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歌劇の都と標本の都



ランテラの都は歌劇の都である。

小高い丘に張り付くように広がった街には、一定区画ごとに見事な教会がある。

その教会が普通の教会と違うのは、祀られているのが歌劇であることだ。


数十メートルごとにある教会の扉をくぐれば、そこでは毎日のように素晴らしい歌劇が公演されている。



演じることで祀り上げられ、その歌劇を贔屓とする観客が信者となるのがランテラの都で、信者達にとってはお気に入りのその演目こそが信仰であり、世界各地からお気に入りの演目の為にランテラに移り住む。


街の中心とされる丘の周囲に住むことが出来る住人達は選ばれし信者と呼ばれ、舞台小物や衣装などに使える資材を寄進しながら、信仰に殉じるようにその歌劇に己の人生を捧げるのだ。



そんなランテラの都に、この週末、ネアとディノは一泊の旅行に来ていた。

ディノは今回の旅行で幾つもの選択肢を並べて悩んでいたが、こちらの世界に来たネアが封じられ気味な嗜好品である音楽を、今回の旅のテーマにしてくれた。


歌えない歌乞いとは言え、ネアは音楽が大好きなのだ。



「ウィームからは、世界の反対側くらいに遠いのですよね」

「この時期は、間に季節の壁があるから、私も一度で転移すると少し足元が荒くなるくらいだね。君を連れているとさすがに危ないから、経由地を設けたんだよ」

「こんな素敵な街があるなんて!この、どこの教会でどんな演目があるのかの観光ガイドがもう、読んでいるだけで楽しいんですよ」


ネアはうきうき過ぎて弾まずにはいられず、弾み回るおかしな儀式のようになった。

ディノは、振動で動く魔術人形みたいだねと恥じらってしまい、早くも弱ってきている。



街は、夕霧のような青灰色で統一されていた。


ネアの髪色にも似ているが、もう少し青みが強く、繊細で物悲しい色だ。

その色合いがまた、見てきた歌劇で盛り上がった気持ちを弥が上にも高め、信者達は毎日のようにレストランで語り明かす。



「こちらの街では、ほとんどの方が自炊をしないようです」

「うん。食事の席は、歌劇について語る為の場だと考えているようだ。料理人が作った歌劇に見合う料理を食べながら、その日に見た舞台について語るらしい」

「だからこそ、美味しいお料理のお店もとても多いのですね。………むむ、この近くですと、甘辛いジューシーチキンをとろけるチーズと一緒にパンに挟んで食べるお店が、とても人気のようですよ」

「では、そこに行こうか」

「はい!」


そのサンドイッチのお店には、美味しいシュークリームもある。

中にモカクリームや果物を甘く煮込んだものが入っていたりして、色々な種類があるのだ。

どうやら、片手で食べられるものを揃えたお店であるらしく、歌劇の原作本などを持ち込んで語り合うお客が多いそうだ。



街の中の空気は、冬らしくきりりと冷たい。


しかし、真冬になってもちらほらと雪が降るくらいで、積もったりはしない程度なのだとか。

まだ遅い秋の紅葉が残っていて、そんな街の石畳を這う霧の情景が何ともいい雰囲気だ。



観光を財源としつつも、そのほとんどを寄付で成り立たせているこの土地だが、普通の国の人々が趣味に資財を投じるように、この都の人々は、歌劇を盛り上がらせ街中の景観を歌劇に相応しく整えることに夢中だった。


だからこそ、旅のお客達がいつ来ても、ここは相応しく美しい歌劇の都なのだそうだ。




「ディノ、ここは街という名称でもあるのに、どうして都とも呼ぶのですか?」

「何か歌劇を観てみようか。そうすると分かると思うよ」

「なぬ。それならば是非、観てみたいです!」

「まずは、部分的に観るものからでいいかい?」

「はい」



この街の良いところは、教会で公演されている歌劇のどれもが、魔術で結界の奥で演じられていることで外部の音が邪魔にならないような安心結界設計となり、観客は出入り自由で楽しむことが出来るところだ。


最初から最後まで観るのも良いが、それは玄人な信者達に任せて、いいところだけをあれこれ巡り歩いて楽しむのが、時間に限りのある観光客の楽しみ方だ。



「ディノ、今日はとても素敵な気持ちなので、手を繋いでくれますか?」

「ご主人様………」

「今日はお揃いのマフラーですしね」



かつて、ネアのラムネルのコートを作ったときに残った毛皮で作られたマフラーがあった。

二本分取れたので二人で使うことが出来、それを今日はお揃いで巻いていた。


(初めてこのマフラーをつけた日の私は、まだこの魔物を手放すことを考えていた……)



しかし今は、この魔物を一人にして立ち去ることなど、絶対に考えられないのだ。




「ディノ、まだ来たばかりですが、こんな風に時々二人でお出かけしましょうね」

「ネア………」

「季節の舞踏会はとても素敵ではしゃいでしまうのですが、ディノが行けない場所だと思うと少し寂しくもなるのです。だからまた、そんな形で別々に過ごす時間があれば、その分の時間を二人だけで過ごせたらいいなと思います」


その言葉に目を瞠った魔物に、ネアは微笑んで頷く。


「勿論、そろそろ一人の時間も大事にしたいという感じの冷めた関係になれば、その運用は解除していいですからね」

「…………ネアが虐待する」

「むむ。負担になってもいけないと思って、そう言ったのですよ?例えお互いが大事なままでも、少し、べったりな時間に飽きるということもあるかもしれません」

「………ご主人様」

「一緒にやってゆく上で、時々別々の時間も必要になるのならば、という話ですからね」


ネアはそう言ってやったのだが、なぜか魔物はべったりになってしまい、そんな日は絶対に来ないと言い張るのだ。


「何事も固め過ぎると負担になるので、ディノだってそう思う日があってもいいのです。ただし、そんな日の後は、いっぱい側にいて下さい。ディノがいない時間が多過ぎると、私もしょんぼりしてしまいます」

「ご主人様!」

「或いは、面白そうな長編ものの読み物を与えて行ってくれれば、何日かは……」

「…………ネアが虐待する」

「なぬ。またそこに戻ってしまいましたね」



そんなお喋りをしながら、二人は街中を流れる川の畔に来た。

瀟洒な造りのアーチ状の橋がかかっており、綺麗な半透明の水色の煉瓦は、何で出来ているのだろうとネアの視線を釘付けにする。


「まぁ、川の中に宝石のようなものがたくさんありますよ!」

「有名な歌劇に、宝石の川が登場するんだ。それを模しているのだろうね。この辺りの土地では、自然にこれだけの宝石が流れ着くことはないだろうから」

「そんな風にあちこちで工夫されているのですね。先程観光ガイドを見ていた時に、ウィームの大聖堂を模した聖堂もあると書かれていました」


二人は橋の上から川を覗き込み、小さな妖精達が宝石のちらちら光る影の中で遊んでいる姿を鑑賞する。

川沿いにみっしりと咲いている水仙も、小さなオリーブの茂みも、本来であればこのような季節や場所にはないものなので、魔術で特別に育てられたものなのだろう。


「宝石の川の歌劇も観てみたいですね」

「グランディアの魔法庫の夜という歌劇だよ。その本には書かれているかい?」

「…………むむ!ありました。ここの教会でやっているのなら、動線上なので覗けそうです。この川を見た後で鑑賞したらきっと素敵ですよ。ディノは、何かこれは観ておきたいという演目はありますか?」

「………今迄はそういうものの嗜好をあまり考えたことがなかったんだ」


ネアにガイドブックを見せられたディノは、そう呟くと困ったように淡く微笑む。

ネアと同じ青灰色に擬態した三つ編みに、宝石の川の流れが煌めいて鮮やかな薄荷色の光が揺れた。


「君と出会ってからそういうものを観たら、何だか今迄とは違うことを感じるんだ。去年のイブメリアに歌劇場で見た演目も、今迄は気にしたこともなかったのに、ひどく心に残った。……すごく不思議だよ」

「それなら、昨年からまたこの一年で色々なことがあったので、きっと今年はまた違う思いが生まれるかもしれませんね。毎年色々なものを観て、その都度のお気に入りを見付けるのも素敵です。ここにもまたいつか来て、新しいお気に入りを見付けましょうね」


こちらを見た水紺色の瞳に、ふわっと濡れたような歓喜の色がよぎった。

ネアはその泣き笑いにも似た透明で無防備な微笑みにはっとし、思わずディノの手を強く握ってしまう。


「…………君は今日、たくさんこれからの話をしてくれるね」


その言葉はとても静かで、ディノ自身もゆっくりと噛み締めるように落とされる。

声に滲んだ微笑みと安堵につられて微笑みを深め、ネアは繋いだ手をぶんぶんと揺らしてディノを見上げた。


「ふふ、今が幸せで満ち足りていると、ついついおろそかになりがちなこれからのお話ですが、こうして特別なお出かけをしてみると、そんな遠くのことも考えてしまうようです。ディノがそんなに喜んでくれるのなら、これからは未来の話もたくさんしましょうね」

「先のことに触れないのは、今が幸せだからなのかい?」

「ええ。人間はあまりたくさんのことを一度に考えられないので、今の事に夢中だと先々のことを考える間もないことが多いでしょうか。逆に、心の中が空っぽだと、過去のことや未来の事にばかり思いを馳せてしまいますね」


柔らかな水音に、遠い教会の鐘の音が聞こえる。

行き交う人々のお喋りに、どこか水の中で触れ合う宝石同士のぶつかる硬質な音。



「君は、………今は幸せなんだね」

「ええ。そんな風に不安そうに呟かなくても、ディノがいてくれて、リーエンベルクの皆さんがいて、他にも優しい方や過保護な方達に囲まれた今、私はとても幸せなのだと思います。短絡的な人間ですので、美味しいものを食べ損ねたり、何か強欲さを満たしきれない時に悲しくなったりもしますが、それは一過性のもの。幸せという台座の上にある、余分の部分ですからね」

「足りないものはないかい?」

「ディノ、………何か不安なことがありましたか?」


ネアが思わずそう尋ねると、ディノは少しだけ目を細めてまたしても途方に暮れたような頼りない眼差しをする。

そうして、少しだけ躊躇った後、おずおずと口を開いた。


「この世界で君には、様々な者達が様々なものを与えられるだろう?…………私が与えるものが、………他の者達より足りなかったりはしないかい?」

「……………まぁ」


ネアは目を丸くしてからふふっと微笑み、ちょいちょいとディノを手招きしてから、首飾りの金庫から引っ張り出したメモにペンで円グラフを書いた。



「私の全体の幸福量が、この円だとしますね」

「………………うん」

「その内の、私自身の持ち分はこちらです。これは、綺麗な風景を見たり、ゆっくり眠ったり、美味しく食べたりなどという他者と関わりながらも他者だけでは動かせない部分の幸福量なので、今回は換算しないで下さいね」

「………君自身の」

「そして残りの幸福量の内、ディノが与えてくれているのはこのくらいです!」

「…………これが、私の分量なのかい?」

「ええ。そしてこちらがその他の方達の与えてくれる分量です」


ディノは無言で頷いたが、明らかに差のある円グラフの線引きに目をきらきらさせている。

そこでネアは、ディノの持ち場の部分にさらに一本の線を引いた。


「ディノが与えてくれる幸福度の内、ディノと仲良しでいられるだけで貰えるものがこれくらいありますので、そもそも、どなたもディノには敵わないんですよ」

「…………ネア」

「なお、これだけの分量の責任があるので、ディノがいなくなってしまったり、傷付いてしまったりすると、私も即座に弱ってしまうシステムなのです。だからどうか、ディノも幸せでいて下さいね。………むが!」



不意にがばっと腕の中に収められたネアは、感激してしまった魔物にぎゅうぎゅう抱き締められる。

ひとしきりご主人様を抱き締めて喜びを表現した後、ディノはその円グラフのメモを欲しがった。

こんなものでいいのだろうかと思って差し出すと、嬉しそうにそれを両手で握り絞める。



「………出会った頃の君が、この絵を描いたらどうだったのだろう」

「ふむ。殆どの部分が、私自身の持ち分で構成されたでしょうね。でも、もうこれだけの部分がディノの領土になってしまったので、残りの部分で誰かが侵食したり、新しく素敵な毛皮生物に出会ったとしても、一番の入れ替えは出来ないのです」

「…………今日は幸せな日だね」


ほろりとそう呟いた魔物に、ネアは円グラフの面積が場合によっては減るというやるせない事象については説明しなかった。


それは決して珍しいことではないし、世間には幾らでもそのようなことが一般的にあるのだが、愛情の種類が変わってゆくのだとしてもこの魔物が与えてくれる幸福度が欠け落ちることはないような気がしたのだ。



「最初の教会に行ってみようか」

「はい。二か所目か、三か所目のあたりで、お昼のサンドイッチにしましょう」

「夜の公演は、このどちらかにするんだね」

「ええ。夜公演がお薦めの印がついている教会ですので、きっと素敵ですよ!その場合、こちらか、こちらのレストランで晩餐にするのはどうでしょう?」

「この二つであれば、こちらの方がいいんじゃないかな。転移を踏んで、この城跡のレストランでもいいよ」

「なぬ。ここまで遠出してもいいのですか?」

「そこならば、私も以前に一度行ったことがある。確か、アルテアかギードの勧めで行った筈だから、君は好きだと思うよ」

「ギードさんは、ディノのもう一人の大事なお友達なのですよね?その方も美食家さんなのですか?」

「彼は、普段はあまり頓着しないが、落ち込んだ時には美味しいものを食べに行くのだそうだ。色々な土地や店を知っていて、一緒に行ったこともある。絶望を司る者だから、自身の管理にはとても気を使っていたんだ」

「美味しいものを食べると、悲しい時でも元気を貰えますものね。……では、そんなギードさんのお勧めかもしれないこちらのレストランに行ってみたいです!」

「うん。ではそうしよう」



二人はその後、一つ目の教会まで手を繋いで歩いてゆき、重厚な扉を開けて、歌劇を納めた建物の中に満ちる素晴らしい音楽を堪能する。

最初の教会の演目は、竜と王女というもので、ネアにも分りやすい王女に恋をした竜の悲恋の物語だ。

王女の結婚式を見送る竜の歌で最後となり、国を挙げての壮麗な結婚式の場面と物悲しい歌声に胸が熱くなる。


全体的に黄褐色の石造りの教会には黄金の内装が映え、凛々しい竜の青年が最後の歌を歌う、黄金の都と呼ばれる王女の祖国を模した造りになっているようだ。

そしてネアは、ディノが話していたこの街が都と呼ばれる由縁を、その教会の足元に発見した。



(………すごい!まるで足元が硝子張りになっているみたい………)



教会の周辺や、教会の中の床石は水晶のような透明な石材になっていた。

すとんと地下に落ちそうで怖いが、ディノ曰く、その石を透かして見える内部は空洞ではなく、みっしりとこの透明な結晶石が詰まっているので下に落ちたりはしないのだそうだ。


そしてその足下には、琥珀の中の虫のように結晶石の中に閉じ込められた素晴らしい都があった。



生き物の姿はないが、素晴らしい庭園や保存状態の良い貴族の屋敷のようなものなどはそのまま残っており、ネアはあまりの不思議さに小さく息を飲む。

見知らぬ世界を空の上から覗いているような感覚であるが、これは千年よりも昔に当時の標本の魔物の逆鱗に触れたこの都が、一晩で透明な結晶の中に飲み込まれてしまったという、遺跡の一部なのだそうだ。

こうして、地下に古き都を持つこの街を、人々はランテラの都と呼ぶのであった。




「素晴らしい舞台でしたね!最後の場面しか見ていないのに、ちょっぴり涙が出そうでした」

「ネアが王女じゃなくて良かった……」

「私も王女様にはなりたくないのです………。顔も知らない王様に嫁ぐのは悲しいですよね」


透明な地面を踏み、地下の遺跡の上を歩くのは不思議な気持ちだ。

その下が空洞ではないと知っていても少し不安になり、ネアは魔物の手をぎゅっと握る。


「この透明な部分と、普通の地面のところがあります」

「上に降り積もっていた土砂を掘って、この遺跡を露出させているようだね」

「こんな風になってしまった時に、生き物は巻き込まれなかったのですか?」

「標本の魔物を怒らせたのは、彼の保管庫を都の王が荒らした事件だったのだそうだ。財産を損なう行為には財産の封印をと、彼は都に住む者達全てに退避をするような報せを出した後、都を閉じ込めて結晶石で固めてしまった。巻き込まれた生き物はないと聞いているけれど、逃げなかった者もいるかもしれない」

「………むむぅ。地下を覗いて誰かがいたら怖いので、あまり覗き込み過ぎないようにしますね」



教会からは興奮気味に歌劇の感想を言い合う観光客達が出てくる。

それが形のある他者であれ、歌劇という楽しみであれ、何かを愛してその喜びに頬を高揚させる人々は美しい。

妖精たちは羽を煌めかせ、小さな精霊達は弾み回って喜びを表現している。



隣を歩く魔物を見上げてその横顔を盗み見ると、ネアは、長い睫毛も無防備で無垢な瞳の透明さも、見慣れた筈のその姿に胸の中がほこほこする。


やっと大事になったその宝物の尊さを噛みしめるのに、あんな円グラフの走り書きを欲しがるこの魔物程、鮮やかな愛しさはない。



“季節の頁をめくる度に君への思慕を深め、深まれば深まる程に、枯れ落ちるその日が近付いてくる”



それは、最初から手に入らないと分かっていた王女に恋を深めてゆく竜の歌。

愛することが出来る喜びは、その儚さを知ることの恐怖と表裏一体のもの。


しかし、その思いに翳らせてしまうその時間こそが、限られた大切な時間なのだ。



「ディノ。私は最近、ディノがとても大事過ぎて、私らしさを一つ失っていました」

「…………ネア?」

「ディノがしょんぼりするのが可哀想で、言い出せなくなっていたのです。しかし、はっとしました。折角ディノと一緒に過ごす時間なのですから、私が私を損なわせていてはいけませんね」

「何かを、我慢しているのかい?」

「はい。ですのでやはり、ユリウスさんが切り落とした髪の毛と、最近またブラシから集めている抜け毛は捨ててください」

「ご主人様…………」

「ふるふるしても駄目ですよ!ぞわりとするので、その行為は禁止した筈です」

「君の欠片を捨てるなんて出来ないよ」

「じゃあ、燃やしますか?」

「燃やす…………」



ネアは、すっかり涙目になってしまったディノにしっかりと三つ編みを持たされ、半眼になったまま更に二つの教会を回る。


そこで観たのは、夏の夜に繰り広げられる王家の夜逃げ劇と、高貴な魔物の嫁取りを巡り、泉の乙女達と森の精霊達が繰り広げる恋愛群像劇の二つだ。


ネアは夜逃げ指南をする駱駝の親分をすっかり気に入ってしまい、小さな駱駝のロゴの入ったケース入りの消しゴムを買って、その歌劇にお布施をした。




(美味しいサンドイッチを食べて、歌劇の街を歩いて………)



荘厳な教会建築と素晴らしい歌声に揺蕩う。

歌劇の情緒を殺さない美しい街並みに、しゃなりと暮れてゆく冬の陽。



耳の奥で、そして胸の中で殷々と響いている歌と音楽に心を浸し、二人は夜の最後を締め括るランテラの都で一番大きな教会にやって来た。



「ここは、瑠璃色の教会なのですね」

「イブメリアの夜に、雪の森で奇跡が起きるという歌劇だ。ウィームが舞台とされているけれど、作中のどこにもウィームという言葉は出てこないから違う土地なのかもしれないね」



それは、孤独な放蕩貴族の男性が、祝祭の前夜に気まぐれに教会に寄進をすることで始まる、奇跡が転がり落ちて大きくなってゆくハッピーエンドの歌劇だ。

華やかで荘厳で、そして幸せそうな街に悲しくなった男は、その夜に初めて奇跡を願う。

そしてたまたま、その夜の祭壇には祝祭を司る不思議な魔物がいたのだ。



(あれ、この魔物って………ディノに似てる………)



それは白く長い髪をした魔物で、男がその魔物に願ったのは家族になってくれる誰かであった。

そうして繋いだ縁が大きな流れになり、男はイブメリアの夜には一人ぼっちだったお屋敷で登場人物達と賑やかに過ごす。


彼も、彼の周りの者達も、もう一人ぼっちではなくなったのだ。



きらきら光る結晶石の飾り付けに、教会の天井から落ちる流星の輝き。

花火の魔術は音もなく上がり、花吹雪が降りそそぎ、まるで本当に祝祭の夜を見上げているかのよう。


幸せが美しく安らかなものだと、この歌劇は歌いその幕を閉じる。



「…………私はね、この歌劇はあまり好きではなかったんだ。途中までは良いものだと思うのだけれど、この最後の場面を観ていると、なぜだか憂鬱になるから」

「苦手な演目なのに、一緒に観てくれたのですか?」


驚いてそう尋ねたネアに、ディノはほろりと微笑んだ。



「きっともう、嫌いじゃないだろうなと思ったんだよ。……今日は、とても良い演目だと思った」

「私もきっと、前の場所に一人でいるときにこの舞台を見たら、舞台の上のあの方はあんな風に奇跡に恵まれたのに、どうして私は一人ぼっちなのだろうと、胸が潰れそうな思いがするでしょう。でもね、今はディノと出会ったことを考えて、とても素敵な歌劇だったと満足感でいっぱいなのです!」



ふっと、視界が翳る。


唇に触れた温度はどこか清廉で、どこか聖なる儀式にも似ている。

甘く、切実で、祈りのよう。


アンコールの手拍子の響く薄闇の中、ネア達の座席はボックス席なのでそんな喧騒の中の飛び地のような静けさに包まれていた。



「…………ああ、君がここにいる」



そう微笑んだ魔物は、ただ穏やかで幸福そうだった。

あまりにも幸せそうに微笑むので、ネアは隣の椅子に座ったまま、ひょいっと背筋を伸ばしてそんな魔物にもう一度口付けを落とす。



「…………ネア」

「大好きですよ、ディノ。ずっと、ずっと、これからも。私はディノが大好きですからね」



その言葉にこくりと頷き、ディノはよろりと体勢を崩した。




「ほゎ、ディノ………?」



ぴっとなってなぜか立ち上がりかけ、またよろりとする。

そのままぺたんと椅子に戻って座ってしまったディノは、目元を染めたまま無言でふるふるしているではないか。



「むむ。くしゃっとなりましたね」

「……………ネアが可愛い」



試しにネアは、今度は手を伸ばして魔物の頭を撫でてみた。

すると、びゃっとなった魔物はすっかり顔を覆ってしまい、じたばたとするではないか。

今日はそもそもディノが寂しかったら困るので仲良くする日なので、ネアはそんなディノをぎゅっと抱きしめてみた。



「胸が苦しい……」

「なぬ」

「ネアが可愛いことばかりする。……ずるい」

「ディノ、…………む。死んでしまいました」



胸を押さえたままぱたりと倒れてしまった魔物を見下ろし、ネアは、今夜の晩餐には行けるのだろうかと不安になる。

この様子では、復活してくれるまでに時間がかかりそうだ。

つんつんとつついてみると、微かに可愛いという声が聞こえてくる。



そして案の定、その夜の晩餐は近くにあったお店で簡単に済ませることになった。

魔物ははしゃぎ過ぎて弱ってしまったからだとすっかりしょげてしまったが、ネアは、予定外のことも思い出になるのだと教えてやり、素敵なお食事は翌日の昼食に回すことにした。

明日の仕事の為に一度リーエンベルクに戻る時間を省き、その足でグレイシアの捜索に入ることにすればいいのだ。




何事も、固め過ぎずに柔軟に対応するのが美味しい生活の要だと、ネアは思う。



その翌日なお昼、お休みを堪能してくれたのか、しっかり艶々の髪の毛ときらきらの瞳になったディノを見ながら、ネアは素敵な燻製ハムをぱくりと食べた。



胸の奥には、美しい歌声と物語が、幾つも幾つも響いていた。









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― 新着の感想 ―
今まで読んだ物語の中で一番のラブストーリーかもしれない。幸せで切なくめ泣いてしまいそう。
[良い点] ディノとネアのこの辺りのやりとりに胸が痛すぎて涙が出ます。静かに、とても静かに降り注ぐ愛情の欠片が、美しすぎて、幸せすぎて、たくさん数えきれないほどたくさん降り積もってほしいと願いたくなり…
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