夜の買い物と青い本
ウィームの夜には、幾つか評判の夜市場がある。
封印庫通りにある市場はその中でも特別なもので、不思議な品物や特別な品物が多いのだそうだ。
開かれている曜日が決まっているので、ネアは何度か計画を立てていたものの、一度も行けていなかった。
何しろ、予定していた時に限って異国に飛ばされたり死者の国に落とされたりしていたからだ。
「でも、こんな晩秋の夜のお出かけは格別なので、今日になって良かったです!満月が霧の中でぼうっと光って、なんて不思議に青色な夜なんでしょうね」
「月明かりが遮られない程度に霧の深い夜は、魔物が好む夜なんだ。はぐれないようにね」
「むむ。では三つ編みではなくて、手を繋いで下さい!」
「最近は、ネアが大胆過ぎる………」
「なぜなのだ」
しかし魔物は恥じらいながらも手を差し出してくれたので、ネアは手を繋いで貰い笑顔になった。
こうして特別な夜のお出かけをしているのは、自分の欲求としてのものも勿論あるのだが、ディノと過ごす時間を大切にしたいなと思っているからだ。
ラエタの影絵から戻ってきてからはバルバや祝祭もあり、最近はあれこれとディノの過去の話を聞いたりもしたので、少しずつ丁寧に過ごせる日常も大事にしている。
(本当はまたあのお城で昔のことを教えて欲しいけれど………)
ディノにとってのあの素晴らしいお城は、やはり一人ぼっちになってしまった時に残された場所、そして、ネアを呼び落とすまでに寂しい思いをしながら違う世界を覗いて過ごした一人のお城なのだそうだ。
少しずつ二人の思い出を重ねてゆくにせよ、一気にその塗り替えを出来ないくらいには悲しい思い出も多いらしい。
(あの日も、すぐに不安になってしまっていたもの)
手を離したり体を離したりすると、ディノはすぐにご主人様の体を抱き戻してしまった。
ネアは仕方なくべったりを維持してやり、ほっとしたようにへばりつく魔物をいつもよりも甘やかしてやった。
(それでも連れて行ったということは、ディノなりに甘えてくれたり、助けを求めてくれるようになったのだと思う………)
過去の苦しみや寂しさを分かち合い、或いはどうにかして欲しいと望んでくれたことがネアはとても嬉しかった。
だから、少しでもその心の霜を溶かしてやりたいのだ。
「こんな風に夜中にディノとお出かけすると、わくわくしますね!」
「ご主人様!」
「きちんと了承を得てから外出しているのに、こっそり抜け出して遊びにきたようなわくわくです」
「夜に出かけるのが好きなら、またどこかに連れて行ってあげようか?」
「去年の冬に連れていってくれた、あの森の奥のダイヤモンドダストがまた見たいです。連れていってくれますか?」
「勿論だよ」
ふわりと微笑んだ魔物は美しい。
その美しさと、嬉しいと伝えてくるようにきらきらと光る瞳を見ると胸の奥がおかしな音を立てる。
それはまだ、恋の熱情に浮かされるような情愛の深さと激しさとはどこかが違う。
けれども、その手を離したら心が乾いてしまうような、一緒に歩いてゆくのが当たり前にすら思える家族めいた切実さは、激しい恋情よりも深く鮮やかに思えるネアは、まだ世慣れていないのだろうか。
「ほら、あちらが入り口ですよ。入り口のランタンがちかちかしていて、サーカスのテントのようで楽しいですね」
「………やっぱり紐を」
「つけないので、しっかり手を繋ぎますね。ディノも、私がはぐれないように手を離さないで下さい」
「うん。…………君は時々、随分と大胆になってしまうんだね」
「解せぬ」
二人が夜市場に入ると、そこは思っていたよりも賑わいながらも密やかな夜市場としての雰囲気も兼ね備えた不思議な空間だった。
入り口には密偵や伝令に向いた使い魔が売られており、小鳥達や影にしか見えない奇妙な動物達、そして紙細工にしか見えない蝙蝠や蝶がいる。
「………この子達は、普通の鳥さんではないのですか?」
「妖精と魔物だよ。ほら、この小鳥は目の瞳孔が縦長だろう?小さいけれど竜の一種だ」
「ディノに近付かれて震え上がっていますが、確かに縦長瞳孔さんです!」
小さな黄緑色の小鳥は、思いがけずに高位なお客に覗き込まれてぶるぶるしていたが、お買い上げではないと知ってほっとしたようだ。
「ディノ、これは何のお店でしょう?鉱石のようなものが沢山置いてあります!」
次にネアが見付けたのは、小さな木のケースに陳列された鉱石や宝石のお店だ。
結晶の形が自然なものが多いが、ところどころ奇妙な形があるのがこの世界らしい。
星の形をした琥珀色の結晶は、中央が青緑にぼんやり光っている。
蛍石に似た結晶は、とろりとした桜色で表面に水色のキノコ型の結晶がついていて触るとぱきんと折れてしまいそうな繊細さだ。
そんな素敵お店であれこれと商品を眺めていたネアは、一つの結晶石を手にとってみる。
「…………これは可愛いですね」
「これは魔術の火を蓄えた結晶石だね。気に入ったのかい?」
「……むむぅ。用途のあるものは使う為に買うべきです。これはどうやって使うのですか?」
「暗い夜道を歩く時にランタンに入れるものだよ。ただし、リーエンベルクのように魔術の豊かな土地だとよく光るから一度買えばずっと光っているだろうね」
「ほわ…………」
ネアが一目惚れしたのは、菫色のころころした結晶の内側に赤紫色の火がちらちらと燃えているものだ。
しかしリーエンベルクでは魔術の火は足りているし、ネアも現在の装備以上に明かりが欲しいとは思っていない。
買っても無駄にしてしまうなとがっかりしていたネアに、他の品物をお勧めしてくれたのは何百年も生きていそうなご老体の店主だ。
「お嬢さん、ではこれにしたらどうだい?」
「何て綺麗なんでしょう。これはどうやって使うものなのですか?」
店主の細い手で差し出されたのは、小指の先くらいの水晶の中に、菊の花のような菫色の結晶が揺れているものだった。
まるで水晶の中に水が閉じ込められていて、その中で菫色の結晶が揺らめいているようだ。
「花水晶さ。これは菫の花水晶だから、砂糖壺に入れておくと砂糖に菫の香りがつくよ」
「まぁ!それは素敵ですね」
聞けば、長い時間をかけて結晶化したものなので、食材や飲み物と一緒にしておいても劣化せず、香り付け以外の効果を与えないのだそうだ。
昔はよく旅人達が使っており、水筒の飲み水や持ち運ぶ食材に効果を与える為に使ったそうだ。
「葡萄酒に入れるのもお勧めだよ」
「むむ、こちらの青緑色のものは何の香りなのですか?」
「ミントだね。濃い紫の方はラベンダーだよ」
「ミントは葉っぱのような花びらの結晶が入っているんですね!」
この結晶はそれぞれの植物の根元で鉱脈が育つと出来るもので、昔は旅人達が愛用していたのだそうだ。
極寒の地でも灼熱の砂漠でも、乾燥していても多湿でも劣化せずに同じ効果をもたらす花水晶は、飲み水や保存食に使われて大変に重宝されたのだとか。
「………ウィームにこんな名産品があったのは、知りませんでした」
「植物と魔術鉱脈が豊かでないとね。ただし、ウィームに育たない植物のものは採れないのと、林檎や葡萄の花水晶は育つ前に地下にいる妖精達に食べられちまうから出てこないのさ」
「あらあら、地下の食いしん坊達が食べてしまうのですね」
ネアは、菫の花水晶とラベンダーの花水晶を購入した。
菫の花水晶で言われたように菫砂糖を作ってみたいし、ラベンダーの花水晶は水に浸けておくだけで簡単なラベンダー水が出来るらしく常備しておけば飲料にだけでなく重宝しそうだ。
「欲しいものが見つかって良かったね」
「はい!欲しくて使えるものが、安価で美しいなんてとても得した気分になります」
「それとほら、君が楽しみにしていた夜茶屋があるよ」
「ほわ!」
夜茶屋とは、夜にしか飲めない特別なお茶を振舞ってくれる屋台である。
素材などの扱いやお茶の淹れ方など、夜にしか扱えないものをぎゅっと集めて営業している、夜を楽しむ者達用の不思議なお茶屋さんなのだ。
ネアは目的のお店にいそいそと駆け寄り、ディノの手を引っ張った。
「夜牛乳のミルクティー!」
狙っていた夜茶の一つを発見し目をきらきらさせたが、メニューにはそれ以外にも目移りするような不思議なお茶が沢山あるではないか。
「………夜の雫と夜にだけ現れる泉の水で淹れた、夜紫の花蜜のお茶………」
ネアが狙っていた夜牛乳のミルクティーは、満月の夜にだけ乳搾りの出来る妖精の牛達から絞った牛乳と、季節ごとの香り高い茶葉に、満月の夜に収穫された露砂糖を使ったこっくりとしたミルクティーだ。
淡く煌めく夜の雫を振りかけて、ミルクティーの表面に弾ける夜の色を楽しみながら飲むことが出来る。
「二つとも飲んでみるかい?」
「お腹がたぷたぷになるので、一種類にします。…………むむむ」
「………では、私のものも飲んでみたらどうだい?」
「むぐ。ディノは、こんな素敵なお茶を、私のために一口交換しても嫌じゃありません?」
「君と交換するのは大好きだよ」
「じゃ、じゃあ、ディノが飲みたいものを、一口だけお味見させて下さい!私のミルクティーも一口差し上げますね」
「勿論だよ、ご主人様!」
ネアとディノは、屋台の丸テーブルで素敵な夜茶をいただいた。
ディノは最初、ネアの迷っていたお茶にしかけていたのだが、ご主人様から言葉巧みにディノの飲みたいものを一口貰うのが楽しみと転がされてしまい、夜葡萄のお茶に夜雨から結晶化した木から取れる甘味料を入れたものにしている。
一口貰えばそれも素晴らしく美味しかったので、ネアはディノのチョイスに足をぱたぱたさせてはしゃいだ。
「可愛い。暴れてる……」
「凄く美味しいです!ほら、ミルクティーも美味しいですよ。これだけ美味しいと、また次回もこの二つを飲みたくなくなってしまいそうで、困ってしまいますね」
「…………一口交換」
目元を染めて嬉しそうにご主人様のカップに口をつけた魔物は、こくりとミルクティーを飲んでまた幸せそうに目を細める。
どうやら、ミルクティーの味もかなり気に入ったようだ。
「ディノ、またこうして夜のお部屋を抜け出してお茶を飲みにきましょうね」
「そうだね。また交換しよう」
「ふふ。ディノと一緒なら、いつかこのメニューも制覇出来そうです!」
お茶で体をほこほこにした二人は、その後も夜の市場を見て回った。
鮮やかな緑色のテントを張っているのは、葉巻の専門店のようだ。
他の店よりもぼんやりと薄暗く、商品棚の葉巻はぼうっと燃える薔薇を灯りにして照らされていた。
「葉巻屋さん…………」
「ここは夜のものだから、材料は魔物や人間だったりするようだね。妖精や精霊は、よほど高位でないと溶けてしまうから葉巻には向かないんだ」
「こんな風に藍紫色の綺麗な葉巻も、そんな誰かが材料になっているんですね」
「それは多分、人間が材料じゃないかな」
「まぁ…………」
次に覗いて見たのは釣具屋さんだ。
夜にしか釣れない魚というものが沢山いるらしく、そんな幻の魚達を釣り上げるための道具屋さんらしい。
そこそこに賑わっており、お客たちは珍しい魚の話に熱中していた。
例えば、新月の夜にしか森に現れない幻の泉があり、そこにはとても不思議な新月鯰が住んでいるらしい。
その鯰はとても美味しい上に、手に纏わる病気を和らげる効果を持つのだとか。
「餌に歯車を使うのですね」
「歯車で釣れるのは、鉱石鱒かな。釣り上げると金の塊になるそうだよ」
「なぬ。一攫千金………」
「ネア、夜の水辺は独特の危険があるから、君はあまり近付かない方がいい。人間を魅了したり、欲望で支配しようとする生き物が多いんだ」
「そう考えると、夜に川や泉に落ちるのはとても嫌なので、釣りに手を出すのは諦めます。専門的な道具を使いこなす自信もありません………」
「そうだね。虫を餌にすることも多いから、君はやめた方がいい」
「むぎゃ!」
聞けば、ディノはかつて、夜釣りをさせられたことがあるのだそうだ。
彼は友人だったんだよと最近のディノが言えるようになった絶望の魔物の趣味だったので、無趣味なディノにも趣味を作らせようの会で推奨されたのだとか。
「その時は、大物が釣れたんですか?」
「どうだろう。私は向いていなかったようで、湖の精霊王を釣り上げてしまって、グレアムが慌てて逃しに行っていたよ」
「ふふ、精霊王さんも、釣られてしまってびっくりしたでしょうね」
ディノは、その友人達が釣り上げていたようなきらきらした小魚を釣ってみたかったのだそうだ。
しかし妙なものばかりかかるので、すっかりやる気を無くしてしまったらしい。
その時のディノがしょんぼりしていた様子が目に浮かび、ネアはばすんと体当たりしてやって魔物を労った。
「…………ネア」
「私も同じことになるような気がします。二人で妙なもの釣ってしまうと事故になりそうなので、私とディノは山の方に行きましょうね」
「うん………」
ほっとしたように微笑んで、ディノは体当たりしたままくっついていたネアを抱き締める。
魔物が嬉しそうに口角を上げたので、ネアはまたほっとして次のお店に移った。
しかし、そのお店の前に来るなり魔物が荒ぶり出してしまう。
飴色の木で組んだ書架と、紫色のテントが美しいお店は雰囲気のある古本屋さんのようだ。
「………ご主人様、この店はやめようか」
「むむ!本屋さんです!是非に見るのだ!」
「ほら、君はすぐに夢中になってしまうだろう?本はもういいんじゃないかな?」
「本屋さんは必須ですね。見て回りますよ!」
「ご主人様が虐待する…………」
「あら、読んでいる間は、ディノが逃げてしまわないように紐でくくるつもりですが、それでも虐待ですか?」
「…………それなら」
べそべそしていた魔物がぱっと目を輝かせたので、ネアはこれ幸いと本屋を探索し始めた。
難しい魔術書なども多いが、面白そうな物語本も沢山置いてある。
「…………砂漠の国の死者の王、………かなり悪いやつに書かれていますが、挿絵が綺麗ですね」
「ウィリアムかな。…………これは実話だと思うよ」
「なぬ。となるとウィリアムさんは、ここでどなたかと拗れたのですね。………むむ!こちらの本は!」
「…………これはやめようか」
「もふもふ動物図鑑です!ほら、冬霧の竜さんも載ってますよ!ウィリアムさんな竜さんの記念に、これお買い上げします!」
「ネアが竜……?ウィリアム………?に浮気する………」
「ムグリスも載っているので、これを見ると、ムグリスディノの体に悪いことも避けられますからね」
「…………それならいいのかな」
その時、ネアは一冊の不思議な本と出会った。
宝石を薄く貼り合わせた瑠璃色の表紙はゆらゆらと波打つ模様が美しく、金色の装丁がしゃらりと光る。
優美な文字には夜の文学と書かれており、ネアは触れてみようと、そっと手を伸ばした。
「おい、触るなよ」
「むが!突然現れた使い魔さんに手をべしりとされました!許すまじ」
その途端、ずばっと誰かに割り込まれて、手をぴしりと叩かれた。
慌てて振り返ったところ、少し焦ったような顔をしたアルテアが立っている。
「シルハーン、その本は妖精の閨事の魔術書だぞ」
「ネア、絶対に触れないように」
「そういういかがわしいものなら、触れようとは思いません……」
「その種の本は、著者の種族の奴隷を増やす目的の為の回付本のことが多いんだ。隠れて読ませて、人知れずに本の魔術に侵食させる為の魔術道具だからね。アルテアが気付いてくれて良かったよ」
「………確かに、そのような内容であれば、お部屋でこっそり読んでしまうのでしょうね」
「ほお、お前はそうするのか」
「一般的にはということですよ!食いついてきたと言う事は、アルテアさんは隠し読みする派なのですね………」
「やめろ」
アルテアは既に買い物を済ませているのか、茶色の紙袋に、葡萄酒のようなものと、いくつかの香草の束にチーズなどを持っている。
白いシャツにジレ姿に、黒豹の毛皮のようなゆったりとしたガウンコートを前を開けて羽織っている。
ウール地のような黒い帽子には、青緑とシャンパン色の羽根飾りがあった。
「…………すりすりしたくなるコートですね」
「……………は?」
「ネアが、アルテアのコートに浮気する」
「しっとり毛皮です!えいっ」
ネアは隙を見てアルテアのコートの袖をさらりと撫で下ろし、アルテアに遠い目をさせた。
しっとりとした手触りが素晴らしく、満足して手を下ろせばすかさずディノに抱き締められた。
「ネア、あまり使い魔を撫で過ぎてはいけないよ?」
「ディノも、こんなコートを着て下さい。ぎゅっとした時に幸せになれます!」
「………撫でるのかい?」
「はい。たくさん撫でます!」
「……ネアが虐待する」
「なぜなのだ」
聞けば、アルテアは外出帰りに夜市場に寄ったのだそうだ。
ネアはまた悪さをしていないかどうか青色に擬態している目を覗き込んだが、背伸びをして覗き込んだせいで手袋を外した指で鼻をつままれてしまった。
「むぐふ?!」
「色気のない迫り方だな」
「むぐ、おかしな勘違いをしないで下さい!それとお鼻を解放しないと、爪先を踏み滅ぼしますよ!」
「その体勢から……おい、やめろ!」
ネアはあえて爪先に注意を向けさせておき、その隙に手を伸ばしてアルテアの鼻をつまんでやった。
これで正当な仕返しが済んだので、安心して買い物に戻れそうだ。
「………ネアがアルテアにご褒美をあげる」
「むむぅ。これは復讐だった筈なのですが、ディノもして欲しいなら仲間外れは可哀想なので、特別ですよ?」
こてんと首を傾げ困り顔のまま、ネアは仕方なくディノの鼻もつまんでやった。
指先で鼻をきゅっとされた魔物は、頬を染めてくしゃくしゃになって蹲ってしまう。
「…………ずるい。可愛い」
「…………特別に大事にしてあげたい期間中なので運用しましたが、謎に弱ってしまいました。ほら、店頭なので起きて下さいね」
そう言って腕を引っ張れば、魔物は更に小さくなって蹲ってしまった。
「ネアが可愛いことばかりする」
「解せぬ」
「…………悪いが、俺は帰るぞ」
「あ、アルテアさん!先程の青い本を買い忘れていますよ?」
「…………は?」
「私は賢いので、咄嗟に私を止められるくらい、この本の装丁について詳しいことと、この場に現れたことから推理しました!皆さんには内緒にしておいてあげますので、こっそり買っていって大丈夫ですからね」
「おい、やめろ」
「ふふ。恥ずかしがらなくても良いのです。お会計の場面では、目を逸らしておいてあげますから」
「…………そうか。そんなに興味があるなら、試してやろうか?」
「む?アルテアさんが、著者の方の悪巧みの犠牲になるかどうかですか?………栗のパイ包みを待っているところなので、いなくなってしまったら困るのですが………」
ネアは、うっかりアルテアが妖精の誰かに夢中になってしまって、パイが届かなくなる苦しみを思ってへにょりと眉を下げた。
しかしなぜか、アルテアからは頭をはたかれてしまう。
「暴力反対です!ご主人様の頭は大事にするものであって、手首のしなりを試す為に使ってはいけません!」
「それと、蹲ったシルハーンに腰掛けるのはやめろ。余計に弱ってるぞ」
「むぐ。こうすると喜ぶので、元気になって欲しいと思ってやったのですが、弱ってしまいました?」
困ってしまったネアは、魔物の前髪を持ち上げておでこに触れてみる。
びゃっとなったディノが顔を上げたところで、また蹲ってしまわないように頬に手を当てた。
「ディノ、まだ一緒に市場を見て欲しいので、元気になって下さいね?」
「…………ずるい。可愛い」
「危なくないように手を繋いでいてくれるのでしょう?この体勢だと、私は手を繋いだまま丸まったディノを引き摺って歩くようになってしまいます。お喋りもし難いので立ち上がって仲良くして下さい」
「…………また可愛いことばかり言う……」
「むむぅ。………ほわ?!もがふ!!」
その時、ネアは突然誰かに覆い被さられた。
慌てふためいて暴れかけ、アルテアのコートの内側に抱き込まれたのだとわかって目を瞬く。
「何をするのだ!」
「じっとしてろ、闇の妖精だ」
「…………む」
耳元に唇を寄せられ、触れる程の位置で囁かれた。
耳朶に触れた吐息と唇の温度にそわそわしつつ、ネアは何か危ないものが来たのだと理解して大人しくそのままになる。
「…………珍しいね。あの装束を見ていると、旅の途中に立ち寄ったのだろう」
いつの間にか、ディノも立ち上がってくれたらしく、アルテアのコートの中に包まれてしまったネアにも、ディノが背中の部分に寄り添って隠してくれているのが分かる。
(…………そんなに厄介な妖精さんなのかしら?)
闇の妖精ともなると、残虐の限りを尽くすような悪いやつなのかも知れず、ネアはむむっと眉を寄せる。
きつく抱き込まれた服の内側でアルテアの魔物らしい良い匂いを堪能しつつ、どきどきする鼓動を抑えるようにして危険が去るのを待った。
「……………行ったな。夜の羅針盤になる香炉を買いに来たのか」
「効果の強い香木を使って香炉を壊したのだろうね。妖精の道を使って城に帰る途中なのかもしれない。……ネア、もう大丈夫だからね」
「………ぷは!…………妖精さんは行ってしまいました?」
「うん。目的の買い物があったようだね。それを買うだけですぐに立ち去ったようだ」
ネアはさぞかし市場の人々も怯えているだろうと思って顔を上げたが、なぜだか市場の様子は先程のままだ。
隠れているお客や警戒した様子の店主もおらず、夜の密やかな市場らしく賑わっている。
「皆さんは気付いていなかったのですか?」
「気付いていた者も多いよ。だが、今回は買い物に来ただけだから、関わらなければ恐ろしいものではないからね」
「…………なぜ、私だけ隠されたのでしょう?」
「お前が引き寄せそうな系譜だからだ。目を合わせれば、まず縁を作るだろうからな」
「解せぬ」
こうしてネアは、初めて遭遇した闇の妖精の姿を見るとことは出来ないまま、夜の市場でのお買い物を終えた。
せっかくなので悪いものでなければ見てみたかったが、人権侵害だと荒ぶったところ、アルテアが素敵な焼き立てのあつあつマフィンを奢ってくれたので良しとしよう。
この夜の市場での買い物の一件から、魔物は鼻をつままれるご褒美もすっかり気に入ってしまった。
時々強請るのだが、外でやると魔物を虐めているみたいなので、ネアはかなり困っている。