妖精の粉とクリームチーズ
「では、皆には内緒で」
「はい。内緒にします」
その日ネアは、素敵な妖精の粉をむぐむぐと味わっていた。
地下室落下事件以降、時々ヒルドがこっそり食べさせてくれるようになった、特製の妖精の粉だ。
大事な隣人を食べ物として見てしまうことがないよう、ネアはその都度ヒルドから妖精の粉の祝福を無力化して貰っている。
シーの妖精の粉を食べると一瞬で自我が霧散するという噂だが、幸いにもネアは初回以降、ヒルドに襲い掛かって齧ってしまったりはしないようだ。
初回に羽齧り事件があったことは申し訳ない限りだが、その後は持ち主に不快感を与えずに済んでいる。
そして、その耐性が評価されたらしく、時々つまみ食いさせてくれるようになったのだ。
そんな優しさに甘え、ネアは時々美味しい粉にありつける。
少し秘密めいた感じで呼ばれるその瞬間はいつも、いけないつまみ食いのスリルも味わえてしまうので、ネアの中のとっておきスイーツの地位を揺るぎないものにしていた。
ヒルドもそんな風にはしゃぐネアが孫のようで可愛いのか、優しい目で幸せそうに微笑んでくれるので、ネアはこれからも甘えようと思っていた。
空気を読んで美味しいものを食べれるのだから、まさに両得というやつではないか。
そんな光景を見てしまったのが、ゼノーシュだ。
「妖精の粉って美味しいのかな………」
「むむ。私には最高の甘味に思えますが、普通はそういう反応ではないようですよね。もしかしたら、異世界要素が味覚に変換してくれているのかもしれません。素敵な偶然です!」
「僕もシーの妖精の粉を食べてみたい気がする」
ゼノーシュは大真面目にそう呟き、アクス商会ならば取扱いがあるのではと尋ねたネアに首を振った。
本来シーの妖精の粉とは大変に貴重なもので、アクス商会とは言え手に入れることは出来ないのだそうだ。
とは言えごくごく稀に流通もあるが、大抵の場合は、万が一誰かがシーの妖精の粉を手に入れても、自分で食べて自滅してしまうので流通には向かないらしい。
「あら、それならヒルドさんに頼んでみます?」
「ヒルドだと、間違って酔った時に排除出来ないから、違う妖精にしようかな」
「そうなると、見ず知らずの妖精さんなので、何だか美味しそうなものの妖精さんがいいですよね」
「お菓子や、果物の妖精とか?」
「…………秋告げの舞踏会で、葡萄のシーさんに出会いましたよ。レザートさんという妖精さんで、確かに葡萄色の美味しそうな羽の色をしていました。ただし、つぶつぶはしていません」
「葡萄色の羽………」
それはきっとジューシーで美味しいに違いないとゼノーシュは思ったようで、ほこりと連れだって葡萄のシーを狩りにゆくそうだ。
ゼノーシュ一人ではどうにもならないことも、全部食べて解決してしまうくらいにほこりは強いのだそうだ。
「………その場合、下手をするとほこりは羽ごと食べてしまうのでは?」
「シーなら、羽を元通りに出来るってヒルドから聞いたよ」
「でも可哀想なので、あの妖精さんは食べてしまわないで下さいね。つぶつぶしていない可哀想な方ですが、一応は失われたら困る妖精さんだと、アルテアさんが話していました」
「そっか。葡萄がなくなったら困るものね」
一瞬忘れかけていたが、妖精の羽はともかく、その妖精に被害が出れば葡萄にも影響が出るのだと思い出してくれ、ゼノーシュはこくりと頷いた。
いそいそと出かけてゆくクッキーモンスターに、道中のお菓子としてクッキーを献上したネアは、お部屋に戻ってお風呂上りのディノに事の次第を報告した。
ヒルドのつまみ食いは魔物が前回たいそう荒ぶったので、いただいた事後報告だけをこそっとするのだ。
二回目のつまみ食いではくしゃくしゃになって拗ねたディノだったが、現在は無事にご主人様の秘密のおやつなのだからという認識になりつつある。
ネアの中の認識のヒルドが、素敵な妖精で家族のような存在から追加で甘味指定が入ったことに、なぜだか魔物は共存の道を見出したらしい。
とは言え、美味しい内はいいのだが、もしヒルドに心がときめくようになったらやめるという約束の下、こっそりおやつの報告を今日も受けている。
「ほら、おいで。影響がないかどうか見てあげよう」
「むむ。もうヒルドさんが確認してくれましたよ」
「それでも、妖精の目と魔物の目は違うからね。念の為に」
「仕方がありませんね。……………なぜ椅子になったのだ」
「この方が調べやすいからだよ」
ネアは仕方なく魔物の椅子に座り、丁寧な触診を受けた。
喉に口付けられるのは、食当たり防止の祝福なのだろう。
擽ったいのを我慢して検診を終えると、今度は葡萄のシーを狩りに行ってしまったクッキーモンスターの話になる。
「ゼノは危なくないでしょうか?何やら、あのつぶつぶしていない妖精さんは、アルテアさんと対等にお喋りしていた気がします」
「葡萄のシーは、階位よりも頑強な妖精なのは確かだね。狂乱や狂気を資質に持つ者はそういうことが多いんだ。でも、ほこりが一緒なら大丈夫だろう。それに、ゼノーシュは目がいいから見極めが上手い筈だ。悪意を持って襲われでもしない限り、上手く状況を見極めるよ」
「なんと、ゼノはそういうことも上手なのですね。あらためて尊敬してしまいます」
「尊敬………」
「む。また新しい言葉に反応してしまいましたね………」
ここでディノが、今度は尊敬を求めて荒ぶるかもしれず、ネアは慌てて魔物の腕を引っ張った。
今日はこれから銀狐と一緒にお散歩に行く予定なので、拗ねてしまったり死んでしまったりしないで欲しい。
しかし、慌てて腕を引っ張ったその時に落ち込んだ声のノアから連絡が入り、デートの約束を一件忘れていたのでお散歩は日を改めてということになった。
相変わらず、デートよりはボール遊びが好きなのはもう諦めたが、リードをつけてのお散歩も勝ってしまうようだ。
「ノアベルトは大丈夫かな……」
「リードも気に入っていますが、きっと大事にして貰うことそのものが嬉しいのだと思いますよ。ノアはきっと、強い魔物さんとして望まれるより、こうして皆さんに家族のように大事にされたかった魔物さんなのでしょう」
「………家族のように、か」
「ふふ、ディノには私がいますが、ノアはそんなディノにも甘えたいのでしょう。私は、ディノが狐さんをお風呂に入れているのを見ると、心がほこほこするのです」
「君は、………私の家族になってくれるのかい?」
そう尋ねた魔物がとても不安そうだったので、実際に形式的な家族にならずとも、家族のようなものという関わり方があり、このリーエンベルクの仲間はもはやそういうものなのだと教えてやる。
「………ネアだけでいいかな」
「あらあら、そんなことを言っていても、ディノはノアと仲良しですよね」
「ご主人様だけでいい………」
「ほんとうに?」
「………いい気がする」
少し不安そうにそう答えたディノに、ネアは微笑んで頭を撫でてやった。
以前なら迷う素振りすらなかったが、今はこうして不安そうにする姿が何やら愛おしい。
ご主人様に丁寧に撫でられた魔物は、頭を押さえてもじもじすると、さっと腰ベルトを取り出した。
しかし、ご主人様に無言で首を横に振られてしょんぼりする。
「そうなると、………午後はどうしましょうか?何かしたいことはありますか?」
「練習でもするかい?」
「………………むぐ。…………すっかり忘れていましたが、どうしても市場のクリームチーズが食べたいのです」
「おや、この前に買っていたものかい?」
「はい。食べたくて食べたくていてもたってもいられないので、一緒に市場に行ってくれますか?」
「勿論だよ」
そうして無事にお出かけになったネア達だが、中庭沿いの廊下を歩くと、ディノは少し怯えたような目をしてネアにへばりついてきた。
人面魚の桶に落ちた恐怖が蘇ったらしく、二度と桶には落ちないと呟いている。
ネアとしても、気絶したムグリスディノを洗うという悲しい作業は二度としたくなかったので、今後はエーダリアに人面魚の日光浴の場所を考えて貰うよう進言しておいた事件だ。
元々、桶の周囲にこの桶は何だろうと覗いてしまった小さな妖精達が死んで散らばっていたので、ムグリスディノも木の枝から覗き下ろしてしまったらしい。
木の枝をむちむち歩く姿に狂喜乱舞するご主人様に晴れ姿を披露した後の事故だったので、ネアにとっても身が竦むような悲しい出来事だった。
「そう言えば、明日には白もふになって撫で回されにくるアルテアさんが、ムグリスディノ用の乗り物を作ってくれるそうですよ。お洋服に挟むのは宜しくないと言うのです」
「そのままでいいんじゃないかな」
「でも、むくむく毛皮に触れたいということと、ポケットや籠のようなものは不用心なので嫌だと言っておきましたからね」
「アルテアなんて………」
「さかんに設置場所を心配していたので、私がディノをどこかに落としてきてしまうことを考えたようです。そんなことをする筈がないのに、困った使い魔さんですよね」
「アルテアなんて………」
べそべそするディノの手を引っ張りながら歩いていると、途中で丁寧に三つ編みに入れ替えられた。
「むむ。入れ替えが発生しています」
「ネアはこれが好きだからね」
「なぜなのだ。………それと、あの後ウィリアムさんから連絡は来ました?」
「ウィリアムなら大丈夫だと思うよ」
「しかし、不慮の事故とは言え、ノアこと狐さんと…………」
そう呟いたネアの言葉に、ディノは少しだけ悲しげな目をした。
先日の居眠りの会の最後に、止まり木兼枕となっていたネアが立ち上がったところで、重力落下したウィリアムが、うっかり銀狐の顔の上に頭が落ちる事件があった。
ノア曰く、正式にはおでこだったので唇ではないと証言しているが、うっかりノアだとわかっている銀狐に事故で口付けの祝福を与えてしまったことで、ウィリアムは相当落ち込んでいたようだ。
とは言え、ディノと激突して尻尾が平べったくなりかけた白けものはもっと悲しかったかもしれない。
あまりにも可哀想なので膝に抱っこしたのだが、それはそれで落ち着かないのか固まってしまっており、更に言えば、膝からはみ出す大きさだったのですぐにずり落ちてしまった。
銀狐からも不憫に思われたのか、ぽそりとボールを足元に置いて慰められ、ますます落ち込んだ白けものは、その日の夜遅くによろよろと帰っていった。
因みにこの間ウィリアムはずっと頭を抱えていたので、銀狐ことノアに口付けの祝福を与えたことがよほどショックだったのだろう。
歩道には、ふかふかの色鮮やかな落ち葉が落ちている。
秋は淡くその先を求めて深まり、焼き栗の屋台の甘い香りに、木の棒に焼き付けてくるくると回しながら焼く秋冬の風物詩である菓子パンも売り始めたようだ。
「もうすぐ、冬の鹿さん達やムグリスが渡って来ますね」
「ネアは、この季節が好きなんだね」
「ええ。前の世界では寂しいこともある季節でしたが、こちらに来てからは幸せなばかりですね。ディノがいるからでしょうか?」
「ご主人様!」
微笑んで見上げてきたご主人様に、ディノはぱっと顔を輝かせた。
ネアも微笑み返し、また腰ベルトを出そうとする手をさっと押し留めた。
あえて迂回路を選んで歌劇場前の通りを歩いていれば、素晴らしく壮麗な歌劇場と、その近くにある美術館や博物館が見えてくる。
封印庫の建物も壮麗さでいえば素晴らしいが、ネアは歌劇場を奥に望むような感じで、大きな公園を挟んでこの建物が並んで見える並木道が大好きだった。
(実際に歩くと少し距離があるけれど、ここからだと一枚の絵のよう)
ウィームの秋には霧が出やすくなる。
しっとりとした肌寒さに、羽織るものや温かい飲み物がまだ目新しいくらいの気温。
これからは厚手の上着や温かい飲み物が手放せなくなり、晩秋の収穫祭を終えればウィームはイブメリア一色になる。
短い夏も美しく素晴らしかったが、やはりウィームは冬の都なのだろう。
「ディノ、この世界の国々は、基本的にどこでも四季があるのですか?」
「あるということが基本になるね。四季の要素は、それぞれの系譜や魔術の祝福だ。本来は世界の隅々まであるべき流れだけれど、それでもやはり一つの系譜が強すぎて他の系譜が入り込めなくなった場所や、特定の系譜に倦厭されてしまう場所もある。四季を持たない土地というのは、哀れなものなんだよ」
そう教えてくれるディノは、高位の魔物らしい憐れみを言葉に乗せた。
それはやはり人間の目には遠く思える、長命で想像のつかない生き物という感じがする。
むくむくのムグリスになってお腹を撫でられている魔物と同じくらいネアはこういうディノも好きなので、微笑んで話の続きをせがんだ。
きっと多分、ノアが銀狐になってそうであるように、ネアもこの魔物に甘えるということを覚えてしまったのだ。
甘やかす喜びを初めて知ったのがこの世界であるように、こうして寄り添うこともここで覚えた。
「ウィームのように、一つの系譜が突出しているというのは、不安定なのですか?」
「これで、例えば相反する系譜である春や夏が失われるようになると、不安定と言わざるを得ないね。でも、ここは冬の系譜の恩寵が深い割に、他の季節も上手く回している」
「そういう回しは、失われてしまったり、滞ってしまうこともあるのでしょうか?もうすぐ、ダナエさんが遊びに来たりするので、少し心配なのです」
「春闇の竜であるダナエの訪れは、土地にとっては良いことだよ。春の系譜も豊かにする訳だから。それにウィームは、魔術が豊かで質もいい。古くから人外者に好まれる土地だから、他の系譜が撤退するということはないだろう」
「きっと、美味しくて居心地の良いレストランのような感じなのですね」
ネアがイメージしたのは、美味しい老舗レストランだ。
美味しいお料理がいつでもあるので、他の土地の住人達のご用達店でも、やっぱり定期的に通ってしまう素敵なお店なのである。
お店としては、他のお客様もどうぞ常連さんになって下さいという感じではあるが、やはり古くからの御贔屓のお客様は大事にしている。
お客様間抗争か、極端に店の質が落ちない限りは、また代を入れ替えて脈々と続いてゆくのだろう。
「君にも、少しそういうところがあるね」
「なぬ」
「ほら、すっかりノアベルトもアルテアも懐いてしまっただろう?」
「ノアは、私個人というより、リーエンベルクが好きなのでしょう。……アルテアさんは、みんなでわいわいしていると、つい遊びに来てしまう困ったさんですが、使い魔の座を譲らないという圧をとても感じたので、きっとお料理をしてそれを献上する喜びに目覚めてしまったのでしょうね」
「それだけだろうか。彼は選択だからこそ、自分の望まないものを決して受け入れない。アイザックもそうだが、気に入った者にしか触れさせない魔物なんだ。そう表現するべきか分らないけれど、潔癖な魔物だよ」
「………確かに、誰とでも悪巧みや悪い遊びで絡みそうに感じられますが、アルテアさんは人の好き嫌いが激しいですものね。そのもう少し極端なものを、ウィリアムさんにも感じたりするのです……」
「ウィリアムは、………本人の気質なのかな」
「………まぁ、司るものの影響とかではなく、完全に性格なのですね………」
「とは言え、ウィリアムのあの独特な性格もまた、終焉が育てたものだろうけれどね」
そんな風に終焉の魔物を評するディノは、決して、泣き止まずにウィリアムやアルテアに散々迷惑をかけた魔物のようには見えない。
しかし、ウィリアムやアルテア、それにノアから、万象を司るディノこそ不安定なものでもあると聞いていたので、ネアは微笑んで頷いた。
(完全だけれど、常に不完全なもの)
慈しんでくれるけれど、慈しまねばならないもの。
そんなちぐはぐさだからこそ寄り添えたと自信のあるネアは、当たり前のように隣りを歩くディノの温度に頬を緩める。
真珠色に透明な輝きを纏う三つ編みが揺れ、鮮やかな水紺の瞳が煌めく。
何とも困った、大好きな魔物だ。
「ディノ、最近の指輪はその形で決まったのですね?」
「うん。形を変えているのも楽しかったけれど、いつも同じ形であることが気に入ったからね」
「では、ずっとそのままで?」
「…………どうだろう。君の欠片に似合うようにしたいんだ」
「ふふ。そんな風に大事にしてくれると、とても幸せです」
ディノが大事そうに見るのは、ネアの髪色を紡いで作った宝石だ。
指輪のリングにあたる部分をあれこれ調整していたが、今は柊の模様の刻まれたシンプルな細いリング部分に、宝石を固定する爪が、柊の葉っぱに持ち上げられたようなデザインになっている。
時々リング部分に葉っぱが現れたりもしていたが、また創作意欲に駆られるまではこのままのようだ。
(お互いに、最初の年に指輪を贈り合ってしまったから、これからの贈り物が難しいような……)
そんな幸せな悩みもあったが、これからも幸せな贈り物は降り積もってゆくだろう。
それはきっと限られた時間ではあっても、どうぞ豊かに。
「私も、その指輪をしているネアを見ているといい気分になるんだ。その手を見ているだけで、あっという間に時間が過ぎてしまう」
「………ぞくりとしました。そして普段はお喋りしているときに目が合っているのですが、いつ、手を凝視されているのでしょう?」
「…………ご主人様」
「む!しゅんとしても追及は終わりませんよ!吐くのだ!!」
そしてクリームチーズを食べながらディノは、時々夜中にこっそりと起き出してきて、ネアの指輪を嵌めた手をじっと見ているのだと告白した。
心底恐ろしい現象なので、夜間は就寝徹底をしようと思う。
余談だが、この美味しいクリームチーズにヒルドの妖精の粉を振って食べてみたいと思ってしまったネアは、大事な家族のような人をふりかけ扱いにしてしまい、とても反省している。