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195. 取り敢えずご飯は美味しいです(本編)




ユリウスが目を覚ましたのは、ゆうに半日は過ぎてからのことだった。


その間に散々魔物達とカードトークをし、必ず迎えにゆくよとネアにメッセージを残してこちらに向かってくれているディノにも、メッセージを送っておいた。

各種持ち物などの準備や移設も行い、なかなかに万全な状態だ。


それが終わると、お腹が空いて金庫の首飾りから焼き菓子とチーズをむしゃむしゃ食べ、素敵な感じの浴室を見付けたので顔と手を洗ったネアは、すっかり寛いでしまっていた。



一つだけむしゃくしゃしたのは、髪の毛のひと房がばっさり切られていたことだ。

これはアルテアに教えて貰ったのだが、あの誘拐の瞬間にアルテアはネアの髪の毛を掴むことは出来たらしい。

しかし、それを誘拐犯が切り落としたのだとか。

その際にアルテアは少し怪我もしたようだが、幸いにもすぐにつるりと治せたそうだ。

そうなると、片側だけおかしな段カットにされたのに治せないネアは、ユリウスへの憎しみを新たにするしかない。




がくんと頭が揺れ、はっとしたネアは、目の前に何とも言えない顔をしたユリウスが立っていることに気付いた。


「…………お前は、緊張感を持とうとは思わなかったのか?」

「ふが!……い、居眠りしてませんよ!」

「…………それで、言いつけておいたことは出来たのか?」

「誘拐犯を楽しませるつもりはありません。ユリウスさんが寝ている間に、いつか私も素敵な魔術が使えるようになり、ゆくゆくはユリウスさんの頭頂部の毛髪が薄くなるがいいという陰湿な呪いをかけてみせるという計画を練っていた次第です」

「魔術可動域六で?」

「…………ど、どこでそれを?!」


最大の秘密の漏洩にネアはわなわなしたが、ユリウスからは騎士達はほぼ全員知っていると言われてがくりと肩を落とした。

そう言えばこの妖精は、騎士の一人に成りすましていたのだ。



「本物のオルさんを、どうしたのですか?」


ネアがそれを尋ねたのは、アルテアからは何とか生き延びるだろうとしか教えて貰えなかったからだ。


「内側を借りていただけだからな、向こう側に残ってるだろう」

「………それは、命を奪ってしまうようなやり方なのですか?」

「どうだろうな。普通の人間であれば体が崩れるが、妖精の血を引いているようだったから、案外助かるかもしれないぞ」


さもどうでも良さそうに言われ、ネアはぐっと唇を噛み締めた。

それまで接点もなかった騎士で、ましてやネアが出会ったオルはこのユリウスだったのだが、それでも彼はネアの大事な土地に紐付く人だ。

エーダリアが話した彼の人となりが、彼がきちんとリーエンベルクの住人の一人だと教えてくれた。

そんな人が、もし失われたのであればと思うと、胸が苦しくなる。



「あなたは、いつからリーエンベルクにいたのですか?」



そう尋ねたネアに、戻った長椅子の上で不思議な黒色半透明の手袋をはめながら、ユリウスは小さく笑う。



「それは今回のことか?それとも、その前のことか?」



(…………その前のこと?)



また一つ不思議な言葉が落ち、ネアは目を瞠る。


アルテアのカードに言葉をくれたノアから、ユリウスは、ヴェルリアから入り込み、まずはザルツ近郊のとある村にいた騎士に、次はそこで起きたとある事件の報告でリーエンベルクを訪れたその騎士団の団長と、複数名の騎士達に取り憑きながら最終的にはオルの内側に巣喰い、リーエンベルクに侵入したと聞いていた。



(………でも、それであれば、腑に落ちるわ)


しかしネアは、ユリウスが持つ自分の情報はもっと時間をかけて調べ上げたもののような気がしていた。

彼の口調では、たった数日のことではないくらいの多くを知っているような、そんな気配がしたのだ。



「今回のことより前にも、あなたはリーエンベルクにいたことがあるんですね?」

「ああ、そうだな。自分の領域と部屋を持ち、暫くの間暮らしていた。だから俺は、リーエンベルクの魔術の規則や抜け道には詳しい。そこに住む者達のことも、その特性も」

「……… あなたは、私のことをよく知っています。しかし、私がリーエンベルクに住むようになってから、私はあの土地であなたをお見かけしたことはないのですが……」

「目を凝らし、耳を澄ませてみたか?人間には知らない領域、或いは人間には見えない領域もある。王宮というものは、兎に角騒々しいからな」



その言葉はまるで謎かけのようで、人外者らしい彩りに満ちている。

恐ろしくも残忍な理不尽さを振るう雪喰い鳥の試練が、恋する乙女の存在で簡単にひっくり返されてしまうように、その謎を解ければ解放されるような、そんな奇妙な響きで。


(だとすれば、この人とどこで出会ったのかその正体が分れば、私はそれを切り札に出来るのではないだろうか………)


バーレンの時のことを考え、踏んでしまったものたちを思い浮かべたが、そもそも踏んだ上で生きている生き物というのも意外に少ない。



「………あなたが、闇の妖精さんの王子様なのですか?瞳の色が違うように思うのですが……」

「質問ばかりだな。いい加減に飽きた」

「あら、では勝手にそうだと断定し、これからは王子!とお呼びしますね」

「妙な抑揚のつけ方をするな」

「うっかり者の駄目王子を呼ぶ、賢い家庭教師風の呼び方です」


ネアがじっとりとした目でそう言えば、ユリウスは小さく溜め息を吐いたようだ。


「………そうだな、かつては王子だった」

「………もしや、本当に駄目王子として…」

「遠からず、だろう。気に食わない重臣達を皆殺しにしたら、王冠は姉のものになっていた。とは言え、あの王冠は欲しくはなかったが」

「わざと問題を起こしたのですね?」

「王座程、息苦しく面倒なものはない」



そこでやっと身支度を終えたのか立ち上がったユリウスがこちらに来て、ネアはがしりと手首を捕まれた。

静かにその不思議な光を湛えた瞳を見上げれば、彼はどこか弄うような微笑みを浮かべる。


すいと触れた指先で髪をすくわれ、毛先がぺかりと光った。


「………むむ、髪の毛が伸びました」

「育成を補助する魔術だ。さすがに、この髪型はないからな」

「あなたが切り落としたのですよ!」

「ああ。だから元に戻してやっただろう?さて、そろそろ花嫁らしいことをしたらどうだ?」

「では、実家に帰らせていただきます」

「………お前は、俺を恐ろしいとは思わないのだな」

「ご存知ないかもしれませんが、人間の間ではとても花嫁らしい言葉なのですよ?それに今は、単純に恐ろしいと思える程にあなたを知りません。そもそも、闇の妖精さんとはどんな妖精さんなのかすら、私は知らないのです」



見つめた闇の妖精は、王族という存在に相応しい華やかな装いだった。

服装としてはどこかウィリアムの装いに似て、漆黒一色の儀礼用軍服にも見える。

足首までのロングコートの前を開け、膝上までのブーツは美しいが機能的でもあるようだ。

腰に下げた剣と、黒曜石に似た宝石で作られた装飾の数々は、舞踏会のそれではなく、やはり公式の場に現れた高貴な軍人のものに近い。

かつて王子であったのなら、現王の身内なのだろう。

きっとそれなりの役職に就いているのかもしれない。


上から下までじっくり観察したネアを面白そうに見返し、ユリウスはとても暗く見えるのになぜか眩しいと感じる瞳を眇める。



「伴侶の姿は気に入ったか?」

「妖精さんの羽は出さないのでしょうか?」

「王族の羽は目立つ。街歩きには適さないだろう?」

「………さもご一緒するという感じの雰囲気ですが、まだ妖精さんに食べられたくはないので、ここでお留守番しています」

「俺を気に食わない者は多い。この部屋に残されたままのお前が生き延びる可能性はかなり低くなるな」

「外に出ても齧られるなら、このお部屋でごろごろしながら、やって来た敵を片っ端から殺す方が楽ではないでしょうか?」

「…………相変わらずだな」

「む?まるで私を知っているような………むが!離すのだ!人間の持ち方がなっていません!!」

「残念ながら、俺達の一族は獲物を引き摺って歩く。そちらの方が良かったか?」

「…………肩に引っ掛けられても我慢するしかなさそうです」


ネアは麦袋のように肩に担がれて唸ったが、引き摺られるよりはましだと判断して黙った。

譲れるところで大騒ぎするのは効率的ではない。

納得出来ずに暴れるのは、もっと切羽詰まった場面に取っておこう。




そうして、初めて外に出た妖精の街は、明るく賑やかで、そしておぞましく美しいところだった。



真夜中のその暗闇ではあるのだが、あちこちに篝火が焚かれ、ぺかぺか光る結晶石や明るく光る不思議な花やキノコがあり、どこもかしこも夜の光に眩く煌めく。

どぉんと鳴って打ち上がる花火に、色とりどりの紙吹雪。



「あれが見張り塔だ。人間の骨で作られているそうだぞ」

「おのれ、崩れてしまえ」

「お前が好きそうなのは、ああいう店だろうな」

「もふ天国!」

「鍋掃除をする奴隷だ」

「………も、もしや、あのまだら茶色は油汚れ……」



街そのものは、砂漠の国のバザールのようなところだった。

砂地の地面は固く踏み固められ、砂煉瓦の店々が賑やかに立ち並んでいる。

色鮮やかなテントに目を奪うような華やかな装束の妖精達が行き交い、屋台のようなところでは様々なものが売られていた。



(…………サーカスのような街だわ)



魅力的だがそら恐ろしく、万華鏡のような彩りに目が眩む。

水晶の屋台の商品台には籠に詰め込まれた小さな妖精達が売られて泣き叫んでおり、生きた牛の首だけを売っているお店もある。

香炉屋に不思議な魔術の火を売るお店、美味しそうな揚げパン屋に、大きな目のある毛玉が沢山売られているお店。


香ばしいいい香りがするかと思えば、焦げ臭い香りのする消し炭屋がある。

消し炭屋には火葬された生き物の亡骸がたくさん売られており、妖精達は薬として服用するのだそうだ。


頭上に張り巡らされたのは色とりどりの旗や、豆電球のイルミネーションのような結晶石をぶらさげた紐。

洗濯もののようなものもあるが、死体だろうかと思うようなものも遥か遠くにぶら下がっているのが見えた。

地面にはふんだんに花びらが撒かれ、それを踏むユリウスの爪先を見ていたネアは、この雰囲気にようやくぴたりとくるものを思い出す。



(そうだ。夏至祭の夜にも似ているんだ……)


わぁっとまた声が上がる。

麦袋のままそちらの方を見れば、手が沢山ある妖精が剣を投げるパフォーマンスを見せていた。

また違う方を見れば、心を引き裂かれたような暗い顔をした人間達が、鈍色の鎖に繋がれて売られている。

その中には、羽が欠けてしまっている妖精の姿もあった。


たくさんの疑問や感想があるけれど、ネアは黙ってそんな風景をやり過ごす。

よくある物語の展開で、こんな雑踏の中で不用意な発言をしてしまい、よそ者として街の住人に囲まれてしまう場面があるからだ。

街の中心部に入ったあたりからは、事故を回避する為にひたすら麦袋になってそんな奇妙な街を眺めていた。



(……………あ、)



鎖で繋がれた小さな子供が泣いている。

ちょうどそこを通りかかった妖精の子供が、手に持っていた風船をその奴隷の子供に渡した。

しかし、驚いたように顔を上げた奴隷の子供を、店で品定めしていた狸姿の妖精が容赦なく買い物籠に放り込んでゆく。


胸が痛み、恐ろしさに悲しくなる。


と思えば、明らかに人間と思われるご老人が、羽を持つ妖精達に囲まれて楽しく酒盛りをしている。

こちらは奴隷や食料などではなく、対等な関係として楽しい飲み会をしているようだ。




「着いたぞ………」

「ここは……、飲食店でしょうか」


暫く街を歩いてからどさりと落とされ、もぞもぞと立ち上がったネアは、不思議なお店に目を丸くした。

そこはまるで森の中にいるような葉っぱに覆われた壁のお店で、あちこちに葉っぱの個室のような半円形の不思議なドームがある。

その空間は最大でも四人程度しか入れないような大きさで、無理をしてぎゅっと詰まっている妖精があちこちにいた。

それなりに美しい妖精ばかりなので、なかなかに残念な光景だ。



「モギ!」


そこに颯爽と滑り込んできたのは、ふさふさ尻尾のイタチのような妖精だ。

素晴らしい蝶の羽をしているので雌なのだろうかと見ているネアの前で、尻尾をふりふりしながら席に案内してくれる。

ファンシーな店員ではないかと思いかけ、ネアはその妖精の足に足枷がはまっていることに気付いた。



(………この街には、奴隷のような身分の生き物が多いんだわ)


であればそんな生き物達には、こうして食べ物屋さんに連れて来て貰っているネアはどう見えるのだろう。

そんなことを感傷的に考えかけたネアは、そのイタチ妖精がちらりとこちらを見て、じゅるりと涎を拭ったのに気付き、さっと目を逸らした。

どうやら、人間も美味しくいただいてしまう肉食の妖精であるらしい。



「あの葉っぱ空間に詰め込まれるのですか?」

「串焼き屋だ。お前は肉が好きだからな」

「なぬ!なぜに知っているのでしょう。串焼き屋さんなら、慰謝料として甘んじて葉っぱの空間に詰め込まれます」


宣言通り葉っぱのドームに詰め込まれたネアは、同じ空間の差し向かいに艶麗な装いを無効化するような姿勢で詰め込まれたユリウスに悲しい目をする。

もっと雰囲気のある素敵なレストランなどが似合いそうだが、残念ながらファンシー感たっぷりの葉っぱドームだ。


幸い、土足で詰め込まれるのでブーツを脱ぐ必要もなく、ネアは安心して串焼きとやらを待つことにした。

誘拐犯と仲良くなるつもりはないが、損なわれずに稼げる時間は稼ぎたい。

お肉も普通の牛のものだと知り、ますます気分は盛り上がる。


「ユリウスさんは、食いしん坊なのですね」

「地上との往復で命を削ったからな。この後のことを考えれば、補填する必要がある」

「命を補う串焼き屋さん………」

「妖精の食べ物にはそういうものが多い。時々、この界隈が決して安全ではないのに人間の姿を見るのはその為だ。こうして命懸けでも妖精の国で祝福を増やし、地上での生活の糧にするのだろう」

「串焼き屋さんは、命を補ってくれるようですが、安全を保障してくれるような祝福のお店はあるのでしょうか………」

「どうだろうな。さすがに、この街の全ての店を知っている訳ではない」



メニューというものはなく、このお店は席に着くとどの客にも同じものが出されるシステムであるらしい。

ほかほかの湯気を立てている串焼きは、こんがり焼き目がつき、焦げ茶色のとろりとしたソースのようなものがかかっている。

ユリウスは何も言わないので、彼の作法を見てから同じようにかぶりついた。


(アルテアさんに、妖精の国の食べ物を食べてもいいかどうか聞いておいて良かった!)


幸い、食べ物や飲み物でおかしな制限をかけられることはないようだ。

勿論、毒のあるものや体に悪い効果を及ぼす食べ物もあるが、それは地上での飲食と変わらない。

逆に、決してその国の食べ物を食べてはいけないとされるのは、精霊の国なのだという。



(命を補うなら、寧ろ沢山食べておかなくては!)


「美味しいです!」


ソースは甘辛いたれのような感じで、表面はかりっと内側はジューシーに焼いたお肉にとても良く合う。

ほんの少しスパイシーだが、その香辛料の味が際立つ程ではなく、あくまでも風味づけの程度だ。


あまりの美味しさに、さっき大量のチーズを隠れて食べていたことを後悔しつつ、ネアはかぶりつく。

はふはふしながら食べていると、正面で不思議な食べ方をしているユリウスが目についた。



(…………む)


串焼きを手のひらで覆うようにして匂いを嗅いでから、かぷりとかぶりついている。

豪快に食べるというよりは、お上品な食べ方だ。

くんくんしてからまたぱくりと齧るので、ネアはそのお作法に、お庭にあったちびまろ館のもちうさを思い出す。

そう言えば、ムグリスの時のディノも、食べ物は端っこをぺろりと舐めてから小さなお口で齧り付いているので、種族ごとに本能的な反応や食べ方もあるのだろうが、なんだか愛くるしいではないか。



「この後で、街の中央にある転移堂に入る。手続きに何も問題がなければ、そのまま城に帰れるだろう」

「………お城にあんまり行きたくないということはさて置き、何か問題がありそうなのですね……」

「王子の一派がいるからな。城に残った騎士達や従僕が抑えてはいるが、難しいところだな」

「王子派の方が強いのですか?」

「一応は王子だからな。王子専属の精鋭部隊がいる。流石の俺でも正面からは戦いたくない」



(この人は、自分のことを語るのを躊躇わないのだわ……)



さも仲間のように語るので、ネアはユリウスが自分を二度と地上に返すつもりがないのだと理解した。

好意云々ではなく、この言動は高位の妖精としての残忍さなのだと思う。

こうして悟らせないような外側から当然のように言い含めてゆき、ふと気付けば、獲物は逃げる為の希望が全て削ぎ落とされているという流れなのだろう。



お店を出てからまた肩に引っ掛けられ、ネアは食後はやめて欲しいなと渋面になりながら、そんな考察に没頭していた。

何しろ肩に担がれままでは、他にすることもない。


(………どうにかして、この人から逃げたとして………)


確かにこの街では、ネア一人で隠れ家を確保するのは難しいだろう。

街の中を歩き、他のお客のいる店で食事をすることでユリウスがネアに知らしめたのは、この妖精の国には明確な身分差があるということだった。

歩道の歩く位置からお店の座席まで、ネアにはよく分からない複雑な線引きがあるようなのだ。


(でも、お城に連れて行かれたらそれが地獄のゴールという感じもするし………)


真っ直ぐに歩いているユリウスは、先程話していた手続きをする場所に向かうようだ。

それを邪魔するべきなのか、ひとまずはこの闇鍋のような街を出るべきか。

そんなことを考えていたら、ユリウスの足がぴたりと止まった。



「…………猟犬達か」

「…………む?」



さわりと揺れたのは、風ではなかったのかもしれない。



次の瞬間、ネアが今迄に経験したことのないような本格的な戦闘が始まった。



ばさりと、ユリウスの大きな妖精の羽が広がり、視界に入った、黒と銀色の繊細なレースのようなその羽の美しさに目を瞠っている間に、ガキンと硬い音がした。



「…………っ?!」


思わずそちらを見てしまって、ネアはそれがユリウスが誰かの首をへし折った音だと知った。

目を逸らす間も無く鮮血が散り、担がれたままに激しく振り回され、剣が交差し、誰かの手足が切り落とされる場面を目撃する。


呻き声が響き、悲鳴が途絶える。

誰かがふと、どうやって生き延びたのだと苦しげに呟いた。



(…………どうやって生き延びた?)



濃密な血臭の中を舞踏のように駆け巡り、ユリウスは大きな羽で地面を払い、最後の妖精の顔面に砂埃を叩きつけた。

そして、短く呻いた妖精が視界を取り戻す前に、その首を搔き切る。



「………猟犬どもが来ているとなると、本隊も近くにいるかも知れないな」


そう呟いたユリウスがこちらをちらりと見たが、ネアは呆然として固まったままだった。

路地裏に飛び込み、角を曲がったり小さな小屋を飛び越えたりしながらユリウスが倉庫のようなところに身を隠すまで、ネアはずっと言葉をなくしたまま、短く丁寧に息を刻む。



(殺される人を、あんな近くでたくさん見るのは、初めてだった………)



それは心を揺らさない筈の他人だったが、あまりにも近くでその瞳を覗いてしまったネアは、胸の奥がさざ波のように震えていて、その震えをどうしたらいいのか分からないような怖さに襲われていた。

殺された妖精の呟きからすると、このユリウスはお尋ね者のような存在なのだろうか。

足元に散らばったまだ湯気を立てている深紅の血溜まりを思い出し、ネアは小さく息を吐く。


(…………見たくなかった)


散らばるのも広がるのも、混じりけのない死のその瞬間ばかり。

善意でもなく慈悲でもなく、ただその光景を目に焼き付けるのはとても不愉快だ。

振り払って捨ててしまいたかったけれど、記憶はそんな風には払いのけられない。




「何だ?すっかり大人しくなったな?」


弄うようにそう尋ねられ、ネアは肩から降ろされてユリウスの膝の上に抱えられていることに気付く。


「…………隠れているのは、もっと面倒な人達がいるからですか?」


やっと捻り出したその質問に、ユリウスは視線で倉庫の小さな窓の向こうを指し示す。

そちらを見たネアは、ユリウスと同じ漆黒の羽を持つ妖精達が、目の前の路地を駆け抜けてゆくのを見た。


「…………ここには、気付かないのですね」

「魔術遮蔽の空間だ。奴隷にした生き物に魔術を使わせない為にこの街の至る所にある倉庫の一つだ」

「そういうものであれば、倉庫の中こそ怪しまれるのでは?」

「いや。ここに好き好んで入る妖精はいない。入っているだけ、魔術を削られる空間だからな。……だが、だからこそ彼奴らは気付かないだろう」

「あれが、………あなたが猟犬と呼んだ人達の仲間なのですね」

「王宮の騎士達だ。今の王子を支持する者達だが、従順さが災いしたものか、呆気なく通り過ぎていったな」

「………あなたも、王族の一人なのでしょう?どうして追われるのですか?」


そう尋ねたネアに、ユリウスがこちらを見下ろす。

珍しく何の作り込みもない静かな目をして、開かれた唇から溢れたのは、途方に暮れる程に虚ろに穏やかな声だった。



「殺すからだ。不愉快さで、嫌悪で、暇潰しで、俺は同族でも容易く殺す。俺は殺すこと自体も好きだし、どこにでも行けるこの身に鎖をかけるなら尚更だ。だが、今回のことで言えば、今の王子を殺そうとしたからだろう」

「………きな臭くなりました。内部闘争のようなものでしょうか」

「どこにでもあるものだな」

「王子様が嫌いなのですか?」

「単純な領土争いだ。俺は自由でいたかったし、ソロメオは俺の力と権威を、自分の王政の安定に利用するべく、今から俺を飼い慣らしておきたかったんだろう」

「…………そして、負けてしまったのですね?」

「…………なぜそう思う?」

「どうやって生き延びたのだろうと、一人の方が仰っていましたから」



そう言えば、ユリウスはどこか嘲笑うような微笑みを浮かべ、膝の上に乗せたままのネアの髪を指先で梳く。

腰を片腕でがっちりホールドされているので、ネアはその腕を引っ張って渋面になった。

椅子にしてもいいのは主に大事な魔物だけであり、見ず知らずの妖精を下敷きにするとしたら狩る時だけで充分なのだ。


「俺から逃げたとして、お前はここでは生き延びられないぞ」

「案外私は頑丈ですよ?」

「妖精の国を知らないだろう。生粋の妖精の侵食は疫病のようなものだ。そう容易く振り切ることは出来ない」

「だから、あなたも傷付けられてしまったと?」

「いや。俺の場合は、従僕の一人が内側から乗っ取られていた。幼い頃から共に在った従僕だ。…………まぁ、この身に呪いを受ける直前、ソロメオの片目も潰してやったがな」


ネアはその言葉に少し身を離し、まじまじとユリウスの顔を眺めてみる。


「…………なんだ?」

「呪われているようには見えませんね」

「今はもうどこも。どんな呪いにも解呪の道があるのが魔術の理だからな。それが果たされた時、呪いは解けた」

「だから、どうやって生き延びたのか不思議がられていたのですね。そんなに酷い呪いだったのでしょうか?」


また少し沈黙が落ちた。

微かに持ち上がった唇の端に、自嘲とはまた違う何か複雑な心の動きを見る。



「………死しても魂が妖精の楽園に行けないようにと、無力な違う種族に変えられた。深い傷を負ったまま断崖から海に落ちたので、さすがに死んだと思われたのだろう」

「………ものすごい物語が書けそうですね。書籍化する際には、塩の魔物の転落物語を書いた作者さんをお勧めしますよ」

「清々しいくらいに他人事だな」

「勿論、他人事なのです。寧ろそれ以外の何だと言うのでしょう。私にとってのあなたは、ただの誘拐犯なのですよ?」



今更何を言うのだとじっとりした目になったネアに、ユリウスは小さく喉を鳴らして笑った。



「俺が奪わなければ、お前は今頃ソロメオの花嫁になっている」

「なぬ」

「あいつは強い女が好きでな。特に魔術師や歌乞いを好んで持ち帰っている。ウィームでも、ヴェルクレアの歌乞いを持ち帰ると話していたぞ?」

「…………助けてくれたと言いたいのですか?」

「そう思えてきたのなら、感謝の一つでもしろ」

「さっぱり思えません。助けになるだけのものであれば、注意喚起をするだけで良かった筈です。それが、リーエンベルクの騎士さんを傷付けてまで私を攫ったのですから、やはりただの誘拐犯なのでしょう。許すまじなのです」

「ああ、それが正解だ。俺も強い女が好きでな。お前ならば、俺の役に立つだろうと思っただけだ。ソロメオにやるのは惜しい」


役に立つとはどういうことだろうと首を傾げれば、伴侶を得た闇の妖精というものは、その伴侶の要素を得るのだと教えられた。


「お前は特異な人間だ。この要素をソロメオに与えては堪らない」

「というかこれはもう、ソロメオさんなる妖精さんを滅ぼせば済む話なのでは………」

「好きなだけ殺せばいい。何なら、伴侶への輿入れの持参金にしてもいいが」

「…………途端にやる気が無くなりました」



項垂れたネアは、もう一度ユリウスの膝から下りようとばたばたした。

その途端、ぐいっと髪の毛を掴まれて顔を覗き込まれる。



「勘違いするなよ?気質の嗜好は伝えたが、伴侶の従順さを望まないとは言ってない。屈服させる時には、お前にとて魔術を使うだろう」

「あなたが私のどんな要素を欲したのであれ、あなたが望むような力に纏わるものなど、殆どが借り物なのです。そんな外皮を剥ぎ取ったただの私は、あなたの望むようなものなど持ってはいないのに」

「興が冷めれば、捨てればいいだけだ。だが、屈服させてその心を砕くのは、なかなかに長い楽しみになりそうだな。……その指輪も、いつか自分で外すようになるぞ」


ではその時が来る前に、この妖精は滅ぼしてしまおうとネアは決心を新たにする。

奪われるということを恐怖として受け止めるには、ネアは強欲過ぎるのだ。


「………ああ、それと、俺がこうして連れているとなれば、王子派はお前も殺そうとするだろう。俺が執着するだけの獲物として認識する筈だ。つまりお前はもう、俺から逃げようとも追われるということだな」

「やはり、ユリウスさんも殺すしかないという結論になりそうです」


眉を寄せたままネアがそう呟くと、ユリウスはまた短く喉を鳴らして笑った。


「お前は知らないだろうが、闇の妖精は残虐なものが好きだ。強欲で、身勝手な生き物が好きだ。つまりお前は、俺達でなくとも良い獲物だということだな」

「まぁ、悪食なのですね。いつか女性で苦労しますよ?」

「かもしれないな。………さて、そろそろあいつ等も去ったか。遮蔽庫から出るぞ。俺とて、ここに一晩もいればさすがに命を削る」

「…………ほほう」

「馬鹿なことは考えるなよ?お前一人では一区画も歩けないぞ」

「むぐぅ」


その後、ネアは再び麦袋のように抱えられた。

大変遺憾であるのだが、この方が同意して一緒にいる感じが少ないので、敵方に捕縛された際にはあれこれ言い訳がききそうだ。

狡賢い人間はそう考え、大人しく麦袋になる。



(……………ディノは、まだこないのかしら………)



そう考えると心がくしゃりとなりそうだったので、ネアは慌てて不安を振り払った。

あらゆる魔術の介入を阻む遮蔽庫の中にいる丁度そのときに、ディノが取戻しの術符を使って弾かれたのだとは思ってもいなかった。








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