186. 足りなくなりました(本編)
水底を漂うような、深い深い青の中を彷徨っている。
揺らめく色彩の美しさに息を呑み、その悲しさに胸が締め付けられる。
青の向こう側に誰かがいるような気がして、ネアは手を伸ばして触れてあげたくなった。
その背中は背筋をしゃんと伸ばしているようで、途方もなく孤独に思えたのだ。
(…………ウィリアム、さん?)
暗い暗いお城は、影まで青く終わりの色をしている。
そこに居る誰かはとても一人で、冷めていて、少し壊れている。
(………今はまだ)
よく分からないまま、そう思った。
今はまだ経験も足りず、諦めや楽しみ方も分からない。
もう少しすればまた落ち着くのだろうが、今はまだ。
“だから、私は今のあなたは嫌い”
夢の中でそう呟けば、誰かが悲しげに微笑んだ気がした。
しかしその誰かの手を取れば、ネアは自分の手で積み上げたものを全て失ってしまう。
“今のあなたとは、一緒に砂漠を見には行けない”
夢の中でそう呟いて、理解した。
誰にだって、出会うべきタイミングがある。
記憶を失ったディノとは同じものが作り直せなかったように、それはきっとその他の人でもそうなのかも知れない。
“…………困ったな。じゃあ、このまま閉じ込めてしまうか”
そう微笑んだのは誰だろう。
とても悲しげだったが、ネアはもう手を伸ばしたいとは思わなかった。
「…………おい、前髪を掴むな」
「……………むぐ」
そして、そこで目が覚めた。
「目の前にアルテアさんがいます。……それと、なぜにお布団の中なのでしょう?」
「…………それだけ喋れるなら、まだ保つな」
「……………む?」
ふわりと額を撫でられ、ネアは体を起こそうとした。
意識が少しだけ寝起きのままに朦朧としていて、明るいので朝だと思ったからだ。
しかし、体を起こそうとして力を入れたのに、かくんと手は崩れてしまい、背中やお腹にも力が入らなかった。
「………悪さをしないで下さい」
「………強いて言うなら、お前をこうしたのはウィリアムだな」
「…………ウィリアムさんが?」
ネアは思いがけない言葉に目をぱちくりさせ、唐突にお布団ごとアルテアに抱えられてむがっとなった。
一瞬だけ本来の姿でいたアルテアが、また黒髪に淡いシャンパン色の瞳の擬態をかける。
オズヴァルトがいるからだろう。
「何をするのだ」
「目が覚めたなら、合流するぞ。二度も同じ話をするのは面倒だからな」
「………天井を見ますに、ここはまだ影絵の中なのですね?私はどれくらい眠っていたのですか?」
「まだ半日も経ってない。それと、シルハーンに連絡をしてやれ。お前しか連絡口がないからな」
「腕の筋肉がくしゃっとなるので、代筆をお願いするかもしれません………」
しょんぼりしたネアにそう言われ、人間を一人布団ごと抱え、小脇に枕も挟んだ魔物は短く頷いた。
浴室に寄るか尋ねられ、唸り声を上げて介助をお断りすると、よろよろくしゃりという感じで何とか身支度を整える。
しかし、出てくるとまた布団で簀巻きにされて運ばれてゆく。
(…………空気が重い)
上手く表現出来ないが、空気が妙に固く重たい気がする。
意識を失う直前の空気が薄いような感じや、不整脈のような苦しさはないが、感覚があちこちおかしいのは間違いなかった。
「ネア………」
そして、アルテアの手で階下に運ばれると、そこには影絵の仲間達が皆揃っていた。
もぞもぞと顔を上げると、ネアの名前を心配そうに呼んだオズヴァルトに、ロサとヨシュアは深刻そうな顔をしている。
「………事情がいまいちなのですが、ご迷惑をおかけしました」
「ウィリアムに、魂を少し削ぎ落とされたんだよ」
「…………なぬ」
ぞっとするようなことを教えてくれたヨシュアは、妙にしょんぼりとしている。
まるでご臨終ですと言われたような感じなので、ネアは無言で持ち運び担当のアルテアを見上げた。
「終焉としてのあいつに触れられた時、興味を持たれたんだろう。少し持ち帰られてるな」
「なんたる仕打ち。大迷惑です」
「ったく。お前らしい、手当たり次第感だな」
「なぜに責められるのだ。被害者を大事にして下さい」
ネアは、ウィリアムの指が触れたあの一瞬を思い出した。
確かに異様な感覚があり、白昼夢のようなものまで見ているので、普通ではない何かがあったのかもしれない。
しかし、可動域六ぽっちの人間に、自分の魂が削られたかどうかは分らなくても仕方あるまい。
「通常であれば、アルテアも来たことだし、取り返すのは簡単なのだ」
そう教えてくれるロサは、アルテアが来たこと自体は飲み込んだようだが、酷く胃が痛そうな顔をしている。
きっとこの事件から解放されたら、憂さ晴らしに飲み明かしたりしたいだろう。
「だが、ここは現実世界ではなく、影絵という特殊な領域だからな。そもそも、今は終焉がこの世界にいないんだ」
「…………む?」
「ここはな、特定期間のラエタの一部だけを切り取った影絵だ。ウィリアムがラエタにいなかった時期、この世界にはウィリアムは存在していない」
重ねて教えてくれたアルテアに、ネアはようやく意味が分かった。
ここが切り取られた欠片の世界である以上、ラエタの国の外に居るウィリアムを探しに行くことも、そんなウィリアムに連絡を取ることも出来ないのだ。
この影絵の中の登場人物は、舞台の上に現れている時以外は存在しない設定なのである。
「…………やはり、所詮影絵の中のことですので、あの場で殺しておけば良かったのですね。ウィリアムさんはウィリアムさんなので、少し情けをかけてしまいました。掃き出さなければ良かったです」
「う、嘘だ!よく分らないけど、君はウィリアムに、何だかもの凄く酷いことをしてた気がする!」
「あら、ヨシュアさんも見たあの可愛い動物さんですね?」
「み、……て、見てない。ぼくはなにもみなかった!」
「むぅ。心の病気のようになってしまいました」
ネアが何かをしでかしたらしいぞと把握し、ロサは二歩後ろに下がったようだ。
大変遺憾であるので、怖い生き物の絵を見せただけだと話しておく。
「そんなことで、終焉を?」
「ウィリアムさんは、くしゃっとなって地面に膝を突き、瞳の光が失われかけました」
「…………そして、ヨシュアも?」
「ぼくはなにもみてない…………」
「…………涙を流しているぞ………」
「ぼくは………」
重ねて現実逃避しかけたヨシュアは、もうこれ以上否定しなくてもいいよと、力強くこくりと頷いてくれたオズヴァルトにじわっと涙目になる。
ぎゅうっとくっついていったので、慰められて懐いたようだ。
ネアはお気に入りの子犬を取られたような気がして、少しだけ寂しい気持ちになる。
「………こいつの獰猛さはさて置き、………問題はウィリアムがいつ戻るかだな」
「アルテアがこちらに入ったことで、この世界はひび割れ始めている。次に終焉がラエタを訪れるまで、この影絵が維持出来るとは思えないな」
ロサは深刻そうだ。
それにはヨシュアも同意見らしく、こくりと頷いている。
ネアはここで、長椅子にお布団包みの蛹のように設置されつつ、あまり動きが取れないので内心首を傾げた。
筋肉的には首を傾げるくらいは出来そうだが、そのまま傾いて倒れそうなのである。
「取り戻さないと、私はどうなってしまうのでしょう?」
「一部が欠けていることで、不安定になったまま生きるか、或いは均衡が崩れたまま霧散するのかのどちらかだな」
「……………ほわ、それなりに深刻な感じです」
怖いことを言われて怖くなったネアは、蛹状態の自分の手を、頑張って布団の中から引き抜いてみた。
「うご、………動かせなくも、………ありませむ」
「息も絶え絶えだな」
「お喋りは普通なのに、どうして体だけがこんなに重いのでしょう?」
不思議になったネアに、それは魂のどこにどんな身体機能が紐付くかなのだと、ヨシュアが教えてくれる。
ウィリアムとは近しい階位のアルテアよりも、叱られてしまった後にべそべそとしながらウィリアムにくっついて歩いていたヨシュアの方が、ウィリアムの司るものには詳しいようだ。
「だってほら、頭がくっつくまですることないから、お喋りするんだ」
「お付き合いしてくれるウィリアムさんは、案外優しいのでは………」
「そういうとこ、よく分らないよね。僕も、寂しいからあれこれ話しかけるし……」
もしこれで、今回ネアから剥ぎ取られた魂の欠片が本体より大きかった場合、こちらのネアは喋ったりすることも出来ないような状態になるのだそうだ。
しかし今は、ごく一部を削がれただけなので身体能力に影響は出ても、会話は普通に出来ている。
ネアには目新しい知識だったが、こちらの世界での言葉は、肉体の運動能力よりも魔術的に魂の分量に紐付くようなものなのだとか。
そんなこんなで専門対策会議はネアには難し過ぎるので、ひとまず部屋の隅っこの椅子に設置して貰い、会議するアルテア達に背中を向けた格好で、もそもそとカードのお返事をすることにした。
“…………ネア?…………アルテアが届いたかい?”
“ネア、………無事かい?”
“ネア”
ネアの意識のない間に、魔物は相当怖い思いをしてしまったようだ。
普段カードは首飾りの金庫の中にあり、ネア以外の者には取り出せない。
慌ててペンをぐー握りにし、拙い文字を書いた。
“ぶじです。でも、すこし体調をくずしたので、寝てしまっていました。おへんじがおくれてごめんなさい”
文字がよれよれすることは隠しようもなく、ネアがどんなに一生懸命しゃんとしようとしても、夢の中でもがいているような、体に脳の指示が届くまでに酷く時間がかかるような感覚だった。
“…………怪我をしたのかい?”
“こっちのせかい……にいる、悪いうぃりあむさんに、たましいをちょっぴり持ち逃げされました”
“ウィリアムに………”
ディノは寧ろ言葉少なで、ネアは何だかひやりとしたので慌ててウィリアムのフォローをしておく。
“そちらの世界にいるうぃりあむさんとは、ちがいますよ?………こちらのうぃりあむさんは、私のことを知らないのです”
頑張って書きながら、若干ウィリアムは名前の文字数が多過ぎだと、ネアはむしゃくしゃした。
文字が多いと疲れるので、勝手に短縮しよう。
“…………そうだね、影絵だから。でも、君を損なったのは、ウィリアムには違いない”
“幸い、かげえの中なので、こっちのうぃりさんは殺しておききます!”
“これ以上、危ないことをしてはいけないよ。……アルテアは近くにいるかい?”
“はい”
ネアはここで、椅子から落ちないよう振り返る労力を割くことを諦め、横柄な感じでアルテアを呼び寄せ、アルテアがカードでのやり取りを代わってくれた。
“代わったぞ”
“君が入ってから、半日は経った。どれくらいなのかな?”
“ちょうどその半日だ。俺が駆けつける直前に削がれたようだな。ウィリアムは近くにいるか?”
“ああ。来させよう”
ネアは、まだ何かを話している背後が気になった。
エーダリアはオズヴァルトにこのカードの存在を知られたくないようだが、そもそもこれはドリーに教えられたものなのに、王族であるオズヴァルトは知らないのだろうか。
こうして同じ部屋で使うのは気が引けたが、毛布で簀巻きにされているので、体が嵩張ってカードは見えないだろう。
案外、それで簀巻きにされたのかも知れない。
(魂を削り取られて、元に戻すのは簡単なのだろうか。………早く返して欲しいな)
そこまで考えてから、ネアはおやっと眉を持ち上げた。
そもそも今回の事件を、そんなに大事にしなくてもいいような気がしたのだ。
「アルテアさん、少しそちらを待たせられますか?」
「食べ物だったら後にしろ」
「違いますよ!」
そう一度否定したものの、ネアはここで有事にも悪巧みを忘れない人間らしく、へにゃりとした弱々しい目をしてみせた。
「でも、アルテアさんの美味しいお料理が食べたいので、またお泊まり会で作って下さい」
そこには、あの素敵な本宅を鑑賞し、白けものか灰色けものを撫で回せるオプションも付くかもしれず、ネアはひと纏めにしてあえて強欲に強請った。
遺言めいた感じで悲しげに言えば、叶えてくれないだろうか。
「…………最後まで食い気だったな」
「むむぅ。お別れの前に素敵なお食事が食べたかったです」
「料理くらいいつでも作ってやる」
「お家……」
「………ったく、仕方ないな」
「む。落ちましたね。約束ですよ!」
「まずは、さっさと元通りになれ」
そこでネアは、アルテアに手伝って貰い、首飾りの金庫から、真鍮と銀結晶の水筒を取り出した。
背後からは何をしているのだろうという視線を感じるし、手伝ってくれたアルテアはネアが取り出したものを見て目元が引き攣っている。
「………お前、さっきの気弱さは演技だな?」
「何のことでしょう?……これでどうにかなりませんか?それとも、ウィリアムさんが、この国にいないとやはりまずいですか?」
「…………単純に考えれば、それは効果の理の一種だ。ウィリアムがお前の魂を削ったのは効果は高くても単なる魔術の一端でしかない。一般的には理の方が勝つと言われているが………。だが、賭けだな」
ネアが取り出したのは、水筒に少しのお水と一緒に入った失せ物探しの結晶である。
装飾品に使うダイヤモンドの結晶のような小さな石だが、とは言え潤滑剤代わりの水分がないとたくさん飲みこむことは出来ない。
水筒の蓋を開けて貰えば、じゃりじゃりと光っている結晶石はとても頼もしく思えた。
以前のバーレンの事件の際に、アクス商会から買い付けたものがまだたくさん残っているのだ。
加算の銀器であるスプーンは、助かることに軽いので簡単に持てそうだ。
しゃきんとスプーンを手にしたネアに、隣に座ったアルテアが重たい溜息を吐いた。
「……………上手くいかなくても落ち込むなよ?」
「ふむ。行きますね」
ネアがキリッとしたところで、心配そうな背後から声がかかった。
「何か手があるのか?」
オズヴァルトの控えめな問いかけに、ネアは、布団でもこもこに固定されているので振り向けないまま答えた。
「失せ物探しの結晶を持っていることを思い出したのです。これで一度試してみますね。………む。何をするのだ」
話している最中に、アルテアにべりっと布団を剥がれ、鳩尾の辺りに手を当てられた。
「弾けた途端に治癒をする必要があるからな」
「むむぅ。仕方がありませんね。胃のあたりへの接触を許可しましょう」
「何で許可制なんだよ」
「…………寧ろ、許可制でなければ私は色々とまずいのでは」
ロサやヨシュア、そしてオズヴァルト達がこちらに来ないのは、アルテアが何らかの牽制をしていてくれるからのようだ。
あまり手札を明かさない方がいいのだろう。
なのでネアは、囁くほどの声でスプーンにお願いをする。
「スプーンさん、効果百万倍で」
ネアの体を固定してくれているアルテアがぎょっとしたが、そのままスプーンで水ごと失せ物探しの結晶を口に入れ、じゃりじゃりっと飲み込む。
少し心配だったが、嚥下する機能にも支障はないようだ。
そして、暫く待ったが、飲み込んだ失せ物探しの結晶が弾ける様子はなかった。
それはつまり、何らかの条件が満たされておらず、効果が出ていないということなのだ。
「……………ほわ」
「………落ち込むなと言っただろうが」
「むしゃくしゃするので、こちらの影絵の中のウィリアムさんに、激辛香辛料油を振りかけたいです」
「寧ろ、振りかけられる距離にいれば、お前の欠片も取り戻せるな」
「むぐぅ」
ネアが項垂れている隙に、アルテアが振り返る。
「試してみたが、ウィリアムが近くにいないと駄目だな」
固唾を飲んで様子を見ていた背後にそう結果を報告したアルテアに、そんなぁと言ってくれたヨシュアにネアはまたいい奴じゃないか度を持ち上げる。
ロサも困ってはいるようだが、彼にとってはやはり見知らぬ人間であり、ディノへの建前上面倒を見たに過ぎない人間なのである。
こうしてヨシュアだけでなく、アルテアまで来てしまった以上、完全に他人事にしないだけ優しいのだと思おう。
「ご期待に添えず、引き続きご迷惑をおかけします……」
ネアもしょんぼりとお詫びをしたが、魔物達はいささか青ざめてそんなことはないと言ってくれた。
それぞれに怖い魔物がいるからだろう。
アルテアはその後、ディノへのカードに挑戦の経緯を報告してくれ、幾つかの提案と相談のやり取りをした後、後ろの会議に戻って行った。
カードを持ち上げられて手元でやり取りされてしまったので、ネアにはどんな会話をしたのか分らなかったが、ウィリアムも参加していたようなので、専門的なやり取りだったのかも知れない。
どうにか筆談は問題なさそうなので、ネアはそのまま椅子に設置され、返却されたカードでディノとお喋りして気を紛らわせることにした。
“取り戻せると、おもったのですが”
“心配しなくていいよ。その足場が保つ間の内に、アルテアに、ウィリアムがその町を訪れる条件を再現させよう。その時に、もう一度試してごらん”
“もしや、悪いことをするのでしょうか……”
“そこは影絵だよ。君は何も心配しなくていい”
ネアはその文字をそっと撫で、少しだけ唇の端を持ち上げる。
冷やかに他のものを切って捨てて書き連ねた文章のようで、ネアには魔物が心配そうに瞳を曇らせているのが見えるような気がしたからだ。
“わたしにとっても、みなさんのご迷惑にならず、すみやかにディノのところへ帰るのが大事なので、ディノやアルテアさんにおまかせしますね”
“…………うん。あの時、君の手を掴めていたら、こんな思いはさせずに済んだ。ごめんね、ネア”
“でもそうすると、ロサさんとおずさまが戻れなかったかもなので、これで良かったのです”
“………第三王子と、親しくなったのかな?”
“お名前の文字数が多いので、かってに切り上げました!”
ネアは勝手にオズヴァルトの名前を略してしまったが、結果魔物が荒ぶってしまったので、更に多くの文字を書く羽目になった。
ディノが教えてくれたことによると、エーダリア達は執務があり、ノアは渋々そちらに駆り出されていったそうだ。
グラストとゼノーシュは、ガーウィンから届いた貨物の中に隠れていた祟りものの討伐に出ているらしい。
こちらはかなり大きくて本来なら大惨事確定の規模だったそうだが、エーダリア達との協議の結果、領土内への被害を押さえる為にほこりが参戦するので、素敵なお食事会になってしまうに違いない。
仕事中の怪我だったのでとゼベルも大事を取って有給休暇を与えられていたが、このままでは奥さんが毎日可愛過ぎて働きたくなくなってしまうのでと嘆願を受け、今日から通常業務に戻ったのだそうだ。
“ディノは、一人でみつあみできていますか?”
“…………君がしてくれるようには、出来ないよ”
“しょんぼりしているので、帰ったら大事にしますね”
“うん………”
そんなことをしていたら、みんなは出かけて行くようだ。
アルテアと何かを話し合っていたので、ディノが話していた作戦を実行するのだろうか。
帰り道の門はヨシュアが持ち帰ったキャンバスだったらしく、既にそれを手に入れてしまったので、オズヴァルトは屋敷で割り当てられた部屋で待機していることになったらしい。
貴重な就寝時以外の一人の時間なので、少しだけほっとしているような気がした。
よく考えれば、ここで突然高位の魔物まみれにされている彼が、今回一番の苦労人なのだろう。
「アルテアさんもお出かけですか?」
「お前を一人にすると事故るからな。ヨシュアと入れ替えだ」
「ふむ。と言うことは、お料理をするお時間も…」
「ほお、食べさせてやろうか?」
「なぬ………」
そこでネアは、恐ろしいことに気付いてしまった。
洗顔だけならいざ知らず、この体のくたくた具合だと、症状が悪化すればその他の日常生活でもアルテアの手を借りる羽目になるかもしれないのだ。
大変恐ろしく、且つ、矜持をばきばきに砕かれかねないので、ネアは目をぱちぱちさせてから、布団の隙間から覗いている自分の足を眺める。
「………そしてたった今気付いたのですが、私は室内着にお着替えしています」
「ブーツを履いたまま寝たかったのか?」
「ま、まさか……………」
ネアは羞恥のあまりふるふるしたが、良く考えれば逃げ沼の時は洗浄を任せている。
もはやお母さんのようなものだと思うべきか悩んだが、そうなるとお母さん枠はヒルドがいるので複雑な家庭になってしまう。
とは言え悔しいので、ふるふるする手を頑張って使い、アルテアの腕をばしばし叩いておいた。
「おい、お前の方が弱ってるぞ」
「……………むふぅ、重労働でした」
「とりあえず、何か作ってやるが食べやすいものにするぞ。いいな?」
「ふぁい…………」
「………調理時間がどれだけ短くても、置いていくと事故るだろうな。持って行くか……」
「手荷物扱いはやめるのだ!……きっと、少しくらい歩ける筈なのです」
「やめておけ。顔面を床で強打するだけだぞ?」
「僕が見てるから、フリーコ作ってよ」
そこで、不意に割り込んだヨシュアの声に、アルテアは顔を顰めて振り返った。
なぜか、出かけて行った筈のヨシュアがそこにおり、暇なのか椅子をがたがたさせている。
「おい、仕事をしろと言った筈だぞ?」
「僕、思い出したんだ。ここに投げ込まれる前に、ウィリアムから、自分もそうだけどアルテアにも注意しろって言われてたんだった」
「それは、この時代の俺だろうが」
「でも、万が一があってこの子がいなくなると、ウィリアムにまた首を落されるからね」
「万が一……?」
ネアが何か心配事があるのかなと思って目を瞠ると、ヨシュアはなぜか得意げな顔をした。
「アルテアは悪い奴なんだ。時々、仲良くなったふりをして、人間で遊んでるからね!」
「………………まぁ。そういう魂胆だったのですか?」
「…………おい」
「むぎゃふ!なぜに頭を叩かれたのだ。病人に優しくない使い魔さんなので、ヨシュアさんはぜひお傍に……ヨシュアさん?」
「……………アルテアを、使い魔に………」
既に何度か会話に上がっていた筈の単語なのだが、ヨシュアはたった今認識したようだ。
ネアをじっと見てから顔を青くして、ふるふるしながら殺さないで下さいと呟いている。
すっかり怯えてしまったので、ネアはぎりぎりと眉を顰めた。
「解せぬ……」
「言っておくが、こいつは気に入らないことがあると泣いて暴れるから飼えないぞ?」
「アルテアさんの中で、私はいったいどんな扱いなのでしょう。人型しか持たない生き物を、お家で飼おうとは思いませんよ?」
「ほぇ。…………僕も、ペット飼ってるよ。ハムハムは元気にしてるかな………」
「まぁ、ペットがいるのですね!どんな生き物なんですか?」
「珍しい、青い飛蝗なんだ。もう六百年ぐらい飼ってる」
「…………飛蝗さん」
「おい、何でこっちを見たんだ。俺は飛蝗のことは知らないからな」
「いえ、ヨシュアさんがあまりにも愛くるしい枠を独走してゆくので、この感動を誰と分け合えばいいのかわからなくなり、ついアルテアさんを見てしまいました」
「どうせ、世話は他人任せだろうがな」
「え、飛蝗の世話って、安全な草地に放しておく以外にあるの?」
「むぅ。今回ばかりは、ヨシュアさんの意見が正論ですね………」
ネアも同意してしまったので、アルテアはすごすごと厨房に引き込んでいった。
椅子をがたがたさせ続けているヨシュアの姿に、ネアはふと、なぜハムハムという名前になったのだろうと疑問に思う。
(そして、この世界の飛蝗は長生きし過ぎでは………)
「飛蝗さんのお名前は、ヨシュアさんがつけたのですか?」
「うん。奥さんが食べちゃうといけないから、名前をつけてペットだよってことにしたんだ」
「確か、ヨシュアさんの奥さまは、ムグリスだったのですよね」
「綺麗なムグリスだったんだよ!お腹がふかふかで、触ってるだけでずっと幸せだった」
「ふふ、うちの魔物も、時々可愛いムグリスになってくれるんですよ。お腹撫でをするとこちらまで幸せな気持ちになります」
「ほぇ。………ムグリスに」
ヨシュアは高位の魔物がムグリスになることにも驚いていたが、いいなぁと呟く。
「僕も、イーザにムグリスになって貰おうかな………」
「………何となくなのですが、嫌がられるのでは……」
「ルイザでも駄目かなぁ……」
「更に叱られるような気がしますね」
そこでネアは、ぬいぐるみを持つことを推奨してみた。
寝所だけの運用となるが、ふかふかで幸せな気持ちになると知り、ヨシュアは目をきらきらさせる。
水色がお気に入りなので、水色の素敵な毛皮でムグリスのぬいぐるみを作ると大喜びし、今度は待ちきれずに椅子をがたがたさせた。
「…………それとさ、アルテアは今、あんまり強くないんだ」
「…………む?お元気そうに見えますが」
「僕とネビアが入っているだけで、この影絵はぱんぱんなのに、アルテアまで入り込んだから、結構魔術を苦労して押さえてるみたいだよ。あの調整は、僕だったら無理だなぁ……」
思いがけない事実を知り、ネアは目を瞠った。
折しも、そのタイミングでチーズリゾットを持ってきてくれたアルテアを、眉を下げて見つめてしまう。
しかし、そんな風に見つめられたアルテアは、不審そうに目を細めた。
「…………ろくでもないことだな?」
「…………アルテアさんは、ここに留まる為に、かなり無理をされているのですか?」
「ヨシュア」
「…………ふぇ。だって、またあの怖いウィリアムが来た時に、アルテアがいるから大丈夫って思ってたら、危ないじゃないか」
「そうですよ!大変なら共有していただかないと!…………待って下さいね。今、きりんさんの絵を描くので、お守りとして持っていて下さい」
「おい、やめろ。ここで描くな!」
「ぼくはなにもみてない」
「………………ほわ、ヨシュアさんが」
(もしかして、だからヨシュアさんは戻って来てくれたのかしら?)
確かにそう言われて注視していれば、アルテアは、時折頭痛を堪える人のようにふぅっと息を吐いている。
以前にディノやウィリアムのことでも聞いたことがあるが、大きな奔流のような魔術を押さえ込むことほど、大変なことはないのだそうだ。
ネアはスプーンで少しずつ、ほかほかのチーズリゾットをいただき、まさか影絵の中で食べられるとは思っていなかった素敵なお料理に舌鼓を打った。
頭にリーエンベルクのローストビーフがよぎったが、今はそれどころではない。
しかし間に合いそうにないので、やはりこちらの世界のウィリアムは殺しておくべきであった。
ヨシュアがお預けにされた犬のようにテーブルの端に顎を乗せて見ているので、アルテアが余所見をした隙に一口だけスプーンで食べさせてやる。
はぐはぐしてから、よほど美味しかったのか椅子をがったんがったんさせてはしゃいでいたので、振り返ったアルテアからは様子がおかしいと嫌がられていた。
そうこうしている内に、空が白んで来た。
もうすぐ夜が明けることになり、このラエタの国の人々は活動時間外だ。
そんな運用も死者の国に良く似ているが、この国の人間達は元々、潤沢過ぎる魔術の扱いのせいで、強い光に目が弱くなってしまっているのだそうだ。
「………アルテアさん、気を付けてお出かけして下さいね」
結局ヨシュアは出掛けなかったが、アルテアはそろそろ外に出るようだ。
今回の件については、主にネアの状態を緩和する為だけの作業となるので、ネアは申し訳なくなってふすんと項垂れる。
ましてや、ヨシュアからアルテアが色々と難しい調整をしていると聞けば尚更だ。
「お前は少し寝ておけ」
「むむぅ。起きたばかりなのです。アルテアさんが戻ってくるまでは待っていますね」
「あまりヨシュアに構うなよ?」
「…………ネア、アルテアが酷いことを言うよ!」
「本来であればアルテアさんを叱るのですが、今は負い目があるので睨むだけにしておきます」
「お前な………。それと、二階にいる王子にもあまり構うな。放っておけ」
「良く考えると、そうなると私は一人ぼっちではないですか」
「…………そう遅くはならない」
ふわりと伸ばされた手が、わしわしと頭を撫で、アルテアはふわりと姿を消した。
「すごいなぁ。アルテアがいちゃいちゃしてる……」
「と言うより、すっかり懐いてしまいましたね」
「ほぇ………懐いた…………」
魔物達が、外で何をしているのか、ネアは知らない。
それが大変なことなのか、悪いことなのかも。
でも人間という脆弱な生き物らしく、そして人間という狡賢く事なかれ主義な生き物らしく、時には目を瞑って甘えるだけのことも必要なのだろう。
(でも、復活薬のことまでは頼めなかったな………)
それはもう余分なので致し方ない。
今はただ、手に入れた門でみんなが一刻も早く帰れることを考えるべきなのだ。
そう考えて、ネアは淡く苦笑した。
もしかしたら、先にそちらを手に入れておけば、こんな心配もしなかったかも知れないのだ。
(でもまぁ、いざとなれば春告げの舞踏会の祝福もあるようだし……)
そう考えれば、最悪の状態ではないのだと思い、恵まれた環境に安堵する。
アルテア達が帰ってくるまでは、ヨシュアをつついて遊んでいよう。