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196. かつてした、覚悟でした(本編)




転移堂は大きな異国の寺院のような建物だった。



鉛筆のような細長い塔を四方に配置し、中央には玉葱型の大きなドームを配した構造だ。

目がちかちかするくらいの精緻なモザイクやレリーフがあるが、ウィームの大聖堂のような絵としての模様や表現はない。

草花や太陽や月を、ここでは複雑な幾何学模様のモザイクで表しているのだ。


列柱に囲まれた中庭が見え、オレンジの木や芙蓉の花が清しく繁っている。

足首が浸かるくらいに水を張り巡らせた堀は、防衛の為ではなく、その水に映り込む転移堂の建築の美しさを見せる為にあるのかもしれない。

太陽の下で見てもきっと素晴らしい色彩だろうが、夜の転移堂も限りなく異世界のものと言う感じがして壮観であった。




ネア達はあの後、街のあちこちに潜伏し、迂回路を経てここまでやってきた。

時間にすればとうに夜が明けている筈だが、ここは常闇の区画なのだという。

妖精でも特に残忍なものや享楽的なもの達が住み、こうして毎日乱痴気騒ぎをしているのだそうだ。



「でも、この辺りは、人気がないのですね」

「転移堂を使える妖精は限られている。騎士と貴族、魔術師に王族だけだ」

「………それなのに、こんな大きな施設があるなんて、少し勿体無くありません?」

「権力の象徴でもある。こういうものを見て、下位の妖精達は人間や精霊を喰らい、力を上げてゆくものだ」



そう言われてネアは、賑やかな階段下の街を振り返った。

大きくて長い階段を登り切った街を見下ろす小高い丘の上にこの転移堂はある。

階級が高い妖精達が使う施設は皆この丘の上にあって、あの賑やかな街からは常にこの建物が見えるのだろう。



吹き抜けてゆく風にはオレンジの花の香りがした。

穏やかな水の音と、転移堂の入り口でゆらゆらと揺れるランプの灯り。



ネアを背中に担いだままでも、ユリウスの足取りは微塵も揺らがない。

身長も高くしなやかな肢体ではあるが、やはり妖精は魔物達よりは少し華奢に見えるので不思議だった。

見た目と実際の筋力が一致しない人外者仕様なのだなと思うのだが、これだけ急こう配の階段で運ばれると心配になるものだ。

角が鋭利な黒曜石の階段を、どうか一刻も早く登り切って欲しいと願っていたネアは、ユリウスがその全てを登り切ったところで安堵の溜め息を吐いた。



「ふぅ。これで階段落ちの心配はなさそうです……」

「無事に中に入れればだがな。イドの流した情報にどれだけの騎士が動いたか、それにかかっている」

「イド………さん?」

「俺の従僕だ。………片腕に等しいな。前回の襲撃の時に、イドは無事に逃げおおせた」

「その方は、今も元気に誤情報を流せるような立場にあるのですか?」

「城でもある程度の地位と権力を持っているからな。一族の中では、宰相の地位にあたる」

「…………宰相さんなのに、従僕なのですね」

「そのような横の繋がりは多い。何しろ、血族しか存在しない一族だから」

「…………成る程!」


様々な階位の者達がいても、そもそもその全てが親族ともなると役職とはまた別の関わり合いもあるのだろう。

つまり王子派と敵対したユリウスが城に戻ることを躊躇わないのは、親族同士の濃密な愛憎渦巻くお城だからこそ、そこにはユリウスを支持する者達も確実にいるからなのだそうだ。


話を聞けば、そのイドという妖精はユリウスの従僕から階位を上げ、今は宰相の地位に就いているということなので優秀な妖精なのかもしれなかった。



(………まずい。叩き上げの補佐官のような方が加わると、ますます逃げ出し難くなるのでは……)


ネアはヒルドのような人材を想像し、しょんぼりと眉を下げる。

もっと早くディノと合流出来るものだとばかり思っていたが、未だにその気配は周囲に感じ取れなかった。

そうなってくると、この妖精の国に入ってから何かトラブルがあったのだろうかと心配になり、一刻も早くこの手を振り払って大事な魔物を探しに行きたくなる。

けれど、不用意に動いてしまってすれ違ったら、それこそ事故になってしまうという悩みもあった。



そんなことを考えている内に、ユリウスは壮麗な建物の入り口をくぐってしまう。


転移堂の中は真っ暗だが、天井の大きな天窓から差し込む月光が落ち、不思議な青白い光が漂っていた。

スポットライトのように月光に照らされている場所には、床石のモザイクで複雑な魔術陣のようなものがある。

あれが、転移の場になるのだろうか。



(…………ディノ、)


その名前を呼んでしまいたい衝動に駆られ、ネアは胸の奥がぎゅっと締め付けられるような気持になる。

徐々に近付いてくる転移の魔術陣は、思っていたよりずっと大きい。

屋内には他の施設や家具などもいっさいなく、がらんとした広大な空間に、月光に照らされた魔術陣が浮かび上がって見えるだけだ。


果てしなく感じる程に高い天井からぶら下がった明かりが風に揺れ、その光の動きにふっと目を奪われる。




(…………行きたくない)



行ってしまえば、ディノがもっと辿り着きにくい場所になる気がする。

そして、散々懸念されていた闇の妖精の固有魔術というものが、いつ、ネアに使われてしまうかもわからないのだ。

こうして正気を保っていられるその間に、どうにかして逃げ延びる術はないだろうか。


そう考え、ふとあることに思い至る。


(もし、正体の分らない固有魔術なんて持たない、他の妖精さんだとしたら……)


あれだけ賑やかな街だったのだ。

ここでユリウスの手を振り切り、あの街にいる誰か他の妖精を捕まえて協力者にすることは出来ないだろうか。

大勢で向かって来られたら怖いけれど、誰か一人ぐらい物陰に引っ張り込んで、ブーツで踏みつけてしまうことは出来そうだ。


(だとしても、そんな風に街に隠れてしまった私を探す手間と、連れ去った相手が闇の妖精だとわかって追いかけてくれるのとでは、既にこちらに来ているというディノはどちらが楽なんだろう……)



定まらないと行動は起こせない。

迷いがあればきっと失敗してしまう。

そんな躊躇いに揺れ、ネアが少しだけ体を起こしたその時だった。



「…………………っ、」



しゅっと、あるいは、ざぁっと、何かが空気を切り裂く音が聞こえた気がした。

抱えられたネアの首がもげそうな勢いでユリウスが飛び退り、一際暗く影になった部分に着地すると、そのままネアを雑に床に落とす。

抗議の声を上げたかったが、思わず言葉を飲みこんでしまったのは、背筋が寒くなるような悪意ともいうべき何かが迫るのを感じたからだ。


慌てて床に手をついて上半身を起こしたネアは、月光がけぶるように落ちるその向こう側に、複数名の妖精の姿があることに気付いた。

遮るものなどなにもないのだが、明るい月の光がカーテンのようになり、その造形はよくわからない。

ただ、決して友好的な遭遇ではないのは、明確だった。



「成程、あえて遠方から転移陣を使って飛び込んだ訳か。なかなかに上手い手だな」

「この区におります猟犬達は、ユリウス様が殺してしまいましたゆえ」

「街を発った騎士達は囮か」

「あれはまだ若い、ただの騎士達です。我ら特務隊の騎士達よりは経験も浅い。囮になっている意識もないでしょうが、あなた様の意識を散らすには役立ったようですね」

「………満足そうだな?だが俺も、ここで良かったかもしれない。邪魔もなく、存分にお前達の相手が出来る」


あの風を切る音が何だったのかは分らないが、攻撃を躱した瞬間にユリウスが舌打ちをする音をネアは聞いていた。

であれば、決して想定内の攻撃ではないだろうに、ユリウスは追い詰められた獲物のように狼狽はしなかった。


唇の端を吊り上げて笑い、暗闇で獣のように光るパライバブルーの瞳を細める。



月光のけぶりが吹いた風に散らされ、その特務隊とやらの様相がよく見えた。

足下までの漆黒のコートに、首からはらりとかけただけの腰までの細いマフラーのようなものだけが鮮やかな真紅だ。

銀色の複雑な刺繍があり、紋章のような独特の模様が表現されていた。


ちらほらと女性も混ざっていたが、全員が全員、長い黒髪を一本に縛っているので、どこか無機質な感じがする。

発言しているのは、三角形の陣形の先頭に立つ、隊長のような男性だ。



「そんなお荷物を抱えたまま、あなたに勝機がありますでしょうか?」

「こいつは好きにしろ。嫌なら自分で戦うだろう」



そう片手でどうぞと指し示されて、ネアはぎしっと固まった。


「…………とても嫌な言葉が聞こえてきました」

「まぁ、せいぜい生き残れよ。お前を抱えて戦うのは面倒だ」

「なぬ」


ちらりとこちらを見てそう言ったユリウスに、ネアは目を瞠った。

目を見れば分かるように、相手への牽制などでもなく、どうやら本気で言っているようだ。

彼にとって、ネアは手をかけて捕獲はしたものの、やはり獲物の一つに過ぎないのだろう。



「その方を捨て置いて構わないのですか?女王や宰相閣下が苦労して攫ってきた娘達には見向きもしなかったあなたが、やっと興味を示した珍しい人間ですのに」

「勿論興味があるからこそ連れ帰ったが、伴侶候補などは自分を損なってまで守るようなものでもない。ソロメオの手にさえ渡らなければ、ここでお前達が殺そうとさしたる違いはない」

「我々が、ソロメオ様に献上するとは思いませんか」

「しないさ。俺がとっくに籠絡した刺客かもしれないからな」

「…………あなたは、非常に難しい方だ。そのように仰られ、手を離しても、我々はその人間を見逃しはしませんよ」

「勝手にしろ。ここで死ぬような女なら、俺の花嫁には相応しくはない」



そんな冷え冷えとしたやり取りを、ネアは暗い目で聞いていた。


「…………攫われてきてこの扱い、大迷惑でしかありません」


思わずそう呟けば、ユリウスが背中を向けたまま笑う気配。

そして、ネアがその危険に気付く前になされた静かな忠告が、開始の合図だった。



「一つだけ教えてやろう。後ろにも狙撃手がいるぞ?」

「………っ?!」


ネアが慌てて振り返ったのと、ひどく重たい衝撃波がぶつかってきたのはほとんど同時のことだった。

ネアはまるで車にでも轢かれたような衝撃で軽々と跳ね飛ばされ、固い石の床を転がって短く呻く。

あんまりに理不尽な仕打ちに涙が滲みそうだったが、ネアは唇を噛み締めて立ち上がると、すぐさま一番近い建物の継ぎ目の壁まで走った。



(死角、…………!せめて、狙撃からの目隠しになるような場所に!)


このまま全員を振り切れれば、或いは自由になるチャンスなのかもしれない。

そう思って死にもの狂いで走って、あと一歩でその壁の向こう側に滑り込めるというその瞬間に、今度は横薙ぎに強い衝撃に襲われた。


「きゃ…………?!」


思わず悲鳴のような声が漏れ、今度は床を転がるだけでは済まずに、数メートル離れていた右側の壁に激突して崩れ落ちる。

がつっと嫌な音がして頭と右肩が壁に激突したが、先程から守護のお蔭なのか激しい痛みのようなものは感じない。

けれども、衝撃のあまりにすぐには立ち上がれず、霞んだ視界にぞっと血の気が引いた。


今向き合っている誰かは、命を絶つことを躊躇ったり、攻撃に時間をかけるような相手には思えなかったのだ。

きっと、この僅かな無力の一瞬が、命運を分けてしまう。


(動け、………動け!)


例えその方向が滅茶苦茶であっても。

そう自分に命じて、這うようにして体を一歩でも先にと何とか逃がした。

その瞬間足元に突き刺さった弓矢に、先程の風を切る音はこの音だったのかと得心する。


また風を切るような音が聞こえ、ネアは転がるように無様に逃げた。

頭はくらくらするし、足がもつれてしまいそうで怖くて堪らない。

どこに逃げるのかを考えなくてはいけないのに、気を抜けば萎えた膝が崩れそうなのだ。




「…………ディノ」



だからその名前を呼んだのは、崩れ落ちそうな自分の心を繋ぎ止める為だった。

ここで踏ん張り抜いて、無事にあの大事な魔物の元に帰る為に、お守りのようにその音を唇に乗せたのだ。



ひゅっと、鋭く風を切る音がまた聞こえる。

そしてそれは恐ろしいことに、無数の方向から聞こえた気がした。


(………………あ、)


血の気が引くように、視界が突然狭まる。

こんなところで諦めている場合ではないのに、本能的に逃れられないことを察した体が諦めてしまいそうになっているのだ。


(でも、……目は閉じるものか!)


ぐっと奥歯を噛み締めて、その衝撃に備えた。


ネアは決して我慢強くはないが、守護で痛みを感じるような損傷を受けていない今は、まだがむしゃらに踏ん張れる。

だから、心が挫けてしまうその最後までは。



「ネア!」


強い衝撃を感じるその直前、懐かしい声が聞こえた気がした。

元々体に衝撃を受けることを想定していたので、がばっと誰かに強く抱き締められたのだとわかるまでに時間がかかってしまう。

攫われるように抱きすくめられ、もう一度堅い床の上を転がったが、誰かの腕の中にしっかりと抱え込まれていたので、今度はどこもぶつけなかった。



「……………ぇ」


ネアを抱えた誰かは、すぐに体を起こすと結界のようなもので飛来した弓を防いでいる。

透明な壁に突き刺さった途端、稲光が地面に落ちるように青白い光がざあっと走った。

その衝撃で壁の一部にびしりと罅が入ったのだから、射られた弓の威力が分るというものだ。



「…………ディノ?」


ネアを抱き締めているのは、奇妙な仮面のようなものをかけた人物だ。

とても暗いのでよく分らないが、灰色の髪をしているように見える。

そしてその人物の特徴的な髪型に、ネアは息が止まりそうになった。



この長い三つ編みを、見間違える筈がない。



「…………君が呼んでくれて良かった」

「ディノ!」


その悲しげな声に胸が締め付けられ、抱え込まれた腕にぎゅっとしがみつく。

目の奥が熱くなって涙が出そうだったが、ディノも今はどうやらそれどころではなさそうだ。

邪魔をしないようにしようとぐっと堪えたところで、ネアはそんな不自然さにひやりとした。


(……………攻撃を防いではいるけれど、苦戦しているような気がする)


それ程に闇の妖精達が強いのか、或いは、そうせざるを得ないくらいにディノが摩耗しているのかのどちらかだ。


その怖さを飲みこむ余裕もない内に、ディノはネアを抱え直して、滑るように足元を不規則に踏み、何かの魔術を立ち上げた。

精緻な術式陣のようなものが跳ね上がり、その向こう側で誰かの苦しげな声が聞こえる。


そのまま抱え上げられて走って、走って、走って。

ようやく息を吐けたのは、転移堂の外に出たところだった。



さわりと、場違いに穏やかな風が吹いた。


裏手の庭に面した一角なのだろう。

あの建物の裏なのだが、何しろ敷地が広いので先程の場所からはだいぶ離れている。


抱えていたネアを抱き直し、ディノは向かい合う体勢になってくれる。



「…………ディノ」


まだ、先程の恐怖や衝撃から立ち直れず、ネアは少しだけ震えている指先で、魔物の頬を撫でた。


「…………うん」

「変わったお面ですね」

「アルテアが作ったものだよ。私がそのままこちらに降りると、この土地を壊してしまいかねない。死者の国と同じようにここも、後から世界に併設された古いが不安定な国だからね」


片側の頬だけを僅かに露出させるような不思議なお面は、狼のようにも鴉のようにも思える不思議な造形だ。

少し怖いような気もしたが、これがあるから来てくれたのなら、アルテアにもお礼を言わなければとネアは思う。


「ディノ、…………どこか、怪我などはしていませんか?」

「怖い思いをさせてしまったね。こちらで強引に転移を踏んだから、無理に動かした存在がまだ安定していないんだ。かといって煩わしいからとこの仮面を剥いでしまうと、この土地では魔術の基盤が耐え切れない。私が万全ではないままに国の構成を崩すと、君までも巻き込んでしまいそうだから」

「……………来てくれただけで充分です。ディノがここにいるだけで」

「ネア」


きつく抱き締められると、片手でそうっと頭を撫でられた。

心地よさに泣きそうになるが、まだ油断は出来ないので堪えなくてはいけない。

こちらの世界では、流した涙一滴でどんな問題になるのか分らないではないか。



「ディノ様!」


その時、もう一つの心強い声が後ろから聞こえた。

はっとして振り向いたネアは、清廉な瑠璃色の瞳に堪らず笑顔になる。


「ヒルドさん!」

「………ネア様、ご無事でしたか!」


ほっとしたように微笑んだヒルドの瞳には、ディノと同じように重く苦しい安堵がある。

こんな眼差しを見たのは咎竜の問題以来だと思えば、ネアもふにゃりと泣きたくなってしまった。


「ヒルド、すまないね。先程は時間がなかったものだから」

「いえ。それよりも、こちらの国で妖精に擬態したまま私を連れて転移をかけるなど、ご負担はかなりのものでしょう」

「………だから、こうして立ち止まってしまったんだ。こちらでの存在を調整し直すまでは、だいぶ削られるだろう。この子を取り戻せたから充分だと言いたいところだが、少しの間は時間を稼がないといけなくなりそうだ。君一人なら、この子を連れて転移は出来るかい?」

「可能でしょうが、闇と言えば支配階層の者達です。やはり私も外部の妖精である以上、こちらではどんな規制をかけているのか分りませんので、出来る限りは控えた方が良いかと。敵の思惑には乗りたくありませんからね」

「そうなると、霧雨の者達に繋ぐのが先決か。………困ったな、体が随分と重く感じる」

「ええ。…………後は、霧雨の手を…」



ばさりと、鳥の羽ばたきのような音が聞こえる。

不意に途切れたヒルドの声に、ネアは大きく目を見開いた。



「…………え」


唇から零れたのは、悲鳴にもならなかった気の抜けたように頼りない声。

びしゃりと地面に落ちたのは、この夜の中では黒くも見える、誰かの血の色だった。



「…………っ、いつの間に…」

「これはこれは。避けられると思ったようですね。残念ながら随分と遅い」



背後を振り返るようにして、苦痛に歪むヒルドの美しい顔。

その脇腹を貫いたのは、漆黒の宝石を切り出したような細い剣だった。


背後から剣で刺し貫いたたのは、ヒルドよりは小柄な青年のようだ。

そしてその後方には、彼に付き随うように大勢の妖精達がいる。



いつの間に囲まれたのだろう。

けれど、その時のネアにはそんなことを考える余裕すらなかった。



「たわいもないな。どこの妖精だ?……おっと」


突き刺さっていた剣が抜けるのと同時に、ヒルドは身を翻そうとしたのだろう。

しかしその直後、後ろに控えていた騎士が放った矢がそのヒルドの右腕を貫いた。


「まるで獣のように野蛮だ。どこの妖精でしょうね。……ほお、そちらの男は同族の気配がしますね」

「…………ぐっ、」

「ヒルドさんっ!!」

「ネア!」


乱暴に剣を引き抜かれ、より傷を深くして崩れ落ちるヒルドに、咄嗟に駆け寄ろうとしてしまって、ネアはディノの声に慌てて踏み止まった。



ほんの一歩半。



けれど、思うように動けないと話していたディノの腕から飛び出してしまったその一瞬は、忍び寄った者達にとっては充分な断絶だったのだろう。

ぞっとして一歩踏み出してしまった足を後退させようとしたネアは、先程までそこにあった大事な魔物の気配がどこにもないことに気付いて愕然と振り返る。



「…………ディノ?」



そこには、最初から誰もいなかったような石畳が広がるばかりだ。

その奥の庭園も、さわさわと夜風に揺れるオレンジの木があるだけで誰の気配もない。

慌てて視線を戻せば、剣に貫かれて膝をついた筈のヒルドの姿ももうどこにも見当たらない。

先程まで大勢の気配があったのに、それのどれもここには残っていない。



ゆっくりと視線を上げた先にいるのは、ヒルドを刺した、足元までの長い黒髪に光る黄緑色の瞳を持つ青年だ。

どこか女性的な妖艶な美貌で、身長はそこまで高くはないのだが、ヒルドやユリウスよりも一回り大きな羽を広げている。



「闇の妖精が司るのは、闇や狂気です。狂気はすなわち、あるべきものを失い、ないものが見えるようにもなる。あなたの同行者達はもう、この近くにはいませんよ」



そうにっこりと笑った青年に、ネアはそろりと一歩下がった。



特徴的な黄緑の瞳に、ユリウスに似た華美な装いをするこの妖精が誰なのか、分ってしまったのだ。

しかし、そんな風に後退するという行為は、どうやら妖精の王子の癇に障ったようであった。



「醜いですね。私が許す前に動くとは、なんと愚かな人間なのでしょう」

「…………ふぁっ?!」


その直後、どすんと強い衝撃を受けて、ネアは弾き飛ばされる。

声も出せないままに石畳をまた転がされて、よれよれになって、何とか立ち上がった。

きっと、受けた衝撃など比べ物にならないくらいの攻撃だったのだろうが、みんなに貰った守護がネアのことを守ってくれているのだ。


「お前の仲間達は私の騎士達と共に、この空間の外に出しました。花嫁を狩る時にはやはり、二人きりが良いでしょうからね。ああそれと、空間遮蔽をしましたから、助けを呼んでも誰も来ませんよ」



けれども、脆い人間の体は、何度も堅い地面に投げ出されているだけでも節々が痛んできたらしく、深刻な怪我等何一つないのに、もう一度立ち上がるのにはひどく力を要した。

それともそれは、心に入ったひびのせいだったのだろうか。



(……………ヒルドさんが)



その体を貫いた剣の血に濡れた切っ先と、ぼたぼたと溢れた大量の血、崩れ落ちたその姿が脳裏に蘇る。

手を離してしまったディノは、動くのも辛そうなくらいに無理をしているようだった。

そう考えると胸の奥がぐおんと熱くなり、はくはくと短く刻む呼吸に肺が痛む。

わぁっと声を上げて泣き出したいような、癇癪に任せて目の前の妖精に掴みかかりたいような、そんな無謀な衝動が体の中から溢れてしまいそうだ。



「ふぅん、ユリウスが初めて自分の手で花嫁を連れ帰ったと報告を受けて来てみれば、確かに頑強な守護を持っているようですね。お前を人形にすれば、その守護も必然的に私のものになるでしょう。………物足りない容姿ではありますが、色合いは変わっている。正妃にするには貧弱だが、引き裂いて遊ぶ側室としては面白いかもしれませんね」



そう嗤う妖精は、禍々しかった。



時々、精神圧を上げて他の生き物に向き合うディノのように、向かい合ってその悪意に触れるだけでも体が竦みそうになる。

美しいけれどちっとも魅力的ではないのに思わず蹲ってしまいたくなるくらい、強い魔術の圧力にびりびりと肌が痺れた。



「わ、………私は、私のものです。大事な魔物にすら全てを投げ出さないその私を、あなたなどに譲り渡すものですか」


怖くて堪らないけれどきっぱりとそう言えば、妖精は驚いたように目を瞠り、驚きや苛立ち、そして嫌悪感の片隅に、ほんの僅かの愉快そうな笑みを交え、声を上げて嗤う。

その嗤い声に触れただけで、ネアは自分の寝台に飛び込んで、毛布をかぶってがたがたと震えたくなった。



(…………でも、)


でも、それよりも何よりも手を付けられないのは、胸の内側で荒れ狂う癇癪のようなものだった。


親しいひとを傷付けられたという怒りだけではない、きっと多くのものを持って自由に生きていそうな誰かが、やっと見付けたネアの数少ない大切なものを奪おうとしたことへの恐怖と悔しさだ。



だからネアは、許さないという綺麗な言葉よりも、狡いではないかというしょうもない言葉を叫びたくなる。

やっと見付けた大切なものをネアから奪おうとするなんて、何て不公平な、嫌な奴なのだろう。


ディノもヒルドも、ここでやっと、やっと幸せに丸く輪になったものを傷付けるだなんて、誰であれ到底許せるものではない。

人間は、こんな時でも怒れる愚かな生き物だった。



「では、どうする?王子である私に抗ってみますか?その脆弱な手足で、その失笑する程に薄い魔術で、人間のお前が私を屈服させてみますか?もっとも、お前は既に私にその薄汚い言葉で刃向っていますからね。抗わずとも、その小賢しい舌は切り落としてしまいましょう。……頭だけ残せば、花嫁としての魔術を喰らうには充分ですからね」


すっと、細く長い剣が振られ、ぎらりと月光に煌めいた。

嬲り殺しにすると言わんばかりの歪んだ微笑みに、ネアは自分自身を振り返る。



(………一番使えそうな武器を取り出している時間はない。今手元にあるものと、私自身しか武器はないんだ)



でもそうだとしても、ネアには武器になりそうなものはあるのだ。

ここが閉ざされた空間であるなら、いっそ都合がいい。


(ユリウスさんは、ブーツが効かないのは自分だけだというようなことを言っていたし)



「では」


妖精の王子が、そう、獲物を狙うけだもののようにゆったりと体を屈めたのが合図だった。


その直後、ネアは、元はゼノーシュのおやつだった種を、妖精の王子にばっと投げつける。

地面に落ちるなり見る間に種が芽吹き、細い蔓性の植物がぼこんと飛び上がって蔓先を伸ばす。

細く鋭い棘が生えている蔓は一瞬でソロメオの剣に切り刻まれたが、その一瞬の時間がネアの欲しいものであった。




「………な、」



短い困惑の声も掻き消されるその響きは、妖精にとっても毒のようなものなのだろうか。



最も顕著に滅ぼされてきた魔物ではなく、妖精ではあるのだが、それでもソロメオはがくりと膝を着く。

片手で口元を押さえ、おぼつかない手でようやく思い至ったように耳を塞いだ。

けれどもその手も、すぐにぱたりと落ちてしまう。



「う、た………?」



その疑問を呟いた直後、美麗な妖精の王子は片手を口元に当てて吐いた。



かぱっと口を開いたネアは、音というものの到達の早さを知っていることに安堵しつつ、久し振りに遠慮なく心から歌う。

声を張って叩き付けるように、アルテアから一番不評だった、歌乞いの教本にあった聖歌を歌った。


歌いながら涙が出そうになったが、意地でもこんな妖精の前で泣くものかと堪えて、目の前の妖精の瞳が虚ろになり、どろりと濁った色になるまで歌った。



「………お前は、……」


膝をついて蹲ることすら難しくなったのか、妖精の王子はそれ以上体が崩れないように、辛うじて石畳に突っ張った両手で上半身を支えていた。

彼にとって不幸だったのは、手に持った剣を手放す選択を躊躇い、耳を塞ぐのが遅れたことだ。

或いは、目の前の人間の脆弱さに、魔術での防壁のようなものを立ち上げるまでもないという油断があったのかもしれない。



「………愚かな……小娘だ。人間の身で、シーを殺すか」


軋むような声にはもう、先程までの美しさはない。

色褪せて罅割れたその姿を見て、ネアはようやくこの妖精の片目が義眼であることに気付いた。

先程まではあまりにも暗く輝いて見え気付けなかったが、その光はもう翳り落ちていた。



「ええ。私の大事なものを無事に返してくれなければ、私はあなたを殺します」



その言葉がするりと口から溢れたことに、ネアは心の内がひやりと凍りつくような思いがした。

きらりと指に光った魔物の指輪に、指先をきつくきつく握り締める。



(また、誰かを殺す為にこんな風に歯を食い縛るだなんて)



怖かった。


優しい魔物に抱き締めて守って貰いたかったが、自分があの時にその名前を呼んでしまったから、ディノはあんな風に無理をして駆け付けてしまったのだ。

だとすれば今度は、ネアが彼等を取り戻す為に無理をする時だ。



(この人を動けなくしてから、どこかに隠れて春告げの舞踏会のチケットを使おう)




そう考えるととても安心したので、ネアはまだその先にも断崖があるとは、考えてもいなかった。












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