霧雨の城と落胆の刃
「父上、暫しの間、闇の妖精達から申し出があれど、私には繋がないでいただきたい」
城に帰るなりそう言えば、年甲斐もなくいちゃついていた父親は、振り返って目を丸くした。
相変わらず少年にしか見えないし、その隣の伴侶は狼にしか見えない。
「…………イーザ?」
「私の魂の命である、ご主人様が彼等の誰かに拐かされたのです。………それも、私の浅慮が故に。ここでその罪を贖わずして、私はこの先生きていける筈もない」
「魂の命とはまた激しく出たな。…………えーと、ヨシュア殿?」
「ほぇ。ウィリアムに叱られた。………僕もやっちゃったから、シルハーンに殺されちゃうかも。褒めて貰えると思って潰したのに。ふぇ……」
ヨシュアに万象の魔物から連絡が入った時、イーザも一緒にいたのだった。
あの小さな村で滅した偽物達が、リーエンベルクへの闇の妖精の渡し板になったと知り、二人で愕然としたものだ。
ヨシュアにはすぐに終焉の魔物からも連絡が入った。
雲の魔物の元にはシーの相談役が居るのは周知のことなのか、そのシーに協力させろという訳である。
しかし、イーザとしては言われるまでもない。
あの方の敵は、イーザにとっても敵なのだから。
「あなたの事など聞いておりません。あの方が、いかに無事に戻るかでしょう!あの方の身に何かあれば、万象の方に闇の妖精ごと、この世界など滅ぼしていただきましょう」
「…………イーザ、何があったのか皆目分からないままだが、そうなると私達も被害を受けるのではないかな?」
「父上は抜け目ないので、その場合は上手く回避するでしょう」
「世界が滅べば、我々も滅ぶだろうに………」
そう霧雨の妖精王が訴えたのは、彼の隣に座っている見事な毛並みの青い狼だ。
彼はこれでも霧雨の精霊王であり、霧雨の妖精王の伴侶でもある。
「私は好ましいと思うが。私達の息子も、とうとう情熱的な恋に生きる男になったか……。この血を引くに相応しい魂だな」
「あなたから生まれた覚えはありませんよ。それと、場合によってはこの城をお借りします」
「…………闇の妖精と表立って対立するならば、私は反対だ。だが、万象が絡んでいるのか?」
「闇の妖精が攫ったのは、万象の魔物の伴侶ですから」
そう言えば、父達は顔を見合わせた。
にやりと笑ったその目は、妖精らしくしたたかであり、精霊らしく抜け目ない。
「………うーむ。それならば、同族として闇の行いを諌めるという名目も立つか。宜しい」
「私は最初から賛成だよ。恋は良いものだからね」
「…………ほぇ、簡単に許可した」
「私達はね、恋に狂った息子とて愛おしい。霧雨は霧雨を助けるものだ」
「………父上、彼の方に向ける思いは恋などという低俗なものではありません。あの方は最上の主人であり、万象の方さえも…」
「ヨシュア殿、この通り息子は少し特殊ですので、適当に面倒を見て下さい」
「そうだな、頼みます」
「………父上方」
「ま、任された!」
最後は若干面倒になった様子の父達であったが、ヨシュアに丸投げすることで責任を回避したようだ。
とは言え、やはり本人達の言うように身内にはとことん甘い人達でもある。
そして、この上なく老獪で問題や火種をのらりくらりと躱すことに長けている。
だから勿論、イーザは心のままに動くことにした。
あの方が失われるなど、世界の損失ではないか。
「トンメルの宴よりご無沙汰しております、万象の君」
恐らくは、だがきっとそうするだろうと考え、妖精の国で彼等が降り立つ土地をヨシュアに特定させた。
魔物の領域ではない土地で無理に働かされたヨシュアはよろよろしていたが、そもそも彼は戦力としては考えておらず裏方として働いて貰うつもりなので、多少なりと疲れていても構わない。
「君は………?」
万象の君は、夜明けの空の色の瞳を瞠ってこちらを見た。
その隣に立ったシーにも、イーザは頭を下げた。
リーエンベルク領主の代理妖精の一人だ。
「我々が安易に咎人を葬ったことで、足場が繋がったのです。ネア様の奪還と闇の妖精の殲滅に、お力添えさせて下さい」
「君は、ヨシュアの相談役の妖精だね……?………ヨシュア?」
「僕の友達だよ。こっちにはルイザも住んでるのに闇の妖精を殲滅しようとするから、僕は止めたんだ。でもシルハーンがやりたいなら、僕も手伝うよ!」
「……いや、種族の長を殲滅すると基盤から荒れるからね。あちこちに軋みが出るのは好ましくない。他の手段を得た今のところは、そこまでは考えていないかな」
「だって!ほら!」
「あなたは黙りなさい」
「ぎゃあ!」
それ見たことかと跳ね回ったヨシュアを蹴りどかし、イーザは歩み寄ってきて丁寧に一礼した妖精を見返す。
「ヒルドと申します」
「私は、イーザと。霧雨の妖精です」
多くは語らず、申し出を受けると眼差しで伝えてきたのは、リーエンベルクの領主に仕えるシーの一人だ。
その、不安と怒りに揺れる目を見て分かった。
彼であれば、どれだけ汚い手を使っても必ずあの方を取り戻してくれるだろう。
(妖精とは言え、彼はこちらの世界に住む一族ではない…)
特徴的な瞳と羽から見込んだ通りの一族であれば、それはかつて闇の妖精にも匹敵する権限と力を持っていた、古き民だ。
妖精の国でも語り継がれる勇猛さと美しさであったが、外に出た多くの生き物達を導き治めることを選択し、妖精の国から地上に出て行った最初の民。
彼等がこちらに残れば、或いは闇の妖精の代わりに妖精の国を統治したとも言われていた。
イーザがそんなことを知っているのは、霧雨の妖精王である父親の影響である。
父はかつて、その一族の小姓から階位を上げたのだそうだ。
「こちらの国にも、闇の妖精達の管轄から微かに外れる妖精の道と、その支配の届き難い領域があります。そちらをご案内いたしましょう」
「イーザだったね、とても助かる。呼び戻しの魔術をかけるのに、出来るだけ彼等の敷いたものに触れないよう、少し距離を詰めたい」
「それが宜しいでしょう。闇の妖精は、侵食の王ですからね」
「君は、彼等のことに詳しいかい?」
万象からのその問いかけに、イーザは苦い思いで首を振った。
闇の妖精はとても特殊な種族だ。
妖精の国の最奥に広大な土地と壮麗な城を持ち、一生の殆どをそこで暮らす。
闇の領域を侵す妖精達を時に粛清し、またそうするだけの大きな力を持つが、その固有魔術などは一般的には謎だとされている。
王から使用人に至るまで全てを血族で賄い、生涯に一度だけ伴侶を探して地上に出て、異種族のみを攫ってくるのだそうだ。
「彼等が使う、特殊な固有魔術を知っておられますか?せめてそれがわかればと、思っているのですが」
「いいえ。ですが、恐らくは侵食の一種のものでしょう。闇の妖精が司るのは、狂乱と欲望です。そこに属する力であることは間違いないのですが……」
「狂乱と欲望か………。書き換え系統の魔術なのかな。目の前で使ってくれればわかるのだけど、捕まえた妖精は、私の前だと大人しくなってしまうんだ」
「お相手が万象の方となればそうでしょう。しかし、それが逆に不利益となるのですね」
怪物の仮面をつけ擬態をした万象の口元に、微かな自嘲が浮かんだ。
恐ろしく手が込んだ魔術を多用した仮面ということしかわからないくらいに高度な魔術を伺わせる仮面だが、どうやらそれで万象は妖精の気配を纏っているらしい。
それに、もっと暗く荒ぶる様子を想定していたが、思ったより落ち着いているようだ。
イーザは、万象が何度も眺めている小さなカードのようなものを見て、何か良い情報が入ったのだろうかと考えた。
「そちらの擬態であれば、闇の妖精達の背後に忍び寄るには良い目眩しになりそうですね。あの方を取り戻すのに、何とも素晴らしい気配です」
そんなつもりはなかったのに、やはりこうして媚びているとも言われかねない言葉を発してしまうのは、そこから漏れる壮絶な万象の気配だろうか。
万象が万象である時、生き物は万象に従うと言われていたが、ヨシュアから以前、万象はその力を手放したようだと聞いていたのに。
(だが、先程の発言からするに、便利なようで闇の妖精の固有魔術を確かめるのには、不利に働いている。闇の妖精達でさえ、彼を損なおうとは思えないのだろう………)
「狂乱の区画というところを知っているかい?ネアは、そこに連れていかれたそうだ」
「………狂乱の区画。何とも厄介なところに入り込みましたね。あそこは、我々とて滅多に訪れません。狂った残虐な妖精達が住む場所です」
そこで説明があり、イーザはそのカードが万象が伴侶と言葉を繋げることが出来る魔術道具であることを知った。
こちらに着いた時に届いていたメッセージ以降は連絡はないそうだが、それでもまだ彼女が自我を持っているという報せは有難い。
だが、彼女が連れ込まれた区画を知り、イーザは愕然とした。
きっとその区画で、彼女は妖精の好ましくない面ばかりを見るだろう。
それだけでも闇の妖精は極刑に値する。
呼び戻しの魔術が潤沢に届く距離を目指し、四人は早馬と転移堂を使って移動を続けた。
一時間でかなり詰めたが、あと少しは近付きたい。
「成る程、そのような土地なのですね。そうなりますと、寧ろその土地にいる間はせめて、ネア様を連れ出した妖精の頑強さが望まれますね」
「不本意ですが、そうなります。ただ、狂乱の区画は、狂乱故に甘い部分もある。人間を喰らい、人間の奴隷をもっとも多く排出する土地でありながら、狂乱であるが故に己の興味と快楽に支配され、目先のことしか考えずに人間を連れ込んで妖精の真理や秘密まで話してしまう、愚かな妖精も多いのだとか」
イーザの説明に、隣で馬を走らせる妖精は目を細めた。
「聞いたことがある気がします。愚者の街というのはそこでしょうか?」
「ええ、地上に住む妖精達からは、愚者の街とも呼ばれています」
「………私の教え子が持つ、特殊な魔術が一つあります。それはかつてとある精霊王の固有魔術でしたが、元はと言えば愚者の街の妖精がその術式を精霊王に漏らして生まれた、妖精魔術だったのではと言われていました」
「それは興味深い。その精霊王が狂乱の街の口の軽い妖精に取り入り、妖精の魔術の秘密を一つ聞き出したのかもしれませんね」
「あなたは、闇の妖精の魔術が侵食を司ると仰りました。………少し、似ているような気がするのです」
何度も稀有な縁だが、そうであれば良い事なのではあるまいか。
しかし彼は、酷く憂鬱そうにそう言うのだ。
イーザは首を傾げ会話を続ける。
「狂乱の区画は、闇の妖精の領内へ入る為の最終経由地です。……彼等の誰かがあの街に入り浸るくらいにおかしくなり、一族の秘密を暴露した可能性も、ないとは言えません。しかし、あなたの表情では、それが望ましくないとでも言いたげですね」
「………その魔術を闇の妖精への対策として借り受けて来たのですが、場合によっては、それが闇の妖精には効かない可能性があるということですから」
独り言のようにそう呟いた森と湖のシーに、万象の魔物が視線を向けた。
そこにふと、自分とヨシュアが交わすような親密なやり取りを見て、彼等が便宜上ではなく確かな仲間としての絆を結んでいることを知る。
「であれば、あまりそれを頼りとしない方がいいだろう。闇の妖精の持ち物であった場合、跳ね返されることもあるからね」
「ええ、効果を比べるともしやと思う部分が少なからずありますね。闇の妖精があの魔術を固有魔術とするのではないかという疑念がある限り、ひとまずは使わないようにしましょう」
後にそれは、疑念ではなく確信に変わった。
闇の妖精の固有魔術は、ないものをあるように、そしてあるものをないようにと書き換える心理操作の魔術で、ヒルドという妖精の主人が持つのは、あるものをなくす側のその魔術のかけらだったのだ。
闇の妖精達は、あるものをなくす魔術で獲物の心から親しいもの達への愛情を奪い、ないものをあるようにする魔術で自分達への熱に浮かされたような情愛に書き換えていた。
その上で快楽に長けた彼等はその肉体を貪り、捕まえた伴侶達を闇の妖精への肉欲の渇望と精神面での賛美で雁字搦めにしてしまうのだ。
もっとも、妖精の多くは同じように、様々な種の快楽で相手の心を縛ることを好む。
それは肉欲だけではなく、様々な欲望の種類があり、かの欲望の魔物にさえ妖精の欲望には見境がないと言わしめた。
妖精の伴侶が決して相手を裏切らないのは、妖精が与えるそんな悦楽に深い中毒性があるからだ。
しかしそれが同族同士の婚姻になったり、相手の階位が上となると、その限りではなくなる。
「…………取り戻しの術符が効かない?」
そして、心配のないところまで距離を詰めてから行われた取り戻しは、あえなく失敗した。
ヨシュアとイーザもそこに使われている魔術を確かめ、これなら間違いないだろうと言ったばかりのことだ。
「………可能性があるとすれば、特殊な魔術遮蔽空間に入っている場合。狂乱の区画には、奴隷倉庫などのそういう場所がある筈です。………後は考えたくありませんが、あの方ご本人が、その呼び戻しの魔術につけた条件設定を拒絶する魔術を敷いた場合でしょうか」
後者の可能性は指摘したくなかったが、かといって、言わない訳にもいかなかった。
そうであればそれなりに別の道を探る必要があるので、伏せてはおけない。
「…………そうか」
万象はその一言を呟いただけで、後はもう、暫くの間何も言わなかった。
ここからもかなり離れた、狂乱の区画への道をひたすらに移動する。
落胆が刃のようにその心を切り裂き、世界が僅かに陰ったような気がした。
「こちらでは、短距離以外の個人転移が禁じられているのは意外でした」
「妖精は侵食を好みます。同族同士で介入し合わないよう、闇の妖精達がそのような法を作ったのです。それ自体は決して悪いことだとは思いませんが、今回は、………煩わしいばかりだ」
「追っ手を警戒して、転移堂のない土地で術符を使ったのが痛かったですね。最も近い転移堂まで、かなりの距離だ」
「ええ。しかし、行くしかありません。………ヨシュア?」
「僕は、馬なんて大嫌いだ…………馬なんて……」
転移堂を使わない長距離転移は、妖精の国では禁じられている。
妖精の国にある魔術そのものを呪いを使って書き換え、出来ないように制限をかけているのだ。
そして、そのことが状況を悪化させたのは、それから暫くしてのことだった。
呼び戻しの術符を使い損じた万象が、伴侶の呼ぶ声に無理やり転移を踏んだのだ。
かなりの長距離転移を、同行者のヒルドという妖精を連れて踏み越え、イーザはぞっとした。
(これが、世界を書き換える力か………)
何と恐ろしく、しかし偉大なことか。
思わず魔術の残照に見入ってしまい、そんなイーザの感嘆を打ち破ったのはヨシュアだった。
「イーザ!この後で君達の城を借りるよ。シルハーンは無茶をし過ぎだ………」
慌てたようにそう肩を掴まれて、イーザは目を瞠った。
「しかし、容易く踏み越えてゆきましたよ?」
「シルハーンのままであれば簡単だよ。でも、今は妖精に擬態したまま転移を踏んだんだ!存在が一回分離しちゃうよ!」
そう呻いたヨシュアとは違い、イーザにはその理論がよく分からない。
妖精は本来、力尽くでこじ開け理に介入する魔術に明るくない。
それはきっと、細い地下道を掘り進むことの出来る妖精と、その距離を足を伸ばして跨ぎ渡ることの出来る魔物の違いなのだろうが、一見無尽蔵に見える魔物にも、そのような制約や負荷がかかるようだ。
ヨシュアの説明では、出来ない筈の転移を可能にするには、この国に敷かれた規則と理を進むごとに書き換えつつ、極限まで己の存在を希釈する必要があるのだという。
そしてそれを、恐らく同行者としたあの妖精を優先的に守りつつ行っているのだそうだ。
「他の奴なんて、放っておけばいいのに!」
せめて自分は転移をするにしてもと、ヨシュアは腹立たしげだ。
彼にとって魔物の王は畏怖と憧憬の対象であり、同時に可愛がられていたという自負から少しばかり自分ごととしての執着のある相手なのだ。
(だが、仲間だから、なのだろう)
地団駄を踏むヨシュアは、全く同じように、友人の弟だからとイーザの弟を救ってくれた時のことを思い出せないのかもしれない。
彼もまた、己に紐付く存在として認識した他者の為に、無理をしたことがある魔物だった。
成る程魔物は懐に入れた者に対してはこんなに甘いのだなと考え、イーザは少しだけ唇の端を持ち上げる。
「変調や不調が出るのであれば、我々の助けが必要になるでしょう。私の一族が使う市井の者達を狂乱の区画に待機させます。受け入れの準備をしますよ!」
「うん!」
なお、その後ぐったりとした妖精を預けに来た万象の言葉から何があったのかを知り、イーザは激怒した。
転移の影響で存在が揺らいでしまい、怯えて震えていた伴侶を取り戻しきれなかったと憂いた万象に、大切なご主人様を怯えさせた闇の妖精への怒りが抑えきれなくなったのだ。
万象もかなり消耗していた。
折角安定させたばかりのところを、連れの妖精の治癒を行い、弾き飛ばされた土地から再度の転移を図ったのだ。
しかし、既に彼女は狂乱の区画から連れ出された後であった。
動くこともままならなかった万象達を保護してくれたのは、幸いにもその場に居たという特務隊と闇の妖精の王子とは遭遇せずに済んだ、狂乱の区画近くの土地に潜ませた霧雨の系譜の者達だった。
「……ヨシュアが今、地上のどなたかと通信をしています。何か妙案があるかもしれませんし、先程お話したように、直接交渉の手立てもございます。今暫くは、どうかあまり無理をなされませんよう」
さあさあと霧雨が降る城の一部屋で、イーザは虚ろな目で窓の外を見ている万象を見ていた。
まるでそれは万華鏡のように、美しく恐ろしく、憐れでおぞましい。
とは言え、万象が身を休めるのは数時間程度だ。
いち妖精に擬態したままでこれだけのことを可能にする無尽蔵さには驚くばかりだが、ご主人様を守れなかった下僕として、その心は粉々だろう。
どれだけの苦痛を噛み締めているのか、淡く微笑む形に唇を歪めはしても、万象の瞳は酷く暗かった。
「この城からは、地上に連絡が届くのだね」
「闇の妖精達が閉ざしたのは、地上への出口だけですので、通信ならば各一族の城でならば叶います。市政の魔術施設からのものは追跡される可能性がありますが、このような場所からであれば、彼等とて踏み込めない」
万象の訪問に縮こまっていた父親を恫喝し、有事の為に秘されていたルートを使い正式に闇の妖精の城を訪問する交渉を強要させれば、万象の訪れと今回の事件を知らなかった闇の妖精の女王は驚愕したようだ。
ヨシュアが終焉の魔物から伝言されたと言う、次はすべての羽を捥ぎ取るという一言もかなり効いたようで、すぐに、歩み寄るどころか平伏するに等しい程に、全面的な協力を申し出るという返答があった。
「婚礼の儀式は明日とのことです。それまでにその王弟と王弟派の者達に悟られぬよう、道を作るとのことでした」
「あまり嬉しくはないけれど、逃げられないようにする為には少しだけ待とう。………あの子に、そのことを伝えられるかな?」
「通信盤をお借りして、エーダリア様にはお伝えしております。それと、ネア様はご無事のようです。アルテア様のカードに連絡を下さったようで」
ヨシュアと同じように通信に出ていたヒルドのその一言は、万象の魔物に劇的な変化をもたらした。
ふわりと瞳を見開き、暗く平坦だった瞳に奥行きが戻る。
「カードを見てみるよ…」
「いえ、この霧雨の城を特定されぬよう、ディノ様のカードは使わないようにしていただいているようです。ですが、しきりにディノ様のことを心配されていたようで」
そう言われた万象は、どこか悄然とした面持ちで頷いた。
無事だったと知ってもやはり、直接その言葉が届くのと届かないのとでは、安堵の具合は違うのだろう。
イーザはあえて、話題を元に戻した。
「その妖精が婚姻の儀を急いで城に戻ってくれたお陰で、女王の手が届くようになりましたね。どうぞ、心ゆくまで制裁をお与え下さい」
「ほぇ、イーザ…………」
「おや、話は終わりましたか?」
「うん。約束通り女王への伝言が終わったよって報告して、ウィリアムとまた話したんだ」
通信盤から戻って来たヨシュアは、終焉の魔物が彼女から受け取ったという、長い伝言を持ち帰って来た。
それを聞いた万象の魔物は、長い間無言のまま美しい瞳を揺らめかせて立ち尽くしていた。
端的な言葉では届かないと判断したのか、彼女はとても丁寧な伝言を考えたのだ。
“ディノ、私は無事です。お城に連れていかれてしまいましたが、アルテアさんが、もし悪い魔術に飲み込まれても帰ってこられるお守りをくれましたよ!なので、ディノも安心して下さいね。そして、本当にごめんなさい。私が不用意に呼んだ結果、ディノに無茶をさせてしまい、ヒルドさんに怪我をさせてしまいました。おまけに、せっかくディノが助けてくれたのに、飛び出してまた捕まってしまいました。ディノとヒルドさんの計画をくしゃくしゃにしてしまいましたが、見限らないでくれると嬉しいです。その分、頑張って闇の妖精さん達をずたぼろにしますので、見直してくれますか?なお、闇の妖精の王子様は半殺しにしてしまいました。羽は不細工な猫さん模様です!”
それは、巧妙に罪の在り処を置き換えた言葉であった。
恐らく、手が届かなかったことで自責の念に駆られているに違いない伴侶に、自分が犯した失態を許してくれるだろうかと問いかけたのだ。
あまりにも手厚い下僕の管理に、イーザは目頭を押さえてご主人様と呟きたくなった。
伝言の形で伝えられたので、自分に話しかけられたような気にさえなるではないか。
(勿論です、ご主人様。至らぬのはこの私。必ずやお救いしてみせますとも!)
その為になら、ありとあらゆる外交ルートを使い、闇の妖精の王子の羽がおかしなことになったと広めてやろう。
「ふむ。私を刺したあの妖精の王子は、ネア様が半殺しにして下さったそうですので、矢を射った騎士達の方を殲滅しておきましょう」
命を落とすような怪我ではなかったが、やはりこのヒルドも転移の直後で本調子ではなく、闇の妖精達に遅れを取り悔しい思いをしたそうだ。
微笑んでいるがその瑠璃色の瞳は刃のようで、きっと闇の妖精達は彼の出自を理解する前に攻撃してしまったのだなとイーザは思う。
敵となるものは全て殲滅するのが、この古き一族の掟なのだ。
光竜の剣を持ち、森と湖の最も深い色の羽を持つ。
長い孔雀色の髪を一本に結い、その瞳は夜の森を包む闇のような瑠璃の青。
(あの一族のシーが残っていたとは………)
その王族の特徴を持つ妖精の存在は、万象とは違う意味で闇の妖精達を震撼させるだろう。
「それにしても、女王はあっさりと陥落しましたね。面識はないとのことでしたが………」
「どうやら、万象の君になみなみならぬ恐れを抱かれているようでしたよ」
そんな古の民とそう話して微笑み交わすのは、女王と直接に交渉した父達だ。
なかなかに愉快な対談だったよと微笑んでいるので、今後この出来事を最大限に闇の妖精達への交渉の手札とするに違いない。
「………どうしてだろうね。伴侶に剣の魔物がいるからかな」
そう呟いた万象はまだ、闇の妖精について口を開けば、イーザもひやりとする程に暗く冷たい目をしている。
ヒルドという妖精は普通に会話をしているが、その美しい呟き一つでこちらの肌に霜がつき、指先から凍りつきそうだ。
後に知ったことによると、かつての行進の際に地上に出た女王は、一度だけ舞踏会で万象の姿を見たことがあったのだった。
塩の魔物の心臓を奪った万象の姿を見て、あまりの畏怖に打たれ感涙したことがあるらしい。
そんな万象の怒りに触れたい筈は勿論なく、また彼女の夫である剣の魔物からも、決してその怒りを買わぬように助言されたのだとか。
やがて使者が万象とその同行者の妖精を迎えに来ると、二人は妖精の道から闇の妖精の城に迎え入れられた。
「万象の君は、覗き込めば身を滅ぼす、炎のような方ですね」
「うん。途方もなく慕わしくて、どうすればいいか分からないくらいに恐ろしい方だよ。だから僕たち魔物はみんな、シルハーンに微笑みかけて貰いたいんだ」
闇の妖精の女王の畏怖が分かったような気がしつつ、イーザは、ヨシュアとその二人を見送った。
イーザも同行したかったのだが、ヒルドという妖精が言葉巧みに、万象が雲の魔物を通じて霧雨の妖精に交渉の窓口をこじ開けさせたのだと闇の使いの者達に説明したのだ。
それは今後の一族と、闇の妖精達との関係を膠着させない為の配慮であったので、イーザは政治というものに介入してきた妖精の巧みさに舌を巻き、巻き込まれた者らしくどこかほっとしたような雰囲気を装って彼らを見送るしかなかった。
「出来れば、直接お助けしたかったのですが、それは烏滸がましいですね」
「…………ふぇ、お腹空いた」
「ひとまずは城に入りましょう。モスモスの散歩が終わったら、昼食にします」
「僕、シチューと焼き魚が食べたいな」
「ここはあなたの城ではありません。今更もてなすような客でもないのですから、注文は差し控えて下さい」
「ふぇぇ」
ヨシュアは地面に丸まって抗議していたが、イーザはその襟首を掴んで屋内に戻った。
今はただ、あの方のご無事を心からお祈りしよう。