秋風の魔物と鈴虫の妖精
その日ネアは、リーエンベルクの裏門のところで、奇妙な生き物を発見してしまった。
びくりと体を揺らしてから、一緒に居た魔物の三つ編みを引っ張ってみる。
おやっと振り返った魔物は、ご褒美でもないのに三つ編みを引っ張って貰えたのでご機嫌だ。
「どうしたんだい?」
「妙なやつが蠢いています」
「その門のところかな?」
「かさかさ生物めが……」
「おや、………秋風の魔物ではないでしょうか?」
門の周りの結界を確認していたヒルドが、こちらを向いてそう教えてくれ、何の風もない場所で石畳の上に転がっているだけの生き物にネアはふるふるする。
「茶色いぼそぼその生き物です。葉っぱを目指したのか、紙くずを目指したのか、謎に満ち溢れた魔物さんですね」
ネアが見つけた生き物は、かりかりに乾いた落ち葉のような茶色をしていて、千切って丸められた紙屑のような形のものだった。
顔などはないが、時々ミュイと鳴くので生き物だと判明した次第である。
「まだこの辺りでは本格的な秋風の時期ではないからね。秋風の吹いている土地からこちらまで飛んできて、力尽きたのだろう」
「儚い生き物ですねぇ」
「秋風が吹くと、黄金色の蝶になって風の中を舞うんだよ。それ以外の時は、こういう姿で地面に横たわっているんだ」
「…………踏み潰されてしまったりしないのですか?」
「大丈夫、踏まれ慣れているだろう」
「なぬ…………」
ディノの説明が終わり、ネアは更に恐ろしいものを見る目で、石畳に横たわってカサカサしている魔物を見下ろす。
因みに、秋風の魔物は季節の風物詩のようで、歩道に落ちている秋風の魔物を踏んでしまい、魔物がみゃっと鳴くと人々は秋を感じるのだとか。
昨年には出会っていない生き物なので、ネアはますます不審に思う。
「昨年にはいませんでした。それとも、知らずに踏み滅ぼしていたのでしょうか?」
「…………昨年は、秋の季節周りの生き物が少し遅れたんだよ。この辺りには秋風の魔物は来なかったんじゃないかな」
「まぁ、季節的な異変があったのですね。………まさか」
「…………うん」
ディノは少しだけ苦笑し、口元をもにょもにょさせる。
ネアに出会えて嬉し過ぎたという魔物は、どうやら昨年の秋には様々な異変を引き起こしていたらしい。
ヒルドの説明では、エーダリア達を始めとするウィームの有識者達は、ディノがはしゃいでいるからではなく、飛び抜けて高位の魔物が出現したことによる気候異変として認識していたようだ。
気象性の悪夢が少なく麦や葡萄も大豊作になったので、あまり悪影響としては囁かれず、吉兆に区分されているらしい。
原因がわからなければ騒ぎになっただろうが、幸いにもエーダリアがディノを見ていたので、原因が分かっていたのが良かったのだ。
(そう言えば、南瓜の魔物も、昨年はウィームではあまり観測されなかったそうだし……)
南瓜の魔物は苦手な容姿の生き物だったので、ネアはあまり遭遇したくないと願うばかりだ。
昨年の秋に、ディノがくしゃくしゃになって捕まえてきてくれたが、足の動きがホラー過ぎて、どうか一刻も早く捨ててきて欲しいとしか思わなかった。
そういうもので、尚且つ領民の暮らしや自然に悪影響のないものであれば、減ってくれても構わないと考えるのが、邪悪な人間である。
「…………とは言え、こやつは、私が戦闘靴で踏んでしまったら死んでしまいますよね」
「そうだね。その靴だと丈夫なパンの魔物も死んでしまうと思うよ」
「馬車に轢かれても大丈夫なパンの魔物さんですが、この靴は竜も滅ぼせるので仕方ありません……」
自慢げに胸を張ってみせたネアを褒め称える魔物の横で、ヒルドは少し考え込むような仕草をした。
「………これが最初の個体、或いは最初に飛来したものの一つかもしれませんね」
風を読む為に空を見上げ、ステンドグラスのように美しい妖精の羽を微かに広げる。
ネアは咄嗟に美味しい羽根を齧りたくなった自分を叱咤し、柔らかな風に髪を流している美しい妖精の横顔を眺めた。
「秋風の魔物が来たということは、来週あたりには強い風の日がありそうですね。週末の秋の焚き上げに重ならなければいいのですが」
「山車人形を焚き上げる、荒々しいお祭りですね」
「ええ。火を扱う祝祭ですので、風向きには注意しないといけませんからね」
「確かに、火の粉が飛ぶと火事になりそうで怖いです」
「焚き上げの火を受けるのは悪いことではないのですが、呪いの性質などを利用している結界や魔術基盤を壊してしまいます。この秋風の魔物は、念の為に持ち帰りましょう」
その言葉にネアはぎくりとした。
可愛いやつならともかく、この得体のしれないカサカサをリーエンベルクに入れるのは少し勇気が入る。
逃げ出して床に落ちていたりしたら、どうすればいいのか。
踏んでみゃっと鳴くのを聞いてみたい気もするけれど、謎の生き物が床に落ちている方が辛い。
「…………秋風の魔物さんを、持ち帰るのですか?」
「リーエンベルクの騎士の下で、特殊な籠に入れて仲間達の到来を報せて貰うんですよ。仲間がたくさんやって来ますと、大きな声で鳴きますから」
ネアとしては、それは仲間に助けを求める叫びなのではないかと思ったが、あえて言わずに頷いておいた。
秋風の魔物が大きく鳴いた夜が明けると、ウィームには落ち葉を舞い上がらせる強い風の日がやってくるのだそうだ。
昨日見に行ってもぬけの空になっていて落胆したちびまろ館の生き物達の代わりに、またムグリスなどの秋から冬にかけての生き物達が渡ってくる時期になる。
ネアは、昨年よりいっそうの親しみを増したムグリスの飛来を、今から楽しみにしていた。
出来ればお庭のちびまろ館に来て欲しいが、それには麦でも供えておけば良いのだろうか。
「さて、これでリーエンベルク周辺の結界補填は問題ありませんね。お付き合いいただき、有難うございました」
「はい!山車人形の脱走に備え、万が一の抜け穴もあってはいけませんものね」
「ええ。昨年の祝祭で脱走しようとした山車人形はグラストが捕まえたそうですが、一昨年の祝祭の際には、逃げ出して封印庫の結界を破り、屋根の隙間に隠れていたそうですから」
「…………リーエンベルクには決して逃げ込ませません」
ネアの声に決死の覚悟が滲むのは、来週の祝祭で使う山車人形がとても精緻な作りのものだからだ。
枝葉や乾燥させた香草、そして蔓に麦穂などで本体を作り、その人形に上等な服を着せる。
顔の部分は仮面をかけるような造りになっていて、山車人形の顔を作るだけの職人がいるのだそうだ。
その表情があまりにも素晴らしく、毎年山車人形は動き出してしまうらしい。
即ち、そんな山車人形を焚き上げてしまう恐怖の祝祭でもあるのだ。
(動く人形がお部屋に入ってきたら大変だから、絶対に侵入は阻止しなければ!)
そしてそんな山車人形は、焚き上げから何とか逃げ出さんとして、隙あらば脱走するのである。
その脱走によるリーエンベルク内への侵入を警戒し、ネア達は本日、結界に綻びがないか探していたのだ。
なまじ祝祭に使われる山車人形なだけあり祝祭魔術で強化されていて、人形も人形なりになりふり構わず侵入してくる。
その時に遭遇してしまうと、死に物狂いの山車人形に叩きのめされてしまうこともあるのだとか。
(色々な意味で運用を見直して欲しいお祭りだけれど、古くからある祝祭であるそうだし………)
今から何百年も前はまだ、山車人形も小さなものだったそうだ。
しかしそうなると、観光客の荷物に紛れて脱走したりするので、あえて目立つようにということで大きな山車人形が作られるようになった。
山車人形を焚き上げないと秋の入りの収穫は不作になるので、人々も必死なのだ。
(そして、火で浄化するのは定番だけれど、ウィームの民は何かと最後には全部燃やしてしまうのもどうなのかしら……)
若干、祝祭で燃やし過ぎではなかろうかと思うものの、よく考えてみれば前の世界でも火というものは祝祭のお供であった。
「ネアは、山車人形にはあまり興味がないのかな?」
「どちらかと言えば、怖いと感じるお祭りです……」
「クッキーは、祟りものになっても怖くなかったのにね」
「クッキーはクッキーですから」
「山車人形にも毛はあるみたいだよ?」
「毛髪と毛皮は違うのです………」
「そうなんだね」
ネアの感性は、ディノやヒルドにはわからないらしく、二人は首を傾げている。
しかし華やかな山車が出ると聞いて楽しみにしていた祝祭だが、ネアは詳細を知ってしまった日の夜はすっかり怯えてしまい、ディノに隣に寝て貰ったくらいだ。
この世界には奇妙なものも多いが、死者の国以降本格的な心理的恐怖となるネアからすれば、今年の山車人形カタログを見ながら、また職人は腕を上げたなぁとのどかに語らう人々の気持ちはまるでわからない。
寧ろ、怖いと思いはしたが、この世界の恐ろしく美しい生き物という区分であった藤の谷の方が、まだマシという気分になるくらいである。
(おまけに、女性姿の人形………)
山車人形の性別は毎年変わり、今年の山車人形は貴婦人の人形なのだそうだ。
等身大の美しい貴婦人姿の人形が部屋の隅に潜んでいたら心臓が止まってしまうので、ネアは今からかなり警戒していた。
みんなが恐れていたクッキーの祝祭は楽しかったが、今回の祝祭はなかなか楽しみにするという気持ちにはなれなさそうだ。
焚き上げの魔物も恐ろしい容姿だと言うし、ネアは出来るだけ遠くから見守りたいと思う。
その祝祭が終わった翌日の安息日にブナの森に住む知人に会いに行く予定なので、そちらの予定を心の支えにして何とか乗り切ろう。
(山車人形の祝祭の前には、トンメルの宴もあるし!)
そして、ブナの森から帰ってきて数日したらもう、秋告げの舞踏会なのだった。
(その頃には、ウィームでは冬の足音も聞こえる頃かしら)
「ディノ、そう言えば……………またしても妙なやつめが」
結界の確認を終えた門を開いているヒルドの足元に、見たことのない黒い物体が転がってきた。
そちらを見ていなかった筈のヒルドに爪先できゅっと踏み止められており、もがもがと転がって暴れている。
「………これは、知らないかな」
「煤けた鈴のような、球体の生き物です」
「鈴虫の妖精ですよ、ネア様」
「………鈴虫とは、秋になると鳴くあの虫でしょうか」
「おや、ネア様の世界にも、鈴虫がおられたのですか?」
「昆虫でしたが、こちらの世界の鈴虫の妖精さんは煤けた鈴にしか見えません………」
完全に不審者を見る目で鈴虫の妖精を見下ろすネアに、ヒルドは微笑んでその生態の説明をしてくれた。
「その通り、使い古された鈴から生まれる妖精でして、楽しそうに会話している者達を見ると、足元に転がってきて鳴り続ける生き物です」
「…………地味な嫌がらせをするやつなのですね」
「それと、秋風の魔物を食べますので、それを目当てに寄ってきた可能性もありますね」
「なぬ…………」
そうこうしていると、鳴らないように爪先で押さえられてしまっていた鈴虫の妖精は、何とかヒルドの足の下から抜け出し、ジリリリとけたたましく鳴き出した。
これはもう秋の虫の鳴き声という範疇ではなく、目覚まし時計の音量なので、ネアはまたしてもぎりぎりと眉を寄せる。
「…………失礼。転がる方向を変えて抜け出されてしまいました」
「激しく鳴く妖精さんでした」
「己の存在を誇示したがりますからね。この時期は増えますから、煩わしいようであれば、こうして押さえてしまえば鳴きません」
「…………あら、うちの魔物はすっかり驚いてしまいましたね」
「ご主人様……」
いきなり大音量で鳴いた妖精に、驚いたディノは咄嗟にネアを持ち上げたまま固まっていた。
どれだけ高位の魔物とて、いきなりの目覚まし時計はやはり驚いてしまうのだろう。
「大丈夫、怖くはなさそうですよ?」
「……………初めて見たよ」
「ディノ様、大変申し訳ないのですが、少しだけ擬態を緩めて魔物としての精神圧を漏らしていただけますか?鈴虫の妖精は、高位の魔物をとても嫌いますので」
「そういうものなんだね」
そこでディノは、ネアにはわからない何かの調整をしたようだ。
ヒルドの足元に転がっていた鈴虫の妖精が、びくっと体を揺らすのが見え、ヒルドが爪先を上げるなりしゅっと転がって消えていった。
「………ほわ、目にも留まらぬ速さで消え失せました」
「あんな風に早く転がるものなんだね」
「私もあそこまで早く移動する姿は初めて見ました……おや、」
「ぎゃっ」
その直後、あらゆる茂みから鈴虫の妖精が飛び出し、物凄い速さで遠くに消えて行った。
黒い生き物がざかざか走って行くので、ネアは背中がぞわりとするばかりだ。
ネアを抱き上げたディノも、怯えた目で鈴虫の妖精達を見送っている。
相変わらずこのような生き物には免疫がないらしく驚いたり怖がったりしてしまうとは言え、今回の鈴虫の妖精大移動はネアでもぞわりとする光景だったので、ディノが怯えるのも致し方ない。
「またしても驚いてしまいましたね。今のは、私もどきっとしました」
持ち上げてくれている魔物の三つ編みをぎゅっと握ってやり慰めると、しゅんとしたまま頷いた。
「おや、あなたもいたのですね」
「む…………?」
そこで、ヒルドの声に振り返ったネアは、リーエンベルクの中に戻って来たネア達を出迎えようとしていたのか、門の上に乗ってこちらを見ていた銀狐を発見する。
尻尾の先までけばけばにして固まっているので、やはり鈴虫の妖精を見てしまったのだろう。
はっと我に返ってから慌てて地面にしゅたっと飛び降り、ヒルドの足元で跳ね回っている。
やや渋面気味のヒルドが、深い溜息を吐いてからそんな銀狐を抱き上げてやった。
ヒルドの腕の中で、銀狐はまだ目を丸くしたままけばだって震えている。
「………相変わらず、魔物の方々はふとした物に驚かれるようですね」
「ヒルドさんは、びっくりしなかったのですか?」
「鈴虫の妖精ともなれば、毎年あのような感じですから。ただ、急に足元から飛び出すこともありますので、どうぞ驚いて転ばれませんように」
「それは確かに危ないですね、ヒルドさんに言われなかったら注意出来なかったかもしれません!気を付けますね」
胸を押さえて凛々しく頷きつつ、ネアはヒルドの腕の中でひしっと抱き付いている銀狐に視線を移し、ふわりと唇の端を持ち上げた。
「ネア様………?」
「狐さんは、すっかりヒルドさんを頼り切っています。頼ったり甘えたりするということって、意外に難しいことですよね。ですから、そんな姿を見ていると、何だか胸の奥がほっこりするのです」
ネアにそう言われてしまった銀狐とヒルドは、お互いを見て少し固まっていたようだ。
ヒルドを見上げた銀狐が、ややあって尻尾をふりふりする。
ネアのところからでも少しだけ、ヒルドの瞳が柔らかくなったような気がした。
(一緒に暮らすということは、そうして深めてゆくことなのだと思う……)
互いに寄り添い、手を取り合うことが当たり前になる。
得られなかったものを得て幸せになるのは、ふとした時にこうして寄り添える瞬間ではないだろうか。
「………この後は休憩に入りますから、ボール遊びでもしますか?」
思いがけず懐いてしまった塩の魔物に気持ちも柔らかくなったのか、そう提案してくれたヒルドに、銀狐の尻尾は激しく振り回された。
ボールを思うあまりか、ぶるりと身震いして期待に震え出したので、ヒルドは小さく苦笑すると、ではと呟く。
「ふふ、すっかり仲良しです」
「あんな風に懐いてしまうものなんだね」
そんな姿に、ネアは、ディノと顔を見合わせて微笑んだ。
「ディノも、すっかり大事な魔物になりましたしね」
「ご主人様も懐いてきたし……」
「むむぅ、ご主人様は懐くという感覚なのですか?」
「時々、腕を叩いてくれるだろう?でも、最近は後ろからしてくれないね」
「言い方が!」
「前はよくしてくれたのに。……他の誰かにしてはいないよね?」
「あれは、ご主人様が感極まった時にだけ発動されるものなのです。でも、ディノにしか発動しないので安心して下さいね」
「ノアにもかい?」
「あらあら、心配性ですね。ノアにもしませんよ。今夜のことが心配ですか?」
「ずるい………」
今夜はノアとの冒険あらため、異国へ狩りに行くので、それまでには人型に戻ってくれるだろうか。
お留守番になる魔物は拗ねているが、そこまで危ないこともないだろう。
「ネア、くれぐれも高位の魔物は狩らないようにね」
「むぅ。私は狩りの女王ではありますが、無差別に人を襲う通り魔ではありませんよ!」
「大丈夫なのかな………」
「なぜに余計にしゅんとしたのだ」
「ほら、君はアルテアも狩ってきてしまっただろう?」
「あれは、捕獲したところを呼び出されただけですよ。それに、そうそう簡単に高位の魔物さんが落ちてもいないでしょう」
「…………うん」
その後、ほらやっぱりと、他の魔物を成り行き上椅子にしてしまったご主人様に荒ぶる毛布妖怪が生まれてしまうのだが、ネアはまだそのことを知らなかった。