197. もう一度離ればなれになりました(本編)
ネアがブーツで妖精を踏みしめていると、不意に誰かが両脇の下に手を入れてネアの体を持ち上げた。
てっきり魔物が来てくれたのかと思い、ほわっと安堵の微笑みを浮かべかけたネアは、自分を持ち上げたのがユリウスだと知り、瞳を虚ろにする。
「殺しても構わないが、シーを殺すと呪いがかかることを理解してからやれ」
「それを思い出したので、殺すのはやめました。その代り、おでこに邪悪な模様を刻んであります」
「…………あまり知りたくないな」
「しかし、殺さないと魔術が解けないのか、私の大事な魔物が見当たらないのです」
ネアが焦って闇の妖精の王子を踏みつけていたのは、それでだった。
春告げのチケットを使おうとして、ネアはふと躊躇ってしまったのだ。
ディノが特殊な擬態をしていることや、ここが色々と制約の多そうな妖精の国であること。
その全てを加味すれば、そういうことに通じた者達の確認なく使ってしまい、せっかくの春告げのチケットを無駄にしたら大変ではないか。
もしヒルドの容体が重篤であれば。
或いは、ディノの摩耗が深刻であれば。
そのチケットだけが最後の希望になるその時に、間違って使って、最後のチャンスを無駄にしましたでは済まないのだ。
(だから、ディノ達と合流してからチケットを使おうと思っていたのに………)
仲間達を戻すようにと拷問されても頷かず、過激になった人間の制裁に闇の妖精の王子が意識を失っても、なぜか二人の姿はどこにも見当たらなかった。
声を張り上げて名前を呼びたかったが、一度それをした結果、無理をしたディノを思い出して必死に堪えた。
無闇に声を上げることも、先程の怖い妖精達に見付かる恐れがある。
そうして、やはりこの不届き者を殺すしかないと思い、必死に妖精の王子を踏みしめていたのだった。
「ほお、ここまで迎えが来たか。だが、残念ながらこの周囲にはいないようだな。惑わせの術式を敷かれたのであれば、感知出来ないような僻地に飛ばすのが、ソロメオのやり口だ」
「け、怪我人がいるのです!」
ネアはじわっと涙の浮かんだ目でユリウスを見返したが、美しい闇の妖精は微笑んで首を傾げる。
「そうか、それは幸いだ。追手が減るにこしたことはない。さっさと死んで貰おうか。…………おっと」
蹴り上げられた爪先を躱し、ユリウスは目を眇める。
がしっと首を掴まれ、ネアは頑固にユリウスを睨んだ。
「悪いが、殺しを楽しんだ直後で気が立っていてな。お前の甘ったれた言葉に付き合っている暇はない」
「あなたの言葉に頷く必要が私にあるでしょうか。私にとって大切なのは彼等であって、あなたではないのです」
「だとすれば、尚更に言動を慎め。不誠実な花嫁には、それ相応の扱い方がある」
首を掴んだ腕にぐっと力が籠った。
ネアが目を逸らさずにいれば、一度手を緩めるとネアの首飾りを片手で引き千切り、どこかに放り投げてしまう。
そしてその途端、ネアは何かの呪縛魔術をかけられたのか上手く体が動かせなくなった。
「……………!」
目を瞠ってからまた眼差しを険しくした人間に、ユリウスは鮮やかなパライバブルーの瞳を細める。
ひどく残忍な人外者らしい眼差しだったが、ネアにとっては決して珍しいものでもないのだ。
この世界が優しいだけだと思い、ぬくぬくとあのリーエンベルクで暮らしていたと思ったら大間違いだぞと思いながら、ネアは辛うじて首飾りが投げ捨てられた方に視線を向ける。
首も殆ど動かせず、喋ることも出来ない。
ぷんと、血の匂いがした。
その濃密な血臭の中を、ユリウスは無言でネアを乱暴に抱え直すと小脇に抱えるようにし、そのまま歩き出す。
石畳に大きな羽を広げたまま倒れ伏し、秋になるとべたべたするキノコが生える呪いをかけられ、額に変な顔の絵を刻まれた王子には興味がないようだ。
最初ネアは、妖精の王子の顔にきりんの絵を転写してやるつもりでいた。
しかしそうすると、彼は必然的に他者への武器も持つことになってしまう。
よって仕様を変え、咄嗟に変な顔の絵を描いてそれを刻み付けてやったのだ。
(暗い…………)
空の満月には雲がかかり、人間の目には闇にけぶったように見通しが悪くなる。
転移堂の周辺に焚かれていた明かりは全て消されてしまったのか、ずしりとした闇に包まれていた。
時々、足元に砕けて転がった石壁の欠片などもあるので、こちらでは相当に激しい戦闘が繰り広げられたのだろう。
壁沿いや階段の一画には、まだ崩れきっていない妖精の亡骸が無残に転がっていて、さらさらと塵になりかけている。
ネアは最初その影に、大事な人達だったらどうしようと心臓が止まりそうになったが、着ているものを見る限り、ユリウスの追っ手だった闇の妖精達しかいないようだ。
押し潰されそうな沈黙を纏ったまま、ユリウスは転移陣の上に立った。
(…………どうしてこの人達は転移陣を使うのだろう?もしかして、自分の力では転移が出来ないのだろうか)
はっとしてここで逃げればと何とか暴れようとしたが、体は棒のように動かないままだった。
運動機能が制限されているというよりは、固められて動かせなくなる魔術をかけられ、その内側で暴れているだけのような感じである。
ユリウスが踏んだ場所から転移陣が淡く光り出す。
その光が目に染みたのか、ネアは涙を零しそうになる目をぎゅっと閉じた。
(…………ディノ、ヒルドさん…………)
その名前を胸の内で呟いてしまったら、堪らずに涙が溢れそうになって目がひりひりした。
溢れた血潮と、地面に座り込んでいた魔物の姿。
もう一度その光景を思い返して奥歯を噛み締める。
青白い光が陣の内側に溢れた。
ふと気付けば、ユリウスは転移の詠唱を詠じていたようで、耳になめらかな声が飛び込んで来る。
(…………ああ、移動してしまう)
その腕から逃げ出すことも、この妖精を打ち負かすことも出来ない。
大事な人達がどうなってしまったのか、ネアは息を吸うたびにふぁっと漏れてしまいそうな嗚咽を必死に飲み込んだ。
(大丈夫、ディノは絶対にいなくならない。だからこそ苦しんできたのだし、この妖精の国で困ったことになったとしても、きっと不自由さだけで済む筈だから………)
だからもし、ヒルドに万が一のことがあってもあのチケットを使ってみせよう。
何度も何度も自分にそう言い聞かせ、ネアは込み上げてきた嗚咽と涙を呑み込んだ。
「?!」
ばすんと、放り投げられる。
はっとして瞬きをすると、そこはもう見知らぬ部屋の一室だった。
転移は瞬きほどの一瞬で終わってしまったようだ。
投げ出されたのが寝台だったので体を強張らせたが、ユリウスはただ、狩り上げた獲物をどこかの部屋に閉じ込めようとしただけらしい。
ふぃっと手を振ってネアの呪縛を解くと、明るい部屋で見れば返り血で汚れていた手袋を外す。
「攫ってきた人間を飼う為の部屋だ。この部屋からは出られないぞ。せいぜい、大人しくしていろ」
外した手袋を綺麗な床の絨毯の上に投げ捨て、そう言い残すとユリウスは部屋を出て行った。
ばたんと、扉が閉まる。
「…………ここは、お城?」
のろのろと体を起こし、ネアはそう呟く。
幸いにも声は出るようだし、体も元通り動くようになった。
よろりと立ち上がり周囲を見回せば、小奇麗な部屋には金の細工を施した浴室らしき部屋への扉がある。
半ば駆け込むようにしてそこに飛び込むと、ネアはバタンと扉を閉めて背中で押さえた。
そのまま、ずるっと扉に体を押し付けたまま膝が崩れる。
ひんやりと冷たいタイルの上に座り込むと、なんとも言えない惨めさに、また泣けそうになった。
「…………っ、っく」
一度そんな感情に噛みつかれれば、じわじわと悲しさや怒りという様々な感情が戻って来る。
その時は感じることのなかった絶望感にも打ちのめされ、ネアは膝を抱えて小さな嗚咽を一つだけ零した。
(…………血の匂いがする)
それからどれだけ経っただろうか。
一時間くらいは、そのまま放心していたようだ。
口の中が張り付くようになってごくりと唾を飲み噎せて我に返った。
そしてふと、そんなことに気付いたのだ。
ゆっくりと立ち上がって浴室の鏡の前に立てば、あんまりな自分の姿にネアは呆然とした。
どうやらユリウスは返り血で汚れた体であちこちに触れたようだ。
抱えられていた部分や、その際にユリウスに面していた部分、ぐっと絞められた喉など、あちこちにべったりと誰かの血がついている。
そんな血に汚れた自分を見た途端、ひくっと喉が鳴った。
怖いという感情よりも腹立たしさと悔しさでいっぱいになって、ぽろりと涙が零れてしまう。
慌ててその涙を汚れていない指先で拭うと、ネアはその指を舐めて、涙をもう一度自分の中に戻した。
こんなところで自分の欠片を落すなど言語道断だ。
これ以上、一片のものだって渡すものか。
「…………負けるものか」
暗い瞳で鏡の中の自分に呟き、ネアは鏡台の横にあった柔らかいタオルのようなものを濡らすと、猛然と体や服についた血を落し始めた。
最悪今着ている服は剥ぎ取って燃やすとしても、その際に着替えをどこから出したのか尋ねられたくはない。
となると、暫くはこの服のまま我慢するしかなさそうだ。
本当はそれよりも先にしたいことがあったが、まずはこの血を落とさないと侵食や呪いで大事な道具を狂わせかねない。
ネアが損なわれないのはディノの指輪があるからで、本来人外者の血はとても有毒なものなのだ。
ダリルから以前、高度な魔術道具を使う際の諸注意として聞いていたことだった。
(…………ノアに色々相談しておいて、本当に良かった)
実はネアは、この問題が勃発したばかりの頃に、ノアにとある相談をしていた。
ネアにとっては心強い各種装備をどこに蓄えておくべきか、そして身近な人がおかしなことになった際に、既に知られている装備をどこに隠せばいいのかをだ。
その時にネアが考えたのは、エーダリアやグラストなどの抵抗力の弱い顔見知りの人間や、リーエンベルクに住む魔物達が闇の妖精に籠絡された場合のことだった。
同性とはいえ、それを飛び越えるくらいに生き物としての魅力が遥かに上の者達ばかりが周囲にいたので、ネアはその心配を一番にしていて、自分が標的になってしまう可能性などこれっぽっちも考えていなかったのだ。
やっと安全なくらいに身綺麗になり、もそもそと蹲ってブーツの隙間に手を差し込むと、足首の金庫からアルテアのカードを取り出す。
その中にまだ大事な首飾りが入っていることに、ふうっと安堵の息が漏れた。
先程ユリウスが投げ捨てたのは、彼が寝ている間にネアが入れ替えた、ノアが作ってくれた写し絵の魔術で作った偽物なのだ。
多少のものは入る金庫つきで、中にはきりんの絵が数枚と、転移門が一つに傷薬が一本入っている。
誰かに迂闊に拾われたくもないのだが、最初からあの首飾りの機能を知る相手への囮として作ったものであるし、あの場合は仕方ないと諦めるしかない。
そしてネアは、アルテアのカードをそっと開いた。
“遅いぞ。どこをほっつき歩いている”
その言葉を見た途端、また涙が出そうになって、ネアは浴室のタイルの上で膝を抱える。
“ネア、まだシル達に会えないの?”
そう書いてくれているのはノアだろう。
怪我はないかと尋ねてくれているエーダリアの文字を見た途端、ネアは胸が潰れそうになった。
こんな風に身を案じてくれているエーダリアに、ヒルドのことをどうやって伝えればいいというのだろう。
でも、これ以上一秒だって時間を無駄にしないで、きちんと助けを請わなければならない。
(エーダリア様、私が捕まったせいで、ヒルドさんが………)
言うべき言葉を考えて、また胸が締め付けられるような思いをしていたその時、ゆらりとカードに新しい文字が浮かび上がった。
“ネア、傍にいてやれなくてすまない。やっとこちらに戻ったところだ。取り急ぎ、ヨシュアからの伝言を伝えるぞ。シルハーンもヒルドも無事だから安心していい。今は、霧雨のシーの城にいるらしい”
「……………ふぎゅ」
その瞬間の安堵を、がくりと床に座り込んでしまった瞬間の感謝を、どう伝えればいいのだろう。
ネアは、今度は安堵のあまり声を上げてわんわん泣き出したくなったが、ぎゅうっと両手を組んで握りしめて、なんとか堪えた。
爪でぐぐっとやってしまったからか、手の甲に赤い跡がついてしまったが、これは喜びの印なのでまるで構わない。
それは、どうやらリーエンベルクに合流したばかりのウィリアムが持ち込んでくれた吉報のようだった。
何度も深呼吸をして涙を引っ込めると、ネアはあえて引き攣った笑顔を作ってみる。
あんまりな場面が続いてしまって心が萎れてしまったので、嬉しいニュースの時にはきちんと喜んでおこう。
そうすればきっと、また踏ん張って戦う為の活力になるだろう。
“今やっと、カードを見られるようになりました。またいつ嫌なやつが来るかわかりませんが、ディノとヒルドさんは、無事なのですね!”
ネアがそう書き込んだ途端、カードの上には沢山の文字が溢れた。
“馬鹿か。早く連絡しろ!”
“今はどこにいるんだ?怪我はしていないのだな?”
“ネア、まだ妖精の魔術にはかかっていないな?”
“ネア、頑張ったね。シルに何かがあって、連絡出来なかったのかな”
震える指でそのカードをなぞり、ネアは泣き出さないように、ふるふるする唇をしっかり噛み締める。
誰かか、或いはみんなはこのカードの側でネアの返事が来るのを待っていてくれたのだ。
恐らくだが、エーダリアの執務室で、領主の仕事をするエーダリアの近くに全員で集まっていたのだろう。
“迎えに来てくれたディノが、私のせいで無茶をして弱ってしまい、ヒルドさんが闇の妖精の王子に刺されました。………その犯人は半殺しにしてあるので、いつかもっと仕返ししたいです”
“ああ、ヒルドが負傷したと聞いた。だが、シルハーンがすぐに傷を塞いだそうだ。俺にはまだ概要が掴めないが、間に合うところで存在が安定したと言っていたな”
“…………ほんとうに、良かったです。目の前でヒルドさんが怪我をして、………心臓が止まりそうになりました”
ネアが一番心配だったのがエーダリアの反応だったのだが、エーダリアは本心はどうであれ、とても落ち着いているようだ。
“ああ見えてヒルドは頑強だからな。お前がこちらに来る前に起きた、ガレンの祟りもの討伐の時にも、相手の妖精の持つ槍に串刺しにされたがぴんぴんしていたぞ”
“ヒルドさんが丈夫なことには、感謝しかありません!”
“ありゃ、そう言えばネアは知らないんだね。僕もたくさん守護を渡しておいたから、今のヒルドは首を切られたくらいじゃ死なないよ”
“…………それでも、首を切られないで欲しいです”
(そっか、こちらに下りるのに、ヒルドさん大好きなノアが、何も保険をかけていない筈がなかった……)
そんな当たり前のことにようやく思い至り、ネアはがくりと肩を落とした。
勿論、あんな傷を与えられただけでも万死に値するのだが、そのことを予め知っていたら、ヒルド本人も仕返しをしたいだろうし、あの王子の羽に変な模様を転写するのはせめて控えたかもしれない。
綺麗だった羽は、憎しみにかられて不細工に描いたねこさん模様にされているが、そんな風になってしまった妖精でもヒルドは悲しくならずに仕返し出来るだろうか。
因みに、王子が失神したのはその時だ。
“恐らく、闇の妖精さんのお城にいるのだと思います。ユリウスさんという、闇の妖精さんの王様のご兄弟の方に、攫ってきた人間を閉じ込めるお部屋に放り込まれました”
やっと訪れた好機なのか、ネアが不甲斐なく放心していた時間が長かった割には、ユリウスが部屋に戻ってくるまでには時間があった。
訳ありの身でお城に戻ったのなら、彼にもやるべきことは多いのかもしれない。
ネアは聞き出したことや見聞きしたことをカードにどんどん書き込んでゆき、頼もしい仲間達に情報を受け渡す。
こうして共有しておけば、ネア一人が自分の頭で考えるより遥かに安心だ。
一通り心配してくれた後、ウィリアムは、ネアにあれこれ注意事項の伝達を始めた。
“ネア、念の為にシルハーンのカードには連絡をしないように。繋がりを残さないのがこのカードのいいところだが、妖精の国で試した者はいないからな。シルハーン達の居場所を掴ませたくない”
“分りました。でもウィリアムさん、ディノとヒルドさんが心配してくれていると思うので、私は大丈夫だと伝えて貰えますか?”
“ああ、すぐにヨシュアに伝言させよう。それと、シルハーン達は、霧雨のシーの領土から正式な申し入れをして闇の妖精の城に入るつもりだ。幸いにも、霧雨のシー達が、闇の妖精の女王との公式な交渉の伝手を持っていたそうだ”
“霧雨の妖精さん達が、ディノとヒルドさんを助けに来てくれたのですか?”
あの場にはいなかったが、同行してくれていたのかなと思うと、有志の協力者だったことが判明した。
妖精の国に下りたディノ達は、そこで待っていたヨシュアの相談役のシーに、協力を申し出て貰ったらしい。
(………ディノの為にヨシュアさんが頼んでくれたのかな。良かった……)
今回、傷付いたディノ達を回収したのも彼等なのだとか。
“お話が出来れば、状況が改善しそうなのですか?”
“今回のことで、彼等は万象の領域を既に損なった。ネアが妖精の国にいて、ネアを攫った妖精もそちらに戻っていることで、闇の妖精の女王がこの状況に介入し易くなったんだ”
ここでアルテアが代わって教えてくれた。
“闇の妖精同士の関わり合いは、魔物に似ている。離れた者を探してまで従えることはないが、目の前にいれば諌めたり罰したりすることは出来るからな”
“…………途端に、妖精の女王様が頼もしく思えてきました”
“ウィリアムの奴も、ヨシュア経由で女王を脅してあるらしいぞ”
“ウィリアムさん!”
またほろりと微笑みが零れ、ネアは嬉しくなって蹲ったまま小さく弾んだ。
胸の中に凝った重たくて悲しいものが剥がれ落ち、強張っていた体から力が抜けてゆくようだ。
「………む、痛い」
そうなると今度は打ち身が痛み出したので、ネアはささっと取り出した傷薬をちょびっとだけ飲んでおく。
あんまり健康になっても訝しまれそうだが、痛くて思うように動けないのは困る。
ついでに、とっておき用の雪菓子も一かけら引っ張り出し、口の中に放り込んで心を解いておいた。
強張ったままの心では、柔軟な考え方は出来ない。
ネアは決して自分を過信していない。
だからこそ、自分を助ける為にもこの隙に少しでも解しておこう。
(ディノとヒルドさんを助けてくれた霧雨のシーさんには、たくさんお礼の品物を贈ろう!)
やっと優しいことが考えられる。
そう考えると、嬉しかった。
ディノのカードにメッセージを送りたくて仕方なかったが、それは我慢しなければならない。
“何か他に話したいことはないのか?”
そんなメッセージをくれたのはアルテアだ。
こてんと首を傾げ、ネアは伝え忘れていることはないのか考えてみる。
しかし、あまり甘やかして貰っているのも何だか申し訳ないような気持ちになった。
“私に構って貰っていることで、お忙しいみなさんを拘束してしまっていませんか?”
ただでさえ迷惑をかけている。
そう思ってネアはくしゅんと鼻を鳴らす。
本当はこのままずっと話していたいのだが、忙しい人達なのだし、そろそろ解放してやらないといけない。
ここにはいないゼノーシュは、今回のことでかなりグラストの周囲を警戒しており、今はそちらにべったりなのだそうだ。
ユリウス入りのオルと最も長く接していたこともあるが、その後で現場に戻った際にも、また別の闇の妖精に遭遇してしまったらしい。
そこで大規模な交戦があり、ゼノーシュはますますグラストにべったりになったそうだ。
リーエンベルクの騎士の一人も負傷し、彼等と一緒に騎士棟にいるのだとか。
“お前は無駄なことは考えなくていい。誰かが部屋に戻ってくるまでは、ここで毒でも吐いてろ”
“むぐ。アルテアさんが優しいです。………であれば、戻ったら美味しいパイシチューが食べたいです”
“いくらでも作ってやる”
“ネア、僕は?”
“ノアやエーダリア様には、ただ普通に一緒にご飯を食べて欲しいです。みんなで過ごす当たり前の一日を取り戻したいですから”
“俺への要求はないのか?”
“ウィリアムさんには、またあの素敵なテントに連れていって欲しいです!”
“勿論、幾らでも”
“ありゃ、僕もそういうのがいいんだけど!”
“じゃあ、ノアにもまたどこかに連れて行って貰いますね”
地上では、ユリウスとは別に動いていた闇の妖精の王子が、それなりの被害を出していた。
ユリウスの情報の通り、彼は魔術師と歌乞いを中心に獲物を選別したらしい。
シュタルトで魔術師が一人、森の中にある小さな集落で歌乞いが一人、そしてウィーム中央では魔術師候補生の姉妹二人と、彫金工房の歌乞いが一人犠牲になった。
リーエンベルクの騎士の従姉妹も被害に遭ったが、ディノとノアが構築した魔術防壁に駆け込むのが間に合い、両親と幼い弟は掴みかかられただけで済んだ。
この騎士の従姉妹の女性は特に注視されていなかったが、本人も気付かないところでかなり危うい魔術祝福を持っていることが判明したのだとか。
完全に操られてしまえば周辺被害が出たに違いないと、エーダリアはかなりほっとしたようだった。
“薬師になろうとしたところで、薬葉の祝福を受けていたようだ。手近なものを望む薬質に変化させる魔術を持っていた”
“その女性の家族が、ネアに影響されて激辛香辛料油を持ってたんだよ。それをその女の子を籠絡した妖精に投げつけて、逃げる時間を稼げたんだってさ”
(………身近なものを望む薬質に変化させる………)
それはかなり危険な能力ではないか。
こうして迷惑をかけているばかりではなく、自分達がいることで少しの役立ちがあったと知り、ネアは嬉しかった。
“また、それとは別に襲われている女性を一人、ディノが助けてくれてな。製菓魔術を持つ者で、お前の気に入っているザハの菓子部門の職人だったそうだ”
外に出てソロメオを追っていたディノが気付き、その女性を保護してリーエンベルクの騎士に預けてくれたのだった。
そこでディノに手荒く放り出され、ソロメオ達は既に捕えた獲物を奪われないようにと妖精の国に逃げ込んだらしい。
“エーダリア様、申し訳ありません。せっかくそれで済んだものを、私が捕まったことでこんなお手間を…”
“お前を捕らえた妖精がウィームに来ずとも、闇の妖精の王子とその騎士達は来ただろう。高位の魔物達の助けがなければ、ウィームではもっと大きな被害が出た筈だ。お前がいたことで、ディノが与えた土地の庇護が結果としてこの土地を守ってくれている。だから、お前は何も気負う必要はない”
“アルテアが捕まえた妖精の騎士がね、最初からあの闇の妖精達は、ウィームを最大の狩り場として考えていたんだって教えてくれたんだ。五十人程選別する予定だったらしいよ”
“五十人も………”
“今回の行進で、騎士達の獲物も含め、それなりの人数を得ようとしたらしいな”
結果三人の被害は出たが、ダリル達の調査で徐々に明らかになってきた被害報告によれば、ガーウィンでは九人、アルビクロムでは八人、そして王都では十四人とより多くの被害が出ている。
妖精達が最も楽しみにしていたウィームを最後にしたことで、結果防衛が間に合ったということなのだった。
“近隣の大国が滅びたり再編されたりしたことで、彼等は魔術に富むヴェルクレア全土で最も多くの花嫁狩りをするつもりだったんだろう。それと、そろそろ、アルテアの準備が終わるな”
“準備………?”
“ほんの一瞬だけでごめんね、ネア、アルテアの名前を呼んでみて”
ウィリアムに意味深な言葉を残され、ノアにそう言われ、ネアはこてんと首を傾げる。
困惑したまま、ぽそりと名前を呼んでみた。
「アルテアさん?」
その瞬間のことだった。
不意に何かにぎゅっと抱き締められ、ネアは驚いて目を瞠る。
「……もう少し堪えろよ」
「アルテアさん?!」
それは確かに、ほんの一瞬のことだった。
一瞬のその間だけ、そこにアルテアがいて、頬に唇が触れる温度にはっとする。
しかし、ネアが顔を上げて鮮やかな赤紫色の瞳と目が合ったその直後に、霧のようになって消えてしまった。
ネアを見て、痛ましげに微笑んだアルテアの表情が確かに見えたのに。
「ほわ、………アルテアさん?」
ネアは心細くなってきょろきょろしたが、部屋はしんとしていた。
ふにゅりと涙目になってカードに視線を落とすと、そこにはノアからの解説が揺れている。
“今ので、アルテアが印の魔術をつけたんだ”
“しるしの魔術?”
“そう。君達は使い魔契約をしてるから、その回路を僕が死ぬ気で頑張ってこじ開けたんだよ。二秒しか出来なかったけどね”
“ここは特別な部屋だった筈です。ノアは、凄いのですね……”
“こっちから君の存在に直接繋げるから、どこにいても同じなんだ。逆に機密性の高い場所だから、アルテアが侵入したことが気付かれないのが良かったよ!”
“その、印の魔術とはどんなものなのですか?”
“お前がもし闇の妖精の魔術に落ちても、それがあれば、接触するだけでお前の意識を取り戻せるのだそうだ。固有魔術の解明が出来ていない以上、防ぐのは難しいそうだが、この短時間でそのような魔術を組み上げてくれた”
エーダリアの説明によると、それはネアが望んでも解けない魔術なので、万が一自由意志を喪失しても引き剥がされてしまわずに残すことが出来る。
“ほわ、アルテアさん、有難うございます!”
“転移酔いで潰れてるな”
“なぬ”
ウィリアムによれば、それこそお酒で酔い潰れたようになっているらしい。
急降下で妖精の国に入り、また引き戻された負担で乗り物酔いのような影響が出たそうだ。
“アルテアの選択と、ウィリアムが終焉を貸してくれたんだよ。でも君とある程度の繋がりがなければ出来なかったから、元々の守護があって良かったね”
“………皆さんがいてくれて、私は幸せです。ノアも、エーダリア様も、アルテアさんもウィリアムさんも、こちらに来てくれたディノも、ヒルドさんも、グラストさんを心配中なゼノも、ゼノに心配されてしまっているグラストさんも、みんな大好きです!”
“わーお、それ一番嬉しいやつ!そのまま、僕とも指輪交換しちゃう?”
ノアがはしゃいだところで、ガチャリと扉が鳴る音が聞こえた。
ネアは慌てて“来た”とだけ記し、カードを敢えての腕輪の金庫に隠す。
その腕輪は袖口に隠してあるので、もし見付かったとしても隠し持っていたのはこれだけだと油断してくれないだろうか。
誰かが部屋の中に入って来て、浴室の扉の前に立つ気配がある。
ネアはごくりと喉を鳴らし、その訪れに備えた。