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198. もしやと思いました(本編)




「子供染みた篭り方をするなよ?」



入ってきたのは、ユリウスだった。

扉に手をついたのかズシンと扉が揺れ、浴室のドアノブが回り、ネアはぞわりとした胸に手を当てる。


(………踏み留まろう)


大きく息を吸い込み、仲間達との会話で緩んでしまった心の扉を閉めて、もう一度ユリウスと相対するために整えよう。


(私はさっき、血だらけのユリウスさんが怖かった。ヒルドさんが怪我をしたことで動揺していたこともあるけれど、その怖さを理解しないとまた足を掬われてしまうかもしれない)


先程は一番心が弱っていたところで相対して怯んでしまったが、大事な人達にあんな風に案じて貰ったのに、ここで心を挫けさせている場合ではない。

だからネアは、扉を開ける前にその問題を一度丁寧に掘り返す。


体につけられた血の色を思い出せば、死の怨嗟を擦りつけられたようでまだ微かに心が竦んだが、闇の妖精はそういう感じなのだろうと認識し直すと、ではそんなこともあるだろうと胸の奥が落ち着いた。



(そんな当たり前のことを噛み砕けないぐらい、動揺してしまっていたということなのだろう………)



闇の妖精の気質を思い、あの狂乱の区画の妖精達の様子を思い、頭の中にあった慣れ親しんだ優しい妖精達のイメージをひとまずはその後ろに退ける。

藤の谷のグリオなどのように、或いは当初懸念されていた闇の妖精の心を奪う魔術のように、心を侵食するような怖さは納得済であったが、物理的に肉体を損傷し合い荒れ狂うような印象が薄かったので、血塗れの姿に怯んでしまったのだろう。


(そう考えると、例えば返り血で汚れているのがアルテアさんだったとしたら、あるいは人間の騎士さん達の戦いなら、そんなに違和感もないし怖さもないような………!)


それはつまり、その生き物がそういうものだと認識出来ているからだ。

ネアが今回ユリウスの様子に怯んだ最大の理由は、例えば愛くるしいムグリスが、案外に武闘派でお口の周りを血まみれにしていたというショックに近しいので、認識の書き換えが終われば心もすとんと落ち着いた。



(そっか。私が困惑した残酷さはそういうことだったのか…………)



人間とは単純なもので、理解してしまえばなんて事もなくなる図太い心を持っている。



「いつまで閉じこもっているつもりだ?」


呆れたようなその声に扉を開け、ネアは眉を持ち上げてみせた。

自分できちんと自分の心を理解したせいか、意味もなく怖いと感じるようなこともなく、それまでと同じように目を見ることが出来る。



「ユリウスさんのせいで、血でべたべたにされたのです。とても不愉快でごしごししていました」



ユリウスは、こちらに来て着替えたようだった。

服装の傾向は変わらないものの、先程までの服装が儀礼用軍服のそれなら、今の服装はさながら舞踏会にでる高貴な軍人のそれだ。

少しだけ屋内用に寛いだ雰囲気があり、より一層に、王族だったのだなという感じがした。


「………切り替えが早くて何よりだな」

「ええ、切り替えました。よく考えれば、闇の妖精さんは初めて接触する種族です。珍しい生き物が知らないものなのは当たり前なのに、私は無理やり馴染もうとしていたのですね」

「その順応性ならば、こちらでの暮らしにもすぐに馴染むだろう」

「………ふと思ったのですが、闇の妖精さんがお外に伴侶を探しに出るのは、身内の中から伴侶を選ぶと気まずいからですか?」

「………は?」


唐突な質問に、ユリウスは眉を持ち上げた。

何かの準備や調整が落ち着き、何かの目的があってこの部屋に来たのだろうが、おかしな質問を繰り出した人間を訝しげに見下ろしている。



「皆さんが血族であれば、恋のお作法や恥ずかしい愛の囁きなどが、うっかり親族内に出回る可能性がありますものね。幼い頃の恥ずかしいあれこれなども知られているでしょうし、格好もつけられません」

「…………外部に伴侶を狩りに行くのは、固有魔術を潤沢にする為だ」

「お外から仕入れるものなのですか?」

「他の固有魔術を糧として、俺達は魔術の幅を増やす。あるものをないように、ないものをあるように、取り込んだ魔術を変質させるのが俺達の領域だからな」



それは魔術を取り扱う脳のないネアにはぴんとこなかったが、きっとエーダリア達なら正しく理解してくれるだろう。

さかんに謎だと話されていたことの一端がまた奥まで見えたようで、ネアはしめしめと内心ほくそ笑んでおいた。


(ユリウスさんが私を二度と帰さないことを当然として受け止め、さも自分の持ち物のようにお喋りをするなら訊けるのではと思っていたけれど、こういう事も話してしまうんだわ)


それはきっと狭いところで生きてきたからこその傲慢さだと思うが、ネアは今回ばかりはその欠点を有り難く利用させて貰う。

最初に転ばされたのはネアなのだが、ただでは起きない人間のしたたかさを知るといい。


特に、アルテアが頼もしい魔術をくっつけてくれたばかりなので、もう怖いものなしなのだ。



「しかしそうなると、未婚のユリウスさんはまだ残念な感じなのでは……」

「王族にはそれぞれ後宮がある。言っておくが、俺は正妃こそ持たないが、一世代前の行進でも地上に出ている。不自由はない」

「それならばこそ、既にいる方々を大事にしてあげるべきなのではないでしょうか?」

「あれはただの餌だ」

「我が儘ですねぇ」



だからと言って、ネアが特別に正妃向きということもないのだと思う。

転移堂での扱いを見ている限り、ユリウスにとってのネアは使い道がありそうな道具を甥っ子に取られたくないというその一点に尽きる気がする。



(そして、手に入るなら入るで、余分として取っておこうというという感じなのかな)



「前にもお話ししましたが、そのような運用なら、私を手に入れても得るものがなさ過ぎて苛々するのでは?」

「お前自身の身に得ている守護や補填もまた、俺にとっては有用だからな。得るものがないどころか、かなりの拾い物になるだろう」

「むむ。そちらからも手に入れられるのですね………」

「残念だったな。そういうことだ」



ネアはそこで、ユリウスが左胸のポケットに挿しているペンの色が気になった。



「…………案外乙女な趣味なのかもしれません」

「…………何のことだ」

「ほんわりピンクのペンで、綺麗で可愛いですね。ユリウスさんは、そういう色が好きなのですか?」

「………偶々この色のものしか準備がなかったからだな」


ふっと視線を逸らされてしまい、ネアは後宮の誰かから貰ったものなのかなと考えておく。

明らかに女性もののペンなので、かなり気に入っているのだろう。



「身支度が終わったなら浴室を出ろ。それとも何だ、洗って欲しいのか?」


パライバブルーの瞳を細めて弄うように尋ねられ、ネアは渋面で首を振ると隣の部屋に移動した。

安全なシェルターから追い出されたようで心許ないが、もう大事なものが無事だと判明した今は、無駄なところで神経を逆撫でしないように引き続き大人しくしておこう。




先程は観察する程の余裕がなかったが、部屋は藍色と薄紫色を基調とした落ち着いた色彩の華やかな内装だった。

色合いが落ち着いているので目に煩くはないが、装飾の手間は恐ろしくかかっている。

一つ一つのパーツを薔薇の形にくり抜いて繋げた宝石のシャンデリアに、天井画には夜空を舞う妖精達が描かれていた。


(転移堂でも思ったけれど、天井が高いのは羽を持つ種族だからかしら……)



先程ユリウスが床に捨てた手袋は、もう片付けられたようだ。

血塗れの手袋が落ちたままではなく、ネアはほっとする。



「ここは、闇の妖精さんのお城なのですか?」

「ああ。妖精の国の最奥にあたる」



外を見てみたかったが、窓がない。

幽閉の為の部屋なのだという主張が露骨なのは、外に繋がる部屋の扉に内側から引く為の持ち手やドアノブがないところだ。

あの扉は、外側からしか開かないのだろう。



「明日には女王への謁見がある。俺としては特に必要とは思わないが、婚礼の儀式の一環だからな」



ふわりと、視界の端で柔らかな布が翻った。

そちらを見たネアは、ユリウスが取り出したのが漆黒の美しいドレスであることに、ぞくりとする。

また今度は、虚空から華奢な宝石で飾られた靴を取り出し、長椅子の上にそっと乗せた。


(婚礼の儀式の一環で明日の予定があるということは、その儀式そのものが明日なのでは……)



「身支度には女中を呼ぶが、さすがにまだ早いな」



こちらを見て唇の片端を持ち上げたユリウスに、ネアは視線を揺らした。

無言の問いかけの中にどんな顛末が含まれるのか、さすがにこの状態でわからないということもない。

思っているよりも時間がないのが気にかかった。



「…………謁見は、明日なのでは?」

「そうだ。お前を外に出す前に、ある程度躾けておかないとだからな」

「………ユリウスさん私は…」



その時、こつこつと扉が叩かれ、ユリウスの入れという声で、数人の美しい妖精の女性達が入って来た。

皆、闇の妖精らしい漆黒の羽をしているが、ユリウスや騎士達のように銀色の模様はない。

黒一色の羽ではあるが、それでも女性の妖精の羽は黒揚羽のようで華やかだ。

色とりどりのドレスにその羽が揺れる様は、こんな状況でもついつい目を奪われてしまう。



「ユリウス様、お食事はこちらで?」

「適当に置いておけ。こいつは食わせれば黙るからな」

「あら、そういう好みの女性の方なのですね」

「まぁ、可愛らしい」

「ふふ、まだ人間よ!」

「………あら、可哀想に少し汚れているわね」


最後にこちらを見て微笑んだのは、柔らかな栗色の髪をした女性だった。

微かに下がった目尻が柔和な印象で、萌黄色の瞳も澄んでいる。


「最初は慣れないでしょうけど、ユリウス様のお側にいることに慣れる頃には、こんなに素敵な羽を得られるわ。妖精の国は賑やかでとても楽しいのよ。勿論、お食事も美味しいですしね」


そう微笑んだ女性の次に口を開いたのは、黒髪の巻き毛に青い瞳をした女性だった。


「あなたは人間の子ね。人間は羽を早く得られるから羨ましいわ。私達魔物は、内側を作り変えるのに時間がかかるもの」

「ふふ。でも、長く愉しめるのはあなた達魔物でしょう?」

「貪欲さは人間の方が上。でもまぁ、生まれが精霊の女よりはまともね」



ネアは瞳を瞠ったまま、黙っていた。

常識的な人間として彼女達に愛想よくしたいという欲求もあったが、彼女達にとってユリウスは正しい形をしたもので、こうしてここで暮らしてゆくことが幸福なのだと分かったからだ。



(勿論だけれど、ここでユリウスさんを慕って、妖精の国で生きて行くことに満足している人達も多いのだろう………)



それは切り捨てられ、彼女達を奪われた誰かからしたらとんでもないことであっても、それでもここにだって、日常というものがあるのだ。


けれどネアはそんなものを日常にしている存在には怖くて触れたくなかったし、かと言って、自分は違うからと反発して彼女達を貶したくもなかった。

幸福とは、それがどんな醜さであれ、本人にしか測れない。

それが例え、籠絡された先の目隠しの愛であったとしても、きっともう戻るべき場所も残ってはいまい。

彼女達にはそれでいいのだ。


しかしながら、ネアにとっては、それはとんでもないことなのである。



「もういい下がれ」


そう言われた女性達は、優雅に一礼して部屋を出ていった。

ところが、部屋を出るその間際にちらりとネアの方を見た数名の眼差しは思いがけず鋭く、そのような憎しみの気配に慣れないネアはぎくりとする。



ぱたんと扉が閉まると、部屋には焼きたてのパンの匂いと、花の香水の香りだけが残った。



「確かに汚れているな」


ユリウスが眉を顰めふわりと手を振ると、そんなユリウスが返り血で汚した服は一瞬でぴかぴかになった。

驚いているネアに向かいに座るように言うと、ユリウスは食事を始める。


かぽんと、スープの蓋を外す音がして、いい匂いが漂った。

食事は二人分あり、ユリウスもここで食事を摂るようだ。



ウィリアムから、闇の妖精は食事に混ぜ物をするのを嫌うと聞いたので、ネアは素直に座ってパンを千切る。

有難いことに、食事に薬や魔術を仕込むのは、闇の妖精にとっては恥ずべきことという認識なのだとか。

恐らく、下位の妖精が獲物を攫う為に使う手段だからではないかと言うことで、ネアは、その理由ならユリウスが準備した食事は大丈夫だろうと考えていた。


であれば、食べたくなくても、暴れる為の体力はつけておかねばならない。



「あの方達は、後宮の方ですか?」

「その中でも若く、羽との馴染みがいい者達だ。女達は裏切らないからな」

「信頼関係があるのですね」


そう言ったネアに、ユリウスは小さく笑った。


「当然だろう。魔術でそのようにしてある。心を鎖に繋がれた生き物を、お前は恐ろしいと思うか?」

「そもそもその前提が気にくわないので、お返事いたしかねますね」

「長くいる者達は鎖を外してもこの手に縋るが、それはそれで厄介でな。特に、他の女を迎え入れることには好意的ではない」

「だから、若い方々を選ばれたのですね?」

「お前で楽しむ前に、この料理に毒でも入れられては堪らないからな」

「むむ。先程の美人さん達とお食事した方が楽しいのでは……」

「婚儀の前夜にか?」

「よく聞こえませんでした」

「………夜は長い。とは言え、ある程度のところで状況を理解しろよ」

「私にはもう、婚約者がおります」


ネアの言葉に、ユリウスは視線を上げると微笑みを深めた。

艶やかな眼差しは狼狽えたくなる程に色めいていたが、口調は突き放すように淡々としている。


「婚約はあくまでも婚約に過ぎない。妖精の婚姻は魔物のそれとは違い、上書きは可能だが、妖精の花嫁が逃げ出したという話は未だかつてない。妖精との婚姻は、決して抜けない強い酒のようなものだな」

「酩酊状態のそこに、お相手の意思はないのですね」

「それがどうした?妖精はそういう生き物だ。お前が親しくしていたあの代理妖精も、その最たるものであるシーの一人だろう」


ヒルドのことを知っているとなると、やはりこの妖精はどこにいたのだろうという疑問が深くなる。

今迄の出来事を振り返っていたネアは、ダナエから聞いた話を思い出した。


「そう言えば、シーな妖精さんの失恋の話もよく聞いたのですが、逃げ出してしまう方もいるのでは?」

「伴侶だったのか?」

「………そう言われると、恋人さんだった気もします」

「伴侶ならあり得ないな。肉体を持ち欲求を持つ者なら絶対的にだ」


(そういう場合、アイザックさんならどうなるのだろう)


欲望を司る魔物の場合はどうなるのか気になったものの、ネアは脇道に逸れてしまった思考を元に戻した。


「既に伴侶となった方が去らないのであれば尚更、ずっと側にいらっしゃる方を大事にするべきな気もしますが、…………むぅ。種族性であれば致し方ありませんね」

「何か誤解しているようだが、妖精とて正式な伴侶は基本一人だぞ?」

「…………む?」

「あれはあくまで後宮の女達だ。固有魔術を食う為の餌だと言っただろう。闇の妖精はそれぞれに花嫁や花婿と呼ばれる餌達を飼う後宮を持つが、伴侶は一人しか持たない」

「………種族のお作法かもしれませんが、ちょっと人間の私には理解し難い感覚なので、やはりお友達になるのは難しいようです」

「人間とて同じようなものだろう?」


(そう言われると、確かに魔術ではなく利害関係を貪るだけの政治的な婚姻はあるような……)



「確かに人間は時に強欲ですものね」


あまり深く議論しても楽しくない会話なのでネアはさっくりと終わらせておき、気になっていたことを尋ねてみた。



「……………どうして、あなたは場所を特定される危険を冒してまで、お城に戻ってきたのですか?味方の方がいるとは言え、敵もいそうです」



この質問の答えによっては、ここで、決して受け入れてはいけないことがわかる。

先程までの発言ではネアにしっかり鎖をかける為に何かをするようなので、ここでしか出来ない儀式めいたものがあるのかもしれない。

儀式を行う条件や、儀式の上で絶対にしないといけないことがあればいいのだが。


(であれば、死ぬ気でそれを回避して時間を稼ぐ!)



「言っただろう、婚礼の儀式の為だ。闇の妖精達は伴侶探し以外でこの国を出ることはない。今回の行進の時期が終われば、また数百年はこの中だ。逃げ出して外の生き物に情報を漏らす仲間が出ないよう、婚礼の儀式はここでしか出来ないようになっている」


その言葉に滲んだのは、ネアがはっとしてしまう程の鬱屈とした憧れと狂気のようなものだった。

どれだけ広くても、どれだけ仲間がいても、他に広い世界があるのに出られないのだと知っていることは、恐ろしく悲しくはないのだろうか。



(ましてや、この人は自由を失いたくないと自分でも話していた人なのに………)


となれば、闇の妖精達の残忍さや高慢さは、この閉鎖的な場所でぐるぐると彷徨い歩き、歪んでしまった欲求なのかもしれない。



そして、残念ながらこの城に既に連れて来られてしまった以上、何かの条件を回避すればどうにかなるという特定のものなどはないようだとがっかりする。

女王との謁見を中止に出来ればいいのかもしれないが、この部屋しか知らないネアは、女王側に接触出来る伝手がない。



「お外に逃げたら、叱られてしまうのですか?」

「地上から戻らずに生きられるのは、長くとも三年程度だ。この城や妖精の国の一画で湧き出る水、或いは妖精の国の空気などがなければ、体が崩れ落ちる」

「………かけられた呪いが解けなければ、あなたは地上で暮らせたのですね」



ふっと、ユリウスの瞳が揺れた。

彼もその可能性を考え、迷ったりもしたのだろうか。

鮮やかなパライバブルーの瞳は滲むようにシャンデリアの明かりを映し、きらきらと煌めいている。



「だが、あのまま生きるつもりはなかった。あまりにも不恰好………無力だったからな」

「無力ではなく、まぁまぁなものになれるなら、あなたはお外で暮らしたいと思いますか?」

「かもしれないが、選択肢というものは、得てみてその可能性が自分のものになって初めて、本当の答えが出るものだ。今の俺が持っている答えは、本当のものではない」



(ああ、これは長い間自分と向き合って、手に入らない可能性について考えたひとの言葉だ………)



彼のしたことへの免罪符にはならないが、ここにいるのは悲しい生き物達でもあるのだと知り、ネアは少しだけ怒りや不快感の角がほんの僅かに欠けゆくのを感じた。

ネアのように既に大切なものがあったり、とは言えよく知らない人の為に慈善活動は出来ないという人間でなければ、今の会話はユリウスに心を傾ける分岐点であったのかもしれない。

しかし残念ながら、ネアには既に宝物があるし、執念深い人間なのでしでかされたことへの恨みは手放せなかった。



(…………………む)



その時、ネアは思いがけないものを目撃して凍りついた。

ユリウスが手をつけた食事の卓にだけ、ネアのものであろう卓にはないデザートがついている。


その小麦色のさくさくしたものの正体こそが、暗にこの妖精の履歴を物語っていた。



(…………ウィームだけで売られている、安価だけどバターたっぷりで美味しい、さくさくクッキー………)


ゼノーシュ御用達のお店の、測り売りクッキーではないか。

表面に店名が焼き記されているので、見間違えでは決してない。



ここで、まじまじとユリウスの方を見ないように、ネアは未だかつてない自制心を必要とした。



(となるとまさか、胸元のペンは仲間恋しくて………)



すっかり頭が混乱して、ネアは数々の思い出を辿った。

それなら懐いた可能性はあるが、恩返しならともかくこの仕打ちはないだろう。

しかし、お気に入りの餌係りを掴んで奪う子供のような仕打ちも、異種族としてありかもしれない。



「…………呪いで得た身に、未練はないかと尋ねたな」



ぽつりとユリウスが呟いたのは、そんな風にネアが内心大混乱に陥っていた時のことだ。


「ええ。……………お友達が出来たりはしなかったのですか?」


ユリウスが指先に持っているのはクッキーだ。

どこか懐かしそうにそれを、やはり手で覆ってくんくんしてから食べている。



「仲間が生きていれば、迷いは残ったかもしれない。だが、呪われた身で得た兄妹達は皆殺された。………それも、庇護者だと信じていたあの白い獣に」

「……………その話をじっくり聞きたいです」



思わずネアがそう言ってしまったのは、もし、ユリウスがネアの考える存在としてリーエンベルクにいたのなら、今の発言の齎らすものはあまりにも大きい。

なぜなら、該当する犯人がすぐさま浮かんだが、そんなことをするとは思えなかったからなのだ。

性善説を唱える訳ではないのだが、そうする理由が思い当たらない。


(そして、万が一そんなことをしていたら、私とて怒りに荒れ狂う!)



しかし、ユリウスはそれを違う理由に捉えたようだ。


「…………ふっ、……同情ならば、心が動くか?」

「そういう意味ではありませんが、…………今話されたのは、悲しい話でしょう?」

「ああ、そうだ。だが、俺にとっては憎悪の発端に近い。信頼して縋った者に裏切られ、最も近しかった者が、その裏切り者の腕の中に守られていると知った」

「…………ええと、私を見て言われるということは、今の文章には、私も登場しているのでしょうか?」


確信を得るべくそう尋ねると、ユリウスは艶やかで暗い微笑みを浮かべネアの顎に指先をかけた。

ぐっと狭められた距離に、ネアは眉を顰める。


「…………お前には分からないだろうな。初めて得た、助け合い信頼し合う者達を無残に食い殺されることも、せめてお前だけは逃げろとこの命を救われることも。………そんなことで呪いが解けた時にはもう、全てが手遅れだった」

「…………その事件が、あなたの呪いを解いたのですね?」

「その身を愛した者に、命を顧みずに救われる。古くからある、数多の変身の呪いを解く為の条件だ」



ユリウスはまた少しだけ自嘲気味に微笑みを深めると、ネアの瞳を覗き込んだ。



「一つだけ明かしてやろう。だから俺は、あえてあの魔物がリーエンベルクに居て、お前を守護している時こそを選んだ。そしてお前を、あの魔物の手の届かないところに連れ去ろうと決めた。あのウィームの夜の市場で、お前を大事そうに隠していたあの魔物に、奪われることを理解させる為に」

「…………アルテアさんのことですね?」


であれば多分、恐らくは何かの誤解だと思うので直接本人と話して欲しいなと言いかけて、ネアはこちらを見ている瞳の歪んだ心の色に、ぞくりとする。



「そうだ。………それと、あの男の守護を受けるお前から、永遠に地上の世界を奪ってやる」

「待ってください!今のお話を聞いている限り、私達は話し合うべきだと思います」


白けものの正体がアルテアだと理解していたりするのは、内側に入り込んだ者らしい観察力だが、最初の一歩の部分にどうやらネアの知らない事件があるようだ。


「俺はそうは思わない。…………ほお、瞳に温度が入ったな。俺に向ける情を得たらしい」


それをまるで決定的な裏切りのように愉快そうに嗤って囁かれ、ネアは渋面になる。


「あなたを哀れだと思うことは、あなたを許容するということではありません。でも、それでも何かがおかしいので、きちんと話し合いたいと言っているのです」

「憐れむという事は、それに心を添えるということだ。そのまま地上など忘れてしまえ。お前とて、あの女達のように心を縛られたくはないだろう?俺の寵愛を得て、ここで俺の伴侶として生きて行く方が楽だろう」

「あなたの伴侶にはなりません」



そうきっぱりと言ったネアに、ユリウスは微笑んだ。



「選択肢の話に戻るな。既に失ったものを天秤にかけても意味がない。お前がこの先選べるのは、俺の手を取って自分の意思で花嫁となるか、魔術でその思考を書き換えられるかだ」

「選択肢の、内容改善を要求します。乱暴すぎる追い込みではないですか」

「闇の妖精は、最初からある程度は狂っている一族なのだそうだ。諦めろ。…………それに、人間は強欲なのだろう?唯一の失うものなどない選択がある内に、それが欲しいと認めておけ」



頭の中に、無垢でふわふわした生き物との思い出が過ぎった。

一瞬、その思い出と現在のギャップにくらりとしたが、ネアは申し出そのものに揺らいだ訳ではない。


とは言え、そんな履歴のある者を躊躇いなく痛めつけ難いのも確かではあった。



(それに、取りあえず断るとして、危うい場面であることは変わらない)



もしここでその手を払ってしまったとして、その結果ユリウスが荒ぶるのであれば、ディノ達が来てくれるまでにネアは正気を保っていられるのだろうか。

けれども、言葉の敷く魔術がある世界で、心にもない言葉を呟くことは出来なかった。



(答えたら終わる。私が拒絶したその時から、きっと彼は何かを始めてしまうだろう)



パライバブルーの瞳を見返し、それ以外の答えで誤魔化せないところまで来たことがわかった。

残された時間は、とうに底をついていたのだ。



小さく溜め息を吐き、ネアは仕方なく口を開いた。





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