194. 犯人はお疲れです(本編)
「………やはり、闇の妖精のようだ」
その日の晩餐で、酷い顔色でエーダリアがそう教えてくれた。
ネアにはただの痴話喧嘩にしか見えなかった昼間の騒ぎは、闇の妖精に籠絡されてしまった女性が、恋人だった騎士を殺す為に乗り込んできた事件だったのだそうだ。
思いがけず近くで被害が出たことで、リーエンベルクもかなりの厳戒態勢に入るらしい。
ひとまずは騎士達の身内や恋人に友人と、妖精避けの香袋や鉄製の装備などを持たせることになる。
魔物達もお互いの伴侶や歌乞いなどを気遣うようにと周知され、アクス商会ではさっそく悪意を持ち忍び寄る妖精を避ける為の道具などの販売が強化されるようだ。
ネアは、エーダリア達が言葉を選んでくれたので気付くのが遅れたが、そもそも逃げ沼は、境界が曖昧になる時期に、死者の国への恐怖などに纏わる感情から生まれるものだ。
つまり、逃げ沼が出現したあの日、既にどこかでそのような恐怖が生まれていたということなのである。
どこかで被害が確認されているからこそ、注意喚起だけでも対策商品が飛ぶように売れているのだ。
本来であればそういうものは、好意的な妖精も多いウィームではあまり売れないものばかりだった。
「ダナエから返事があったそうだな」
「ええ。やはり、ダナエさんは闇の妖精さんのことは知らないようです。ただし、もし困ったことになった場合は食べてくれるそうですので、助けが必要だったら呼んで欲しいと言ってくれました」
「そんな提案ですら有難い有様だ。ダリルが周辺諸国の被害報告を集めてくれているが、あまり表には出てきていないようだ。まだ犠牲者が多くないのか、孤立しているような者を標的にしているのか定かではないな……」
「被害者が何人か特定出来ると、その妖精の好みが分るんだけどね」
ノアもそう呟き、晴れない顔でお気に入りのサツマイモのポタージュを飲んでいた。
ディノは不安なのかネアの膝の上に三つ編みを置いたままであるし、ゼノーシュは、ネアから恋に性別の垣根を超えることがあると聞いてからはグラストにぴったり寄り添っている。
「僕がいるからもう充分なんだけどさ、念の為にアルテアにもこっちにいて貰えないの?」
「アルテアなら、高位の魔物達への忠告が終われば戻ってくるだろう」
「そっか。高位の魔物が崩壊しても、同じくらいに厄介だもんなぁ……」
「ウィリアムさんも、ものすごい嫌そうに鳥籠のお仕事に出かけて行きましたしね」
「収穫の時期の周りは、戦乱なども起きやすいからね」
「むむぅ。女王様の羽を毟ってしまったウィリアムさんなら、恐怖が語り継がれていたかもしれないのに残念ですね」
カチャリと食器が鳴り、エーダリアがスプーンを下した。
食事もしたいが、話したいことも沢山あるようだ。
「………被害にあった騎士とその恋人はな、今年の夏至祭に婚約したばかりだったのだ。幸いにもお前達が用意してくれた解毒剤が効いたようで正気に戻ったが、一緒に暮らしていた家族の内、弟と母親は助からなかった」
「騎士さんのところに来たのは、最後だったのですね………」
「ああ。今後の生活の立て直しは本人の気力次第だが、カルスンは今回のことを機に、彼女が自責の念に駆られて逃げ出さないようにと結婚許可証にサインをしてしまったそうだ。芯が強く、穏やかないい男だ。彼がいればきっと乗り越えてくれるだろう」
悲しい事件だったが救いはある。
こんな身近にいる恋人達が悲しい顛末を迎えずに済み、ネアは少しだけ救われた思いがした。
失われてしまった家族を思えば胸が張り裂けそうになるだろうが、悪いのはその闇の妖精なのである。
そしてウィームでは、このような人外者の影響を受け理不尽に奪われる命というものに対して、他の領土よりも遥かに深い理解があるのも幸いなのだろう。
人外者の影響を受けた事件への認識が違う他国では、幸運にも闇の妖精の手を逃れても、闇の妖精の指示通りに家族や知人を手にかけた被害者が、結局は国の法律で裁かれて死罪になることもあるのだそうだ。
「遠征などで他領に出る騎士の家族の内、自衛能力のない者達については例外的に騎士の住まいに避難させる措置を取ろうと思うがどうだ?」
「それに関しては、私も賛成です。とは言え、不安要因をリーエンベルク内に持ち込む可能性もある。この一件が落ち着くまでは、騎士棟と本棟の間に一定の規制線を敷いた方が良さそうですね」
「………そうか。既に影響を受けた者が入り込み、機会を窺うという可能性もあるのか………」
「ないとは言えないでしょう。その妖精の能力の特性が解明されていないのですから」
しかし、その措置は魔物達を少し考え込ませたようだ。
まず口を開いたのはディノであった。
「であれば、我々の部屋のあるこちらの棟は魔術的に封鎖させて貰うよ。事前に決めた者だけが出入り出来るようにしておくが、入れるのは君達だけにしておこう」
「それがいいね。元々、こっちの棟はあちこちに結界の壁があったんだけど、条件付けの魔術を敷いた方がいい気がする。………僕さ、気になってたんだけど、あの妖精の被害者って時々王宮なんかでも出るんだよね。今回の僕達みたいに警戒していたとしたら、どうやって入り込むのかなぁって」
「…………何か、侵入などを助ける魔術を持っている可能性もあるのか」
低く呻いたエーダリアに、多分ねとノアが頷く。
あまり良い話ではないが、きちんと話し合っておかなければいけないことだ。
それを考えて頷き、ネアはとあることを仲間達に告白しておいた。
「私からも報告があるのですが、この前の逃げ沼に落ちた時と、今回の女性の方が影響を受けてしまった件、そのどちらでも実際に姿を見たりはしていないのですが、……何と言うか、………上手く言えないのですが、同じ色を感じたのです」
そんなネアの告白に、ディノは眼差しを揺らした。
「色を、………感じたのかい?」
「ええ。強く光るようなエメラルドグリーンの色味のある青色で、瞼の裏に光が残るような、ちかっと光るようなそんな印象が残ったのです。闇の妖精さんの目は光ると聞いたので、もしそんな何かを感じているのであれば、些細なことであれお話しておかないで事故るのは嫌ですから。……ただし、気のせいの可能性も高いので、どうかこの情報に惑わされないようにもお願いしたいのですが………」
「君は、あまり良くないものに感じたんだね?」
「ますます上手く言えないのですが、予兆の色のような、そんな感じに思えたのです。こちらの世界には私の分らない魔術のあれこれがありますし、良くないものではないといいのですが」
「…………ノアベルト、王子の瞳の色を知っている者はいるだろうか?」
「僕の知り合いの女の子が、妖精の国の住まいだからそれとなく聞いてみるよ。シルも、ヨシュアを介して例の霧雨のシーに聞いてみてくれる?確か、霧雨の妖精も妖精の国に住む一族だ」
「そうか。ヨシュアのところにも高位の妖精がいたね」
ここで、お役に立てずと鎮痛な面持ちになったヒルドに、ノアが住む世界が違うからねと肩を叩いている。
今回一つ不利なことがあるとすれば、ネア達の近くにいる高位の妖精達は皆、妖精の国に住んでいない妖精なのだ。
ヒルドやダリルもそうであるし、王都に住むロクサーヌも、妖精の国に紅の薔薇の城を持ちつつも、こちら側での需要で階位を上げた妖精らしくその人生の大半をこちら側で生きてきている。
何百年かに一度訪れる別荘地くらいにしか、妖精の国のことは知らないのだそうだ。
ざわざわと、冬の入りの冷たい風が庭の木々を揺らしている。
イブメリアが近付き浮足立った心が沈むように、部屋に戻ったネアは、頬杖をついて暗い窓の外を眺めていた。
こんなことがなければ、気楽に魔物とどこかに遊びに行こうと考えていた週末も、厳戒態勢の中部屋から出ないで過ごすことになりそうだ。
ディノが魔物会議で聞いてきたことによれば、他の土地で目撃された闇の妖精は、留まっても一つの国にひと月程度の滞在だという。
一刻も早く出て行って欲しいという思いと、でもそれは攫われた誰かが妖精の国に連れて行かれることなのだという事実が混ざり合い、胸の奥がもやもやする。
妖精に嫁ぐ本人は幸福だとしても、その手で愛する者達を壊してしまった事実は、いつかその心を蝕まないのだろうか。
そう考えると寂しくなって、ネアは魔物の袖を引っ張った。
「ディノ、今日はお隣で寝ます?」
「うん。暫くはそうしようか。それと、庭を見に行くときも必ず、私と一緒に出るようにね」
「ディノがいない時は、ノアかヒルドさんでもいいですか?もしかすると、少し外出する時間が増えるかもしれないのでしょう?」
「あまりこの近くに出没しないよう、近隣にある程度の障壁を築いておこうかと話しているんだ。だが、それでなくてもリーエンベルクは魔術の込み入った場所だから、様々な条件付けを生かして壁の内側に入れる場合は、実際に壁を設ける場所に行った方が確実だからね」
「ディノも、闇の妖精さんには会わないようにして下さいね」
「………君に何かがあると困るからね」
危ないことはしないで欲しかったが、ディノは魔物らしい不思議な微笑みを浮かべると、すぐに話題を変えてしまった。
場合によっては闇の妖精の王子はいなくなってしまうかもしれないが、その為に接触したことで万が一恋をされたら困るので、ネアは不安でいっぱいになる。
だから、その夜は魔物にくっついて眠った。
ディノはとても恥じらっていたが、ご主人様が眠ってから外に出るようなことがないように、しっかり捕まえておいたのだ。
翌朝は、夜明けと共にまた闇の妖精の被害が報告され、朝からリーエンベルクはてんやわんやになった。
被害者の女性の自宅が比較的リーエンベルクに近いこともあり、ディノは防壁の立ち上げを急ごうと思ったようだ。
ノアと少し打ち合わせをした後、その基盤を固める為に外に出て行った。
まずはディノが基盤を固め、その後で壁となるものをノアが展開するのだとか。
良いニュースもあり、ヨシュアの相談役の妖精から、闇の妖精の王子の瞳の色は黄緑だという情報が入った。
もしネアの感じた色が闇の妖精のものであっても、せめて王族ではないということだ。
「でも、君を一人にはしないからね」
「ノアが一緒だと心強いですね」
ディノが出ているとなるととても落ち着かないのだが、心強いことにその間はノアが一緒にいてくれることになった。
もう少ししたらそちらに入るとアルテアからもメッセージを貰い、ほっとしてそのカードを閉じると首飾りの金庫にしまう。
(……………ん?)
本棟に向かう道中、廊下の向こうから歩いてきたグラストの顔色が冴えない。
ぎくりとして見つめれば、目が合ったグラストが微笑んでくれる。
「………グラストさん、大丈夫ですか?」
「ああ、ネア殿。あまり近付かれませんよう!お恥ずかしながら、こんな時に火車草に触ってしまって熱を出しまして」
そう言ったグラストは確かに目が少し赤いようで、呼吸も少しだけ荒いように感じる。
火車草というのは触れるとかぶれて熱を出す植物で、その植物もこの前の大雨でどこからか種が運ばれてきたらしい。
ネアが慌てて魔物の薬を取り出そうとすると、グラストは笑って片手を振ってくれた。
「こちらの警備の配置換えが終わるまで、半刻もありませんから。薬はその後に飲もうと思っていまして」
「薬を飲むと、半刻ぐらいぼうっとするからってすぐに飲んでくれないんだ」
「はは、すまないなゼノーシュ。とは言え後回しには出来ないからな、すぐにこっちを終わらせてしまおう」
隣にはふすんと悲しげに鼻を鳴らしたゼノーシュがおり、配置換えの作業を優先してしまうグラストを恨めし気に見上げている。
そういう事情であればあまり無駄な労力を使わせたくないので、ネアは慌てて後ろに下がった。
「ごめんなさい、ご事情を知らず、足止めしてしまいました。お仕事に戻られて下さい」
「お気遣いいただいて、有難うございました」
優しいが頼もしい顔でくしゃりと笑ってくれ、グラストが頭を下げて横を通り過ぎてゆく。
一緒にいた騎士も頭を下げて通り抜けようとして、おやっと言う風にネアの方を見た。
「ネア様、ラベンダーのチーズを食べられたようであれば、匂い消しをした方がいいですよ」
「まぁ、………においます?」
初対面の騎士にそんなことを言われてしまい、ネアはしょんぼりしてそう尋ねる。
するとその騎士は、柔らかな水色の瞳を細めていいえと笑った。
さらさらした栗色の髪をした中肉中背の騎士で、下がった目尻が優しそうだ。
「ラベンダーとチーズは妖精が好む匂いなのだそうです。今は危ないですからね」
「なんと!ではすぐに歯磨きしますね!!」
ぺこりと会釈してその騎士はグラスト達と去ってゆき、ネアは一緒に居たノアに消臭歯磨きに付き合って貰うお願いをする。
そこに合流してくれたのは、他の騎士達との打ち合わせが終わったエーダリアだ。
ディノが出かけている今日は、ノアは忙しくエーダリアとネアを警護しながら一緒に行動しているのだが、こんな少しの賑やかさにネアはほっとしてしまう。
エーダリアもいるので、今日はディノが戻るまでは本棟で過ごすことになるだろう。
「先程の騎士さんには、初めてお会いしました」
「ザルツ出身の騎士で、よく気の付く男だ。妖精の血を少し引いているからな、今回の件ではグラストの補佐を任せている」
「ふむ。頼もしい方なのですね!」
「………ありゃ、それで微かに妖精の気配がしたのか。一瞬、殺しておこうかなって迷っちゃったよ」
「やめてくれ…………」
騎士はオルと言う名前で、曾祖父が音楽の妖精なのだとか。
ザルツ近郊の小さな村にある、代々素晴らしい楽器を作る名門職人の家の生まれで、その家の楽器に魅せられて婿入りしたのが彼の祖父にあたる。
妖精の要素はあまり受け継いでいないそうだが、それでも知らず知らずに身に着いている妖精の知識も多い。
「ラベンダーとチーズのお話は、知りませんでした」
「そういえば、妖精の女の子達はいつもその組み合わせが好きだった気がする……」
「むむぅ。もっと早く教えて下さい。寧ろ、妖精さんが嫌いな匂いがあれば、それを纏えばいいのでは?」
「そうなると、汚い水や土の匂いに、空気を汚すような煙の香りだな」
「………良い手だと思ったのですが、私の心も死んでしまうので無念です………」
そんなことを話しながらその場を離れ、次にネアがその騎士と出会ったのは、グラストが配置変更を終えたという半刻後のことだった。
ネアの側には一仕事を終えてくたびれた顔になったアルテアが並んでおり、知りもしない魔物に注意喚起をしてやらなければならない馬鹿馬鹿しさについて語っていたところだ。
ノアは少し離れ、エーダリアの隣にいた。
油断をしていたのかと言われればそうせざるを得ないような万全の環境で、外客用の棟であるとは言え、そこはリーエンベルクの内部の一部屋であったのだ。
「申し訳ありません、隊長には薬を飲んでいただくことを優先して貰いました。代わりに俺からご報告を」
「ああ、受け持ちではない報告まですまないな。配置換えは無事に終わったのか?」
「ええ。森側の担当を一部変更し、巡回の時間を見直しました。詳しくはこちらに。……ヒルド様は?」
「ヒルドなら、領内の打ち合わせに出ている。今回のことで何か相談したいことがあるのなら伝えておこう」
「………妖精のことはやはり、シーであるヒルド様が一番敏感ですので」
目尻を下げてそう言うと、オルは目が合ったネアに小さく微笑んだ。
「歯磨きをされたんですね」
「ええ、教えてくれて助かりました。有難うございます」
「すみません、ご不安でしょうが、俺達でお守りしますので」
「こちらこそ、騎士さん達にはご負担をおかけします。この通り、頼もしい魔物さんがいてくれるので、安心して下さいね」
「おい、指を差すな」
その時が訪れるまではほんの一瞬だったが、視界の端で、ふっとオルの唇の端が持ち上がるのを、ネアはなぜだか微かな予感と共に見ていた。
実際にはそんな顔はしていなかった筈なのに、なぜかそんなものが見えた気がしたのだ。
触れる程の距離にアルテアが居て、同じ部屋にノアとエーダリアがいて、リーエンベルクの中で。
だから油断していたのだとそんな免罪符になるべき事柄を頭の中でぐるぐると回してしまったのは、ネアが魔術に通じていないただの人間だったからだろう。
「かもしれませんね。ネア様、こちらに来て下さい」
ただ、気付けばネアは、その騎士の腕の中にいた。
「………え?」
まるで自分で転移を踏んだような不思議な感覚に、目を丸くする。
転移など出来ない筈の自分が瞬間移動したことで、頭の中が真っ白になってしまった。
ぐっと腰に手を回され、そんな相手の爪先を踏む余裕もなく、くらりと視界が暗くなる。
何かが倒れるような、不吉な重たい音が背後で聞こえた。
ぱっと視界の端に散ったのは、鮮やかな血の色。
「では、ご機嫌よう」
誰かの楽しげな声が耳元で聞こえる。
アルテアは驚いていただろうか。
或いは、エーダリアやノアはどんな顔をしていただろう。
そんなことの何も認識出来ず、暗い闇の切れ端の中を、嵐の中で翻弄される木の葉のように、きりもみになって落ちてゆく。
「…………っ、」
ばすんと、音がした。
転がり落ちたのではなく着地だったが、あんまりに乱暴な落下に、ネアは地面に下された後も座り込んでしまって上手く喋れなかった。
止まりそうになった心臓を押さえてぜいぜいし、面白そうにこちらを見ている誰かに、そろりと顔を上げる。
冷たい床だった。
ただし、結晶石のようなものでモザイクになっており、こんな時でもそう思うくらいに美しい。
そこに手をついて立ち上がれば、目の前の誰かは、ネアの全身を観察しているようだ。
「……………あなたは」
「ユリウスと、これからは呼ぶように。やはり、お前は他の誰よりも冷静だな」
そう嗤ったのは、鮮やかなパライバブルーの瞳を細めた、美しい男だった。
短い黒髪は襟足にかかる程で、ゆるやかな曲線を描き首筋に落ちるラインがどこか扇情的だ。
にいっと口角を吊り上げて微笑む姿は妖艶なのに、その色めいた温度よりもなぜか冷たさを感じた。
がらりと変わった口調だが、高慢な口調ながらにも優雅で柔らかい印象で、そのちぐはぐさになぜだか怖くなる。
まったく口調も気質も違うのに、ふとアイザックの独特の空気感を思い出した。
「…………あなたは、闇の妖精さんなのですか?」
「羽を出す前に見抜かれたということは、どこかで俺達の瞳の特性を聞いたのか」
優美な指先でそっと自分の目の下をなぞって、男は嗤う。
カーテン越しに窓の向こうがちかちかと光り、その影を長く落とした。
外でわあっと上がる声は、何を喜んでの騒ぎなのだろう。
楽しそうだが背筋が寒くなるような、どこか不安を掻き立てる喧騒だ。
まだ少し頭がくらくらしたが、ネアは堪えて足を踏ん張ると、真っ直ぐにユリウスと名乗った美貌の男性を見返した。
喧嘩を売る必要はないが、か弱いと思われてもろくなことがなさそうだ。
何しろ、これは多分誘拐されたということなのだから。
「どうやって、私を捕まえたのでしょう?あの場には、とても怖くて厄介な魔物さんが、二人もいたのに」
「妖精には、繋ぎの魔術規則というものがある。一度、魔術を敷いて命じたことに相手が従うと、その人物との間に魔術の契約の道が出来る。お前は少し前に一度、俺の言葉に頷き、それを実行しただろう?」
「…………もしかして、ラベンダーチーズが?」
「そう。古くからある単純な魔術だが、素朴なもの程存外に強い。ああして言葉を交わしても不自然ではない状況さえ作れれば、案外有用なものだ」
「………そんなものが」
「あの魔物達も勿論知っていただろう。妖精の古い魔術だ。そして、そこで使われたとは心にも思わなかったのだろう」
警戒するようにじりっと下がったネアに、ユリウスはまたどこか愉快そうに微笑んだ。
いつかの誰かに似ていると考えかけ、出会ったばかりの頃のアルテアにどことなく雰囲気が似ているのだと思い至る。
一度転移でどこかに連れ込んでしまえばもういいのか、ネアを拘束して捕まえておいたり、痛めつけたりするような様子はない。
「ここはどこなのでしょう?却下されるのを承知で言うのですが、私をお家に返して下さい」
暗い部屋だった。
ただし、カーテンを閉めた窓の外は明るいようで、まるで夜の遊園地に面しているように明るく煌めき喧騒が遠く聞こえる。
部屋の調度品は豪奢だが、黒い家具が多いようだ。
色々な絵が壁にかけられ、その全てが妖精のものである。
「ここは妖精の国の一画だ。人間を食糧にする妖精があちこちにいる」
「何て嫌なところなのだ」
「それと、分ってはいるだろうが、せっかく捕まえたものを地上に戻すつもりはない」
「私は人間の中でもとりわけ獰猛なのです。更に、強欲で我が儘なので、すぐさま解放することを推奨します」
「それは良く知っている。それと、市販の転移門では、妖精の国からは出られないぞ」
「なぬ。………どうしたら出られるのですか?」
「言うとでも?」
目を伏せながらふっと息を吐くように笑って、ユリウスは鮮やかな瞳を煌めかせた。
「………まるで、言わせてやるとでも言いたげな顔だ。言っておくが、妖精の魔術は俺の領域だ。そのブーツの魔術はあまり効かないぞ?」
「…………わ、私の大事なブーツに悪さをしたのですか?!」
あんまりな言葉に眉を下げてへにょりとしたネアに、男は微かに目を瞠った後、また少し微笑みを深くした。
「俺には効かない。だが、ここは上程に安全な土地ではないからな。他の者達への影響までは奪わないようにしてやる」
「他の者達?」
「後で街に連れて行ってやろう。妖精の国は初めてだろう?」
「なぜ観光になど連れ出してくれるのですか?あなたは悪いやつなのでしょう?」
「花嫁候補だ。まずはもてなしてやる」
「………と言うか、花嫁候補にされた理由が分かりません。なぜよりにもよっての私なのでしょう?」
ネアの率直な疑問に、男は眉を持ち上げた。
ちらりと、けれども真っ直ぐにこちらを見た眼差しは強く、なぜかどきりとする。
「気に入ったからだ。騎士達が押し付けてくる、どこぞの魔術師や姫達よりよほどいい」
「騎士さん達からすれば、悪趣味だと思いますよ」
「かもしれないが、俺の花嫁だからな。…………さて、俺は少し寝る。さすがに、リーエンベルクの魔術干渉で少し消耗した。おまけにこちらに戻るのにかなり迂回したからな」
「迂回…………?」
「お前には一瞬に思えただろうが、地下に降りるまでに半日はかけている」
「………あれから、半日も」
「好きにしていて構わないが、この部屋からは出るなよ?あえて、お前が逃げないように人間を食料とする妖精の土地に入ったんだ」
「…………賑やかなところですね。なんと言う街なのですか?」
「狂乱の区画だ。俺が起きるまでに、俺を楽しませることでも考えておけ」
「なぬ。絶対にお断りです」
小さく笑い声を上げ、ユリウスはすぐ側にあった長椅子にごろりと横になった。
羽はまだ見えないが、擬態したままなのだろうか。
(あまりにも無用心だという気がするけれど……)
けれども恐らくブーツのことを知っていた彼には、油断するだけの理由もあるのだろう。
ぎりぎりと眉を寄せながら考えて、ネアはこてんと首を傾げた。
(もしかして、私はもうこの妖精さんに夢中な筈なのだろうか?)
彼の慢心はそのせいなのかなと思い、少しだけ長椅子に近付いてみる。
「………なんだ?」
「ちっとも好きではありません。闇の妖精さんなら、魅力に欠けるのでは……」
「ああ、呪縛の魔術は敷いてないからな。人形にしてもつまらないだろう?」
「ではなぜ、無防備なあなたを叩きのめすかもしれない私の前で、ぐうぐう寝れるのでしょう?自殺願望があるのなら、お任せ下さい!」
「俺の周囲には、守護による不可侵の領域の魔術を敷いている。つまり、お前には俺を損なうことは出来ない。試しても構わないが、下手をするとお前が死ぬからな。自分に跳ね返っても構わない程度のものにしておけ」
「むむ。それはどうやったら解けるのですか?」
「………よくも尋ねようと思ったな」
「闇の妖精さんは謎めいています。そもそも、どうやってリーエンベルクに………ほわ、寝てる」
ネアは呆然として、会話の途中で寝落ちした妖精を見下ろした。
念の為に近くにあったクッションを放り投げてみたが、クッションはユリウスには当たらず威力を上げてネアの顔面に跳ね返ってくる。
「むぎゃふ!…………むむぅ。言われたことは本当のようです。しかも跳ね返るとは厄介な…………」
しかし、寝落ちしてくれたのは幸いだ。
ネアはそそくさと死角に逃げ、首飾りの金庫から引っ張り出したエーダリアから貰った魔術通信のピンブローチを服の内側に、そして、ゼノーシュに持たされていた刺々の蔓が伸びる種と、きりんの絵を服のあちこちに突っ込んでおいた。
棚の影から顔を出しきょろきょろすると、また死角になった影の中に戻り少し考える。
そして、取り上げられる危険にしばし迷ってから、ディノではなくアルテアのカードを取り出すと、開いた途端光って揺れていた文字にふにゃりと眉を下げた。
“一度妖精の国に降りてから、シルハーンが取り戻しの魔術をかける”
短い言葉だったが、それはこの上なく頼もしい言葉だった。
であればネアは、決してその間に無茶をしないようにしよう。
あの魔物ならきっと来てくれる。
“妖精の国の狂乱の区画とやらにいます。誘拐犯は謎に疲れて寝ました。まだ呪縛とやらはかけられていません。ブーツを無効化されました”
そこまで書いてからまた少し考え、自分からのメッセージの際には必ず書き出しに横棒を一度書くと付け加えた。
こんな自由時間がなぜ与えられたのか分からないが、敵がネアのことをある程度知っているのなら、今の内だけ泳がせておいて、このカードを取り上げられる可能性もあるからだ。
アルテアも同じ考えだったらしい。
すぐに返事が返ってきた。
“このカードは取り上げられるのを覚悟の上で、常に出しておけ。ある程度は繋いでおくぞ”
“はい!”
“シルハーンは既に発った。当面は俺のものに連絡を入れろ。それと、妖精の国では転移門は使えない。あわいで彷徨うことになるから絶対に使うなよ”
“妖精さんにも言われました。そして、攻撃が跳ね返されます”
“……どこで、お前を指定する要素を手に入れたのかは謎だが、条件付けの一種だろう。どうしても攻撃したければ、相手に選ばせろ。だが、あまり闇の妖精を怒らせないようにしろよ。そいつらの固有魔術が不明のままだ”
それは端的な指示であったが、今のネアには有難い情報だった。
演技かもしれないが背後ですやすや寝ている妖精の方を見て、暗く凄惨な微笑みを浮かべる。
人間がどれだけ執念深く狡猾なのかを、いつか身を以て知るだろう。
(……………妖精の国、か)
窓の外は相変わらず様々な光が弾け、ネオンサインのようだ。
カーテンをめくったら喧騒の向こう側には無機質なかつての世界の都市があるようで、ネアは身震いする。
(…………ディノ)
その名前を呼びたいけれど、呼んでしまうことでこちらに向かってくれている魔物を焦らせたくはなかった。
あの後でリーエンベルクがどうなったのか、ネアが見た血飛沫は誰のものだったのか。
そんなことをカードで尋ねながら、また窓の外の騒めきに、もう手放した筈の懐かしい世界の怖い記憶が揺らぐ。
せめて、長椅子で眠っている男性には、羽を出しておいて欲しかった。