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ギード


それは。


それは、在りし日の遠い想い出だった。

あの美しい城の中は決して賑やかとは言えなかったが、それでも和やかではあった。

ギードがまだ、日参するように当たり前に足を運べた頃。



「…………グレアム、今度は何をしているんだ?」

「これならどうだろう?」

「……………竜の子供?」

「シルハーンに懐かないだろうか。竜の巣がカワセミに襲われている時、この子だけ鳴き叫ばずに寝ていたんだ。豪胆だと思わないか?」

「…………他の子供たちは?」

「逃げ出した結果、みんなカワセミに殺されてしまった。カワセミは獰猛だからな」


そこにやって来たのはウィリアムだ。

酷い顔色をしているくせに好青年めいた微笑みはそのままなのが、この男がどれだけ歪んだ心を持て余しているのかが分かるというものだ。

これは後で飲みに連れ出す必要があるなと感じ、そんな風に世話を焼ける友人がいることに、ギードは不謹慎にも少しだけ安堵する。



「ウィリアム、……また誰か死んでしまったのか?」


グレアムは心配そうにそう尋ね、ギードは肩を竦める。

ウィリアムもこちらを見て、少しだけ憂鬱そうに微笑んだ。


「殺してしまった方に俺は賭けるな」

「ギード、茶化さないで彼の話を聞いてやれ」

「…………あんた、さりげなく自分は引いたな」

「私は、シルハーンにこの竜を届けてくる。親を亡くした直後の方が懐くかも知れないと思うのだ」

「懐くと思ってるのか………」

「いや、寧ろ笑い話にしてくれた方が俺は楽だし、その竜はないと思うぞ」

「無垢な生き物が側にいると、心が和むと言うだろう」

「ウィリアム。グレアムは大真面目みたいだぞ」

「うーん、………参ったな。どうする?ギード」



上等な籠の中に入れられ、困惑したように首を傾げていた子竜はすぐに逃げ出してしまったようだ。

生き物は本能的に万象を恐れてしまい、それは避けようもなく常なのだと。



「…………グレアムが、連れて来てくれたものだったんだ。グレアムは怒るかな」


そう首を傾げている万象に、ギードは微笑んで首を振る。

床には蹴り落とされた籠が落ち、失われてしまったものをむざむざと思い知らせてくる。


「グレアムは怒りませんよ。ただ、あなたが落ち込んではいないかと、心配はするでしょう」

「私が…………?」

「竜に逃げられた時、がっかりしませんでしたか?」

「グレアムが大事そうに連れてきたものだったからね」


そう呟くシルハーンの横顔は静謐だが、ギードはそこに淡い絶望の翳りを見た。

ウィリアムにはより深く、そしてシルハーンはいつも淡く春霞のような絶望を纏い、その絶望がそこにあるのはなぜなのだろうという疑問を抱え、途方に暮れている。


グレアムが抱えているのは絶望ではない。

彼はいつも、シルハーンが抱え途方に暮れている絶望を引き剥がそうと、四苦八苦している優しい魔物だ。

ギードは、そんな友人に出会った日のことを、いつだって思い出すことが出来る。



「手伝ってくれないか、ギード。君は絶望だから、シルハーンの抱えた絶望をどうしてやればいいか、相談に乗って欲しい」

「………いや、俺は絶望だから」

「そうだな。だからこそ都合がいい。私は犠牲なのだから、きっと君とは相性もいいだろう」



そう微笑んだグレアムの瞳は、きらきらと光る灰色の瞳。

その中に星が光り銀が光るような美しい瞳は、高位の乙女達から、見つめられるだけで恋に落ちるような瞳だと持て囃されていた。


けれどその瞳はいつも、大事な万象のことを愛情深く見つめているのだ。



勿論、万象をそのように慕う魔物は多い。

諦めて去って行く者がほとんどだが、それでもまた目に映せば、立ち止まり心を奪われてしまう。


美しく恐ろしく、何千の夜を越えてもまた美しさに屈服する。

その強さも危うさも、そして恐ろしさや残忍さから齎される苦痛にさえ、魔物達はただ美しさに打ちのめされて万象に跪く。


だからこそギードは、そんな万象をグレアムやウィリアムのように守ってあげたかった。

まったくもうあなたはと親身に微笑みかけ、悲しそうに微笑んだ万象の手を引いて差し上げたかった。

そのくらい、魅せられていたのだ。



(だけど、俺は絶望だから…………)



だからこの手で、あの美しく尊いものに触れるべきではない。

そう思っていたギードを呼び寄せたのは、グレアムだった。



そうして、グレアムに強引にシルハーンの城に同伴されて恐縮しながら初めて対面したあの日、万象は壊れてしまった一頭の白馬の横に立っていた。


グレアムの瞳が痛まし気に歪むのを、ギードは隣で見ていた。


「………シルハーン、それはどうしたんですか?」

「ダイアナが私にと贈ってくれたんだ。でも、私を見るなり狂乱してしまってね、狂い死んでしまったんだよ」

「……………ダイアナは?」

「泣きながら詫びて、そのまま逃げ出して行ってしまった。別に怒ってはいないのだけど、これはどうしたらいいのかな?」

「………私が片付けておきましょう。恐らくこの馬は、シルハーンの御前に突然引き出されて驚いてしまったのでしょう。まったく。ダイアナも、獣の扱いには長けていないのにこんなことをするから………」



それは暗に、獣が狂死したのはダイアナが不慣れだったせいと、万象に信じ込ませる為の言葉だった。

そしてギードは、運ばれて行った白馬が倒れていた場所を、立ち尽くしたままいつまでも見ている万象の周囲に、はらはらと舞い散る絶望の欠片を見たのだった。





あの日からずっと、ギードはグレアムとウィリアムと共に、シルハーンの側にいた。


守っているつもりだがきっと守れてはおらず、側にいるつもりだが、きっとかの方の心には寄り添えていないのだろう。

それでも。


それでも、シルハーンが一人でいないだけで、ギード達は安堵するのだ。

困り切っている万象が、こちらを見てああ良かったと微笑むだけで幸せだった。



「…………私には、やはり心がないのかな」


ノアベルトにとある心無い嘲笑を浴びせられた夜、万象はその城の片隅に小さな椅子を出して腰掛け、ぽつりと呟いた。

万象を取り巻く絶望は、まるで花吹雪のようにはらはらと、絶え間なく降り続ける。


万象がノアベルトを気に入っていることを、ギード達はよく知っていた。

彼は楽しいことばかりを話し、無責任だがシルハーンの知らない言葉ばかりを運んでくる。

今日はノアベルトがこんなことを言ったんだよと嬉しそうに話すシルハーンを見ながら、グレアムは酷く心を痛めていた。

なぜならば、ギード達は一方で、万象がそう願う程にノアベルトが万象を一人の友人として見ていないことを最初から知っていたのだ。


起こるべくして起こったその事件の夜、ギードは初めて、シルハーンが疲れたなと呟くのを聞いた。

彼はいつものように本心の伺い知れない微笑みを浮かべていたけれど、ギードにはシルハーンが泣いているように見えた。

泣き方もわからずに、それでも咽び泣いているような気がしたのだ。



「ノアベルトは、あの場を盛り上げることしか考えていませんでしたからね。心臓を奪われても面白がっていたくらいですから」

「…………誰かを、………愛することを、君は知っているかい?」

「…………ええ」

「そうか。羨ましいな」



男女のそれの愛とは違い、そして同性のそれとも違い、恋情でもなく友情よりも堅苦しい、自分でも上手く形に出来ないシルハーンを慕う愛を、ギードは知っている。



幸せになって欲しい。



それは大事だから。

好きな者達だからこそ、幸福でいて欲しい。

一番のそれはシルハーンであるが、グレアムも、ウィリアムも。

大事な者達だからこそ、幸福でいて欲しいと願える幸福こそがギードの愛だった。



(だからこそ、愛を知らないということが孤独なことだと、俺は知っている)


シルハーンへの憧れを見付ける前のギードは空虚だったし、グレアムに出会う前のギードは孤独だった。

ウィリアムと出会って初めて、誰かと悩みを語り合う心地よさを知ったし、友人達とシルハーンを囲んであれこれ意見している時間は、本当に楽しかった。



このまま。

どうかずっとこのままでと願う祈りの声も虚しく、運命の日はやって来る。


ざあっと、雨が激しく降り注ぐ。


その日は、避けようもなくある日突然訪れた。





「…………どうして、引いてくれなかったんだ。俺は引けない。………俺が終焉だと、……分かっていた筈なのに、どうして…………」




土砂降りの雨の中、ウィリアムは表情を無くしたまま立ち尽くしていた。

心が壊れてしまったような白金の瞳は虚ろで、よろりと体を揺らしてから自分の剣を杖のように地面に突き立て、体が傾ぐのを押し留めた。

ウィリアムは決して認めないだろうが、ギードは、彼が雨の中泣いているような気がした。

排他結界で雨を弾くことも忘れてしまったのではなく、あえて雨に紛れさせたのだと。


彼の慟哭を、雨の向こうに聞いたような気がしたのだ。




多分、あの瞬間からずっと、ウィリアムとギードはグレアムがいなくなるのだと分かっていた。




はらはらと、絶望のかけらが舞い散る。



その花の雨のような絶望の中を、シルハーンが大きな木の下に獣のように薄汚れて身を潜めるグレアムと向かい合っていた。



「グレアム…………」



その名前を呼ぶ万象の声は子供のように頼りなく、狂乱した魔物の爛々と光る瞳に、ふっと悲しげな優しい光が揺れる。



「申し訳ありません、………我が君。俺は、………彼女のいない世界は耐えられない。………踏み止まれませんでした」


軋むような声には獣のものめいた喘鳴が混じり、ぎしぎしと体を歪め醜い獣の姿に変化させてゆきつつあった。


もうすぐ、ここにグレアムはいなくなる。

壊れてしまったらもう、彼の心はここからなくなってしまうのだと思い、ギードは声を上げて逃げ出したくなった。



「…………私に、して欲しいことはあるかい?」



けれども、万象の声は穏やかだった。

だからなのかも知れない。

グレアムの声と瞳に、最後の彼らしい優しい煌めきが灯る。



「いいえ。どうかこのままで。………お別れです、我が君」



美しい灰色の瞳から、一筋の涙が零れた。




グレアムはぼろ布のようなケダモノの姿に変化しながら木の下から雨の中に駆け出してゆき、やがて遠雷の向こうで、誰かの身を切るような慟哭が聞こえた。



シルハーンは、随分と長くその場所に立ち尽くしていたように思う。



「………………グレアムの伴侶を殺したのは?」

「ウィリアムですが、……あれは、俺でも止められなかったでしょう。最初に死んだのは、あの国の王の子供達でした。彼女は、グレアムが統括する国の、王の子供達の名付け親だった」



最初の橋を外したのは誰だろう。



それは、ともすれば偶然のようなものだった。


様々な要因が長い時間の中で重なり、全ての奔流が流れ込むその場所に、彼女とウィリアムが残った。

そうして、グレアムの心を殺してしまったのだ。



(最初の悪意は、黒薔薇のシーと、白夜の魔物からだった……)



ほんの少しの不幸が手の施しようのないひび割れになったその頃、選択の魔物がその不安定さを好んで更に国を殺していった。

グレアムですら、その時ばかりは深刻にアルテアと戦わねばならないかもしれないと口にしており、ギードは万象に相談してみることも提案したが、彼はまだ大丈夫だと首を振っていた。


ちょうど同じ頃、ウィリアムはかつて崩壊した修復の魔物が滅ぼした土地を整理していた。

そして、かつてそこでこの世界から修復の魔術が失われたことで、失われたものは失われたまま、永劫に戻らない世界になったのだ。



(その後、………欲望の魔物が誰かの願いを叶え、商人としてあの国の城の中央にあった、守護の祝福基盤を持ち去った)



その後で、近年になって最後のところまで戦況を混乱させたのは誰だったか。

選択か欲望か、言の葉か剣の魔物か、……はたまた、怠惰か白夜の策略だったのか。

あまりにも多くの者達がその国を壊したのは、そこがたまたま彼等の賭け場にされたからという酷い理由だった。



グレアムの伴侶は、訪れた死者の行列をことごとく滅ぼさんとした。

終焉が定められたことを呪い、グレアムの愛した国を守る為に無謀だと知りながらも、ウィリアムを殺そうとしたのだ。

ウィリアムは最初、何とか戦火の魔物こと、グレアムの伴侶を説得しようとしていた。

しかし、彼女の怒りは生かすべきだった残った街を焼き、あえてその身を炎に晒してまで鎮めようとしたウィリアムの身を何度焼いても鎮まらなかった。



『まるで、自分の子供のように可愛がっている。不思議なものだ』



かつてグレアムが言ったように、あの王の子供達は彼女にとっては我が子のようなものだったのか。

そしてそれは、子供というものを持たない高位の魔物にとって、狂乱に値する程に尊いものだったのだろうか。



あの戦場で、最初に狂乱したのは、グレアムの伴侶だったのだ。




「ウィリアムは?」


そう尋ねたシルハーンに、ギードはくしゃりと顔を歪めた。



「…………グレアムが狂乱した直後、自分に剣を。…………恐らく、グレアムの終焉への転落を防ぐ為に、一度自分が死のうとしたんでしょう。でも、これだけの生き物が栄えている世界で、おまけに修復の魔術が失われてしまった今、彼はもう死ぬことすら出来ない」



自らの手でいずれグレアムを滅ぼさなければいけなくなることを恐れ、ウィリアムは何とか終焉へとひた走るグレアムの狂乱を止めようとした。

自らの意志で消え去る者とは違い、グレアムの狂乱は復讐を望む終焉へと向かう狂乱だ。

やがて、誰かがその終焉を成さねばならなくなる。


だからギードは、その時にはもう覚悟を決めていた。

グレアムを終わらせるのは、この手でと決めていたのだ。

死んで終焉を失くしてまでグレアムを救おうとしたウィリアムや、ここで、あまりにも深く絶望している万象にその責を負わせたくない。


しかし、そう思っていた矢先、思わぬことが起きた。

真っ先に殺された剣の魔物が、グレアムに取り込まれたという情報が入ったのだ。



(……………悪食)


それは、喰らうことで己の力を上げる禁忌の行い。

狂った者と、狂っても構わない者だけが手を伸ばす最後の術。

狂乱したグレアムは、それに手を出したのだ。


すぐさま狂乱したグレアムはギードの手にも負えなくなり、どこかに正気の欠片が残っているのか、ウィリアムや万象のことは避けて動いているようだった。

そんなグレアムを滅ぼしたのは選択の魔物で、交戦の情報を聞きつけて駆け込んだギードが目にしたのは、何も残っていない黒ずんだ大地と、薙ぎ倒された教会の尖塔に寄り掛かって上着の埃を払っているアルテアだった。


「まったくなぁ、さっさと片付けろよ。酷い目に遭ったぞ」


そうぼやくアルテアに、焼きついた影だけが残る地面を見下ろして、万象は淡く微笑む。


「………そうだね。私は止めてしまいたかった。或いは、書き替えて何もないことにしてしまいたかったな」

「だったらそうすりゃいいだろ。…………くそ、この髪は元に戻るんだろうな」

「…………彼は私に救いを求めなかった」

「だとしても、勝手に調整すればいいだろうが。お前はいつもそうなのに、何で今回だけは遠慮するんだ」

「……………理不尽だと思ったからだよ。何も知らず何も持たない私が、彼の苦しみを勝手に断罪したり、彼が慈しんでいたものを勝手に取り上げることは出来ない。全てを忘れればそのまま生きてゆけるとしても、………それは、理不尽だと思ったんだ」


ギードの目には、ざあっと風に散りゆく満開の花のように、花の雨を降らせる絶望のかけらが見えた。

その花吹雪の中で、長い髪を流して万象は消えてしまいそうな淡い微笑みを浮かべる。



「グレアムは、………もういなくなってしまったんだね」



三日間の間に公爵位の魔物が五人殺され、四人が負傷した。

最終的には選択の魔物がそれを滅ぼし、グレアムが執拗につけ狙ったことで、人々は犠牲の魔物の伴侶を殺したのは選択だったのだろうと囁いた。

狂乱した魔物の怨念は深く、翌朝にはその土地から祟りものが生まれたが、ギードは一晩その地面の上に座り込んでその瞬間を待ち、燭台の塔に誘ったその祟りものに成り果てたグレアムを蝋燭にした。

グレアムの祟りものが蝋燭になるまでに五日。


僅か、十日にも満たないばかりで、全てが変わってしまった。



その後ギードは、万象にも別れを告げ遠い島国の一つに移住した。

やはりあの絶望が訪れたのは自分が絶望であったからかもしれず、少しでも残された親しい者達から離れようとしたのだ。



“シルハーンを、………宜しく頼む”


燭台の塔で、グレアムの祟りものが蝋燭になった後、彼の座っていた座席にはそんな文字が残っていた。

ギードはその文字に指先で触れて泣いたが、それは自分の為だった。


(お側にいることはもう、出来ない)


自分が側にいれば、また彼等を壊してしまうかもしれない。

だから少しでも遠くへ立ち去るのだ。




どれだけの月日が経っただろう。

ウィリアムが自分を探していたと、風の噂で聞いたのは随分経ってからだ。

もういい加減戻ってきたらどうだという伝言も、やがて途絶えた。


また大きな国が一つ、燃え落ちたのだそうだ。

多くの怨嗟と絶望に、ギードは少しだけその雪のちらつく国の王宮の前を歩いた。

噂によれば、この国にはノアベルトの想い人がいたのだそうだ。

彼の慟哭にも耳を澄ませ、かつては心無く享楽的に騒いでいた彼の変化に、また胸を痛めた。



西の方の国で、新しい犠牲の魔物が生まれたらしい。


大きく資質を変えない限り、同じ事象を司る魔物は名前や姿をあまり変えない。

今の彼はまた、あの夢見るような灰色の瞳で微笑むのだろうか。

幸せにしているだろうか。

逆に言えば、名前や姿が変わった魔物は変化があったということなので、ギードは今の犠牲の魔物の姿を見るのが恐ろしいとさえ思う。

まるで違う誰かがそこにいても、きっと自分は絶望するのだろうなと思ったのだ。


また少し時間が流れれば、万象が自分を探した形跡があった。



その間のギードは、誰が見ても高位の魔物だとは分からないよう、一匹の黒い狼に姿を変えてあちこちを彷徨っていた。

おかしなことだが、その姿でいると似たような獣に友人も出来たし、恋人がいたこともある。

自分の形を棄てることで、なかなかに愉快な日々を過ごすことも出来た。



それでも、目を閉じると思い出すのは、万象の城で友人達と過ごした遠い日。



だが、それを思い出す度に胸が痛む日々もまた、ある日唐突に終わった。



ざくっと、ふかふかに積もった落ち葉を踏んで、ギードは跳ねるように森を駆け抜ける。

色鮮やかに紅葉した森を駆け抜け、無意味に大岩を飛び越えてみたりした。

それは、狼として過ごしているときの習性でもあるが、気持ちが弾んでいるからでもあった。


(シルハーンに、指輪を贈る相手が出来た!)


再会したばかりの万象は、ギードが見たこともないような目をして微笑んでくれた。

ギードやグレアムがずっと見たいと願い、ついぞ叶わなかった穏やかで幸せそうな目をしていた。


(それだけじゃなくて、………グレアムは、最後にそのことを知ることが出来たんだ)


その事実を知れたそれだけで、ギードはあまりの安堵に座り込みそうになった程だ。

幸せだと、そんな言葉が胸の奥から湧き上がって目の奥が熱くなった。

あまりにも深い絶望が落ちてきて思わず心配になって飛び出して行ってしまったウィリアムも、何か誤解が解けたのか安心したように笑っていた。


(…………俺は、シルハーンの友人だった)


その言葉を最後に噛み締め、思わずばたんと地面に寝っころがりたくなってしまう。

ふつふつと弾ける喜びの感情に慣れなくて、何度か胸焼けを治すように胸を叩いてしまった。

一刻も早く完全な擬態を会得し、シルハーンが誰かと幸せに暮らしている様をこの目で見てみたい。

ウィリアムからは、また姿を消す前に飲みにでも行こうと言われたが、申し訳ないが擬態を会得することを先にさせて貰った。



(……………あと、一年)



一年かと思い、その時間が思ったよりも少ないことに少しだけ焦りを覚える。

最悪の場合、既に完全な擬態を会得している、この狼姿で会いに行ってもいいのだが、出来ればシルハーンの言う友人という称号に相応しく、人型でその伴侶になる歌乞いにお目にかかりたい。


そう考えたギードが次にしたことは、あまり折り合いの良くなかったノアベルトを探すことだった。



そして衝撃の場面に遭遇したのは、シルハーンとの再会の翌月のことだった。




「こらっ!それは他のどなたかの落し物のボールです。勝手に持ち帰ってはいけませんよ!」


冬の気配のする森でそう叱られているのは、どこからどう見ても銀狐だ。

立派なふさふさの尻尾を毛羽立てて、頑固な目をしてボールを咥えたまま首を振っている。


「可愛い顔をしてみても駄目です。ぺっとして下さい。さもなくば、今日のお風呂はなしです!」


叱っているのは人間の少女で、なぜかその手にはカワセミが何匹も握られている。

あの獰猛な生き物をどうしたのだろうと慄き、気配を辿ればやはりノアベルトな筈の銀狐に視線を戻す。


「ディノ、狐さんが森の落し物のボールを着服しようとします!」

「ノアベルト、それは他の誰かの使ったボールだろう?」


ギードが一番驚いたのは、そこにシルハーンがいたことだ。

そしてそんな万象は、ひどく愛おし気に隣の少女を見ている。

しかしその眼差しは、少女が手に持ったカワセミを見た途端微かに揺らいだ。


「…………ネア、その手の中のものは何だろう?」

「ぺらぺらリボン生物ですね!川辺にぺらぺら飛んでいて、邪魔な感じにまとわりついてきたので、手ではたき落としました!これをアイザックさんに売り捌き、ディノと美味しいケーキを食べられそうです」

「どうして君は、目を離すとすぐに狩りをしてしまうんだろう。ほら、カワセミは金庫にしまおうか」


(………カワセミを、手で?)


ギードは混乱しながら、脆弱そうに見える少女と、ボールを咥えたまま涙目になっている銀狐、そしてシルハーンの順で視線を彷徨わせた。


「それと、君はさっきも梟の魔物を斃したばかりだろう?危ないからこれを持っておいで」

「む。なぜに三つ編みなのでしょう。こういう時は、手を繋ぐべきだと思います」

「…………ネアが大胆過ぎる」

「解せぬ」


ギードはそっとそちらから視線を外し、首を振った。

よく分らないがこれでいいのだろうとは思うが、見てしまったものが衝撃的過ぎて、上手く理解出来ない。

そっと立ち去ろうと思って踵を返したが、もの凄い声が聞こえてきて振り返れば、苦手な虫が出たとかで少女はシルハーンによじ登っていた。


宝物のようにその少女を抱き上げた万象の口元に、はっとする程に優しい微笑みが刻まれる。



(……………グレアムにも、見せてやりたい)


頭の上にはノアベルトである筈の銀狐が乗っかってしまっている凄い光景だが、これは多分、幸せな絵なのだと思う。

あの運命の夜には誰も思い描けなかったぐらい、とびきりに幸せな。



そう思えば、口元がむずむずして微笑みが零れた。

狼の姿でも微笑むことは出来るのだ。



(よし、擬態を習うのは、他の魔物にしよう。ヨシュアも得意だった筈だからな)


まだ胸はばくばくしていたが、ひとまずいい気分で立ち去ろうと思ったギードは再び振り返る羽目になった。



「そう言えば、白もふ用に首輪を買ったのです。綺麗な赤紫色の首輪をリノアールで見付けたんですよ」

「アルテアは喜ばないんじゃないかな………」

「最近の使い魔さんはより懐き度が上がりましたので、また明後日も林檎のタルトを献上しに来るのです。その時に一度差し上げてみますね」



そっと視線を前に戻し、ギードはよろよろしながら帰路についた。

色々と飲み込めない情報が多過ぎて混乱していたせいか、がさりと落ち葉を踏んでしまい、件の少女から“黒つやもふもふ”として追いかけられることになる。


どうやら、万象の伴侶になる少女はかなりの狩りの名手であるらしい。

高名な魔物達も従えているようで、心強く思えて安堵した。

その日は色々と衝撃的なものを見聞きしてしまったので、戦乱の国で見付けることの出来たウィリアムと久し振りに酒を飲み交わすことにした。


しかし、シルハーンの歌乞いに黒つやもふもふとして追いかけられたことを話すと、にっこりと微笑まれ少しも笑っていない目で、二度と彼女の前に手触りのいい毛皮の生き物の姿で現れてはいけないと約束させられた。

その上で補足されたことによると、彼女の守護はもう定員であり、どれだけ心惹かれても決して手を出すなということだった。



(…………シルハーンの指輪持ちの少女は、アルテアを使い魔にし、ウィリアムの守護も得ているのか)



余計に混乱して帰ることになったが、守護をたくさん持ち丈夫であれば、決してシルハーンを一人で残していったりはしないだろうと思い直し、頷いた。


ヨシュアに、決して彼女に逆らってはならないと言い含められるのは、その翌週のことになる。



たいへんに混乱はしているが、頼もしい伴侶を得られたようで何よりだと思おう。

もう二度と、この幸福が奪われたりはしないように、ギードはその力強さに感謝した。






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