171. 一日目の誕生日が始まりました(本編)
その日、ディノは初めての誕生日の日を迎えた。
早朝から気持ちが高ぶってしまったのか、早々に起き出して、まるで新しい風景を見るように窓の外の禁足地の森を眺めている。
そんな風にはしゃいでいる魔物を横目でちらりと眺めつつ、ネアは微笑んでから定時までしっかりと睡眠をとった。
ネアがやっと目を覚ましたのは、朝食の一時間前だ。
身支度をしながら、ぴゃっと駆け寄ってきた魔物の頬に口付けをしてやれば、ディノはきゃっとなって部屋の隅に逃げて行った。
昨晩の日付の変更時にしてやったところ、今日は解禁日だと思ったらしく、時折自ら潰されにやってくる。
「今日は不思議なお天気の日ですね。でも雲の形があれこれ変わるので、空が表情豊かで見ていて楽しいです」
「ごめんね、どうしても揺れてしまうようだ」
「…………もしかして、ディノの影響なのですか?」
「森も少し花を咲かせてしまったから、抑えてはいるのだけれど……」
「ふふ、仕方ありませんね。初めての誕生日ですもの」
微笑んだネアにそう言われて、魔物は目元を染めてこくりと頷いた。
頬に口付けをしてやった昨晩の日付の切り換えのところで、ネアは真っ先にお誕生日おめでとうを伝えている。
ディノがそうしてくれて嬉しかったこともあるし、最初の誕生日なのでより大事にしてあげたかったのだ。
正確にはディノが生まれたその日ではなく、ネアと出会った日なので、ネアは自分と出会ってくれて有難うというお祝いをしてみた。
すると荒ぶった魔物は巣に逃げ帰ってじたばたしていたので、とても喜んで貰えたようだ。
「お祝いの宴は、今夜の晩餐で執り行いますが、まずは朝食の席でおめでとうと言って貰える筈ですよ」
「………有難うと返すのだよね?」
「ええ、そういうお作法なのです。午後からはアルテアさんも来ますし、何とも義理堅いドリーさんが素敵な贈り物を持って来てくれるそうですよ」
「ドリーが来るのかい?」
「あら、さては昨日のヒルドさんからのお知らせを、よく聞いていなかったのですね?ドリーさんもヴェンツェル王子に出会ってから外で過ごせるようになった方なので、誰かのお祝い事をするのはとても好きなのだそうです」
「ドリーが………」
ディノは少し困惑したままご主人様の表情を窺い、どうやら浮気はしなさそうだぞと考えたようで、ようやく少しだけ慣れない擽ったそうな表情を浮かべた。
この魔物にとっての誕生日は、ネアと出会ってからの一歳記念日でもある。
それを祝われるということが何だか嬉しいのだそうだ。
「私がこの世界に来たのは、一年前の今日の夕方のことでしたね」
「うん。見知らぬ世界に落ちて不安そうなネアは可愛かったよ」
「ディノがすぐに回収に来なかった結果、私はエーダリア様に拾われましたが、結果としてはとても良い方向に転びました」
「人間は、人間とも関わらないと生きていけないと聞いたから、まずは人間達に保護させようと思ったんだ。それに、ネアにも欲しがって貰いたかったしね」
そこで少しだけほろ苦く微笑むのは、ネアが当初どうにかしてこの特等の魔物を捨てて来ようかと試行錯誤したからに違いない。
そんなネアの動きを知ってしまったとき、ディノはどれだけ悲しかっただろうと、今のネアであれば考える。
でもきっと、あの日々があったからこそ二人は居心地のいい関係になったのだ。
後悔せずにそう思わせてくれたのが戻り時の事件だと考え、どんな事件にも無駄はなかったような気分になった。
会食堂に入ると、エーダリアとヒルドが立ち上がってお祝いの言葉をくれた。
「誕生日、おめでとう」
「おめでとうございます、ディノ様」
実はこのお祝いに関して事前に相談があって、一応は魔物の王なのだし形式ばって祝いの口上を述べた方がいいだろうかと尋ねたエーダリアに、ネアは出来るだけ親しみのある簡単な言葉で言ってやって欲しいとお願いしていたのだ。
(今迄のディノが貰えなかったものをあげたい)
そしてネアの目論み通り、シンプルだが心の籠ったあたたかな言葉を貰い、ディノは水紺の瞳を瞠ってから、ほろりと口元を緩ませた。
お菓子を貰った子供のようにこちらをぱっと見るので、微笑んで頷いてやる。
「………ありがとう」
初めてのお返事だったので若干もじもじしていたが、鷹揚に微笑んで頷いてやるエーダリアの方が、寧ろ年長者のようだ。
ゼノーシュとグラストは仕事があり、昼食での顔合わせとなる。
昨晩の内にプレゼントもあるからねと教えてくれたゼノーシュに、ネアは嬉しさを噛み殺して頷いた。
自分の大事なものが、みんなからも大事にされることはとても嬉しいことだ。
今も朝食の席に着きながら、大好物ばかりの朝食に目を輝かせたディノに頬が緩んでしまう。
「まぁ、ディノの大好きなクリームたっぷりのグヤーシュですね。生クリームで文字が書かれているなんて、なんて素敵なんでしょう」
「飲もうとしたら、文字が崩れてしまわないかい?」
「この素敵なお祝いの言葉は記憶の中に焼き付けて、美味しくいただくのがお作法ですよ」
「なくなってしまうんだね………」
収集癖のある魔物は悲し気だったが、その悲しそうな眼差しが嬉しかったのか、給仕妖精は満足げに一礼して厨房に戻っていった。
深みのある美味しそうなグヤーシュの上には、生クリームで、さすが妖精と思わせるだけの繊細さでお誕生日のメッセージが描かれている。
“最良の誕生日があなたに訪れますように”
そう書かれた横にはリボンで飾られた柊と鳩の絵もあり、ネアの印章の絵柄を生かしてくれているのがなんとも気の利いた心遣いだ。
ディノが喜びそうなものを把握していてくれるあたりが、ここで過ごした日々の積み重ねである。
グヤーシュにはクネドリーキとすぐりのジャムが添えられ、爽やかな野菜のゼリー寄せとマスタード、チーズのきいたキッシュの前菜に、トマトとセロリの酢漬けが彩りとしても可愛らしい。
あえて豪奢さよりも、家庭料理的なディノの好物ばかりにしてくれる心憎さに、ネアは隣りで嬉しそうにカトラリーを手にした魔物を盗み見た。
「ネア……」
「今日はディノの為のご馳走ですので、分け合いっこはなしにしましょうね」
「ご主人様……」
「その代りに、大事な魔物が寂しくならないように、ディノのグヤーシュにクネドリーキをつけてもいいですか?」
「ご主人様!」
少し肌寒い朝だったので、グヤーシュの暖かさがお腹に沁みるようだ。
「今日は誕生日だからな。ゆっくりとしてくれ」
「………ありがとう?」
「ふふ、良く出来ました。エーダリア様、お気遣い有難うございます」
「いや、初めてともなれば、色々と試したいこともあるだろう」
「ええ。お誕生日休みをいただきましたので、お昼前は、街の外れに来ている移動遊園地の観覧車に、お誕生日割引で乗る予定です。ディノにとって、初めてのお誕生日割引なんですよ」
「それであれば、晴れの日よりもウィームの街が良く見えるだろう。個人の嗜好はあるが、私はウィームは雪景色と、秋雨の日が美しいと思う」
「そこに夏の夕暮れのえもいわれぬ青さを足せば、私もまったく同じ意見です。ですので、今日のウィームもきっと美しく見えるのでしょうね」
宝物のようにそっと、スプーンでお祝いの文字を掬って飲んでいる魔物の姿に、ネア達は視線を交わしてこっそり微笑んだ。
最良の誕生日という文字を飲んだ魔物は、大きな任務を達成したかのように誇らしげにしている。
そしてちょうどそこで、椅子の上で居眠りしてしまっていた銀狐が目を覚ましたのか、びくっとなって跳ね上がり椅子から落ちていった。
先程の入室の際、ヒルドが懸命に揺さ振っていたがいっこうに起きなかったのだ。
「………ネイ、もう食事が始まっていますよ。そんな目をしても、起きなかったのはあなたでしょうに」
自分を置いて誕生日の朝食が始まってしまっていることに気付いたのか、ムギーと鳴いた銀狐はヒルドの足にジャンプで体当たりしている。
すぐに叱られてしまったのですごすごと戻ってくると、ディノを見上げて尻尾を振り回した。
「ノアベルトはそのままなんだね」
しかし、ディノにそう言われてはっとしたのか、慌てて人型に戻って着席した。
「危ない、危ない。このままシルの誕生日が終わっちゃうところだったよ……」
「確かに、二日くらい狐さんのままのこともありますもんね……」
「だよねぇ。………シル、あらためて誕生日おめでとう!」
「………あり……がとう」
魔物同士では贈り物をするのは、伴侶や系譜の従属との間での風習であるらしく、こだわりなくお祝いをしてくれたノアに対し、ディノは少しだけ複雑そうにお礼を言う。
形式外で嫌というよりも、種族的にしっくりこなくて困惑している感じだ。
「誕生日の贈り物は、夜の時にね」
「………ノアベルトの守護」
「シルは絶対に喜ぶやつだよ。僕はそういう勘は鋭い方なんだよね」
そしてノアは、無事に誕生日を迎えた魔物について、ネアにも良かったねと声をかけてくれる。
誰が一番喜んでいるのかを的確に理解してくれる、何とも頼もしい同居人だ。
デザートには、後で食べる誕生日ケーキを考慮して小さなグラスでお口直し程度の、雲の妖精が収穫してくる、星屑の蜜となる。
冬の最盛期にしか取れない特別なものなので、ここで特別感を演出するバランスもなかなかに洒落ている。
相変わらず、特に冷やしているわけではないのだが、冷んやりとしており、口に入れるとほろりと甘く崩れるその美味しさが堪らない。
朝食は和やかに進み、ディノも初めての誕生日の朝食をつつがなく終えた。
「さて、次は観覧車ですよ。お誕生日割引きというものは各所にありますが、お食事周りだと今日明日は充実していますので、あえての乗り物で使ってみましょう」
「うん。観覧車は、箱が回る乗り物なんだよね」
「はい。ただし、こちらの世界の観覧車は、私の知っているものよりいささか高いようですよ。楽しみですね!」
リーエンベルクから街の外れの移動遊園地に向かう道中、ネアは魔物の為にお誕生日を祝う歌を歌ってあげた。
頼もしいことにディノはネアの歌でも死なないので、今日限りの特別な運用である。
道中何かが木から落ちてきたり、ばたりと歩道に倒れてきたりするので図らずも獲物沢山にもなり、ネアまでほくほくして歩みを進める。
ディノは歌乞いの魔物らしく歌って貰えたことにたいそう喜んでしまい、三回もアンコールをせがまれたので、ネアは大事な魔物が死んでしまわないかとてもハラハラした。
「ディノを、お誕生日に死なせたくありません」
「大丈夫だよ。最初の時には死んでしまったものもいたけれど、三回目からは何も死んでないだろう?ネアは、音階が身に馴染むととても上手だね」
「ほわ、希望の光を見ました!しかし、練習の途中で甚大な被害を及ぼしそうなので、一概に鍛錬を積めばいいという感じでもなさそうです……」
記念すべき魔物のお誕生日なのだが、本日のネアは、名残りの竜という季節の移り変わりを偲ぶ珍しい竜も既に斃している。
以前、ヴェンツェルに贈呈された蛇の魔物ももう一度狩れたので、エーダリアも喜ぶだろう。
大事な魔物に贈るお誕生日祝いの歌で犠牲になった者達なので、生贄として尊く賜ろう。
木々は、秋の色彩に向けて複雑な色味を帯び、色付いた木の実が鮮やかなアクセントを添える。
真っ赤に紅葉する楓は、初夏の赤から一度渋めの赤茶色に色味を落して、これからまた秋の深まるとある寒い日に目も覚めるような鮮やかな深紅に色を変えるのだ。
プラタナスの並木のつるつるした幹には、毛玉姿の妖精が必死にへばりついていた。
淡い青金色の妖精で、木の上にいる赤栗鼠に似た魔物と何やら係争中のようだ。
調停しているのは苔色の小鳥で、こちらはディノ曰く精霊であるらしい。
「ほら、観覧車が見えてきましたよ。………高いですね。雲の上までゆくようです」
「中心の軸に魔術を充てているのだね。古い魔術の基盤だが、見事なものだ。歯車の魔物の作品かな」
「まぁ、歯車の魔物さんというお名前は初めて聞きました!」
「蛇のような姿をしている魔物だよ。階位は低いが、望まれる魔物でもあるので魔術は潤沢だ」
目の前にそびえる観覧車は、中央の軸に魔物製の魔術基盤を用い、大きな歯車の周囲にゴンドラがぶら下がっているような造りになっている。
中央の軸からゴンドラまでの支柱は、景観を損なわないように雲水晶を使っているので、透明な水晶のようで光の加減では見えたり見えなかったりだ。
大きな円形の観覧車で実際に見えているのは三分の二程で、残りは雲の上にまで入ってしまっていた。
時折青白く光ったり、橙の火花を散らすのは、魔術で激突防止や揺れを押さえている証拠なのだそうだ。
ネア達は入口でチケットを買い、ネアは自分の分を、そして魔物はお誕生日であることを告げて係員の妖精からお祝いの言葉と、お誕生日の人にだけ貰えるお祝いの絵が入った無料チケットを貰う。
可愛らしいお祝いチケットを両手で持って、嬉しそうに受け取ったディノが目をきらきらさせたので、シルクハットに兎耳の妖精も口元を綻ばせていた。
一人分が無料になってもお得感がある程に高いチケットではないが、この記念チケットが貰えることもネアがここを選んだ理由だった。
こうしてお祝いチケットを貰えば、収集癖のある魔物の宝箱に、また記念品が増えることだろう。
がしゃんと外側から係員がゴンドラの扉を閉めてくれる。
簡素なゴンドラではなく、昔からあるというこの観覧車は上等な馬車のような上品なゴンドラの造りだ。
飴色の木枠には見事な彫刻が施され、大きな左右の窓は水水晶で何もないかのように透明である。
天井部分はステンドグラスになっているので、まるで聖堂の中にいるような不思議で繊細な光が落ちた。
座席には深紅の天鵞絨が張られ、背もたれもふかふかしていた。
「一周で十五分だそうです。距離よりも時間が短いようですが、一定の高さまではひょいっと上がるので、最初は絶叫アトラクション的な要素もありますね」
「あとらくしょん……」
「ほら、上がりますよ。……むぐ?!」
思ってたよりも激しい序盤の高度上げに、ネアは胃がぎゅっとなってしまう。
ひょいっとか、するすると上がるのかと思っていたが、効果音的にはぎゅんという上がり方であった。
向い合せに座ることも出来るが、ご主人様に常に触れていたい病気の魔物がいるので、二人は横並びに座っていた。
横の魔物は、急激な出発に足がふわっとなったネアを慌てて抱き締めている。
思ってたのよりも激しかったので驚いただけだと安心させてやり、ネアは窓からの景色を楽しむようにと指を差した。
「ほら、あちらでは森がきらきらしています。歌劇場の屋根には素敵な彫刻がありますし、封印庫の屋根にいるのはなにやつでしょう?」
「竜に似ているけれど、風の妖精の一種だね。大鷲の姿に角があるんだ。珍しい生き物だよ」
「そして胴体部分が鱗なのですね。欠伸をしていてすっかり油断していますが、こちらから丸見えなのです!」
「リーエンベルクの先に森が広がっているだろう?ネアは、あちらの方に落ちたんだよ」
「その瞬間は、ディノはどこで見ていたんですか?」
「………隣で」
「隣……………」
「魔術の道があるから、危なくないようにね」
「思いがけない近さで、少しだけぞくりとしました」
「ご主人様……」
するすると、魔術仕掛けの観覧車が昇ってゆく。
途中で雲の中を通るので視界がもやっとしたが、雲の中には普段見ないような珍しい妖精や精霊がいて、雲を掻き分けてゆくゴンドラの窓に悪戯しにいくる。
窓にばぁんとぶつかって驚かせにきた雨雲の魔物は、中に乗っている高位めいた魔物の姿に凍りついたまま窓からずり落ちていった。
「灰色のふかふかももんがでした!お腹の灰色もふもふが、ムグリスディノに似ていて愛くるしかったです」
「向こうの方が、毛並みが堅そうだったよ?」
「あらあら、対抗心が出てきましたね。私としても、ムグリスディノに敵うようなもふもふはありませんよ」
「すぐにアルテアに浮気してしまうのに?」
「あれは、使い魔さんが悪さをしないようにする為の躾の一環なのです。決して、白もふに夢中になっている訳ではありません」
「でも、敷物に隠して、寝台に連れ込もうとしたのだろう?」
「おのれ、ノアに告げ口されました………」
「私に内緒で部屋に連れ帰るのは禁止にしよう」
「内緒でなければいいのですか?」
ネアがそう言えば、ディノは不思議な瞳でこちらを見た。
悲しそうで愛おしそうで、嬉しそうで寂しそうでもある。
その表情の淡い微笑みの美しさに、ネアはしばし見惚れてしまった。
「君が危なくないように、あの獣に君を託すこともあるかも知れない」
穏やかな声だった。
美しく、低く甘くて、誰もいない真夜中の雪原のように澄み渡っている。
ああ、この魔物は誰かの力を借りるということも飲み込んだのだなと感じ、ネアはその頬に手を当てた。
「私のことを心配して、ちょっと複雑だけどそう考えてくれたのですね?」
「………そうだね。君にかけられた守護はとても強固なものだけれど、でもそれがどんなものも防ぐかと言えばそうではない。守りという部分においては、私は自分の愚かさで君を損なうのだけは嫌なんだ」
(もう、その煩悶は乗り越えたのだろう)
だからディノは、悲し気ではあるが迷ってはいない。
それはきっと、ネアが多少おかしな世界の扉をくぐることになっても、この大事な魔物を婚約者として受け止めようと覚悟したのと同じこと。
「でも、ディノはやはり特別なのです。どうかそのことでは安心していて下さいね。怖かったり不安だったりした場合は、しっかり私にわかるように、その不安を訴えて下さい。私を守ろうとしてくれるディノが悲しんでしまわないように、私もディノを大事にしますね」
「………ネア」
ふっと、こちらが動揺してしまうくらいに嬉しそうに相好を崩して、水紺の瞳をきらきらさせた魔物は、ご主人様を膝に抱え上げた。
観覧車のお作法としてはなしであるが、こんなに嬉しそうにきゅっとされると許してやるしかない。
「白もふは可愛いけものですが、お部屋で飼うようになったとしても婚約者の代わりにはなりません」
「…………ご主人様が、虐待する」
「むぅ。あくまで、白もふさんの運用例ですよ。アルテアさんを、同じ家で飼おうとは思いません。でも、何だか最近、リーエンベルクにも通いで住んでいる方のようになってきましたので、今度、家賃と食費について話してみますね」
「ずるい」
「あら、またずるいの使用方法が迷路に入ったようです」
「………その、……いつか君が買う家にも、アルテアを住まわせるのかい?」
「アルテアさんとの同居はちょっと……」
ネアが如実に嫌そうにすると、それはそれでショックだったのか、魔物はぴっとなってふるふるした。
この魔物の困ったところなのだが、浮気として気になってしまうような対象者と仲良くされるのも嫌なくせに、あまりにも冷たい対応をすると、自分にもそうなるのだろうかと怖くなるようだ。
「でも、白もふさんとしてよく出現するようであれば、魔獣を飼っている方のご自宅のように、獣さんが汚してもいいようなタイル張りや石床にして、専門舎を併設します?」
「魔獣用の部屋………。アルテアは嫌がるんじゃないかな」
「狐さんなら喜びそうですよね」
「ノアベルトだからね」
そこでゴンドラはちょうど真上に到達した。
雲の上の青空の眩しさに、ネアはほうっと溜息を吐く。
本来であれば雲を抜けることはないそうだが、今日は低い位置に雲があったのだろう。
「…………ネア」
囁くような甘い声に目を瞠ると、ふわりと口付けられた。
あえやかな吐息の温度に、ネアはディノの頬にこぼれた真珠色の一筋の髪を不必要に凝視してしまう。
目を閉じると真剣過ぎる気がして、そのひたむきさを少しだけ緩和した。
「君は、少しも溺れないんだ」
「ふふ、私は泳ぐべきところでは泳ぐ派なのです。そういう意味では、ディノは泳ぐのが苦手なのですね。なぜに三つ編みを持たされたのでしょう?」
「ネアはこれがないと困るだろう?」
「私の病気みたいになった!」
二人がリーエンベルクに帰ると、仕事から戻ってきたゼノーシュがディノにおめでとうと言ってくれた。
グラストもお祝いしてくれ、騎士達との連名でのお祝いの贈り物を夜の会で渡してくれるのだそうだ。
「観覧車に乗ったの?」
「ええ。お誕生日無料の記念チケットがあるのです。日付けも入るので、いい記念になりますから」
「ああ、それは良いですね。部下達もよく記念日に利用しているのは、そういうことでしたか」
「ゼベルさんが、他の騎士さんに教えて貰ったそうで、私にも教えてくれたんです」
「僕も今度行ってくる……」
そこで自分を見上げたゼノーシュに、グラストは笑って頭を撫でてやった。
今度一緒に行こうなと言われてほこほこするゼノーシュに、ネアは観覧車の中で食べられるパフェが売っていることを教えてあげた。
「ネア、ドリーが来たよ」
「ほわ、ドリーさん!!」
相変わらずの本当はこういうタイプが理想だった枠を独走する火竜の来訪に、ゼノーシュに教えて貰ったネアはぱっと顔を輝かせる。
いつもなら魔物が荒ぶるところだが、お祝いに来てくれましたよと言われて、ディノはおろおろとした。
「………ドリーさん?」
しかし来客用の部屋に駆けつけたネアは、どこか渋い顔をしているドリーと、若干頭を抱えているエーダリアに出会う。
振り返ったドリーは微笑んでくれて、まずはディノを祝ってくれた。
「ディノ、ネアと出会ってからの一年目だと聞いている。何とも良き祝い事だ。おめでとう」
「…………有難う」
「ああ。………それと、すまない。ヴェンツェルも祝うと言ってきかなくて、ついてきてしまった」
「国の歌乞いの契約の魔物の誕生日なのだ。私が顔を出すのは当然だろう?……誕生日なのだそうだな、私からも祝わせてくれ。ネア、贈り物はエーダリアに渡しておいた」
そう言って彼らしい表情で微笑んだのは、まさかのヴェルクレアの第一王子である。
来ていただいたというよりも、来てしまったのかという印象になる。
「まぁ、ヴェンツェル様、お気遣いいただきまして有難うございます。………む、エーダリア様?」
「………今日は、正妃の輿入れの日で、王都では祝祭日なのだが…………」
「…………と言うことは、お母様の?」
「ふん、王都にいても狸どもの輪に引き摺り込まれるだけだ。こちらの方が、余程祝い事らしい」
「やれやれ、楽しそうな方を選んで逃げていらっしゃるのは勝手ですが、くれぐれもあの方の機嫌を損ね、矛先をウィームに向けませんよう」
「安心しろヒルド、今日は統括の魔物に呼び出されたことになっている」
それは多分、害は成さないにしろ、王妃は自分の記念日から息子を連れ出してしまったアルテアを恨むのだろうなという感じで、ネアはその冥福を祈っておいた。
ウォルターから正妃の守護の内訳を聞いてから、絶対に関わらないようにしようと思っていた怖い人だ。
そしてそこでネアは、エーダリアからヴェンツェルの誕生日プレゼントを受け取り、その中身に喜び弾んだ。
「兄上からは、この氷河の酒の百年ものと、そして、あの海渡りを見た島をまた一日貸して下さるそうだ。ディノと水入らずで過ごすといいと言って下さった」
「氷河のお酒!ディノ、これはとっても美味しいんですよ。ぜひ、飲んでみて下さい」
「弾んでる…………可愛い」
分けて貰うことを前提にネアが弾んだので、ディノは目元を染めて嬉しそうにもじもじした。
「あの島も、砂浜に色々なお宝が眠っていますので、一日中砂を掘っていたいです!」
「ご主人様………」
「ネア様、せっかくの贈り物ですので、ディノ様にも構って差し上げては?」
「…………は!砂浜を掘ることしか考えていませんでした。二人でのんびりしましょうね、ディノ」
「水着で……?」
「はい!」
「ご主人様が虐待する………」
「なぜなのだ」
何はともあれ、昼食となった。
ノアが銀狐にならなければならないとか、少々の弊害はあったが、この昼食も和やかに進む。
一つの発見としては、ディノ用に作られた味付け玉子のフライに、ヴェンツェルもはまってしまったことだ。
中の黄身がとろりとしていて、そのまま齧ってもよし、タルタルソースたっぷりでもよしの憎い料理である。
「ネア、今度ダナエが来たら会わせて欲しい。高位の竜だから、挨拶をしたいんだ」
「勿論ですよ、ドリーさん。しかし、………恐らくバーレンさんもご一緒ですが」
「ヒルドから、あの竜は震え上がるくらいに君が懲らしめてくれたと聞いている。さすがに光竜を殺すことは出来ないし、ネアのお蔭で改心となり、良い保護者を得たようだ。もう大丈夫だろう」
「ほう、それなら…」
「ヴェンツェルは駄目だ」
「ドリー…………」
過保護な守護竜が本気で怒りかけて、呆れたようにヴェンツェルは溜め息を吐いた。
良い二人だなと思いながら、ネアはバターと卵たっぷりの、ブリオッシュとフランスパンの間の子のような、ウィーム風の素敵なパンにカイエンバターを塗って美味しくいただく。
卵揚げにタルタルソースましましで、パンにはホイップバターを異常に使うヴェンツェルとは、案外食の好みが合うのかもしれない。
「それと、ディノ。俺からだ」
食事の後、ドリーがディノに贈ったのは、特注らしい可愛い陶器人形だった。
不器用に包装を解いて中身が出て来た途端、魔物はぱっと目を輝かせてネアの方を見る。
「まぁ、これは私達ですね?」
「ああ。喜びそうなものを考えた時、やはりネアの要素があるものがいいだろうと思ったんだ」
「ふふ、ムグリスディノもなんて愛らしいんでしょう。これは、私にとっても宝物になりそうですね!」
「ネアがいる………」
その陶器人形は、淡い色づけが何とも優しい可愛らしさだった。
恐らくその陶磁器メーカーの特徴であろう面立ちにデフォルメされているが、青みがかった灰色の髪の少女がネアであることはわかり、その膝の上には真珠色のムグリスディノが乗っている。
ネアは、お花畑のようなところに座っていて、精緻な花の表現もなんとも美しい。
置き場所に困ってしまわない程度の、少し小ぶりなサイズなのがさすがのセンスだった。
「ムグリスディノの可愛さが、とてもうまく表現されていますね」
「………ネアがいる」
「あらあら、大喜びではないですか」
その指先でだけでも溜め息が溢れそうに美しい魔物が、小さな陶器人形にそっと触れる。
嬉しそうに目を煌めかせて、唇の端を持ち上げた。
「ディノ、こういう時は何と言うのでしょう?」
「有難う」
今度は何の躊躇いもなく、嬉しそうに。
魔物がこんなに喜ぶのだから、ドリーはとても良い贈り物をしてくれたようだ。
すっかりこちらの贈り物が霞んでしまったなとヴェンツェルは苦笑していたが、大切な契約の竜の贈り物が尊ばれて、嬉しそうにしている。
ムグリスディノの姿は、ウォルターに教えて貰ったのだそうだ。
お気に入りのあまり、その陶器人形を膝に抱えて離さなくなった魔物を優しい目で見つめ、ドリー達は帰っていった。
「……と言うか、これからヴェンツェル様を王都に強制送還するのですね」
「恐らく、代理妖精達と連携し、着替えさせて王妃の元に届けるのかと」
「そう考えると、少しお気の毒な気もします。実のお母様なのに、一緒にいることが苦痛だというのは悲しいことでしょう。卵揚げも、ここでは毒味がいらないからとあつあつで喜んで食べていらっしゃいましたし」
「そういうところをさり気なく見せつけるので、ドリー様や代理妖精達はあの方を甘やかすのですがね」
「………何となくですが、ヒルドさんは甘やかさなかったという感じがします」
「第一王子ですからね」
視線の先では、陶器人形を眺める魔物の横で、銀狐が尻尾を振り回して感動を共有している。
ヴェンツェルと入れ替わりで昼食となったゼノーシュ達も、素敵な贈り物に夢中のディノに優しい目をしていた。
「やれやれ、やっと帰ったか」
そこに登場したのは、二人の高位の魔物だ。
話題の人の登場に、ネアは振り返る。
「む!今日は、第一王子様を連れ出したと王都で悪名高い使い魔さんです!」
「…………は?」
「やれやれ、早めに終わったから、何とかアルテアに間に合ったかな」
「ウィリアムさん!」
「おい、随分と対応が違うだろうが」
夜のお祝いに向けて、これから賑やかになりそうだ。
薬の魔物の解雇理由も、連載開始から一年、そして五百話目に、晴れてディノも初めてのお誕生日を迎えました!
今後とも、この困った魔物達とおかしな生き物達、そして変わらず強欲なネアをどうぞ宜しくお願い致します。