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エヴァレイン




その男の噂は聞いたことがあった。

王の側近の一人の、美しい男。


頭が良く、誰にも優しく品行方正とされる。

けれども裏の顔は気まぐれで残忍で、エヴァはそんな彼の裏の顔を何度か見たことがあった。



『おや、こんな夜に一人では危ないよ』



そう微笑んだ彼の足元には壊したばかりの人間達が転がっていて、エヴァはその凄惨さに目を覆いたくなった。



『どうしてそんな殺し方をするの?あなたなら、もっと綺麗に殺せたでしょうに』


震える声を何度か絞り出しそう尋ねた。

単純に不思議だったのだ。


『さて、なぜかな』


そう微笑んだ目は優しかったが、エヴァはこの男は信用ならないと判断する。

今、この場で遭遇してしまったそれだけで、彼は微笑んだまま自分を排除してしまうのかもしれない。


『………それは、人間?…………いいえ、妖精だわ』

『そうだね。さて、そんなことよりもどこから来たのかを教えてくれるかい?夜の森は、君のような子供が来るところではないからね』

『あなたがこんな事をしているのを、みんなは知っているの?』

『知らないかもしれないな。でも、それでいいんだよ』

『あなたは優しいひとだと聞いていたのに』

『優しい人は、誰も殺さない?』



そう尋ねた瞳には、どこか年長者ぶった優しさと、その気紛れの一環の愉快さがあった。


エヴァは、逃げる余裕もなくその手に捕まえられ、抱き上げられながら澄んだ瞳を覗き込んだ。



美しい男だ。

その美しさは清廉そのものであるのだが、そこまでの清廉さなど誰も持たないので、その孤高さはやはり残酷でもある。


(だからなのかしら……?)


だからこそ、彼は決して優しいだけの男ではなく、こうした残忍さも持ち合わせているのかもしれない。



『君は、女官の一人かな?』

『悪い人には教えないわ』

『そうか。じゃあ、君に一つだけ餞別をあげよう。今夜のことを黙っていてくれたら、君が困った時に助けてあげよう』

『………一度だけ?』

『君が黙っていただけ』

『そう』



それは悪い話ではなかったので、エヴァは大人しく頷いておいた。

言葉で了承しないのは彼の魔術を警戒したからだが、そんなことは今時幼児でも分かることなので、彼も殊更に警戒する様子はなかった。




それは、初めて彼と話をした夜のこと。




勿論、エヴァはその時に見たことを誰にも言わなかったし、彼はその後もずっと感じのいい王の側近であり続けた。



『ウィーム王の魔術師は、人気者ね』



そう呟いたのは女官仲間だ。

地方伯爵の四女で、このウィームの王宮で侍女として働いていたが、彼女の家族は王を溺愛する人外者達の誰かの逆鱗に触れて滅ぼされた。


どうやらウィーム王に謀反を企て、その守護をする人外者達に滅ぼされたのだと噂をされているが、多分、実際に滅ぼしたのはあの魔術師なのだ。

けれども、彼女はそれを知ったところで、彼を恨みはしないだろう。


野心を抱き、隣国の貴族とも通じていた自分の家族を、彼女はほとほとに軽蔑していた。

この国の王をこよなく愛するエヴァは、そんな彼女の人となりを知り、この少女のことが好きになったのだった。



(それがなければ、私はあなたを………)



けれども今は、こうして一緒にお茶をしてお喋りをしている。

大好きな友達になったのだった。



『魔術師様が気に入ったの?』

『うーん、見ているぶんにはね。けれど、お近付きになりたくはないわ。やっと家から自由になったの。私はね、自分の力で自分を養うのが気に入ったわ。これからは、やっと好きな本を読んで好きな服が着れるのだもの。お偉い方となんて恋をしたくないの』

『じゃあ、プリムローズはどんな人と恋をするの?』

『中堅どころの騎士か、文官かしらね。あまり出世しないけれど、堅実に働く人が好きよ』

『ここで、商人とか農夫とは言わないのね?』


そう言えば、友人はくすりと笑う。

その微笑みがとても好きで、エヴァは彼女の話をよく聞いているのだ。



『言わないわ。私はね所詮貴族の娘。無理をしても生きていけない世界はあるの。そこで無理をすれば、お互いを不幸にしてしまうでしょ。だから、私は私の頑張れる場所で見合う人を探すわ』

『現実的だね』

『現実的なところに居て、後は自分に見合っただけの夢が見られるわ。そして私はね、ここで見られる夢が見たかった』


それはお給金を貯めて好きな本を買ったり、家の望む殿方を夫にする為だけの品の悪いドレスを無理やり着せられないことだ。

彼女は掃除が好きで、シーツを整えるのが好き。

そして、本と動きやすい服と、素朴な卵料理をこよなく愛している。



(私の友達………)



だからエヴァは、あの魔術師がしていたことを誰かに言ったりなんてしない。

エヴァはここを気に入っていて、やっと幸せになれた友人が好きだ。

上司も、ウィーム王も、この国の全てがとても気に入っている。




そんなある日、エヴァは森の窪地に仰向けになったまま遠い目をしていた。



『君はいつかこういう目に遭うと思った』



そうこちらを見下ろしているのは、あの男だ。

エヴァは縛られて転がされていて、その近くには彼が壊してしまった妖精がさらさらと塵になって崩れてゆくところだった。



『こういう目……?』

『俺が気に入ったのだから、いつか他の誰かも気に入るだろうということだね』



その言葉にエヴァは目を瞠る。



『………気に入られているとは思いませんでしたが』

『でなければ、用事が済んでもここに留まりはしない』

『………あなたは、ウィーム王の魔術師なんでしょう?』

『ああ。けれど、ここはもう安全だ。あの伯爵家が問題だっただけで、その膿さえ出してしまえば、長く続く国だ』

『………じゃあ、何でここにいるの?』

『君がいるからかもしれないな。言っただろう?気に入っている』

『………それはないと思うわ』



エヴァは、エヴァが気に入ったからと攫おうとした妖精に縛られた縄を解いて貰いながら、男を見上げた。

彼はいつも慈悲深く優しく微笑んでいるが、力と権力を持つ者がそれだけではないだろう。

したたかでもあるのは、あの夜を見ていればよく分かった。



『この国の王が好きではないの?王の片腕のくせに』

『君は、ウィーム王がとても好きだね』

『強い魔術を持って生まれ、孤独だけれど優しい人よ。私はただの女官だけれど、ウィーム王が幸せになるのを見届けたいの』

『大丈夫だろう。この国にはそんな王を気に入った人外者が多く居る。元より、潤沢な魔術と、人外者好みな美しさを持つ、良い土地でもあるからね』



エヴァを安全な場所に送り届ける為にと、美しいウィームの夜の森を歩く男を見ていた。

きらきらと揺れる髪に、よく光を集める瞳。

背が高く、外に出るときにはつばの広い帽子をかぶり、真っ黒なコートを着ている。


彼が黒以外の服を着ているのを、エヴァは見たことがなかった。



『どうして黒しか着ないの?』

『俺に興味を持ってくれたのかな?』

『別にどうでもいいけれど、喋らないと間が持たないので』

『………そうなんだね』



彼は少しだけ苦笑すると、親しげにエヴァの頭をぽんと叩く。

エヴァはその手をばしりと叩き落とした。

エヴァに手を払われた男は少しだけ驚いたような顔をし、エヴァはつんとそっぽを向いた。



『………何か気に障ったかな?』

『よく知らない人に、親しげにされたくないから』

『そう言えば、君は普段、ほとんど喋らないね。俺といると、いつもより話をしてくれる』

『あなたがお喋りなだけでしょう』



そしてこの夜、彼はエヴァを怒らせていた。

エヴァは一人で生きていけると自負していたし、この妖精と夏至祭で踊ってしまった迂闊さの責任は自分で取らなければならなかったのだ。

他の少女達が恋人と踊るのを見ていて、エヴァも誰かと踊ってみたかった。

天涯孤独な出自を持つエヴァの、小さな冒険だったのだ。



そしてその憧れが惨憺たる顛末となった時、エヴァはその悔しさと向き合う必要があったのに、彼はそれを台無しにしたのだ。




(守られるのは、好きじゃない)




それは委ねるという事で、であるならば、信頼の出来る相手に任せたい。

エヴァにとってのその男は、気紛れに関わってきただけの知らない男。



『どうして君は懐かないんだろうな』



そう微笑んだ彼には、既に何回も助けられていた。

若干彼に絡まれるようになったから降りかかる災いではないかと思うこともあり、エヴァは刷り込まれてゆく“彼は来る”という感覚と共に、その影響を厭わしく思っていた。



(どうして、あなたは私を助けるの?)



そこまであの秘密を隠したいのなら、エヴァごと消せばいいだけなのだ。

祝祭の日に連れ出したり、刺繍のあるハンカチを贈る必要はない。



(あなたは、忙しい筈なのに……)



彼は王のお世話係だ。

数多の信奉者を持つ王の、その中でも数少ない王の派閥の者と自他共に名乗れる存在。

その他の有象無象は、どれだけ名乗りたくとも名乗れないその肩書の筆頭の一人として、華やかな舞踏会では彼自身の信奉者以外の者達からも羨望の眼差しを浴びる。



エヴァもまた、その羨望の眼差しを注いだ一人だった。




その王がエヴァの王でもあり、ましてや彼を王として愛しているのならば、エヴァにだって王の力となりたいという欲求はある。

でも王は王だからこそ、エヴァなどには見向きもしないのだ。

彼は、王の視線が向き王がその名前を覚えて呼ぶ、片手の指程の正真正銘の王のお気に入りである。




『彼を知っているんだな』



ある日、そう声をかけてきたのは、昔からエヴァのことを気にかけてくれた知人だった。

エヴァよりもかなり年長で、父親のように何かと世話を焼いてくれる。

久し振りにウィームに来たそうで、その時に偶々彼といる所を目撃されたようだ。



『いいえ。本当はよく知らないのだと思う。何を考えているのかよく分からないもの』

『ウィームの王宮前広場で見かけた時、彼は随分と君に親しげだった。………エヴィー、あの男は穏やかなようだが、戦場で見ると目の色が違う。やはり、あの王の周りの者達と共にいるに相応しい、名前の通りの悪しき者だ』

『彼が嫌いなの?』

『得体が知れない。そもそも、我々程度の者達が関われるような相手でもあるまい。何か目的があるのかもしれないが、身分の高い者達の気紛れに翻弄されないよう』



そう忠告されると、自分以外にも彼の違う側面を知る者がいるのだなと、なぜか失望した。

どこかでいつの間にか、エヴァは彼の秘された一面は自分の管轄だと思い始めていたのかもしれない。

穏やかで慈悲深い彼の、本当の顔が見えているのは自分だけだと。



彼は来る。

いつだって、エヴァが苦境に立たされ、どうしようもなくなると。

それ以外の時は飄々としていてこちらを見もしないくせに、街中のカフェでうっかり見知らぬ精霊に相席された時に後ろの席に座っていたり、休日に隣の街に行った帰り道に魔物に追いかけられたりすると、いつの間にか正面に立っていたりする。



(どうして…………)



どうして。

だってそれは、彼の彼らしからぬ一面を知っているのは、エヴァだけではなかったというのに。




そう考えて辟易とし、とある舞踏会の夜に、エヴァは華やかな真紅のドレスを着て出かけて行った。



(彼は、私に気付くだろうか)



ウィームの王宮に勤めるしがない小娘女官が、この王侯貴族のそれにも劣らぬ豪奢なドレスを着た自分だと。



彼が自分の正体に気付けば終わる。

もしくは気付かないのだとしても、それはそれで終わりなのだ。

その時はきっと、エヴァが失望する。



がやがやと煩い舞踏会のホール。

見上げた天井は高く、花の香りと翻るドレスの美しさ。


エヴァのドレスは真紅で、赤い髪は無造作に結い上げている。

ウィーム王宮の仕事をしている時には、決してしない髪型だ。




視線の先には王がいた。

そしてやはり、王の隣にはいつも彼がいる。



その灰色の瞳がこちらを見て、哀れな王の信奉者の一人かと視線を滑らせかけ、そして、ゆっくりと戻された。




(ああ、終わる………)



彼は気付いた。

ゆっくりとこちらに歩いてくる彼を見据え、終わるものについて考える。


それは例えば、ある日突然送られてくる手紙であり、出かけた先でいつの間か隣を歩いている彼である。

穏やかに優しく微笑み、けれども本心の見えないその瞳。

なぜこの男は自分に構うのだろうと考える日々。




『…………君か』

『姿形も違うのに、あなたは分かるのね』

『そうだな。………なぜか分かった』



彼の口調はいつもとは少し違う。

それは当然なのだ。

彼もまた、自分を偽ってあの場所にいたのだから。



『君は、魔物だったんだな』



その言葉に滲むのは何だろう。

嫌悪か、失望か。

或いはもう既に無関心なのか。



『ええ。あなたがそうであるように』

『最初から、俺が魔物だと?』

『あなたの瞳は、とても有名だから。……もうこれで、女官をからかう遊びはお終いね。さようなら』



エヴァは、彼に対して敬語など使わなかった。


エヴァにとてひと柱の王としての自負はあり、それは例え遥かに高位の相手だとしても、魔物は己が認めた相手にしか膝を屈しない。

エヴァが誰かにそうするとしたら、それはやはり敬愛し一目でもそのお姿を見たいと思う、万象だけなのだ。


それでもやはり他の魔物達にも階位があり、自分より上の者を敬い膝を折る者も多い。

けれどもそうしない者もおり、エヴァはそうだったというだけのこと。



もう二度と、この男に付きまとわれることはない。



そう考えてふわりとドレスを翻して立ち去ろうとしたその時、手首を掴まれて立ち止まった。



『せっかくだ。踊ろう』

『…………あの方のお側にいなくていいの?』

『他の者がいる。それに、あの方とて愚かではない』

『魔物の方の私も見ておくの?』



エヴァがそう言えば、彼は少し苦笑したようだ。



『…………魔物同士ならば魔術侵食の不安もないのに、どうして君は懐かないんだろうな』



そう言われたその夜、エヴァは彼と五曲も踊った。



それでも彼はまだよく分からない男のままで、表層を知る者達が慈悲深いという穏やかな灰色の瞳は、無様に揺らぐことなどもないのだ。




しかし、そんな彼が最初にその取り繕った冷静さを崩したのは、彼の大事な主人のことでだった。



『あの方は、何も感じていないのでしょうけれど……』


それは万象についての会話だった。

万象が壊してしまったとある国についてを話していて、その一言を発した途端、彼の瞳がざわりと揺れたのだ。



『エヴァ、そういう事は二度と言わないでくれ。………それが例え君でも。それでも俺は、……その言葉だけは堪らない。…………あの方は己の心の生かし方を知らないだけで、それは日々、あの方の心をどれだけ殺しているだろう』



夢見るようだと言われる彼の瞳が、星空のような灰色の瞳がざわりと揺れた。

それは苦しみであり絶望もあり、いたわしさであり、愛であり、深い深い忠義でもあった。



だからこそ、その瞳を見たときにきっと、エヴァは恋に落ちたのだ。



もう随分と長く側にいた、よく分からなかった男の、本物の温度を知ったその瞬間であった。





「ところで君は、どうしてウィームの王宮で女官なんてしていたんだ?」


そう尋ねたグレアムに、エヴァはくすりと笑う。

彼の名前を呼ぶようになり、五年ほどが過ぎていた。


「ウィーム王が好きだったから。彼が私を望むなら、守護を与えて伴侶にしようと思っていた」



その答えにゆうは五分は黙り込んだ伴侶は、立ち上がって部屋の中をうろうろしてから戻ってくると、深い溜息を吐く。



「それがなぜ、少女の姿で女官に?」

「諦めたから。………彼は戦う事よりも、穏やかな国造りを願っていた。戦場で戦うよりも魔術の研鑽を積みたくて、………ともかくそれは、私の伴侶にはならないものだった」


その理解は心を抉った。

エヴァはウィーム王が好きだったのだ。

しかし、司るものの資質のそれは、エヴァの気質でもある。

己が己である為のそれを、魔物は決して変えられない。

だから失望を噛み締めながら擬態をし、彼がいずれは必ず触れる戦火のその中で、せめて彼を守ってやろうと考えていた。



「………ウィーム王を殺す羽目にならなくて良かった」



彼のそんな一面は、勿論、王や彼の友人達は承知の上だった。

そもそも彼は魔物だし、形のないものを司る魔物程に多様性に富む生き物はいない。

彼が犠牲の魔物であるということは、犠牲を受け入れるのも、犠牲を強いるのも、彼であるのだった。



『ああ見えて、時々一番過激なんだ………』


そう言うのはエヴァよりも後にグレアムと知り合い、彼の友人になった絶望を司るギードで、エヴァは彼が一番伴侶の友人達の中でまともだと思っている。


逆にとんでもないのが終焉の魔物で、エヴァからするとよく戦場で出会う系譜の上官でもあった。

一番しっかりとした年長者らしくしながら、ある意味、王と同じような不安定な魔物だ。




「あなたも、ウィーム王が好きだったのでしょう?」

「………ああ。彼の苦しみは、どこかシルハーンに似ていた。放っておけなかった」

「だから、今回も靴下に妙なことをしたの?」



そう言えば、グレアムは頭を抱えてしまった。

時折、天候不順などで飢饉が訪れると、あの豊かなウィームにも政治不安が蔓延する時がある。

グレアムはもう高齢になったあの王を守る為に、ウィームの国におかしな噂を流してきた。



それはなぜか、片側の靴下を両足に履くと幸せになるというもので、生活に疲弊した民衆はそんなまじないに容易く乗せられてしまった。

そんな最小限の不自由さを魔術対価の犠牲とし、グレアムはあの国の不作を少し助け、食料の流通の手助けをしてきたようだ。

しかし、効果があると分かり靴下のまじないが国中に広がったその後、ウィームには見捨てられた靴下の片側が巨大な祟りものとなって出現した。


この迂闊な伴侶は、その祟りものを、一介の魔術師のふりをして調伏して帰って来たところなのだ。


彼が魔術師として王に仕えた最後の年に、ウィームの森で交戦した誰かのせいで、傷付けられ激昂した森のひと区画が丸ごと祟りものになるという大きな事件があった。

その際にウィーム王に寄進した封印の部屋に、今回の靴下も収められるそうだ。



(あの部屋をウィーム王家に託した時、グレアムは彼等から手を引いた筈だったのに)



それは特別な空間だった。

手に負えないものを封じる為の空間であり、有事の際に彼等が避難する為の空間でもある。

それを渡し、光竜の傍流である竜の王女と婚姻を済ませたばかりの王に、自分が魔物であったことを告げ、グレアムは王宮魔術師としての役目を終えたのだった。



(それなのに、こうしてまた見ていられないで手を貸してしまうのだから、困った人だわ……)



それならば、あの王が死ぬ迄は側にいてやれば良かったのにと言えば、エヴァと彼の大事なシルハーンとに使う時間でもう手が一杯なのだと言う。

魔物のくせに手当たり次第ではない、自分の欲望の為に自分の願いを犠牲にするのもまた、彼らしさだった。



「シルハーンのことは、私に任せておいてもいいのよ?」

「………それは、遠慮しておく」

「そこだけは絶対に譲らないのね」



微笑んだエヴァに、グレアムはそそくさと逃げて行った。

その後ろ姿を見送ったエヴァは、小さく笑い声を上げる。



ただ一人で生まれ落ちる魔物の多くは、天涯孤独な生き物だ。

だからこそ魔物は伴侶を得ると、その後は決してその手を離さなくなる。


グレアムがエヴァを見付けたその時、彼は一目惚れだったらしい。

ギードとウィリアムにそう教えられ、エヴァはその日は一日中ご機嫌で伴侶を不審がらせた。



「だからいつか、あなたと私の大事なシルハーンにも、伴侶が出来るといいのだけど」




最近では、エヴァもシルハーン派と呼ばれるようになってきた。

王が自分を助けるもの、自分に近しいものとして認識してその名前を呼ぶようになって初めて、周囲の者達より受けるその称号に、エヴァは擽ったさと喜びに口元が緩んでしまう。



愛する者を愛することの出来る喜びに感謝しよう。



その喜びがいつか無残に壊れるのだとしても、それもまた世の常なのだ。




「でも、そんな心配はなさそうね」



またいつか手を貸したり愛したりするかもしれないが、エヴァは、最近はもう人間達に深く関わることを辞めてしまっている。

そうなると、関わる者達などせいぜい友人達くらいなので、予測しない悲劇や破綻のきっかけなどもなさそうだ。



(あ、でもウィーム王の孫娘が、グレアムの統括の国で子供を産んだのだった。あの孫娘はプリムローズの娘の中でも一番気に入っていたから、いつか見に行ってみようかしら)





その小さな子供をとても気に入り、エヴァがその一族に代々の守護を与え続けるようになるのは、そう思った日から十年後のことだった。







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