205. 残酷な真実でした(本編)
その日、脱走中のグレイシアを見つけたのはヒルドだった。
と言うか、正確には保護をしたのであって、グレイシアはリーエンベルクの近くのヒルドの鍛錬場でもある森の一画で、木の上に隠れていたらしい。
そうして、とんでもない爆弾発言をしたのだ。
「…………命を狙われた」
「それで、逃げていたのですか?」
「………最初は、………会いに行ったんだ。そうしたら、命を狙われた。だから逃げたんだ」
「要領を得ませんね。この時期であれば、信仰の魔物が大聖堂に滞在している筈です。レイラ様には相談されなかったのですか?」
そう尋ねたのはヒルドで、リーエンベルクの外客棟にはグレイシアを囲むようにしてヒルド、ネア、ディノ、ゼノーシュ、グラストがいた。
ヒルドの肩の上には銀狐もいるが、グレイシアは再戦相手よりも、ヒルドに助けを求める方が優先なのか、あまり視界に入っていないようだった。
縋るような目でヒルドを見ているが、大柄な男性でもある人型なので何だか変な感じである。
「…………レイラが話してたんだ。誰かが、大聖堂のリースを外して災厄を呼び込もうとしているって」
「その誰かが、即ちあなたの命を狙っている犯人だと?」
「そうだ。………レイラは信仰だから、時々そういうものが見える」
ネアがむむっと眉を顰めると、ディノがレイラのそんな力について教えてくれた。
「信仰の魔物はね、それが信仰というものであるが故に、何百年かに一度、己とその信者達に降りかかる災厄を予言することが出来るんだ。今回は、それで危険を察したのだろう」
「そんな凄い力があるんですね………」
「とは言えそれは、レイラ自身に纏わることではなく、今回のようにその信仰を象徴する施設が襲われるだとか、信仰を盾にした戦乱が起きるというようなことに限定されている。信仰というものの権威が失墜しかねない災厄にのみ、有効であるらしい」
「そうだ。それと、防げるかどうかはまた別の問題みたいだ。統一戦争の時、レイラはガーウィンを守れなかった。ヴェルリアの力の方が大きいと判断して、ガーウィンの人々に降伏を勧めたんだ」
(それならば確かに、グレイシアさんはこの慌てようになるのかも知れない)
自分の命を狙う者が大聖堂に災厄を呼び込もうとしていて、尚且つこの時期に大聖堂を治めるレイラにはそれを予期しても防ぐことは出来ないかもしれないのだ。
ネアはふむふむと頷き、一番知らなければならないことを尋ねてみることにした。
「根本的なことなのですが、今回グレイシアさんの命を狙っているのは誰なのですか?そして、どうしてなのでしょう?」
「……………アルテアだ」
「なぬ……………」
「俺が、……………会いに行ったら、怒った」
そう呟いて項垂れるグレイシアに、ネアはディノと顔を見合せる。
ディノもであるし、ゼノーシュや銀狐も酷く困惑した様子だ。
「アルテアに会いに行ったことで、彼を怒らせたのかい?」
そう尋ねたディノに、グレイシアは赤い篝火のような瞳をもしゃもしゃの前髪の下で輝かせる。
王様ならばアルテアをどうにか出来ると思ったらしい。
「俺が、アルテアの秘密を知ってしまったからだ。………そんなことだとは思わなくて、そのことを口にしてしまった。…………そうしたら、怒ったんだ」
「成る程。口封じかな。どんなことだったんだい?」
「………アルテアは、このリーエンベルクに秘密を持ってる。お前達に、隠れてある生き物と繋がっているんだ。………俺は、………その生き物に会いたくて、会わせて欲しいと頼んだ。そうしたらそれは、………秘密だったらしい」
窓の外にはグレイシアがウィームに戻ったからか、この冬に入ってから珍しく本格的な雪が降っている。
ネアは懐かしい光景に見惚れて、綺麗な雪景色をじっくり見ていたい一日に持ち込まれた、何やら不穏な予感にざわめく胸を押さえる。
「アルテア様が、このリーエンベルクに隠す形で何者かと繋がっていると?」
「そうだ。………知られて怒ったから、悪いことをしようとしているのかもしれない」
「…………それは、どなたなのでしょう?」
「言えないんだ。言えない呪いがかけられた。そこで何とか逃げ出せたけど、………大聖堂も襲うつもりなんだ」
「だから、グレイシアさんは大聖堂に隠れずに一人で逃げたのですね?」
「…………そうだ」
ふさふさの尻尾をぺそりと寝かせてしまい、グレイシアはいっそうに項垂れる。
彼がヒルドに助けを求めたのは、言えないという呪いの不自由さがあっても汲み取ってくれそうな聡明さを持ち、尚且つ、アルテアにも勝てると信じているからだった。
どういう理解だったのか、ディノがまだここにいることは想定外だったそうで、さらに頼もしいとほっとした様子だ。
(私の契約の魔物になったのは気紛れで、すぐにどこかに行ってしまうと考えていたのかな?)
ぶるぶる震えるグレイシアに向き合い、ディノは魔物らしく目を細める。
どこか酷薄な気配があったが、それはこちらにも降りかかるかもしれない災厄について考えているからだろうか。
「では、グレイシア。答えられることを教えてくれるかい?君は、その生き物に会いたかったんだね?」
「そうだ!」
答えたグレイシアの尻尾がふりふりされ、目元がほんのり赤く染まる。
「随分と、大好きなようだね」
「強くて綺麗だ。レイラも会いたがってる」
「レイラもその生き物を知っているのかい?」
「知ってる。でも、レイラも俺からの繋がりで呪いをかけられているから、喋れない。でもレイラはそのことをまだ知らない」
「つまり、君はレイラともその会話を出来ないという訳か」
「………みたいだ。話そうとすると、口がぐもももっとなる」
「ぐもも………」
それは一体どんな呪いなのか気になったが、ネアはそれよりもアルテアが抱えている秘密が何なのかとても気になった。
明日は素敵なキャラメル林檎のタルトを献上しにこちらに来る予定があり、この状況での訪問がどのようなものになるのか、少し心配になってきたのだ。
何か含みがあるのであれば、早々に訪問を断る必要がある。
「ネア、どうにかするから悲しまなくていいよ」
「ディノ………。アルテアさんにそのような悪さをする一面があるのはもう驚かないのですが、明日はアルテアさんお手製の林檎タルトを食べられると思って楽しみにしていたのです。それがなくなるととても悲しいので、悪さをしたアルテアさんを厳しく叱らなければなりません………」
「お仕置き………」
「羨ましそうにしてはいけませんよ!」
そこで首を傾げたのは、ゼノーシュだ。
他の仕事の合間でもあるので、もすもすと焼き菓子を食べて糖分補給している。
ふわもこの白いマフラーが愛くるしく、見ているだけで癒しになる恐ろしい魔物だ。
「どうして、フエビエに逃げたの?」
「ウィリアムがいると思ったけど、いなかった」
「まぁ、ウィリアムさんを頼ろうとしたのですね?」
「ウィリアムがアルテアを怒ってるのを見たことがある」
「………よく怒られているのですね」
「夏くらいにウィームで見た」
「幾つか、怒られていた理由に思い当たるものがありますね………」
しかし、ウィリアムはそこにはいなかったのだそうだ。
代わりに少しだけ疫病の気配があったので、その気配をウィリアムのものと勘違いしたらしい。
「疫病の気配……」
そのことを聞き、ヒルドはがたんと立ち上がった。
「ヒルド、我々が行った時にはそのような気配はなかったよ。グレイシア、焼いてしまったのかい?」
「疫病は困るから焼いた」
「…………安堵しました。この季節の疫病は、夏とは違う意味で厄介ですからね」
人々が多く出歩く夏の感染爆発も恐ろしいが、人々が家に籠るからこそ疫病の蔓延の発覚が遅れたり、封じ込めたつもりでもどこかに残されていたりするのが冬の怖さなのだそうだ。
幸いにも、この時期のグレイシアの力は強い。
特に浄化にかけてはかなりの魔術を振るえるので、今回は送り火の魔術で疫病の気配は全て燃やしてしまったそうだ。
「助かりましたよ、グレイシア」
「………撫でてもいい」
怖いヒルドに褒めて貰えたので嬉しかったのか、グレイシアはそう言うとずずいっと頭を差し出してヒルドを困惑させている。
しかし、そっと頭を撫でて貰えたグレイシアは尻尾をぶんぶんと振っていた。
「アルテアさんに聞いてみます?」
「どうだろうね。彼が持つ秘密がこちらを損なう為のものであれば、彼はその秘密をより奥に仕舞うだけだろう」
「むむぅ。私の使い魔さんとの契約を使えたりしないでしょうか?」
「…………その魔術を辿って、惑わせる術界を上手く織り合わせてもいいかもしれないね。ただ、アルテアが最初から君の存在を警戒して、その術式を弾くように設定している可能性もあるだろう」
(アルテアさんが秘密に繋がっている誰か。……グレイシアさんとレイラさんが会いたくて、リーエンベルクには秘密にしている存在)
そうなってくると、そもそも、グレイシアやレイラのことをそこまで知らないネアにはお手上げだ。
だからとリーエンベルクサイドから思考を辿ってみれば、政治的なあれこれが浮かび、あまり良くない可能性ばかりが浮上してきてしまう。
「…………リーエンベルクに内緒だと言うことは、リーエンベルクに害を為す方なのでしょうか?」
「そうだね。秘密には秘密の理由がある。…………ヒルド、今は何か特定の脅威や懸念はあるのかい?」
「このような場所ですと中々に特定が難しいですが、………国内のものと、国外のもの、せめてそのどちらかが分かればいいのですが」
「…………どっちでもないみたい?」
そう言ったのはゼノーシュだ。
はっとしたようにそちらを見た一同に頷くと、じっとグレイシアを見ている。
「ゼノーシュ、もしかしてある程度反応が読めるのか?」
そう聞いたグラストに、新しい焼き菓子を手に取りながらゼノーシュはこくりと頷いた。
「どこまで見えるかは分からないけど、今のはわかった」
「そうか、ゼノーシュは凄いな。……ヒルド、幾つか質問をしてくれるか?」
「ええ、ある程度絞れるとかなり助かります」
ゼノーシュは見聞の魔物だ。
他の魔物達より目が良く耳もいい。
情報を収集することに長けたその資質故に、ほんの微かなグレイシアの反応や表情で答えを読み解けたようだ。
「グレイシアさんの会いたい生き物さんは、どんな感じなのでしょう。例えば色合いは…」
そこでネアは、ヒルドが質問を精査している間に、試しにそんなところまで踏み込んでみた。
直接的なことの反応が引き出せるのか、あるいはその外周しか駄目なのか、その線引きを知りたかったのだ。
「白かったりしたら、少し大変そうですものね」
「……白いみたい」
「なぬ。上から行こうとしたのに、青っぽい赤っぽいの選択肢を出す前に答えが出てしまいました」
グレイシアやレイラが会いたいのであれば、十中八九は人外者だろうと考えてその質問を選んだのだが、人外者の識別という意味では、最も宜しくない答えが出てきてしまった。
「……レイラとグレイシアが好きで、白いんだよね」
そう呟いたゼノーシュはなぜか、心配そうにディノの方を見ている。
何か思い当たる節があるのだろうかと考えて内心首を捻っていたネアは、次のディノの質問にぎくりとした。
「カルウィに纏わることだろうか」
(…………カルウィ?)
「ぐももも……」
「ごめん、分からなかった。もしかしたら、グレイシアも分からないのかもしれないし、僕に見えないだけかもしれない」
しかし今回は芳しい結果ではなかったらしく、ゼノーシュはそう項垂れる。
グラストによしよしと頭を撫でて貰い、檸檬色の瞳をくしゅりとさせていた。
(白っぽい、…………生き物。………ん?生き物?)
ふと、その表現が気にかかった。
グレイシアがあえてその表現をしたのだとすれば、問題の白いやつは人という範疇の形状ではなく、動物や竜なのかもしれない。
「グレイシア、それは人なのかい?」
ディノもそれが気になったのか、そんな質問をしていた。
しかしそれは呪いに遮られてしまったらしく、今度もゼノーシュの収穫はなかったようだ。
なのでネアは、もう少し質問を噛み砕いてみることにした。
「白っぽい、………四足歩行のやつですか?」
「………わ!ネア凄い。四足歩行みたいだよ!」
ゼノーシュがそう目を輝かせ、残された者達は逆に困惑の表情になる。
「四足歩行…………?」
ディノが首を傾げ、ヒルドも額に手を当てている。
「………アルテア様の場合、以前悪夢の際に、合成獣を出現させたということがありましたよね?またそのようなものを持ち込もうとしている可能性はあるでしょうか?」
「だが、白持ちの生き物を他の生き物とかけ合わせることは難しい筈だよ。作られたものというよりも、元々存在しているものだろう」
ディノとヒルドのやり取りに耳を傾け、ネアはぽわんと頭の中に浮かんだ映像を検討する。
「…………アルテアさんだと、白けものさんしか思い浮かびません」
「白けもの?」
不思議そうに首を傾げたグレイシアに、ネアは白けものの説明をする。
「白くて綺麗な雪豹さんですよ」
「ゆき…………ぐもも……」
「ほわ!グレイシアさんのお口がぐももっと無理やり閉じられてしまいました!!」
ぱっと目を輝かせて雪豹と呟こうとしたグレイシアは、その途端、不自然に口をもごもごさせてぱたりとテーブルに突っ伏してしまう。
両手で口を押さえてぶるぶるしているので、どうやら呪いが発動してしまったようだ。
「となりますと、…………もしや」
「………白けものさんのことのようですね」
「レイラも、あの獣に会いたいのかな」
「むむぅ。いつの間にか人気者になっているのでしょうか。他の方にもお腹撫でをさせているのであれば、何だか悔しいです……」
しかしそもそも、白けもの周りで大聖堂に災厄を呼び込む程の逆鱗に触れたとなると、どんな事柄なのだろうと、ネアは眉を顰める。
「ディノ、白けものさんに秘密なんてありましたか?」
「あったのかな…………」
「本当は、尻尾の付け根をこしこしされるのも嫌いじゃないということでしょうか?それとも、甘えたになるとフキュフキュ鳴いてしまうことでしょうか?」
「秘密…………」
「は!もしかしたら、時々鏡に映る自分の姿を見ているので、案外いけてると思っていることかも知れません!」
それなら恥ずかしいので秘密にしているかも知れないとネアは意気込んだが、みんなはそうは思わなかったようだ。
あまり反応が良くないので、ネアはしょんぼりする。
「………会いに来たのが嫌だったのかも。アルテアがあの獣なのは、秘密なんだよね?」
そう言い出したのはゼノーシュだった。
はっとして顔を見合わせたネア達に、なぜか弾かれたように顔を上げて驚愕の面持ちになるグレイシアがいる。
「ア、アルテアが…ぐももっ?!」
「むむ、またしても呪いが発動しましたね」
「知らなかったみたいだね」
「ある意味、一番の秘密を知ってしまったようです。しかし、となると、グレイシアさんがアルテアさんを訪ねたのは、白けものさんとアルテアさんの関係をそこまでは知らなくてのことなのですね。…………む、落ち込んでいます」
「ほんとだ。…………泣いてるよ」
「まぁ、どうしたのでしょう?」
ゼノーシュに言われてそちらを見ると、グレイシアは、テーブルに突っ伏してしまい、しくしくと泣いているではないか。
驚いたネアがよしよしと頭を撫でてやると、悲痛な呟きを漏らす。
「女の子じゃなかった…………!!」
「……………白けものさんがですか?」
「…………運命の相手だと思ってたのに」
「白けものさんが…………」
ネアは目をパチクリさせてから、はっとして息を飲む。
「もしかしてレイラさんが会いたがっていたのは、グレイシアさんのお嫁さん候補だったからでは………!」
「そうだ。伴侶を連れて帰るって言った…………」
「ほわ…………」
あまりにも悲しい事件にネアがふるふるしてディノの方を見ると、ディノはどこか途方に暮れたような目をしてこくりと頷く。
「………だから、口封じしたかったんだね」
「むぐぅ。なんと残酷な真実でしょう。この事実を知って、幸せになれる人がいません」
「その、………ん?どういう事だ?」
「グラスト………分からないのなら、無理に理解しなくても良いでしょう」
「ヒルド?」
しくしく泣いているグレイシアが可哀想になったのか、ヒルドの肩から飛び降りた銀狐は、泣いているグレイシアの肩にてしっと前足を乗せてやっている。
「…………グレイシアさんがそのことを知らなかったとなると、白けものさんの正体を知らないまま、アルテアさんに交際の許可でも貰いに行ってしまったのでしょうか」
「そうかもしれないね。アルテアには、私から話をしておこう。戻るまで、グレイシアはここに置いておくといい」
「ディノ、……その、アルテアさんも荒んでいるかもしれないので、気を付けて下さいね」
「そうだね。………ヒルド、念の為に大聖堂に連絡をして、リースを守らせた方がいいだろう。アルテアは統括の魔物だからね。統括地の人間の営みの基盤となる場所を損なうようなことは出来ない筈なんだ。だからこそ、この時期の厄除けのリースは厄介なのだろう。人などを雇ってリースを外させる可能性もあるからね」
「………成る程。アルテア様が断念されても、リースを外されるだけでも厄介なことになり兼ねませんね」
「むぅ。そうなるとアクス商会も怪しくありませんか?商品の事前予約用の経路で通信をかけて、大聖堂のリースを外さない為の道具を探して貰うですとか、上手にこちらの意図が伝わるように発信しておきましょうか?」
「そうしておこうか。ヒルド、部屋の通信を借りれるかい?」
「ええ。ネア様とディノ様のお名前であれば、アクス商会も考慮する可能性が高いので助かります」
そうして、ネアが代表して朗らかに大聖堂のリースを固定する魔術の発注をかけ終えると、ディノは、テーブルの上の銀狐をそっと抱き上げてネアの膝の上に置いた。
「ノアベルト、この子を見ていておくれ」
頼まれた銀狐はきりりと胸を張り、ネアは怪我をしたりしないようにディノに言い含める。
(大丈夫かしら……………)
出かけてゆくディノを見送り、ネアは大聖堂に連絡を取る為に席を外すヒルドと、自分達の仕事に戻るグラストとゼノーシュにも手を振る。
しくしくと泣いているグレイシアの頭をまた撫でてやり、ネアは家事妖精に連絡をしてホットミルクを作ってもらった。
「女の子に見えたのに………」
「きっとまた、グレイシアさんが恋をするような素敵な方が現れますよ。でもその時は、まずは話しかけてみて、男性か女性かを確かめてから恋を育てましょうね」
「……………アルテアだったなんて」
「すっかりしょんぼりですので、ブラッシングをしてあげましょうか?」
ネアにそう言われて、グレイシアは涙のいっぱい溜まった赤い瞳をきらきらさせた。
尻尾をふりふりしたので、ネアは銀狐と顔を見合わせて微笑む。
やがて、ディノが戻って来る頃には、グレイシアはたっぷりブラッシングをして貰い、ほかほかのホットミルクを飲んでぐっすり眠っていた。
あの後、初恋だったのだとまた泣いてしまったので泣き疲れているところもあったが、目を覚ます頃には少しでも元気になっていて欲しい。
「アルテアは、グレイシアが訪ねてきた理由を知らなかったようだよ」
「…………恋をされているということですか?」
「うん。グレイシアは、アルテアと会うなり、白い豹がここに居ることを知っていると言ったのだそうだ」
「………ふむ。グレイシアさんらしい言い方ですが、アルテアさんには、白けものさんの正体を知っているぞという強請りだと誤解されても仕方ありませんね」
今回は、そのような駆け引きなどに関わるのが珍しくないアルテアが相手だったのも、良くなかったのだろう。
「そして、レイラも会いたがっているとも話したのだそうだ」
「その結果、アルテアさんは諸共滅ぼしてくれるというような気持ちになってしまったのでしょう。会話というものがとても大事だと、改めて感じました」
「……ただ、やはりグレイシアが知り得てることが不愉快だと言ってね、彼を赦し、彼にかけた呪いを解く代わりに、グレイシアからあの獣の記憶は剥ぎ取ることになったよ」
「まぁ、初恋の記憶が失われてしまうのですね…………」
グレイシアは、屋敷の魔物の討伐の際に、近くにいたのだそうだ。
屋敷の魔物の犠牲者の中にレイラの信徒の教会騎士がおり、その遺品回収のお使いに出されていたらしい。
少しは成長していたとは言え、まだまだ送り火の魔物としては力を溜め込む前の脆弱な姿をしていたので、誰も近くにグレイシアがいることに気付かなかった。
森に住む魔獣達の気配に紛れ、グレイシアは遠くから盗み見ていた白い豹が、どうやらアルテアが連れてきた獣であるらしいぞと認識して帰路についた。
肝心の遺品回収は、屋敷の魔物が討伐されてしまったので諦めたらしい。
グレイシアは、月日をかけて記憶の中のその白い豹の姿を何度も反芻し、それは恋だと自覚するに至ったのだとか。
そして、イブメリアが近く自分の姿が一番凛々しいこの時期に、満を持して告白に向かった。
「レイラさんは、どうなるのでしょう?きっとグレイシアさんからそのお話も聞いていますよね?」
「安心していい。レイラとも話をしてきたよ。グレイシアが恋をした生き物は他の白持ちの領域のものであった為に、それに関する記憶を剥がされるよと話しておいた」
「………それで納得してくれましたか?」
「今回は違うけれど、それがもし、他の高位の者の伴侶だったりした場合は、珍しい処置ではない。レイラもそう思っているだろう」
「成る程。まるで、他の方の伴侶だったかのようにお伝えしたのですね!」
「アルテアも、あまり本当のことを知られたくはないだろうからね」
「…………でしょうね」
かくして、送り火の魔物は無事にウィームの大聖堂に戻った。
脱走した理由については、よく分からなかったけど誰かに会いたかったのだと呟き、ネアは失われた恋を思ってそんなグレイシアを丁寧に撫でてやって送り出す。
寂しくなったらまた遊びにきてもいいと撫でられたグレイシアは尻尾をふりふりしたが、その場に監視役で来ていたアルテアに、なぜかネアは頭をばしりと叩かれる羽目になった。
グレイシアは健気にもネアを虐めたアルテアに唸ってくれたが、それが初恋の相手だと覚えていない姿に、ネアはほろりときたものだ。
なお、その日の夕方になぜかサービス出現した白けものは、ネアがリノアールで購入した赤紫色の素敵な首輪を嵌められてしまい、大騒ぎしていた。
よろよろと帰ってゆくその姿を見送っていると、隠れていたノアが部屋から出てくる。
「なぜか登場してくれて、撫で回された後に首輪に大はしゃぎして帰ってゆきました」
「ありゃ。きっとネアが、グレイシアをたくさん撫でるのを見て、嫉妬したんだろうね」
「魔物さんとは………」
「シルは?」
「胸元に入って眠っていますが、白けものさんが来る前までは、ムグリスディノがお腹撫でをし給えな感じで荒ぶっていました。ディノも、グレイシアさんを撫でたので荒ぶってしまったようです」
「僕ともボール遊びしちゃう?」
「くたくたなので、申請は明日に延期します………」
「えー、アルテアは撫でたのに!」
「あら、狐さんのことは、毎日撫でてますよ?」
「まぁ、そりゃそうだね。アルテアもきっと、首輪をつけられたのは自分だけだとか思ってそうだけど、君に一番に首輪を貰ったのは僕だし、リードもあるからね」
「魔物さんとは…………」
ネアはその夜、心を緩めて肩の荷を下ろすことが出来る毛皮生物化の恩恵と、失われてしまう魔物らしさについて頭を悩ませたのだった。