オズヴァルト
「庭の水仙が綺麗に咲いてますよ、オズ」
そう微笑んだ婚約者に、オズヴァルトは穏やかに微笑みを返した。
淡い桜色の髪に澄んだ水色の瞳をしたアリステルは、花の精の守護を受けた清廉の乙女だ。
迷い子としてガーウィンの教会に保護されて育った彼女は、本来であれば三百年前のヴェルリアの港町に住む貴族の娘であった。
妖精のかけた罠に落ち、こうしてこの時代のヴェルクレアにやって来たのである。
「アリス様、ほらこっちのクッキーも美味しいですよ」
「ふふ、キンシー、もう食べられないわ。あなたが沢山食べさせるのだもの」
「アリス様には何でも食べさせて差し上げたいんです。オズヴァルト様ときたら、まったくそのようなものに興味がなくて、美味しいお菓子の一つすら知らないのですから」
「オズは忙しい王子様ですもの。それに、寝る間も惜しんで政務をこなしているわ」
「仕事馬鹿ですからねぇ」
「キンシー!」
「ロギリオスは黙っていて下さいな」
賑やかになった部屋を見回し、オズヴァルトは微笑む。
がらんどうの胸を隠して、幸福というものを得る為に正しくあろうと生きてきた日々だった。
敬虔な鹿角の聖女の信者でもある母に言い含められ、穏やかで叡智厚き有力者達に大事にされてきたと思う。
(…………私程に恵まれた王子はいないだろう)
兄である第一王子の持つ権力は頑強だが、それは苛烈で残忍な血塗られた道の上にある強さだ。
穏やかに強く救いを求め、その道の先の王座を望む第三王子派には、裏切りや化かし合いなどは存在しない。
より優しく、より正しく清らかな世界を。
願うのは、ただその一つだけであるのだと。
「いつもいつも正しい王子だね、君は。その清らかさは、いつか毒になるんじゃないのかなぁ。自分の持つ毒で、自分を殺さないようにね」
そう言ったのは、ジュリアンの連れていたネイという名前の魔術師だ。
眼差しを鋭くしたロギリオスを手で制し、オズヴァルトは淡い苦笑を浮かべる。
「かもしれないが、そうならないように自身を律するつもりだ。私は、私の弱さも無力さも良く知っている」
ほんとうに。
それは多分、絶望的なまでに。
「見て、オズ。ほら、馬達の冬の支度をしているわ。暖かく藁を敷き詰めてこんなに贅沢に。……北の方の山間部には、こんなに柔らかな寝床を知らない、可哀想な子供達がたくさんいるそうよ」
隣を歩くアリステルが、そう呟いて悲しげに微笑む。
小鳥の羽が折れても泣いてしまう彼女は、柔らかな春の日差しのような少女だった。
「これは軍用馬でもあるからな。有事の為に備えをしておかないといけないのだろう」
「だとしても、中央は豊か過ぎるとは思わない?今もお腹を空かせて泣いている子供達がいるのに、今朝も朝食は溢れるばかりなの。あの少しでも、子供達に届けられないかしら」
出会った時、なんと美しい少女だろうかと思ったのだ。
可憐だが芯が強く、ひたむきで、望む事の為に努力を惜しまない頑固さもある。
周囲を笑わせる明るさと、のんびりとした物言いからは想像のつかない舌鋒の鋭さを見せる、名家の貴族の娘らしい涼やかな強さも。
でも、最近のオズヴァルトはふと、今も自分は彼女を愛しているのだろうかと考えてしまうのだ。
(勿論、愛してはいる………)
擦れ違いや口論もあり、ぶつかりながらも結んだ絆は確かなものだし、彼女の魅力が損なわれた訳でもない。
ただ、きっと彼女ならば世界を変えてくれるのだろうと考えた、オズヴァルト自身の見積もりが甘かったのだ。
(…………私はやはり、誰も愛せないのだろうか)
その諦観を噛み締めて、美しいからこそ恐ろしい世界を見上げた。
王宮の庭は常に魔術を施し、四季折々の花に加えて、景観を保つ為に他の季節から維持されている様々な花々が咲き乱れている。
アリステルは美しいからこそ自然の摂理を外れたものは悲しいと言い、オズヴァルトはそうだねと言いながらまるで何も感じていなかった。
そんなオズヴァルトを、アリステルはいつも可哀想にと言う。
(美しいからいいではないかと、そう思ってはいけないのだろうか)
「豊かなことは、君にとって罪なのかな」
「いいえ、豊かさは大事なことよ。豊かでなければ育たないものも多いもの。でも、どんな時だって思いやりの心を忘れてしまえば、国だって枯れてしまうわ」
「あの厩舎の藁の山のように?」
「国の備えは重要だけれど、軍備を整えるよりも、まずは争いを起こさないことが大事だと思うの」
「そうだね」
王というものは、希望をしてなるという役目ではない。
数少ない候補者の中から、より良い者がその役目を拝し、どんな非情な手をもっても、国という雑多の塊である卵を守り抜く必要がある。
正しいとか、正しくないかでは答えの出ない天秤を持つのが、王というものの役目なのだ。
(軍備を備えるのは、国としての役目だ。周辺諸国世界の全てが好意的ならいざ知らず、最低限の役目として国は、想定されるべき全ての災厄に応じられるだけの準備をする義務がある)
国境の線引きの向こう側は、もう見知らぬあちら側である。
国と国との友好は、その前提を現実的に理解してから始めるものだ。
どちらかが理想を過ぎたり、どちらかが愚かであればあっという間に壊れてしまう。
(だから、正論を通したいのであれば、その為の力を持たねばならない……)
それは即ち、国家というものの在り方を問うのであれば、アリステルには国というものを支えて動かすだけの才覚がなければ机上の空論であるという事だ。
(私は、狡い男だな………)
アリステルと出会う前のオズヴァルトなら。
或いは、彼女と出会ったばかりの頃のオズヴァルトなら、こんな事をまだ考え始めてはいなかった。
だからこそ全てに優しく清廉なアリステルに惹かれたし、彼女の強さに同じ道を進もうと考えていた。
しかし、考えれば考える程、オズヴァルトはやはり王族なのだ。
陽を翳らせる枝葉は剪定するし、害のある虫は駆除せねばならない。
害虫の駆除をする時には、その虫も生きる為には餌が必要なのだろうかとか、本当はそんな酷いことをしたくない筈だと考えることは、残念ながらオズヴァルトは一度もなかった。
「どうして君は、いつも世界を救おうとするのだろう?」
淡く微笑んで尋ねたオズヴァルトに、アリステルは微笑みを返してオズヴァルトの手を握る。
「オズ、私はね、自分の心に正直でありたいの」
「そうか。それでは仕方ないね」
「出た。オズのお決まりの台詞」
くすくすと笑うアリステルに、果たしてそうなのだろうかと自問する。
こうしていつも困難なことに立ち向かってしまうアリステルに、それでは仕方ないねと苦笑して手を貸してやるのが、今迄のオズヴァルトであった。
しかし、今回自分が口にしたその言葉は、いつもとはなぜか違う響きであった気がする。
(いや、まさかそんな)
そんな筈はないと、自分にしっかりと言い聞かせた。
それでもいいのだと言う誰かがいない以上、オズヴァルトはその迷いを受け入れる事は出来なかった。
(ヴェンツェル兄上には、ドリーや、エーダリア兄上がいる)
あれは、いつのイブメリアだったことか。
エーダリアの母親が殺され、オズヴァルトも幼いなりにその異様な王宮の空気を感じ取った日があった。
子供には分かるまいと囁かれる言葉で、第二妃を殺したのは正妃の手の者に違いないという噂を知る。
母からも恐ろしいことだと涙混じりに抱き締められ、もし公の場でエーダリアに会ったら気遣ってやるようにと言われた。
『葬儀は今日だったか。参列出来なくてすまなかったな』
夜の庭園で、そうエーダリアに声をかけているヴェンツェルを見たのは、その数日後のことだった。
ヴェンツェルは花束を贈ったがそれ以上のことはしなかったと聞いており、それは恐らく正妃の意向と、第一王子派の決定なのだろう。
そして、そんな風に冷遇されても、その血筋を外に出さない為にだけ娶られた旧ウィームの最後の姫の死はその程度のものだった。
『いえ、兄上はそれで良いのです。我々はそうするしかなく、ここはそういうところですから』
そう返して一礼し、庭園を出て行ったエーダリアの言葉に、ヴェンツェルはなぜか暫くその場に立ち尽くしていた。
あの時には分からなかったその感慨を、今のオズヴァルトなら理解する事が出来るだろう。
(それで良いのだと、そう感じて、或いはそうするしかなくても良いのだと、それを理解されることは私達にとっては救いなのだ)
だからこそ王子達は皆、仕える相手に絶対の忠義を誓う代理妖精を使う。
契約の竜や契約の魔物に精霊と、その手の者達を近くに置くのは、彼らが多くを受け入れるからだろう。
人外者らしい達観や冷酷さで、彼らは仕える主人の行いや思考を肯定する。
単純に執務代行だけであれば人間でも事足りるそれに、人外者達を使う真意は、きっとそのほんの僅かな同意が為政者達の救いになるからに違いない。
だから、ヴェンツェルがエーダリアを庇護し始めた時、オズヴァルトは少しの羨望を覚えた。
あの他者を寄せ付けないようなヴェンツェルが、エーダリアの言葉の何かに救われたのだとすれば、そのような形の見えない何かを探していたオズヴァルトにとってのそれは、一体いつ訪れるのか。
(人外者の忠義ではなく、それでいてこちらを思ってくれるような対等な誰かを、心から大切に思えることは私にはあるのだろうか)
どぉんと、耳の奥でこだまするのは、戦場の地響き。
ばらばらっと落ちる土塊には誰かの欠片がまざり、頭上には竜や精霊達が飛び交う。
死の囁きの詠唱と、撃ち返される魔術の煌めき。
それは、なぜか恐ろしいのに美しい光景でもあった。
遠く近く弾ける魔術の火や煌めきは宝石のような色をしていて、オズヴァルトは子供の頃から攻撃魔術の光が好きだった事を思い出す。
誰かの悲鳴や嘆き、怒号に、ものの壊れる音。
(ああ、…………死んでゆく)
戦場の中では貴賎なく平等という訳もなく、やはりそこには格差がありその中でもがき死んでゆく。
しかし、死というものの容赦のなさに掻き立てられる心の動きは、オズヴァルトが初めて触れる平等なものだった。
「どうしてなの?!どうして、こんなことを!みんな、立ち止まって私の言葉を聞いて!!あなた達が殺し合う必要なんてないのに!!!」
(いや、殺し合う必要はあるのだ。なぜならば、そうせざるを得ない、選択の分岐を間違えた誰かがいるのだから)
誰かが間違えて、誰かが選んだ。
その結果世界は転がってゆき、少なくとも今回は、オズヴァルトの祖国にとっては血塗られた大地の上の安寧に繋がる。
「オズ、………第一王子様はいつ来るの?!カルウィとの行路交渉が長引いているなら、せめて大使達だけでも………」
こちらを見て叫んだアリステルの瞳に、凍えるような絶望がひたりと落ちた。
「…………オズ?」
その微笑みを浮かべることに仕損じた表情が、泣き笑いの眼差しが今でも、浅い眠りの中で悪夢のように蘇る。
それでもアリステルは、駆け寄ってきてから音の魔術の壁を立ち上げた。
この会話は、決して外に出してはいけないものだとわかっていたのだ。
「誰も、………来ないの?…………最初から、そう決まっていたの?…………オズ!!」
悲鳴のような声。
駆け寄ってきて腕を掴んで揺さぶられ、オズヴァルトはなすがままにされる。
戸惑いながらも制止しようとするものの魔術の壁に阻まれるロギリオスと、何かを察したのか刃のような憎しみの眼差しをこちらに向けていたアリステルの契約の魔物。
「どうして!……一緒に、この国を変えようと話したじゃない!!どうして?!………迷ったなら、誰かに砕かれたのなら、どうして私に話してくれなかったの?!」
しかし、オズヴァルトは迷わなかった。
目の前で彼女がそうこちらを見上げても、やはり心は迷ってはくれず、暗い諦観に満ちていた。
「…………アリス、こうなってしまってはもはや手遅れだ。どうか私と一緒にここを出てくれ。君を愛する者達は多い。彼らの為にも」
そう口にしたオズヴァルトに、アリステルの泣き顔が歪んだ。
「………オズ?」
「すまない、私が無力だったのだ」
轟音の中、魔術の光が弾ける。
人ならざる者達の羽ばたきに、剣戟の音。
どぉんと、また地面が揺れる。
「………私は、ここから立ち去りません。ここで、私を信じてくれた人々が死んでいっているのに、私がどうしてここを立ち去れると言うの?」
もしここから立ち去れば、彼女は二度と自身の理想を声高に語れないだろう。
国としてはそれでも構わないのだ。
けれどもオズヴァルトは、目の前の婚約者がそうしないことを分かっていた。
彼女はいつも、自分の心に素直なだけ。
オズヴァルトがいつも隣で見てきた、その清廉さのそのままに。
それなのに、彼女の選ぶ道が分かっていても、それでもオズヴァルトはこちらを選んでしまったのだ。
「オズ、………私は行くわ」
アリステルはもう一度だけオズヴァルトを揺さぶり、その胸に頭を押し付けて啜り泣いた。
そして涙を拭い、顔を上げて背を向けると待っていた仲間達に微笑みかける。
「………私は、証明してみせる。あなたと一緒に語った本当に豊かな国が、確かに作れることを。人々の心の中にある本当の優しさや、この世界の美しさを。………そして、………オズ、世界が変えられるということを諦めてしまった可哀想なあなたの為に、変えられるものがあるのだと証明してみせる」
それが、オズヴァルトが婚約者と交わした最後の会話になった。
「………変えられないこともある」
オズヴァルトの呟きは、戦場の風にさらわれた。
「……或いは、どれだけ醜くとも変えてはならないことも」
彼女にはもう届かないだろう。
戦場を、ずっと遠くまで行ってしまった。
「オズヴァルト様、失礼いたします!」
そして、さすがの代理妖精の動きは、迅速であった。
ロギリオスはすぐさま状況を理解し、力なく立ち尽くしていたオズヴァルトをあの細腕で抱え上げると、慌てて国王軍の近くまで避難させた。
ロギリオス以下、その部下の騎士達の指示の下、オズヴァルトの護衛以下騎士団は撤退を始める。
途中オズヴァルトは、とある部隊と数名の騎士の個別行動を許可した。
王子の婚約者の救出に向かうという彼等を行かせたのは、実質アリステルと共に行きたい者達には離反を許した形になる。
それは突き放したのではなく、そんな風に望むものがある者達であれば、それと共にあるべきだと考えたのだ。
やっと一息吐いた時には、戦場は言いようもない絶望感に包まれていた。
オズヴァルトは、脱出の際に魔術の火で火傷を負った腕の治癒をしてくれたことに礼を言い、更には全ての脱出指揮を取ってくれたロギリオスを労う。
「ロギリオス、後はもうこちらに残った騎士達を見てきてやってくれ」
「オズヴァルト様、私はお側に」
「いや、………そうだな、……すまない。一人でこの戦場を見ておきたいのだ」
そう呟けば、ロギリオスは口惜しそうに目を伏せる。
「…………オズヴァルト様、申し訳ありません。御身の脱出を最優先しました。我々には、自らの意思で最前線に向かったアリステル様方を止めることは出来ませんでしたから」
「………ああ。分かっている。……私も、止められなかったのだ」
ロギリオスの言葉は尤もだった。
彼は自分の主人がこうなるのだと知った上で今朝この場を訪れたことを知らないが、知らないからこそ、オズヴァルトが我に返ってアリステルを追いかけてしまう前にと、彼も彼なりに策略を巡らせ、オズヴァルトを戦場から連れ出したという負い目を感じているらしい。
彼は、契約の魔物には逆らえないので仕方なくオズヴァルトだけを連れ出したと口にした。
(私が、アリステルを追いかけて前線に出るつもりはなかったのだとは、知らないのだ)
安全な距離を保つ第一王子派の部隊と国王軍の一団の中の結界の一つに、オズヴァルト達は速やかに迎え入れられた。
オズヴァルト達の部隊は戦況の混乱に止むを得ず撤退となってはいるが、実際には仲裁に残ったアリステルとその守護を司る者達を見捨てたに等しい。
交渉の約束を反故にした大国に一矢報いようとしている一部族と、彼等と手を取り合うのだとばかり思っていたのに突然開戦されて混乱しながらも交戦する国境兵達との調停に加わるという事は、侵略者の側の意見も汲むという意思表示になる。
狡猾にも、ヴェルクレアはあくまでも受け身となった。
約束の場に現れず、少し離れた位置に大軍を配しただけ。
それなのに激昂して攻めかかってきた隣人は、もう侵略者以外の何ものでもないのである。
侵略者は討つのが必至。
討たねば、反意ありとして罰せられるのが、役職ある者達の責務だ。
だからこそ、兵士達は絶望しながらも戦い始めるし、元より騙され殲滅されるのだと信じ込んだ侵略者達も決して引くまい。
(とは言え、彼等には勝ち目はない。………だとすれば、彼等を救おうとしたアリステル達もまた、この国では行き場を失くすだろう)
「後半刻もしない内に、火竜達が鎮圧に向かうでしょう。あなたは下がられては如何ですか?」
そう声をかけてきたのは、ヴェンツェルの代理妖精のヒルドだ。
微笑んではいるが、今回の作戦の事実を知る者としてその目は冷ややかだ。
一見して、突然敵意を剥き出しにした異国の民達に辟易としているようだが、彼はこの戦場でどうやって国の棘を処理するべきかを考えているに違いない。
「いや、………大丈夫だ」
「ご安心を。クレア様がお側におられます。伯爵位の魔物の守護があれば、アリステル様はご無事ですよ」
「…………ああ」
(…………彼女に会うことは、もう二度とあるまい)
交渉に応じることは出来ないと決定を翻した大使達の連絡を受けた時から、オズヴァルトには一つの筋書きが見えていた。
(国王軍のこの位置。………そして、この状況下でも進軍を開始しないこと………)
それは僅かな時間であったが、王族であるオズヴァルトには、制圧に向かうのであれば先程までこそだと分かっていた。
それなのに、全ての部隊は立ち止まり決して前へと足を踏み出さない。
まるで、この先に決して進んではいけない理由があるかのように。
(だから、今朝方、このヒルドから会談が叶わないかも知れないという連絡が入り、そして国王軍があの位置で立ち止まった瞬間に、私は今回の計画の意図することが分かった)
軍施設における結界には、遠見の魔術の窓があることが多い。
それはこのような移動型の司令部でもそうで、見聞の系譜である下位妖精達の力だ。
その窓越しに、オズヴァルトは戦場を行くアリステルを見ていた。
多分、あと数分もしない内に国の上層部がしかけた筋書き通りになる。
隣にいるヒルドが見せまいとしているもの。
そして、本当はオズヴァルトが最初から分かっていたことが、始まろうとしている。
「…………あ、」
溢れたのは、そんな情けない小さな声だった。
遠くでぎらりと光ったのは、別離の呪いを組み上げた水と制圧の侵食を織り上げて鍛えた剣の煌めき。
いつだったか、アリステルに教えられオズヴァルトも見せて貰ったことのある、あの部族の長の持つ精霊の剣だ。
その切っ先を向けられ、青ざめる婚約者の姿が見える。
彼女を守ろうとする人外の信奉者達と、駆けつけ守らんとする騎士達。
そして、周囲をすっかり取り囲まれてしまったことに気付き、空を見上げた契約の魔物。
青い、青い空の日だった。
オズヴァルトの目の前で、アリステルの華奢な胸を貫いたのは、その隣にいた契約の魔物の腕。
彼女を愛し、彼女と姉妹のように寄り添っていた睡蓮の魔物の右手だった。
血飛沫のその血臭がここまで届くような気がして、目を瞠ったオズヴァルトの視線の先で、睡蓮の魔物クレアは大事な契約者に最後の言葉を呟いたようだ。
その胸を貫いた手でアリステルを抱き締め、自由な方の片手で、己の喉を切り裂いた。
(分かっていたんだ)
もう逃げ場がないのなら。
それでも愛する者が逃げようとせず、むざむざと殺されるのなら。
契約の魔物はきっと、自らの手で契約者を殺すだろう。
それは、この計画を敷いた者達には想定の出来たことだった。
勿論、そんな計画があることを知らされていなかったオズヴァルト自身にも。
「………アリス」
春風の中で、微笑み歌う彼女の姿が見える。
あなたは可哀想な人だと呟き、頬に触れる唇の温度。
(……………愛したかったんだ)
愛していた。
やっと愛するものを見付けた筈で、愛していた筈で、愛し続けたかった。
けれども、この国の為にどうか折れてくれと懇願したあの夜、彼女にそれは出来ないと言われた時、オズヴァルトは彼女を諦めることが出来てしまった。
あの晩、顔を覆って啜り泣いたのは、自分は何と哀れな人間だろうかと思ったからだ。
一人の人間を愛することも出来ず、国という曖昧なものの安寧を優先させることが出来てしまったことが、情けなくて堪らなかった。
そして、一帯は高位の魔物の崩壊に飲み込まれ、真っ白な光に包まれた。
「泣いているの?オズ?」
浅い眠りから覚めると、柔らかな目をした美しい妖精が隣に寝そべっていた。
その美しさに未だに慣れず呆然としかけ、そんな愚かな人間を彼女は笑う。
「馬鹿なひと。……可哀想に。こんな風に泣いてしまって」
「…………涙は流れてない」
「でも、あなたは泣いていたわ。好きなだけ泣きなさい。あなたが、切り捨てることの出来た過去の女のことなど、せめてそのくらいには思ってやればいいのだわ」
「……お、怒ってるな?」
「あら、私が怒っているように見えて?」
「い、痛い痛い!!」
何とも凄艶に微笑みながら、ルイザはオズヴァルトの体の上に飛び乗った。
わざと体が強く当たるようにして飛び乗られたので悲鳴を上げたが、ふわりと広がった美しい妖精の羽に目が釘付けになる。
この妖精に出会った夜、オズヴァルトは彼女の家族を拉致した疑いで殺されかけていた。
自分を殺そうとする美しい生き物を見上げ、生まれて初めて自身の欲求とは別に、その相手の欲求を叶えるためだけに殉じたいと願った。
愛するか愛せるかではなく、心を捧げ屈服するしかない美しいものに初めて出会ったのだ。
『ごめんなさい!ヨシュアが、弟をあなたに預けたなんて知らなかったの!……私はてっきり、あなたが珍しい生き物だからと攫ったのだとばかり……』
『……………パンの魔物は珍しくない』
『……………あら、確かにそうね』
そもそも、目の前の麗人は妖精にしか見えないのに、パンの魔物が弟とはどういうことなのだろう。
オズヴァルトは、とある草原の町でペットのハムハムが家出をしたと取り乱していたヨシュアに偶然再会し、このパンの魔物を預けられたのだった。
勿論断ろうとしたのだが、ふと、ネアが話していたおかしな生き物との縁を思い出し、もしや自分の運命の相手がこのパンの魔物だったらどうするのだと考え直し、三日間預かることを了承した。
勿論、よく分からない四角い生き物との縁は深まらず、家族旅行から帰ってきたら弟が行方不明だったと乗り込んできた美しい妖精に殺されかける羽目にまでなってしまう。
「………君がここにいる」
思わずそう呟いて触れれば、ルイザは艶やかに深く深く微笑んだ。
「そうよ。私は人間なんて脆くて大嫌いなのに、あなたを愛してしまうなんて。だからあなたはここにいるし、もう二度と逃げられないから覚悟してね」
「…………ああ」
傷付けたお詫びにと家族の食事に招かれ、慣れない妖精の酒で酩酊したオズヴァルトは、彼女の家族の目の前で彼女に求婚したのだそうだ。
やっと心が動く相手に巡り会えたのだから、絶対に失いたくないのだと、駄目なら殺してくれと懇願したというのだから、恥ずかしいにも程がある。
けれどその時、オズヴァルトが願うことを諦めたくないのだと口にした瞬間に、ルイザはこの矮小な人間を試してみることにしたのだとか。
「…………あの時、あの影絵の呪いに落とされたから、君に会えた」
「あなたはいつも、そのことばかり。今度ヨシュアを褒めたら、首を絞めるわよ!」
「はは。………うん。誰も君には敵わないよ」
オズヴァルトが口にした言葉は、ルイザにとっても、長い時間を生きながら伴侶を探し続ける自分を励ます言葉であったらしい。
オズヴァルト自身も心を動かされた言葉だが、そんな一言が繋いだ縁でもある。
(あの影絵の中でのことは、私はこれからも、何度も思い出すだろう……)
人間はあそこまでとんでもないことに巻き込まれると、心が柔らかくならざるを得なくなるらしい。
ネアだけではなく、あの日以降目にすることも叶わなかったロサという高位の魔物も、オズヴァルトの心を解くような言葉をくれたのだ。
(きっとあの方は、そんなつもりは毛頭なかったろうに………)
ただ、人間の戯言に返事をした。
それだけだったろうに。
「オズ?」
「…………白薔薇の魔物のことを考えていた」
「…………前から思っていたのだけど、あなた、そっちの趣味はないでしょうね?」
「な、ない!!断じてないぞ?!あの方は、素晴らしい方だったと…」
「怪しいわ」
「ルイザ?!」
余談だが、ロギリオスは、オズヴァルトが恋人を紹介すると、主人を他の妖精には渡さないと怒り狂った。
清廉な騎士らしからぬ狂態にオズヴァルトは愕然としたし、ルイザも契約の妖精がいることに激昂した。
そうなることを見越したらしいルイザの兄が同行してくれていなければ、二人は間違いなく殺し合いになっただろう。
(………そろそろ、ロギリオスにも会いに行ってやらないと、拗ねるな)
そんなことを考えながら、溢れた唇の端の微笑みを指でなぞった。
今日の空は青く、どこまでも青いが、オズヴァルトは満ち足りた気持ちで伴侶の肩に顔を埋めた。
愛することが出来るということの幸福に溺れ、やっと明るく単純になった世界は、やはりとても美しかった。