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199. お断りしようと思います(本編)



ネアは、意を決してその返答を声にした。



「いらないものはいらないのです。あなたが優しい言葉や素敵な愛ではなく、押し付けがましい残酷さでそれを望むのですから、私も率直にお答えします。私にとって、あなたはいらないもの。人間はとても高慢な生き物なので、大事なものを優先する為には、きっぱりとそうお断り出来ます」


「……………そうか。であれば、早々にお前は俺のものにしてしまおう。人間であるお前が保てる正気など、ほんの束の間のこと」


そこで、ふっとユリウスは微笑んだ。

闇の妖精らしい凄艶で残忍な微笑みは、確かに誰かが言うようにどこか狂っているのかもしれない。

しかし、確かに美しくもあった。



「俺を軽蔑してみるか?」

「いいえ、これはあなた方の種族のお作法なのですから、軽蔑しても仕方ないでしょう。もちうさの求愛が、よく噛んだ食べ物をお団子にして差し出すのと同じことです」

「…………それは、異種族の獣の習性だろう」

「あら、異なる種族という線引きではどれも同じですよ。現に、ここまで常識やお作法が違うのですから、さして変わりありません」

「やれやれ、俺の花嫁はとんでもない女になりそうだな」



そう嗤ったユリウスの姿が、ふいに霞んで見えた。

くらりとした頭に手を当て、ネアは目を瞬く。

いつの間にか濃密な香りが辺りに立ちこめており、その噎せ返るような甘さにまた意識が揺れる。



「…………っ、」


酩酊にも似た何か。



けれどもそれは、背筋を這い上るようなぞくぞくとした欲望にも思えた。

必死に立て直す意識を手放してしまえば、きっと楽になれるだろう。

そう考えかけてしまい、ネアは愕然とする。



「………そろそろ、辛そうだな。俺が手助けをしてやろう」

「…………っ、そんなことは、………したくありません」

「そうか?…………本当に?」


頬に触れる指先の温度にぎゅっと目を瞑りたくなり、ネアは首を振った。

その隙に首裏に手を回され、吐息が触れる程の距離で嗤う妖精を見上げる。



(…………南洋のような目の色、)



鮮やかなパライバブルーの瞳が、闇の中で光の尾を引いて怪しく煌めく。

ぺろりと唇を舐めたその仕草に、またどうしようもなく、本能的な欲求が疼いた。



「…………っ、…………ぁ」



何とかその衝動を堪えようと唇を噛んだネアに、ユリウスはその耳元に唇を寄せて甘く囁いた。



「悦びに身を任せてしまえ。妖精の花嫁程に、快楽と縁深いものはあるまい」



(どうしよう、……………もう!)



ネアの瞳がその欲求に屈したのを、きっと彼は覗き込んで見ただろう。

残忍に歪んだ唇の微笑みは、堪えきれずそちらに手を伸ばしたネアを嘲笑う。



「そうだ。俺の手を取れば……………」



しかし次の瞬間、ユリウスが言葉を失ったのは、望み通りに陥落させた人間が、思いもよらない奇行に転じたからだろう。



「はむ」


確かに妖精の内羽に触れることには親密過ぎる意味があるが、いきなりぱくりと口に入れられるとは思ってもいなかったのだ。



「…………そ、そうか。お前の嗜好は羽からなのか」


そして、気を取り直して呼吸を整えようとしたところで、ユリウスを襲ったのは本物の恐怖だった。




ぎゃーと物凄い悲鳴が聞こえ、慌てて王弟の入った寝所に飛び込んだ王弟派の騎士達が見たものは、恐ろしい人間にばりんと羽を食い千切られたユリウスの姿だった。


シーである妖精にとって、内羽は酷く敏感な部位にあたる。

よりにもよって、獰猛な人間はその内羽を齧ってしまったのだ。



「ユリウス様?!」



動転する騎士達の目の前で、羽の付け根を押さえて悶絶するユリウスには見向きもせず、美味しい妖精の粉をしゃぶり尽くした人間はもごもごさせていた口から残骸となった羽をぺっと吐き捨てる。


「美味しさはイマイチですが、質より量の気分です。次の羽を寄越すのだ!」


とろんとした目でそう宣言され、ユリウスは慌てて部屋の隅に逃げていった。

蹲って身を隠す王弟を守ろうと、慌てて騎士達がネアに襲いかかる。


「むが!こなこなしていません!おのれ役立たずめ!!」


槍を構えて突入した最初の騎士は、なぜ人間がこんな有様になったのか困惑するあまりに攻撃が遅れ、すぐさま脛を蹴り飛ばされて動かなくなる。

動かなくなった騎士を踏みつけ、光っておらず粉を落とさない羽を検分している人間に、他の騎士達は震え上がった。

恐ろしいことに、その人間は虚ろな目で口元をもぐもぐさせ、さもこれから大虐殺を始めるぞと言わんばかりに腕捲りをしているのだ。


「このお城にいる妖精さんの全ての羽を狩りつくすのみ!」

「た、祟りものだ!これは人間の祟りものに違いない!」

「………そ、そうか。さては、生きている人間のふりをしていたのだな!」

「く、くそ!もう二度と、ユリウス様を傷付けられてなるものか!!」



彼等なりの見解を述べ、己の心を納得させてからもう一度武器を構えているが、その隙に残虐な人間はとんでもない武器を構えていた。



「むぐ。美味しくない妖精さんなど、踏むまでもありません。辛くなって滅びれば良いのです!」



ネアのその宣言の後、室内には耳を覆いたくなるような悲鳴が響き渡った。

最初の騎士が目に香辛料油の直撃を受けたからなのだが、目から真っ赤な液体を流して悶絶する同胞に、他の騎士達は目を潰されたのだと思ったらしい。


「だ、誰か………」

「目が…………目がっ、………」

「喉が、喉が焼けるようだ………」


ネアの手元がおぼつかないせいで、雑に顔周辺に激辛香辛料油をかけられてしまった騎士達は床の上で瀕死の声を上げてのた打ち回った。

複数名でもがいているので、せっかく自分の顔を袖で拭っても、また暴れる誰かの油が顔に降りかかってしまうのだ。


美味しくない妖精は滅ぼしてしまった人間は、そんな憐れな騎士達に更なる受難が待ち受けていることを知らなかった。



「むむ!」


こつこつと床の鳴る音に複数名の者達がこの部屋へ近付いていることを察し、ネアは慌てて一人掛け用の大きな椅子の影に隠れた。

若干酩酊していても、場合によっては美味しい妖精の粉が食べられるかも知れないと思うと、野生の獣のような俊敏な行動が容易く可能になる。



カチャリと、扉が開いた。



誰かの息を飲むような音と、また違う誰かの呻き声。

随分な人数がいるようだぞと思い、ネアは少しだけ朦朧としていた酩酊感が抜ける。

こうなったらもう全員殺すしかないのだが、こんな風に入り組んだお城の中から、果たして無事に逃げ出せるのだろうか。



「……………ネア?」



そして響いた困惑したような呼びかけに、祟りものと呼ばれた人間はぴょこんと椅子の後ろから顔を出す。



「ディノ?」



頼もしい大事な魔物の姿を見付け、ネアはとろんとした目のままぴょんと弾む。

美味しい妖精の粉が最優先かと思われたが、大事な魔物の大事さの方が上回った。

ディノは足早に倒れた騎士達の横を抜けると、すぐにネアを確保しに来てくれた。



「ディノです!また会えましたね」

「ネア、…………何か術式が敷かれているね」


柔らかな唇が頬に触れ、ネアは目をぱちぱちする。

視界や思考が突然晴れ渡り、もやもやしていた欲求のようなものが綺麗になくなった。


「ほわ!妖精さんが食べたくなくなりました!」

「魔術の形式が分れば、解除は出来るからね。…………食べる?」

「はい。妖精の粉がお腹いっぱい食べたくて、こなこなしていない妖精さんは皆殺しにしてやる所存だったのですが、すっかり穏やかで安らかな私に戻ったのです」

「…………そうか、君は………」


何か得心したようにディノは目を瞠り、ふるふるしているネアをあらためて抱き締めてくれた。

ぎゅうっと抱き締められ、ネアは目の奥が熱くなる。

転移堂のところで最後に見たディノとは違い、仮面もかけていないし、元気そうだ。


「ごめん、怖い思いをさせたね」

「ふにゅ。…………ディノ、ごめんなさい。こちらに来てくれると聞いて大人しく待っている筈だったのですが、ユリウスさんを喰い殺してしまいました」

「え…………」


魔物が絶句したところで、部屋の隅の方からまだ生きているぞという声がした。

ディノが引き連れてきた、初めて見る闇の妖精達がはっとそちらを見れば、大きな書棚の影からよろよろとユリウスが出てくる。


へたりとした羽を引き摺るように出てきたところを、誰かが悲鳴のような声を上げて駆け寄っていった。


「ユリウス様!」

「…………安心しろ、イド。片側の内羽を食われただけだ」

「く、食われ……………」


愕然とした面持ちでこちらを向いた妖精に、ネアは何だか申し訳ない気持ちで眉を下げる。

名前からすると恐らく、彼が宰相で従僕な妖精なのだろう。


「ユリウスさんが悪いのですよ。そんなことはしたくないと言ったのに無理やり悪い魔術をかけられたので、妖精さんの羽がすっかり素敵なお菓子にしか見えなくなってしまったのです」

「お、お菓子…………」

「しかし、いつも食べている妖精さんの粉に比べると、味の深みが足りなくていまいちでした」

「い、いまいち……」



そこまでを呆然としたまま聞き、その妖精はユリウスに視線を戻すと、その体を抱き締めてわぁっと泣き出してしまった。

まだ若い青年に見えるが、闇の妖精の中では珍しく人の良さそうな顔をしており、襟足で黒髪をぴょこんとちび結びにした、羽の銀色の模様が綺麗な妖精である。

ユリウスにお労しいと声を上げて泣きついているので、ネアはあんまりな加害者扱いにもやもやする。


「ディノ、ものすごく凶悪犯な立ち位置になりましたが、私は誤解から誘拐された挙句、無理矢理犯人にされたのですが…………」

「大丈夫、君を罰せさせたりはしないから。ここにいる妖精達も、不愉快なものは全部消してあげるよ?」



そこで焦り始めたのが、ディノと一緒に部屋に入って来た妖精達だ。

ユリウスに取り縋って泣いている一人を除き、さっと青ざめて口々に嘆願のようなことを呟いている。

中にはすっかり怯えてしまって蹲って震えているものもいるので、ネアは自分を抱き締めている魔物の三つ編みをくいくいと引っ張った。


「ネア?」


こちらを見た魔物に、関係のない妖精は虐めないように言おうとした時だった。


「…………なんと惨い。ユリウス様はこちらに戻られてすぐ、単身であなたを救いに行かれたというのに!ソロメオ王子はあなたを名指しで獲物に挙げていた。ユリウス様はその名簿の写しを見て、矢も盾もたまらず……むが?!」

「…………イド、余計なことは言わなくていい」


ユリウスは、ふらふらながらにしっかりと従僕の口を片手で塞いで顔を顰めている。


「名簿…………?」

「行進に出る妖精達は、各隊ごとに立ち寄る国と獲物の名前を記したものを残します。いざという時に消息を掴む為、或いはお互いの獲物が被らないようにとする為のものですが………」


首を傾げたネアに、ディノの視線を受けた一人の妖精が丁寧に説明してくれた。

隣にいる高貴そうな女性のお付きの妖精のようで、ネアと目が合うと青ざめている。


ネアはその言葉に少しだけ考えた。

基本は誘拐犯なのだが、確かに幾つか、ユリウスの言動には、時々甘いのではないかなとネアですら感じる部分があったことも確かなのだ。


(それに、確かにソロメオ王子にも狙われていたんだぞ的なことは、本人も話していたような……)


そう思い悩むネアの視線の先で、イドと呼ばれた妖精はユリウスの手をべりっと引き剥がした。


「黙りませんよ!昨晩とて、酷いお怪我で帰ってきたと思えば、その人間をソロメオ王子から守る為に戦ったというではないですか!あなたはいつも大丈夫だと仰るばかりで、己の弱さや愛情を、決して外に出さないのが悪い癖です!だからあの時も…むが?!」


従僕は余程溜め込んだことがあるのか、弱っているユリウスの腕をばしばし叩いて荒ぶっている。

圧が強すぎるのか、ユリウスはよろめいていた。

そちらが内輪もめを始めたので、ネアは視線をディノに戻し二人は顔を見合わせた。


「…………むむぅ。誘拐犯は既に私に少し食べられてしまいましたので、ヒルドさんを苛めた妖精さんだけ厳罰に処してくれれば、私は構いません」

「…………君は、それでいいのかい?」

「ユリウスさんには悪さもされましたが、他に悪さをしようとした方から守ってくれた一面もあるのなら、差し引きで減点になった分は、既に私に食べられてしまいましたしね」

「彼は君を籠絡しようとしたのだろう。それでも、私は我慢するべきなのかな」

「いえ、今のは私の分の裁定なのです。ディノにはディノの腹立たしさもあるでしょう?」

「…………勿論だ」

「ふむ。でも、少しだけ判断を下すのを待って貰えませんか?」

「ネア?」

「お庭のちびまろ館で、クッキーの欠片に貪欲だった薄ピンクちびまろを思い出してあげて欲しいのです。お部屋の雪豹アルテアに寄り添い、一匹だけだらしなくお腹を出して寝ていたあの子ですよ!」

「…………ちびまろ」

「はい。一匹だけ、薄いピンク色の子がいたでしょう?」

「…………うん」

「そんなちびまろと、ちびまろのお母さんな白けものさんとの間になにやら行き違いがあるようです。今回の事件は、そんな擦れ違いの果てに私が巻き込まれたのでした。ですので、その経緯が判明してからでなければ、安易に滅ぼせません」

「ちびまろの………」



困惑したままそちらを見たディノに、ユリウスは両手で顔を覆って床に崩れ落ちた。

傍で彼の羽の手当てをしていた若い騎士が、いきなり蹲ってしまったユリウスに動揺している。

イドという妖精は、また悲鳴を上げて大事な主人に取り縋った。



「あの子が、ユリウスさんだったのです。悪い呪いでちびまろにされていたのです」

「ちびまろに………」


途方に暮れて自分を見ている魔物に、ユリウスはやめてくれと頭を抱えたまま呻いた。

ネアは使うべき抑止力をきちんと切り出せたことに安心し、微笑んで食いしん坊ちびまろの方を見る。


「あらあら。気付いていないとでも思ったのですか?お食事の時のお作法は、ちびまろになっても変わりませんでしたものね。しかも、クッキー大好きっ子です」

「………………なぜ、言わなかったんだ」

「気付いてほしくない、恥ずかしい過去なのかなと思いまして」

「では、なぜ今言ったんだ!」

「あの可愛いちびまろだと教えてあげないと、ディノが、先んじてユリウスさんをくしゃっとやってしまいかねないからです」


その一言でユリウスはくしゃりと座り込んでしまい、またしてもへばりついた妖精にお労しいと言われてしまっていた。

よりによってこれだけ大勢の前で暴露されてしまったからか、少しだけ泣いているような気がしたが、お仕置きとしての暴露な一面もあるので我慢していただこう。

ざわざわしている外野では、ちびまろとは何だろうと囁き合う者達がいる。



「ディノ、もちうさの赤ちゃんだったちびまろは、呪いが解けて、無事にこんな立派な妖精さんに戻ったんですよ」

「…………餅兎だったんだね」

「一番小さくて、一番食いしん坊だった子ですね。よくココグリスとクッキーの奪い合いをして戦っていました。指を差し出すとぎゅっとくっついて甘えてきていたので、てっきり女の子だとばかり…」

「やめてくれ…………」


くぐもった声でそう呻いたユリウスを、部屋にいる妖精達は信じられないものを見るように眺めている。

ネアはふと、その中に世にも美しい黒髪の女性の妖精がいることに気付いた。

なかなかに男前に額に手をあてて天井を仰ぐと、左右に居た妖精達に何かを命じている。



「…………万象の君」


そう呼びかけられて視線を向けたディノに、その女性は、思わずといった風に一歩後退した。

見えない何かが吹き付けるように、その何かに煽られるようによろめく。

ネアは、ディノがもう仮面をかけておらず、真珠色の長い髪を惜しげもなく晒していることにあらためて気付き、このお城の中では本来の姿に戻っても大丈夫なのだろうと頷いた。



「イドの言葉は本当ですの。弟は、恩人をソロメオが花嫁にしようとしていると、大慌てで地上に戻ったのです。……ですので、そこまでは恐らく……」

「彼の理由は私には関係ない。それでも彼が、私のものを奪ったことは確かだ。彼が為したことで判断をするよ」

「万象の君………!」



言葉を重ねようとしたところでディノにひたりと見つめられ、よろめき苦しげに眉を寄せた女性に、その左側にいた男性が庇うように半身を前に出す。

しかし、その男性もまた瞳は虚ろで体は震えていた。


「シルハーン、どうか彼女には………」

「君はもう妖精になってしまったのに、まだ私を恐れるのだね」

「………それはもう、………私の身が妖精になれど、御身が万象であることは変わりますまい。しかし、ヘレナは私の伴侶なのです。彼女に罰を与えるのであれば、どうかわたくしめに」

「ギルバート!」


慌てたようにその男性の腕を引いた女性に、ギルバートと呼ばれた男性は淡く微笑んだ。

けぶるような金髪に青い瞳をした美しい男性だが、目尻の皺が何とも言えないいい雰囲気を添えている。

そんな微かな皺があることで、彼は完璧だが無機質な容貌ではなく、どこか人間臭い温もりのある素敵な男性に見えるのだろう。

そして彼の腕を引き止めるように掴んだ女性は、ただひたすらに妖艶という言葉に尽きた。

そんな美貌の女性が悲しげに腕に取り縋る様は、どこか無防備で痛々しい。


ディノはネアの方を一度見てから、また視線をそちらに戻す。

床で呻いていた騎士達も何とか顔を上げ、激辛香辛料油の猛攻に呻きながらも、壁際に下がって震えていた。



「今後、ウィームより何かを持ち去らないことを誓約としよう。また、ウィームを脅かすその一端として、あの国の平安を損なってもいけない。ヴェルクレアの第一王子とその周囲、或いはガレンなどにも手を出してはいけないよ。転がり落ちたものがウィームを損なえば、私はこの国をなくしてしまおう。君達の営みを変える必要はないが、私の領域のものにはもう二度と触れないことだ」



ディノが彼等に命じたのは、そんな言葉だった。


ギルバートと呼ばれた男性は目を瞠り、すぐさま膝を突いて臣下の礼を取る。

その横で、怯えきった表情のまま高貴な女性としての優美な一礼を見せ、女性は震える声で、正式な作法に則り詩のような長い一節を用いて、万象の寛大な措置に心からの感謝をしているという返答をした。



「今伝えたことは、闇の妖精そのものへの誓約だ。さて、こちらはどうしようかな」

「ユリウスさんですか?まだお仕置きが足りないのであれば、ひとまずダリルさんの呪いでも投げつけておきます?」

「今は何を持っているんだい?」

「皮膚が派手派手なピンクと黄緑の水玉模様になる呪いと、お尻が痒くて堪らなくなる呪いです。キノコの呪いは王子様に使ってしまいましたから」

「………どうしようかな」



何とも言えない沈黙が落ちた部屋に、また誰かがやってきたようだ。

こつこつと床を鳴らして入ってきた人物に、ネアはぱっと目を輝かせる。



「ヒルドさん!」

「………ネア様」


それまでは触れれば切れそうなくらいに鋭利な目をしていたヒルドは、ディノの腕の中にいるネアに気付くとほっとしたように柔らかな目になる。

しかし、抜き身の剣を振って血を落していたので、ここに来るまでに何某かの事件はあったようだ。


「ご無事で何よりです。とは言え、合流するのがいささか遅かったようですね」

「ヒルド、君を傷付けた者を覚えているかい?」

「ああ、彼等であればもういませんよ。別行動させていただいた間に無事に発見出来まして、久し振りに良い狩りが出来ました。何しろ、近年では光竜もおりませんし、せっかく戻った愛剣を振るういい機会になりました」

「ほわ………。ちょっと見てみたかったです」

「おや、どこからも再生が叶わないように細切れにするだけですので、お見せするようなものではありませんよ」

「ほわふ。細切れ………」



微笑んでそう教えてくれたヒルドの言葉に、部屋にはまた新しいざわめきが満ちる。

どうやらヒルドは、既に報復を済ませてしまったようだ。



「………光竜の剣」


誰かの声が聞こえた。


「となると、……あの一族は滅びたのでは?」

「しかし………。だが、あの羽の色はやはり」



ざわつく闇の妖精達の方も見ず、ヒルドは側まで来てくれるとネアの頬に手で触れた。

思わしげな瑠璃色の瞳は、どこか悲し気だ。


「………あなたの手を離してしまいました」

「私が捕まらなければ、ヒルドさんが怪我をすることもありませんでした。あの時、ヒルドさんとディノが来てくれなければ、私はあの嫌な妖精さん達に酷い目に遭わされていた筈です。ユリウスさんはまぁ、……ちびまろですしね!」

「そう言っていただけると、せめてもの幸いです……それと、」

「ヒルド、王子の方は残っているようだが、もういいのかい?」


ディノのその言葉に、ヒルドは言いかけた言葉を飲み込んで、小さく微笑んで首を振った。

状態を拝見しましたが充分ですよと言うので、ネアの復讐の産物を目撃したのだろう。


「……それと、ちびまろですか?」

「はい。夏嵐の日にヒルドさんが水溜りから助けてくれたちびまろの中の、一番色が薄かった子です。呪いで、違う種族の最も無力な生き物に変えられて、怪我をして海に落とされたのだそうですよ」

「…………闇の妖精の王弟が、……餅兎の赤子に」

「ヒルドさんが教えてくれたように、丈夫な子なのですね」


すると、背後から呻き声のような懇願が聞こえて来た。



「………もうやめてくれ」

「もうおやめ下さい!ユリウス様を殺すおつもりですか!」

「ふむ。事実ですし、悪さをするにはしたので心の傷ぐらいは我慢して下さい。それに何ら恥じることはない、ピンクなもちふわの食いしん坊ですしね」

「…………謝罪をする。俺の出来ることであれば、お前に何らかの対価を支払おう。その代わり、その話はもうやめてくれ」

「…………むむぅ。謝罪は受け取りますが、対価は結構です。愛くるしいちびまろとの思い出を封じられる方が嫌です。その代わり、何か余分なものを添付している場合は、即刻解除して下さい。それで、ちびまろなユリウスさんの話をする頻度を百から九十に減らして差し上げます」

「九十………」


きっぱりとそう言ったネアに、がさっと床に倒れる音がした。

心労もあるが、羽を齧り取られたことも影響しているのかもしれない。

イドと呼ばれた妖精が、慌てて抱き上げて長椅子に運んでいる。


「ふむ。報いを受けましたね。それとヒルドさん、ユリウスさんから、ちびまろ達が白けものさんに食べられたと伺ったのですが、渡りは出来なかったのでしょうか…………?」


しょんぼりしたネアのその質問に、ヒルドは驚いたように目を丸くした。

こんな場所でもあるので、本当に思いがけない質問だったのだろう。


「あの子供達がですか?いえ、私もその場で見ておりましたので、無事に季節風に乗るのを見届けましたよ?詳しくはアルテア様に聞いてみないと分かりかねますが、そのようなことはなかった筈です」

「仲間達が食べられてしまい、ユリウスさんだけが、お前だけは逃げろと言われて逃げ延びたのだとか」


ネアがそう言った途端、一瞬だけヒルドがしまったという顔をした。

すぐに取り繕ってしまったが、思い至ることがあったのだなという気配が濃厚でネアはひやりとする。

こちら側にも非があったのだとしても、今はあまり騒がないようにしよう。


「…………もしかしたら、あの小屋から出した時のことを、そのように誤解しているのではないかと。ゼベルの作った小屋の居心地が良すぎたのか、時期を過ぎても渡りをする様子がなく心配でしたので、アルテア様に小屋から出して貰い、季節風に乗せましたからね」

「………もしかして、その時のアルテアさんは、白けものな姿で?」

「ええ。あの餅兎の子供たちは、ネア様の貸したぬいぐるみを母親だと思っていましたからね。我々が小屋から出そうとすると逃げてしまったのですが、擬態したアルテア様が顔を出すと駆け寄ってきたそうです。そこを捕まえた時に、………その、………我々も急いでおりましたので、少々荒っぽい場面がありまして。そのような誤解があったのかと。………それにしても、四匹見たような気がするのですが、一匹漏れていたとは…………」

「何とも言えない誤解による愛憎劇です。…………今の話を、ユリウスさんが目を覚ましたら伝えて貰えますでしょうか?」


大事な主人の羽を食べてしまった人間にそう頼まれ、イドと呼ばれた妖精は複雑な顔をした。

しかし、ディノにも必ず伝えるようにと言われると、真っ青になって何度も頷いた。



「………その餅兎………妖精は、そのことが原因で君を攫ったのかい?」

「ええ。仲間を食べてしまった白けものなお母さんが、私と仲良くしていたのでむしゃくしゃしたようです。確かにあちらのイドさんのいう通り、ソロメオさんの到来を告げようと駆けつけてきてくれたのは本当なのかなと思います。しかし、白けものさんとぐるなのかと思ってしまったら、憎しみが爆発して誘拐犯になってしまったのでしょう」

「兄弟達を食べられたと思っての、復讐でしたか………」


ヒルドも複雑そうにそう呟く。

妖精のままの姿であれば勘違いをしないで欲しいという残念な感じに尽きるのだが、ちびまろ姿で想像してしまうとちびまろの知能で判断したのだろうしなぁと、憐れな気持ちになるではないか。

かくいうネアも、小さな薄ピンクのちびまろが、兄妹を食べられてしまったと思って一人で泣いていたのだと思うと胸がぎゅっとなった。



「言っても信じない場合は、禍根を残さないように仲間のちびまろを探すしかないのでしょうか?」

「であればゼノーシュが探せると思うよ。一度目をかけた個体であれば、その風が吹いた先を特定して簡単に見付けられるのではないかな?」

「良かったです。それで分ってくれそうですね!」



ネアは、こちらを見て困ったような顔をしたディノの胸に、ばすんと頭を寄せた。

こちらを見たディノは、それ以上ユリウスに対しての処罰を言い出しはしなかった。

本当はディノも怖い思いをしたのだから、好きなように仕返しをさせてやりたいという気持ちもある。

しかし、この世界で長く生きてゆくのであれば、引ける時には引き、残る因縁は少ない方がいい。

そう考えてしまう人間は、とても狡猾な生き物なのだ。



一通りの災厄は終わったようだぞと思ったのか、女王とその伴侶の後ろに控えた妖精達も、激辛香辛料油で被災した騎士達の回収を始め、そそくさと部屋から立ち去ってゆく。

みんなディノの方を見ないようにしているので、道中かなり脅してしまったのかもしれない。



「万象の君、今宵は是非に我等が城にお泊まり下さいませ。ユリウスとソロメオがご不快な思いをさせたのですから、せめて、わたくしどもに償いの場を与えて欲しいのです」


そう頭を下げたのは、ヘレナと呼ばれた妖精だ。


今にもこぼれそうな豊満な胸元は、ネアにはわからない不思議な技術で、ふわっと布を重ねて少しだけ覆っているような危ういデザインなのに、決して布がずれたりはしないのだ。

肩を大胆に出したドレスは、その美しい妖精の羽こそが最大の装飾なのだろう。

髪も瞳も漆黒のただ一色でありながら、どこまでも華やかで見惚れてしまう。

そしてその腰は両手で掴めそうな程に細い。



「むむ」


なので、ネアが思わず眉を寄せてしまったのは、そのあまりにも細い腰に嫉妬したからであった。

あのくらい細ければムグリス疑惑などかからないだろうと、羨望の思いで見ていたのである。

するとディノは、大丈夫だよと言う風にネアの頭を撫でてくれる。



「私は、その償い方を誓約として告げた筈だ。それを果たす前から、なぜ君達の城に泊まらなければいけないのだろう」


ディノの言葉は、いっそ静かな程であった。

どこか透明な響きで無垢に不思議そうに。

けれども、その問いかけを受けた妖精の女王は真っ青になって声を発せないくらいに震えている。



「私が言ったことを、忘れてはいけないよ」



そう重ねて言い、ディノはふわりとネアを抱き上げた。

久し振りの魔物の温度に心が浮き立ち、ネアは大事な魔物にぎゅっとしがみつく。



「さて、ここを出ようか」

「はい」

「………彼は、あのままでいいのですか?」


ヒルドの言葉は少しだけ歯切れが悪い。

ネアと目が合うと、リーエンベルクに戻ってからご説明しますと複雑そうな顔をした。

これはもう確実に、ネアの知らないところでちびまろ事件が起こったに違いない。

とは言え大事なのは身内だけの狡い人間は、それについては、不利にならないように一切顔に出さないようにする。


「後で考えるよ。姿と名前を知り、その魔術に触れたのだから、もういつでも捕まえられるからね」

「であれば、ネア様を安全なところにお連れするのが最優先ですね」

「そうだね」



こつんと、転移の薄闇に踏み込む。

ヒルドから、闇の妖精の女王がディノにのみ自由な転移が出来るように妖精の国を調整したのだと教えて貰い、ネアは今更ながらに、怯えきって震えている美しい妖精が妖精の国を総べる偉大な女王であることを実感する。



(でも、私はもう、会うこともない人達だわ………)



床に転がった妖精の騎士達も、震え怯えながら万象を見送る妖精の女王も、そして従僕が勇気を振り絞って、魔物の眼差しを遮るように主人を背後に隠そうとしているイドも、意識のないユリウスも。

それは全てこの遠い妖精の国の住人で、その中に一人元ちびまろがいたとしても、彼の居場所はここにあるのだから。



その全てが、転移の向こう側に遠ざかってゆく。




「ディノ、安心して下さいね。闇の妖精さんに出会いましたが、あの困った魔術にかけられても私が一番愛おしく思うのはディノのままでした」



しかし、感慨深くそう呟いたネアの言葉のお陰で、ネア達は妖精の国にもう一泊することになる。

初めての愛情表現の言葉にくしゃくしゃになった魔物付きではあるが、急な飛び込みの宿泊客を、霧雨の妖精達はとても歓迎してくれた。



なお後日、ちびまろの誤解について、それはそうなるだろうというリーエンベルク側の手落ちが発覚した。

ネアは、ヒルド達の思いがけず大雑把な一面を知ってしまったので、ムグリスディノを預ける時には気を付けようと思う。









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