人面魚と予防接種 1
その日、リーエンベルクには一人の高位の魔物が呼び出されていた。
かなり嫌そうな顔で訪れてはいるが、呼ばれて来てしまうあたりよく懐いている。
因みに、そんな風に良く懐いている魔物の本日の服装は、白いシャツに背面部分が紫のシルクになっている灰色のジレを着ている。
ポケットチーフも濃い紫で、帽子と靴は黒で、差し色の効いたとても上品な服装だ。
二人でお出かけして欲しい大事な用があるのだと呼び出してしまったネアも悪いが、なかなかにお洒落な服装で来たので少し可哀想になった。
「シルハーンはどうした?」
「寝込みました。よりにもよって今朝、アクス商会の方が、我々が情報発信した稀少生物が手に入ったのでと、その生き物を見せに来てくれたのです。好意だったのかもしれませんが、その結果ディノは寝込みましたので、早々にお帰りいただいたところです」
「………成程な。アイザックと競っていた市場が一つあったんだが、その手札で婉曲に俺を排除した訳か」
「む?もしかして、大事な用事を蹴って駆けつけてくれたのですか?」
「なんだ?対価を手厚くしたくなったか?」
「むぅ。仕方がありませんので、お仕事が終わったら頭を撫でて差し上げますね」
「やめろ」
そこでアルテアは、少しだけ嫌そうな目をしてネアをじっと見つめた。
何か不穏な気配を感じたのだろうが、そのあたりさすがの勘の良さである。
「………で、どこに出かけるつもりなんだ」
「狐さんの、秋の予防接種です」
「…………おい」
ネアの返答を聞いた途端、アルテアは初めて出会った頃のような、何とも残忍で酷薄な眼差しになる。
しかしネアはもう、少しくらい威嚇されても無視できるようになったのだ。
いざとなれば、パジャマ情報を全世界に拡散すると脅せばいいのである。
「その後で、ペット同伴可能なお店でお昼を奢って下さっても構いません」
ネアがそう言うのは、お昼周りでエーダリアとヒルドが会議に入り、グラストもそこに参加するからだ。
領内の騎士達の配属や手当に関する全体会議のようで、騎士達も籠ってしまい、リーエンベルクの本棟に残るのはネア達だけになる。
そうなると、会議室に届ける昼食で料理人達も忙しくなるので、ネアはあっちもこっちもとならないように、お昼は外で食べてくると言っておいた。
「何で俺の作業量を増やした。そもそも、予防接種ぐらい自分で行けるだろうが」
「共同会場で受けるので、怒り狂う狐さんを押さえつける方が必要なのです。春の予防接種はゼノが鷲掴みにしてくれましたが、それでも会場を騒然とさせるだけの大騒ぎでした。おまけに、一度懲りているので、まずはお庭のベンチで日向ぼっこ中の狐さんを捕獲するところから始め、気付かれないように会場に向かわなければなりません」
「その手の受付けが今日一日の訳がないだろう。明日もやってるんじゃないのか?」
「むぅ。鋭い使い魔さんですが、一昨日と昨日は予定があり、最終日に行くつもりだったのです。注射を受けられるのは封印庫前の広場と、大聖堂前の広場なので、どちらの会場を選ぶかはお任せしますね」
微笑んでそう言ったネアに、嫌そうな顔のままアルテアは無言でこちらを見下ろした。
なかなか嫌そうなままなので、ネアは仕方なく袖をくいくいっと引っ張ってみる。
「頼もしくて、頭のいい方がご一緒でないと完遂出来ないお仕事なのです。ウィリアムさんにお願いしても良かったのですが……」
「……ったく。で、あの狐はどこにいるんだ?」
「中庭に設置された、ちびまろ館の向かいにあるベンチで寝てます!」
「……ちびまろ、なぁ。もう大きくなったんじゃないのか?」
「そして、あと数日で渡りをしてしまうんですよ。寂しくなりますので、冬季の間、ちびまろ館に入ってくれるムグリスを募集中なのです」
「ムグリスは麦が主食だ。リーエンベルクの庭に住む利点はないな」
「むぐぅ」
やっと使い魔が働き始めたので、ネア達は中庭のベンチに眠っている銀狐を見に行った。
お日様のあたる快適なベンチの上で、ふかりと丸まりすやすやと眠っている。
「以前の時は、ヒルドさんが予防接種に連れて行こうとしてくれたところ、狐さんは鳴き叫んで暴れ、絨毯に爪を立てたまま頑として動かなかったのです。恐ろしい騒ぎになりましたので、いかに気取らせないかが作戦の成功の鍵を握っているのです!」
「いや、普通に捕まえればいいだけだろ………」
「残念ながら、狐さんの本気の大騒ぎを知らないから言えることですね。ほこりを侮って、帆立の呪いにかかったことを思い出す気分で挑んで下さい」
「やめろ、思い出させるな」
立派に長生きしている筈の高位の魔物が頭を抱えたところで、何か野生の本能に触れるものがあったのか、銀狐がむくりと起き上がる。
はっとして物陰に隠れたネア達には気付かず、銀狐は険しい眼差しで周囲を見回した後、すとんとお尻を落として後ろ足を崩したような変な座り方になった。
「…………太らせ過ぎなんじゃないのか」
「あの座り方は、お腹が太ってきちんと座れなくなってしまったのではなく、落ち着いたように見せているだけの厳戒態勢の姿なのです。ちょっとした異変に敏感に反応しますので、注意して下さい」
「良く考えたら、眠らせればいいだろうが」
「ふっ、甘いですね。予防接種は、その時の獣さんの健康状態を見ながら打って下さるので、意識不明のぐんにゃりした狐さんだとやって貰えないのです!しかも、魔獣さんにも打ちますので、魔獣さんが逃げ出さないように会場は転移禁止という厳しい戦場になります」
「…………そうだな、シルハーンを起こしてやる」
「意気地なしの使い魔さんですね。もしや、注射が苦手なのでしょうか」
「お前な」
ネアはここではっとした。
ノアが受けるのであれば、同じ獣型の白けものはどうなるのだろう。
幸いにもディノの場合、ムグリスには特定の予防対象になる病気がないので大丈夫なのだ。
「そう言えば、白もふさんも対象獣になるので、予防接種……」
「やめろ」
「あら、舞踏の精の呪いにかかった獣は、邪魔するものを全力で薙ぎ倒しながら踊り去ってゆくという悲しい顛末を迎えるのです。どうか気を付けてあげてくださいね」
「…………舞踏の精」
アルテアが少しだけ遠い目になったので、ネアはさては知らなかったなと呆れた顔をしておいた。
つまりそんな風に未知のものであるのなら、尚更ここで経験して予防接種とはどういうものであるのかを知っておくべきだ。
「そして、午後からは混んでしまうので早くして下さい」
「言っただろ、シルハーンを起こしてやる」
そのディノは、人面魚ショックで寝込んでいるのだ。
予防接種を終えてお昼を食べてくるまではゼノーシュが見ていてくれるそうなので、ネアは、可哀想な魔物を出来るだけ安静にしていてやりたい。
とは言え、せっかくアルテアが一緒なので、注射の後は外でお昼を食べてくるといいよと言ってくれたゼノーシュの優しさには、たっぷり甘えさせて貰うつもりだ。
「そもそもディノは、狐さんには甘過ぎる部分があるのです。ヒルドさんやゼノがお仕事の今日、狐さんに厳しく接することが出来る方はアルテアさんくらいなのです!」
「………そもそも、お前にとっての使い魔の認識がおかしいぞ」
「使い魔さんとは、美味しいものを作ってくれて、私の家造りに協力していただき、白もふを連れてきてくれたり、本宅に通わせてくれて、ゆくゆくはその素敵な本宅を私にくれたりする魔物さんです」
「何一つとして合ってないからな」
「むぐぐ。使い魔さんが反抗期なので、ウィリアムさんを呼ぶしかなさそうですね………」
そう呟いた途端、アルテアはやけに重い溜息を吐いた。
「…………引き縄はあるのか?」
「勿論ですよ。リードも準備済です!」
ゆっくりと立ち上がると、アルテアは中庭の方に歩いていった。
狡猾な人間はしめしめとほくそ笑む。
このよく懐いた使い魔は、どんなことでもウィリアムに先取されるのを嫌うのだ。
まるで兄弟のようで微笑ましいではないか。
背後から銀狐に近付くらしく、アルテアは左側の扉から庭に出たようだ。
(すごい!全然気付かれていないなんて!)
魔術的なものをあれこれ駆使しているのか、銀狐はまだ警戒モードなままなのに気付いた様子もない。
ネアは悟らせず会場まで連れて行くつもりだったが、アルテアはどうやら強行突破型のようだ。
そして暫くの後、庭からはムギーという、突然使い魔に捕獲された銀狐の悲鳴が聞こえてきた。
慌ててネアもお庭に駆けだしてゆき、アルテアに合流する。
「狐さん、今日は三人でおでかけですよ!大丈夫です、一瞬で終わりますから」
「っ、おい!毛が舞い過ぎだぞ!手入れしてるのか?!」
「むはっ!………し、仕方ないのです。今は狐さんの換毛期の最後のところなので、………けふん!……ばさっと毛が落ちるようになりました……」
「くそっ、……近場まで転移するぞ」
「はい!………げふん」
こうしてネアは、銀狐の首根っこを掴んだアルテアに片手で抱き寄せられ、大聖堂近くの歩道の広くなった部分に転移で着地した。
ここが大聖堂前広場に一番近く、尚且つ通行人の邪魔にもならない。
「むむ、アルテアさんは、意外とウィームの地図情報に詳しいのですね」
「悠長なことを言ってる場合か。手続きとかは問題ないんだろうな?」
両手両足でもがき、尻尾まで振り回して大暴れする銀狐を持っているので、アルテアは珍しく余裕がないようだ。
抜け毛が舞い散り、確かにアルテアの位置だと一刻も早く終わらせたいという感じには違いない。
「はい。この予防接種は、在住者以外を問答無用で魔術で弾く仕組みですので、書類のようなものはいらないんです。注射を受けて証明書を貰うだけでいいんですよ」
「よし、行くぞ」
のどかな午前中の街は人通りもまばらだ。
アルテアは片手に暴れる銀狐をぶら下げたまま、真っ直ぐに会場に向かった。
この道からであると、大聖堂前の広場で決まりなのだろう。
道行く人々が驚かないのは、ここ数日このような光景が決して珍しくないからだろう。
現にネア達も、反対側の歩道に泣き叫んで石畳に爪をかけてへばり付いている魔獣を連れている男性に遭遇した。
立派な角のある狼のような大物なのだが、子供が駄々を捏ねるように大騒ぎして飼い主にリードで引っ張られている。
かと思えば、見事な毛並みの漆黒の豹の尻尾を鷲掴みにして引き摺ってゆく、凛々しいご婦人もいた。
「着きましたね。一番左側の列は、魔獣さん専用のようですので、他の三列のどこでも大丈夫です。ただし、狐さんは大騒ぎするので一番端がいいかもしれません」
「………いや、二番目の方が処置が早いな」
「む。さすがアルテアさんです!」
こうして銀狐は、泣き叫ぶままに予防接種の列に連れて行かれた。
何とか逃げようとアルテアを噛もうとしているが、持ち方が絶妙なので顔が届かないようだ。
ネアは途中で思い出して、春の時にゼノーシュが尻尾の付け根も掴んでいたことをアルテアに教えてやった。
懐かしの予防接種会場は、大聖堂前の広場に絨毯を敷き、その青い絨毯を囲うようにして結界を張ってある特設会場だ。
絨毯の上の医師の椅子と、その向かいの飴色の木製診察台があるのも変わらず、これは定型の設営なのだろう。
診察台に術式陣が描かれているのは魔術持ちのペットへの対策だが、ネア達の順番が回ってくる前に一度、魔獣の一匹が自力で結界を破り逃走する騒ぎが起きた。
ネアはびっくりしてそちらを見てしまったものの、死地に赴くような眼差しのまま、アルテアは自分の並んだ行列をじっと見ている。
「ほわ………翼のある犬さんが、投網で捕獲されました……」
「それよりも、こいつを何とか黙らせられないのか」
「狐さん、頑張って注射を終えたらチーズボールを噛み噛みします?」
「………悪化したぞ」
「もはや、世界への憎しみでいっぱいですね」
そしてそこから、待ち時間という試練の時間が十分程あり、ようやくネア達の番になる。
春先の予防接種の時とは違い、今回の獣医はベテランのようだ。
荒れ狂う銀狐のすさまじい声にも動じず、厳めしい顔でこくりと頷く。
アルテアは擬態していてもはっと目を惹く美貌のままなのだが、その姿にも動じることのない職人の顔で、自分の方に向けられた銀狐のお尻にぷすりと注射を刺した。
その途端、前回にも増して壮絶なムギャーという凄まじい叫び声が上がり、気の弱そうな子犬や、小さなペット達が恐怖のあまり失神する。
厳めしい顔の獣医がさっと出してくれた証書を、ネアが受け取り、ぺこりと頭を下げた。
アルテアはそちらには見向きもせず、けばけばになったままの銀狐をかかえ、上等なジレを毛だらけにされたまま渋面ですたすたと会場を出てゆく。
愛玩犬などを連れたご婦人方が、あの辛そうな表情がいいわねとこそこそと話しているのが聞こえた。
どうやら彼女達の想像の中では、このような場に足を運ぶのは大変遺憾ながらも愛狐の為に予防接種に来た男性という認識になったようで、その不本意そうな渋面が何かを刺激するようだ。
「おい、さっさと帰るぞ」
「はい!お昼は食べて行きませんか?」
「………お前な。………この有様を見て、よくそう言えたな?」
「むむぅ。素敵なお洋服が毛だらけで、狐さんはけばだったまま涙目で震えています」
「だったらわかるだろうが。この有様で入れる店がある訳ないな」
「では、一度リーエンベルクに戻った後、ささっとアルテアさんのお洋服を、馬毛のブラシで綺麗にして差し上げましょう。狐さんは自力で安静にしていて貰い、我々はお昼に…」
その途端、涙目の銀狐がムギーと鳴き声を上げた。
「まぁ、狐さん。尻尾がブラシみたいですよ?」
「おい、暴れるな。もう帰るだけだろうが」
「………もしかして、狐さんもせめて素敵なお昼を食べたいのでしょうか?」
ネアがそう言えば、銀狐はけばけばになったまま、こくりと頷く。
すっかりブラシのようになっていた尻尾を、少しだけふりふりした。
「こっちを見るな」
「…………アルテアさん、お腹が空きました」
「お前は同行してただけで、何もしてないからな?それと、シルハーンが寝込んでるんじゃなかったのか?」
「大丈夫ですよ。一人ぼっちでお留守番は可哀想でしたので、ムグリスになっていただき、ゼノがグラストさんと報告書を仕上げているお仕事部屋に設置してきました。会議に同行するようであれば、ディノの入った篭ごと持って行ってくれるそうなのです」
きりりとそう報告すると、人間の自分勝手さと冷酷さに呆れたのか、アルテアはうんざりとしたような目を向ける。
少しだけ髪が乱れており、毛だらけなのがなんとも無防備な感じがして、ネアはぽんと肩を叩いてあげたくなった。
「………秋告げの舞踏会まで、どうか死なないで下さいね」
「死ぬか」
「ふむ。と言うことは、案外元気そうなので、きっと美味しいお昼ご飯をご馳走してくれますよ、狐さん」
ネアがそう言えば、涙目のままではあるが、銀狐は威勢よく尻尾を振り回した。
勢いよく抜け毛も飛び立ち、アルテアは遠い目をしている。
「今度から、この作業はシルハーンか、ゼノーシュにやらせろ。それか、ノアベルトを呼べばいいだろ」
「ノアを………」
「あいつなら、なんでもやるだろうが」
「………では、白もふさんを予防接種に連れてゆく場合は、ノアに協力して貰いますね」
「やめろ」
アルテアは毛だらけにされたことですっかり弱ってしまったようで、お昼ご飯はお店ではなく作ってくれることになった。
屋敷に毛だらけの生き物を連れてゆくのは嫌だと何故か頑固に言い張り、一度リーエンベルクに戻ってからネアの厨房を使うことになる。
「その前に、こいつの毛をどうにかするぞ」
「む!せっかくこれから素敵なもふもふになるのに、毛を剃ったら許しませんよ!」
リーエンベルクに戻るなり、腰に手を当ててそう言われ、ネアはけばけばになった銀狐を抱き締めて死守する体勢になった。
これでネアももれなく毛だらけだが、大事なふかふかの元を刈られてしまったら堪らない。
「刈ってどうするんだ。どうせ、しっかりブラシをかけてないんだろう」
「おのれ、なんという疑いをかけるのでしょう。我々とて、この抜け毛を見過ごしていた訳はないのです。犬用ブラシで沢山梳かしていますよ!」
「換毛期用のブラシを使ってるのか?」
「換毛期用ブラシ………?」
初めましての単語にネアは目をぱちくりさせ、顔を見合わせた銀狐も首を傾げている。
ふーっと長い溜息を吐いたアルテアは、それも買って帰るぞと小さく呟いた。
先程ネアの厨房にある食材を伝えたところ、全然足りないなと文句を言われたので、身だしなみを整えてから市場に行くことになったのだ。
換毛期用のブラシとは、抜けそうなふわふわの毛を綺麗に取り除いてくれる素敵ブラシなのだそうだ。
お値段を聞いてみたところあまり高価ではないので、ネアはほっとした。
こういうあたり、狐を飼うのは初めてなので助言を貰えると有難い。
「ほら、こっちに来い」
糸くずなどをとってくれるエチケットブラシを手に、アルテアに手招きされる。
「自分で出来ますよ?と言うかまず、毛だらけのアルテアさんをどうにかしなければなのです。背面は私がやってあげましょう」
「どうせ届かないだろ」
「なぬ!手を伸ばせば届きます!」
そこでネアは自分の正しさを証明するべく、大きめのエチケットブラシで、ざくざくとアルテアの背中や腕の背面の狐の抜け毛を取ってやった。
白いシャツの部分も目を懲らせば銀狐の毛が見えるので、これがも白もふだったら難儀したところだ。
「白もふさんには、換毛期はあるのですか?」
「…………一般の獣とは違うからな。換毛期はない」
「と言うことは、被毛の入れ替わらない魔獣さんと同じなのですね。でも確かに、真っ白な抜け毛だとわかりにくいので、換毛期がない方が抱き枕にし易いです」
「抱き枕になることはない」
「あらあら、まるで白もふさんの代弁者のようですね?」
「…………それから、妙なところまで手を出すな」
振り返ったアルテアにべしりとおでこを叩かれたネアは、頭にきて仕返しをしようとしたが、頭頂部には届かず無駄な弾みで終わってしまった。
「………弾み過ぎだぞ」
「おのれ、二回しか弾んでいませんよ!目的を達成できなかったことを皮肉っているつもりですね!」
なぜに唐突に叱られたのかわからないが、強いて言えばお尻のところにエチケットブラシをかけられたのが恥ずかしかったのかもしれない。
時々白けものになってしまうくせに、繊細な生き物だ。
「ほら、ブラシを貸せ。お前もどうにかするぞ」
「むむ、なぜにブラシを取り上げられたのでしょう?ブラシは一人一本が基本なのでは?」
「お前の作業が遅いからだな」
「背中とお尻の毛を取って貰ったくせに、我が儘ですよ!」
「黙れ」
アルテアに少し睨まれたので、ネアは仕方なく自分の毛取りは任せることにした。
足元に座って目を丸くしてその様子を見ていた銀狐が、途中でムギーと鳴き叫んだのは、仲間外れにされたようで悔しかったのだろう。
とは言え、ここで元の姿に戻ると色々問題もあり、地団駄を踏んでいる。
「………スカートの毛取りで足元にしゃがまれると、下僕を従えたような複雑な気持ちになります」
「…………おい、何でその例えだ」
「身の回りのことを全てやってくれそうな感じがして、良きにはからえという気分ですね」
「ほお?やって欲しいのか?」
「お家の提供と、お食事のお世話だけやってみますか?」
「何で俺がお前を養わなきゃいけないんだ」
「あら、自ら舵取りした会話ではないですか。狐さん、これが自爆という会話技術になります」
「やめろ」
そうしてやっと毛取りが終わり、ネア達は銀狐にお留守番を言いつけて市場に行くことになった。
抜け毛が大気中にもふわふわしているからか、アルテアの不快指数が少し増しているようだったので、ネアはその背中に体当たりしてやるべきかどうか悩む。
「…………何だ?」
「体当たりして欲しいですか?」
「…………意味がわからないからな」
「うちの魔物はそれでご機嫌になるのです。アルテアさんのご機嫌回復方法がわかりません」
「お前にも、俺の機嫌を気にする繊細さがあったか」
「お昼ご飯を作って貰うまでは、何とか踏ん張っていただきたいのです。後はもう、自由に森に帰って良いですからね」
「森前提をやめろ」
そこでネアは、こつこつと鳴った扉に眉を持ち上げた。
慌てて開けに行くと、籠を持ったゼノーシュが立っている。
「ゼノ!会議は大丈夫なのですか?」
「うん。魔物にかぶれる体質の騎士が一人いて、僕もお留守番になったの」
「まぁ!それなら、お昼をご一緒しませんか?アルテアさんが作ってくれるそうなのです」
「いいの?やった!!」
「………おい」
「そして、ディノを持って来てくれたのですね」
「ディノがね、ネアがきっと浮気してるって言い張るんだ。まだ魘されてるから、それでかな」
「まぁ、困ったさんですね。でも、もう予防接種は終わったので、私が見ていましょう。……ディノ、これからお昼の買い物に行くのですが、歩行するご主人様に持たれていても、気持ち悪くなりませんか?」
「……………キュ」
「ふふ、じゃあご一緒して下さいね。警護はアルテアさんもいますから、元気になるまで寝てていいですからね」
「キュ」
そしてネアは、へしゃげた毛玉のようになってしまっているムグリスディノを取り上げると、よいしょっと胸元に押し込んだ。
ご主人様の胸元に設置されて、ムグリスなディノは、キュウと弱々しく鳴いてまた寝込んでしまう。
「………ネア、ポケットじゃないの?」
「ポケットだと、歩行の際に動きが直に伝わってしまって、酔いそうですから。そうなると、ここの方が揺れが少ないのです」
「そっか。ムグリスならふかふかだしね」
「ええ。ディノも安心するそうですし、私もふかふか毛皮を堪能出来る良い収納場所なんですよ」
「落としちゃ駄目だよ」
「ええ、気を付けますね。それとゼノ、お仕事中なのにディノを見ていてくれて有難うございました」
「ううん。グラストも、午前中は書類仕事が溜まっててごめんねって言ってたよ。ネア一人だと予防接種は大変だから、アルテアが来てくれて良かったって」
「ふふ、換毛期の狐さんで毛だらけになりましたが、使い魔さんは頼もしかったですよ!」
「僕ね、パイの中にスパイスの効いたシチューみたいなのが入ってるやつが好き」
「言っておきますね」
「聞こえてるぞ。勝手に頭数を増やすな」
「あらあら、ほこりのお誕生日会に備えて、訓練だと思えばいいのです」
「………何のことだ?」
アルテアは恐ろしい予感がするのか、眉を顰めていたが、今から逃げられてしまっても困ると判断し、ネアとゼノーシュは示し合わせて知らんぷりをした。
「それと、そこにシルハーンを入れるのはやめろ」
「むぅ」
ゼノーシュが部屋に帰った後、アルテアにすかさず叱られたネアは渋面になる。
どうやら、ムグリスディノの設置場所が気に食わないようだ。
なぜか、足元で銀狐も力強く頷いていた。