狩りの女王と雲の魔物
さあっと、枝葉が秋の涼しい風に揺れる。
さわさわと音が重なり、ホーと梟の声も合わさった。
水の流れる音に耳をすませば、かさかさと走り去る小さな生き物の気配もする。
大きな木の下には森で育った結晶石が光り、柔らかに飛んでゆく蛍のような光は妖精だろうか。
甘い花の匂いと、ふくよかな秋の複雑な香りを胸いっぱいに吸い込めば、胸の奥が黄金色の濃密な秋の色に色付きそうだ。
「不思議で綺麗なところですね。ここは何という国なのですか?」
「コーラって国だよ。正式にはコフヴィン・ラーラムって名前だけど、今は国民もコーラって略しちゃうからなぁ」
「意味のある名前だと、略さない方がいいのですよね?」
「うん。でもこの国の名前には特別深い意味はないんだ。この土地の古い言葉で海のない国って意味だからね」
「切ないお名前の国ですね。海産物が食べられないのでしょうか」
「うーん、どうなんだろ。でも確かに、流通は少ないだろうね」
ネアとノアの二人は、今日ここに約束していた冒険こと、ネアの大好きな狩りに来ている。
夜が深まってからの方がいいとのことで、夕食をこちらで早めにいただき、夜になってからの狩りの予定であった。
しかしここで一つの誤算があり、よりにもよって今夜、この国は断食の夜だったのだ。
飲食店は皆閉まってしまっていて、がっくりと肩を落とすノアに、ネアは狩りをしてから夜の遅いウィームで食事にしようと提案したところだ。
「お腹が空いてないかい?ごめんね、まさかこの国は断食があるところだと思ってなかった」
「ふふ、そういうことを知らないあたりが、ノアらしくていいですね」
「………それって僕、虐められてる?」
「虐めていませんよ。少し隙がある方が仲良くなれそうではありませんか?」
「もう仲良しだよね!」
「ええ、確かに家族のような存在ですものね」
ネアにそう言われ、ノアはふわっと目を輝かせた。
ディノが幸福に微笑む時には無防備に瞳をきらきらさせるのに対し、ノアの喜び方はどこか安堵に似た煌めきで幸せそうに微笑む。
それは、ディノが時折見せる切実な胸の痛くなるような微笑みともまた表情を変え、ヒルドとよく似た微笑み方なのだ。
そんな風に同じ微笑み方をする二人が仲良しなことは、ネアの隠れ嬉しいポイントである。
(同じような痛みや孤独を持って、全く違う二人が仲良しなのがいいのだわ)
そんな二人がまた、エーダリアを手助けしているのも可愛らしいではないか。
「そしてノア!私とは一度狩りをしたことがあるので、どうなるのかはご存知ですよね?」
「うん。君が荒れ狂うのは知ってるよ。周囲は結界で覆ってるけど、無茶はしないようにね」
「後から囲った結界なので、中にどんなものがいるのか分からないのですよね?」
「そう言う事。でもさ、完全に綺麗にしたら、君の狩りは楽しくないんだよね」
「その通りなのです!」
二人がいるのは、豊かな森の中だ。
リンドウに似た紫の花が一面に生い茂り、白樺のような木と、菩提樹の木が多く見受けられる。
「幹の白い木がありますが、貴重なものなのですか?」
「あれはね、本当は銀色なんだよ。こうやって夜の光で白く見えるだけ。朝霧の結晶で幹が石化しつつあるんだ。完全に石になると切り出されて、建材や家具になるらしい」
「そう言われてみれば、よく一部が結晶化した家具がありますよね」
「うん。そういう家具は高価なんだよ。結晶化は祝福や他の属性の浸透だから、複数の特性を持つようになるしね」
「そうなると、アルテアさんのお気に入りの家具はどれも高価なものばかりのようです」
「うーん、ネアがアルテアの本宅に行ったのが複雑」
難しい顔でそう言ったノアに、ネアはくすりと微笑んだ。
「あら、ノアも行きたいのですか?」
「何でそうなっちゃうんだろう!そうじゃなくて、アルテアの本宅なんて、ほとんど誰も行ったことがないんだからね」
「………やはり羨ましいのでは」
「こらこら、僕は少しも羨ましくないよ。ただ、アルテアが君に心を許し過ぎているのが心配なんだ」
真っ直ぐに覗き込んだ塩の魔物の瞳は鮮やかな青紫色だ。
その艶やかさと、髪色に揺れる氷色の多彩さに、王族相当だった頃はもっと綺麗だったのだろうかと考えた。
ゼノーシュのように、白混じりの色を持つ魔物は他にもいるが、多色性の白を持つのはディノの他にノアだけだ。
その色彩の贅沢さは、この魔物の凄艶な美貌によく似合う。
「踏み込ませれば、その毒にも触れるからですか?」
「ありゃ。君はやっぱり、分かってないようで時々物凄く鋭いんだ」
ノアの瞳に真剣にこちらを案じる思いを見たので、ネアは茶化さずにきちんと応じることにする。
「鋭いかどうかは分かりませんが、アルテアさんについては、ディノやノアとは違うのは分かるのです。アルテアさんはやはり、魔物さんとしての資質が強いのでしょう。いわば、懐けば人里で暮らしてくれる生き物と、懐いてくれても森を捨てない生き物の違いなのです。……ウィリアムさんの場合はまた少し違って、人里で暮らしているつもりで、野生が溢れている魔物さんですね」
「…………やっとわかった。だから君は、アルテアに森に帰れって言うんだ。あれ、結構本気だったんだね」
「勿論ですよ!しかし、徐々に人里の暖かなお家や、よしよしと頭を撫でる手に慣らしているのでよく懐いてきました。よって遊びに来る頻度は高くなり、自分の巣にも連れて行ってくれる魔物さんですが、きっとアルテアさんは人里に永住する魔物さんではないのです。無理やり住まわせようとすると、暴れて双方滅びかねません」
「…………君はさ、それを寂しいと思わないのかい?」
「あら、私がいかに強欲とて、自然のものを自分の為に捻じ曲げてその美しさを損なおうとはしませんよ!森の奥深くではなく、森の外れのご近所に住まないかなと思うくらいですね」
ネアの言葉を最後まで聞いてから、ノアはふっと笑った。
「僕は人里で住む獣なのかな?」
「ノアは寂しん坊ですからね。森に帰れますか?」
「…………ちょっと泣きそうになった」
森に帰ることを想像してしまったノアは、女の子達と遊んでから一人ぼっちのお城に帰ることを考えてぞっとしたらしい。
「リーエンベルクには、お友達がたくさんいますしね」
「友達っていいものだよね。だから、もし誰かが僕の幸せを奪おうとしたら、僕だって怒るよ」
「頼もしいですが、一人の時は無理をしないで下さいね」
「ありゃ。ネア、僕だって強いんだよ?」
「………狐さんの印象が」
「ありゃ」
そこで真剣な話は終わり、ネア達はあらためて狩りに入る。
ぴしりと指を立てたノアから、決してノアを振り切る走り方をしてはいけないと言われて、ネアはこくりと頷いた。
そもそも、白持ちの魔物を振り切る速さで走れる訳がないのだ。
「では行きます!」
「早っ?!」
鎖から解き放たれた獣のように、ネアは猛然と駆け出した。
なぜならば、気になる動きをする草むらがあったので既に狙いを定めていたのだ。
「とりゃっ!」
「ピギー?!」
ネアが一瞬で狩り取ったのは、鳥のような蜥蜴のような不思議な生き物だ。
首根っこを掴んで振り返ると、ネアはノアに見せてみた。
「わーお」
「こやつは何でしょう?」
「………それね、宝吐き鳥」
「素敵なお名前です。生け捕りに…」
「ピギー?!」
ネアに掴まれたままの鳥もどきがその言葉に動転し、ぺっと吐き出したのは小さな箒だった。
「む………」
「………戸外の箒だ」
「とがいの箒?」
「ピギー!!」
「ノア、これは良いものなのですか?」
「………うん。かなりいいかな」
「であれば放免して差し上げましょう。これからは狩りの女王を敬うのですよ」
「ピギー!!!」
ネアが手を離せば、鳥もどきは慌てて空に飛び上がって消えて行った。
転移が出来るとなると、それなりに上等な獲物だったのかもしれない。
地面に落ちた箒をネアが拾おうとすると、代わりにノアが拾ってくれた。
念の為にと調べてくれて、ネアに渡してくれる。
この箒は、効果が切れて棒切れに戻るまでは、邪魔者をその場から掃き出す事が出来るなかなかに良い品だった。
「箒を吐くとは、不思議なやつでしたね」
「おかしいなぁ。まだ開始早々過ぎるし、リズモも狩ってないよね?」
「そう言えば最近狩っていなくて祝福切れになりそうですので、今夜あたりまた一網打尽に…」
「ネア、それって悪役の台詞だからね」
「は!………あそこの光はもしや!!」
「ありゃ」
次にネアが見付けたのは、きらきらぽわりと輝く一団だ。
これはもうリズモだと思い駆け込んでゆけば、見たことのない蝶が舞い飛んでいた。
ネアを見付けた途端一斉に襲いかかってきたので、ひとまず一番先頭にいた真っ赤な蝶をはたき落とす。
「グギャッ!」
少々邪悪な鳴き声を上げて墜落した仲間を見て、蝶達はあっという間に散り散りになってゆく。
地面に落ちた蝶は、見事な蝶の形をした紅玉になった。
「……ノア、こやつは?」
「焔火の妖精だよ。人間の脳を食べる攻撃的な妖精だね。これは略奪を司る妖精だから、アクスに持ち込むとアイザックが喜ぶだろうね」
「まぁ、高く売れるのですか?」
「この妖精の結晶を細かく砕いて毒にすると、飲まされた者は略奪を好むようになるんだ。気の弱い後継ぎや、覚悟の足りない為政者に用いられる薬だ。ひと月ほどしか効果は持たないけどね」
「むむ。邪悪な薬ですが、場合によっては戦わなければならない方が踏ん張れるのかもしれません」
ネアはひとまず金庫にしまい、念の為にこれを流通させていいかどうか、エーダリアに助言を貰おうと考えた。
「そして、てりゃ!」
「…………え?」
ネアがその次に斃したのは、背後から忍び寄ったまだら兎のようなものだった。
しかし、ネアは獲物の姿を見た途端落ち込んでしまう。
「…………ほわ、愛くるしい兎さんを滅ぼしてしまいました」
「………滅ぼしていいよ。それ、呪縛の精霊の釣り師だ」
「謎めいています。呪縛の精霊さん?」
ネアが手刀で滅ぼした兎は、可憐な白桃色に金色の毛を持つまだら模様の長毛兎だ。
餅兎に似ているのでネアは己の残酷さに泣きたくなったが、ノア曰くこの生き物はかなり邪悪なのだそうだ。
取り憑いた獲物の後悔や躊躇いを心の闇から引き摺り出し、その獲物が自分の心に食い殺されるのを楽しむのだそうだ。
そうして死んでしまった獲物は、魔物や妖精であれば傀儡のようになり、或いは人間であれば死者の国には行けなくなり、この兎の主人である呪縛の精霊の使用人にされてしまうらしい。
「とても嫌な奴でしたが、使用人になるという事は正式雇用なのですか?」
「凄いなぁ。君はそこが気になるんだね。体が炭化するまで働かされて、崩れて消えたらまた次を探すらしいよ」
「奴隷労働なのですね。兎めを滅ぼして良かったです!」
珍しい毛皮で、これは高く売れるそうだ。
獲物の状態保存をかけて貰い、ぽいっと腕輪の金庫に放り込み、ネアは凛々しく頷く。
そんなネアを見下ろして、ノアがぽんと手を打った。
「僕、分かった気がする。君の場合、高位の守護で祝福の気配が濃いのに、魔術可動域が極端に低いから、無防備なご馳走に見えて色んなものが寄ってくるんだね」
「若干不本意な不当評価ですが、撒き餌のようなものですね。それと、今度こそのリズモです!」
「………でも、毎回リズモを見付ける理由だけは分からない。何か、リズモにだけ効く匂いでも出てるのかな……」
今度こそのリズモの群れを見付けたネアは、本能のままにその群れに襲いかかっていった。
何とも凄惨な光景になるだろうが、これが弱肉強食というもの、世の常なのである。
泣き叫ぶリズモ達を刈り尽くし、祝福を捥ぎ取ったネアが幸せいっぱいで駆け戻ってくれば、ノアは首を傾げていた。
恐ろしい人間に祝福を与えて逃げ去ってゆくリズモ達を眺め、そもそもリズモはかなり珍しいのだと教えてくれる。
「フェロモン的なやつが……」
「ふぇろもん?」
「むむう。こちらの世界ではこんな言葉まで同じなのかと驚くものも多いので油断していると、突然通じない単語が出てきますね」
「へぇ、そう感じるんだね。複数の世界での共通用語があるのかな?」
「そういうのもあるかも知れないのです」
「相変わらず、君は無駄な事は深く考えないんだね。そういうの大好き」
「未来を向いて生きるのが一番ですからね!」
「………うーん、何か違うような」
その後もネアは、幾つかの獲物を狩った。
最後に狩った獲物がとにかく大きかったので、ノアがどうしたものかなと腰に手を当てて持ち帰り方法を考えている時に、その異変は起こった。
森が閉ざされていることで余計な騒ぎを呼ばない為に、もう帰るのでと早めに結界を解いたばかりだったのだ。
(…………夜が翳った)
さっと、鳥が横切ったように視界が暗くなる。
新しい獲物だろうかと見上げた途端、ネアは夜の光が翳ったのは、誰かが上空から飛び降りてきたからだと思い知らされる羽目になる。
「え、…………」
そしてそれは、一瞬のことだった。
飛び降りてきた影はまるでぴたりと空中に着地したように、ネアの目の前でこちらの顔を覗き込むように体を固定した。
重力というものを無視した体勢は、ポケットに手を突っ込んだまま斜めに空中に立ち、光るような銀灰色の瞳で訝しげにネアを見つめる。
「女の子だ。夜の僕に会うなんて可哀想に」
ふっと緩んだ瞳に過ぎったのは、残忍さだったのだろうか。
しかしその直後、その男性はぎくりとしたように視線をネアの背後に向ける。
「その子に触れたら殺すよ、ヨシュア」
刃物のような冷たい声に、ネアはびくりと体を揺らした。
ノアのここまで冷たい声を聞いたのは初めてで、そのことに何よりも驚いたのだ。
ふわりと背後から腕が回され、いつの間にか駆け付けてくれたノアの胸に抱き寄せられる。
ふっと微笑む気配があったが、それはいつもの飄々としたノアからは想像がつかない程に刺々しい。
ネアの目の前に浮かんだ男性は、素早く距離を取ると少し離れた位置で地面に降り立っていた。
しかし、足元の落ち葉が踏み砕かれる様子はなく、その姿分の体重が地面にかかっているとは思えない。
(…………魔物、なのだろうか?)
眇めた瞳でこちらを見据えた男は、緩やかな布地を重ねた豪奢な服装をしていた。
布を合わせ腰帯を巻き、ガウンコートのような優雅な長衣には目が眩むほどの刺繍がある。
ターバンには宝石が煌めき、はらりと額に落ちた一筋の銀灰色の髪に、左目の下に刺青のような不思議な美しさを感じさせる白い模様があった。
「………ノアベルト」
「夜の君とは言え、僕のものに手を出すのは許さないよ」
「君が、そんな風に誰かに執着するのは珍しいな。いつもなら気にしないよね?」
首を傾げてそう微笑んだ男の姿を見ながら、ネアはふと海のシーを思い出した。
美しい人型をしているが、とは言え人外のものという印象が強い。
ネアの知る者達とは違う、あくまでも人外者らしい生き物だ。
「そうかもしれないね。だから君は、ここから立ち去った方がいい」
「どうして、今夜はそんな気分なのかな?どうせ、人間嫌いの君はすぐに、口を拭いたナプキンのようにその子も捨ててしまうくせに」
その途端、ネアは背後の体が強張ったような気がして、少しだけ振り返った。
(…………ノア)
彼が、少し前まで人間嫌いの魔物だったことは知っている。
でもそれは統一戦争で愛する人を亡くしたからこその弊害だったようで、ノアはその頃のことに触れられるのを嫌がるのだ。
「………相変わらず馬鹿な男だなぁ。折角長く生きたんだから、こんなことで死んでどうするんだい?」
二人の人外者の言葉は耳を滑る。
恐らく言葉での交渉が目的ではなく、お互いの気配や瞳の色から動きを読み取っているのだろう。
なのでネアは、ひとまず首飾りの金庫から激辛香辛料油の水鉄砲を取り出しておいた。
ゆらりと、目の前の男性の服裾が揺れる。
見えない風に煽られて、凄艶な微笑みを浮かべた人外者は美しかった。
すいっと胸元から取り出したのは、真っ白な煙管だ。
それを指先でくるりと回せば、ぞわりとした濃密な煙のようなものが湧き出てくる。
これがおとぎ話ならば可愛らしい雲のようなものと表現出来るが、おぞましいホラー映画めいた異様な煙のようなものにしか見えない。
固体ではないので浸透したりするのではないかとぎくりとしたネアに、抱き締めている手が安心させるように肩をぽんぽんと叩いてくれた。
「…………っ、」
その刹那、体を揺らしたのは正面の男性の方だ。
手にした煙管を慌てて手放せば、ぷかりと宙に残されたその煙管は、霜をはるようにピシピシと音を立てて白いものに覆われてゆき、それに全体を覆われてからざあっと塩になって砕け散った。
「やはり紛い物だね。思っていたよりずっと脆いなぁ。本物の煙管はどうしたんだい?君の命数を削って作ったものだろうに」
そう笑うノアは魔物らしかったが、ネアはおやっとなって首飾りの金庫の中に拾得物だが問答無用で戦利品な煙管が入っていることを思い出していた。
(この人はもしかして………?)
「………そういう君は、階位落ちした割には元気だね」
「そりゃそうだ。階位は別にどうでもいいけどね、弱いということは不愉快なことなんだよ」
「…………補填しているのか」
「どうかな?君くらいなら、今の僕でも充分かも知れない」
「それは違う。階位落ちした塩の魔物であれば、僕の方が序列が上だ。それなのに君は今、余裕を持って僕を制してる。………はぁ、また階位落ちか」
唐突に人間臭い顔をして肩を竦めると、ヨシュアと呼ばれた人外者はうんざりと首を振った。
「白百合と白薔薇、それに白夜まで階位落ちして、やっと五席になれたと思っていたのに」
「へぇ、白薔薇も階位落ちしたんだね」
「アイザックとの交戦で寝込んだらしくてね。彼は花を司る者だから、一度弱ると如実に階位を落とすし」
「相変わらず、あの二人は仲が悪いなぁ」
「アイザックは白薔薇が嫌いだし、白薔薇もアイザックが嫌いだ。君がウィリアムのことを嫌いなのと同じだよ」
「ところが、最近はそうでもないんだよ。一緒に海に行って遊んだりしてるしね」
「…………ウィリアムと?」
ぎょっとしたように目を瞠ってから、男はまた深々と溜め息を吐いた。
「こりゃ、寝てばかりじゃいけないな。だから久し振りに夜の狩りをしようと思ったのに、まさか君のお気に入りがいるところなんてさ」
「まったく、僕もいい迷惑だよ。よりによっての大事なデートで、百年に一度するかしないかの君の狩りに遭遇するとは思ってもいなかったな」
「道がある土地にしか降りないよ。きっとこの森は僕に縁がある土地だったんだろう。昔のことなんてすぐに忘れちゃうから、あんまり覚えてないけどね」
(それはまさか、雲の魔物さんの道具的なやつを私が隠し持っているからでは……)
もはや会話からこの男性が魔物であることは確定したので、ネアはまず間違いなく雲の魔物だろうと当たりをつける。
雲の魔物は白持ちだと聞いていたので、第五席界隈の魔物となればますますこれで間違いなさそうだ。
「…………ノア?」
「ああ、ごめんね。もう大丈夫だよ。怖かったよね」
「厄介そうな方なら、念の為に殺しておきますか?」
「えっ?!」
「生きたまま逃しても良いのでしょうか?それとも、狩ってしまいます?」
「…………念の為に聞くけど、ヨシュアを狩った場合も売るのかい?」
「もしや、高く売れますでしょうか?」
一攫千金を思い目をきらきらさせたネアに、振り返って見上げたノアが慌てるのがわかった。
「駄目だって!高位の魔物を滅したら、国一つ滅びるんだよ?!いいかい?くれぐれも白持ちの魔物は殺しちゃ駄目だからね?」
「むむぅ」
「うわっ、いつ出したの?!その水鉄砲早くしまって!っていうか、ヨシュアは早く逃げて!!」
「…………人間だよね?」
「咎竜の王も狩るし、アルテアも倒せるからね!」
「…………用事を思い出した。僕は空に帰る」
「ノア!獲物が逃げてしまいます!!」
「ちょ、落ち着いて!!………って、ネア?!」
「とりゃ!」
ネアが雲の魔物に投げつけたのは、戦闘靴こと、死のブーツだ。
実は先程からノアが不利になった場合は投げつけようと考えており、靴紐を緩めてあった。
足を勇ましく蹴り上げたことで足からすっぽ抜けて飛んできたブーツが命中し、ヨシュアと呼ばれていた魔物はばたりと倒れる。
「ネア?!」
「ふっ、安心して下さいね、ノア。これまでの経験則から、高位の方はこのくらいでは死なないと知っているのです。せいぜい、意識を失うくらいですね!」
「…………わーお。僕、今ちょっとだけ、君の狩りに付き合ってきたシルを尊敬してる」
「最後に大物が狩れましたね!」
「駄目だってば!これは持って帰ったら駄目だよ!捨てていくこと!」
「…………ボール」
「ちょっと待って、君の交換条件が残酷過ぎるんだけど!」
頭を抱えてしまったノアを置き去りにし、ネアは獲物に駆け寄った。
慌ててノアも追いかけてくる。
「毛皮はありませんから、そちらの収入は見込めなさそうですね。ターバンを引っぺがせば、宝石も売れそうです」
「それ、追い剥ぎの台詞だよ?!」
「む、動きましたね。よいしょ」
「ちょっと!それご褒美なんだけど!」
獲物が息を吹き返しかけたので、ネアはよいしょとその背中に腰かけた。
転がっていたブーツを履いて紐を結び終えた頃になると、はっとしたように目を開いた魔物と目が合った。
そして、魔物は目が合うなり懇願に入る。
「…………殺さないで下さい」
「狩りとは残酷なものです。激辛香辛料油と、死をもたらすブーツで踏まれるのと、どちらがお好きですか?」
「…………ノアベルト、助けて」
「僕でも敵わないんだよ。僕の最大の弱点も握られてるし、でも、交渉してみよう」
なぜか途端に弱々しくなった魔物にネアが首を傾げていると、ノアがその理由を説明してくれた。
「ネア、ヨシュアは雲の魔物だから、あんまり地面に接してると弱るんだよね。空に返してあげたりしない?」
「しかし、出会い頭に襲ってきた悪いやつです。私の狩りの邪魔をしたのですから、狩られて売られてしまうのが筋というものでは?ノアとも仲良くなさそうですしね」
「ノアベルトは友達だ」
「え、友達じゃないけど……。でも、ええと、ほら、君がまた魔物を狩ってくると、僕がシルに怒られちゃうからさ」
「では、こっそり捌いてしまって、売り払ってから帰りましょうか」
「ヨシュア、もっと謝って!」
「………君と、本当は友達じゃないこと?」
「襲おうとしたことと、狩りの邪魔をしたことかな!」
雲の魔物は一瞬躊躇したようだ。
何しろ背中の上に乗っかっているのは、名も知れぬ脆弱な人間である。
しかし抵抗しきれないのか、屈辱に満ち溢れた眼差しで唇を噛んだ。
なぜ倒されたのかわからないので、得体が知れず恐ろしいのだろう。
「……この度は、いきなり危害を加えようとして申し訳ありませんでした。それと、狩りの邪魔をしてしまい、ご迷惑をおかけしました」
「むむ。礼儀を弁えた方となると、アクス商会に売り飛ばすのは可哀想な気もしてきましたね」
「アクス商会?!」
ネアが何気なく出した言葉に、ヨシュアはびゃっとなると震え出した。
「………やる。アイザックなら、やるぞ。僕を切り売りにだってしかねない。三百年前の時だって、僕の片手を枕にして売ろうとしたんだ……」
ぶつぶつと呟いているのは、アイザックへのある意味揺るぎない信頼なのだろう。
手を枕にされてしまう原理はわからないが、雲の魔物らしいエピソードなのだろうか。
そしてヨシュアは、今度こそ怯えを含んだ目でネアを見上げ、叱られた子犬のような顔になった。
「ど、どうかそれだけは」
「ふむ。であれば、私のお知り合いに悪さをしないと誓えますか?」
「誓います!………先んじて襲われなければ、反撃は…」
「あれこれ面倒臭い条件がつきそうですね。時間がかかりそうなので、やっぱりやめましょう」
「あなた様のお知り合いの方には、決して手出しをしません!」
「うむ。…………ノア、今の言葉を正式な約束事に出来ますか?」
「名前にかけて誓わせれば、正式になるけど、そもそももう怯えきってるからなぁ」
「ヨシュアの名にかけて誓います!」
「あ、言っちゃったね………」
平伏してネアに許して貰った魔物は、もし約束を破ったら、人面魚のうじゃうじゃ泳ぐ水槽に一晩浸けられた後、アイザックに売り飛ばされると言われて涙目になっていた。
「………言っておくけど、抜け道を探してこの子に報復しようとしたら、とんでもない目に遭うよ」
別れ際にノアにそう言われ、すっかりぼろぼろになった雲の魔物はこくりと頷く。
「そもそも、魔物の第三席相当の君が守護してるんじゃ僕は関わらないよ」
「………あら?第三席は、アルテアさんなのではなかったのですか?」
「本物ではないとは言え、僕の煙管を詠唱なしで崩せるなら、僕は勿論、アイザックよりも強いと思う。アルテアと同位くらいだろう」
「そうかなぁ。アイザック自体、第四席かどうか怪しいよね。彼が司るものは、己の感情補正が効く要素だしね」
「だが、アルテアも選択だ。………それともしかして、その子はアルテアとも知り合いなの?」
「使い魔さんですね!」
「つかいま………」
震えを酷くしながらノアの方を見たヨシュアは、神妙な顔でこくりと頷いた塩の魔物に顔面が蒼白になる。
「そ、そんなことを出来る人間が居るはずがない。僕はきっと、悪い夢を見てるんだ……」
「因みに、ウィリアムの守護も受けてるし、シルハーンの指輪持ちだよ」
「シルハーンの?!」
そこまで知ってしまった雲の魔物は、あとはもう怖くて泣きじゃくるばかりだったので、ノアに慰められ、ネアにはもし困ったことがあればいつでもお呼び下さいと言い残して空に帰って行った。
「ヨシュアが怖いのはね、一番がシルとアイザックで、二番目がウィリアムとアルテアなんだ。シルには懐き過ぎて消されそうになったことがあるし、アイザックにはさっき言ってたみたいに、商品にされかけたらしい。ウィリアムには変な忠告を良かれと思ってして首を落とされたことがあって、アルテアには一度喧嘩してずたぼろにされたからなぁ」
遠い目でそう語るノアに、ネアは成る程と頷いた。
「………ネア、彼が僕にも敵意を向けたから、叱ってくれたんだよね?」
「当然のことなのです。あの方の言葉で、ノアは一度とても嫌な顔をしました。私が怒るのは当然ではありませんか」
「………抱き締めていい?」
「むぎゃ!言う前にやられています!首回りを締め付けるのはやめるのだ!」
(正確にはノアだけではなくて、攻撃的な性質の魔物さんであれば、誰にも悪さを出来なくしてしまおうとしたのだけど……)
出会っていないものまで狩るつもりはないが、不安要因が目の前にいるという好機であれば、恐怖心を植え付けておくのも吝かではない。
人間は狡賢く、そして高慢で残虐な生き物なのだ。
自分の領域を侵しかねない生き物など、威嚇をするに決まっているではないか。
教えて貰ったことによれば、雲の魔物は普段は争いを好まない気弱で優しい魔物なのだそうだ。
高位のひと柱だが我関せずという気質でもあり、昼寝ばかりしているので隙も多い。
とは言え夜に月を隠す雲は凶兆とされ、その時の彼に出会った者は凄惨な目に遭うのが常とされる。
ネアはその類稀なる機会に遭遇してしまったという訳だった。
「雲の系譜の妖精と仲良しだけど、魔物ならドーミッシュと仲良しなんだ」
「あの、キヒっと笑う小鹿魔物さんですね」
「………ネア、今夜のことで僕とのお出かけは懲りちゃった?」
「あら、どうしてですか?ノアは私をきちんと守ってくれましたし、楽しい狩りでしたよ?」
「そっか、良かった!変なケチがついて君がうんざりしてたらどうしようかと思ったよ」
ほっとしたように笑ったノアだが、また狩りに行くならシルも一緒にねと言われる。
一人では押さえきれないと判断したようだが、二人のお出かけはとても楽しかったそうで、今度はお城を見せてくれるのだそうだ。
その後、二人は狩りを切り上げ、隣の国の素敵なレストランで遅い夕食をいただいた。
さすがデート慣れしているだけあり、ノアは美味しいお店を沢山知っているのだと、ネアはほくほくとお料理を堪能する。
良い運動の後のご飯程、美味しいものはない。
リーエンベルクに帰ったネアは、とんでもない狩りの獲物を披露してディノを困惑させつつ、その狩りのついでに雲の魔物を泣かせたとノアが言ってしまったので、エーダリア達をも呆然とさせてしまった。
ヒルドからは、場合によってはそのような仕打ちを好む相手もいるので、下手に調教してはいけないときつく言い含められることとなる。
変態ばかりに囲まれるつもりはないのでネアは大変に遺憾であったが、世の中にはネアをそのような形で崇拝してしまう生き物もいるかもしれないとのことだ。
とは言え、偶然その夜にお土産を届けにリーエンベルクに来てくれ、この話を聞いてしまったウィリアムに何やら釘を刺されたヨシュアは、もっと辛い思いをしたようだ。
ウィリアムから、叱ってはおいたがもし彼が何か悪さをしたら、持っている煙管をぱきんと折ってしまえば数年は動けなくなるからといい笑顔で教えて貰った。