祝祭とシュプリ
イブメリアの祝祭に欠かせないものがある。
それは、細やかな泡の立つ美しいシュプリで、中でも格別に出来のいいものをアクス商会では扱っていた。
その木箱を一つ取り、アイザックは用意していた袋に丁寧に入れた。
少しだけ考えて、やはりもう一つ、違う種類のものも持って行くことにする。
「アイザック様、どちらへお出かけで?」
「ウィームにおりますよ。実は一つ、困った発注がありましてね」
「困った発注ですか。……まぁ、祝祭が近いこの時期ですから、人々が強欲になるのも致し方ありませんか」
「と言うより、これはあの方の資質でしょう。とは言えここは密に手をかけませんと拗れそうですので」
「アイザック様の顧客は、厄介な方が多そうですものね」
通りがかりにそう言ったローンもまた、この時期には疫病除けの呪いを作るのに徹夜もざらだ。
誰だって、大切な祝祭のその当日に病で倒れたくなどない。
そこで、高価な疫病除けの呪いが飛ぶように売れるのだった。
(さて。どちらからお目にかかるべきか)
一本に縛った長い黒髪が乱れていないか確認し、眼鏡を一度外して曇りがないかも確認する。
小さく息を吐くと、手袋をしっかりとはめた。
アイザックもまた、ここ数日は寝ずに仕事をしており、いささか疲弊もしている。
だが、だからと言って今回の仕事を疎かにする訳にはいかなかった。
黒いコートは足元までの長さだが、磨き上げた革靴が隠れる程ではない。
コートと同じ闇竜の毛皮を使った帽子をかぶり、扉を開けた。
ひやりとしたウィームの空気に目を細める。
アイザックは、この豊かで美しく、清廉でもあり欲深い土地を古くから気に入っていた。
確かに統一戦争の時には守護を緩めたが、それは決してこのウィームの王族を気に入っていた訳ではなく、土地そのものへの執着だからこその選択である。
あの当時のウィーム王家は竜の加護が強過ぎ、そんな竜達の気質はいささか魔物には窮屈だったのだ。
魔物には魔物の嗜好や偏りがある。
竜は、特に雪や氷の系譜の雌の竜には潔白であれという意識が強く、せっかくの織り深いこの土地の良さを半減させていた。
生き物は多様であり、したたかな方が美しい。
聡明で無様で、そして己の欲望に忠実な様が美しい。
更に言えば、どんな欲望の醜悪な様でも好むとされるアイザックにとて、それを司る者としての好みがある。
利己的で残忍な欲望であれば、そこには他者の目を気にするような不安や、躊躇いは必要ない。
そして、清廉な欲望や安らかさであれば、それはこちらの目を惹く程の朗らかさが好ましかった。
竜の守護の代が終わるのを望んだアイザックは、そうした好ましい変化がウィームに訪れることを願っていた。
『綺麗な竜だったから。僕達は大抵の場合は日常を変えないけれど、祝い事の時には遠慮はしないんだ。自分の手で収められるだけの我が儘であれば、それを成すのも自己責任だからね』
先日、暫くぶりに訪れたところ、ルドヴィークが多色性の青い鱗を加工したベルトをしていることに気付いた。
話を聞けば、祝い事の準備で行商人と海沿いの街に出ることがあり、近くの海にいた海竜を狩ったのだという。
そして彼は、己の責任と欲望を理解してその竜を狩り、美しい鱗を手に入れた。
『僕は、楽しみのために狩りなどしないと思った?』
そう微笑んだ友人に、言われてみればそう考えていたのだろうと答えれば、生き物はみんな我が儘だよと朗らかに笑う。
彼はいつも豊かでさらりとした欲望の手綱を握っており、とても愉快な男なのだ。
ウィームの街にはうっすらと霧がかかっていた。
ウィームは他のヴェルクレアの領地よりは高度が高く、この時期は霧が出やすい。
しかしその霧は魔術が潤沢であり、肌に触れると何とも言えない心地よさだった。
「ふむ。ネア様から伺うのが順当ですかね」
そう呟いたものの、まだ少しだけ迷いはあった。
もう一つの依頼を優先し、ウィームの歌乞いがその結果訪れる苦境をどう捌くのか興味があったのだ。
彼女もまた、アイザックにとって愉快な欲望の形を持つ存在である。
惜しむらくは、その魔術可動域の低さだ。
その部分がアイザックの好む領域にあれば、ルドヴィークと同じように様々な会話が出来たかもしれない。
彼女では、アイザックが好む魔術の織りや式の話は出来ないし、そもそもそのようなものを見る事も出来ないだろう。
(だが、咎竜の一件といい、無力でありながらしなやかで折れない様は良いものだ)
しかしそれは、身の危険に瀕している時でこそ。
そう考えるとしても、通常であればアイザックは貴重な仕入先兼顧客を失うような采配などしないのだが、今回はその脅威となるべき相手も、慎重に彼女を損なわないようにするだろうという確信があった。
ただ、彼女を悲しませたり怒らせたりすることを自分の利益と天秤にかけ、魔物らしいその資質から厭わないと言うだけのことなのだ。
こつりと、石畳が鳴る。
街中には飾り木やイブメリアの装飾が溢れ、家々の扉には厄除けのリースが飾られている。
その中の一つのリースを取り払い、その建物の中に災厄を呼び込むか。
或いは、……………
「アイザック?」
その時ふと、穏やかな声が背後からかかった。
アイザックはひやりとし、どれくらいぶりか分からない畏れを胸に、慎重に振り返る。
そこに立っていたのは、万象であった。
ウィームの街を背景に、白く鮮やかに浮かび上がる長い髪が、微かに風に揺れる。
擬態をしていないその姿は凄艶で、やはり魔物の性なのか、その絶望的な美しさに惹かれた。
目が眩む程の美しさと酷薄さは、魔物にとってその力そのものである。
「我が君」
胸に片手を当てて慇懃に一礼すると、淡く微笑む気配があった。
けれどもその微笑みは最近よく見かけるそれではなく、魔物としてのアイザックが見慣れた、ひたりと背筋に冷たい汗が落ち、跪きたくなるような暗く鮮やかな微笑み。
「君はきっと、迷うだろうからね」
「………お見通しでしたか。やはりあなたは、恐ろしく慕わしい」
「それが君の資質だ。欲望とは、決して己を助けるばかりではなく、禁忌こそその甘さが強い」
「………ええ。お恥ずかしながらそのようです」
つまり王は、アイザックが迷うことを見越して、それを諌める為にここに来たのだった。
全てのものをあるがままに平伏させるその無造作な支配を手放しても、どれだけあっさりとその手から愛するものを奪われることがあっても、彼はやはり魔物の王であった。
その賽の目の、完全さか不完全さか、どちら側がいつ何時こちらを向くのかが分からないからこそ、万象は恐ろしく美しい。
ただ完全に支配をするものであれば、アイザックはいつか飽きただろうし、完全無欠なだけのものが魅力的かと言えば他の者達とてそうではないだろう。
だからこそ万象はこうなのだろうと、アイザックはいつも思う。
世界というものは常に、不完全さの魅力も持たねばならない。
(今回はそのお姿を拝見出来た。これもまた、恩恵の一つだな)
ふっと微笑みを深め、アイザックはその取り分に満足する。
このような王の姿を見ても、恐怖に心がひび割れることなく喜びとすることが可能な己の階位の自由さに感謝し、アイザックはもう一度丁寧に頭を下げた。
「対岸のお客様のご要望には、今回ご期待に添えない旨をお伝えしましょう」
「それがいいだろう。彼にも困ったものだ」
「だからと言って、あの方を排除しようとはなさらないのですね」
「それもまた彼の資質だからね。それに、彼は彼なりに守りたいものもあるのだろう」
「私からすれば、そのようなものを望まれるということにいささか驚きを禁じ得ません」
「彼は選択だ。だからこそ選択を望むのかもしれない。………ただ、彼がそこまでを許すのはやはり珍しい。私とて、最初は危ぶんだものだけれど」
それはそうだろう。
そんな風にアルテアが守ろうとしているもののことを聞けば、他の魔物達は失笑してそれは何の与太話だと首を振るだろう。
しかしながら、選択だからこそ彼もまた、誰もが想像し得ない一面を持ち、たまたまその側面を享受するのがあの歌乞いであったという事。
それが万象の伴侶となる人間だと思えば、この世界の安寧の為には、これ程までに恵まれた事もない。
(記録によれば、先代の万象の伴侶も多くの高位の者達に慕われたそうだが、終焉と選択はその輪には入らなかった)
死を司る精霊の王族の手元にあった記録には、先代の万象の伴侶を守護した者達の記述がある。
先代の万象の伴侶が失われた時、連鎖的に狂乱してその世界を傾けた者達の名前として、そこに記される魔物の中には、先代の欲望の魔物もいた。
(犠牲と白薔薇、白百合、そして夜の魔物と月の魔物、海の魔物に火の魔物、更には信仰の魔物まで)
その羅列を思い出せば、先代の万象の伴侶は、今のウィームの歌乞いなどより遥かに多くの魔物の寵愛を得ていた。
或いは、その魔物達が女性だったことを思えば、女達の方がそのような共存を得意とするのかも知れないが、それでも囲む防壁の広さで言えば前の世の方が上だとは思う。
しかし今代のその輪を思えば、人間という生き物を確かに守る為には適しているのではないかとアイザックは考えていた。
終焉と選択のその手は広い。
更に言えば、かつては王族相当であった塩の魔物は、アイザックとてその資質の全てを知っている訳ではない謎の多い魔物だ。
(だからこそ、その要素を厭わないのか)
それとも王にとってもまた、彼等は必要な存在なのか。
「アルテア様には、私からお話ししましょう」
「いや、彼には私から話すよ。……アルテアは、君に大聖堂のリースを外して欲しい理由を伝えたかい?」
「いえ、仰いませんでしたが、どうやら送り火の魔物が何か癇に障ったようですね。特に理由などなくとも彼はそういうことをする魔物でもあります」
「理由などはないと考えるのは、今回の依頼には理由がないと考えているからかい?それとも、触れてはいけない理由だと考えているからなのかな」
「さて。ただし、わたくしは商人ですので、大切な交渉の切り札は最後まで温存しておくものです」
「…………成る程。そう言う事であれば、彼の問題だから私は口出しをするまい」
「ご安心下さい。アルテア様は上得意のお一人ですし、我が君の伴侶となられる方の守護を減らすような真似はいたしませんよ。私は、………今の世をとても気に入っておりますので」
「奇遇だね。私も、今はとても気に入っている」
その呟きを最後に、万象の姿はふわりと掻き消えた。
先程まで満開に咲き誇っていた街路樹の花は、いつの間にか全て散ってしまっている。
だが、これが自然な姿なのだ。
本来この木が花を咲かせるのは春になってからである。
「…………さて。こちらのシュプリは、」
アイザックはそう呟くと、リーエンベルクの公用門を訪れ、手続きの為に現れた騎士に言伝とお詫びの品を渡してくれるように頼んだ。
「ネア様にお伝え下さい。ご依頼の件は不要になりましたので、今回はご辞退させていただきますと。先んじて、契約の魔物の方とは先程お会いいたしました。こちらは、ご要望のお品を提供出来ませんでしたので、お詫びとしてお納め下さいますよう」
アクス商会からの使いだと言えば騎士はその言伝に快く応じてくれ、アイザックが渡した名刺と共にシュプリの入った袋を預かってくれる。
(さて、次は………)
アイザックが少し時間を置いてから立ち寄ったのは、アルテアの屋敷だ。
彼はあまり居住地を明かしていない魔物だが、古くからその屋敷の調度品などの入れ替えに手を貸しているアイザックは知っている。
「………お前か」
「シルハーン様がいらっしゃいましたか?」
「………あいつに俺の屋敷を教えたのはお前か?」
「おや、こちらに訪れでしたか。さすがに私も、あなたの本邸の場所を軽々しく口走る程に節操なしではありませんよ」
「……ってことは、あいつを泊めた時に位置を割り出していやがったのか………」
うんざりとした顔でそう呟き、アルテアはがしがしと片手で前髪を掻き乱す。
服装などを見る限り、これから出かけようとしていたところだったのだろう。
(そして今の発言からすると、本邸にネア様を泊められたことがあるらしい……)
「……で、何の用だ?」
「おや、そのように喧々とされずとも。今回はご依頼をお受けする事が出来ませんでしたので、こちらをお詫びの品としてお持ちさせていただきました」
「……………俺には甘過ぎるだろ」
「そうですね。ご自身のものにつきましては、ご自身が一番ご存知かと。なのでこちらは、先日ネア様がご注文いただいたメゾンのシュプリで、イブメリア限定のボトルになります。シュプリ自体、こちらでは冬の祝祭用にしか作りませんからね」
「…………限定品か。まぁ、どうせこれからリーエンベルクに行くからな」
そう言いながらくすんだ赤色に塗られ、繊細なタッチで林檎の木が描かれた木箱を見たアルテアは、小さく溜め息を吐いた。
リーエンベルクに行くとなると、リースに纏わる事情をそちらで話し合ってくる必要があるのか、或いはお気に入りのご機嫌伺いか。
「その際の手土産にでも。……さて、では私はこれで」
「そういや、例の海沿いの巡礼地だが……」
「商会の者から報告がありましたよ。礼拝堂の者達は排除してしまわれたとか」
「充分に遊んだからな。接触が執着だと考える人間程、煩わしいものはない」
「ええ、確かに。しかしあなたの場合、そのような要素が他にもあるのでは?」
「………あいつなら、こう思うだろうさ。よく懐いているが、もしかしたら気紛れに喉笛を噛み千切ろうとするかもしれないと」
「私も先日友人に言われましたよ。祝い事が近いので、近場でよからぬ遊びをするなら手加減は出来ないと。祝いの品を持って行ったところでしたのでいささか傷付きましたが、いやはや、彼はよく私を見ている」
「ほぉ、あの羊飼いとまた交友があるのか。飽きたら解体して魔術回路が高く売れそうだな」
「ご冗談を。ルドヴィークは、私の友人ですよ」
「続けばいいがな」
「続くでしょうね。彼は、私がどのような生き物なのかを知っておりますから。それは多分、ネア様があなたのことを知っているように」
「かもな…………」
魔物は変化を特性としない生き物だが、その側面は決して一つではない。
特に事象を司る者達には幾つもの顔があり、そのどの部分が誰と関わるものなのかは、時折本人ですら捉えきれないものでもあった。
かつて、その海沿いの巡礼地にある礼拝堂を守る人間達は、選択の守護を受けた。
けれどもその期間は酷く短く、彼等が少年や少女であったその頃より、成長して大人になるまでの数年しか続かなかったという。
暇潰しの遊興の為の駒として見出され、ほんの僅かな時間をその駒としての範疇を超え守られた者達は、選択の魔物の基準を何かしら、途中で下回ったようだ。
それでも駒として目をかけられたことで、彼等は最後までその守護をとうに失っていることに気付かないまま、一人の魔物が自分達の良き兄代わり、或いは身分違いの恋の相手、もしくは友人のようなものであると信じ続けていた。
手を伸ばし、だからこそ与えてくれと望む声に辟易としていた彼が、より多くを望まれながらも決して厭わない人間が一人だけいる。
(それは多分、望むようで望まないからだ)
それは、アイザックの友人である羊飼いも同じこと。
受け入れて微笑みかけ、時に貪欲に望み肩を並べる。
しかしその執着はいつも、その本人の為の欲求にしか根差しておらず、与えるのは特定の誰かでなくとも構わない。
彼等がいつ伸ばしていた手を引き戻してしまうのかが、一向に読めない。
その欲望や選択は、不可解で目が離せない、奇妙なもの。
「人間には、時折そういう生き物が現れるらしい」
魔物達には歌乞いというその最たる者がいるが、そうでなくともそのような相手に巡り合う者がいる。
いつもはただ耳にする噂話でしかなかったそれを、これだけ長く生きてから手にするとは思わなかった。
(アルテア様と同時期にそういうものを手にしたのは、幸いか……)
触れてはいけないそれぞれの領域としての同じ条件を持つのは、この先のゲームをする上でも分かりやすい。
(………しかし、今の反応からすると、海沿いの巡礼地のあの一画は、既に隣の商国に切り分けてしまったようだ。であれば、そちらの交易路は使わず海路を押さえた方が有用である可能性も………)
アルテアがあの礼拝堂をそうしたように、アイザックもまた同じ盤上の駒の一つに目をかけたことがある。
それは礼拝堂のある貧しいが公益術に長けた小さな国と隣り合う、山間の国の王女だったが、その人間への興味はさして保ちはしなかった。
そして同じように、アイザックもまた、その守護を引き剥がして王女の腹違いの兄に彼女を売り渡してしまったのだ。
魔術の道を出ると、アイザックは細身の煙草に火をつけ、ふうっと白い煙を吐き出した。
ウィームの街はすっかり祝祭の色に染まっていて、飾り木の装飾が星屑のように煌めく。
美しく壮麗な街並みの向こうに、リーエンベルクの屋根が少しだけ見えた。
(イブメリアが終わるまでは、暫くウィームから離れられないな………)
アルテアと競っているいくつかの盤上を思い駒の手を進めるか否か思案すると、最後にあの清廉な草原の風景を思った。
また年明けに、酒でも持って友人に会いに行こう。
彼が歓迎するかしないかは、時の運次第だ。