180. 閉ざされた国に招かれます(本編)
その日のネアは、アルビクロムの博物館前の公園で魔物のおつかいの様子を眺めていた。
今日は急ぎの出張仕事があり、この博物館の内部で仕事をしているゼベルに魔物の薬を届けるのだ。
現在、アルビクロムの博物館内では展示物の一つが祟りものになってしまい霧状の毒を吐き零している。
空気を司る加護のあるゼベルが、急遽ガレンの魔術師達の補佐で毒の調整の為に派遣されることになった。
ネア達は、ゼベルが魔術師達の呼吸を確保する仕事が終わったところで、解毒剤を届けるのが仕事だ。
(魔術師さん達は、元々毒薬のプロばかりだから解毒剤は必要ないのだとか……)
とは言え、無尽蔵に吐き出される毒の霧には、視界を遮られたり吸い込み過ぎたりと苦戦していたようだ。
現在は無事に討伐も終わり、現場の復旧作業が行われている。
毒を吐き零していた作品は、アルビクロムがまだ一つの国として認識されていた頃に作られた、黒い犬の彫刻だったのだそうだ。
とある貴婦人がその作品に近づいたところ突然異変が起こり、残念ながらその貴婦人は搬送先の病院で亡くなったという。
「ネア、チケットが買えたよ」
「では、お届け物に行きましょう。お仕事で来たのにチケットなしでは入れない、融通の利かない博物館です!」
「人間は強欲なものだね……」
「強欲仲間ですが、緊急時くらいは気を遣って欲しいですね」
気持ちがくさくさしないように、ディノに“初めて一人でチケットを買う”という任務を与え、おつかい任務をこなす魔物の姿を見て心を和ませていたご主人様は、ディノが渡してくれたチケットを大事に受け取る。
よく出来ましたと背伸びして頭を撫でてやれば、体を屈めてくれた魔物も嬉しそうに頬を緩めた。
「とても立派な建物なのですね」
「元は王宮だったようだね。統一戦争に入る直前には、ここもバリケードが築かれていたんだ」
「まぁ。ディノはその光景を見ているのですね」
「ウィリアムが随分と大きな戦争になると言っていたからね。まだ初めの頃であったし、どうなるものかなと見に行ったんだよ」
二人は、かつては物々しいバリケードが築かれていたという見事な石造りのホールを抜けて、入って正面に見える壮麗な階段を登って二階の展示室に向かう。
宮殿のような見事な造りのこの博物館は、かつてアルビクロムの王宮であった建物だ。
統一戦争を経て、アルビクロムの領主館はヴェルリア寄りに新築されたので、旧王宮の建物はその壮麗さで領内の運営資金を稼ぐための立派な博物館になっている。
三階の広間の一つは会議室にもなっており、領内外の賓客達との会談に使われることもあるのだとか。
統一戦争と言えば、ウィームに対する、ヴェルリアとその傘下に入ったガーウィンとアルビクロムの連合軍の戦いの印象が強かったが、最初の頃に落とされてしまったものの、アルビクロムも交戦のあった国だ。
つまりは、その過去に準じる程度の血生臭い事件が、この土地でもあったに違いない。
(そう考えると、この結晶石の壁も様々なものを見てきたのだろう……)
ネアは、感慨深く灰色の石壁に触れた。
更に長きを生きるディノには気にならないだろうが、人間程度のちっぽけな存在であると、その歴史の重さに圧倒されそうになる。
コツコツと響く硬い足音を聞きながら、事前に教えられていた二階の西側展示室を目指した。
「………あら」
そこでネアが拾ったのは、見事な赤い傘だ。
婦人用の美しいもので、持ち手の部分は夜の結晶石に素晴らしい彫りが入って真紅の宝石まで嵌め込まれている。
階段の踊り場に転がり落ちていたので、この落とされ方を見ていると、来場客が避難の際に落としたように見えた。
「ディノ、これは魔術道具だったりしますか?」
「そういうものではなく、普通の傘のようだね。ただ、その宝石はかなり質のいい火竜の炎の結晶石のようだ」
「となると、やはりものすごく高価なものなのでは……。落し物のようなので、この博物館の方に届けましょう」
「私が持つよ。もし何かあると困るからね」
「むぅ。ディノは過保護ですねぇ」
ネアは微笑んでそう言ったが、その配慮が杞憂などではなかったと分かるのは、ほんの少し後のことだった。
指定された部屋に二人が入ると、作業中でも比較的余裕のある魔術師達が頭を下げた。
少し離れた場所で周囲を見ていた見慣れた制服の騎士が、ぱっと笑顔になって駆け寄ってくる。
「ネア様、ディノ様、わざわざすみません」
「ゼベルさん、お体は大丈夫ですか?薬を届けに来たので、きゅっと飲んで下さいね」
「有難うございます。到着時の状況が思ったより酷いものだったので、助かりました」
「私達が到着するまでに解決しなかったら、こちらでも見てみる予定だったけれど、無事に収まったみたいだね」
ゼベルのことは気に入っているらしいディノは、手助けする準備もあったことを自ら本人に伝えている。
ゼベルは騎士達の中では唯一ディノの面倒を見ているので、魔物は少しばかり懐いたようだ。
「ええ。ただ、発生した理由は謎のままなんです。あの彫刻はもう百年近くあの場所にあったようですし、今回犠牲になった貴婦人もただの観光客でしたから」
ゼベルがそう視線で指し示すのは、規制線のような黒いリボンが張られた中に安置されている黒い犬の彫像だ。
しかし、それを見た途端、ネアは既視感に眉を顰めた。
「…………墓犬さんの彫像なのですね」
「あれは、墓犬なんですか?」
「よく似ていますが、似た姿の犬種があってもおかしくないですから、違う題材かもしれません」
「題名も、題材も不明なんですよ」
「…………不明だらけの作品なのに、随分と良い展示室にあるようですが」
「アルビクロムの最後の王が作ったものらしくて。しかし、統一戦争の後、息子に中央との交渉役を任せた後に自害されてます」
「………まぁ」
恐らく、戦争責任的な大人の事情でそうせざるを得ない理由があったのだろうと、ネアは思う。
であればその遺作とも言うべきあの彫像は、その自害したアルビクロム最後の王の怨念が込められていてもおかしくはない気がした。
「あの作品はこの後どうなるのでしょう?」
「出自が出自なだけに、破壊などは難しいですね。封印庫に送られるか、この場所で封印の結界を張られた中で展示を続けるか、……どうなるんでしょうね」
「美しいものなので、良い飾り方が見付かればいいのですが……」
そこでネアはふと、視線を魔術師達の方に向けていたディノの表情が気になった。
どこか酷薄で魔物らしい目をしており、魔術師達の中に紛れて何やら会話をしている、一人の淡い水色の髪の男性を見ているようだ。
隣にはあからさまに不審な感じでフードを被っている赤髪の男性もいるが、ディノが見ているのは水色の髪の男性の方だった。
「…………ディノ?」
「高位の魔物だ。姿を隠しているようだが、彼が人間と関わるのはとても珍しい」
「まぁ、そんな魔物さんなのですね」
「ネア、ゼベルの側にいるように。私は、彼と少し話してこよう。彼の連れも気になるからね」
そうディノが見るのは、フードの男性だ。
やはり、見た目の怪しさに釣り合うだけの存在であるらしい。
「………困ったことになりませんか?」
「問題ないよ。彼は私にとても忠実な系譜のひと柱だ。とは言え、なぜあの人間とあの場所にいるのか、少し気になるかな」
「…………むむ。……では、ゼベルさんにこの傘を渡しています」
ネアがそう言ったのは、なぜかゼベルが赤い傘を凝視していたからだ。
既に持ち主から捜索依頼が出ているのかもしれない。
「ああ。でも、ゼベルから離れないようにね」
「はい」
ネアはディノが持っていた傘を受け取り、ゼベルに落し物である旨を伝え、後で博物館の者に渡してくれるように頼んだ。
「有難うございます。赤い傘がどうとか誰かが話していて、どうも探されていたようなので、これのことかなと思いまして」
「まぁ、それなら良かったです!落とし主さんが探しているのでしょうか」
そうこうしてはいても、水色の髪の男性に歩み寄るディノが気になって仕方ない。
ゼベルも同じ気持ちなのか、ネアと同じようにそちらを見ていた。
ゼベルが受け取った傘を持ち替え、腕にかけようとしたその時、
「…………ぐっ?!」
短い苦痛の声を上げて、突然ゼベルの姿が消えた。
はっとして振り返ったネアのすぐ隣で、ゆらりと頭をもたげたのは、黒いドレス姿の兎の仮面を被った女性の彫像だ。
慌てて周囲を見回して探したゼベルは、反対側の壁添いでうずくまっている。
この彫像に投げ飛ばされたのだろうかと思い、ネアはぞっとする。
(それに、…………これってまさか、……掃除婦さん?)
「ネア!」
焦ったようなディノの声が、妙に遠くで聞こえる。
慌てて振り返って手を伸ばそうとしたその直後、ネアは周囲の変化にぎくりとした。
「…………え」
(……………暗い)
そこはまるで、濃密な闇の腹の底のよう。
その深い深い闇の底で、項垂れた一人の老人が低く声を上げて嗤う。
その首は歪に曲がっており、何ともおぞましいシルエットだ。
「私の国を焼いた、ヴェルリアの王族達。王とその仲間達がもしここに揃えば、…………あの火竜と王が揃ったその時こそ、私の呪いは成就する。………満願成就の、何と美しい夜だろう」
その怨嗟の声が明らかにこちらに向いているので、ネアは闇の中で何かを言い返そうと口を開いたが、呼吸の出来る水の中で口を開けるみたいに、ぱくぱくと動かせるだけで声を発することは出来なかった。
以前にもこんな闇を見たことがある。
そう考えて、ネアはノア宛に届いた呪いの手紙の向こう側にあったあの闇色の世界を思い出した。
であればここは、同じような履歴の場所だったりするのだろうか。
「助けはなく、救いは許さない。この闇の中では、護り手には決して出会えない。守護を引き剥がされ、無様に滅びの箱の中の国で彷徨い続けるがいい」
(…………ディノ!)
その老人がゆっくりとこちらを向くその刹那、ネアはその目を決して見てはいけないと判断してぎゅっと目を瞑る。
その直後、誰かの力強い腕が腰に回され、抱き込まれるような感覚に強張った体が緩んだ。
魔物がすぐに助けに来てくれたようだ。
そして、ふわりと転移の踏み変えが終わった直後のような、不思議な浮遊感が消えれば、そこに広がっているのは見事な麦畑であった。
「………ほわ。………ディノ、ここはどこでしょう?」
しかし、尋ねたものの答えがないのでネアが振り返ると、ネアの腰に手を回して捕獲していたのは、見知らぬ一人の男性であった。
お互いの顔をまじまじと見つめ合い、ネアは眉を顰める。
「……………なにやつ」
ぽそりとそう呟けば、その美しい男性は少し困ったような目をしてネアを見返す。
灰白に白まだらの短い髪に、淡い水色の瞳の男性だ。
「一つ聞いてもいいか?お前は、シルハーンの契約の乙女か?」
「…………その感じですと、あなたは魔物さんなのですね。はい、そうです」
その言葉に敵意や害意は見えなかったので、ネアは素直に頷いてみせた。
すると、美しいが故に冷やかな瞳が少しだけ緩むのが分った。
「シルハーンの指輪持ちの」
「ええ、こちらにあるのがディノの指輪です」
「…………間違いないな。………であれば、仕方あるまい。当面の間、お前のことは私が守ろう」
「…………なぬ。ディノは、どこに行ったのでしょう?それと、ここは何処ですか?」
見渡したのは、一面の麦畑を望む小高い丘の上だ。
真紅の実りが鮮やかな大きな林檎の木の下で、周囲には人気がない。
「影絵の中に近いが、もう少し厄介な場所だ。私達は、あの彫像に仕掛けられた精霊の呪いによって、この街に閉じ込められている。条件を満たし、閉ざされた国から出なければ、この影絵の辿った末路のままに滅びることになる」
「…………全てを理解は出来ませんが、とても困ったことになったのだと理解はしました」
ネアが素直にそう言えば、男性はどこか生真面目に頷いた。
高貴な立場の人らしい高慢さと気品に満ちた雰囲気だが、ネアのことはある程度丁重に扱ってくれそうだ。
艶やかな深青のコート風な盛装姿に真っ白なドレスシャツが美しい。
真っ直ぐな毛質の髪は襟足に僅かにかかるくらいで短いがとても華やかな感じがして、その華やかな美貌がどこか排他的に思えた。
「そして、もう一人巻き込まれた方がそこに落ちているようですが………」
ネアが指摘したのは、地面にうつ伏せに倒れている一人の男性だった。
この様子だと、まず間違いなく同じように博物館から落ちて来た仲間なのだろう。
「………ああ、あの呪いの解放の一端になった、王族だな」
「む。王族の方なのですね。となるとお知り合いの率が高そうなので、ひっくり返してお顔を見てみたいです」
「………これだが」
「ほわ、…………第三王子様です」
ネアを拘束したままの男性が靴先でぞんざいにひっくり返してくれた相手は、少し前にウィームの市場で見かけたその人だった。
あんまりな参加者に動揺しているネアの視線の先で、苦しげに眉を顰めたまま、意識を失っているようだ。
しかし、彼であればすぐに分かった筈なのだが、あの場にはいなかったような気がする。
(………となると、ああいう状況の現場だったし、擬態していたのかしら?)
「死んでいるのでしょうか?」
「…………息はあるな。落ちた衝撃で、失神したのだろう」
「良かったです!さっそく、私の上司の弟さんのお墓を作る羽目になるのかと思いました」
「………お前は、あまり動じないのだな」
「残念ながら、こうしてどこだか分からないところに落とされて危険に見舞われるのは、慣れております!」
「…………そうなのか」
男はいささか呆れた顔をした後、まずはネアを解放して自立させることにしたようだ。
どうやら捕まえてくれたのは守ろうとしてくれたからのようなので、ネアはぺこりと頭を下げてからお互いの姿がきちんと見えるくらい距離を取る。
「…………ええと、お名前を名乗るべきなのでしょうが、それはそれで問題が起こりそうなので…」
「シルハーンがお前の名前を呼んだだろう。すでに知っている」
「むぐ」
「だが、その名前で私が呼んでも、お前からはあえて教えないようにしてくれ。自身から紹介された場合、その名前の使用権限を与えられたことになる。万象の方は喜ばないだろう」
「そういうものなのですね。分かりました」
「私のことは………便宜上、ロサと」
「薔薇の魔物さんなのでしょうか?」
「…………なぜ分かった?」
ネアが何気なく返した言葉で、男性は淡い水色の瞳を見張った。
水色と表現するしかないのだが、色味の要素はほんの僅かでどこまでも透明なので、光の加減によっては灰色や銀色にも見える澄んだ瞳だ。
それ自体が光を放つような強さは、人外者らしい瞳と言っていいだろう。
「ロサという響きは、私の育った国では、薔薇を示す言葉なのです」
「………そうなのか。系譜の誰かが、我らの通り名を明かしてしまったのかも知れないな」
違う世界のことなので、まずそれはないなと思いつつ、ネアはこの流れだと間違いなく薔薇の魔物であるに違いない男性をじっと見上げる。
ふと、この男性がディノが話そうとしていた高位の魔物なのだろうかと首を傾げた。
現在は灰白に白いまだらの髪をした、あの場にはいなかった筈の美しい男性の姿をしているので、所謂白持ちなのだと思う。
「………どうした?」
「先程の博物館の時からいた方であれば、水色の髪の男性に擬態されていました?」
「ああ。それが私だ。呪いの扉が開いた段階で擬態を解いた。………どこに落とされるか分からなかったからな」
「と言うことは、フード姿な方が隣にいました?」
「彼だな」
そう指し示されたのは、地面に横たわる第三王子だ。
「となると、そちらの地面で寝ていらっしゃる第三王子様のお連れ様なのですね」
「いや、知り合いではない。ないが、最初の騒ぎがあった時に近くにいたんだ。発動の要になっているようだから、それ以上あの彫像に近付くなと話していた」
(………失神して擬態が解けたのかしら?)
ネアはまだ残る謎に内心首を捻ったが、それは彼が目を覚ましたら尋ねてみよう。
「ここが、どんな土地の影絵なのかご存知ですか?……それと、ディノに助けに来て貰えるでしょうか?」
「最初に答えさせて貰うが、シルハーンは呼べないだろう。この場所の特定が容易ではないし、特定出来たところで、あの方は万象なのだ。呪いの中に構築された影絵にあの方が下れば、この影絵の基盤そのものが破壊されかねない」
「むむぅ。それはきっととんでもないことになりそうな感じがします。……ディノは助けに来れないのですね」
「………ああ。そしてここは、ラエタの国だ。………高慢の国。魔物達に滅ぼされた、魔物に愛された国」
その言葉の持つ響きは、ひどく不穏な予兆を伴う。
ネアはロサの言葉の残響が消えるまで静かに待ち、それから一面の麦畑を眺めた。
どこまでも黄金に波打ち、牧羊的な穏やかな景色が地平線まで続いている。
太陽の角度的に今は午後だろうか。
ロサが、この国は夜が人々の活動時間なので、今は国ごと眠っているのだと教えてくれる。
(高慢の国。魔物に愛され、魔物に滅ぼされた国………)
それは一体どういう事なのか。
黄金の麦畑の向こうに、灰色の城砦が見えた。
色鮮やかな塔が何本も並び、ここからも午後の陽射しにきらきらと輝いていた。
「…………この国は、どうなってしまうのでしょう?今はただ、穏やかに見えます」
「この国を守護したのは、闇と小麦、そして林檎と白百合だ」
「……かなり豪華な感じがしますね。小麦さんは、一度ご挨拶だけしたことがあります」
「であれば、その小麦とこの時代の小麦を同じ者として考えない方がいいだろう。この時代の小麦はまだ若い魔物であった。それを言うならば、林檎と白百合もそうだが……」
ネアが不思議に思ったのは、ロサの言い方だ。
彼の言い方では、まるでこの時代に生きていた頃の小麦の魔物に遭遇しそうな口ぶりだが、ここは影絵ではなかったのだろうか。
「私が今迄覗いた影絵には、その時代の方々がいらっしゃることはありませんでした。今回のことは、過去に落とされたような感じなのですか?」
「過去のように感じるだろうが、ここは過去ではない。とある一定の時間が切り取られ影絵になり、同じ時間を何度も繰り返し続けている、歴史の澱のようなものだ」
「………と言うことは、その中に入り込めば登場人物の方々にお会いすることもあるのですね?」
「ああ。一般的にはやはり影絵と呼ばれるが、区分としては時間のあわいに近い。我々がこの影絵の中の顛末を変えることは出来ないが、不用意に巻き込まれれば命を落したり、不快な目に遭うこともある」
「…………殊更に面倒な感じがしてきました」
「ああ。非常に厄介なことになる。魔術の理において、出口のない迷路は設定出来ないが、その糸口はほんの僅かなものだろう。この土地で暮らす者達の記憶の中に滑り込み、身を潜めながら、この国から出られる扉を見付ける必要がある」
「その扉とやらの、特徴などはありますでしょうか?」
ネアの言葉にロサは考え込んだようだった。
顎に手を当てて思案する姿は、黙っていても華やかで美しい。
「…………入口と対になっている筈だ。犬と、仮面の女性だったか」
「墓犬さんと、掃除婦さんでしたね。どちらも死者の国の生き物さんです。となれば、出口は花売りさんでしょうか?」
ふむふむと頷きながらそう言ったネアに、ロサは目を瞠って顔を上げた。
どこか呆然としているようだが、なぜだろう。
「…………お前は、死者なのか?」
「む。この通り、元気に生きています!」
「だとすればなぜ、死者の国の者達を知っているんだ?」
「一度、人違いの事故で落とされたことがあるのです。幸い、ディノが迎えに来てくれました」
「………死者の国に落とされておいて、生きて帰ってきたのか」
「あら、魔術師さんの中には、死者の国に乗り込む猛者もいるそうですよ?珍しくはないでしょうに」
「あの終焉の管轄がそんなに曖昧なものか。死者の国から生きて戻る生者は、今代までにおいて片手程の数もいないだろう。ましてや、………お前の魔術可動域は、二十程度しかないようだが」
そこでネアは、ひどく暗い目になった。
ぎくりとしているロサを見上げ、怨念の籠った低い声で反論した。
「六です。間違っても、二十などという素晴らしい数字には届きません」
「………六?」
対するロサの返答も、驚きのあまり掠れて響いた。
暗い暗い顔でこくりと頷いたネアに、まるで途方に暮れたように謎にきょろきょろする。
「ど、どうして生きていられるのだ」
「むむぅ。抵抗値は底なしだと聞いています。しかし、可動域は六なのです」
「…………蜂よりも下なのか」
「蜂よりも魔術可動域は下ですが、蜂など倒せますよ!」
「いや、そんな筈はないだろう。魔術可動域が上のものには敵わないのが当たり前だ。くれぐれも、私の庇護の間に、蜂と争って死んでくれるなよ……」
「この影絵の中の蜂めを殲滅しても支障がないのであれば、全滅にする自信だってあるんですよ?」
「…………六しか魔術を動かせないでおいて、どうするつもりだ………」
(歌えばいいだけなのだ)
そう思うのだが、その場合は目の前の魔物も死んでしまうかもしれないので、ネアは少しだけ困り眉になっておいた。
すると何かを誤解したのか、可動域が低くても王の指輪持ちなのだから、決して見捨てはしないと約束してくれる。
このままではただの強がりだと誤解されたままなので、いずれ危険に見舞われたら実力を披露してぎゃふんと言わせてやろうとネアは心に誓う。
「…………まずは、昼間の内に街に入り、どこか拠点にするべき場所を決めないとだな」
「生活のお時間が夜ならば、まだ宿屋さんも開いていないのではないでしょうか?」
「ここは、閉ざされた国だ。魔物の恩恵が深かった分、外部の人間の立ち入りを制限していた。宿というものも存在しない」
「…………まぁ」
「どこかの家人を排除して、屋敷ごと手に入れるのが理想だろうな」
「…………こちらには、どれくらい滞在することになるのでしょう?」
「長くてもひと月だ。…………小麦の刈り入れの翌週に、この国は滅びた」
そう呟く声は、どこか寂し気だった。
この景色を眺める瞳は、愛情深くそして不愉快そうでもあり、その複雑さを不思議に思う。
ネアはロサの横顔を見つめ、豊かに黄金色の波のように揺れる麦畑に視線を戻した。
「こうして、美しく豊かなものが失われてしまうのは悲しいことですね。とは言え、既に過去のことのようなので気にしないことにします。ところでご提案なのですが、ある程度の期間滞在なのであれば、きっと裕福などこかの無駄遣いさんが、別荘などを持っていると思うので、そういうお屋敷を脅し取った方が気が楽ではないでしょうか?」
「…………人間というものは、そういうものだったか」
「そういうものだと思います。短くしか生きられない分、細かいことは気にしていられませんからね!個人的には、来週の水曜日の献立がローストビーフなので、それまでには帰らなければなりません!来週の土曜日にはお友達も来るのです!!」
「…………人間とは、こんなものだったろうか………」
疑問符に包まれてしまったロサは捨て置き、そうとなれば早めに素敵なお宿をゲットするのだと、ネアは地面で気を失ったままの第三王子をばしばし叩く。
途中で、叩き方が強すぎるのではと慌てたロサが、代わって起こしにかかってくれた。
ようやく目を覚まして体を起こしたオズヴァルト王子は、呆然としたように目の前に広がる麦畑を見つめていた。