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189. 魔物が過敏になりました(本編)



「ディノ!ただいま戻りました!!」


ネアが声を上げて手を振ると、ディノの瞳にふっと瑞々しい光が戻った。

他に言い方がないのかと思ったが、そうとしか言えない表情の変わりように、ネアは唇の端をより深く持ち上げる。


ディノの隣にはノアがおり、こちらもほっとしたような顔をしてくれていた。

ディノはいつもの擬態をしているが、なぜかノアの擬態はいつもより白っぽいようだ。

他の魔物達がいるからかもしれないが、ネアは珍しいなと思い内心首を傾げる。


呪いの戻り道の霧が完全に晴れ、全員の靴底がカチリと床の上に戻る。


戻って来たのは、呪いに落ちたアルビクロムの博物館のあの展示室だった。

ただし、若干色彩がくすんでいるので、特殊な仕様にして空間を遮蔽しているのかもしれない。

光の入り方を見ている限り早朝のようで、騎士の一人が部屋の端に立っているので、他の領土内であるだけに魔物達だけにならないようにと、エーダリアかヒルドあたりの手配で同行してくれたのだろう。



「ディノ!」


ネアは持ち上げられたアルテアの腕から飛び降りると、かつんと床を踵で鳴らし、そのまま駆け込んで伸ばされたディノの腕にばすんと飛び込んで抱き締められた。


懐かしい香りを胸一杯に吸い込み、背中が軋みそうなくらいにきつく抱き締められれば、ネアは胸が苦しくなった。

この魔物はどれだけ寂しく苦しい思いをしていたのだろうと思い、涙ぐみそうになる。



「ご飯は、ちゃんと食べていましたか?また寝てないなんてことはありませんね?」


体を少し離してディノの顔を覗き込むと、魔物は目元を染めてほろりと微笑む。


「君は心配ないと言ったけれど、本当にきちんと戻ってきてくれたね」

「はい!ロサさんとオズヴァルト様が、その後はヨシュアさんが、それにアルテアさんも来てくれて、みなさんが助けてくれたんですよ」

「そうなんだね。……君が、あまり怖い思いをしていないようで良かった」


そう穏やかに呟く魔物の頬を撫で、ネアは少しだけふにゃりとなりつつある口をもごもごさせる。


「でも、その分、ディノが我慢して待っていてくれたのでしょう?」

「……………うん」

「今日はたくさん大事にしますね」

「ネア…………」


魔物は嬉しそうにもじもじし、三つ編みをさっと差し出した。


「むむ!」


ネアはその三つ編みを見つめて眉を顰める。

毛先まで少しぱさぱさしており、三つ編みも乱雑になっている。

きゅっと結んだリボンも、何だか歪で曲がってしまっていた。


「ディノ、少し向こうに行きましょう」

「ご主人様………?」

「髪の毛がぱさぱさです。可哀想に。直してあげますね」


しかし、ネアがそう言えばなぜか魔物は自分の三つ編みを握り締めてぴゃっとなった。


「ほわ?!なぜに逃げられたのだ!」


そして、素早く逃げて行くと、なぜか一緒に迎えに来てくれたノアの後ろに隠れてしまった。

まるで野生の獣のようにその背中から少しだけ顔を出してこちらを窺っているので、ネアは途方に暮れてしまう。

ノアはそんな二人を見て、少しだけやれやれという顔をした。



「刺激が強過ぎるんじゃないかなぁ」

「………三つ編みの編み直しが、………ですか?」

「ほら、君は数日間留守にしていたしね。それと、お帰り、ネア」

「は!ごめんなさい、言い忘れてしまうところでした。ただいまなのです、ノア。ご心配をおかけしました!」

「うん。僕にも抱きついていいよ」

「むむぅ」

「何で悩むのさ」

「喜びを分かち合いたい欲求と、飛び込んだ場合の危険性を天秤にかけているのです」



そんなやり取りをしていると、おずおずと横に並び出てきた魔物がいる。

介助付きで数歩前に出て、ほうっと溜め息を吐きたくなるような優雅な仕草で頭を下げたのは、白薔薇の魔物ことロサだ。

一応はネビアという本当の名前も知らされているのだが、ネアの脳内にはロサという名前がインプットされてしまっている。



「………シルハーン、宜しいでしょうか」


若干困惑の滲んだその声に、ノアの後ろから顔を出したディノが、おやっと目を瞠った。


「ネビア、………どうして立てなくなってしまったのだろう」


確かにロサはまだ、ヨシュアの肩を借りている状態だ。

実は出口の門をくぐった後に、ここに出てくるまでに五時間ほど時間があったので、ネア達はあわいの空間で打ち上げをしていた経緯があった。


あまりお酒に強くないロサは、アルテアのお酒を間違えて飲んでしまい、先程まで酔い潰れていたばかりなのだ。

直前に起こされたばかりで、まだ酔い覚ましの魔術が浸透しきっていないのだろう。

しかし、ロサの方からすれば、王様がノアの背中の後ろに隠れている方が謎に違いない。


「いえ。………これは、少々気が緩みまして」

「損なったものはないかい?ネアを見ていてくれたようだね。有難う」


思いがけず優しい言葉をかけられたロサは目を白黒させ、喜びの笑顔になりかけたり困惑したりした後に、思い出したように慌てて頭を下げた。

口元がかなりもそもそしているので、とても嬉しかったようだ。

ロサの髪の毛が艶々してきたのを見て、ネアは再び彼が万象には忠実なひと柱だということを思い出した。



「シルハーン、僕も頑張ったよ!」


それを見てむむっと眉を顰め、ヨシュアが自己主張する。

少し拗ねたようなので、ネアは補足してやった。


「癒し担当のヨシュアさんは、出口の媒介となるキャンバスを発見してくれたんですよ」

「わーお、ヨシュアが働いたんだ。珍しいね」

「ノアベルトなんて嫌いだ………」


(…………あら)


ここでネアは、どうやらこの二人はあまり相性が良くなさそうだぞと目を瞠る。

最初にヨシュアと出会った時に一緒だったのはノアなのだが、あの時のノアが刺々しかったのはヨシュアが出会い頭にネアを狩ろうとしたからだと思っていた。

しかし、そういうことがなくてもあまり好意的ではないようだ。


「よく見付けたね、ヨシュア」

「褒められた!」


対するディノは、ここでも王様らしい淡く他人行儀な微笑みを浮かべ、魔物らしい尊大さで頷いてやる。

それでも、ネアの目線では、どうもロサの時よりも優しい声音に思えた。

それはヨシュアも感じたのか、喜びに顔を輝かせた後ノアの方を見て自慢するような得意げな顔をしていた。

ここはここで何か事情があるのだろうなとネアは判断し、あまり問題を拗らせないように立ち回ろうと心の奥に書き留めておく。


ヨシュアは、気の済むまでノアに自慢げな微笑みを見せると、支えていたロサをぽいっとしてよろめかせてから、城に帰ると言い出した。



「イーザが探してるといけないから、僕は帰るよ。ネア、ウィリアムに僕は素晴らしい働きをしたって言っておいて」

「ヨシュアさん、お世話になりました」

「うん、僕のことは、幾らでも褒めておいていいからね」


ぽふっと転移を踏んで姿を消したヨシュアに、ネアは寂しい気持ちを噛み締める。

短い期間ではあったが旅の仲間のように共に過ごし、何だか可愛いやつめな気持ちになっていたので名残惜しい。

ノアにはしっしっと手を振られているが、ネアはヨシュアがいてくれて良かったと思う。


こういう時に、残ってあれこれ王様にご報告をとか、名残惜しいというような感情を見せない魔物達は、そのまま退場となるようだ。



「それでは、我が君。私も失礼させていただきます」

「うん」


ロサも優雅に胸に手を当てて一礼し、こちらはふわりと転移を踏んで姿を消した。

最後に翻った青いコートの裾の向こうで、高位の魔物達の退出に丁寧に頭を下げたオズヴァルトが見える。



(オズヴァルト様は、どうやって帰るのかしら……。お一人だと疲れてもいるだろうし、危なくないかな)


ネアはそう心配していたが、その不安はすぐに晴れた。



「………すまない。執務の準備があって、来るのが遅れた」

「エーダリア様!ご心配をおかけしました」

「無事に戻ったな。………オズヴァルト、お前も無事か」

「兄上、ご迷惑をおかけしました。………ロギリオス?」

「我が君、ご無事で何よりです」


転移で駆け付けてくれたのは、エーダリアとダリルだ。

ダリルの隣に一人見慣れない美麗な男性の騎士がおり、その背中には美しい妖精の羽が見える。

どうやらこの騎士は、オズヴァルトの騎士であるようだ。


「ロギリオスを連れてきてやったよ。ほら、もう主人が迷子にならないようにしな」

「ダリル殿、ご手配いただき、有難うございました」

「あんたの主人の場合、アルビクロムの領主を通すと面倒だからね。巻き込まれたのは、ガレンの魔術師ってことになってる。いいね」


ダリルが自分の騎士に伝えた言葉を聞いて、オズヴァルトは目を瞠った後、深々と安堵にも似た溜め息を吐いた。

言われてみればそうなのだが、ここがアルビクロムの領内である以上、依頼があった作業の中で事故があったこと自体は報告するしかなかったのだろう。

となれば、その事故にお忍びの第三王子が巻き込まれたことを隠した上で、このようにオズヴァルトの手の者を迎えに同行するのは、ある程度の労力が割かれているのだ。



(そういう政治的な部分の想像がつくからこそ、オズヴァルト様はエーダリア様に頭を下げたのだわ)


領主を通すと面倒な理由はあれこれあるだろうが、お忍びであるからこそまずい事情もあるのだと思う。

何しろ、オズヴァルトは心を病んで療養中という扱いになっているし、公式にはまだ王子のままとされているからだ。



「エーダリア様、ウィリさんこと、影絵の中のウィリアムさんの襲撃があった際、オズヴァルト様が出口になるキャンバスを死守してくれたのです」


なので、ネアがエーダリアにそう報告しておくと、オズヴァルトは離れた場所で少し苦笑したようだ。


「そのキャンバスを奪い返してくれたのは彼女なのだ。エーダリア兄上、ネアが一緒にいてくれなければ、私は生きて戻れなかったでしょう」

「だが、ネアはお前がいた事も頼もしかったと思っているようだ。何はともあれ、よく無事に戻ったな。あの場にはガレンの者達もいたのに、呪いを排除しきれずにすまなかった」


穏やかな微笑みでそう詫びた兄に、オズヴァルトは少しだけ驚いたような顔をする。

ややあってから少しだけ瞳の表情だけで冷静さをくしゃりとさせ、また僅かに頭を下げる。


「高位の方のご推察によれば、私の存在も呪いの発動の原因であったようです。重ねて、お手数おかけしました」

「あまりお前とこうして会えることはない。話したいこともあるが、疲れてはいないか?」

「いえ」


思いがけない言葉にまた視線を揺らし、オズヴァルトはひどく無防備な顔をした。

その隣でダリルがやれやれと肩を竦め、ロギリオスと呼ばれた騎士はなぜかほっとしたような顔をする。



「ネアちゃん、ディノ達と先に帰っていていいからね。ゆっくり休んで、晩餐の前に報告会にするよ。……まったくうちの王子は、自分が安定してるからっていらない情をかけるんだからね」


ダリルはそうぼやきながら、顔を顰めて隣のエーダリアをばしりと叩いた。

いきなり叩かれたエーダリアが驚いて振り返り、そのまま早くしなとどこかの空間に押し込まれている。

一緒にそちらに入るオズヴァルトが、慌てたように一礼してお別れの挨拶をくれた。

ネアもぺこりと頭を下げた頃にはもう、その空間は閉じてしまったのかオズヴァルトの姿はない。



「ほわ、………ダリルさんにどやされて消えてゆきました」

「ありゃ、エーダリアはかなり叱られるだろうね」

「エーダリア様は、オズヴァルト様とお喋りしたいのですね」

「弟だからかなぁ。こんな機会でもないと、周囲がそれぞれ反対して会えないからね」

「前回、ウィームにいらっしゃった時は、さほど興味がない風にされていたような……」


ネアがそう首を傾げれば、やっとノアの後ろから出てきてくれたディノがネアの羽織ものになりながら教えてくれた。


「君が、カードであれこれ教えてくれただろう?その会話から、今の彼とであれば話しても大丈夫だろうと考えたようだよ」

「そういう事であれば、オズヴァルト様は安全な方だと思いますよ。あの方の望むものは、ウィームやエーダリア様に害のあるものではないでしょう」


とは言え、うっかりウィームの宿命の敵に恋をしたり、悪者に捕まって洗脳されたりすることもないとは言えないが、出来ればそんな目に遭わずに幸せになって欲しい。



そうしてエーダリア達の消えていった謎空間から視線を戻し、ネアは妙に静かな一画を振り返った。



「そして、アルテアさんが妙に静かなのです」

「先程から、通信にかかりきりのようだね」


ディノにそう言われて見てみれば、何やら素敵な革の装丁の手帳のようなものを開き、あれこれ書き込みをしている。

いつの間にか小脇にステッキを挟んでおり、頭には漆黒のシルクハットがあった。

顔色はかなり悪い。


「…………お友達との約束をすっぽかしたとか、不在を恋人さんになじられているとかでなければ、いいのですが」

「ウィリアムが不手際で国を一つ腐敗させたから、それでかもしれないね」

「…………なぬ」

「ああ、それね。ネアが影絵の自分に魂を削られたって聞いてさ、ウィリアムは少し動揺したみたいだよ」

「…………その、腐敗というのは、政治的な汚職とかそのようなものですよね?」

「いや、言葉通り鳥籠をかけたままにしてしまって、腐らせてしまったらしい」


あんまりな事件に、ネアは愕然とした。

聞けばそこまで大きな国ではないのだが、とある資源の取れる島国であり、アルテアはその島の鉱石産業において、アイザックと奪い合いをしていたという背景がある。

それで今は、対応に追われているのではないかということだった。


「何だか申し訳ない気持ちでいっぱいです。私が、早々にウィリさんを殺しておけば良かったですね」

「うーん、それもそれで傷付きそうじゃない?ウィリアムって、ああ見えて面倒なところがあるし」

「君は、………ウィリアムが怖くなっていたりしないかい?」


羽織ものから、心配そうにそんな問いかけがあった。

ネアは心配性な魔物を見上げて微笑み、首を振る。


「あのウィリさんは私の知らない魔物さんです。私の知っているウィリアムさんとお知り合いであることを理由にどうにか見逃して貰おうと思ったのですが、やはり違う人だったようですというだけなので、こちらのウィリアムさんへの印象は変わりませんよ?」

「そうか。………それなら良かった。君はウィリアムを気に入っていたのに、怖い思いや不愉快な思いを持って帰ったのであれば、どうしようかなと思っていたんだ」

「ふふ、ディノは心配性ですねぇ。………それに、ウィリさん自身も、確かに魔物さんらしい怖さは感じましたが、それは野生の獣のような怖さであって、嫌悪感や恐怖ではありませんでした。………何だか、寂しそうな方でしたしね」

「…………ネアがウィリアムに浮気する」

「あらあら、それだとこちらのウィリアムさんがとばっちりですね」

「ネアが、ウィリ…?に、浮気する」


荒ぶった羽織ものがそう呟くので、ネアは羽織ものになっている魔物の手をぎゅっと握ってやった。


「大丈夫ですよ。浮気ではありません。最終的には、ブーツで踏み滅ぼしてしまいましたしね」

「…………それならいいのかな」

「ええ。ディノには、怒ってもそんなことはしないでしょう?」

「………爪先を踏むのとは違うのかい?」

「ご褒美と攻撃は違いますからね。それと、ウィリアムさんにもお礼が言いたいのですが、お忙しそうでしょうか?」

「少し待った方がいいだろうね。今は、損なってしまった国の後始末に追われている筈だよ」

「まぁ、あんまり無理をしないといいのですが………」

「ずるい。心配する………」


少し落ち着いたのか、ずしりと羽織もの感を増した魔物を撫でてやり、ネアはもう一度アルテアの方に視線を戻す。

隣に並んだノアが、呆れたように肩を竦めた。



「わーお。天井を仰いで溜め息吐いてるよ。かなり損失を出したのかもね。当分の間、かかりきりじゃないかなぁ」

「むむぅ。このままここにいるとお邪魔なので、持ち帰ります?」

「置いて行ってもいいんじゃないかな」

「しかし、アルテアさんにはとてもお世話になったのです。置いていかないであげて下さい」

「…………ネアが、アルテアに懐いてる」

「あら、私の一番はディノですよ。ほら、とても大事にするので早くリーエンベルクに帰りましょう」

「ご主人様!」



そうして、ネアは久し振りにリーエンベルクの自分の部屋に戻った。

アルテアは客間に設置され、鬼気迫る様子で通信を続けている。


ネアは、部屋に帰る前に廊下でノアにもぎゅっと抱き締められ、その暖かな抱擁に涙が出そうになった。

あまりにも家族のような体温に、ディノに抱き締められるのとはまた違う嬉しさが込み上げてくる。

そうしてノアは二度寝に入ってゆき、ネアは部屋の中に入ると、まだ羽織ものになったままのディノを振り返った。


「………帰ってきました」

「よく頑張ったね。お帰り」


久し振りなような、いつもの居場所のような自分の部屋に入ると、ひどく安心した。

やはりここが正しい居場所だという気持ちになり、すとんと緊張感や疲労感が抜け落ちる。

それはどこか、安堵よりも喜びに近い感情だったので、ネアはあらためて自分がどれだけこの日常を気に入っているのか思い知らされた。


「ディノ、三つ編みを直してあげたいのですが、その前に疲れているようなので、少し横になりますか?」

「…………ネアと?」

「ふむ。横に転がってもいいですよ。寂しい思いをさせてしまいましたから」

「………ネアと一緒に」

「ええ。やはり、少し疲れているような気がするので」


魔物は思いがけない提案にふるふるしてから、目元を染めて綺麗な水紺の瞳を彷徨わせた。


「或いは、他にして欲しいことがありますか?」

「…………どうしよう、ご主人様が大胆過ぎる」

「むむ。随分とご褒美に過敏になってしまいましたね。まずは、爪先踏みから慣らしてゆかないと駄目そうですか?」


前にもこんなことがあったので、ネアは面倒くさがらずにそう提案してやった。

ふるふるしたままの魔物は、そっと爪先を差し出すので、まずはブーツを脱いでからぎゅっと踏んでやろうと足を上げる。


しかし、魔物はネアがブーツを脱いでいる段階から弱ってしまったようだ。


「どうしよう、動いてる………」

「そこからだと、かなり重症なのでは……」

「ずるい。………かわいい」

「む!爪先が逃げてゆきます!」

「ネアが動いてる………」


ネアはその後暫く、慄いて逃げ回る魔物を追いかけていたが、埒が明かないので荒療治にしようと、てりゃっと飛び込みで体当たりをしてやった。

正面からご主人様が飛び込んできた魔物は、転んではいけないと慌てて抱き止めはしたものの、その後どうするのかを忘れてしまったらしく目元を染めて固まっている。


「帰ってきたときには、普通に抱き締めてくれたではないですか」

「あの時は外だったから、また君がどこかに落ちてしまったら困るからね」

「慣れてくれないと大事に出来ないので、早く元通りになって下さいね」

「…………うん」


(………喜んでくれている、ということなのかしら?)


酷く嬉しそうに唇の端を持ち上げて、目元も染めている。

それなのにふるふるしてしまうのは、そんな感情を処理することに慣れないからのようだ。

抵抗力がなくなってしまったというよりは、こういう場合の感情のいなし方が分らないのかもしれない。

その結果、感情を動かす原因となるネアから逃げてしまうのだ。


そんな風に恥らって目線を彷徨わせている魔物を見ていたら、ネアは何だか心がむずむずした。


(かわいいやつめ!)


ほこほこする心のままに靴下だけの爪先で伸び上がると、魔物の頬に口付けをしてやる。



「……………ネア」

「荒療治です!……………ほわ」


その途端、魔物はくしゃくしゃになってネアを抱き締め、そのまま動かなくなってしまった。

ずしりと重たい男性の体に覆われる形でネアの背筋が頑張れた時間は短く、そのままでいてやりたかったが途中で崩れてしまう。

急にご主人様ががくりと脱力したので、ディノは慌てて背中の手に力を入れてネアを持ち上げてくれた。

そして、抱き合ったまま急にがくんとなる事態に遭遇した魔物は、なぜか驚いたようにこちらを見て目をきらきらさせるではないか。


「………新しいご褒美かい?」

「なぜにそうなるのだ」

「ずるい。ネアが甘えてくる」

「甘えてはいますが、今のは事故なので、ご褒美認定してはいけませんよ?」


そう言えばしゅんとしてしまうので、今度は頭を丁寧に撫でてやる。


「少しだけ、落ち着きましたね?」

「どうしてだろう。君が傍にいて嬉しいのに、逃げ出したくなってしまうんだ」

「そういうことは、誰にでもあることなんですよ」

「君もかい?」

「私の場合はごうつくばりなので、逃がさないように捕まえてしまうことを優先します!」


そう宣言された魔物は、嬉しそうに目を瞠ってからまたもじもじした。

そっと三つ編みを手の中に置いてゆくので、やっと通常の状態に戻ったようだ。



「では、ラエタのお話をしながらごろごろしましょう」

「うん。君を守ってあげられなくて、ごめんね。………ラエタは、あまり気持ちのいい国ではなかっただろう?」


そう言う魔物に、ネアは眉を持ち上げた。

意外なことだが、ディノはそんなことまで心配していたようだ。


「確かに、あの国の住民の方は、あまり仲良くなれそうにありませんでした。でも、名前のない街で出会った女性の方は、優しそうな目をしていたんですよ」

「どんな話をしたんだい?」


ネア達は、その後たくさんの話をした。

長椅子でついついお喋りに興じてしまい、魔物のぱさぱさの髪の毛を思い出して慌てて少しでも仮眠を取らせようとしたネアだったが、その頃にはディノの髪の毛はいつもの艶やかな美しい髪の毛に戻っていた。


(何だか、またこういう事故はあるような気がするけれど、)


それでも、少しでもこの魔物が寂しい思いをしないでいてくれればと思う。


(きっと、かつてのウィリアムさんがあの青い影のお城で一人でいたように、ディノにだって寂しいばかりの過去もあったのだろう)


あの孤独の色を見てしまったからこそ、いっそうにこの大事な魔物を一人にしたくないなとネアは思う。

今回の件ではすっかり寂しがらせてしまったので、どこかでディノが喜ぶようなことをしてあげよう。


「きっと今頃は旅の仲間なみなさんも、不在にしていたことを大事な人達に詫びているのでしょうね」

「そういうものなのかな」

「ええ。お話に聞くところによれば、ヨシュアさんには仲良しの妖精さんがいるようですし、オズヴァルト様にも先程の妖精の騎士さんがいました。ロサさんも、お城にロサさんを大事に思っている従僕の方達がいるようですしね。アルテアさんにだって、恋人さんやお友達がいるでしょうし、そして、私には何よりもまずディノがいます!」

「ご主人様!!」



実はその後、ネアがこの時の会話を感慨深く振り返るような出来事があった。

ラエタの事件で不在にしていたことをヨシュアが詫びなかったせいで、腹を立てた飛蝗のハムハムが、雲の魔物のお城から家出をする事件が勃発したのだ。

ハムハムが精巧な身代わりの人形を置いていた結果、ヨシュアはそれが身代わりだと気付かずに三か月もあれこれ話しかけていたらしい。


失踪に気付き、たいへん取り乱したヨシュアに青い飛蝗を見かけなかったかと押しかけられ、ネアはあらためて会話の大事さを思い知った次第であった。

なお、幸いにもハムハムは無事に発見され、ヨシュアの友人である霧雨の妖精のご両親のお城に居候していたことが判明したようだ。

怪我もなく、無事の再会に泣き崩れたヨシュアにほだされ、雲のお城に戻ってきてくれたらしい。



ネアは、精巧な身代わり人形を作れる飛蝗とはどんな飛蝗なのだろうと、深い謎に包まれている。

とは言え、飛蝗をペットにする魔物ということは愛くるしい選定にはなるものの、やはり飛蝗は昆虫の類には違いないので、お会いする機会はないことを祈った。







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