183. 思いがけない経緯でした(本編)
ラエタ捜索でチーム分けが済み、ネアとヨシュアはひとまず中心地の市場に向かうことになった。
時刻は夜に向けて陽を落としてゆき、本来なら雲の魔物は少しパワーアップされる筈なのだ。
しかし、トレードマークのターバンを禁止され、それでも被り物は必須なのかフード姿となったヨシュアは既に頭が軽いと呟き弱ってしまっている。
都合のいいことにヨシュアにも三つ編みがあったので、ネアはそれをリード代わりにぐいぐい引っ張り、何だか頼りない雲の魔物を誘導した。
「ヨシュアさんは、この国を知っていましたか?」
「怖そうだったからあまり近付かなかったよ」
「怖そう………?」
「ラエタは、魔術の潤沢な土地で、世界で最初に魔術大国になったところだったんだ。狡猾な魔術師達はまだ幼かった魔物や精霊を勧誘して力を借り、死を失くそうとしたんだよ」
「強欲ですねぇ」
「うん。世界の均衡が崩れるし、あまりいい生き方ではないからって、ウィリアムもだけど、アイザックも眉を顰めてた。僕も三回ぐらい遊びに行っただけで、この国は嫌いだなって思ったし」
「それは確かに、ウィリアムさんには大問題です!」
横顔で見上げる今のヨシュアは、酷薄な魔物らしさというよりは、ターバンの禁止一つで弱ってしまう、魔物にありがちな謎の弱点への疑問を感じさせる。
「死者の国にまで入り込んで死者を連れ戻すから、この時代にウィリアムは死者の国を本格的に生者立ち入り禁止にしたんだ。………まぁ、一番荒らしてたのは魔物だったから、ついでにもう一度魔物に殺された人間達のあわいを分けたんだろうね」
「あら、前にも分けられていたのですか?」
「……んー、そうみたいだね。ウィリアムが、死者の国と魔物に殺された人間のあわいを分けたのと同じ理由だったみたい」
「魔物さん達が、死者の国で悪さをするからですね?」
「うん。前の時代には、魔物が死者の国に入る死者の薬もあったみたいだしね。……シルハーンが話してくれたんだ。先代の万象が滅びた時に、そのあわいは一度壊れたんだって。魔物に殺された人間達の魔物に紐付いた空間だったからかな?」
「謎深いですね。……そして、死者の国の規則をしっかりしたなら、もうそれでいいのでは?」
「そうしたらこの国の魔術師は、今度は、精霊達が精霊王から聞いたっていう死者の薬を再現しようとしてた。つまり、頭はいいんだろうね」
「魔術師さんとしては、天才肌な方達なのかもしれませんね。ロサさんは高慢の国だと仰っていました。みなさん、我儘なのですか?」
ネアのその質問に、雲の魔物は高慢って感じではなくてと、冷静に自分の意見を言う。
こうして喋り出せば彼はやはり、長命高位の魔物なのだ。
「ラエタは、魔術が潤沢だから魔物や精霊に愛されてた。だから、ラエタの国民達は、守護や復活薬の祝福が失われる筈がないと思ってたんだ。常に他の国よりも豊かで美しく大事にされていて、自分達の主導で世界の色々なことが動かせると考えていたみたい」
「………それは、強欲なのではないでしょうか?」
「僕は、この国の人間達は無気力だなぁと思ったよ。みんな幸せそうなふりをしているけど目が虚ろで、こんな国が本当に幸せなのかなって思ったら、何だか怖くなったんだ」
(そういえば………)
ネアはふと、ロサが今の屋敷を押さえるまでの経緯を思い出した。
何人かこの国の人間に遭遇したが、就寝時に襲われたので目がぼんやりしているのかと考えていた。
何かを強要されることの意味が理解出来ず、子供のように首を傾げてばかりいたのは、怠惰な貴族なのだろうなと思ったぐらいだったが。
「ヨシュアさんは、印象よりずっとしっかりと周囲のものを理解されている方なのですね」
「…………僕、馬鹿にされてる?」
「いいえ。高位の魔物さんの中には、意外にそういうことが分らない無垢な方も多いのです。違う種族なので仕方がないことなのですが、とは言え、ヨシュアさんがこの国を怖いと思えたのは、ヨシュアさんがこの国の人間をきちんと観察して理解されたからなのでしょう」
魔物という生き物が異種族である限り、彼等の価値観と人間の価値観は違う。
その中でも、一見豊かに見えるこの国を見渡し、果たしてそれは本当の幸福だろうかと考えたということは、それだけこの魔物が繊細で、尚且つ人間の目線でもこの国を見てくれたということなのだ。
「僕は褒められるのが好きだよ。もっと褒めるかい?」
「むぅ。理由がないと難しいですね」
「……………ほぇ、………理由」
気を良くしたらしいヨシュアは、褒められるために自分の持っている知識を披露し始めた。
何だか可愛いやつである。
「そうだ!ここはね、ウィリアムが死者の国の再編成を始めて国の形にした時に、死者の国の一の国の最初の国、無印の区になった街なんだ!」
「まぁ、そうなのですか?……………確か、四区までは酷いところだと聞いたことがあります」
「前に教えて貰ったんだけど、ここは特別かな。ラエタの王都はアルテア達……あー、選択の魔物ね。にも蹂躙されたけど、結局は死者の王の逆鱗に触れて滅ぼされた国なんだ。国ごと死者の国に落とされたから、今はもう地上には砂しか残ってないんだってさ」
「だから、一の国の、無印……?の区になったのですか?」
「その区には新しい死者は誰も入れなくて、ラエタの死者達が閉じ込められたまま今でも燃えてるって言うよ」
「…………燃えている」
「終焉の火で焼き尽くされた国だからね。でも、この国を滅ぼす時にウィリアムに協力したこの国の魔物達は、死者の国で生まれ変わって死者の国にしかいない魔物になってるみたい」
「墓犬さんや、掃除婦さんですね!」
「そう、そんなの」
その後、道端にいたアヒルに夢中になったヨシュアを放置している間に、ネアはその話について、カードで情報の補足を受けた。
ヨシュアの一件で、ウィリアムからの謝罪のメッセージが、アルテアのカード経由で届いていたのだ。
ウィリアムは大変恐縮しており、どうもヨシュアのことを白けものだと思っていたらしい。
白けものの性質と、獣への擬態が得意な白持ちの魔物というところで、ヨシュアだと断定してしまったそうだ。
“すまない、ネア。てっきり、ヨシュアがあの番犬だとばかり思ってた”
(………多分、白もふさんは現在お隣にいるのでは………)
そう考えるとたいそうシュールな光景だが、本人はこうなるともう永遠に隠したい気持ちだろう。
ウィリアムは、アルテアが言葉少ななので珍しく呆れさせてしまったなと書いているが、それは保身の為の沈黙だとネアは思う。
その場には白けものの秘密を知るヒルドとノアもおり、なかなかに罰ゲーム的な環境に違いない。
アルテアには、強く生きて貰おう。
「ネア、があがあいうよ!」
「はいはい。アヒルさんですからね。こちらのアヒルさんは、茶色で可愛いですね」
「違う色もいるの?」
「私の育った国には、白いアヒルがいました」
「白持ちのアヒルかぁ……」
「本当に見るのは初めてなのですか?とても美味しい鳥さんなので、よく食卓にも上がりません?」
「………………美味しい」
残酷な人間から可愛いアヒルが美味しいと言われてしまい、しょげたヨシュアを放置中に、アルテアのカードからネアの質問に答えてくれたウィリアムによると、ラエタの全てが無印の区に落とされた訳ではないのだそうだ。
ヨシュアの真横でのやり取りだが、この魔物は制圧済みなのでカードを隠したりはしなくていい。
“ラエタの王都の北側に、瀟洒な街があったんだ。その街の人々は世界の理を変えることを良くは思わず、薬の破棄を訴えていたらしい。白薔薇やヤドリギに相談をしたのも彼等だし、ファービットや墓犬は、その街にいた俺の系譜の魔物達が基盤になっている”
“そこは、どうなってしまったのですか?”
“薬の推進派の王族達の恨みを買い、ある朝に火の祟りものを投げ込まれて全焼した。ファービットや墓犬達の元となった魔物達もその時に死んだんだ”
“何て酷いことを…………”
“それがつまり、死を支配するという事への妄執でもあったんだろう。異を唱える者は、自国民であれ徹底的に排除した。気付いてすぐに駆けつけたが、火の勢いが強過ぎて間に合わなかった”
終焉の系譜の魔物が、そしてウィリアムに助けを求めた者達がいたその街を焼き滅ぼしたことで、ラエタはやがて終焉の魔物の報復と粛清の対象となり、同じような死に様をと、焼き尽くされることになる。
また、大きな力を得たことで高慢になったラエタの王族達は、その街を滅ぼした祟りものの購入経絡に、売り手を欲望の魔物とし、買い手を選択の魔物として演出をつけた。
これは終焉の魔物の報復を回避する為の作戦だったようだが、勿論高位の魔物達に看破出来ない筈もなく、それによって、そちらの二柱の魔物達からも、決定的に見放されたのだとか。
“死者の国で、ネアがいた区があっただろう?あそこがまさにその街なんだ。十の国の十三区、……あえて新興の国の区画に混ぜることで、あの街の景観を生かしている”
“まぁ、………あの街がそうだったのですね?”
“市場はヴェルリアを参考にしていたし、他にもあちこち切り貼りもあるが、住宅地はまさしくそうだな。そうすることで、かつてその土地に暮らしていたファービットや墓犬達も気に入ったようで、殊更に治安のいい区画だな”
“…………と言うことは、この国のどこかにあの街並みがあるのですね”
ネアはそこまでふむふむとカードを読んでいたが、突然名回答の神が頭に降臨して、ぴょんと飛び上がった。
「…………ネア?」
ぎくりとしたヨシュアと、奇行に走った人間に恐れをなしてがあがあ鳴いて逃げて行くアヒルを見ながら、ネアは満面の微笑みになる。
「…………その街です」
「その街?」
そこでネアは、ウィリアムに教えられたことをヨシュアに共有する。
「我々の出口は、入り口にあった墓犬さんと、掃除婦さんと対になるものです。そうなると花売りさんしかないのですが、…………私が死者の国で過ごしたお宅に、花売りさんだと思われる魔物さんの生まれたお部屋がありました!」
「…………花売りって、実態がないってほんとう?」
ふいに、妙に前のめりにそう尋ねられて、ネアは目を瞠った。
目をきらきらさせてこちらを見ている魔物は、灰色の髪と瞳に擬態をしていても尚、黙っていれば酷薄なぐらいの美貌を持つ男性なのだ。
「花売りさんのことを知っているのだと思っていました」
「知ってるよ。高位の魔物達はみんな、死者の国には興味深々だからね。人間はほとんど行けるのに、僕達は絶対に行けない国があるなんて不思議だよね。死者の国に行ったことのある人間や、死者の日に上がってくる死者に話を聞くんだけど、花売りだけはあまりみんな知らないんだ」
「ふむ。死者の国では、花売りさんから花を買うと、その方も花売りさんになってしまうのだそうです。なので、良くご存知の方がいないのかもしれません。………私は遠くから見ただけですが、フードを被った少女のような影姿で燻る火を抱えながら歩いており、篭も花もべったり黒かったです。近付いた方によると、焦げ臭くて、影のような体はところどころ燃えているのだとか………」
「……………怖い」
「あら、知りたがったのはヨシュアさんですよ?」
「どうしよう、今日眠れないかもしれない。一緒に…」
「却下しますので、ロサさんかオズヴァルト様に頼んで下さいね」
ヨシュアはすっかり怯えてしまったが、またすぐに今度は道端に生えている露草が気に入ったらしく気分を持ち上げたようだ。
市場へは転移で動いてもいいのだが、近くに高位の人外者がいたりすると目立つので、二人は歩いて市場に向かっている。
市場への到着時間でちょうどいい具合に日が暮れて、時間を有効活用する予定であった。
それなのに、十五分の筈の行程に倍の時間がかかっているのは、ほぼ全てヨシュアのせいだ。
「ほら、早く市場に行かないと温かく汁っぽいものは食べられませんよ?」
「そうだ。お腹が空いてたんだった」
「忘れていたのですね………。さ、行きましょう」
「うん」
二人がようやく市場に到着した頃、ラエタの国の市場は既に夜市のような不思議な灯りに包まれていた。
誰一人としてせかせか動くものはおらず、皆一様に余裕のあるゆったりした言動が特徴だ。
穏やかに談笑している者達もいたが、表面だけ均一に剪定されてしまった森のように、不自然な整然さに背筋が寒くなるような気がした。
(寧ろ、この状態でこの国を守護したのなら、闇の魔物さんを筆頭に賛成派は案外特殊な人達なのかもしれないわ……)
そう考えながら大きいお金を出そうとするヨシュアを叱り、きちんと小銭で量り売りのスープを買わせた。
押し麦の入ったトマトと鶏肉のスープで、ジャガイモがとろとろになるまで煮込まれているので、お腹に溜まって体が温まるスープだ。
ヨシュアのお世話料でネアもご馳走になり、数日間この国にいることを見越してある程度の食材も買った。
残ったらどうしようと、お財布にされたヨシュアが言うので、残った場合はお城に住む家事妖精にあげるとお料理してくれると話しておく。
「じゃあ、イーザにあげよう」
「む?…………イーザさん。家事妖精さんのお名前ですか?」
「僕の相談役だよ。でも友達だからね」
「……………それはまさか、青みがかった灰色の髪に、淡い水色で銀色の細い筋が入った羽の方ですか?」
「イーザを知ってるの?」
「いえ、トンメルの宴で、私の使い魔さんとその方の妹さんがお知り合いでしたので、少しだけお喋りしたのです」
「…………だから、イーザはあの後で妙に優しかったんだ」
「ヨシュアさん?」
「それがイーザだよ。妹の方がルイザ。ルイザは美人だったでしょう?」
「ええ。とてもお綺麗でしたし、何だか可愛らしい女性でもあって、素敵だなぁと思って見ていました」
「うん。自慢の友達だよ」
そう言える相手がいるということは、彼は幸せな魔物なのだろう。
ネアの知っている話では、こんな魔物が伴侶を失う原因となった塔の魔物を追い込んだり、ロクマリアの王子に腹を立てて商船を沈めてしまったりもする。
そしてそれを言えば、ネアには生真面目で優しい魔物に思えるロサも、アルテアには残酷だと判断され、ディノも以前変わり者なのだと話していた。
それでも根気強く見ず知らずの人間の世話をするのだから、不思議な生き物達だと思う。
「そう言えば、白薔薇さんは変わり者なのですか?今のところ、そんな感じはしませんが……」
「ネビアは、イーザ曰く部分的な潔癖症なんだ。魚と獣が嫌いで、近付けると凄いことになる」
「お魚と獣さんが苦手だとなると、何て生き難い方なのでしょう?」
「僕もそう思う………」
二人は少しお喋りしながら押し麦のスープをいただいた。
市場があるのは大きな教会の横で、ただしその教会が祀り上げているのはこの国の王なのだそうだ。
王もまた高名な魔術師であり、復活薬の開発に携わったらしい。
国内全てがそうなのかはわからないが、見える範囲のこの街中の全ては、金小麦のような色合いの石造りの建物だった。
塵一つなく掃き清められていて、街路樹や花壇の花も慎重に管理されている。
(…………作り物の街みたいだ)
この世界に来てからは、あまり縁のなかった風景にネアは眉を顰める。
かつては、このくらい作り込まれた整然とした街並みだって見慣れていたのだが、こちらに来て過ごした一年あまりで、こんな景色に居心地の悪さを感じるまでになってしまった。
あの通りも向こうの商店も、どこまでも清浄で同じ顔をしている。
人々も同じような服を好むのか、誰もが一様に小麦色の服か、赤茶色の服を着ていた。
ネアはこの市場に来てようやく、なぜロサに服装を擬態させられたのか理解する。
個性だとか好みのようなものは、ここではあまり重要ではないのかもしれない。
「聞いた?西の方の土地では、仕事をしてお金を貰うのですって」
「まぁ、何て野蛮なのかしら。国を助けるのは国民の務めですし、国民が身を粉にして尽くすからこそ、国は国民の生活を保障するのが当然でしょうに」
「驚かないで聞いて。しかも、国民が国民を雇うのだそうよ」
「考えただけで恐ろしいわ。何て不平等な国なのでしょう」
そう話し合うご婦人達の隣で、皆目理由が分からないが、他の女性達が子供を複数人も生む国があるのだと驚いている。
決まって聞こえてくるのは、恐ろしいだとか野蛮だという囁きだ。
男性達はすぐに死んでしまう他の国の人間達を愚かだとこきおろし、死などがあるから人外者達を恐れるのだと笑っていた。
死なないからこそ対等であり、生き物には受ける恩恵の差があってはならないのだそうだ。
「………とても整っているようで、あの方達は不平等です。そもそも種族も違うのであれば、違うものだからこそ美しく、他のものを持ち合うからこそ寄り添うという価値観もあるのに、全てを自分達の物差しで削いで均してしまうのですね……」
「僕、さっきスープを買った時に店主に言われたよ。髪はもう少し短いのが当然だから、そんなに伸ばしてしまって可哀想にって」
「まぁ!余計なお世話ですね」
「ネアは、みんなと同じくらいの髪型で良かったね」
「ええ。皆さん同じ髪の長さだと気付いてぞっとしました。とは言え、今だけは変に浮いてしまうような差がなくて良かったです。目をつけられたら面倒そうですものね」
「食べ物も美味しいけど、この国には辛過ぎるものや、味が濃いものはあまりないんだ。規制があって、その上限を超える食べ物は捨てられるそうだよ」
「………何という我儘な国でしょう!食べ物を粗末にするだなんて、滅びてしまうがいい」
「…………ほぇ」
今迄見て回った他の国のように、その国のあちこちを見て回りたいとは思えないところだった。
多分皆建物は同じような色をしていて、同じような服を着た人間達が住んでいるのだろう。
そう考えかけてふと、自分達が手に入れている屋敷は綺麗な檸檬色だったことを思い出した。
「………でも、貴族の方達の暮らしぶりは違うのでしょうか?」
「違うのかな?さっきの屋敷は、少しまともだったよね」
この国の持つ不思議な雰囲気のせいかもしれないが、ネアとヨシュアは何となくひそひそ声になりながら、買い物と食事を終えるとすぐにその界隈を抜けた。
幸いにも街中に国の素晴らしい成り立ちを讃える看板のようなものがあり、そこからネアの目指している街の場所がわかったので、早々にそちらに移動しようと思ったのだ。
お目当の街は、復活薬を尊ばないならず者の街と記されていた。
ヨシュアにロサにも連絡を取って貰おうとしたが、そこそこ近くに高位の魔物がいるようなので断念して、二人だけで行くことにする。
「短い転移を挟んで、少し歩いてからまた転移しよう。目晦ましにいいから」
「わかりました!」
ヨシュアの転移への同伴は、まるで幼馴染のようにぎゅっと手を繋いでくる方式だ。
ディノが見たら荒ぶりそうなので、ネアはこのことは秘密にしようと思う。
手のかかる魔物だが、なぜだかこの雲の魔物が憎めない感じに思えてきたのだ。
淡い淡い転移の暗闇を踏み、数メートル程歩いてからまた転移の薄闇をくぐる。
淡い魔術の風に髪の毛が浮き上がり、ふわりと空気が変わるのを感じた。
ふくよかな香りは絞りたての葡萄酒のもので、他にも焼きたてのパンの匂いや、花の香りもした。
転移の薄闇に眩んだ目を大きく瞠れば、そこはネアにも居心地のいい普通の街であった。
赤茶色や灰色、砂色の煉瓦で建てられた家々は、優しい緑を添える街路樹の傘を立てて、閑静な街並みを柔らかく彩っている。
草花を象ったような精緻な飾り彫刻のある街灯には橙色の魔術の火が灯り、それぞれに好きな洋服に身を包んだ人々の往来を照らしていた。
「………やっと息が吐けるような、不思議な安心感がありますね」
「うん。ここは普通の街だね」
「そして、ここです。私が死者の国で過ごしたのと、全く同じ街並みです。看板や個人宅の飾りなどは違いますし、あちらでは壁が煤けてしまっているお宅もありましたが、ほとんど変わっていません」
それは、不思議な感覚だった。
かつて、死者の国で見たこの町は静まり返っていた。
だが、こちらでは時刻はあの頃と同じような夜であるのに、生者達が日常の営みに息づいている。
そんなことが、妙に愛おしく尊く思えた。
ネア達が転移で入ったのは、とある家の外壁と街路樹の死角が上手く重なった場所だ。背後から歩いてくる人もいないし、余程奇怪な動きでもしない限りここから入れば悪目立ちはしない。
ただし、ネアには一つだけ懸念があった。
「ヨシュアさん、一見穏やかな街に見えますが、中央と意見の相違があるのであれば、街の中に部外者の姿に警戒心を持たれている方もいるかもしれません。上手く調整出来ますか?」
「興味を惹かないようにしてあるよ。それと認識は出来るけど、すれ違ったら忘れるようにもしてる」
「むむ。やっぱりヨシュアさんは、すごい魔物さんでした!」
「好きなだけ褒めていいよ」
「先程からちょっと眠そうなのが気になるので、頑張って、きりきり働いて下さいね!」
「…………ふぇ」
夜はちょっともう寝たいと駄々を捏ねるヨシュアを引き連れて、懐かしい街並みを歩いた。
いつか、グエンやウィリアムと通った歩道を歩き、ジュリアン王子に転ばされた十字路を渡る。
ふっと振り返ればもう、懐かしい墓犬の姿が見えそうな気もするが、振り返ったところにあったのは、その家の子供の遊び道具らしい車輪のついた木製のソリだった。
「………そして、この家なのですが、私が死者の国で購入した頃より、十倍増しで禍々しいですね」
微かな緊張を孕みながらようやく到達した懐かしの我が家は、みっしりと蔓草に覆われており、驚くべきことに死者の国よりもおどろおどろしいという驚異の外観になっていた。
「……………ほぇ。僕、この家に入るの?」
「魔物さんなのですから、涙目で後ずさりしてはいけませんよ!こちらのお宅に突撃訪問して、地下室を見せて貰いましょうね」
「ち、地下室!」
びゃっとなって逃げようとしたヨシュアを、ネアはぽかりと腕を叩いて自分の盾にした。
何しろこの家の地下室にはネアとて多大なトラウマがあり、二度と近付きたくないと思っていたのだ。
ちっぽけな人間が頑張るのだから、ヨシュアには百倍頑張って欲しい。
見上げた屋敷は、歩道からのアプローチで数段の階段があり、死者の国の頃にはなかった、その手すりの部分を左右から塞ぐ形で取り付けられた鉄製の優美な門がある。
門の横には可愛らしい青銅のベルがついていて、それを鳴らすと魔術で屋内にもベルの音が響くという仕掛けのようだった。
しかしなぜか、他の家の門には灯っている魔術の灯りはなく、門のところに枯れ果ててかさかさになったリースが飾られている。
リースには黒いリボンがかけられ、風雨に晒されてきたのか少しだけ色褪せていた。
「き、君の方が強いんだから、先頭になるべきだ!」
「こういうのは、年上の方が先頭だと相場は決まっているのです!」
「ふ、ふぇぇ」
「おのれ、泣き始めましたね!」
それまで静かに隠密行動をしていたのだが、ヨシュアが泣き始めてしまったので俄に騒がしくなった。
だからだろうか、人避けの魔術が薄れたのかも知れない。
「お前達、何をしているんだ?」
不意に後ろからそう声をかけられ、ネア達は小さく飛び上がった。
恐る恐る振り返れば、そこに立っていたのは、漆黒のすらりとした装いの女性だった。
髪は男性のように短いが、それに凛とした涼やかな美貌が良く似合っており、ネアは思わず惚れ惚れとしてしまう。
「…………ほわ、憧れの美人さんです」
「こういう感じが好きなんだ」
「凛としているのに優しそうで、そして案外色っぽいのが堪りません」
「……………お、お前達は、この家に何の用だ?」
思いがけずしてネアから熱い眼差しを送られてしまい、女性は僅かに目元を染めたようだ。
そして何よりもネアを大喜びさせたのは、その女性の頭に見事な漆黒の獣耳があり、ゆらりと長い素晴らしい漆黒の毛皮の尻尾が背後に見えることである。
「お、お耳が!愛くるしいです!お友達になって下さい!」
「だ、駄目だよ!なんか変なことになってるよ!」
「むぐぅ。黙り給え。人間は我儘な生き物なのです!わんこ耳!」
今度はじたばたするネアをヨシュアが押さえ、その様子を見ていた女性が、ふっと厳しく顰めていた眉を困ったような下向きの角度に変えた。
「………中央からの密偵かと思ったが、あそこにこんな言動の人間はいないな。刺々しい誰何になってすまなかった。だが、この家に何の用なのだ?この通り、家主は暫く籠ったままでな」
「このお宅の方が絵を描いていると聞き及びまして、地下室にあるという素敵な絵を見せて貰いたいのです」
ネアが即興でそう言えば、女性は更に困ったような目をする。
その、暖かく心配そうで悲しそうな眼差しは、そこにだけ明かりの灯った二階の窓を見上げる。
「そうか………。エズリが画家なのを覚えている人間がいたのは、喜ばしいことだ。………彼は、それは素晴らしい風景の絵を描く画家だったが、一人娘を馬車の事故で亡くしてからすっかり塞いでしまってな。我々はあの薬を好ましくは思ってはいないが、エズリの娘はまだ十三歳だった。反対派の議員達も一緒に頭を下げるので、中央で薬を貰って来ようと声をかけたが、エズリは復活薬廃止の運動の指揮を取っていたくらいだったからな……」
「そういうことがあったのですね。………確かに、自分が良いと思っていないものを、愛する娘さんに使うのは嫌だったのでしょう」
ネアがそう言えば、女性は短く頷いた。
「だが、その翌年に娘の死を嘆いた妻は塀の外の異国に出て行ってしまったらしい。一人残されたエズリは、全ての人付き合いを絶ち、月に一度の買い物でしか外に出なくなってしまった」
そこで言葉を一度切り、女性はネアとヨシュアを見つめた。
その黒い瞳に、どこか真摯な色がよぎる。
「………彼の絵を見たいと訪れる者があったと知れば、エズリの心も少し和らぐだろうか」
「むむ!では、いっそうにエズリさんの絵が見たいのです。また綺麗な風景の絵を描いて欲しいですね」
「…………ああ。………そうだな、私も彼の絵が好きだったから、また描いて欲しい。だからこそ、こうして街の見回りの時にはいつも、この家の前を歩いてしまう」
「街の見回りをするの?」
そう尋ねたのはヨシュアだ。
犬耳の女性が目を細めたのでネアはヨシュアの正体が分ってしまったのだろうかと不安になったが、少しだけ不審そうに眉を顰めてから、ネアになぜ彼は泣いているのだと尋ねてきた。
このお屋敷が思ったより怖い雰囲気だったので、玄関のベルを鳴らす役目を嫌がって泣いたのだと言えば、軽蔑したように軟弱者めと呟く。
とても凛々しいので、ネアはますます好感を持った。
「私が声をかけてみよう。少しでも興味を持ってくれるといいのだが」
そう言って女性が呼び鈴を鳴らしてくれたのだが、ネアはその際見事な尻尾に目が釘付けになってしまう。
そして、そんな尻尾をどこかで見たことがあるような気がした。
残念ながらエズリは顔を出してはくれず、獣耳の女性は、ネア達がどこに住んでいるのかを尋ねてきた。
そこはヨシュアが上手くぼかし、中央寄りの荘園の方なのだが、あまり居心地は良くないのだとぶつくさ言う風に伝えてくれた。
中央寄りに住まいがあるので、こちらの街の暮らしや文化に惹かれているので肩身が狭いようなニュアンスを実に巧妙に伝えてくれたことで、女性は納得してくれたようだ。
中央近くの住人であることを黙っていなかったことで、逆に信用されたのだろうかと思っていると、そもそも中央の魂を失くした人間達は、君達のように生き生きとした目をしていないからと苦笑して教えてくれる。
そして彼女から、また明日の同じ時間にここに来れるだろうかと尋ねられた。
扉の隙間からメモを差し込んでおき、明日のこの時間にお客が来るので扉を開けて欲しいと伝えてみようと言うのだ。
(よほど、この家のエズリさんを心配しているのだわ)
ネア達は勿論その提案を喜び、再会を約束してからその女性と別れて帰路についた。
収穫がなかったようで、実はそこそこに収穫があったのである。
「あの屋敷の地下に、確かに魔物の卵の気配があるね。まだ生まれる前なのかもしれないけれど、あの尻尾の魔物は気付いていないのかな」
「先程のわんこ耳さんは、魔物さんなのですね!優しそうな方で、尻尾がふさふさです」
「少し妖精の血も入っているみたいだよ。教戒の魔物の一種かな」
「きょうかい……」
「教え、戒める魔物だね。たくさんいるんだ。門番だったり、墓地だったり、廃棄場や賭け事場、牢獄や戦場にもね」
「門番や、墓地………」
そう教えてくれたヨシュアに、ネアは死者の国で頼もしい守り手だった優しい墓犬のことを思い出した。
(………きっと、あの方が)
この街が焼かれてしまい、ウィリアムがラエタの国を滅ぼすその日まで、後ひと月程しかないのだ。
微かに胸が痛んだが、もう随分遠い過去のことなのだと自分に言い聞かせた。