ユリウス
致命傷となる傷を受け、その呪いにかけられた時、不思議な昂揚感に包まれた。
もし、この深手が原因で海の底で死に絶えるとしても、そこはあの暗く狭い妖精の国ではない。
閉鎖的な城の中で、生まれた時から知っている者達と愛し合い憎み合いながら生きてゆくのではなく、ただ自由にこの広い外の世界で塵になれるのだろうか。
海は青く広かった。
どこまでも深いその青に染まり、妖精の国にはない色を知る。
こぽこぽと立ち昇ってゆく泡を見上げ、海の水に滲んだ深紅の帯を目で追う。
この青さに染まって、どこまでも深く。
「ミュイ」
そして目を覚ますと、そこには見たこともない庭園が広がっていた。
だだっ広い庭の中で、ユリウスは一人で震えている。
立ち上がって歩こうとしてぽてりと転がり、あまりにも不格好なその姿に気付いた。
(なんだこれは…………)
意識を失っている間に何があったのか、あれだけ酷かった傷はもう治ったようだ。
そして海に落とされた筈なのに、いつの間にかどこかの手入れされた庭園にいて、大きな薔薇の茂みを見上げて呆然としている。
(毛皮………)
ふわふわの薄い桃色の毛皮に、自分の頭も掻けないような短い手。
足もでっぷりとした体に隠れてしまっており、一歩進もうとしただけでひっくり返った。
自分はどうなってしまったのだろうと恐ろしくなったその時、一人の騎士が通りかかる。
その大きさを愕然としたまま見上げ、ユリウスは今の自分がどれだけ小さいのかをあらためて実感した。
「ミュ…………」
呪いにかかった身なのだ。
どうか助けてくれないか。
そう言おうとしても、言葉は出てこない。
それどころか、変身の呪いを解く為の条件を思い出してしまい、途方に暮れる。
こんな醜い体に成り果てた自分を愛し、命を懸けてくれるような誰かが現れる筈もない。
呪いが解ける可能性など、皆無に等しかった。
「可哀想に、はぐれたのかな。エアリエル、お願いしてもいいかい?」
その騎士の言葉に、ふわりと体が浮いた。
驚いたユリウスは手足をばたばたさせるが、自分の丸いお腹が邪魔になって下が見えない。
「ミュイ!ミュイ!!」
「ごめん、ごめん。怖いだろうけれど、しばらく我慢してくれな。確か向こうにも餅兎の子供達が居たから、お前ははぐれたんだな」
「ミュイ?!」
餅兎という生き物は知っている。
暴食を司る精霊で、毛皮の塊のような不格好な生き物だ。
妖精達はあの毛皮が欲しくて仕方ないのだが、殺したり捕食すると暴食の呪いがかかってしまうので、脆弱なくせにほとんどの生き物が手を出せない奇妙な精霊だった。
とは言え、時折魔術施設などの防壁に焼かれて死んでしまっていることもあり、そういう一律反応型の魔術防壁であれば呪いを受けることなく殺せると聞いた。
だがしかし、その場合は防壁に焼かれてしまうので毛皮は残らない。
姉である女王も、地上に出たときにはその毛皮が手に入らないのかと手を尽くしたのだとか。
そんなことを思い出している間に、ユリウスは同じように地面の上で震えていた餅兎の子供達の中に放り込まれてしまう。
「ミュッ!」
「ミュイ?」
「ミュー」
固まって震えていた子供達は、突然混ぜ込まれた知らない餅兎に驚いて顔を上げた。
見える範囲で判断するならユリウスよりも被毛の色が濃く、ユリウスよりは少しだけ大きい。
困惑して固まったまま、そんな餅兎の子供達を見返していると、その中の一匹が短い手を使う代わりに体でユリウスに体当たりしてきた。
「ミュイ?!」
驚いたユリウスは、他の餅兎達にぶつかり尻もちをつく。
するとそのユリウスの後ろ側を塞ぐように、先程の餅兎が位置を変えた。
見知らぬ個体の出現に怒っているのだろうかと途方に暮れていれば、なぜかぎゅうぎゅうと体を押されて真ん中に押し込まれた。
「そうか、お前は末っ子なんだな。一番小さい兄妹を真ん中に入れるなんて、餅兎は優しいなぁ」
騎士の言葉が聞こえて来てようやく理解する。
この餅兎達は、震えている見ず知らずの同族を真ん中の一番暖かな場所に押し込んだのだ。
自分達も震えているくせに、当たり前のようにそうした小さな生き物の行動に感心しつつ、その後、ユリウスは餅兎の習性のままに、周囲を窺うことも出来ぬ内にすとんと眠ってしまった。
(だが、あのような騎士がいるということと、管理された庭園の様子。ここはきっと、どこかの国の王宮なのだろう)
騎士は、ユリウスが見たこともないような魔術を使った。
風の魔術かとも思ったが、触れてみれば空気そのものを動かすような古く珍しい魔術の一端である。
なぜそんなことが分かったのだろうと考え、そういえば餅兎は精霊だったなと得心した。
エアリエルは、空気の精霊だった筈だ。
「ウィリアムさんほら、もちうさの赤ちゃんです!」
その翌日、声を潜めた囁きが聞こえ、ユリウスは仲間達の体の隙間からそちらを見てみる。
青みがかった灰色の髪の少女が、驚くべきことに白い髪を持つ魔物とこちらを見ていた。
「ちびまろ!」
「思ってたより随分と小さいんだな。………こんな庭の真ん中で大丈夫なのか?」
「ゼベルさん曰く、ちびまろ達は丈夫なのだそうですよ。でも、今度のお休みの日あたりから、ちびまろ館を作ろうかなと話していました」
「確かにネアの好きそうな生き物だな」
「ふふ。見て下さい、あの真ん中の薄ピンク色の子を。私の親指くらいの大きさしかありません。愛くるしいの極みですね!」
こちらを見ているのは人間なので、ここは人間の居住区なのかもしれない。
だが、昨日のエアリエルを使える騎士といい、今日の高位の魔物といい、かなり特殊な土地である可能性が高い。
そのような土地があっただろうかと考え、そういえばヴェルクレアという国があったなと思い至る。
その中の一つの領地に、かなり魔術の潤沢な土地があり、従僕のリクソンが訪問するのを楽しみにしていたのを思い出した。
『ユリウス様と僕は、今回こそ伴侶を見付けなくてはですね!』
くるくる巻いた黒髪の従僕は、気はいいが戦闘には長けず、魔術も弱い。
だがユリウスは、幼い頃からずっと、彼を自分の傍仕えから外したことは一度もなかった。
気難しく残虐だと言われるユリウスの周囲には、従僕達も騎士達も、古くから仕えた顔馴染みの者ばかりだ。
そんなリクソンは、ソロメオの策略に落ち、ユリウスを暗殺せんとする特務隊の騎士の憑代とされた。
本来、妖精が妖精に宿ることほど禁忌とされることはない。
けれどもそのおぞましい悪手を使い、ソロメオはユリウスを傀儡にせんとしたのだ。
自由を好むユリウスの指示により、ユリウスとその騎士達の行進は、各々が行きたい国に自由に狩りに出かけるという方式を取った。
前回、姉である女王と一緒に地上に出た際に何かと周囲の者達に合わせる煩わしさに辟易としたので、二度目の今回は、自由に回ろうではないかとなったのだ。
近衛達の中には後から地上に出るソロメオの動きを懸念し、離れることを渋る者もいたが、最終的にはユリウスの技量ならば危険はないだろうと納得し、地上の国々に散らばっていった。
そうして、ユリウスは、リクソンとイドの三人であちこちを周ることにした。
幼馴染のリクソンより、イドは少し年下の従僕だ。
だがイドは自分の方が二人よりも落ち着いていると大真面目に宣言し、手のかかる二人の面倒を見ているのは自分だと言い張った。
『ユリウス様の好みが煩い………』
『おい………』
『リクソン、あまり言うとまた不機嫌になるので、控えめに』
『さっきいた魔物なんて綺麗だったのになぁ。僕は捕まえられないけれど、ユリウスなら捕まえられたと思うんだ』
『それは、お前の好みだろう』
『あの子で心が傾かないんじゃ、ユリウスはもう老婆でいいよ、老婆で』
『リクソン!』
『イドだって、そう思ってるくせに!』
イド達は何人かの人間や魔物を本国に送っていたが、ユリウスは、自由に外の世界を楽しむ時間を大事にしたかった。
伴侶は興味を惹く女がいたらでいいぐらいにしか思っていなかったのだ。
そんな折り、一人の騎士と偶然出会ったのだ。
『正直、ソロメオ様は扱い難い方でして………』
港町で出会った騎士は、イドの従兄弟にあたる青年なのだそうだ。
王子の我が儘に辟易し、用事を済ませるふりをして本隊を離れたそうで、偶然出会ったユリウス達に、いつかこちらの騎士団に異動出来ないだろうかと相談を持ちかけてきたのである。
そう愚痴る騎士と飲み交わしたあの夜、彼が注いだ酒を飲んだリクソンは体の内側に穴を開けられる魔術が忍ばされ、翌朝までにはもう、ソロメオ派の騎士の入れ物となっていた。
偶然にも前の晩に深酒をしたイドは、親族がしつこく勧める酒を飲んだふりだけしており、難を逃れていた。
手を伸ばし、妖精の国への扉を開く。
そこに押し込めば、従僕は目を瞠って首を振った。
『ユリウス様?!』
『いいか、イド。俺は必ず国に戻る。それまで絶対に隙を見せるな。他の者達を統制し、お前が指揮を執るんだぞ』
なぜあの時、ユリウス達は三人だけでいたのか。
それが気楽であったし、リクソンはからっきしであっても、ユリウスとイドがいれば危険などはないように思えた。
けれどもその結果は惨憺たるもので、中身を食われたリクソンに急襲され、深手を負ったユリウスは、イド一人を妖精の国に送り返すのが精いっぱいで。
リクソンの皮を被った騎士の首を刎ねたのは、ユリウスだった。
逃げずに相対することで、呪いを避けられなくなるのだとしても、幼い頃から兄弟のように育ったリクソンをそのままにしておける筈もない。
どうせもう、自分は助からない。
自分亡き後、ソロメオ派の騎士がその皮を被ったままリクソンの名を貶めることだけは、させてはならなかった。
(すまない、イド。帰れなくなってしまった………)
あの、青い青い海の夢を何度見ただろう。
その度にらしくない後悔に付き纏われる。
自分の生き方は、自分だけのものだとばかり思っていた。
自由さも残忍さもそれは資質の一つでしかなく、守るべきものは守ってきているつもりでいたのだ。
それなのに、ユリウスは最も大事なものの一つを、自らの軽率さで失ってしまった。
あんな若輩者の王子など。
そして特務隊の手練れ達であれ、この足元にも及ぶまいと緩んだその驕りが故に。
また同じ青に溺れ、ゆらゆらと光の差す水面を見上げる。
もしかしたら今迄の光景は、海の底に沈むまでの一瞬に見た、おかしな夢だったのだろうか。
けれども横を見ると、いつも体の小さな自分に餌を譲ってくれていた餅兎の子供が、溺れてもがいているのが見えた。
(夢ではない…………?)
目を瞬いて何が起きたのだろうと、混乱する思考を必死に手繰り寄せる。
昨日はまたあの少女が来て、自分達が積み重なって日向ぼっこをしている姿を楽しそうに眺めていた。
餅兎は基本何でも食べるが、あの少女が時々持ってくるクッキーは身震いする程に甘い味がする。
今日はそれがないのだろうかと残念に思いながら、陽光に当って体を温める為に積み上げた体を入れ替えた。
(…………覚えているのはそこまでだ)
一度積み上がると、体の入れ替えをする為には崩れ落ちる必要がある。
なので夜でも暖かいこの時期は、死力を尽くして積み上がった後は二日程そのままで過ごす。
その後一度崩れ落ち、また順番を変えて積み上がるのだ。
なので積み替えを行ったばかりの昨日は、疲れ果てて深い眠りについていた。
そうして今、深い水に沈みながら、みんなで必死にもがいている。
いつも自分を守ろうとしてくれる二番目に大きな子供も、寝てばかりだが鳥などが来るとさっと自分を隠してくれる一番大きな子供も、食べ物の取り合いをするが、寝る時にはくっついて眠る自分より少しだけ大きい子供も。
(どうにかして、水面に顔を出さなければ………)
もがいてももがいても、短い手足ではさしたる浮力を得ることには繋がらない。
また一つごぼりと空気の泡を吐き、ユリウスの体はいっそう深く沈む。
今度こそ沈んでしまうのだろうかと思ったその時、水面から差し込まれた手にユリウス達は掬い上げられた。
「モキュフ」
ずぶ濡れになったままぜいぜいと息をしていると、今度はあたたかなタオルのようなものにくるまれる。
その隙間からざあざあと激しく地面に打ち付ける雨が見え、急な嵐のような大雨で地面に大きな水溜りが出来たのだとわかった。
眠っている間に積み重なりが崩れたものか、或いはその場所そのものが水没したのか、水溜まりに落ちてしまい溺れたのだった。
「餅兎の子供は丈夫ですが、ネア様が心配するでしょうからね」
そう呟くのは誰だろう。
あたたかなタオルにくるまれ、ユリウスは不思議な幸福感にうつらうつらする。
濡れた体は気持ち悪かったが、すぐに魔術で乾かされた。
タオルの中で仲間達と寄り添っていると、こんな優しいぬくもりが、遠い昔にはいつも傍にあったような悲しみに襲われる。
キュウキュウと泣く仲間達の声を聞きながら、もっと確かなぬくもりにしがみついて眠りたいと不思議な切望に襲われ、震えながら鳴き悶える。
やがてユリウス達は、水溜りから救い上げてくれた誰かの手から、あのネアと言う名前の少女に手渡されたようだった。
「ミュイ!」
「ミュ?」
「ミュミュミュイ!!!」
最初にその存在に気付いたのは、誰だったのだろう。
三匹の内の誰かが、嵐の間の避難先になるらしいネアの部屋に、何かを見付けて声を上げる。
書き物机の上に簡易の寝床を作って貰い、安心して嵐が怖かったと鳴き交わしていた時のことで、ユリウスもはっとして顔を上げる。
鳴き止んでいっせいに立ち上がってそちらを見れば、そこには先程まで必死に探していたぬくもりを与えてくれそうな、ふかふかの毛皮の塊があった。
よくわからない衝動に駆られ、その塊に飛びつきたくなる。
精一杯背伸びしたが短い手足が届かないことが悲しくなり、必死にこっちに来て欲しいと声を上げて鳴いた。
「あら、目ざといですね」
ネアが微笑むようにそう言い、窓辺の棚の上にいたその毛皮の生き物をこちらに連れてきてくれる。
すぐ隣に置いて貰った途端、ユリウス達は転がるように走り出し、そのお腹にとびついた。
ふかふかの毛皮に包まれ、心の端が溶け出すようなえもいわれぬ幸福感にうっとりと酔いしれる。
短い手でしっかり掴まると、あまりの安堵にすぐに眠り込んでしまった。
後にも先にも、ユリウスがあれだけ幸せな眠りを享受したのは、その夜だけだ。
夏が暮れてゆく。
その後も、あの夜に抱いて眠ってくれた白い生き物を見かけることがあった。
この、リーエンベルクと呼ばれる領主館を時折訪れているようで、よく見れば全く違う種族であるし、疲労困憊し動揺していたあの夜に思ったよりも随分と大きい。
姿の大きさを自在に変えられるような高位の魔獣なのだろうかと思いながらも、また優しくしてくれるだろうかと手を振る兄妹もいる。
(兄妹……………)
その頃になれば、一緒に暮らす餅兎達はいつの間にか兄妹のような存在になっていた。
いつもユリウスを守ってくれる二番目に大きな子供は雌だったようで、成長が進むとユリウスよりも少し大きいだけになってくる。
雄である他の二匹は随分と大きくなり、ユリウスは三匹の中で一番小さい。
ゼベルという騎士が手作りの小さな家を作ってくれ、餅兎達はその中で苦労なく幸福な毎日を送っていた。
この家の噂を聞きつけてきたのか、他の種族の生き物達も押しかけてきてしまったが、決して悪くはない日々だ。
コグリスやココグリスは少し獰猛だが、この家が餅兎達の家であることを理解しているので、ユリウス達はひどく大事にされた。
ネアというあの少女が餅兎の為に焼き菓子を持ってくるのも知っていて、餅兎がいることで様々な恩恵に与れているのだと感謝してくれているらしい。
外に出た彼等が美味しい木の実を持ち帰ってきてくれたり、大きな向日葵や緑の麦畑の話をする。
その頃にはもう、餅兎の言葉も小さな毛皮の生き物達の言葉も分るようになっており、ユリウスは、ただ穏やかなばかりの彼等の話を好んで聞いていた。
(イドは、どうしているだろうか………)
もう本来の自分には戻りようがないと思えば胸は酷く痛んだが、残された者達への悔恨の情はだいぶ薄らいだ。
こんな姿で戻っても言葉を話せる訳でもなく、彼等を守ってやれる訳でもない。
そして何より、何の起伏もない穏やかな生活で、ユリウスは徐々に違う生き物の心を得つつあった。
(穏やかだ…………)
その穏やかさは、ただ美しく優しい世界を眺め、気楽に過ごすばかりの日々のもの。
そこにずっと、揺蕩っていたい。
やがて季節が秋になりゆけば、兄妹の一匹がこんなことを言い出した。
渡りをしなくてもいいと思う。
そう言うのだ。
自分達には家があるし、そもそも渡りというものがどういうものなのか未知である。
よく分らないが風に乗ってどこかに行くようで、そんなよく分らないものに従う必要はないようだと言うのだ。
渡りとは何だろうと尋ねたコグリスが、自分もよく分らないままに毎年渡りをしていたと答え、しなくてもいいのではということが分かったのだとか。
(確かにここには家があるし、兄妹たちの寝床も決まっている。ネアがよくクッキーをくれるし、他にも、ゼベルやグラストやエーダリアと、食べ物をくれる人々がいくらでもいる。おまけにこのような居住区の庭園は、魔術で絶えず咲き誇ることを俺は知っている……)
それなら、もし人間達が餌やりを忘れてもどうにか凌げそうだ。
危ないことなどせずにここに暮らし、一緒に木の葉の話や天気の話をしていよう。
ずっと。
ずっとここで、穏やかに。
幸福に。
「ミュィッッ!!!」
悲鳴のような声にユリウスが飛び上がったのは、秋も深まりかけたとある日のことだった。
ユリウスは妹だと思っているが、本人は姉だと譲らない一匹が、渾身の力でユリウスを家の小さな裏口から外に突き落とした。
ここは時折小屋の床を掃除するときにだけ開ける、特殊な内開きの排出口だ。
大きさ的には通り抜けられる筈もないのだが、柔らかい体を持つ餅兎は、力いっぱい押し込まれるとにゅるりと通り抜けることが出来る。
押し出されたユリウスは地面を弾んで転がり、秋の花を咲かせている茂みに紛れて隠れる。
ゆらゆらと風に揺れる茂った葉の隙間から、ユリウスは目を丸くしてその一部始終を見守った。
鳴き叫ぶ兄妹達を、あの白い獣が鋭い歯のある口に咥えている。
ぞっとして追いかけようとしているのに、震えて強張った足が動かなかった。
悲鳴が遠ざかってゆく。
もう目で捉えることは出来ないどこかで、ぞっとするような悲鳴や物音が続き、一際大きな悲鳴が風に紛れれば、遠くで人の話すような声が聞こえ、辺りは途端に静かになる。
凍りついたままのユリウスが花壇の中で固まっていると、先程の白い獣が何食わぬ顔で戻ってくると、滑らかな擬態の解除魔術を踏み、白い髪を持つ魔物の姿になった。
「ったく。うんざりだ。だがこれで、あいつに妙な生き物の話ばかりされずにすむな。いなくなってせいせいした」
誰ともなくそんなことを呟き、唇の端を持ち上げる。
満足げに空っぽになった小屋を眺めてその屋根を片手で二回ほど叩くと、踵を返しその場から立ち去った。
ユリウスはその夜、声を上げて鳴きながら兄妹達を探し回った。
成長して飛べるようになったので、ぶんぶんと周囲を飛び回り、リーエンベルクの外も探した。
餅兎は害獣ではない筈なのだが、魔物達の感覚ではそうなのだろうか。
しかし、数日間兄妹達の痕跡を探して彷徨っていても、リーエンベルクでは不在にしている自分達を探すような気配もない。
あの白い獣姿を取る魔物に見付からないように身を潜めていたユリウスは、その様子からこれは計画されたことだったのだと納得するしかなかった。
風が冷たくなってくる。
あの時、その体で自分を遮って隠し、後ろから逃がしてくれた妹の潰れたような悲鳴が、耳の奥にこびりついて離れない。
ぽたりと毀れた涙が手の甲に落ち、はっとした。
「……………呪いが解けた」
久し振りに聞く自分の声に、なぜ今更なのだと頭を掻き毟った。
生まれて初めて知るような穏やかさを与えてくれた者達は、ユリウスが無力な餅兎のままである内に殺されてしまった。
あんな魔物に悪戯に噛み殺され、どれだけ恐ろしく苦しかったことだろう。
そしてその愛情で、ユリウスの呪いを解いて逝ってしまった。
「また守れなかったのか……………」
一人で呟き、項垂れて佇むウィームの夜の街は美しかった。
あれだけ心が躍った森からの風の香りも、妖精の体ではもうわからない。
それはただの風の香りでしかなく、いい香りだと喜んで鳴く兄妹達はもういないのだ。
失望したまま一度妖精の国に戻って仲間達と再会したユリウスは、泣きはらした目のイドに抱き締められた。
しかし、どこかで報復の隙はないかとソロメオの一派の行程表の写しを見ていたところ、そこに思わぬ表記を見付けて愕然とする。
「…………ネアを、花嫁にするつもりなのか」
まだ体が本調子ではないと取り縋るイドを宥め、彼女は恩人なのだと説得して慌てて地上に戻った。
既にウィームには先遣隊が到着しており、騎士達はもうリーエンベルクに入り込む為の道を作ったと話している。
次は、オルという騎士に乗り換えればいいだけで、その騎士に繋ぐ獲物は手に入れたのだとか。
そんな中、ユリウスは慌ててネアの姿を探した。
自分達の処分がどう決定されたにしろ、あんな風に無邪気に餌付けていた幼いネアは、そのことを知らなかったに違いない。
ユリウスだけでなく、兄妹達も守ってくれた彼女を、ソロメオの餌食にはしたくなかった。
それなのにやっと見付けたネアは、兄妹達を噛み殺した魔物の腕の中にいたのだ。
よく彼女と一緒にいた魔物もそこにいて、三人は親密そうな様子であった。
その光景を見てしまった夜のその時、ユリウスはネアを妖精の国に連れ去ってしまおうと思ったのだ。
それは、兄妹達を殺した魔物への復讐だったのだろうか。
それとも、あの安らかな日々の何かを取り戻そうと思ったのだろうか。
全てが終わった後、姉である女王にネアを愛していたのかと問われ、自分と向き合えば愛ではなかった。
彼女への失望や憎しみと同じくらい、どこかに期待や執着がなかったとは言うまい。
でもそんな試みも、あっけなく潰えてしまった。
「ユリウス様、霧雨のシーが何かを届けに来たようですよ?」
そうイドに呼ばれ、ユリウスは自堕落に寝そべっていた長椅子から立ち上がる。
あの事件が終結してからしばらくが経っており、噛み千切られた内羽はどうにか修復されつつあった。
とは言え、長らく羽に溜め込んだ魔術が失われたのは確かで、ユリウスは少しばかりその力を落した。
(イドは、これで一人で無茶をしなくなったと言うが………)
幸いにもソロメオの階位落ちはその比ではなく、昨晩、真夜中の城を隠れるようにして歩いている姿を見かけたユリウスは、とんでもない模様にされた羽を見て笑いを抑えるのにひどく苦労したものだ。
あんな姿にしてくれたネアに、感謝したいくらいであった。
リクソンがその姿を見たら、きっと腹を抱えて笑っただろう。
王子派の特務隊もほとんど壊滅状態に近く、一族は新しく組織を再編し、大きく派閥を分けて争い競うようなことはなくなりつつある。
争うだけの余裕のある抜きんでた者達が失われた結果、古き時代のような大きな血族の輪としての繋がりが蘇りつつあり、これはこれで良い変化ではないかとイドはほっとしたようにしていた。
暗い廊下を歩く。
ずっと変わらない、地下にある妖精の国。
ここにはいい香りのする森はなく、広い海も存在しない。
「………今回の一件で、霧雨の一族には弱味を握られたからな。どうせ、ろくでもないものだろうな」
ぼやきながら先導するイドと歩いたその道中、ユリウスはふと、イドの羽が淡く光っていることに気付く。
妖精の羽が光るのには怒りと悦びの二つの理由しかないが、この光り方は喜んでいる時だ。
(………霧雨からの申し出で、イドが喜ぶようなことがあったのか?)
疑問を覚え、ユリウスは首を傾げる。
やがて、外客を通す為の簡素な部屋に入ると、霧雨の妖精の騎士だという青年が、丁寧に頭を下げた。
しかし、唇の端は奇妙にも微笑みの形を象っており、布をかけた大きな篭を持っている。
「ユリウス様にもご説明いただけますか?」
「ええ、勿論。………地上からの預かりものでして、やっと見付かったようですよ。言葉の通じる者が事情を説明したところ、弟が寂しくしていると可哀想なので、一緒に生活することにするとのことでした。それから、本当は偉い妖精だったのなら、週に一度はクッキーが食べたいそうですので、それはお任せします」
その言葉は、一瞬理解出来なかった。
「……………クッキー?」
「ええ。あとは、……そうそう、我々の一族の城に来た後に妹が話したことによると、季節風で南国の方に運ばれていたようですが、何でも食べてしまう鳥が近くに来て怖かったそうです」
「季節風……………」
奮える手で、そっと籠にかけられた布をめくった。
「ミュイ!!!」
「ミュウ」
「ミュウイッ!」
その籠の中で立ち上がってこちらを見上げていたのは、三匹の餅兎だった。
すっかり大きくなり、ユリウスの手のひらくらいになっている。
その中の一匹がふわりと飛んで来ると、ユリウスの頬に柔らかな体を擦り付けた。
「………………生きて」
よく分らないが目の奥が熱くなり、それ以上は何も言えなかった。
頬に触れている柔らかな体を抱き締め、声もなく床に蹲る。
「ミュイ!」
他の餅兎達も集まり、ユリウスの肩や頭の上に乗るのがわかる。
すっかり小さくなってしまったその重みを感じ、ユリウスは震える吐息を飲み込んだ。
「…………本当に、ただ無理やり季節風に乗せられて渡りをさせられただけだったのか………」
そう呟けば、兄妹達は少し気恥ずかしそうにもぞもぞした。
勘違いして大騒ぎしていたことが、どうやら恥ずかしいようだ。
「気候の良い春や夏は、この者達を連れて地上に出る事も出来ます。冬はこちらにずっといれば宜しいでしょう。………良かったですね、ユリウス様」
そう微笑んだイドに、ユリウスは肩に乗った妹を撫でた。
しっとりとした手触りは素晴らしく、心がほどけてゆくようだ。
妹だけ狡いと、兄と弟にも顔にぶつかって来られ、ユリウスは小さく笑い声を上げる。
その後、兄妹達と一緒にいるユリウスを女達は露骨なほどに持て囃すようになったが、そのほとんどが、餅兎の毛皮に触れたいからだった。
姉ですら、用もないのに日に何度も訪ねてくるようになる始末だ。
相変わらず、闇の妖精の国は妖精の国の最奥にある。
海はなく空も低く、ここから完全に離れて生きてゆくことは出来ない。
けれども、同じ寝台の上で眠る兄妹達がいる限り、ユリウスはいつでもあの青い色を思い出し、ふくよかな森の香りを感じることが出来た。
ただ一つ、困ったことがあるとすれば、餅兎の祝福で大食漢になってしまったことだろう。
魔術を沢山使えば太りはしないので、ユリウスは週に一度、こっそりと大きな魔術を切り出し、地上に兄妹達の為のクッキーを買いに出ている。