ヨシュア
ヨシュアは雲の魔物だ。
雲の上に壮麗な城を持ち、顔の半面にある白い雲の模様が特徴である。
「ヨシュア様、……その、そろそろ起きられては如何ですか?」
そう呼びかけるのは、雹のシーだ。
相談役として百年近くここにいるが、名前は思い出せなかった。
雲から生まれるものは全て、雲の系譜となる。
よって、その中のシー達の中から持ち回りで雲の魔物の相談役になるのが、古くからの約定で定められていた。
その代わり、ヨシュアは気紛れに雲の系譜の生き物達を滅ぼせなくもなっている。
「あっちへ行って」
「…………ヨシュア様」
ヨシュアは、妻を亡くしたばかりだった。
伴侶であったポコは、五年前に塔の魔物が作った空までそびえる塔に激突し、その儚い命を散らせたばかりだ。
そう、あの日から、まだたった五年しか経っていないなんて。
大空から地表に落ちてずたずたになった小さな伴侶の体を抱き締めて、ヨシュアは喉が破れるまで慟哭した。
その間、雲はバケツをひっくり返したような大雨を降らせ、小さな国が二つほど濁流に飲まれて滅びたという。
そんなことはどうでもいいのだ。
知りもしない国がどうなろうと、知ったことではない。
そんなことよりも、ただ、ただ、絶望していた。
魔物は、生涯で一度しか伴侶を得ない。
だから、ヨシュアの伴侶でいてくれたのはポコだけで、この後はもうヨシュアは一人きりなのだ。
ずっと。
(ポコを伴侶にした時も、反対はあった)
ポコはムグリスである。
高位の魔物であるヨシュアよりは遥かに寿命が短く、せいぜい二百年程度しか一緒には生きられない。
それでもと望んだヨシュアは我が儘を突き通し、ポコとは百年程の蜜月を過ごした。
周囲からは、子供を作ってはどうかという声もあったが、それは低階位の者達の声だ。
事象やその他の様々なものから派生する魔物の、その中でも高位の者達は子を成すということは出来ない。
それを知らない者達は、単純に子供を作ってはどうかと訳知り顔で提案する。
あくまでも新しい命は新しい要素より生まれるものであって、決して異なる属性からうやむやに生まれ落ちるものではないのだ。
派生の仕方が違う精霊や妖精とは違い、魔物は自身が高位であればある程、子を成す能力がない。
それは、代え難い資質を司る者という存在の特性故の弊害でもあった。
とは言え、そもそも魔物が伴侶に望むのは自分のものになることばかりである。
自分より相手に近しいものがあることを許さないのが高位の魔物の気質なので、実の子供というものは気質的にも受け入れられるものではない。
産み落ちた子供であれば、それは、伴侶の血肉を分け与えられた、自分より伴侶により近しいものである。
自分に準じるものであればいざ知らず、自分より伴侶に近い存在など許せる筈がないではないか。
しかし、そのような伴侶間であっても、子育てという他の種族や階位の嗜みを試してみたいという者達もいる。
その場合はどうするのかと言えば、己の支配下にある属性の中から、向いた資質の新たな命をどこかで育み、その生き物が派生した段階で拾ってきて子供として育てるのだ。
それはあくまでも趣味の一環のようなものだが、ヨシュアのように伴侶の寿命が短い場合は、そんな存在を設けて己の心の慰めにする場合も多い。
あるいは、気の長い者などは己の伴侶となる資質の者が再び派生するのを待つ場合もある。
しかしそれはやはり、相手がある程度高位でなければ実現しないことだった。
(子供を作ることなんて、もっと先でいいと思ってた)
いや、ポコは最初から案じてくれてはいたのだ。
ヨシュアが一人にならないように、妖精か魔物で、子供のように育てられる者を作ってはどうかと提案していてくれた。
けれどもそんな者を育ててしまえば、大切な二人きりの時間はあっという間に終わってしまうだろう。
だからもう少し二人でいたいと我が儘を言い、そんな機会すら失ってしまったのはヨシュアの所為なのだ。
(でも、ポコがいなくなって、ポコとの間に生まれた訳でもない子供がいても、僕は壊してしまったんじゃないかな………)
ヨシュアは、自分の狭量さをよく知っている。
いい加減だし怠け者だが、こだわりはかなり強い方だ。
昔から側にいてくれた親友からも、ヨシュアは頑固だと何度も言われている。
「………………イーザ、ルイザ」
ぽつりと呟いたその名前に、ぽろりと涙がこぼれた。
それは、ポコと共にヨシュアの昔からの親友であった、大事な大事な者達の名前だ。
ヨシュアは元々、その二人のどちらかを伴侶にする気満々だったが、最初にお願いしたイーザからは半殺しにされ、ルイザからも友達だが男としては欠片も好みじゃないと断言されて、それでもとお願いしたら気持ち悪いと言われてぼこぼこにされてしまった。
その間ずっとヨシュアの肩の上に乗って慰めてくれていたのが、仲間内で一番幼かったポコだ。
その頃のポコはまだ幼体だったが、ヨシュアが伴侶候補達にふられた事件から五十年もすると、立派な大人のムグリスになった。
そうして、二人は恋に落ちたのだ。
「…………ポコ」
その名前を呟くだけで、胸が張り裂けそうになる。
ポコを失ったヨシュアが狂乱しなかったのは、周囲の反対を押し切って、狂乱するかも知れない魔物の側に、イーザとルイザがすぐに駆けつけてくれたからだ。
二人が必死に抱き締めてくれたから、ヨシュアは狂乱せずに生きていると言っても過言ではない。
けれども、あの事故から五年も経てば、二人にはそれぞれの人生があるのも確かだった。
「…………ふぇっく」
また泣けてきて、世界に一人きりしかいないような何とも惨めな気持ちになる。
「…………でも僕は、シルハーンよりは幸せだから、我慢するんだ」
ヨシュアは、ポコを伴侶にして暫くしてから、大好きな王様に会いに行ったことがある。
派生してからは、綺麗で強くて大好きで大好きで、毎日へばりついていたら、二年目にしてさすがに鬱陶しくなったのか消されそうになってしまった。
それからは適度に距離を取っていたのだが、ちょうど伴侶を得たこともあって、報告がてら数百年ぶりに王に会いに行った。
聞けば、お気に入りだったノアベルトとは、三百年くらい前に決別していたようだ。
なのでまた仲良くなれるのかなと、既婚者になった余裕から世話役ぶって恋の良さをあれこれとお勧めしたところ、グレアムの手でぽいっと城から放り出されてしまった。
『あの方は、愛したくても愛するものを得られない方なのだ。お前は、絶望している方の前で、何と浅慮な物言いをすることか』
『でも、グレアムだって伴侶がいるだろう?その伴侶も王の城に出入りさせておいて、僕だけ責めるのはどうかと思うよ』
『ヨシュア、………お前は自分の言葉の鋭さを理解していないのだな。お前も、ノアベルトも。王も、気にかけ心を許していた者にばかり、傷付けられるとは…………』
『…………僕、心を許されてたの?』
『朝から喋り通しで寝所にまで付きまとっておいて、今更だろう。気に入っていたから、限度を超えるまではあの方も許していたんだ』
それは全く意識していなかったので、ヨシュアは嬉しくなる。
ぱっと笑顔になってからその落差で、自分は何か酷いことをしてしまったのだろうかと項垂れた。
『僕、間違えたのかな?』
そう言えば、グレアムは星空のような瞳を和ませて微笑んでくれた。
白持ちではないが、その身に纏う色彩のほとんどが白に近い魔物として、グレアムは白持ちではない魔物の中でも最高位にあたる。
生真面目だが優しい魔物なので、ヨシュアはグレアムが好きだった。
『お前の言い方では、目の見えない者に、目が見える者の世界は美しいと説くようなものだ。何とかして目が見えれば良いのにと喘いでいる方に対して、そしてその努力に疲弊した方に対して、どれだけ残酷なことか分かるか?』
『グレアムは違うことをするの?』
『私と私の伴侶は、あの方に寄り添うばかりだ。望まれれば助言もするし、問われれば語るが、我々が差し出すのはあの方の孤独を癒す術に徹底している。それ以上は、…………もはや、酷なことになってしまった。それだけ長く、あの方は心を動かせずに生きてこられたのだから』
城に帰って、出かけている間にポコと遊んでいてくれたイーザとルイザにその話をした。
『その王様は、あまりにも全てを持っているからとても幸せに見えるだけで、実際には自分の欲しいものなど何も持っていないのね』
『そうなの?』
そう呟いたルイザに、ヨシュアは首を傾げる。
『私と逆。私はね、精霊なのに全く資質の違う妖精の取り換え子になってしまって、みんな不幸なことだと言うのよ。でも幸せだわ。賑やかな家族が沢山いて、精霊だけど妖精という、恋には不利な資質ばかり揃えてしまったけれど、それでも私は今の私が好き。だから、その逆の立場にある魔物の王様は、どれだけ辛くて悲しいのでしょう』
『もしかしたら、シルハーンにはルイザみたいな女の子がいいのかも』
そう言ったヨシュアに、ルイザは困ったように微笑んだ。
『それは無理だわ。もし私がその方に恋をしても、万象の方はやはり万象の方。畏怖してその身に焦がれることはあっても、こうして、イーザやヨシュアやポコ達といるように、家族と過ごすようには愛せないもの』
『それじゃ駄目なのかな?』
『やれやれ、相変わらずヨシュアは馬鹿ですね。それで済むなら、そのようなものくらい、万象の方ならば手に入れたい放題でしょうに。そうして愛を望むものすら見出せないと言うことは、魔物の王は、手の中に無いものこそを望まれているのでしょう』
『ってことは、理想が高いのかな』
そう呟いた途端、ルイザに頭をはたかれた。
灰色熊の精霊の資質があるので、首がもげそうになる。
『わからないの?その方は万象なのでしょう?万象が万象である限り、この世界には万象の方が望む方はいないのだと思うわ。この世界に生まれたものは程度の差はあれ、万象を敬い慕うようになっているのですから』
そんなルイザの言葉の意味は、幸せだったヨシュアには難しくてわからなかった。
でも、ポコがいなくなって少しだけ分かった気がするのだ。
ポコがいなくても、この世界には他のどんな生き物もいる。
ムグリスだっているし、ポコよりも美しいものや、もしかしたら気の合うものだっているかもしれない。
でも、今のヨシュアが会いたいのはポコだけで、そうなってしまうとヨシュアのその願いは、この世界がこの世界である限り叶わない願いなのだから。
(手に入らないものが欲しい)
でも、それは叶わない。
二度とポコとお喋りしたり、寝ているポコのお腹を撫でたりは出来ない。
自分の愛しているものが自分を愛してくれて、愛していると伝えられることもない。
二度と。
「でも、だからと言って、ポコと出会わなければ良かったとは思わないでしょう?」
「…………思うもんか。僕は、ポコと一緒にいられて幸せだったんだ。もし運命を変えることが出来ても、ポコを伴侶にすることを変えたりはしない」
いつの間にか、部屋にはイーザがいた。
「であれば、乗り越えなさい。世の中にはどれだけ、愛する者にすら出会えず死んでゆく者達がいるでしょう。愛する者を見付けても愛されず、滅びる者達がどれだけ多いことか。………ヨシュア、あなたは最良ではなくても、幸福な人です。失った伴侶に出会ったことを後悔しないのであれば、あなたはやはり、得られた者の側にあたるのですから」
涙に濡れた顔を上げ、こちらを見ている友人を見上げる。
「………それ、ポコが死んだ時にも言われたね。シルハーンの苦しみに比べたら、僕は踏ん張らなければいけないって」
「まだ手の中に品物があるのに、それを投げ出して破滅するなんて、我が儘以外の何物でもありません」
「………君と、ルイザがいるから?」
「ええ。私達は、親友なのでしょう?即ちあなたは、人生において伴侶も親友も得た豊かさであるのに、嘆くばかりでそれを放棄するなど、我が儘にも程がある」
イーザがそのことを強く主張するのは、最近形成されたばかりのイーザの家族は、戦乱で散り散りになった者達の寄り合いだからなのだろう。
イーザとルイザの間に居た実の妹も、その戦乱で命を落としている。
無残に殺された妹に、まだ恋をしたこともなかったのにと泣いていたルイザを思い出せば、イーザが選んだ言葉の意味がわかる。
ウィームについた霧雨の系譜が半数以上が粛清の対象になったその戦乱では、あまりにも多くの命が失われ、虫食いだらけになってしまった系譜の脆弱さを補強する為に、元より想い合っていたイーザの父親達は種族の壁を乗り越えて一つの家族となった。
つまり、ヨシュアがポコを失うよりも先に、イーザ達は喪失や別離の波間を泳いだことがあるのだ。
「………でも、生きてると寂しいんだ。………僕は、シルハーンみたいになれないよ。一人ぼっちじゃ生きていけない。今迄はね、城に帰ると必ずポコがいたのに」
「あなたの部下達がいるでしょう。相談役のハイラムもおりますし、それでは不満ですか?」
「………彼等は、僕にとっての大切なものじゃないよ。ポコや、イーザやルイザ達じゃない。イーザ達だって、家に帰れば家族がいるじゃないか」
そう呟いたらまた悲しくなって、ぽつりと涙が手の甲に落ちた。
ここなら幾ら泣いて涙を落としても、ヨシュアの城の中なので問題ないだろう。
「………では、私がハイラムとお役目を交代しましょう。相談役として私が側にいれば、少しは落ち着きますか?」
「……………ほぇ」
その言葉は、すぐには飲み込めなかった。
何度も頭の中で繰り返して、何度も噛み締めてから、こちらを見ているイーザを見返す。
「…………いいの?だって君は、王位を継ぐ立場なのに」
「先立って、退位が早いであろう霧雨の妖精王の地位は、兄弟の一人に譲りました。私は霧雨の精霊王の地位を継ぐことにしましたので、四百年以上は猶予がありますね。死んで自然に還る妖精とは違い、精霊王は王の座を譲っても気体化して存在し続けますので、お役目を引き継いでも私だけが王となる訳ではない。妖精王になるよりは随分と責務も軽くなる」
「…………イーザ」
ぼろぼろっと涙が溢れた。
イーザはすっかり呆れ顔だが、両手でその涙を拭い、それでも止まらなくて、ヨシュアはイーザに飛び付いてわんわんと泣き出した。
「…………やめていただきたい」
「イーザ!イーザが側にいてくれる!僕はもう、一人ぼっちじゃないんだ!!」
「ヨシュア…………」
その晩は泣き続けて、さすがに長いとイーザに殴り倒されるまで泣いていた。
そしてその日からやっと、ヨシュアは普通に寝て、普通に笑えるようになったのだ。
(であれば、一人ぼっちということはどれだけ恐ろしいのだろう)
ヨシュアの好きな魔物だったグレアムは、伴侶を殺されて狂乱して滅びた。
雲の上にいたヨシュアは被害に遭わなかったものの、他の公爵達はその復讐劇に巻き込まれて階位を落としたり、命を落としたりもしたそうだ。
そのことを聞いた時、イーザは厳しい顔で、友人としてあなたにはそんな最後を迎えて欲しくなかったから、言葉を尽くして我々はあなたを思い留まらせたのだと言ってくれて、またヨシュアを泣かせてくる。
でも、ルイザではなくイーザが相談役になったのは、ルイザはやはり、異性としてはないヨシュアと一緒には暮らせないからだと知り、そのことを知った夜は少し落ち込んだ。
「だから、僕はシルハーンの恋を応援する!」
その日、そう宣言したヨシュアに、イーザはまた何か言い出したぞと顔を顰めた。
「…………何です、急に」
「…………だ、だって、やっとシルハーンが見付けた幸福だから。指輪を贈るってそういうことなんだからね」
「本当の理由は何です?」
「………ふぇ。………イーザにご主人様が出来たら、僕が捨てられるから」
「…………だと思いましたよ。………安心なさい。あの方には、前に下僕になることを断られています」
「うん。でも、万が一シルハーンと上手くいかないと、イーザの方に来るかもだから、僕はシルハーンの恋を応援する!!」
向かい合ったテーブルの向こうで、親友が項垂れるのが分かった。
「………その心配はないでしょう。部外者の私の目から見ても、仲睦まじいお二人でしたよ。あなた方の王は、やっと得るべき片割れを見付けたようです」
「…………そっか。……うん、そうなんだろうね。グレアムが見たら喜んだのにな」
そう呟いたヨシュアに、イーザはなぜか微笑んだ。
「イーザ?」
「あなたのそういうところは、友人でいて良かったと思う部分ですね」
「イーザ!」
感激して飛びつかれたイーザは、その後、勿論ヨシュアを殴り倒したのだった。