後ろ姿。
一人ぼっちになった部屋の静けさに、取るものも取らずにそこから逃げ出した時の、ぞっとするような恐怖の重苦しさ。
(………どこかに行こう。ここにはいられない)
ウィームの街には思い出が多過ぎる。
ここから離れて、…………どうするのかはわからないけれど、何日かすればどうしたいのか分かるかも知れない。
決まらなければ決まるまで待てばいいのだ。
長くを一人で過ごす事は慣れている。
(その頃にはきっと、…………彼女は)
彼女は他の誰かといるのだろうか。
自分のことなど忘れてしまっているだろうか。
………或いは何年かしたら、もしかしたらまた、少しくらいは話してもいいと思うようになってくれるかもしれない。
もしかしたら。
指先を握り締めると、ネアが髪色を紡いでくれた宝石が煌めいた。
その指輪をそっとなぞり、また胸が潰れそうになる。
(それとも、引き返して彼女を攫ってこようか)
捕まえて逃げられないようにしてしまい、手放さなければいい。
でも、そうして壊れたものと向かい合う日々は、果たして少しでも楽だと言えるのか。
もしかしたらいつかと願いながら、ほんの僅かな希望を繋ぐ方が、まだ救いがあるのかも知れない。
「ありゃ、シル?」
その時、向かいの歩道から歩み寄って来て、声をかけてきたのはノアベルトだった。
顔を上げるのも苦痛で小さく視線を巡らせると、ノアベルトは驚いたようにこちらを見た。
黒いコートが雪交じりの風に揺れ、擬態した砂色の髪は紺色のリボンで結んでいる。
「…………シル、一人?………ネアはどうしたの?」
「……………リーエンベルクにいると思うよ」
「思う?…………何だか様子が変だけど、一緒に戻るかい?」
その言葉にはっとした。
ノアベルトは、戻れるのだ。
そしてもう、自分はあの場所には戻れない。
「…………いや、私はもう行かないと。………ノアベルト、……その、もし、ネアに何か困ったことがあったら、教えてくれるかい?」
「え、……シル?本当にどうしちゃたの?ネアと喧嘩でもした?」
「……………喧嘩?」
その言葉を呟いて微笑みたかった。
下らないことのように口にして、そんな容易いものではないのだと、苦くでも微笑めれば良かった。
けれども声はひび割れて、ディノは一歩後ろに下がる。
青色に擬態させた瞳を煌めかせたノアベルトが、さっと手を伸ばして腕を掴んだ。
「シル、何があったんだい?言っておくけど、僕はしつこいからこの手は離さないよ」
その直後、ふわりと周囲の空気が温度を変えた。
魔術の道に入ったことがわかり、先程までの堪え難い街のざわめきが遠くなる。
幸せなものは少しでも遠ざかったと思うと、ほんの微かに呼吸が楽になる気がした。
「…………シル?」
「…………あの子は、いなくなってしまった」
絞り出すようにしてそれだけ伝えると、ノアベルトが目を瞠る。
擬態を解いた青紫色の瞳が、鋭いくらいに真っ直ぐにこちらを見た。
こんな風に彼の瞳を覗き込んだのは初めてだと思いかけて、銀狐の姿をしていたあの最初の日にも、こんな瞳に真っ直ぐ見つめられたことを思い出す。
「ネアが、誰かに何かされたのかい?」
「…………うん」
「ちょっと!それなら尚更早く戻らないと!何でこんなところにいるのさ」
「ノアベルト、…………あの子が怪我をしたり損なわれた訳ではないよ」
「ありゃ。それじゃ、どういう意味なんだい?」
「私が、彼女を傷付けてしまったんだ。…………だから、ネアは立ち去った」
「………………よし、最初から話を聞くよ。どうしてそんな事になったのさ?」
そう言うとノアベルトは、こちらの腕を掴み直し、しっかりと体を向き合わせる。
(最初から…………)
考えようとしたらまた胸が苦しくなり、紡ぎかけた言葉を飲み込んで小さく首を振る。
言葉で辿るということは、もう一度あの場面を繰り返すことだ。
それだけはどうしても耐えられない。
「シル、全部を言いたくないんだとしたら、僕が思っていることを先に一つ言わせて貰うよ?」
「…………どんなことだい?」
「ネアは、君がいないと自分の調整を取れないことをきちんと理解しているよ。あの子は僕によく似てる。何がどれだけ切実で、どんなものがそんな風に見えなくても生命線なのかを、きちんと理解しているんだ。だから、ネアが君の手を離す筈はない」
「………………ノアベルト」
でも、そうではなかった。
彼女は立ち去ったのだ。
そうではなかったという事を説明しようとしても、酷く思考が重たく口を開くのが億劫だった。
ぞっとする程に疲れていて、平坦で、その息苦しさにまた心の内側から目を逸らす。
「シル、ネアと話をした?」
「言っただろう?彼女は立ち去った」
「リーエンベルクから?」
「………いや、走って部屋を出て行ったんだ」
「あの子が傷付いて逃げ出すような酷い事を言ったとか、ネアが逃げ出すようなえげつない事をした?」
「……………アルテアを、」
「…………ん?アルテアを?」
「……………壊してしまったんだ」
「…………………わーお」
流石に驚いたのか、ノアベルトは暫く絶句していた。
そして充分に言葉を失ってから、はっとしたように目を瞬く。
「…………ちょっと待って、崩壊!……ん?周囲に崩壊の気配はないけど、空間を封鎖してる?!」
「……………崩壊?」
「アルテアを壊したなら、大々的な崩壊があるよね?!それとも崩壊はこれからなら、それこそ急いでリーエンベルクに戻らないと!」
「ノアベルト?!」
「ネア達を逃さないとだよ!」
突然乱暴な転移に引き摺られて、腕を掴まれたまま視界がくるりと反転する。
とっさに踏みとどまろうとしたが、ここでそうすれば、この身の魔術を強引に動かそうとしたことの反動を受け、ノアベルトに少なくはない障害が出かねない。
そう考えて、動けないまま引き摺り戻された。
「……………っ、」
身に馴染んだ魔術の気配に、空間の色。
つい先程逃げ出してきたその場所に引き戻され、吐き気がした。
くらりと揺れた頭を片手で押さえ、ノアベルトの手を振り払う。
もう一度、すぐにでもここから出なければと転移を踏もうとしたその時だった。
「ディノ!」
その声にぎくりとし、体が強張った。
背筋が冷たくなり、心臓が握り潰されるように視界が暗くなる。
一刻も早く立ち去らなければという思いと、せめて最後に一度だけその瞳を見たいという思いとがせめぎ合い、魔術を編む事が出来なくなる。
(でも、今日が最後の一日で、もう二度と君の視界に収まる事がないのなら)
そう考えかけて、そんなものでは済まないと苦い思いを噛みしめる。
ああ、やはり駄目だ。
こうしてほんの僅かな時間を断絶されただけでも、喉が焼けるように痛む程に、その声と温度が恋しい。
そうして、踏みとどまれないのならば、彼女を損なってでも、この腕の中に閉じ込めてしまうしかない。
彼女を傷付けるようなことをするのを恐れて逃げ出したのに、自分はまたここに戻されてしまったのだ。
「……………ネア」
冷たい諦観に身を浸してその為に手を伸ばそうとしたその時、ばすんと暖かなものが腕の中に飛び込んできた。
「まったくもう!びしゃびしゃのまま、逃げましたね?!私がどれだけ探したと思っているのですか!お風呂に行きますよ!!」
「……………ネア?」
ふつりと、胸の淵に溢れていた冷たさが溢れて解ける。
ようやく焦点が合うように視界が明るくなり、眉を寄せてこちらを見上げているネアの表情が目に入った。
澄んだ瞳には嫌悪や憎しみはなく、しかしながら、少しだけ怒っているようだ。
「えっ、よく分からないけど、取り敢えず逃げようか!」
「…………ノア?」
「アルテアが壊れたんだよね?!言っておくけど、第三席が壊れたらその崩壊は鹿角の聖女の比じゃないからね?!僕はちょっと、エーダリア達を…」
「ア、アルテアさんが死んでしまったんですか?!」
突然のことに動転したネアがノアベルトの袖を掴む。
けれども、その片手はしっかりとこちらの手を掴んだままだ。
その服越しの体温を感じるだけで、ディノはどうしていいか分からなくなった。
「え?!君もその場にいたんじゃないの?……シル?アルテアをやっちゃったんでしょ?」
「………アルテアを?………うん」
「…………ディノ、ちょっと目を離した隙に何があったんですか?!」
驚いたように両手でこちらの腕を掴んだネアは、かなり焦ってはいるが、伸ばす手は変わらないように思えた。
このまま触れていて欲しいと思い、そっと片手をその背中に回すそれだけのことで、恐ろしく慎重になり息を詰める。
そして背中に指先が触れると、ネアがそれを拒絶しないことに安堵した。
(…………もしかしてこの反応は、誰がやったのか分からなかったのだろうか?)
けれどあの時、ネアはきちんと理解していたように思えた。
そうなるともしかしたら、自分で記憶を書き換えるように、そんな事は起きなかったと思おうとしているのかも知れない。
「グヤーシュを…」
「グヤーシュ…………。………ノア、事情が分かりました。取り敢えず安心して下さい。エーダリア様達を逃す必要はないですからね」
「……………えーっと、どういうこと?」
「ディノが壊してしまったと話しているのは、雪豹アルテアのぬいぐるみです」
「……………ぬいぐるみ」
「先程、上からグヤーシュをひっくり返されて、グヤーシュ色に染まってしまったところで、今は、家事妖精さんのところに入院しています」
「……………ありゃ、グヤーシュ……。ってことは、魔物の方のアルテアは生きてるんだよね?」
そう尋ねられて困惑したまま首を傾げた。
「…………よく分からないけど、そちらのアルテアは元気だと思うよ」
「ちょっと、紛らわしいんだけど!!僕は、代理の心臓が破裂しそうな程にびっくりしたんだよ!!」
がくがくとゆさ振られて、途方に暮れる。
ネアは腕の中から逃げ出す気配はないし、話しぶりだと、雪豹アルテアは入院で済むのかもしれない。
「……………ネア、怒っていないのかい?」
思わずそう尋ねれば、ネアは目を瞠ってからばしばしと腕を叩いた。
「怒っていますよ!グヤーシュでびしゃびしゃのまま、どこかに行ってしまったのですから!……でも、ひとまず綺麗になっているようですね」
「汚れたまま歩いてしまったことだけかい?」
「汚れたまま歩いてしまったからではなく、濡れたまま歩いてしまうからですよ。この時期は屋内とは言えやはり冬なのです。風邪でもひいたら大変ですからね?」
「…………冬だから」
「それなのに、タオルを取りに行っている間に失踪するなんて!ノアを呼びに行ってたのですか?」
少し体を離してそう首を傾げたネアに困ってしまい、どう答えればいいのか分からずに視線を彷徨わせる。
「………いや」
「ネア。シルはね、君が怒って居なくなったと思って、どっかに姿を隠そうとしてたんだからね」
「………ノア?……………ディノ、本当ですか?」
その問いかけは慎重で、腕を掴んでいた指先に力が入る。
途方に暮れてしまい小さく頷くと、ネアが目を丸くするのが分った。
「まぁ…………。どうしてそんな風に思ってしまったのでしょう?もしかして、慌ててバスタオルを取りに行ってしまったからですか?」
「……………君は、もういなくなってしまったのかと思った」
そう告白すれば、ネアはふわりと微笑むと、またすっぽりと腕の中に収まってくれた。
「まったくもう、困った魔物ですねぇ。………では、そんなことは万が一にもないと思いますが、私がいなくなる時は、いなくなりますよと言うようにします。ですから、それ以外の時にはもう、早合点して逃げてしまわないで下さいね」
「…………君の大切なものをあんな風にしてしまったのに、怒っていないのかい?」
「雪豹アルテアさんはお気に入りの大事なぬいぐるみですが、私にとってはディノの方が大事なので、わざと私を傷付ける為に壊しでもしない限り、私は怒りませんよ?」
そう言われると、胸の中からふぅっと冷たい呼吸が安堵の溜め息になって出ていった。
震えそうになる指先でしっかりとネアを抱え直し、胸の中の温度に目の奥が熱くなる。
「シルはせっかちだなぁ。そんなことで逃げちゃうなら、毎日絨毯のことでヒルドに怒られている僕はどうなのさ」
「………でも、ネアの大事なものを傷付けてしまったのは初めてだったんだ」
そう言った時のことだった。
腕の中でこちらを見上げたネアが、すっと冷たい瞳をする。
どきりとして背筋を伸ばすと、ネアはゆっくりと怒っている時用の微笑みを浮かべる。
「ディノ?いつの間に初めてになってしまったのでしょう?ディノが私の大事なものを傷付けてしまったことが、以前にありましたよね?」
「………………え」
今回のような事件が起きた記憶がないのでおろおろすると、ネアはますます怒ってしまったのか、鳩羽色の瞳を冷たく眇める。
側にいたノアベルトも背筋を伸ばしたので、やはりこれは相当に怒っているとみて良いようだ。
「もしかして、忘れてしまったのでしょうか?私はあんなに怒ったのに、ディノはもう覚えていないんですね?」
「ご、ご主人様…………」
「私をあんなに悲しませて、謹慎にまでなったのに?」
そう言われると、一つだけ思い当たることがあった。
しかしその時、ネアの持ち物を何か壊してしまったという記憶はない。
「…………悪夢の時のことかい?」
そう言えば、ネアは重々しく頷く。
あまりにも厳しく頷いたので、慌てて小声で謝ると、びしっと額を指先で叩かれた。
「そうですよ!あの時ディノは、私の大事なディノを頓着せずに傷付けたのです!」
「…………私を」
「だから怒ったのに、忘れてしまったのでしょうか?だから今回も、びしゃびしゃのままいなくなって、あまつさえどこかに逃げてしまおうとしていたのですか?」
「ネア………。ごめんね、ほら、跳ねても届いていないよ」
「むぐ!頭頂部が遠いのは、背の高いディノの責任です!おでこだと赤くなってしまうので、頭頂部を叩くのだ!」
そう言われて慌てて持ち上げてやると、ネアは可愛らしく頭を叩いてくる。
ネア曰く、腕や胸を叩くと喜んでしまうので、怒っている時は頭を叩くことに決めたのだそうだ。
「自分で綺麗に出来たようなので良かったですが、濡れたままお外に出たら凍えてしまいます。それに、私が怒っていると思って一人でどこかに行ってしまったら、きっとディノはまた一人ぼっちで引き籠ってしまうに違いありません。私の大事な魔物にそんな悲しいことをさせるだなんて、なんて意地悪なのでしょう!」
「ネア…………」
「ですから、金輪際、私の大事な魔物にそんな風なことをしてはいけませんよ?それに、うっかり雪豹アルテアと絨毯にグヤーシュをこぼしたくらいで、私はディノをぽいする極悪人ではありません。そんな評価には断固として抗議します!」
またばしりと頭を叩かれたのに、胸の奥が温かくなって幸せな気持ちになった。
けれど、ネアに叱られているのだから、微笑みが浮かばないようにと頑張って口元を引き締める。
腕の中には暖かな温もりと重さがあり、ネアはまた、今もこれからも側にいてくれる存在に戻ってくれた。
ふっと、ネアの体越しに目の合ったノアベルトが、微笑んで頷いてくれているのが見えた。
ノアベルトが無理に連れ帰ってくれなければ危ういところだったので、後で銀狐をたくさんボールで遊んでやろう。
(今夜も、ネアと同じ部屋で眠れる)
手を繋いで街を歩くことが出来て、ネアはまた微笑みかけてくれる。
「……………うん。…………そうだね。ごめんね、ネア」
「うむ。分ればいいのです。雪豹アルテアも、良い毛皮を使っているので、家事妖精さん曰く二度洗いで綺麗になるようですよ?念の為に陰干しで乾かすので、退院するのは明日になります。その間に毛皮が恋しければ、狐さんでも抱っこしていて下さいね」
「ノアベルトを…………」
「ええ。………それと、ふと思い出したのですが、狐さんはこの前、私も大好きな紅茶の茶葉のお部屋の青い絨毯を傷だらけにしたのだとか」
「えっ、僕にも降りかかってきた!」
「あの青い絨毯は、とても綺麗な湖の景色とお花の模様だったのです。ゆるすまじ」
「ありゃ。結構怒ってる………。ネア、僕が逃げ出そうとしてたシルを連れ帰って来たんだよ?」
「むむぅ。そうなると感謝しかないので、今度一緒に狐温泉に行きましょうね。しかし、絨毯のことは別の問題として叱っておきます!」
「シル!助けて!!」
その後、ノアベルトと一緒に紅茶部屋にゆき、リーエンベルクに連れ戻してくれたお礼代わりに、ネアの気に入っているという絨毯は綺麗に修復しておいた。
その後に、ネアと二人で家事妖精の洗濯部屋に入院しているアルテアのお見舞いに行けば、青い琺瑯のタライの中に洗濯魔術をかけられて漬けられているところだった。
「寒くないかな………」
「雪豹アルテア的なお風呂ですね。元の毛皮的に、お湯だと良くないそうです」
「暖かいと駄目なんだね」
「さて、ささっと街に出ましょうか」
「これから街に出るのかい?」
「ええ。ディノが一人で歩いていたのは、博物館通りの方ですよね?その辺りを一緒に歩いて、怖い記憶はぽいしましょう!屋台のホットワインを奢って下さいね。それで、私の大事な魔物を行方不明にしようとした罪を帳消しにします」
ネアは今日、イブメリアのカードを書くのだと話していた。
なのだから本当はやりたいことがある筈なのに、こうして手を差し伸べ寄り添ってくれる。
だからディノも、それを忘れてしまったふりをして、微笑んでネアの手を取った。
「ホットワインだけでいいのかい?好きなものを食べていいんだよ?」
「むぐぐ。イブメリアの前の街には誘惑が多いのですが、晩餐も近いので我慢します…………。その代り、大聖堂前の大きな飾り木が見たいので、その前を歩いてもいいですか?」
「勿論だよ、ご主人様」
街には、静かに静かに雪が降り続けていた。
その中を二人で手を繋いで歩き、ホットワインを飲んでから大聖堂前の飾り木を見上げる。
人々が手を組み、今はもういない者に向かって祈りのような思いを向ける気持ちは分らない。
何に向かって祈り、どういう形であればそれが叶うのか。
わからないことばかりだ。
それでも、今、こうして手を繋いでいる恩寵を失くさないよう、小さな祈りを胸の内で呟いた。