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192. 許せない存在です(本編)



その日、ディノは珍しく外出していた。

ネアは思いがけずしょんぼりしながら、リーエンベルクに隣接した禁足地の森に佇んでいる。


かつて、良い大人なのだからと外出していても全く気にならなかった頃が懐かしいと思うくらい、今はディノが不在にしていると微かな不安に付きまとわれる。



「…………しかし、魔物さんの集まりなので、仕方ないのです」

「ありゃ。寂しくなっちゃった?」

「ふむぎゅ。ノアがいなければ、もっと寂しかったと思います……」

「うんうん、僕は君の側にいるから、もっと甘えていいよ」

「微笑みがいかがわしいのが難点ですが、心強いので致し方ありません」

「ネア、言い方!」

「腰に回された腕をこれ以上下げたら、爪先がなくなりますよ!勿論、抗議は却下します」

「仕方ないよね。僕も男だから」


ノアはさっと腕を上に上げつつも、苦笑してそうしれっと口走る。

しかし、ネアがむむっと眉を寄せて足踏みすると、すぐさま素直に謝った。


「ほら、この前のアルテアみたいになったら堪らないし」

「………私はどこを踏んだのでしょう」

「僕の体で教えてあげようか?」

「なぜか、突然興味がなくなりました。夜の市場でお会いした時には元気そうだったので、後遺症はないと信じます」

「うーん、後遺症があったらあったで、寧ろ絶対に言えないよなぁ」

「魔物さんは丈夫なのですよ!アルテアさんの頑丈さは、ウィリアムさんのお仕置きで証明済みですから」

「ま、そりゃそうだね」



ネア達は今日、禁足地の森に狩りに来ていた。

気を紛らわせるには狩りが一番だと、ノアから提案してくれたのだ。

しかし、そんな提案が向こうから降って来たことに、ネアはかえって不安を募らせる。



「…………ノア、魔物さんの会議は何をするのですか?」

「今回は、白百合が大国の統括階位から外れたから、統括の配置換えだね」

「ほゎ、ロサさんの大事なお友達です」

「ん?ロサってどの薔薇?」

「確か、本当のお名前はネビアさんでした」

「ああ、ネビアね。あの二人って面倒に拗れてるよねぇ」

「白百合さんは、…………む、もしやきりんさんでは………」

「…………え、ネア何かした?」

「ロサさんに、白百合さんとお話しする機会を与えるべく、きりんさんの絵を差し上げてます」

「わーお、それってまさか、意識不明にして捕まえるってことかな」

「うむ。否定はしませんね」

「ありゃ。………あ、でもジョーイの階位落ちはラエタの前にアイザックと揉めた結果だから、君の絵が彼を意識不明にするのはこれからかもね」

「魔物さん会議の大騒動に加担していなくて、ほっとしました…………!」




冬の入りの風に、冷たい風を好む妖精達の衣がふわりとたなびき、さくさくと踏む落ち葉の下からは踏まれた精霊が抗議の声を上げる。

ノアの黒いコートが風にふくらんで、前髪を靡かせた彼はラベンダー畑で出会った頃に良く似た表情を見せる。


「ジョーイは統括の仕事を嫌ってたから、案外喜ぶかもね。大国を任されるのは負担だと思う魔物も多いからさ」

「そういうこともあるのですか?………ノアも?」

「僕は、元々あんまり大国の統括を任せられる感じじゃないかな。中規模の国はあったけど、あんまり統括は好きじゃないよ。他の誰かの問題に関わるのってさ、得意不得意があると思うんだ」

「ふふ、私の目から見ているノアは、周囲の方のことをとても良く見ていますが、それはやはり仲良しさんだからなのでしょうね」

「うん。嫌いな奴のことなんか、僕は基本的にどうでもいいしね。そこに更に、なんとも思わない奴等もいるし」


酷薄な微笑みを浮かべたノアに、ネアも大真面目で頷いてみせた。


「ふむ。残念ながら、私も似たような方針です。大事なものがとても大事なので、他のことに割く労力など勿体無くて使えません……」

「でも君は、それが少し寂しいんだね」

「と言うより、後ろめたいのです。大事なものが大事なので、そんな自分勝手な私に失望されたら困るのです」

「大丈夫、僕達魔物はそういう方が好きだよ。違う嗜好の奴等もいるけど、そういう奴等はそもそも君の側にいないし」

「エーダリア様は大丈夫でしょうか。家族な感じの大家さんなので仲良くしていきたいです」

「エーダリアは安心してると思うよ。ヒルドもね。誰だって、大事なものには卑怯な手を使ってでも無傷でいて欲しいからね。それを苦痛だと思わずに汚れてでも生き残ってくれることは、エーダリアみたいな立場の人間には気が楽なんじゃない?それに、僕らもね」


鮮やかな青紫の瞳に落ちた微笑みに、ネアは微笑みを返して伸ばされた手を取る。


「だから、私はきっと魔物さんが好きで、奇妙で怖い生き物が多いこの世界で安らかに過ごせるのでしょう」

「うん、だからね、君は思い直して清廉潔白になんてならないでね。僕達は、そんな風になられたら守り方も愛し方も分からなくなるよ。ネアはネアのままじゃないと!」

「私は、こうして同じリーエンベルクの屋根の下にノアがいてくれて、とても幸せですね」



その言葉に、ノアは目を微かに瞠った後、僕もだけどねと呟いた。



「幸せな場所があるっていいことだよね。エーダリアも好きだし、ヒルドも好きだ。全然合わない気質なのに、グラストもゼノーシュもそれなりに好きなんだ。おまけにゼベルとも仲良しだしね」

「そう思うと、エーダリア様の人徳もありますね。元々はあの方が集めた人達ですから」

「ありゃ。確かにそうだね。ネアも、ここにはエーダリアが見付けて連れてきたんだし」

「謎めいた託宣があったそうです」

「じゃあ、その託宣を出した者は優秀なんだと思うよ」



ピチチと、木の上の方で小鳥が鳴いている。

森の奥の方を駆けて行くのは鹿だろうか。

雨上がりの森の豊かな色彩と香りに心が鎮められ、ネアはようやく美しい森を楽しむ余裕が出てきた。


朝方にどばっと降った大雨は、こうして晴れ上がると枝葉や茂みについた雫の煌めきや、澄んだ空気を残していってくれる。


(でも、コートやブーツがびしゃびしゃになると困るから、雨具で来て良かった!)


特殊な水滴を弾くレインコートと長靴ならば、雨上がりの森でも気兼ねなく駆け回ることが出来る。

そしてこんな突然の大雨の後の森には、普段この時期にはいないような生き物も多く現れるのだそうだ。


(さて、気を取り直して狩りをしよう!せっかくノアが連れて来てくれたんだもの)


そう意気込んだところで、ネアは不審な黒い影を発見する。


「むむ!なにやつかが、すすっと逃げてゆきました!」

「僕も見た。影みたいに見えたけど、何だろうね」

「あの茂みの中に逃げ込んだので、ちょっとつついてみますね」

「僕がついてるから安心だけど、指輪のある方の手でね」

「はい」



ネアは、手をそっと差し出して茂みを揺さぶってみた。

中に逃げ込んだものが飛び出してくるかなと思ったが、茂みを揺さぶった手応えはかなり軽い。



(もう、この向こう側に逃げてしまったのかしら)



そんなことを考えていたその時、足元を黒い影が過ぎった。



「むむ!」



その時のネアは、咄嗟のことに判断を誤ったとしか言いようがない。

まさかそんなものが出てくるとは思わなかったというのもあるが、やはり少しだけ気が緩んでいたのだろう。


つい戦闘靴の感覚で踏みつけようとしてしまい、何故かすぽんと弾かれるようにしてすっぽ抜けた長靴に目を丸くする。



しかし、状況を判断出来たのはそこまでであった。




「むがふ?!………ごふっ?!」




次の瞬間ネアは、ずぼんと足元のぬかるみに垂直落下した。

一瞬で視界が闇色になり、べたべたした嫌な臭いのものに全身が包まれる。

もったりとした溶かしチョコレートのような質感で、匂いは下水の匂いだ。



(まずい、何かに落ち…………え?)




ふっと、暗闇の中で鮮やかなパライバブルーの瞳が見えた気がした。

暗闇の中で瞳の見えない横顔から、ゆっくりとこちらを向くような。

でもそれは、泥の中で見たただの幻だったのかもしれない。



(………………気のせい?)



星が散るようにちかちかする視界は、いきなり真っ暗な泥の中に落とされたからだろう。

直前まで見ていた森の色彩が視界に残ってちかちか煌めくのだ。


ぶくぶくと泥の中で息を吐いてしまい、苦い味が口の中に広がる。



(こ、これはまさか…………!!)


瞼の奥に蓄えた光が失われ、徐々に視界がまたどす黒くなって来た。

自分が落ちた場所の正体が分かった気がするけれど、このままでは泥水に水没死するのではと思いかけたところで、ネアはばんざいのポーズで上に出ていた両手をぐいっと捕まれ、無事に引き揚げられた。



「………ごふり」

「わーお、こりゃ洗わないとだね」

「にゃ、にゃが、長靴が………」

「大丈夫、無くしてないよ。長靴とレインコートは、水避けの魔術で君と一緒に沈まなかったんだ。弾かれて上に残ってたから、ほらここにある」

「むぎゅふ。見えませぬ…………」

「よし、お風呂だ!」



ネアはすぐさま、ノアに抱えられどこかの浴室に放り込まれた。

まずはと、レインコートの下に着ていたセーターとシャツを脱がされ、べたべたの重たい泥の一部を体から剥がして貰う。



「むぐぅ」

「逃げ沼だね。こんな時期に珍しいなぁ。………うーん、派生理由が気になるけど、今ここに現れたのは通り雨のせいかな」

「通り雨死すべし」

「言っておくけど、通り雨の魔物は関係ないよ?突発的な天候の変化は、ここにはないものを呼び込む魔術変異になるんだ。…………わーお、こりゃ大変だ……」



ざあっとお湯を出す音が響き、ネアは二度目の泥人形となって、でろんと置かれた場所に立ち尽くした。

ボディソープのようなものがかけられ、ごってりとへばりついた泥の表面をごしごしされる。



「…………ありゃ」


そこでノアは、ようやく逃げ沼の泥がただの泥水ではないことに気付いたようだ。

前回落ちたのは銀狐状態だったこともあり、人型の肌でその泥の状態に触れてはいないのだ。

ネアは残念ながら二度目なので知っているのだが、この泥水はべたべたした油っぽい泥で、すべすべ肌についてもそうそう簡単に洗い流せないのである。



「耳が………」

「うん。まずは頭の方からだね。ネア、目は瞑っていてね。女の子を洗うの初めてじゃないけどさ、こういう洗浄を目的としたのは僕も初めてだからさ」

「………もし、大変だったら、家事妖精さんを……ぐふっ、」

「ほらほら、黙って」

「ふぎゅう」



温かいシャワーのお湯がかけられているのを感じるが、油っぽい泥で表面を滑り、その恩恵をきちんと感じられない。

臭くて惨めなネアは、人間らしい心の狭さで、あんな逃げ沼は逃げ沼に落ちてしまえと世界を呪っておいた。



頬に指が触れる。

表面の泥を優しくこそげ取ってくれているようだが、ネアは綺麗な魔物の手が汚れてしまうとまた悲しくなる。


「ふぎゅる。ノアが汚れてしまいます………」

「僕は君とお風呂に入れて楽しいよ。君が沼に落ちた時は、代理の心臓が止まりそうになったけどね」

「代理の心臓が謎めいています」

「それと、ちょっと脱がすよ」

「ふぁい」



そう言われても、体にへばりついた泥が軽くなるのが分かるだけで、何を脱がされたのか分からなかった。

髪の毛という顔周りに泥が一番つくので、結果外からの情報が遮断されがちになるのだ。



前回と同じように、シャワーで温められた泥が嫌な臭いを放つ。

ちょっと涙が出そうになって、ネアはこんな自分を洗ってくれているノアの為にぐぬぬと堪えた。



(そして今回は、そこに逃げ沼があると警戒していた最初の時よりも、身構えられないまま沼に落ちた…………)



口に入った泥はあらかた吐き出したが、その前に少しだけ飲んでしまった気がする。

後で整腸剤を飲まないと体調を崩しそうだ。



さあっと、お湯の音がどこかくぐもったように聞こえる。

ノアの鼻歌に時折頑固な泥への嘆きが混じり、ネアはノアの指示のままに立ったり座ったりをよろよろと実行した。



「うん、役得役得」

「…………むぐるる」

「ほら、唸ってないで僕の膝に座って」

「むぐる」


良からぬことを混ぜられている気がしないでとなかったが、絶賛泥人形中のネアには判断がつけられない。


べしゃっと浴室の床に泥が落ちる音が響き、またお湯の滑る感覚が続く。

右側の肩と頬にはお湯が直接当たっているので、そちら側の洗浄は進んできたのだろう。


「そろそろ、目を開けられます?」

「髪の毛がまだ終わってないから、瞑っていた方がいいよ。目に入ると良くないんじゃないかな」

「ふぐぅ」


べっとりと重たい髪の毛が片側に流され、首の片側がすーすーした。

耳を指先で拭って貰い、音がきちんと聞こえるようになるとほっとする。



そこでぬるぬる滑る体のせいで疲労困憊していたネアは、一度ノアの膝の上から滑り落ちそうになってしまう。

きちんと座り続ける為に使われてきた腹筋と背筋に、とうとう限界が来たのだ。



「むぎゃ!」

「おっと!危ないから僕の体にもたれておいで」

「汚れ…」

「大丈夫だよ。寧ろ、もたれてくれると嬉しいかな!」

「むぎゅ。ごめんなさい、ノア。腹筋が死んでしまったので頼らせて貰います」

「そうそう。………うん、役得だね」

「その不穏な言葉が気になります……」

「そう?この体勢なら、男なら誰だって喜ぶと思うけど」

「むぐるる………」

「ありゃ、威嚇し始めちゃったか」



それから暫くして、また温かいお湯が顔にかけられた。



「はい。髪の毛はまだまだだけど、後ろに流せたから目を開けていいよ」

「…………ほわ。有難うございます。………ほぎゃ?!」


しかし、目を開いたネアは思ってたよりも大雑把に洗われてしまったことを知り、災害時特別椅子なノアの膝の上で飛び上がる。



「な、なぜに犬用シャンプーで洗われたのだ!」

「これ、泥とかよく落ちるんだよ」

「そして、脱がし過ぎです!!」

「今回、下から泥が入ってたからね。でも君ってやっぱり無駄な怒り方はしないんだよね。そう言うところ好きだなぁ」

「泥人形から人間に戻してくれたので、その恩には感謝しているのです。しかし、今すぐにタオル的なものを下さい!」


さすがに全部脱がされてはいなかったが、ノアは面倒臭いのである程度はばりっと脱がしてしまったようだ。

若干を超えるくらいに淑女としてはまずい感じになっており、ネアはじたばたした。

以前洗浄をしてくれたアルテアならその手の心配はないが、ノアは時折悪さをするので要注意なのだ。



「うーん、膝の上でその格好で暴れてくれると、ちょっとくるなぁ」

「むぐるるる」

「ありゃ、またレインカルみたいになった。ほらほら、水着と変わらないし、今の君は泥まみれなんだから襲ったりしないよ」

「…………ほぎゅ?」

「まさかそこまで脱がしてないってば。泥で見えないだけで着てるよ?」


そう言われてネアはべたべたした髪を掻き分け、ファッションチェックを開始する。

愉快そうにこちらを見ているノアは、コートを脱いで白いシャツ一枚になり、濡れた袖を捲り上げていた。


「なぬ。………ほ、本当です!着てる!」

「内側にも泥が入ったから、ストラップを下げて中の泥を出しただけ。ストラップが見えないから脱がされたと思ったんだね」

「…………中の泥を」

「うん、…………ありゃ?」

「むぐるるる」

「ほらほら、威嚇しなくても僕は慣れてるから大丈夫」



その時、泥まみれのネアですらひやりとする声が浴室に落ちた。



「おや、慣れていると。ですが今回は、あなたの暇潰しのそれとは事情が違うようですが」

「げ、ヒルドだ!」

「家事妖精から、ネア様が逃げ沼に落ちたようだと聞いて来てみれば………」

「悪さはしてないよ。まぁ、膝の上にこんな風に乗って貰うのは役得だけどね」

「アルテア様の時のことを聞いた時にも思いましたが、あなた方は魔物なのですから、汚れ落としの薬湯を用意してその中に入れて差し上げればいいのでは?」

「……………なぬ。初耳です」



そこでネアは、このような事故の時や、呪いなどの洗浄を助ける、魔術薬湯があることを初めて知った。

そこに浸けられると、泥の油分も分解されて洗浄が楽になるのだそうだ。



「むぐるるる」

「ヒルドのせいで、余計に威嚇し始めちゃったよ」

「あなた方の思いやりのなさのせいですね。ほら、浴槽に薬湯を準備して下さい」

「手で洗った方が楽しいのになぁ…」



かくして、浴槽にはとろりとした緑色の薬湯が用意された。

乳白色に濁っているので、薬効も強そうだ。

そう思ってほっとしたところで、ネアには本日最大の試練が待っていた。



「さて、まずは残りの物も脱いでしまって、少しお湯に浸かって下さい」

「…………ほわ」


ネアは目をぱちぱちさせ、それなら出て行って欲しいなとヒルドの顔を見上げる。

するとなぜか、寸分の譲歩もしてくれなさそうな目で微笑みかけられた。


「さあ、急いで下さい。薬湯の中で髪も洗って差し上げましょう」

「わーお、ヒルドの方が容赦なかったね!」

「一人で……」

「ネア様、逃げ沼の泥が重たいのは、魔術の凝りなどの体に有害な成分が多少なり含まれている印です。洗浄には必要以上に時間をかけませんよう」

「ほぎゅ」


ネアはそれでもふるふると首を振って、自分一人で生きていけることを主張したが、怖い顔をしたヒルドに早く薬湯に入るように叱られてしまう。

保冷庫に落ちた時もそうだが、このような体調が絡む事故の際には、ヒルドは基本的に容赦なく怖いお母さんになる。



「………な、なぜに、リーエンベルクには頼れる女性の方がいないのだ」

「エーダリア様は未婚の元とは言え王族ですし、グラストやここにいるネイも含め、面倒になりかねませんからね」

「むぐ」

「ありゃ、ヒルドってば、徹底してるなぁ………」

「魔術汚染の危険も高く、そちらでも難しい。少々不便なこともあるでしょうが、ご容赦下さいね」

「むぎゅ」



ネアは、親の言うことを聞かない子供のように水着程度な着衣のまま浴槽にざぶんと逃げ込むと、せめてその中で着替えるのだと唸り声を上げた。

ヒルドは呆れたように溜め息を吐いたが、女性には安全よりも羞恥心が勝ることもあるのだ。


しかし、ヒルドが綺麗な服のまま、まだ汚れている浴槽の縁に腰掛けてネアの髪の毛を洗い始めてくれると、途端に罪悪感でいっぱいになる。



「………ごめんなさい、ヒルドさんも汚れてしまいます」

「おや、そういうことは、気にしなくて良いんですよ。気分が悪かったり、気持ちが悪いところはありますか?」

「むむ。…………少しだけ沼の泥を飲んでしまったような気がします」

「ネイ?」

「大丈夫だよ、すぐに治癒もかけてあるからね」

「それと、どこかが曖昧になっていた筈なのですが、見付かりましたか?」

「ここから離れた場所の、西寄りの森の奥の方だね。魔術の織りがたまたま濃くなり過ぎたのか、誰かの悪意なのか、人の手が入ったにせよ偶然なのか、少し調べてみるよ」



ネアはそんな二人のやり取りに目を瞠り、こちらに気付いたノアにその言葉の意味を教えて貰った。


「ほら、君はそれどころじゃなかったから覚えていないかもだけど、逃げ沼の派生理由が気になるって言ったでしょ?ここにはないものを呼び込む魔術を敷く大雨だとしても、それに巻き込まれるくらいに逃げ沼が近くに居たってことは、少し不自然なんだよね」

「…………そうなのですか?」

「ただの生き物なら、どこかに常に居て、呼び込まれる可能性は低くない。でも、逃げ沼の場合はまず、境界が曖昧になる時にしか現れないものだって前提があるから」

「…………確かにそうですね」

「ってことはつまり、どこかで境界が曖昧になったってことなんだ」

「………それは、あまり良くないことなのですね?」

「そ。そういう背景があるから、ヒルドは逃げ沼の洗浄をこんなに焦った訳。でも、僕は手で洗ってたけど、毒素が感じられる程じゃなかったよ。逃げ沼は普通の逃げ沼だと思う」

「………それならばいいのですが、何しろネア様は人間ですからね」



(そっか、……だから、私を浴室に一人にしないようにしていたんだ)



何しろ、よく落とされたり攫われたりするネアである。

逃げ沼の派生理由が謎である以上、これが何らかの罠や悪意であることも警戒してのことだろう。

背中を向けてさえくれないのはデリカシーがないのではなく、ヒルドなりの庇護の姿勢であったのだ。



「これだけの確率で、ディノ様が不在にしている日だということは、問題にはなりませんか?」

「うーん。そこまで知ってるとなると公爵位しかないけど、今日の参加者的には多分大丈夫かな。目を凝らすような魔術でここを見るなら、シルがいるだけでも、魔術的な圧迫感を覚える筈だよ。そういう要素がたまたま消えた機会を狙ったってことはあり得るかもね」

「…………ディノは、大丈夫でしょうか?」


少し心配になってしまい、ふにゃりとしたネアの濡れたままのおでこを、ノアが優しく撫でた。


「シルは大丈夫。今日はウィリアムとアルテアも一緒だし、アイザックや、ヨシュアやネビアもいるからね。白百合が統括していた国は、ヨシュアの管理地に近いんだ。多分アイザックは辞退するだろうし、領土線を描き変えて、ヨシュアとネビア、白百合で分割し直して白百合の負担を減らすんじゃなかな」

「他の公爵さん達は、引き受けられないのですか?」

「それぞれに土地を持ってるからね。統括を持たないのは、シルは勿論だけど、僕とアイザック、それにウィリアムや絶望の魔物くらいかな」



聞けば、その特性から統括を持てない魔物もいるのだそうだ。

ウィリアムや絶望の魔物は、その領域にあまり芳しくない影響を齎すのだとか。

ノアの場合は、心臓を無くしたことで階位の特定が難しいとされているが、やはり気質がその仕事には向かないと考えられている可能性も高いらしい。



「ほら、僕の場合はなぜか、深く関わる女の子達がみんな怖くなるしね」

「ふむ。確かにお国と関わると、関わらざるを得ないようなところに、女性の方がいないことはないでしょうしね……」

「そういうこと。一度やってたけど、なんか大騒ぎになったから、逃げ出したことがあるんだ」

「ネイ…………、それは自慢するようなことではありませんよ」

「ありゃ」




そこまで話したところで、がちゃりと浴室の扉が開いた。



「ネア!」

「まぁ、ディノ!…………ふぎゃ!」



飛び込んで来たのは、ネアが心配していたので帰宅の嬉しい大事な魔物と、こんな現場は見ないで欲しかった他の魔物二名だ。

最初は安堵の微笑みを浮かべたネアは、お客さんの追加登場に慌ててお湯に潜った。



「ぶくるるるる」

「ほら、ウィリアムとアルテアは浴室から出てくれるかな。ネアが沈みながら威嚇するからさ。シルは、交代しよう」

「ディノ様にご連絡していたのですね」

「うん、さっきね。今日は元々、途中報告の約束をしてたし、そろそろ終わりそうだなって感じだったからね」

「………おい、何でお前がここにいるんだ」

「何でって、ネアを洗ってたからだよ。前に君もやったやつね」

「ほお…………」

「アルテア、ひとまずは浴室を出ましょう。ノアベルトの話を聞くのはそれからでもいいかな」



ばたばたしながら魔物達は出て行き、ネアはネアを洗ってくれたノアが汚れたまま出ていってしまったのが心配になった。

ネアを洗うばかりで、すっかり汚れてしまっていたのに。


「ディノ、ノアが私のせいですっかり汚れ…しまったままです…」

「ご心配なく、ネア様。きちんと洗わせますよ」

「ヒルドさん………」


どうやらヒルドが見に行ってくれそうなので、ネアは安心した。

ネアの体に悪いかもしれない泥なら、ノアの体にも悪いかもしれないのだ。


「ネア、どんな沼に落ちてしまったんだい?」

「おや、ディノ様にはそこまでは連絡がいってなかったのですか?」

「ノアベルトは、ネアが沼に落ちたので洗っておくということしか言わなかったからね」

「逃げ沼でふ!それと、ご主人様が洗われている現場に、他の魔物さん達をいきなり連れ込んではいけませむ!」

「そうだね、ごめんね気を付けるよ。……手間をかけたね、ヒルド、私が代わるよ」

「いえ。ネイですと洗浄が荒いですからね。ネイの調べでは普通の逃げ沼だそうですが、念の為に洗浄は丁寧にした方がいいかもしれません。例のこともありますし、この時期に逃げ沼が出現したことが気になります」

「そのことで、後で君達に話がある。少し面倒なことになりそうだ」




(…………む?)



ネアはその時の、ディノの困ったような眼差しの色を覚えていた。

鮮やかな水紺の瞳には憂鬱そうな翳りが落ち、浴室の窓から差し込んだ午後の光に宝石のように煌めく。



それはまだ、ネアが安全な場所に居た頃のこと。




薬湯の中に肩まで浸かりながら、ネアはざわつく胸を押さえた。






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