狐温泉とお城の木
狐温泉というものがある。
ネアはその話を聞いた時からずっと、銀狐を連れて行ってあげたかったのだ。
そして今日、ヒルドの半日休みが上手く重なったので、ディノと三人と一匹で出掛けてみることにした。
以前にその情報をゼベルから教えて貰っている時、現場に居合わせた危機管理の万全なヒルドから、狐温泉に行く時にはネアとディノだけではない方がいいと言われていたのだ。
銀狐がはしゃぐと振り回されがちな二人なので、事故などないようにという心遣いであるのだが、ノアはヒルドも一緒だと知って大事にされているようで嬉しいようだ。
よって、朝食の席から銀狐は喜びのあまりにばいんばいんと弾んでおり、大人しく食事をするよう叱られてしまう場面もある。
今日は午前中がお休みになるゼノーシュ達からは、はしゃぎ過ぎて怪我をしないように声をかけられ、ディノは魔物であるノアベルトはどこに行ってしまったんだろうと悲しい顔をしていた。
「ネア様、荷物は持たれましたか?」
「はい。今日はご一緒してくれて有難うございます。ふかふかタオルと、犬用シャンプー、普通のブラシにアルテアさんの買ってくれた換毛期用ブラシも持ちました!」
「………リードも持った」
ディノは悲壮な顔で、そう追加してくれる。
すっかりペットのお風呂な感じなので、部屋の浴室で洗うよりも身に迫るものがあるらしい。
なお、主役の銀狐は謎の高ぶりで混乱してしまい、出かけるのなら捕まえてご覧な大はしゃぎが繰り広げられた。
お尻をきゅっと上げてあちこちに弾んで逃げていた銀狐は、業を煮やしたヒルドに首根っこを掴まれての旅立ちとなった。
ムギーと鳴いているが、口角が上がったままなので、わざと捕まったと騒いでいるだけなのだろう。
ヒルドは溜め息を吐いていたくらいだが、ディノはますますしょぼくれてしまう。
そうして、三人が転移でやって来たのは、ウィームの北部にある小さな古城だ。
古城とは言え、屋根の部分などは崩落してしまっている本当に古いお城だ。
その一部が残っている雰囲気を上手く利用し、お城の中央に湧き出てきた温泉を森の魔獣達が楽しみ出したのがこの狐温泉の始まりだ。
やがて森の獣達だけではなく、獣型の人外者や魔術師達にも噂が広がり、様々な者達に愛用されている内に狐系統の獣にはかなりの効用があることが判明したということなのだそうだ。
今では狐温泉と呼ばれており、ヴェルクレア各地から狐系統の生き物達が訪れている。
「素敵ですね。お城の遺跡の中に森があるようです」
「温泉の成分に魔術が溶け込み、真冬でも様々な花が咲いているようですよ」
「ゼベルさん曰く、狼さんにも狐さんほどではないにせよ、いい効果があるそうです。初めてのデートの時に奥さんと行ったみたいですよ!」
「ああ、ゼベルが珍しく休みを取った日でしたね」
その時のゼベルは、夜狼だと次にいつ会えるかわからないので、“明日一緒に出掛けよう”という約束をするしかなかったのだと言う。
休日を他の騎士と交代して貰い、もふもふ狼な片思いの彼女を連れて出かけていく姿に、今迄の苦労を思いほろりときた仲間達も多かったのだそうだ。
(…………すごい、魔法の温泉という感じがすごくする!)
このお城の中にある温泉は、現在この森に住む妖精が管理しているようだ。
お城の入り口のところで妖精に中に入る人数を言い、何か温泉の管理に有効そうなものを渡せば入場可能となる。
悪さをしそうなお客だったり、温泉を損ないそうなくらいに汚れているお客の場合は、このお城に残っている魔術で強制退場も可能であるのだとか。
入場料代わりは森の生き物が喜ぶお菓子でもいいと聞いていたので、ネアは可愛らしいチョコレートの詰め合わせと、箱入石鹸セットを持って行った。
ささっと見せれば妖精はヒルドにひどく恐縮しながらチョコレートを指したので、チョコレートの箱を渡して無事に入場となる。
入り口には見上げる程の大きさのモミの木のような素敵な木があり、まるでクリスマスのオーナメントのように硝子細工の飾りがかけられていた。
よく見ればその中には可憐な野の花や、ぺかぺか光る結晶石などが入っており、心をほぐすような効果のある品物で支払われた入場料が飾りつけに使われているようだ。
「順路はこちらですね………」
カツコツとブーツの踵を鳴らす音が石の床に響く。
崩れかけた砂灰色の壁には、マーガレットのような淡い水色と黄色の小花がみっしりと咲いていて、ぷんと青林檎のようないい香りがした。
青白く光る可愛らしいキノコや、宝石で出来たサンザシのような実を重くつけた木も茂っている。
苔はぽわぽわとした深緑色の光を帯び、暗い森の中で湿度も高く感じるのに何やら全体的に可愛らしい。
大きく息を吸えば、深い深い森の緑と水の香りがした。
「壁が結晶化していますね」
「青蛍石と、緑柱石、それに森の結晶ですね。……おや、泉の結晶もあるので泉の精の加護もあるようですよ」
「様々な者達がこの温泉の恩恵に感謝をしていたのだろう、ほら、こちらには薔薇の結晶もある。………これは、ヨシュアだね」
「むむ。ヨシュアさんも遊びに来ていたのですね」
ネアは、もしや奥様なムグリスだろうかと思ったが、ムグリスは温かいお湯に入るとこてんと昏睡状態に入ってしまうので違うと信じたい。
体に悪いという程ではないが、休眠状態に入ってしまうのだ。
(………すごい、壁がざりざりしていたり、艶々していたり……)
霧なのか湯気なのかわからない白い靄がたなびき、結晶化した壁はどこか幻想的に見えた。
転ばないようにと魔物の三つ編みを持たされたまま、結晶が美しく隆起したり、壁をとろりと覆っている区画を抜ける。
相変わらず、緑の香りと水の匂いが強く、この香りの中に身を浸すだけで疲れが吹き飛びそうだ。
「…………ネイ、はしゃぎすぎると落ちますよ?」
ヒルドにそう窘められている銀狐は、わくわくが止まらないのかヒルドの肩の上をうろちょろしている。
その度に尻尾がばさばさするので、ヒルドは何度も無言で髪を直していたものの、限界が来たのだろう。
「ディノ、小鳥さんが沢山います」
「おや、立ち昇る湯気にも何か得るものがあるのかな」
「黄色い子が、青い子をぐいぐいどかしていますよ。ふふ、困ったちび鳥ですね」
「真下から浴びたいみたいだね」
「あれは、陽光の精霊の一種ですね。青い方は、水辺の妖精の一種です」
ネア達が見ている木の枝には、まるまると太り冬仕様で羽毛もむくむくになった小鳥がとまっている。
五羽程並んでとまっているのだが、その一番端っこにいる黄色い小鳥が、隣の青い小鳥を全身を使ってぐいぐい押しているのだ。
青い小鳥の方は悟りを開いたような表情で石のように固まっており、そのどっしりとした体を動かせなかったのか、黄色い小鳥は怒りの囀りで抗議していた。
「陽光の系譜は我儘だから、あの場所が欲しいのだろうね」
「むむぅ、青い子達は冷静な感じですね」
「ええ。森の水辺の系統の妖精なら理知的で冷静なのが資質です。あの様子ですと、いつものことなのでしょうね」
そんな小鳥達は、ネア達が真下を通る際にぱっと目を輝かせた。
艶やかな森色の羽を煌めかせるヒルドに目が釘付けになっているので、森に住む者としてはやはり、ヒルドの姿が特別なものに見えるのだろう。
ピチピチ囀って大喜びしており、ヒルドの唇の端にも優しい微笑みが浮かんでいた。
「………ほわ、狐さんが」
「膨らんだね………」
「ムグリスディノの威嚇に似ています」
「ご主人様………」
しかし、小鳥達の囀りに微笑みを浮かべたヒルドに嫉妬したのか、その肩に乗っていた銀狐はけばけばになって震えている。
ヒルドは自分の領域だと言わんばかりにムギムギ鳴いているので、どうしても譲れない領土争いがあるのかもしれない。
更に進むと、元々は大広間の入り口だったと思われる円弧状に造った梁を抜けた先に、乳白色のお湯にエメラルドグリーンの染料を溶いたような何とも鮮やかな温泉が見えてきた。
「………ここでしょうか。まぁ、何て綺麗な温泉の色なんでしょう!」
(でも、今の入り口ももう一度見ておこう……)
ネアは歩きながら振り返り、見事なモザイク装飾のあるアーチをもう一度と眺める。
三弁半円形のアーチは細やかな造形に気品があり、雨降らしのような翼を持つ人型の生き物が表現されているようだが、どこか異国風な独特の造形なので神秘的に見える。
或いは、翼を持つ人型のまた別の生き物なのかもしれない。
少しだけ壁の一部が剥離してしまっているが、この部分だけは見事なくらいに綺麗に残っていた。
(すごい。………エーダリア様がよく読んでいる魔術書みたい……)
隣にいるのが魔物と妖精でなければ、くぐったら違う世界に連れて行かれてしまいそうなアーチだと思えただろう。
しかしながら、既にここがもう不思議で特別な世界なので、この世界らしい建築なのだと思うばかりだ。
「そのモザイクが気に入ったのかい?」
「不思議で少し異国風で、目を奪われるモザイクですね。あの柱の彫刻は雨降らしさんですか?」
「ああ、あれは羽箒の魔物だよ」
「なぬ。だから、尻尾的なものがあるような気がしたのですね。背景の模様かと思っていました」
「その建物を清める魔物だから、王宮などの装飾には好まれる魔物のようだね」
ディノがそう教えてくれたので、ネアはまた一つ新しい生き物を知れたことに微笑みを深める。
しかし、そんな風にお喋りしているので気が焦ってしまったのか、ヒルドの肩から下されている銀狐は手足をばたばたさせて暴れていた。
床に下りてムギーと鳴いたので、ネアも慌てて主役を温泉に入れることに集中する。
「ごめんなさい、狐さん。早く温泉に入りたいですよね」
ネアがそう謝れば、銀狐はご機嫌を直したのか尻尾を振り回した。
てしてしと濡れた床の上を歩き、エメラルドグリーンのお湯を眺めて期待に身震いしている。
「あちらの椅子が空いているようですね」
「では狐さん、あちら側で入りましょうか。綺麗な赤いリディアナの実があるところなので、景観としても楽しめそうですね」
目の前に広がる温泉は、物語に出てくる魔法の泉のような丸い形に湧き出していて、それを二段ケーキ状の浴槽のような造りで、彫刻や装飾の美しい囲いをつけて整えてある。
中央の部分は少し温度が高いのか、丸い囲いの中で更にもう一度丸い壁を設けられ少し高い位置になっており、そこからお湯が下に零れるようになっていた。
円形の浴槽の周囲にはベンチが置かれ、温泉に入りに来たお客が休んだり、我が家の狐に同伴してきた飼い主や同居人が座って入浴に寄り添ったり出来るようになっている。
ネア達もそんなベンチの一つを占拠すると、さっそく銀狐を持ち上げて浴槽の外側のヘリに乗せてやった。
浴槽の周囲にはその浴槽から溢れたお湯が小さな小川のように流れているので、その部分を歩くと足湯のように少しずつ体を暖められる仕組みになっているようだ。
入浴者達はみな、まず周囲に流れているお湯で足を温め、その後に、浴槽の二重へりになっている部分の外側でかけ湯をしてから浴槽の中に浸かるお作法のようである。
銀狐もヒルドに下して貰ってからは、しゃばしゃばと床のお湯で足を濡らしていたので、あとはもう入浴前にかけ湯をしてやるばかりだ。
浴槽のヘリに置いてある柄杓のようなものでざぶりとお湯をかけてやり、外側の窪みをかけ湯のお湯が流れてゆくのをみんなで興味深く見守った。
それぞれに使われたお湯はどこかに循環してゆくようなので、かなり考えられた造りの入浴施設なのだろう。
「まずは、さっとの入浴者もお手軽な、第一の湯ですね」
「………だいいちのゆ」
「ディノや私が行くような温泉とは違い、ここは狐温泉なのでざぶんと入るだけの方も多いのでしょう。ほら、ちび狐軍団は行列になって入って去ってゆきます」
ネアが見ているのは、拳大のちび狐が行進のように一列になって入浴している光景だ。
一列になって足を濡らし、かけ湯をしてから入浴し、出てゆくまでの行程が数珠繋ぎになっていて面白い。
入浴時間にも決まりがあるのか、後ろがつかえないように一定の時間浸かるとすたすたと出ていっていた。
びしゃびしゃになってスリムになった銀狐も、さてそれではという感じで湯船に足先を入れている。
そして、ぴちょんと爪先を浸けた途端に固まった。
「狐さん………?」
爪先を入れた銀狐は、ぶるぶるっと毛を膨らませてから、固唾を飲んで見守るネア達の前でとろんと至福の表情になった。
一瞬熱過ぎたのかなと心配になってしまったが、あまりの気持ちよさに膨らんでしまっただけらしい。
「………大丈夫そうだね」
「ディノ、この温泉は小さな生き物が入っても、体が浮くそうですよ」
「浮く………」
「ネイ、飛び込んではいけませんよ?」
椅子の横にある石版の効能書きのところに、小さな生き物が入浴しても沈みませんと書かれていた。
そんな一文に感動しているネアとディノの横で、ヒルドは銀狐の性格をきちんと踏まえ、はしゃいでも飛び込み入浴をしてはいけないと事前に注意していた。
やろうとしていたことを事前に止められてしまった銀狐は恨みがましい目をしていたが、たぷんとお湯に体を沈めて浸かれば、至福のあまりにむふんと甘い溜息を吐いている。
あまりにもとろとろに緩んだ顔に、ヒルドとネアは微笑みを交わした。
これだけ幸せそうにしていると連れてきてやった甲斐もあるというものだ。
「ネア、あれは何だろう………」
「む。何か発見してしまったのですか?………ほわ」
幸せそうな銀狐を見守る会にそっと声をかけてきたのは、奥の方を見て固まってしまっていたディノだ。
ふるふるしながら尋ねられ、ネアはそちらを見て笑顔になる。
二段目の浴槽の方に、木の結晶で作られたザルが浮かんでおり、幾つもの卵が入っているのだ。
「温泉のお湯に漬けて、卵を半熟にしているんですよ。あちらにいる素敵な黒狐さんが持ってきたようです。あのざるを浮かべてある辺りはお湯の温度が高いようですので、素敵な温泉卵になるのでしょう」
「…………食べ物なのかい?」
「ええ。とろりとして美味しいですよ。ディノ?」
そこで、魔物は食べ物と一緒に茹でられている銀狐が不憫になってしまったのか、悲しげな目でよきにはからえな銀狐を見下ろした。
けれども、そこから視線を持ち上げて周囲を見渡せば、他のお客も同じお湯で幸せそうに入浴しているのである。
「………卵と入浴するんだね」
「一度に楽しんでしまおうとする知恵なのです。決して、悲しいことではありませんからね」
「うん…………」
そうこうしていると、浴槽の方からぐーという音が聞こえてきた。
ふっと微笑んだヒルドが立ち上がり、居眠りしてしまった銀狐を持ち上げてやる。
抱き上げられてはっとした銀狐は、ほかほかのあまりまだぐでんとしている。
「さて、そろそろ洗い場の方に移動しましょうか。このままでは起きているのも時間の問題のようですから」
「はい!ヒルドさん、有難うございます。シャンプーの準備は万全ですから、お任せ下さい!」
ぐでんとしたままの銀狐はヒルドが運んでくれるようで、ネア達は隣の部屋にある洗い場に移動した。
こちらは宝石質な壁がぴかぴかしている美しい部屋で、壁に残った壁画や窓の残りなどを見ると、どうやら元は城主の部屋だったようだ。
そしてそこでネア達は、こちらの部屋には有料の専用洗浄係りがいることを初めて知った。
藍色の毛皮の二足歩行の狐妖精達がおり、至福のマッサージ込みでお客の毛皮の洗浄を請け負ってくれるらしい。
せっかくなので利用させて貰うことにし、銀狐は愛用の犬用シャンプーと共に藍色の狐妖精に預けられた。
「ほわ、一瞬で気持ち良さのあまり寝落ちしましたよ!」
「ノアベルト………」
「完全に寝ていると、洗い難いでしょうに、仕方ありませんね」
とは言え、他の藍色狐妖精達の方を見ても、あまりの心地よさに眠ってしまうお客は多いようだ。
すらりと背の高い狐妖精は、狐頭の人型の姿をしており、この施設の従業員なのか可愛らしいお揃いのメイド服のようなものを着て防水魔術のエプロンをしている。
滑らかな手つきでシャンプーを泡立てマッサージ洗浄でお客の心を溶かすと、香りのいい仕上げの香草湯をかけて綺麗にしてくれた。
ぴかぴかなだけでなく、筋肉疲労や生活癖でついた体の歪みなども治して貰い、銀狐は心なしか目元まですっきりとしたお戻りでネア達を感激させる。
「美狐になって戻ってきました!」
「おや、……確かに目の周りがすっきりとしましたね」
「ノアベルト、そろそろ起きたらどうだい?」
こうして仕上がったお客が最後に入るのは、仕上げの湯だ。
先程のエメラルドグリーンのお湯とは違う、透明な琥珀色のお湯が沸いている浴槽があり、その浴槽の中には香りのいい香草が紐で束ねられてたっぷりと入っている。
祝福のある結晶石も沈んでおり、お湯は、時々ぼうっと緑色に光っていた。
妖精にとっても素晴らしい香りなのか、ヒルドが目を細めていい香りですねと繰り返し感嘆している。
ネアも、あまりにもいい匂いなので、この蒸気の中にいるだけでも心がとろけそうだ。
(今日の夜は、この香りに包まれていることを思い出して素敵な夢が見られそう………)
「こちらの部屋は、個別の浴槽なんだね」
「仕上げだからかも知れないですね。最後にゆっくり個別の浴槽に入って、のんびり浸かってから帰れるなんて人気の温泉になるのもよく分ります」
この部屋には真鍮のような色合いと素材の、猫足の置き型浴槽が幾つも並んでいる。
中央の大きな浴槽から汲み上げられたお湯は、藍色水晶のパイプを通って各浴槽に流れ込む仕組みだ。
浴槽は藍色水晶のトレイのようなものの上に設置されているので、猫足浴槽から溢れたお湯がそのトレイからまたどこかに回収されてゆく水路も出来ていて、部屋中が巡回するお湯でいい匂いに包まれていた。
それぞれの猫足浴槽の仕切りには、このお城のあちこちに咲いているマーガレットのような花が咲き乱れる壁や、宝石の実が美しい木があったりして、自然な感じでさり気なく目隠しされている。
その他にも、知り合い同士で並んで入れる浴槽や、集団のお客用の大きなものなど仕様も様々だ。
「どこにしましょうか?」
「あちらが空いていますね」
「ほら、ノアベルト起きたらどうだい?」
部屋のあちこちでは、使い魔な狐やペットな狐を連れて来た飼い主たちの幸せそうな微笑みも窺える。
この行程までにすっかりとろかされてしまった狐たちの伸びきった幸せそうな表情に、自然と周囲も笑顔になってしまうのだから、なんとも素晴らしい温泉ではないか。
「これはネイだけではなく、私もいい経験になりました」
入浴が無事に終わり、個別浴槽でもぐうぐう寝てしまい、暫くしてからディノに引き揚げられた銀狐をネアがタオルで拭いていると、少しだけ離れて周囲を見てきたヒルドがそう言ってくれた。
この温泉に漂う香草や森の香りは、ヒルドにとってもかなり好きな類の香りのようだ。
施設の管理者や従業員の妖精達とお喋りをして、どんな素材を使っているのか教えて貰ったのだとか。
洗浄妖精の御業があまりにも素晴らしかったせいか、毛皮を乾かした後でブラッシングをした銀狐だったが、いつもより格段に抜け毛が少ないという驚きの効果もあった。
最後まで、魔術仕掛けではなくタオル乾燥で大事にして貰い、ご機嫌の銀狐は毛並みも瞳も艶々になってふかふかの尻尾を振り回す。
温泉を楽しんだ後のお客用の休憩室では、香草茶やきりりと冷やした美味しいお水などのふるまいもあり、ネア達は暫くそこでお喋りをした。
「ほら、砂糖菓子も可愛くて美味しいですよ」
「この温泉の湯気で育った花の蜜を使っているそうですよ」
「むむ。だから、お砂糖にふわっといい匂いがついているんですね」
「砂糖菓子………」
「あら、さてはディノはこのお菓子が気に入りましたね」
「口の中ですぐに溶けてしまうけれど、美味しいものだね」
「では、お土産のものを買って帰りましょうか」
「うん」
珍しくディノも前のめりなお菓子が発見され、ネアは休憩室の隣の部屋で売られている砂糖菓子のお土産を買った。
今日の思い出にと、銀狐と一緒に来てくれたヒルドの分、そしてお留守番のエーダリアやゼノーシュにも買い、この素敵な温泉を教えてくれたゼベルにも買った。
基本的に、森の生き物達の善意で運営されている温泉だが、高位の生き物達の御贔屓もあって管理にゆとりがあるらしく、売られているお土産はどれも安価で良心的だ。
(そういえば、洗浄妖精さんをお願いするのも、思ってたより全然安かったような……)
温泉で使っている香草の香りの小さな手洗い石鹸も買ったが、しっかり使う用の大きな石鹸だけではなく、使いきりサイズのお試し用ちび石鹸が売っているのが心憎い。
これなら、合わなかったら無駄になるしと購入を躊躇ったりせず、訪問の思い出にと気軽に買えて最後まで使い切れそうだ。
「森の香りは、元々湧き出るお湯に染み込んでいるそうです」
そう教えてくれたのは、ネアの荷物をすかさず持ってくれたヒルドだ。
帰り道では、銀狐はディノに乗っかっている。
「まぁ、だから香りに奥行きがあるというか、うっとりするようなぶ厚い香りなのですね」
「ゼラニウムやセージ、カルダモン。それとオレンジくらいまででしたら、自分でも再現出来そうですが、元々の湯の香りとなると完全な再現は難しいですね。今度またネイを連れてきてやりながら、私も通ってみようと思います」
「ふふ。ヒルドさんにとっても良い時間になったようで、良かったですね狐さん」
ヒルド自身もこの施設が気に入ったようだと知り、また連れて来て欲しい銀狐は尻尾をぶりぶりに振り回していた。
すっかり口元が緩んでしまっているが、洗浄マッサージのお蔭でなんだか美狐に見える。
帰り際に、ネア達は温泉の湧き出るお城の中央にそびえる大きな木の枝を貰った。
枝葉の手入れで枝を落すと、このようにして配っているそうで、その乾燥させた小さな枝からも、あのお湯と同じ森のいい匂いがする。
香りが続くのは二週間程であるそうだが、少しだけでもいい香りを持ち帰れて幸せな限りだ。
「浴室の飾り棚に置いておけば、同じ匂いで入浴が楽しめるかもしれませんね」
「帰ったら、お風呂に入ろうかな」
「いいですね!」
「一緒に…」
「ディノが先に入っていいですよ。私は、ふかふかになった狐さんを、エーダリア様達にお披露目してきますから」
「ご主人様………」
小さな木の枝は、教えて貰ったよりも一週間程長く、いい香りを放っていた。
香りがなくなった後の小枝は、ヒルドが銀狐を連れてまた温泉に行った際に、あのお城がある森の中の土に戻してくれたのだという。
この温泉にはまってくれたお蔭で、銀狐はたびたび美狐度を上げてくれたので、ネアはふかふかの尻尾を堪能出来て幸せの御裾分けを貰うことが出来た。
狐温泉様様である。