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173.  魔物を高い高いします(本編)



「もうすぐ、夜が満ちますよ」


そう耳元で囁き、ぴっとなった魔物をゆり起こした。

途中から宴でご主人様を独り占めする為に眠ったふりをする悪い魔物になっていたディノは、さも今起きた風に目を開いた。

しかし、眠ったふりをしていてはわからなかったこともあるようだ。


「…………あそこはどうしたのかな」

「一箇所の騒乱が飛び火し、周辺の国々も滅ぼすという現象を初めて目の当たりにしたのです」



起き上がったディノが見つめる先には、エーダリアとノア、そしてアルテアが潰れている。

頭を押さえてはいるが、勝者のウィリアムは何とか生き残ったようだ。


ヒルドは早々にネア達の方に避難してきており、ディノの頭を膝に乗せたネアの側に、グラストやゼノーシュと一緒に集まってお喋りしてくれていた。

ヒルドがオーロラの見える位置に長椅子を設置してくれたので、四人はオーロラを見ながら飲み食いし、お喋りをする贅沢を楽しんでいたのだ。



因みに今日明日は、高位の魔物に祝い事があるので変異があっても気にしないようにと、ウィームを中心にガレンを通して通達がなされている。

なので今夜は、領民達も怯えずにオーロラを楽しめているに違いない。

高位の人外者の慶事としての異変は、祝い事や婚約などのよいきっかけになるからだ。



「…………酷い目に遭ったな」

「酔い止めがありますよ」

「ああ、すまないネア。貰うよ」

「スプーンさんに百倍に…」

「大丈夫だ。そのままでも充分に効くと思う」


よろめきながら死地から戻ってきたウィリアムに、ネアは魔物を起き上がらせて長椅子の隣を空けてやった。

襟元を緩めながらそこに座り込む終焉の魔物は、いつもが冷たく整った印象の軍服姿なだけに何とも艶めいて見える。


はあっと息を吐いてから、ネアの差し出した酔い止めの薬を飲み干した。

酔っ払いらしく勢いよく呷って唇の端に溢れた薬液を親指で拭う。

ネアは、ウィリアムも酔っ払うと動作が雑になるのだなと、新しい知見を得た。



「もうすぐ、私とディノが出会った時間になるのです」


ウィリアムがこちらを見て、おやっと目を瞠ったので、ネアはそう教える。


「こんなに遅い時間だったのか?」

「ええ。エーダリア様達から歌乞いというものについての沢山のご説明があり、私が自分のお部屋に戻ったのは夜遅くでした。そこからまた少し悩んで、魔物を捕まえにお外に出たのです」

「………シルハーン、危なくはなかったのですか?」

「すぐ側にいたからね。ただ、望まれて現れたことにしないと、この子は立ち去ってしまったかもしれなかった。………私が手を差し伸べても、ネアは簡単に喜ばないような気がしていたんだ」

「………ディノ、それは初めて聞きました」

「ずっと君を見ていたんだ。君のことは知っていたつもりだったから」

「ぞくりとしました」

「ネア…………」


しゅんとした魔物が出来上がったところで、グラストが懐かしむような目をする。



「あの夜は忙しい夜でした。エーダリア様は誤解を与えないようにと冷淡が過ぎるくらいでしたが、ゼノーシュは、最初からネア殿が婚約者としての権限を望まないだろうと話していましたよ」

「………そうだったのですか?」

「だってネアは、婚約者になるって言われた時、面倒なことになったなって顔してたよ。それに、エーダリアよりも後ろの窓から見えた妖精ばかり気にしてたし」

「はは、そう言えばそうだった」

「………そう言えばそうでした。……エーダリア様のお話の途中で、きらっと光る生き物が窓の外を飛んだのです。こちらの世界で初めて見る不思議な生き物でしたので、もう気になって、気になって………」



(あの夜…………)



あの夜、孤独さは身に沁みたが、それは今更珍しいことではなかった。

それよりもネアを慄かせたのは、せっかく見たこともない世界で生き直す機会を得たのだとすれば、望まない肩書きで身を縛られて、その幸運へのチャンスを閉ざされることだった。



「………初めてこの世界を見た時、なんて豊かで美しいところだろうと思ったのです。騎士さんや元王子様に、託宣の巫女さん、魔物さんや妖精さん、そしてお伽話のようなリーエンベルクの姿にわくわくしたものです。この美しい場所で沢山のものを見て、沢山のものを知り楽しみ尽くしたいと、そう願いました」

「ああ、………その感覚は分かります。私も、奴隷として連れて来られたその日でさえ、見たことのない文化の国の王都を眩しく美しいと感じましたから」


そんなネアの言葉に同意してくれたのはヒルドだ。


「美しいものを美しいと感じられるのは、願いを持つ者である証拠だ。俺が戦場で見る者達には、もはやそういうものが見えなくなっている者が多い。願いを持てなくなった者は、世界を見なくなるのではなく、見えなくなってゆくんだ。心にとって良いものを吸収してゆけることは、生きる上でとても大事なことなんだと思う」


だからこそ死者の国の死者達は、最後は心の欠落した人形のようになってゆき、漂白された魂が次の生に回るのだと、ウィリアムが教えてくれる。


「感じるということはそれ自体が生きるということだし、未練とも言える。裏を返せば、どれだけ苦痛であれ、心が生きているが故に死ねない者も多いが」

「私なりに、そういう場所を見たような気がします。それが、こんな風に今は幸せな夜を過ごせるのですから、感謝しかありません」


暫く沈黙が落ちたのは、ここに居る者達が皆、そんな苦しみを踏み越えたことがある者達だからなのだろうか。

隣に座ったディノは、窓の外の森の上にゆらめくオーロラを見ていたようだ。

そうして、この魔物も心の在り方について考えたのだろう。



「………不思議なものだよね。心はもう穏やかなのに、あの空の揺らぎはいっこうに静まらないのだから」

「それはきっと、お誕生日が続いているからでしょう。それに、記念の時間はここから深夜の二時くらいまでのどこかですしね」

「そっか、ネアの部屋に飛び込んで、グラストが放り出されちゃったのって二時過ぎだもんね」

「その節はうちの魔物がご迷惑をおかけしました」

「いや、ディノ殿がいるとは知らず、おまけに、ご婦人の部屋に駆け込んだのは言い訳のしようがない」

「やれやれ、ノックもしなかったのですか?」

「そう言われると面目も無いな………」


苦笑して頭を下げてくれたグラストに、ネアは慌てて首を振った。

あの頃はまだこの世界の仕組みが分からなくて、何が問題になるのかさえ分からなかったのだ。

きっと、エーダリアやグラストは苦労したことだろう。



「懐かしいですね。エーダリア様がディノに一目惚れしたり」

「ネア、やめようか」

「あら、仕方ないと思いますよ。ディノはこんなに綺麗なのですから、一目見れば好きになってしまいます」

「ネアだけでいい」

「ふふ、私が一番大好きでいるので、皆さんにも大切にして貰って下さいね。大事な魔物が愛されている姿を見るのは、なかなかに幸せなことですから」

「……………愛される」


そこでディノは、目新しい単語にそわそわした。

ちらりとこちらを見るので、ネアは首を傾げる。



「ネアにそう言って欲しいんだと思うよ」


すかさずゼノーシュが教えてくれ、ネアはそういうことかと頷いた。



「ディノ、」

「うん……」


きちんとお行儀よく座り直したディノに、ネアは優しく微笑みかける。

期待に目をきらきらさせる魔物は、艶麗なくらいに鮮やかで美しい。


「何というか、ディノに対しては、愛しているという言葉ではない感じなのです。大好きとか、特別とか、大事ですとか…………ディノ?」

「……………ネアが虐待する」


残酷な人間に心を折られてしまい、ディノはくしゃくしゃになってネアの膝に突っ伏してしまった。

周囲からもなんて酷いことをするんだという温度を感じたので、めそめそする魔物の頭を撫でてやり、ネアは慌てて代替案を持ち出した。



「その代わりに、とてもいい事をして差し上げます。ムグリスになって下さい」

「…………いい事?」

「ええ。ディノがして欲しかったことですよ」

「私が、かい?」

「お誕生日なので特別に」

「特別に…………」


一瞬で転がされてしまった魔物は、すぐにムグリスディノになってくれた。

ちびこい三つ編みをしゃきんとさせてこちらを見上げる毛玉を、ネアはおもむろに抱き上げると立ち上がった。



「キュ?!」



そして、ぽーんと投げ上げてまた抱き締める。


「これが、お誕生日恒例行事の高い高いですよ」

「キュ……」

「ディノの年齢は変えなくていいので、私と出会ってから年齢というものを設け、それを一歳として、特別に奮発しました」

「キュ!」

「ほらっ!」

「キュ!」


その後、四回程投げて貰ってムグリスディノは大はしゃぎしたが、最後の高い高いで軌道が逸れてしまい、慌てたウィリアムがキャッチしてくれた。

ぷるぷると恐怖に震えるムグリスディノを受け取り、投げ方が悪かったと謝ればキュッキュとお怒りだったので、元の姿に戻って貰う。



「ご主人様が虐待する………」

「むぅ。この場合は適切な使用法ですが、あまり言われたくない感じですね」

「ウィリアムに受け止めさせる………」

「あらあら、今のはウィリアムさんが命の恩人ですよ?」

「…………酷い」



その時、どこかで鐘の音が聞こえた。

夜の色が切り替わり、真夜中を司る深い夜闇の系譜の者達が動き出す時間になった。

日付が変わったことを知り、ネアはあらためてお祝いの言葉を口にする。


「ディノ、二日目の誕生日おめでとうございます」



よしよしと頭を撫でてられながらそう言われ、ディノは目元を染めた。

まだお誕生日を祝われる事自体に恥じらってしまう、稚い魔物である。



「そして、二日目のお誕生日の贈り物はこれなのです!」



ネアが勿体ぶって取り出したのは、アルテアとの合宿で作った特別なシュプリだ。

中に結晶化した薔薇の入った瓶は、淡く輝きしゅわりと泡を立たせている。

夜の光を透かし、その瓶はきらきらと星屑のような色を床に落とす。


「これは、……夢見の薔薇を使ったんだね」

「ええ。贈り主との間に起きた、一番幸福な時間を夢で見られるシュプリになるのだそうです。純粋に楽しい夢を見ても欲しいですが、怖い夢を見そうな日にも飲んで下さいね」


ディノにこのシュプリを贈ろうと思ったのは、よく、ネアがいなくなったという夢を見て悄然としているからだ。

勿論すぐに抱き締めてやるのだが、夢の中でもあまり苦しまないで欲しい。

これを飲めば、シュタルトの滑り台やブランコ、初めてのプールや海など、楽しい記憶を引っ張り出したい放題なのである。



二度目のプレゼントタイムに慄いてしまい、ぴゃっと逃げ出しかけていた魔物は、何とか心の震えを抑え込んだのか、そろりと手を伸ばしてシュプリの瓶を受け取ってくれた。

丁寧に手で持つと、ふにゃりと口元をもしゃもしゃさせる。



「有難う、ネア」

「どういたしまして。昨年はなぜか一度も来ませんでしたが、本来ならこの季節は嵐や、気象性の悪夢が多い時期ですからね。悪夢が来た日には、これを飲むといいと思います」

「ああ、昨年は私が少し世界を揺らしてしまったからね。気象的なものは影響を受けていたと思うよ」

「まぁ、そういう理由だったのですか?」

「君に出会ったばかりだったろう?」

「………それはもしや、今夜のオーロラ的な……」

「うん……」



嬉しかったのだと呟いたディノに、ネアは手を伸ばして三つ編みを引っ張ってやった。

嬉しそうにする表情が五倍増しで悲しいが、これが好きなら致し方ない。



「そして、実はみんなで飲む用もあるのです!………何人か死んでしまったので、ご一緒出来ずに残念ですが」


ネアが首飾りの金庫から取り出したのは、もう一本作っておいたシュプリだ。

今日はみんなにお世話になると分かっていたので、お礼返しとしてみんなに振る舞う用にも作っておいたのだ。

夢見の薔薇を三本買っておいたので出来ることであり、ネアは自分の先見の明に感心するしかない。



「僕、飲むの初めて!」

「あら、ゼノにも初めてがあるのですね。これをグラスに注いでから一度グラストさんに差し上げますので、それを貰って飲むといいですよ。そのような譲渡をすると、グラスを差し出した方の要素も少し紐付くのだそうです。私と一緒の思い出の中から、グラストさんの要素のある夢を見れますから。グラストさんにはゼノから差し上げて下さいね」

「うん!」

「ヒルドさんは……ごめんなさい、エーダリア様が寝てしまいましたね」

「おや、私はネア様からいただくもので充分ですよ」

「ほっとしました!………そして、ウィリアムさんは、私と一緒の、夢に見てもいいお時間ってありますか?」


案外シビアに物事を振り分けそうなウィリアムに恐る恐る聞けば、砂漠の夜かなと笑って教えてくれた。

呑み比べ直後の迎え酒になるが、それも勿論飲むよと言ってくれて一安心である。


ウィリアムが買って出てくれて、キュポンとコルクを開ける。

ふわりと漂うのは、爽やかな果実の香りだ。


トクトクと黄金色の液体をグラスに注ぎ分け、ネア達はまた乾杯した。

飲み潰しで殺されされそうだったウィリアムは控えめだが、このくらいのお酒では酔わないので大丈夫なのだそうだ。


(とすれば、さっきは何を飲んでいたのかしら)


確かに夜の盃は貸し出したが、それとは別にアルテアやノアが自分の秘蔵酒も持ち込んでいたようだ。

その戦いに唯一の人間で巻き込まれたエーダリアは、不憫としかいいようがない。

そんなことを考えながら、夢見の薔薇の効果を得たシュプリを口に含む。



「…………美味しいね」

「ふふ。このシュプリそのものは特別に上等なものではないのですが、あの薔薇を入れた効果によって、飲む方の一番好きな味に化けるのだそうですよ。………む、私は杏水になりました」


余程美味しかったのか、ディノが幸せそうに目を細める隣で、うっかり好きなものに変換されたことでお酒ではなくなってしまったネアはがっかりしたが、ヒルドやウィリアム、ゼノーシュにグラスト達は満足げにしているので気を取り直した。



「これで眠るといいんだね」

「ええ。今夜眠る時には、素敵な夢が見れます!」



そこでネア達は、そろそろ解散とした。

日付が変わってからのことなので、ディノの実際の誕生日はまだかもしれないが、ヒルドやグラスト、勿論ゼノーシュにも明日は仕事がある。


ネアとディノはお部屋でのんびりしながら、その時間までお喋りをすることにしたのだ。


お料理は綺麗になくなっていたし、倒れた死亡者達はそれぞれの部屋に転移で搬入された。

アルテアも外客用の部屋に運び込まれ、それを手伝ってくれたウィリアムも今晩は泊まってゆくらしい。

少し酔っているのか、上機嫌でネアのおでこに口付けしてから部屋に入ってゆき、ネアはびっくりしてしまった。



「ウィリアムさんも、酔うと甘えたさんなのですね………」

「そうなのかな………」


隣の魔物が拗ねているので、ネアはきゅっと手を繋いでやった。


「さて、あとはお部屋で二人で過ごしましょう」

「二人で……」

「むぅ、恥じらわずともいつもと同じですよ」

「うん………」

「仕方がありませんね!今夜はお誕生日なので、何かご褒美を差し上げましょうか?」

「体当たりにしようか」

「深夜に、中々に荒っぽいものにしましたね」



部屋への帰り道の廊下は、いつもの夜よりも明るかった。

空にはまだオーロラが残っており、森や庭では小さな生き物達がはしゃいで踊っている。

庭の草花も満開に花を咲かせ、きらきらと淡い光の粒子を放っていた。

ふと気になって見上げれば、ディノも輝かんばかりの美しさでその凄艶さに惹き込まれそうになる。



「そう言えば、ノアベルトとアルテアにも飲ませたのだね?」


ディノがそう言うのは、ネアが意識のない二人の魔物に、普通のスプーンで特製シュプリをお口に入れてやったからだ。

先に酔い潰れてしまうなど言語道断なので、多少の無理矢理感は我慢して欲しい。


「先程のお酒ですね。ノアは家族のようなものですから、酔い潰されて呻いていて可哀想でしたし、アルテアさんにはもふもふな夢を見ていただき、白もふ度を上げたいと思います」

「白もふ度………」

「そう言えば、ディノも雪豹アルテアがお気に入りなので、今度、白けものなアルテアさんも枕にしてみます?」

「本物のアルテアはいいかな」

「まぁ、動きますしね………」


繋いだ手を持ち上げられておやっと目を瞠ると、魔物はどこか噛み締めるようにその手を見ている。


「不思議だね。君がここにいる。………ここにいて、私の指輪をつけているし、明日も傍にいてくれるんだ」

「ふふ、私がいる限りはずっと傍にいますよ。それと、気になったのですが、指輪の定着作業的なやつは終了したのでしょうか?最近は皆さんに見えるようになりましたよね?」

「今は十回目のところだ。もうこのまま揺らがないとは思うけれど、念の為に婚約した日にもう一度、最後にもう一度更新するつもりだよ」

「むむぅ。十二回更新になるのですね。好きな数字なので嬉しいです」

「この指輪は、もうずっと君のものだ」


穏やかな言葉の奥に潜んだ熱のようなものに、ネアは訳もわからずはっとする。

それは男性的な熱のその色めきとはまた別に、切実な祈りにも似ていた。


「………ええ、ずっと。もう二度と、例えディノでもこの指輪は渡しません」


だからネアはそう答え、魔物を微笑ませた。


「他の魔物の指輪を貰っても駄目だよ?」

「貰いません……。私は複数婚約をする悪女ではありませんし、指輪を幾つもつけると邪魔ですからね」

「………うん」

「なぜに落ち込んだのでしょうか。私の婚約者は、ディノだけですよ」

「…………とは言え、補填要素は必要だけれどね」

「補填要素………?」

「魔物の伴侶は、なぜか失われやすい運命にある。だから君には、ヒルドの庇護もあるし、私はダナエの祝福も剥ぎ取っていないだろう?」

「それはきっと、アルテアさんやウィリアムさんにいざという時に手を貸して貰うのと同じことなのですね?」

「そうだね。君がいなくならないように」


繋いだ手を引かれ、ふわりと持ち上げられた。

あまりにも持ち上げられるので足腰が弱ると苦情を入れたこともあるが、このように抱き締められるときは魔物が甘えている証拠なので、ネアは大人しくされるがままになる。


三つ編みを抱えてやり、その編み込みの上に口付けを落せば、魔物は少しだけ足を縺れさせる。

普通にしている時だけでなく、こうして魔物らしい目をしている時ですら、この手の攻撃には非常に弱い生き物だ。

ネアはふと不安になり、魔物に尋ねてみた。



「ディノ、物語とかだとよくありがちなのですが、私に化けた誰かに傷付けられてしまったりしないようにして下さいね」

「物語だと、そういうことがあるのかい?」

「ええ。その人の弱点になりうる誰かに化けて、こっそり近付く悪い奴がいるのです」

「そうなんだね。でも大丈夫だよ。君を呼び落とした段階から、誰も君になれないように、誰かが君を隠してしまわないように、この世界を規則付けてあるからね」

「………ぞくりとします」

「え………」

「でも、それでディノが困ったことにならないのであれば、仕方ありませんね。不安要因は潰してしまうに限るのですから」



そう微笑んだネアに、ディノは少しだけ考えたようだ。

ふっと眼差しの色が変わり、何やら思考を切り替えたのだなと、ネアはその言葉を待った。


「この前、市場でこの国の第三王子に会っただろう?」

「ええ、旅をしていらっしゃるという王子様ですね」

「君は、…………あの王子が厭わしいと思ったのかい?それとも、不安要因だと思ったのかな」


(…………何て優しい、困った魔物なのだろう)


ネアは少しだけ意図的に微笑みを深め、魔物の頭をそっと撫でてみる。

この魔物はまた、ご主人様が諦めるものについて考えてしまったようだ。

諦めた筈の草原の羊飼いの件では、陰でこっそり手を出してくれたばかりだというのに。



「あの王子様と、前に私を助けてくれたルドヴィークさんは違いますよ?好感を持てる方を、足かせにならないようにと手放すのではなく、第三王子様は完全に見知らぬ他人です。どうなろうと知ったことではないのですが、エーダリア様にとっては弟君なので、少しだけそこで遠慮が出てくるという程度ですから」

「あの後、君は少しだけ、………心を傾けたようだった。それは、彼に対してではないのだろうか」


妙なところが鋭いのだなとひやりとし、それを抱え込まずに尋ねてくれたことに感謝する。

時々斜め上に暴走してしまう魔物なので、こうして確認してくれるのは良いことだ。


「確かに、あの方に少し心が動きました。…………あの方は、かつて恋をした人にとても良く似ていたのです。お顔立ちだけであればジュリアン王子の方が似ていますが、身に纏う雰囲気を合せると、断然あちらの方の方が似ています。そのことに少し驚いて、皆さんの話とは違う印象の方だなと考えていました」

「彼は、君が聞いている話の人物とは、印象が違ったのかい?」


第三王子の話をヒルドから聞いた時、ネアはそのことをディノにも共有している。

それが割と最近のことなので、なおさら印象が変わって驚いたのだった。


「真っ当過ぎることで面倒な方だと聞いていたのですが、実際にお見かけしたあの方は、恐らく………何某かの罪悪感や罪を抱え、自分で自分の罪をご存知の方です。そして、そうあることに諦観を抱いた方の目をしていました。夏至祭に来た因果の精霊さんのような方を想像していたので、予想外だったのです」

「君は、そういうことがわかるんだね」

「ええ。かつて見たことのある、そして目を惹かれる要素でもありますから。だから、逆に言えばジュリアン王子は良く似ていても全く違う方に感じたのでしょう。そういう心から受ける印象というものがあるのでしょうね」

「では、彼を遠くにやってしまうのは………不本意かい?」


少しだけ不安そうに、そして嫌そうに、その言葉は低い声でなされた。

くすりと微笑んで、よりによって誕生日にそんな疑問に苛まれてしまった魔物を哀れに思う。


「あら、それを言い出すと、私は世界中のムグリスを大事にしなければいけませんよ?しかし、実際にはムグリスディノしか大事ではないのです。あの方とて同じこと。所詮そっくりさんに過ぎません。おまけに今はもう他にいいものがあるので、そっくりさんになど用はないのでした」

「………君は、私が何度こういうことを尋ねても、うんざりはしないんだね」

「ふふ、重ねて確認されてしまうことにですか?私の心を知らないままに拗れさせてしまうと困るので、こうして尋ねてくれると嬉しいです。質問がふわっとしていなければ、私は何でも正直に答えますよ。……ただ、ディノはやはり、その過去が気になってしまいますか?」


そう問い返せば、ディノは困ったように視線を彷徨わせた。

少し悩んで部屋の扉の前に来てしまってから、自分でも初めてのことでよくわからないのだけどと前置きしてから教えてくれた。


「君が、誰かをそのように想っていたのだと話すのは彼だけだ。だからだと思う」

「私にとっての彼は、私が恋をした人であるという以前に、私が殺してしまった人なのです。私の心の中に残るのは、そちらの部分が大きいのだと思います」

「じゃあ、………」


扉を開け、部屋の中に入りながら、ディノはまた視線を彷徨わせた。



「じゃあ………?」

「彼の事は、踏んだりしたいとは思わないんだね」

「……………思いません」

「体当たりも?」

「…………寧ろ、ディノ以外の誰かに、そうしてくれと頼まれたら心が死にます」

「ご主人様!」

「なぜに大喜びなのだ」



謎にご機嫌になってしまった魔物は、その後の二人が出会ったかもしれない時間までをうきうきで過ごしていた。

特別なシュプリを飲みながら、ディノが嬉しいご褒美について話し、若干心が遠くに旅立ちかけていたネアに、あらたまって向かい合いもじもじする。



「む。ご褒美はもうたくさんしてあげたでしょう?」

「だ………」

「だ?」


少しまた視線を彷徨わせ、ディノはきりっと眼差しを鋭くする。

何か大事なことを言おうとしているようだ。


「………大好きだよ、ネア」

「………まぁ!」


あまりにも拙く、あまりにも一生懸命にそう言われ、ネアは胸が熱くなった。

本来であれば婚約者らしい甘やかな気持ちになるところだが、なぜか初めて自分の足で立った仔馬を見たような感動でいっぱいになる。

ふるふるしながらこちらを見ている魔物は、心なしか片側の頬っぺたをこちらに向けているではないか。


ふふっと笑ってしまったネアが、その頬に口付けをしてやれば、案の定魔物は、きゃっとなって巣の中に逃げ込んでいった。


「ディノ、大好きですよ」

「……………ずるい、可愛い」

「あらあら、せっかくディノから言ってくれて、とてもとても嬉しかったので、お返事させて下さいね」

「…………ネアが可愛い。ずるい」


またしても面白がってしまった人間に散々いじられてしまい、初めての誕生日の夜を、ディノはくしゃくしゃになって眠りについたようだ。

髪の毛までくしゃくしゃになっていたが、妙に幸せそうではあったので、ネアも何だかほこほこした気持ちで眠りにつく。




翌朝、ディノからは、ネアに初めて出会った時のことと、ネアに初めて三つ編みを引っ張って貰った時の夢を見たと誇らしげに報告された。

とても幸せだったらしく、今夜も少し飲んでみるらしい。

あまり中毒になって飲み干してしまわないよう、悪夢の時にとっておくように言わなければいけないかもしれない。




余談だが、朝になって息を吹き返したアルテアに、がしっと肩を掴まれたので眉を顰めていると、また失せもの探しの結晶石を踊り食いした疑惑をかけられた。

おまけに、寝台に侵入した疑惑もかけられたので、それは夢ですよと素っ気なく返しておく。

白けものの時の夢を見てくれないということは、まだ撫で回しが足りないようだ。


ノアは、みんながボールで遊んでくれた最高の一日の夢を見たらしい。

こっそりそう打ち明けられて何だか心配になったので、今度二人で狩りに行く時には魔物らしく過ごして貰おうと思っている。


なお、ヒルドとウィリアムは意味深に微笑んで教えてくれなかったので、良い夢を見れたのかどうか少し心配だったのだが、仕事で出かけたヒルドも、鳥籠の処置で帰っていったウィリアムも、何だか機嫌は良さそうなので大丈夫だと思うことにした。




ディノはその後、二日目のお誕生日でもネアに殺されてしまうことになるのだが、それについてはネアは無罪を主張したいと思う。



この二日間はウィームの空には虹やオーロラがかかり、文献には特等の人外者に慶事があったと思われると記されたそうだ。





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― 新着の感想 ―
[良い点] なぜそんな夢を見たのか誰かアルテアに教えてあげてほしいんだ… 手には負えない野生の使い魔ですがなんだかんだ一番胸をぎゅっと捕まれてしまうんだ…好きすぎて辛い
[一言] それはつまりアルテアは助けに来てくれた時と寝台に侵入されたときが幸せだった…? (*´ω`*)
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