人面魚と予防接種 2
市場はお昼前の賑わいで、様々な人々に溢れていた。
昼食の買い物に来た領民達に、夜からの営業に備える店主達。
そして相変わらず、品物の豊富なウィームの市場には、観光客や他の土地からの買い付けにくる商人も多い。
「もう二度と、生きた棘牛は買うなよ」
「あら、棘牛さんを買ってしまったのはディノですよ。私は使うものだけを堅実に………はちみつちーず……」
凛々しく堅実な発言をした途端、運命はネアに厳しい試練を課した。
ふわふわのクリームチーズをカップによそり、蜂蜜を回しかけたお菓子が売られていたのだ。
上には、一粒の木苺かひとつまみのお塩をかけるかを、購入の際に自分で選ぶことも出来る。
視線をそこにあてたまま歩いてゆくと、アルテアが隣で溜め息を吐くのがわかった。
手を掴まれ、ベルトに指を引っ掛けられたので、ネアは魔物達の過保護ぶりにひそかに慄く。
これでも一応は自立した大人であるので、市場で迷子になる程愚かではないのだ。
アルテアまでとなると、相当に過保護な種族なのかもしれない。
魚売り場に行くとムグリスディノが弱ってしまうのだが、アルテアは鮭を買う予定があるらしい。
なのでその間、ネアは隣にある乾物屋さんで待っていることにした。
「魔術の紐をつけてあるが、くれぐれも妙な奴に着いて行くなよ?三分で戻る」
「むぅ。私はお菓子でかどわかされる幼児ではないのです」
「六ぽっちだろうが」
「おのれ、その暴言ゆるすまじ」
アルテアは本当に小走りで買いに行ったので、ネアは渋面度合を深めて溜め息を吐いた。
そしてそこで、美味しそうな乾燥杏に注意を向けることにする。
乾燥果物や、果物の砂糖漬けは保存がきくので買い足しておいても良いし、細かく刻んで焼き菓子や、お料理に入れてもいい。
ネアはぬかりなく、乾燥杏と乾燥無花果、そしておやつ用の乾燥杏をシュガーコーティングしたものを秒速で買った。
おまけで、オレンジピールの砂糖漬けをつけて貰い、ご機嫌でお買い物を終える。
「………おや、ネア様ですね」
「まぁ、ローンさん。ご無沙汰しております」
そしてここで、夏ぶりに会うアクス商会の幹部のローンに、ばったり遭遇した。
はっとして周囲を見回すと、慌ててローンを柱の影に押し込む。
「擬態出来ますか?市場にはアルテアさんと来ているので、遭遇してしまうとお嫌でしょう?」
「…………っ、ご忠告、有難く拝受します」
ローンは素早く擬態するとぺこりと頭を下げて、この市場の奥にある、変わった魚を取り扱う店の主人に卸しに来たという商品を、一つネアに分けてくれた。
お礼代わりなのだそうだが、品物なので申し訳ないと言うネアに、構わないと首を振ってくれる。
「まだ、増やしているところですので、見本品のようなものなんです。お得意に一度これを卸し、本格的な注文を待つ算段ですから。もし宜しければ、ガレンの長殿にでも」
「エーダリア様が喜びそうなら、是非にお渡しさせていただきますね」
「ええ。珍しい魚の稚魚ですよ。では、これで……」
ローンは早口で喋ると素早く姿を消し、ネアは乾物屋に向き直った。
しかし、ゆらりと背後に立った何者かにびしっと頭を叩かれる。
「むぎゃ!」
「勝手にうろつくなと言っただろうが。誰だ、今の奴は」
すっかり油断していたが、相手は魔物なのだ。
ネアが誰かと密談していたことなど、すっかり御見通しだったらしい。
しかし、彼にも油断があるとすれば、ここにいるのがかなり腹黒い人間であるということだ。
どうやら、ローンが擬態してから気付いたようで一安心である。
「ウィリアムさんのお知り合いの方です。以前、ウィリアムさんとお会いしたことがあるんですよ」
「ほお、ウィリアムのな……。どうせろくな系譜の奴じゃないだろ」
「そして、なにものかの稚魚を貰いました」
「は?」
ネアはそこで、市場を行き交う人々の邪魔にならないよう端っこにより、貰った紙袋をそっと広げてみた。
透明な円錐形の瓶に入ったのは、メダカぐらいのサイズの小さな魚だ。
ネアはぞっとして胸元を確認し、ムグリスディノが寝込んだままでいることに安堵した。
「………ふむ。私の目が確かならば、こやつは人の頭をした不気味な魚ですね。またしても再会してしまうとは運命が呪わしいばかりですが、今度は稚魚なので心の傷も軽いです」
「おい、それをこっちに向けるなよ」
「………さては、アルテアさんも苦手なやつでしょうか。しかし、ディノが見て寝込んでしまったものは、狐さんくらいの大物でした。こやつは、爪先くらいの大きさの稚魚ではないですか」
「おい、ふざけるな」
「お魚さん、お魚さん、こちらがアルテアさんですよ」
「やめろ」
アルテアは結果上手い具合に弱ってくれたので、ローンのことを追及されるのは免れたようだ。
ぶつぶつと文句を言う魔物に、稚魚をひとまず金庫にしまってぎょっとさせつつ、ネアはペット用品のお店にも忘れずに立ち寄ることを思い出す。
「後は、クリームチーズを買って、狐さん用の換毛期専用ブラシを手に入れるだけですね」
「クリームチーズが増えてるぞ。腰回りがどうなっても知らないからな」
「あんなしゅわっとして爽やかなものが、私のウエストに何の悪さを出来るでしょう」
「そう思ってろ」
ペット用品のお店は、市場の外側の道具屋街にあるのだそうだ。
ネアはその前に華麗にチーズ専門店に立ち寄り、クリームチーズを購入した。
しゅわっと甘く爽やかなクリームチーズには、黄金色の蜂蜜がかかっていて見ていても嬉しいくらいだ。
ネアは初めての運用で塩をぱらりとして貰い、つけてもらった木のスプーンでぱくりといただいた。
「お塩をぱらりとすると、甘さが際立って素敵なお味です!」
「そりゃ良かったな」
「そして、道具屋さんの方にはあまり行かないのですが、色々なお店があるんですね」
「一年もウィームにいて、まだ見てないのか?」
「この辺りには、私を脅かす妖精さんがいて近寄りがたかったのです。前の冬に、雷鳥さん達と共闘して滅ぼしましたが、あやつらは無尽蔵に生まれてくるのできりがありません……」
「何を滅ぼしたんだ、何を」
「鋼の妖精さんです」
そう告白すれば、ひどく遠い目をしたので、もしかしたらお気に入りの妖精だったのかもしれない。
頭を叩かれそうになったので、ネアは食べかけのクリームチーズを一口分け与えて黙らせておいた。
ネアの頭頂部に打撃が入ると、胸元で寝込んでいるディノも揺れてしまうではないか。
「…………キュ」
「あらあら、ディノも食べたいのですか?」
「キュ」
「お口をべたべたにしないように気を付けて下さいね。待ってください、ハンカチも用意します」
ご主人様が他の魔物に食べ物を分け与えていることに過敏に反応した魔物の為に、ネアはまずムグリスディノに食べさせやすい横向きになって貰い、はちみつとクリームチーズの美味しいところをひとすくいする。
案の定小さなお口はべたべたになったので、ハンカチで丁寧に拭いてやった。
「キュ」
「ふふ、少しお腹が落ち着いて、心も落ち着きましたか?」
「………キュ」
「あらあら」
まだ心の傷が塞がらないのか、ムグリスディノはおやつを食べるともそもそと服の中に戻っていった。
ネアは可愛いやつめという気持ちだが、アルテアは先程より表情が険しくなっている。
「…………お前、その持ち運びは二度とやるな」
「現行の運用には、そのようになった理由があるのです。他にいい持ち運び場所がありますか?」
「首から篭でも下げろ」
「大事なムグリスディノが丸見えではないですか」
「そもそも、そこだと落ちるんじゃないのか」
「すっぽ抜けて落ちても、ウエストできゅっとスカートが押さえてくれますので、お腹のあたりに溜まっていてくれるのです。それに、普通に動いているくらいなら、上手く止まっていてくれますしね」
「………今度、そいつの入れ物を考えておいてやる」
「外からは無防備な生き物が見え難く、尚且つふかふか毛皮を楽しめ、隠れているムグリスディノと意志疎通がし易いものでお願いしますね」
ネアが欲張ったオーダーをし過ぎたせいで、クリームチーズがもう一口奪われる運びとなった。
最後の方は、あと何口楽しめるか計算ずくで食べているので、その回数を減らされたネアは怒り狂ったが、お昼に素敵な鮭のパイ包みを作ってくれるそうなので許してやるしかなくなる。
「ここが、その店だ」
「まぁ、ペット用の櫛やブラシ、鋏まで沢山のものがあるんですね」
「その二番目の棚が換毛期用だな。あの狐なら、二号サイズってところか」
「銀色と、金色があります………」
「どっちかにしろ。二個も買わんぞ」
「む!買って貰えるご様子!」
ネアは使い魔の気持ちが変わる前に、換毛期用のブラシを素早く選んだ。
折角なので銀色のブラシで、背面に冬の花のリースの模様が彫られたものにする。
金色のブラシには小麦のリースがあって、ムグリスには良さそうなのだが、残念ながらムグリスは妖精なので明確な換毛期はないのだそうだ。
「ほわ、アルテアさん有難うございます」
持ち手が柔らかなリボンになっている四角い上質な紙袋に入れて貰い、ネアはアルテアにお礼を言う。
梳かすのは自分でやれよと言われたが、こんな素敵なブラシなら抜け毛取りも楽しそうだ。
「今度これで白もふさんも…」
「やめろ」
(…………いつの間にか、こうして歩いていても不安感はなくなった)
ネアは少しだけ、そんなことを考える。
使い魔にしてしまって自分事に紐付けている今、アルテアは以前のように何をするのかわからない危うさを持ったままながら、どこか準身内のような感じになってきたのだ。
アルテアに関しては、ノアやウィリアムとはまた違う感覚ではあるが、何か悪さをするかもしれないと警戒はしても、とは言え仲間だという意識を持ってこの魔物と過ごすようになるとは思ってもいなかったので、ネアは積み重ねてゆく時間の不思議さを思う。
もしいつか、彼がこの人間の強欲さに呆れて離れてゆくのだとしたら、ネアは少し寂しいだろうなという気持ちになった。
ディノの代わりがどこにもいないのと同じように、ネアが現在自分事化している仲間達もまた、みんな代わりのいない大切な存在なのだ。
よくある物語のめでたしめでたしのシーンで、ネアは、主人公の仲間達が去ってゆく場面が実は苦手だったりする。
それぞれの選択や人生があるのだから、ずっと一緒に居られないのは承知の上だ。
それでも仲間達と家族のように過ごす時間こそが一番輝かしいのではないだろうかと思ってしまう我儘な人間は、この世界で手に入れたその輝かしさが、長らく生きる人ならざる者達であることに常々感謝している。
(だから、旅の仲間風の寄り合いではなくて、同じ集落の民になってしまうように、みんなでずっといられたらいいのに……)
ネアの欲求は、そんな風に子供じみている。
恐らく、こういう形のものを手に入れるのが初めての、初心者故の強欲さなのだろう。
だいたいの人々は、手に入れてからの運用を何度も繰り返し、当たり前のようにもっと長けているに違いない。
(でも、欲求は欲求なのだ。私は強欲だし、羞恥心もなく欲しいものを欲しいと思う)
「アルテアさんならば、ウィーム領も合うのではないでしょうか!」
「またろくでもないことを考え出したのか」
「今はとても懐いている使い魔さんですが、いなくなってしまったら寂しいと考えていたのです。同じウィームの民になって貰い、疎遠になった後も、ご近所さん感覚で会えたら良いのになと思いまして」
その瞬間、ネアは久し振りに無防備に驚くアルテアを見た。
目を瞠ったまま、ネアを見つめて暫く固まっていたかと思うと、おもむろに頬っぺたをつままれた。
「おのれ、何たる仕打ち」
「………あのなぁ。その発想をするってことは、懐いてるのはお前なんじゃないのか?」
「むむぅ。………そういう事になってしまうのでしょうか?………そう考えると、あの美味しいものなくして生きてゆくのはとても辛いので、立ち去る時には同じようなお料理を食べられるお店の情報や、レシピを置いてから旅立って下さい」
「食欲しかないぞ」
「それと、お家造りと」
「まだあるんだろうな?」
「白もふ………」
「あのぬいぐるみでも撫でてろ」
「勿論、雪豹アルテアは時々抱き締めて寝ます。ディノもお気に入りなので、時々貸し出しますが…」
「…………やめろ、貸すな」
「まぁ、意地悪ですねぇ!ディノは時々、ご主人様に叱られると、あのぬいぐるみを抱っこして寝るんですよ。可愛くありませんか?」
アルテアは渋面というものを通り越して憎しみにも似た視線をこちらに向けてきたが、ネアは自損事故の魔物は放っておくことにして、早く鮭のパイ包み焼きを作るのだと袖を引っ張った。
ぐいぐい引っ張ってもぴくりとも動かないので、ネアは意地になって引っ張る。
むがーとなって脇腹をつつけば、片手で頭をくしゃくしゃにされたのでまたしてもネアは荒れ狂ったが、なぜかアルテアの方はふっと笑った。
「鮭のパイを!」
「ったく。わかったから、弾むな」
食事を捧げ給えの儀式に慄き、使い魔はようやくやる気を出してくれたようだ。
きっと、銀狐もゼノーシュも楽しみに待っているに違いない。
重大な任務を終えたネアは、額の汗を拭って晴れ晴れと微笑んだ。
「ただいまです、狐さん!」
ネア達が帰ってくると、お留守番にされたその場所にじっとりとした顔でお座りしたまま待っていた銀狐は、喜びに尻尾を振り回した。
ネアがさっと捕獲し、さっそく厨房の空間に移動し買って来たばかりの換毛期用のブラシで梳かしてやる。
面白いように抜け毛が取れるので、ネアはどれだけ毛が溜まるのかとブラシの包み紙を広げた上に、抜け毛を山盛りにしてみた。
「…………こんなに」
その結果、何だかちび狐が作れそうなくらいには毛が山盛りになり、銀狐とネアは顔を見合わせる。
これだけの可能性を隠していたとなると、この換毛期用ブラシは買って大正解だったらしい。
銀狐は心配そうに自分の体を見ていたが、換毛期なのでこれから冬毛が沢山伸びてきますよとネアに慰められ、安心したように尻尾をふりふりした。
とは言え、若干スリムになってしまったので、ネアは少しの辛抱だと自分に言い聞かせる。
またそう遠くない内に、もふもふの冬毛になってくれるに違いない。
「アルテアさん、あのブラシは凄い奴でした!」
お料理中のアルテアに報告しに行けば、わかったわかったと雑に流されてしまう。
一人でお料理していて寂しいのかと思い、人面魚の稚魚の瓶をカウンターに配置して見守りシステムを発動しようとしたところ、パイ包みを作っていたアルテアに頭をはたかれた。
アルテアも人面魚は怖いようなので、渋々稚魚は金庫に戻し、また狐のブラッシングに戻る。
ムグリスなディノは通常タイプのディノに戻って貰い、弓矢の妖精と交換ということでアルテアから貰った長椅子で横倒しになっていた。
くしゃりとなった真珠色の髪が無防備で稚い。
物々交換の時、厨房と続き間になっている広い空間に長椅子とテーブルに棚を貰い、二階の寝室には大きな寝台と衣裳箪笥に書き物机、そして寝台横の魔術結晶の美しい照明を貰った。
どれも青みがかった灰色の掠れたような風合いに、一部が灰白に結晶化した木材を使った素晴らしいものだ。
家具の搬入時に、あらためてあの弓矢の妖精はどれだけ珍しい生き物だったのかを知り、ネアは己の狩りの女王としての運命に誇りを持っている。
ネアが長椅子の端っこに腰かけ銀狐のブラッシングをしているので、ディノは安心して眠っているようだ。
だが、抜け毛を紙に包んで捨てに行くと、ご主人様の不在に目を覚ましたようなので、ネアは洋服を綺麗にして手を洗ってきてからその真珠色の頭を撫でてやった。
「ディノ、少し元気になったら、アルテアさんの美味しいお昼ご飯がありますよ」
「…………人面魚なんて」
「意地悪魚でしたものね。ディノを見るなり醜い魔物めと罵ったので、私も腹が立ちました」
「…………あの魚がウィームにはいなくて、本当に良かった」
しみじみ言うので、ネアは、現在ご主人様の首飾りの金庫に瓶に入った稚魚がいることは黙っておこうと思った。
早々にエーダリアに渡してしまうのがいいだろう。
「どうしたら元気になってくれますか?」
優しく頭を撫でながらそう問いかけてやると、魔物は少しだけ考えてから頬っぺたをこちらに向けた。
あらあらと微笑んだネアは、体を屈めてその頬に口付けしてやる。
まだ免疫がつかないのか、魔物はきゃっとなって少しだけじたばたしたが、頬に血の気が戻ってきたので元気にはなってくれたようだ。
「パイをオーブンに入れるぞ」
そこでちょうどアルテアから声がかかった。
美味しいものを美味しい内にという信念の選択の魔物は、魔術で温度を保つお料理よりも、実際にオーブンから出したばかりの食事を摂らせるのが好きなのだ。
ネアは慌ててゼノーシュに通信をかけ、厨房への扉を開いておいた。
残念ながら会議中のエーダリア達はこの素敵な昼食を一緒にはいただけないが、今日はそちらも特製の会議ご飯なのだとか。
そうして、素敵なお昼が始まった。
「わぁ!」
「美味しそうですね!」
厨房にある大きなテーブルには、大小いくつものお皿が並ぶ。
マッシュルームと生ハムのピンチョスのようなものには、濃厚なソースがかかっておりあつあつだ。
香草塩を浸透させて味つきになった冷やした半熟卵は、殻の上の部分が綺麗に剥がされていて、殻を器のようにしてそのまま小さなスプーンでとろりといただく。
ラビゴットソースをふんだんに盛り付けた仔牛のグリルに、ほくほくにグラッセした人参が乗った山盛りのサラダ。
そんな幸せな光景に、ゼノーシュの目も輝く。
幼児用の椅子に設置された銀狐も抜け毛が飛ばなくなった尻尾を振り回し、アルテアは玄人っぽくオーブンの様子を見ている。
ネアは冷たい紅茶を保冷庫から取り出し、それぞれのグラスに注いだ。
不思議なことに、祝い事や舞踏会、祝祭などのシュプリや葡萄酒とは違い、このような日常の食卓での行為の場合は魔術的な付与にはならないのだそうだ。
「アルテアさん、ドレッシングには干し葡萄が入ってます?」
「ああ。刻んで入れてある。元々熟成した果実酢を使っているからな」
「酸っぱくてしょっぱくて、後味に甘味があって、グラッセにぴったりですね」
「チキンのスパイスクリーム煮………」
幸せそうな呟きに振り返れば、ゼノーシュがご注文のパイ包みに頬を緩めている。
さくさくのパイ生地の中には、砂漠の国の香りのするスパイスの効いたチキンのクリーム煮が入っており、パイ生地の上には薄くスライスしたココナッツがかかっていて、工夫も細かい。
同じクリームソースで煮たものが入っていても、ホウレンソウと鮭のチーズクリームが入ったパイとは全く別物の味で飽きがこない。
殻つきの半熟卵を持って、小さなスプーンでちまちま美味しそうに食べているディノも、いっそうに顔色が良くなったようだ。
「狐さん、美味しいご飯で幸せでしょう?今度から、予防接種の日には美味しいご飯を食べる日にしましょうね」
ネアが狡賢くそう言うと、尻尾を振り回してお肉を頬張っていた銀狐は、途端にけばけばになった。
震えながら首を傾げ、恐怖と幸福の天秤に翻弄されている。
美味しいものを最高に美味しく食べている一瞬に言われてしまった結果、美味しいものの力が勝ってしまったのか、ややあってこくりと頷いた。
ラビゴットソースを凝視しているので、それがよほど気に入ったのだろう。
(たしかに、香味野菜や酢漬け野菜を刻んだソースはお魚に多くて、お肉に合わせるのは初めて食べたかも……)
仔牛は、岩塩とローズマリーをきかせて外側はかりっと中はミディアムレアで焼かれていて、その岩塩がきかされていることによってさっぱりソースとの相性が最高なようだ。
焼きたてのあつあつお肉に冷製ソースなので、いくらでもお肉が食べられる魔性のソースでもある。
同じ酸味でかぶるからと、あえてサラダには、グラッセした人参と干し葡萄を刻んだドレッシングで甘味を強めたあたりが心憎い料理人ではないか。
「うむ。やはりアルテアさんは、ずっと逃げないで下さいね」
「僕もそう思う。ネア、頑張って捕まえててね」
「…………お前達のそれは、料理人相当の扱いだろうが。………なんでシルハーンまで黙ってるんだ」
「それはもう、ディノが鮭のパイ包みを気に入ってしまっているからですね。見て下さいこの悩ましげなお顔を!すぐに浮気だと荒ぶってしまうディノですら、アルテアさんを失いたくないと思ってしまうお料理なのでした」
「欠片も有難くないな」
「狐さんもすっかりアルテアさんに懐きましたしねぇ」
そう言えば、銀狐は尻尾をぶわりと膨らませてけばけばになっていたが、必死に首を傾げた後、お皿の料理を見下ろしてから控えめに尻尾をふりふりした。
「という訳ですので、気が向いたらご近所にも別宅を構えて下さいね。本宅を手放して新たにお家を設ける場合は、本宅は私がいつでも貰って差し上げます!」
「ネアが…」
「そうしたら、ディノと週末のお家にしましょうね」
「ご主人様!」
ネアの浮気を責めようとしたディノは、一瞬で丸め込まれてしまった。
アルテアは酷く嫌そうな顔をした後、沈黙で殺す手法なのか、お引越しについては何も答えようとしなかった。
その日は楽しく昼食をいただき、お料理上手な使い魔は、この後二日ほどかけて、アイザックへの報復も兼ねて西方のお茶の産地を襲いに行くそうだ。
ネアはその土地の人々の暮らしを考え、あのチェス盤のことを思い返しながら、アルテアを見送る。
仮面の魔物としての彼の活動については思う事こそあれ、自立型の使い魔にネアがその行動を制限することはない。
「よそ様の土地では害獣でも、私の厨房では益獣な使い魔さんなのです」
ネアがふんすと胸を張ってそう言えば、アルテアが帰ったので人型に戻ったノアがえっという顔をする。
ディノと顔を見合わせてなぜかふるふるしているので、ネアはこてんと首を傾げた。
「むぅ。あまりにも自分本位で、無慈悲ですかね?」
「………ネアにとって、アルテアの認識は益獣なんだね」
「お料理を作ってくれて、狐さんの予防接種にも行ってくれますよ?今、ディノとノアが食べている冷たい桃のコンポートも、アルテアさんが作り置きしていってくれたデザートではないですか」
「いやいやいや、ネアにとってアルテアの認識が獣扱いになってきてるよって意味」
「…………そう言われてみれば、現在の認識は白もふさん五割になってきました」
「………………アルテア」
「む?なぜにディノが落ち込んでしまったのでしょう。………ノアまで」
欲望に忠実過ぎる人間の発言で、ディノとノアは落ち込んでしまったようだ。
その認識をアルテアに告げると、また荒ぶるかもしれないと言われたので、ネアはよく分らないままに頷いておいた。
なお、人面魚の稚魚は無事にエーダリアに渡ったが、その際にはエーダリアですら失神しそうになった。
とは言え、ガレンの魚類専門の魔術師に渡したところ号泣しながら小躍りして喜んだそうなので、専門家には嬉しい幻の魚であるようだ。
合成獣や奇形の専門魔術師達も欲しいと小規模なデモを行い騒いでいるそうなので、エーダリアはまだ人面魚ビジネスが軌道に乗る前の安価な内にアクスに商品予約をし、そちらにも買ってやることにしたらしい。
生息域がわかればネアが潜入して釣って来てもいいのだが、それはアクス商会の極秘情報なのだそうだ。
アクス商会内でも、配達担当の中堅階位の妖精と、高位者では辛うじてローンが目を薄目にしてあまり直視しないようにして取り扱えるくらいの危険品目である人面魚だが、各国の魔術師協会からの人面魚の注文が相次ぎ入っているそうで、新商売は上手くいきそうである。
お茶の国に悪さをしている使い魔からは、一度だけカードにメッセージが届いた。
遠いその国には、不思議なお料理やお茶の飴があるのだそうだ。
良いお土産を買ってきてくれると聞き、ネアは早く会いたいですと返事をしておいた。